蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 無題3-8

「ねえ、」

回した手に力を込める。呼びかけても返事はなくて、ただ俯いたままのシュウスケとあたし。腕に顔を埋めれば、懐かしい匂いがした。

「ねえってば」
「…なんだよ」

何度か目の呼びかけで、掠れた声が返される。
その声をもう一度聞きたくて、「ねえ」と繰り返した。

「うるせえな」

今度ははっきりとした声音。ほんの少し羞恥を含む、そんな響きにあたしは笑ってしまった。

「なに、笑ってんだよ」

「だって」

「さっきまで泣いてたくせに」

反論の言葉はあっさりと遮られる。だけど、まだ顔を上げない幼馴染が、やけに幼く見えて浮かぶ笑みは止められなかった。
あたしのこの気持ちは、少しは伝わったのかもしれないと思った。

「あたしだけじゃないもん」

「――っ、」

そう口にすれば、微かに息を吸い込む気配がして、それから「うるさい」とシュウスケが顔を上げた。

同時に腕を引いて、距離をとった。少し高い位置にある、顔は手で押さえていたせいか、少し赤みを差していた。
困ったように眉を寄せて、でもそれはどこか優しく見えて、あたしの気持ちも落ち着いていく。

「ねえ、シュウスケ。あたしね、あたしシュウスケのこと、好きでいていい? 諦めようとか、離れようとか、色々考えたんだけど、あたしやっぱりそういうの、無理なの。だから好きでいるくらい、許して欲しいの」

シュウスケの唇が僅かに揺れる。何かを言おうとして、でもそれはすぐに閉ざされ切れ長の瞳が、あたしをただ見つめた。

「だめ、かな」

「良いも悪いも、俺が決めることじゃないだろ」

遠慮がちに言えば、苦笑され目を逸らされる。

「そうかもしれないけど。だって、そのせいでナミコ先輩と上手くいかなくなったりしたら困るでしょ。嫌われたりしたくないよ、あたし」

「…お前、勘違いしてる」

「え?」

髪をくしゃくしゃと掻いて、小さく息を吐く。

「先輩とは、もう終わった。これからももう戻る事とか、ないと思う」

どこか寂しそうにシュウスケがそう言った時、一階の玄関で扉の開く音が聞こえた。

2008年03月18日(火)



 無題3-7

「全部」

抑揚のない声で、シュウスケが繰り返した。

「そう、全部だよ。強いところも弱いところも、全部。良いところばっかりじゃないって、ちゃんと知ってる。シュウスケが色んな人にコンプレックス持ってることも、何でも一人で出来るような顔してても、本当はこの家で誰よりも我が儘なことも、寂しがりやなのも、あたしは…そういうところも含めて全部好きなの」

「……」

ほんの少しだけ、シュウスケが目を見張った気がした。

心臓が馬鹿になったみたいに、煩い。


握った掌が、じんわりと熱を伝える。
それはまるで体温が入り交じり合ったかのようで、妙に心地良く感じた。

指先から掌を撫でるようにして、握ってもシュウスケは動かずにされるがままになっていた。

誰もいないこの空間の中でそんなことを気にする必要もなくて、戯れに似ている。

でもそれが続かないことを知っているかのように、指先が僅かに震えるのは止められなかった。


「マヒロ」

不意に、指先が握り込まれて、不可思議な空間が霧散する。
心地良さは消え失せて、重苦しさがこみ上げる。

無理なんだって、駄目なんだって、言われてしまう。

でもそうなっても、平気な顔をしていたくて、呼ばれたままにシュウスケを見上げた。
幼馴染としてでも傍にいたければ、受け止めなくちゃならないことだ。

だから、いつもみたいに、笑おうとした。
だけど上手くできなかったことは、相手の表情を見ればすぐにわかった。


「…わかってるよ。あたしじゃ駄目だって、わかってるけど」

吐息に近い呟き。
何か言われる前に、遮らないと、また泣いてしまうかもしれないと思った。

「押し付けたいんじゃないの。今だって、こんなこと言うつもりじゃなかったけど、でも。でもね」

言うつもりじゃなかった、なんて言い訳がましくて、自分でも溜息が出る。

「マヒロ」

ぽとり、と涙が流れると同時に、掴まれるもう片方の腕。

「そうじゃなくて」

「だって、あたし」

「何も言ってないだろ」

きゅっと強く眉間に皺を寄せて、何かを我慢するかのように低く、シュウスケが言った。

それに気圧されるようにして、あたしは口を閉ざす。
怒ったような口調。だけど、苦しくはなかった。

それはきっと、繋いだままの手のせいだと思った。

深く息を吐いて、ゆっくりとシュウスケが目を閉じた。


「…不意打ちもいいところだ」

そう言ったかと思うと、突然繋いだ手を離して、シュウスケが片手で顔を押さえた。

「シュウスケ?」

肩が細かく揺れる。顔を伏せているせいで、表情は見えなかった。

「笑ってるの?」

「うるさい」

揺れる声。シュウスケが唐突に、あたしの体を引き寄せた。

「泣いてる…の?」

返事がない代わりに、頬にさらさらとした黒髪が触れた。
肩に回る両腕はほとんど力が込められていなくて、息苦しくはなかった。

その代わりのように、あたしは腕を伸ばして、その背に回した。

2008年03月17日(月)



 無題3-6

しばらく、どちらも口をきかずに、無言だった。

静かな部屋で存在する人間が二人とも黙りこくってしまえば、苦痛さえ感じる静けさに心臓だけが煩くなる。

耳が痛くなるような、無音。

そうしたのは自分のせいだとはわかっていたけれど、それに続ける言葉はこれ以上出てきそうにもない。

冗談だよ。嘘だよ。驚いた?

そんな口先だけの場を取り繕うような台詞が浮かんだけれど、言いたくないと唇が否定する。

ぎくしゃくしたままの状態で、言うべきじゃなったのは、明らかで。

立ち尽くす相手は、きっと困ったような表情をしているはず。

困らせたいんじゃない。
それだけはわかってほしい、と思って。
あたしは軽い後悔と、半ば開き直りの気持ちのまま、ゆっくりと顔を上げた。

「…しゅう、すけ?」

口元を押さえて、あたしを見下ろすシュウスケ。
そんな顔、初めて見たかもしれない。

「シュウ――」

「お前って、…なんか」

名前を呼べば、途中で遮られて。

「え?」

その目は、どこか動揺を含んでいるように見えた。でもそれも一瞬のこと。
軽く頭を振って、いつもシュウスケに戻る。

「――お前ってさ、飽きないの。好きとか、ずっととか、そんな気持ちずっと持ってて飽きないの」

「何で、…飽きるの?」

言われた意味がわからなくて、首を傾ける。
シュウスケが目を細めて、あたしを見る。近くて遠い。そんな距離。

狭まれば、いいのに。

「俺なんかのどこがいいわけ」

低い声音。いつもの表情で、いつもとは違う投げやりな言い方。
でもそんなの。あたしには同じこと。
どういうシュウスケでも、あたしには一番でしかない。

「全部」

答えるなり、相手の唇が歪む。

「俺は、」

「本当だよ」

手を伸ばしたのは、無意識だった。

「マヒロ」

触れてから、初めて振り払われるかもしれないと思った。

「本当だよ」

触れた掌はひんやりとしていて、でもあたしの手は振り払われることはなかった。

2008年03月15日(土)



 無題3-5

軽い足音がだんだんと遠ざかり、しばらくして玄関の扉が開閉する音がしたのを最後に、無音になる。

ハルちゃんがいなくなって、急に心細く感じた。

ハルちゃんはシュウスケ達のお兄ちゃんだけれど、あたしにとっても充分お兄ちゃんで、もしかしたらそれ以上に依存しているのかもしれない、と今更のように思った。

そのハルちゃんがいないことで、急に居心地が悪くなる。

何もしなくていいと言われたけれど、そんなわけにはいかない。かたん、と椅子を後ろに下げて立ち上がり、空になったお椀を手にしてシンクへと運んだ。

「置いとけ」

シュウスケが立ち上がる。

それだけで体がぴくんと跳ねた。緊張、し過ぎだ。そんなことをしたら、余計に気まずくなるのに。わかってるのに。そう頭は理解していても、声が喉に引っ掛かってすぐに出てこない。

「でも、悪いし」

「…俺が洗うから、いい。お前に任してたら割れそうだし」

スポンジを手にしたあたしの後ろから、手が伸ばされる。

長い腕は手にしたスポンジをあっさりと取り上げて、ついでのように隣に押しのけられた。

その動作が自然で、固まっていた体は釣られたように、動くようになったと同時に軽く睨んで見上げる。

「そんな不器用じゃないもん」

「不器用とは言ってない」

「どー違うのかわかんないよ」

小さく呟いたせいか、返事はない。あたしもそれ以上何も言わずに、シンクの中に視線を落とす。

お皿を洗う水と、陶器の重なる音。
下を向いたまま黙々と洗う、シュウスケの横顔。

「あたし、」

どれくらい時間が経ったのか、綺麗に洗い上げられた最後の食器が、かちゃん、と水切りラックの音を立てた。

「あたしね、」

気が付けば、シュウスケの袖を引いて。
その次に言う言葉なんて、考えてもいなかった。
ただ、その横顔を見ていたら、そうしていた。

「なんだよ」

濡れた手を気にしてか、袖を引くあたしを気にしてか、僅かに引き戻される腕。

「――あたし」

白っぽい照明が、眩しい。
頬に落ちる睫毛の影さえ、心を捉える。

ああ、やっぱり。あたしって、単純だ。

「…シュウスケのこと、好きだよ」

そう言ってから、もう一度やっぱり単純だ、と笑いたくなった。



2008年03月14日(金)



 無題3-4

この家には、大きなダイニングテーブルがある。
パイン素材みたいに軽い感じのしない、どっしりとした濃い色をしたそれは、ハルちゃんが小さい頃からずっとあると前に聞いた。

夕食の席にはあたし達しかいなくて、八人は座れるそのテーブルが、今日はいつもより大きく感じた。

「ナツ兄は?」

キッチンに立つハルちゃんを、シュウスケが振り返る。

「仕事ー。忙しいからね、ウチの大黒柱は」

「昨日もいなかったじゃん」

「だから、忙しいんだって。はい、マヒロちゃん」

「ありがと。そいえば、トーヤは?」

ご飯を茶碗によそって、手渡してくれる。熱いそれに、冷えた手先が温まる。
いつ来てもお客様扱いだけれど、ハルちゃんがやると気負いがなくて、自然と受け取ってしまう。その度に、トーヤあたりに『女のクセに』なんていわれてしまうんだけれど。

「あー…トーヤはどうしたんだろうねえ、あの子も昨日から見ないんだよね」

あはは、と笑いテーブルに着くハルちゃんを、呆れた顔をしたシュウスケが見上げる。

「いーのかよ、それ」

「良くはないけどさー。…あ、電話」

不意に鳴った電話のベルに、ハルちゃんが席を立つ。
少し離れた位置にある電話を取り上げる後姿を見送ってから、また前を向いた。

二人だと、会話が続かない。

シュウスケと向かい合っても、目を合わせるのが緊張して、話しかけようにもきっかけが掴めない。
前は一方的だったとしてもあれだけ会話があったのに、そういうのが嘘みたいに部屋の中は静かだった。

仕方なく落とした視線は、シュウスケのお皿へと向かう。
辛い物が嫌だと文句をつけたわりには、綺麗に食べられたそれに少し可笑しくなった。

箸を付けた麻婆豆腐は、随分と赤く色付いていたけれど、たいして辛くはなかった。
家族の好みを知っているハルちゃんが、わざわざ苦手な物を作るはずなんてないのだ。

「…なに笑ってんだよ、一人で」

訝しげなシュウスケの声に、思わず視線を上げる。
呆れたような、でも、冷たくはない眼差し。
目が合ってしまえば、思っていたよりも、すんなりと唇から言葉が漏れる。

「だって、」

そう言いかけた時、受話器を置いたハルちゃんがこちらへ戻って来た。そして椅子にかけていたコートを手に掴むと、あたし達を振り返る。

「ごめん。俺、ちょっと出かける。食べたらそのまま放っておいてくれてイイから」

「ハル兄?」

「ナツキに届け物しなくちゃいけなくて。遅くなるかもしれないけど、大丈夫だよね?」

「…幾つだよ」

「だよねえ」

笑い声一つ落とすと、ハルちゃんはあたしに向かってひらひらと手を振って出て行った。

2008年03月13日(木)
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