蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 致命傷

新と梓はソファにくっついて座って、テレビを見た。
この間録画していたロードショーだった。劇場公開時に瞬きくらいの合間は話題に上った気がするような、タイトルだけはどこかで耳にしたことがある、という程度の洋画だ。

「純愛? 何を訴えたいのかよくわかんね」

「撃たれんだよこの後。裏切られんの。で、あの爽やかなイケメンキャリア刑事がさ実はマフィアと繋がってるやつでさ、全部自分の手柄にして昇進した上にヒロインかっさらって結婚しちゃって」

「そんなん金曜の夜に、よく放送したな。そんで主人公は」

見ているにも関わらずストーリーを勝手に話しだす梓に、慣れた顔をして特に嫌がることもなく新は先を促した。
新はほとんどの映画を、ただの画だと思っている。
作り上げた監督およびスタッフの力量をただ推し量るだけの、テスト映像だと思っている。
だから先にラストを告げられても嫌がらないし、不快な顔もしない。ただ、カット割や演出家の意向、その時の役者の心理状態など、制作面の裏方に話が及ぼうとすると怒る。そんな大雑把なのか緻密なのかよくわからないところも、非常に梓は気に入っている。

「マフィアに捕まって拷問受けてもう見た目とか人間じゃないみたいになってさ、監禁してたやつ殺して逃げ出すんだけど、もう頭おかしくなっちゃってるからさ。子供出来て幸せいっぱいのヒロインを銃で蜂の巣にしてジ、エンド」

「救えねー」

「なんかな」

「な」

画面の中では梓の言う通り、主人公が撃たれて今正に倒れる瞬間だった。刑事が皮肉げに唇の端を捻じ曲げる。静止画から一転、流れるような映し出すカメラワークは、次に主人公の真っ黒な瞳を大きく映した。

「裏切りって最低だよな」

「な」

シーツを分け合うようにして被っていた二人は、それほど最低だと思っていなさそうな顔で言い合って一頻り頷いた。

「お前は裏切んなよ」

「そっちだろ」

「いやお前だよ遅れてきやがるしな」

「まだ言ってんのかよ」

冗談か本気かわからないテンションで、新と梓はロードショーをくっついたまま、画面に見入いる。

見たことのない女が梓の彼氏と仲良さそうに腕を組んで、鈍った色をして寒いだけの空の下をこれ以上ないくらい幸せそうな顔をして歩いていたのを新は今日見掛けたが特に何も言わない。
梓は梓で時々自分の恋人が浮気していることを知っているが、特に腹立たしく思っていることもない。一番最初は衝撃は受けたが、それだけだった。人の心は変わるしな、とやけに達観した感想を持っているだけだ。
裏切るというのは、信頼を壊す行為だ。自分は聖を信頼していない。だから裏切られたとは思っていない。
ただそのレベルに達しなかったからと言って、何も思わないかと言えば話は別になる。

「あいつもさー、こうやって死ねばいーのに」

画面の中で酷い有様になっていく主人公を見ながら、梓は吐き捨てるように言う。

「あず」

「んー?」

「俺、お前はもっと内面さっぱりしてるかと思ってたわ」

ソファの肘掛に付いた頬杖に頭を預けたままだった新が、画面から一ミリも目を離さないで、心底意外だ、というような声で言った。

【END】

2011年01月09日(日)



 ラグジュアリー

「電話一本もなしかよ」

遅れてきた梓が部屋に入るなり、待ちくたびれたらしい新が呆れきったような声で言った。
二人が約束したのは九時半だった。
それにも関わらず、時計の針はそこからきっかり二周程回ってしまっている。

羽振りの良い友人の誘いを断ってまで待っていたのに、二時間も待ちぼうけを食わされたことになった新はその二時間を白いソファに俯せになることだけに費やしたと喚いた。


「遅れるつもりはなかったんだけどさあ」

梓はどうしようかとでも思案するような顔で、大きな目を天井に向けて何でもないふうに言った。

「だけどさあとか言っちゃうのお前」

「なんだけどさ」

「押し切んなよ」

「仕方ないじゃん。遅刻とかさ、誰にでもあるミスじゃん。今日さ、外どんだけ雨降ってると思ってんの、タクシーも中々来ないしさ」

「だーかーら開き直るなっての。二時間てさ、二時間て遅刻とか言う範囲なのかよ むしろ事故の範疇じゃないの?」

「あぁそうか。じゃあそれで」

「じゃあじゃねーよ。ねえわ、二時間待ちはねえわ、出待ちかと思ったわマジで」

「あらた出待ちなんかしたことあんの」

「あるわけねえだろ」

ソファに寝転がる新は髪がりがりと掻いて、面倒臭そうな顔をする梓を振り返って見ると、殊更に眉間に皺を寄せてがっかりしたような顔をした。
その顔をさらりと見て、梓は少しだけ身動ぎして困ったような顔をした。

「うわこいつ反省してねえよ、とか思っただろ」
「思うわそりゃ。連絡くらいしろよ、どんだけ待ったと思ってんの。だいたいな、お前が言い出したんだろ俺んち来るとか急に言い出しちゃったんだろ。俺はね、出かけたかったの、それを止めたのは誰だよお前だろ、お前しかいないだろ。だからお前が死ぬほど悪いんだよ」

常日頃気が短いほうではない部類に入るはずの新だが、時間を無駄に使うのは何よりも嫌いだったから苛々したふうに言葉を投げつけてくる。
口を挟めば余計に雷が落ちると踏んで、梓は黙った。
が、黙ったことで顔を覆ったきれいな指の間から覗く目が、いつもより剣呑な色を見せた。

「きーてんの」

「何。きーてるよ」

「じゃなにその態度」

新がのそりと起き上がり、脚を組んでじとりと人形のように立ったままの梓を睨む。
その顔はとても険しくて、目は一つも笑っていなかった。ああこれは随分と怒ってんな、と他人事のように思って、梓は真っすぐに新を見返した。

「来てもいーけど遅れんなってゆったじゃん。俺ゆったじゃん。聞いてなかったのかよ」

より伸びた髪を掻き上げて、新は苛々したように何度も同じことを繰り返した。
それから逃れるように梓はミニスカートから伸びる自分の細い脚を眺め、その爪先に並んで光るスワロフスキーに見詰める。

この石を散りばめるのにも随分と時間を要したことが約束の時間を悠々とオーバーした原因の一因だったが、新の態度を見るに今更そういった言い訳を言うのは憚られる。
恋人である聖の部屋でのうのうと過ごしていた時が、つい数時間前であるにも関わらず幾日も前のようにさえ感じられた。
酔った勢いで『今から行くから』なんて言わなければ良かったのだ。

「お前みたいな奴知らねーわ。帰れよさっさと帰れ」

黙ったまま立つ梓が腹立たしくなったのか、帰れと繰り返す新はもう全部放り出してしまいたいようにも見えて、「えー。でもさぁ、」と不満を口にしようとした梓の声が遮られたのは最後通牒のような早さだった。

「でもじゃねえっての」

薄茶色の瞳が冷たく自分を見据えているのに唇を尖らせて、梓は再度「えー」と言った。

「えぇぇ。せっかくさぁ来たのになんでよ、なんで帰んないとなんないの」

「うるせーよ、帰れ、出てけ、そんで二度とくんな」

「ひっどくない、それ。この雨の中帰れって? 人じゃねーよお前、新手のエイリアンかよ。風邪でも引いたらどうしてくれんの責任取ってここ住ませてくれんの」

「おお。どっからその発想湧いた」

「お前がそんなんさ、そんなん言うからじゃん」

「逆ギレすんな。お前が悪いんだろ。そのくせその態度おかしいだろ」

「おかしくねーよ。仕方ないじゃん手間取ったんだよ色々と。だから遅れたんだよ」

「何を手間取るんだよ馬鹿じゃねえの」

新が呆れきったように顔を顰めて、笑うのと怒るのと半々のような顔をした。

「馬鹿じゃねーよ、あーんなスコールみたいな雨降られたらさ、手間取るんだよ色々と。女だから仕方ねえじゃん」

「その喋り方が女かよ」

「お前こそそのナリが男かよ」

新が起き上がったことでスペースが空いたソファに梓が座り、まばらに伸びた新の前髪を強く引く。その反動で距離は随分と近づいたが、重苦しいような空気は変わらなかった。

「いてえな引っ張んなよ」

「女みたいに伸ばしてんじゃねえよ。邪魔じゃん切れよこんなの」

「うるせーよ」

三十センチもない距離で罵り合う光景は客観的には何だか滑稽ではあったが、本人たちの意思とは無関係にテンションだけがヒートアップする。

「欝陶しいとか思わないの」

「お前だって長いだろ」

「馬鹿じゃねえの、こっちは女だから長くていいんだよ」

「馬鹿じゃねえよ、俺は似合ってるからいいんだよ」

胸倉でも掴もうかという勢いそのままに大声が響き渡り、新の細い腕を強く掴んで引っ張って圧し掛かるような体勢になったところで不意にこの状況に冷静になった梓が動きを止めた。
僅かに出来た空白に眉を顰めた新が、自分に圧し掛かるようにしていた軽い身体を簡単に引っくり返して、勢いよく覆いかぶさる。
思ってもみなかったことに驚いた梓が、その鼻先にぶつかる、と思うような距離に思わず目を瞑りその寸前で新は止まった。

「ばあか」

驚いて目を閉じた梓を嗤うように、再び開いた視界の先に新の形の良い目が勝ち誇ったような視線を投げ掛けてくる。

「…うっさい、笑うな」

「びっくりしたんだろ」

「したわ。するわそりゃ。笑うなって言ってんだろ」

新の両の頬を引っ張って、お返しだと梓が言って子供みたいに、いーだ、と付け加えた。

「いてえよ」

「うるせーよ」

「ガキ」

「同い年だろ」

くぐもった声が漏れて、調子に乗った梓がそのまま新のワックスで整えられた髪の中に両手を突っ込んでぐしゃぐしゃと掻き回す。
指通りのいい質の良い髪は何もしていない筈なのに、毎日こまめな手入れの欠かさない梓より触り心地が良くてそれがさらに不満に思った。

「何この綺麗な髪。そんなだから男にまで告白されんだよバーカ」

「うるせえよ。お前もそんなんだから女から毎年バレンタインにチョコもらうんだよバーカ」

最後には言い合う悪口もなくなって、何度か「ばか」「死ね」「消えろ」などの低次元の言い争いが続いた後、疲れたように二人して黙り込んだ。
最初に口を開いたのは、真面目な顔をした梓で、それを新がじっと見ていた。

「…疲れた」

「なんかな。くだんなくなってきたな」

「やめるか」

「お前が言うか」

しばらく黙っていたが、新の髪に指を滑らしたまま、梓が「ごめん」と言った。

「ごめん。もう二度と遅刻しないから、来るなとかゆわないで」

ぎゅうと痛くなるくらい新の華奢な身体に腕を巻きつけて、梓は深く息を吸い込んだ。
そうしないと息が出来ないんじゃないかとでもいうように、ぎゅうぎゅうと抱きついた。

「おっせーよお前」

大げさに吐いた溜め息と共に、背中にかかる梓の髪を軽く引っ張って新が笑った。

【END】

2011年01月06日(木)



 

自分を証明できるものなんて、何もない。



ゆめを見ました。

ぼくは、ゆめを見たのは初めてです。ゆめの中は、くらくてしずかで、さむいんだなあとおもいました。




瞼を開ければ、暗闇でしかなかった。

非日常が肢体を覆い、意識を淀ませる。周囲はただただ深い夜の帳が下りたように、鋭利な切っ先を鼻先に突き付けられても気付かないほど、視界は無為だった。

緞帳に包まれば、こんな感じなのだろうか。暗黒とはよくいったものだと、変な所で感心する。

五感は効かず、浮遊しているかのようにすら思えた。

「――」

誰かの名を口にする。

だが、それは誰の名かはわからない。

一色に染め上げられた景色に、ふと異彩が混じった。

鮮やかなそれは、視界を覆い尽くしいつしか僕自身をも染め上げた。





「何してるの」

リビングに行けば、珍しくキリヤがテレビを見ていた。

僕の声にも反応しない彼の肩に、掌を置いた。瞬き一つせずに見つめる画面は、真っ黒で何も映し出していない。

キリヤが黙って静かな画面を指をさす。

ただのインテリアと化したそこに映るシルエットは、僕とキリヤと――。

もう一人のキリヤ。

「先か、前か」

それを静かに指差して、彼は僕を見ずに呟く。

「先じゃないな。じゃあやっぱり前か」

よくわからないことを呟き続け、視線は画面に釘付けになったままだ。もしかすると、僕に気付いていないのかもしれない。

「キリヤ」

もう一度呼べば、彼は相変わらず視線を画面に固定したまま、赤い唇に指を縦にして静かにしろというジェスチャーをとった。

僕は肩をすくめて、キッチンへと向かう。空腹は感じなかったが、何か食べないとそろそろ栄養失調で倒れてしまうかもしれない。

背後で「追い付いてからにしろ」という呟きが聞こえたて何の事か気になったが、口にはしなかった。

キリヤの言葉は僕に発せられたものでなく、それどころか現世に対してかどうかも怪しいぐらいだ。

ふと、ナイフを動かす手を止める。中途半端にバターを塗られたパンは、キャンバスを模したようでもある。

「お前、絵の才能はないな」

いつのまにか、キリヤがキッチンにいた。

僕は彼を凝視する。

「何だよ。馬鹿にでもなったのか?」

せせら笑うキリヤの大きな漆黒の瞳は、僕を映している。そこに映る僕の瞳の中にはキリヤがいて、またその中には僕が。

終わらない螺旋。延々と繋がる合わせ鏡。ふとその一端を具間みたような気がして。

何かに映る己の姿。それが、その中の自分が本当に自分あるかどうかなんて、誰にもわからない。

彼が話し掛けるのは、現世とは限らない。だとすれば、今目の前にある彼という存在は『いつ』のものなのだろう。

ある日突然、過去の彼が彼になりすましたとして。

それを知ることは不可能なのではないだろうか。

「追い付いたらどうするの?」

ぽつりと発した言葉に、キリヤが僅かに目を見開く。

「殺すだけさ」

「物騒だね」

地軸が違えば、己でさえも手にかけてしまうと言うのなら。

「離れれば他人、だろ」

止めていた手を動かし、再びバター塗りに専念する。今度は塗り終える事に成功し、ちぎったレタスやトマトと共に皿に乗せた。

離れれば他人。自分でさえも。

バターナイフを洗い、ペーパーで拭いた。



夢を思い出す。

幼い頃に見た、暗闇の夢。一人、寒さと孤独に震える夢。あれは、たぶん。

「おい、俺の分は」

「なんだキリヤも食べるの」

「当たり前だろ」

むくれたような表情で席につく、僕と瓜二つの弟。

あれは、たぶん。



そうやって殺された、未来か過去の僕らだ。

【END】

2011年01月04日(火)



 クリスマス・デイ

「なんかさ、やたらと人が多くない?」

あたしの言った台詞に、伊聡が露骨に嫌な顔をした。

「マジで? じゃあ駅のほう行くのやめる」

「えー? やだよ遠くなるじゃん。…あれ? でも、あれってさぁ」

人混みという言葉に過剰な反応をする伊聡を無視して、駅前のビルの影から見える光に目を奪われてそちらへと足を向ける。

「は、お前、なに」

「立ち止まらないでよ、こっちだってば」

「…すげー人混みなんですけど」

「いーから」

「良くねえだろ、…って」

駅と直結したショッピングセンターを抜けた、いつもは何もない広場を彩る青と白と。それから赤に橙。
中央に巨大なクリスマスツリー。芝生の上に敷き詰められたライトが、まるで光の海のように輝きを放っていた。
そういえば、十二月半ばからイルミネーションが始まるって誰かが言ってたっけ。
聞いた時はあたしに関係ないし、なんて思ってたからすっかりと忘れてた。

「引っ張るなって」

「うん。でも、ほら、あっち」

いくら伊聡が嫌だって言ったって、世間でいうところのクリスマスなんだし。
少しくらいいいじゃない。
ちょっとだけ見て帰ろうよ、とタクシーを捕まえようとしていた伊聡を引き留めて、ツリーの方へと引っ張った。

「すごーい。綺麗、ね、ほら見てよ」

後ろで何か言っている伊聡の声は、人混みとアナウンスと音楽のせいで上手く聞き取れない。
わからないけれど、きっとどうせ「くだんない」とか言っているに違いなかった。
そんなこと言われたって、引くつもりはないんだから。
知らない振りをして笑いかければ、眉を寄せていた伊聡の顔が一瞬だけ驚いたようになって、それからまた不機嫌な顔に逆戻りした。
少しくらい愛想良くしてくれたっていいのに、なんて言う文句は胸に収めて握った手だったけど、握り返された力は思いのほか強かった。



芝生の真ん中に立っている時計塔が、九時へと差し掛かる。
いつもは一時間後とに何とかいうクラシックがオルゴールで鳴るその時計も、今は鳴りを潜めてただ時だけを告げる。
同時に周囲のビルから、広場を彩る光が粉雪みたいに降り注ぎだした。
空からじゃなく、ツリーから流れ落ちるかのように錯覚する光、そして光。

触れられない光の雪が舞い落ちるのが、信じられないくらい綺麗だと思った。
予報通り本物の雪は降りそうにないけど、そんな物がなくても十分過ぎるくらい。
違うか、寧ろ降らなくて良かった。雪なんか降ったら伊聡は間違いなく、聞く耳を持たずにタクシーに乗っていた。
そうしたらこの光景は見られなかったわけで。

それに比べれば、ホワイトクリスマスの価値は随分下がる。少なくともあたしにとっては。
一人じゃなくて、二人。
伊聡と二人でいることに価値がある。
…伊聡にとっては何の価値もないのかもしれないっていうのが、ちょっとばかり残念なんだけどこれ以上を望んだって仕方ない。

「まなかー」

すぐ傍で聞こえた声と共に、髪が後ろへと引かれる。

「寒い、帰りたい。帰る。帰らなきゃ凍死する」

「痛いってば」

「そんなに強く引っ張ってない。つか、マジで寒い。帰る、帰りたい、帰らせろ」

妙に切羽詰った伊聡の声は、上滑りして通り過ぎて、あたしは少し笑ってしまった。

「凍死するってどんだけひ弱なのよ。後でさ、どっか入ればいーじゃない。そこで好きなだけ暖まれば?」

「今がいいんだよ、今が。じゃあ妥協策。どーしても見たいんなら、あっちカフェから見よう」

「やだよ、硝子通すとさ、綺麗さが半減するんだよね」

「くだんねー…」

それにこれだけの人混みなんだし、カフェなんて風の吹き付けるテラスさえ満席に決まってる。
納得したようなしていないような、でも離されない手は確かな温もりを伝えて何を言われてもあたしを嬉しがらせる。

きらきらきら。
一帯を彩るイルミネーション。いつもは通り過ぎるだけの場所に、沢山の人が足を止める。
いつもは昼過ぎにサラリーマンくらいしか座らないベンチに、今夜は沢山の恋人達が腰を下ろす。

少しだけ強く手を引いて歩く、まるで引率状態。
あたし達の周りと言えば、べたりとマグネットみたいにくっつく恋人達。
誰もあたし達みたいに中途半端な距離を生んではなかったけれど、構わない。
そんなことより二人で見れたっていうことが、大事なのだ。

黙りこくる背後を無視して、電飾の荒が見えないぎりぎりまで近寄ってみる。さすがにこの辺りになると人だかりが凄くて、一度手を離してしまえば見惚れている場合じゃなくなるかもしれない。

数箇所あるベンチはどれも満席で、冷たい夜風に吹かれても誰も寒そうな顔をしていないのは、相手を気遣うからかそんなもの吹き飛ぶくらい甘い空気が漂うからか。

そんな雰囲気とは無縁な伊聡は、未だ「寒い」と顔を曇らせてひとりごちている。
繋いだ手が随分と冷たくなったことに気付く。

「帰りたい?」

「すげー帰りたい」

「あーそ」

予期した答えは間を置かずに返されて。

「あー…寒い」

あたしに向けられたものではないと知っていたけれど、呼応するように伊聡の顔を見上げた。
白くなった息が透けて見える。
それに斜めから差し込む青い光が、とても幻想的だった。
薄い唇から漏れる白と、降り注ぐ青と。混ざりようもなく、けれどそこに確かに混在した。

今キスしたら、あたしもそれに染まるかもしれない。
その誘惑に抗うことなく、服の胸元を引いてそっと唇を合わせ、すぐに離した。

「なに、急に。帰ってすればいいのに」

「今するからいいの」

「あーそ」

さっきのあたしそのままの返事をする伊聡を振り向けば、件の恋人はもう既にあたしを見てはいなかった。
どこを見るでもなく、あちこちに視線を投げては詰まらなさそうに目を細める。
落ち着きがない。本当に帰りたいのだ。
伊聡はたぶん、美術館だとか水族館だとか、そういう観賞するものは向いてない。

あたしだって好きじゃないけど、そのレベルとは段違いに、向いてない。
ただ観るだけ、というものにも向き不向きはあって。
そういう意味では伊聡は、マイペースというよりも、メンタル的な意味合いで未発達なんだと最近思うようになった。

だから時々、あたしがこうやって連れ出してやらないと、この手のかかる恋人は育たないかもしれない。




「ホントさ、伊聡って情緒がないよね」

結局目敏く捕まえたタクシーに乗り込まされて、後方に流れてゆくイルミネーションを振り返り呟いた。

「情緒?」

「そう。情緒」

「あー…ないかも。だって必要ないし」

それってどうなの。観賞能力の欠如を、そんなに自信満々に認められても困るんだけど。
外にいた時よりは随分と余裕出来たらしい伊聡の横顔に、ちらりと視線を寄越す。
あたしの表情をどう捉えたのか、珍しく穏やかに笑う顔を見て、思ったことを言うのはやめにした。
ビルの影に遠ざけられて、もうツリーは見えない。
しばらく窓の外を眺めていたら、愛夏、と名前を呼ばれた。

「なに?」

前を向いたままの伊聡が、欠伸を噛み殺して眠そうに口を開いた。

「俺さ、人混み嫌いなんだよ」

「知ってる」

「寒いのも嫌いだし」

「それも知ってる」

知らないことのほうが少ないよ、きっと。
そう呟けば、少しだけ伊聡は笑ってあたしを見た。

「だから早く帰ってさ」

「帰って?」

「ベッドに潜り込んで温まって、で、一緒に寝られればさ。それでいーじゃん」

冷えた手があたしの手を握りこんで、耳元に寄せられた唇が温かな息を吐く。
ツリーも、イルミネーションも、プレゼントも、クリスマスらしいことは何もないけれど。

「うん」

それはそれで、とてもあたし達らしいかもしれない。
だからあたしは。

「じゃあ早く帰ろう」

と言った。

【END】


2011年01月03日(月)



 

久々に会った友人。でも彼は。




「よう久しぶり」

昼下がり。

買い物の帰りに通り抜けた公園で、中学生時分同級生だった野上に会った。
同級生と言っても病気がちで欠席ばかりだった僕は、かろうじて名前を覚えている程度でたいした面識はない。

「ここら辺にに住んでるの?」

「あ?いや、おれは元々こっちに家があるんだよね。中学の時は親父の単身赴任であっち行ってたけどさ」

名前と顔も一致しない元クラスメイト達の噂話をしばらく聞いてから、野上は

「良かったらうち来ない?」
と薄く笑った。

口を交わしたのはこれが初めてであったはずなのに、気が付けば僕は了承の笑みを返していた。
同窓であることが気を許したのか、彼の打ち解け顔がそうさせたのか。
元来人見知りで口下手な僕には、眩暈を起こすような行為だ。
足を運べば中々辿り着かないことには閉口したけれど、野上の饒舌さはそれらを物見遊山気分に変えるほど機知に富むものばかりだったことが、僕の気分を妙に高揚させた。
僕を気遣ってか、買い物の荷物まで持ってくれたことも、好感を持つに値するには充分であったかもしれない。

「ここ」

「ここ?」

「うん、そう。古いからあちこち痛んでる。林も手入れしてないし、歩くときは気をつけな」

少し物寂しい場所に、野上の家はあった。

「古いだろ。でもさ、考えようによっては、取り得だろ。朽ちて行かせる時間だけは、早めようがないからね」

きっと本音は違うのだろう。
皮肉気に口元を歪める野上は、先程までにこやかに話していた人間と、一瞬だけ別人のように見えた。
周囲を、鬱蒼とした竹林に取り囲まれるようにして立つ佇まいに、一種の寂寥を感じる。
古びた門構えに、重厚な感のある木造りの建物。
静寂という表現がしっくりくる。だが、こういった趣は嫌いではない。
少しの間見惚れていると、


「おーい、どしたー?」

いつのまにか先を歩く野上に、手招きされて慌てて止まっていた歩みを再開する。
耳を澄ませば野鳥の囀りや、竹の葉が風で揺れるさざめきさえ聞こえそうな気がして。
本音を言えば、そういったものを聞いてみたいと思った。
僕が感じていることを理解したらしく、野上が苦笑する。

「らしいと言えば、らしい。静だったよなあ」

「うん」

妙な似合わない彼の物言いに、僕もほんの少し口元を歪めた。

「わかりにくいけど、こっちが玄関」

「あ、うん」


「何度もゆうけど、古いから気をつけな」

振り返った彼の顔を見て、何故だか少し胸がざわざわとした。
通された一室は野上の自室らしく、雑然とした感じではあったが、高い天井に真新しい畳の敷かれた広い和室。
一通り眺めてから、入って来た入口の襖が少し開いていることに気付いた。
入って来る時に閉め忘れたらしい。
開けたら閉める。これは僕の日常動作だ。
今もそうしたような気がしたけれど、無意識下にあるそれは記憶の片隅にも残ってない。
さりげなくそっと閉めて、窓の障子を開ける野上に「良い家だね」と笑いかけた。

「変な気使うなって。古いだけだよ、こんなの――あ、」

「なに?」

「ごめん、襖閉めてくれない」

「え」

反射的に振り返った出入口。
薄暗く見通せない二十センチ程の隙間が、微かに風を吐き出すようにして開いていた。
先程のは無意識ではない。


「…閉めたと思ったんだけど」

「あれ、じゃあ俺がまた開けたのかも。ごめんな」

「いや、いいよ」

首を傾げる僕に、にっと歯を見せて野上が答えた。
頷いたものの、釈然としない心持ちで、再度襖を閉める。風が止む。
不思議と穴を埋めた時と、同じ感覚が沸いた。
出入り口は、ここだけ。他には窓が一つ。西を向いているのか陽光が入り、畳を白っぽく見せた。
野上の話は尽きることなく、僕を楽しませてくれた。
ほとんど馴染みのなかったクラスメイト達や、会ったこともない彼の友人達にさえ、親しみを覚えてしまったほどだ。
窓から夕日が差し込み始め、初めて夕暮れが近いことを知った。

「今何時?」

未だ止まない話の合間に、時計を探して部屋を見回した。
僕自身時計をつける習慣がなく、時間を探る術は外部にしか持たない。

「えっと、五時ジャスト。なん、腹減った? ああ、何も出してなかったよな、菓子とかあるか見てくるわ」

要らぬ気を使わせてしまったらしく、野上はそそくさと立ち上がり、もう帰るからとの制止も聞かずに部屋を出て行った。
そろそろ帰らなければならない。

買い物の帰りだった僕は、キリヤの昼食さえまだ作っていない。
それを思い出したのだ。
今頃彼は怒り狂っているに違いない。
そう思うと、尚更早く帰りたくなった。
途端、視界の端で襖が動いたのが見えた。

「野上? 本当にそろそろ帰ろうと思うんだけど」

野上が帰って来たのかと、そちらへと首を捻って彼を呼んだ。
襖は確かに開いて、またもぽっかりと黒い隙間を生んでいる。
だが返事はなかった。

「野上?」

もう一度呼んで立ち上がり一歩足を進めた。が、すぐに足を止めた。
なんだろう?
鼻腔を掠める黴臭い匂いに、顔を顰めた。
背筋がぞくりとした。
理由はない。
ただ、気持ち悪かった。
襖の隙間から流れる臭いだと気付くのに、時間はかからなかった。
隙間の向こうは全くの闇で、一筋の光さえ見当たらない。
僕は窓を背にして襖に向かい合って立っているのに、その先はどれほど目を凝らしても全く何も浮かび上がらない。
無音。なのに、鼓膜を揺らす。耳鳴りかもしれない。
その中へ野上が入って行ったことさえ、見間違いかと思うほどだった。
――異空間みたいだ。

外へ出る出口ではなく、どこかへと通じる入り口。
部屋の中は夕焼けが滲んだかのように、朱色に染まる。
風が吹く。
今となっては強烈な異臭を放つ、風が。

「野上」

常闇を思わせる隙間へと、手を伸ばす。おそらく、襖を開け放とうとしたのだと思う。
少し湿った冷気が皮膚を撫で、腕に這い上がろうとしたところで、手を引いた。
反射的に駄目だと思った。
肌がびりびりする。明確な理由はない。
ここは二階。
身を翻して窓に走り寄ったのは、後から考えれば無意識だった。



「何してんだよ、お前」

キリヤの声にふと目を開ける。
すぐ間近で、澄んだ瞳の弟が僕をじっと覗き込んでいた。

「キリ、ヤ」

「なんだよ。つーか、お前何してんのこんなところで」

彼が立ち上がる。
斜めに、地平線に落ちていこうとする太陽が見えた。
橙色に染まる弟が、呆れたように僕を見下ろしていて。

「え?」

辺りを見回せば、そこは買い物帰りに通り抜けた公園。

「帰って来ないと思ったら、こんな場所で昼寝かよ」

「…さあ」

僕は頭についた砂を払い、立ち上がる。

「腹減って死にそーなんだけど」

「ごめん、すぐ作るから。ああそうだ、ねえキリヤ、野上って覚えてる?」

キリヤが黙って僕を振り返る。

「野上?」

人形のように無表情で、何を考えているのかはわからなかった。

「そいつのところに行ったんだ。…たぶん」

地面に置きっ放しだった買い物袋を拾い上げ、ジーンズにまだついていた砂埃を払った。
影が長い。
朱色の陽射しが、最後の光を投げかける。

「…そりゃ随分な寄り道だな」

しばらく僕の顔を見つめていたキリヤは、唇を歪めてそう言い放つと、さっさと公園を出て行く。
最後にアチラ、だとか呟いた気もするけれど、よく聞こえなかった。

「なんて? ちょっと待ってよ」

追いかける僕の頬を、風がそっと撫でて追い越していった。


【END】

2011年01月02日(日)



 

余計なモノに関わるな。キリヤの言う事はいつも正しい。


しゃぼんだまで、あそびました。
じょうずにつくれたので、ぼくのまわりは、しゃぼんだまだらけになりました。
しゃぼんだまの中には、ぼくやおとうとが、たくさんいました。




雑踏は酷く苦手だった。
歩くだけで頭が痛くなるし、気分が悪くなる。
歪みそうになる視界をどうにか保って、駅へとただ歩き続ける。
それぞれに交差して歩く人々は、まるで十字架をなぞって歩いているかのようで。

すっかり暗くなってしまっていると言うのに、街の中は眩暈がする程に明るく不気味だった。


「早く帰ろうぜ」


キリヤが僕の肩を叩く。

相変わらず彼の手は冷たくて、か細い。
それはきっと僕も同じなのだろうけれど、彼よりはきっとぬくもりを持っているはずだと思った。

大通りの橋を渡る。
もう何度目かになるこの場所で、いつも見る光景に僕は足を止める。
その『光景』はもはや『風景』みたいなもので、どちらがどちらなのか、区別が付かないほど日常茶飯事なものだった。
足を止めた僕に気付いたのか先を歩いていたキリヤが、同じようにして振り返った。


「見るな」

「でも」

「ああいうのは関わらないほうがいーんだよ」


キリヤが僕の腕を掴む。
周りの人が僕らを振り返った。
その視線は、真っ直ぐと僕を捉えていて、不快だった。

思ったより大声を出していたようで、彼らは僕を指差し何事か囁き合っていて。

「帰ろうぜ」

また同じ事をキリヤが言った。
そうして、彼はまた歩き始める。
それでも視界の端にちらちらと映るそれに、どうしても気を取られてしまう。
普段は素知らぬ振りをして通り抜けれるはずなのに、今日はどうしてだか、やけに気になって仕方がない。

僕は何かを忘れているようで、何かを思い出さなくてはならないような気がした。
だからなのか、誘惑に負けるようにして、足を止め振り向いてしまって。

視界の中央で繰り広げられる光景は、とても単調なもので、いつもと代わり映えはしなかった。
混み合った人の群れの中、ちょうど橋に差し掛かるあたりでいつも彼女は現れる。
そっと吐いた息がカタチを保つようにして、突如現れ動き出すのだ。
ゆっくりと流れに沿って歩いたかと思うと、橋の欄干に手をかけて彼女はそれによじ登りだす。

重そうな長い黒髪。鮮烈な赤のコート。赤と黒のコントラストが、網膜に焼け付く。
欄干に上った彼女はそのまま、橋の下へと飛び降りる。
下は地面ではなく川だ。水深はわりと深く、けれど汚水に近いその水が、飛沫を立てることはない。

僕は静かに立ち尽くし、その光景を見守る。
そうして重い溜息を吐いた。
これで何度目だろう。彼女が落ちていくのを見るのは。
それから数秒もしない内に、彼女はまたごった返す人の流れの中に現れるのだ。
エンドレス。
フィルムが巻き戻されるのではなく、落ちた彼女は何度も同じ場所に現れ、落ちていく。
これを彼女は永遠と繰り返す。
雨の日も、風の日も。

僕がこの橋を通りかかる時は、そうする彼女を見るのが日課で。
腰よりも長い髪のせいか、彼女の表情はいつだって見えない。見えることはない。
意識を逸らせば、普段はそれまでのことだった。
なのに今は目を逸らしても、鮮血に似た赤が視界の端に映り込む。

不意に息苦しくなって、気付けば、拳を握り締めていた。
僕が立ち止まってからも、黙々と彼女は同じ事を繰り返す。
キリヤが、何か言った。
それが僕の耳に届き、頭が理解する前に、視界に蠢く赤がぴたりとその動きを止めた。

「――あ、」

キリヤが振り返る。
それとほぼ同時に、彼女が振り向いた。


「あ、バカ」

前を歩いていたキリヤが慌てたのが分かったけれど、もうそれは遅くて僕は彼女と目が合ってしまっていた。
長い髪は顔じゅうにべったりをかかり、彼女の顔も大部分を覆い隠している。
けれど、その顔を確認するには、充分すぎるほどの距離だった。

「――、」

無意識に手は、僕の口元を押さえていた。
そうしないと、叫んでしまいそうだとでもいうように。

「行くぞ」

それを押し留めたのは、キリヤの緊張した声で。
痛いくらい掴まれた手首が引っ張られ、走る事を促される。
全速力で走るのは、久しぶりの事だった。

「はっ、待…っ」

心臓が弾け飛ぶかと思うくらい、鼓動を早める。
大通りを走り抜ける僕らに誰もが奇異の目を向けたが、それは一瞬のことで。

「キリ、ヤ…っ」

もう走れない。息が止まそうだった。
薄汚い路地を曲がったところで、キリヤが足を止めた。

「くる、…しいよ…っ」

「うるせえ」

不機嫌な口調で、キリヤが僕を睨みつける。

「あーゆうのと関わるなって、前も言わなかったか?」

たいして息も乱れていない弟に、幾分尊敬の念を抱きながら、僕はその場にしゃがみ込んだ。

「だ…って」

「馬鹿かお前」

心底呆れているような。そんな空気が刺々しい。
僕らは人には見えないモノが見える。
それは、その人達にとって助けてあげられることがあるかもしれないってことだ。
そう思うからこそ、僕はかれらに「見ぬふり」はできなかったりするのだ。

「ホント、馬鹿な。お前って」

「どうして?」

「やってらんね。もうお前、一人で帰れ。後、それ捨てて来いよ」

呆れ返った目の色をして、キリヤがそっぽを向く。
何を怒ってるのだろう。

「キリヤ?」

「うるさい、触んな」

伸ばそうとした腕をあっさりと振り払われ、今度はキリヤの全速力で走り出し僕から離れて行った。
追おうとしたけれど、追いつけないとすぐに諦めた。
彼と僕では、足の速さが全く違う。
どうしてキリヤはすぐに怒るのだろう。
僕が言う事を聞かないから?

ばしゃばしゃと水を蹴る音がすぐ近くでした。
すぐ後ろで。
僕は振り返る。
そこには何もなかった。
何も。煩いほど行き来する人の波も、競うように外まで聞こえるほどのBGMを流していた立ち並ぶ店先も。

「――っ」

ふと、寒さに震えた。
やけに寒い。そうだ、とても寒い。そしてどうして足がこんなに重いんだろう。
走ったせいかと思ったけれど、そうではなく。
腰に、足に、下半身全体にかかる抵抗力。
たっぷり水を吸った衣服が、べったりと体に張り付く、そんな感覚。

「おーい! きみ! そんなところで何してるんだ」

上から降る怒声に、僕は顔を上げた。
さっきまでより、高い夜空。まあるい月が、綺麗だと思った。
月? 夕暮れだと思っていたのに。
ああ、いつのまに夜になったんだろう。
寒い。どうして僕は、こんなに震えているのだろう。

騒々しい人の声。皆が僕を指差す。橋の上は人だかりで、黒っぽく見えた。
頬に張り付いた髪が、べたべたとして気持ち悪かった。
そうか。皆、上にいたんだ。どおりで僕の周りは誰もいない。

呆けたようにして、冷たい川の中で僕は立ち尽くす。
僕の身に付けたコートの赤が、視界の中で唯一の色で。

こんなに寒いのは、キリヤがいないせいだと思った。

【END】


2011年01月01日(土)
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