ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年06月24日(日) 聖日礼拝

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」ヨブ42:10 

「主の導きの確かさ」 

 ヨブは神様を仰ぎ見るという意味で、正しき人でした。ある日、サタンが神様に挑戦を挑みます。サタンは、ヨブの祝福を奪い取ったら彼は信仰を失うだろうというのです。そしてサタンは、ヨブの所有する財産や家族を奪いました。しかしヨブは、信仰を失うことはありませんでした。次にサタンは、ヨブの健康を奪います。それでもヨブは、神様を仰ぎ見るのです。友人たちが慰めに来て、結果的に因果応報説を唱えて戒めようとします。その中でヨブは、自分の正しさを主張します。その思いはやがて神様と自らの立場を同等とするよう思いに変化するのですが、それを私は責めることは出来ません。「なぜ私が苦しむのですか?」と疑問を持つことは当たり前ですし、ヨブはそれによって信仰を失ったわけではないのですから、それだけで充分素晴らしいことだと思うのです。こうして苦しみ続けるヨブでしたが、最後は神様の臨在に触れ、ヨブは平安を得て、自分を傷つけた友人を許し、祈ります。そうした時に神様は、ヨブの生涯を祝福されました。
 神様はヨブに、「お前が苦しんだ理由は、サタンが挑戦したからだよ」と教えたわけではありません。「これこれこういう理由だったんだ」と、納得できる回答を示したわけでもないのです。それでもヨブは、神様の臨在に触れるということだけで平安を得て、明日を生きる力が与えられました。またヨブには、元のように10名の子供たちが与えられました。しかしそれは、死んだ子供が戻ってきたわけではなく、新しい子供たちです。彼が失った痛み、苦しんだ過去は、消えずにそのままなのです。しかしヨブは、神様を見失うことなく、主に在り続けました。
私たちも、同じような苦しみを受けることがあります。その回答が得られることもあれば、結局理由が分からずじまいのこともあります。私は30年前、弟を交通事故で亡くしました。その悲しみや痛みは、この30年間私を苦しませてきました。その度に主は慰めてくださり、恵みを与えてくださいましたが、それによって弟が戻ってくるわけではなく、弟の死についての明確な解答が得られたわけでもありません。しかし私は、永遠の世界に目を向けます。全ての回答は、永遠の世界で得られるのです。ですから、そこを目指し、主を見上げていくなら、これからも生きていくことが出来るでしょう。
主に目を向けましょう。主は確かにあなたの人生を導いておられるのです。今は分からないことが多くあるかも知れませんが、永遠の世界に完全なるいやしと平安があります。

(ペニンスラ教会の礼拝は信徒奨励のため、日本の横浜ホーリネス教会にて宣行牧師が本日メッセージをしたものをここに掲載しました)

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行




2007年06月17日(日) 「父の愛」 父の日メッセージ

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネ3:16 

 今日は父の日の家族礼拝ですので、先ほどは子供たちのお話をいたしました。あの話は有名なイエス様の譬え話「放蕩息子」なのですが、その父親の愛こそ、神の愛をよく表しています。そして今日の聖句は、父なる神の愛をズバリ一言で表現していると言って良いでしょう。聖書の中の宝物のようなみことばであり、私が最も好きなみことばでもあります。神様は、その一人子イエス様を十字架につけたほどに、私を、そしてあなたを愛してくださいました。それは、私たちが滅びることなく、永遠の命、天国へと導かれるためなのです。
 この聖句が語られた背景には、ニコデモという国会議員とイエス様との対話がありました。ニコデモは夜、イエス様に面会に来ます。それは彼の心の闇を示しているのでしょう。名声も富のある彼でしたが、人生の喜びがありませんでした。しかしイエス様は、まことの救いとは何か、天国への道は何かを示され、神にあって新しく生きることを教えられました。このような対話の中で、この宝石のようなみことばが語られたのでした。
 父の日ですので、聖書の中の父と子のもう一つのお話を紹介しましょう。今度は、旧約聖書の実際のお話しで、父アブラハムと息子イサクの出来事です。ある日アブラハムは、神様から、息子を捧げるようにと命令を受けます。それは、羊をほふるように、息子を手にかけろという意味です。悩みぬいたであろうアブラハムですが、神様の命に従って山に行き、息子を縛って、手をかけようとしました。しかしその瞬間、神様からストップがかかりました。神様は、アブラハムの心を見ていたのです。またこの間、息子のイサクもジタバタと暴れるわけでなく、父に従いました。ここに、神にあって和をなす家族の姿があるでしょう。今は旧約の時代ではありませんので、このような命令が下ることはありませんが、神様はやはり私たちの心を見ておられるのだと思います。
 子供は父親、そして母親を大切にし、親は子を、家族を大事に思う、これは何より大切にしなくてはならないことです。そしてそれと同時に、神様がその家族の中心にいるということ、キリストの十字架と復活が家族の土台であること、これが最も重要なことなのです。この幸いな父の日に、一人子を与えてくださったお方を、家族みんなであがめる日でありますように。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行




2007年06月10日(日) 聖日礼拝

「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――」 ヨハネ2:9

 「仕える者の喜び」

先週から、ヨハネによる福音書よりメッセージを語っています。ヨハネ独特の視点と記述があるということは先週お話しした通りですが、これもそのうちの一つです。この婚礼の記事は、ヨハネ独自の記述であって、イエス様の公生涯の最初の奇蹟として重要なものです。
 カナという場所で婚礼があり、用意していたぶどう酒が切れてしまうというハプニングが起こりました。そこでマリアは、息子イエスに相談します。イエス様は、公生涯の幕開けを宣言するがごとくに、大いなる奇蹟をなされました。それが、水をぶどう酒に変えるという奇蹟でした。そのぶどう酒は、最初に用紙されていたものよりも上等なものでした。
 私たちの人生にも、ピンチが訪れます。しかしそのピンチは、チャンスへと変えられるのです。その秘訣は、母マリアと、この場にいた手伝いのしもべたちに見ることが出来ます。彼らは、イエス様を信じ、その指示通りに動きました。マリアはイエス様を神と認め、手伝いの者たちに、イエス様の指示に従うようにと言います。そして言われたしもべたちは、その通りに水を汲み、その結果、彼らは素晴らしい奇蹟を目の当たりにしたのでした。私たちの人生の現実は、ピンチの連続かも知れません。しかしイエス様を仰ぐ者は、それがチャンスへと、勝利へと変えられることを目の当たりにする、そんな祝福に与ることが出来るのです。しかも、その祝福は、かつて与えられたものよりも大きなものです。最後に出たぶどう酒は、最初のものよりも上等なものでした。そうです、救いの恵みは、永遠の国という最高の祝福となって将来与えられるのです。
 今日の礼拝では、七郎兄と知世姉、そしてお嬢さんの奈々姉の送別の祈りをすることになりました。この教会で家族で信仰を持ち、主にある交わりを続けたご家族を送り出すことは、なんともさびしい思いです。しかし彼らに対しては、お別れではなく、送り出すという気持ちです。なぜなら、彼らは良き教会の働き手でありました。七郎兄は、音響やホームページやJCTVといった、見えないカゲの奉仕で教会を支えて続けてくださいました。また知世姉は、平日に教会に来て、印刷や様々な事務仕事を引き受けてくださいました。それらは全て見えない奉仕です。しかし水を汲み続けた彼らしか知らない主の祝福があるのです。
 イエス様の手に握られてこそ、この人生は本当の意味で祝福へと変えられます。私たちはそれぞれ、水を汲む良きしもべとなろうではありませんか。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行




2007年06月03日(日) 聖日礼拝

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 ヨハネ1:3

 今週から、ヨハネの福音書からメッセージを連続で語っていきたいと考えています。ヨハネによる本書は、マタイとマルコとルカは、著作年代も違いますが、視点もかなり違うと言われます。既に書かれていたであろう三つの福音書の存在を知りつつも、更に書く必要を覚え、また聖霊の導きの中で、ヨハネは本書を記したわけですね。そのことを念頭に置きつつ、ヨハネの福音書を開いて参りましょう。
 ヨハネの一章を読んでみてすぐに、「他の福音書とは違うな」と気付いた方も多いでしょう。他の福音書は、イエス様の誕生や公生涯のスタートを、行動的に描いています。しかしヨハネは、ある意味で詩的な雰囲気をもって、本書を書き出しています。他の福音書は50〜60年代に書かれたと言われていますが、本書は90年代とも言われます。つまりヨハネが福音書を記した頃は、他の三人の時代とは違い、イエス様の語った言葉が成就したり、後になって理解できたりしたことがあったわけですね。そんな視点で見てみると、今日の聖句も深い意味を持っているような感じがします。そう、教会が形成されていったこの時代の中で、三位一体の神様をより強く自覚していく、そんな流れが感じ取れるように思えます。父なる神様は、初めから存在されたお方でした。そして御子イエス様も、聖霊もまた、最初から存在した、三位一体の神でした。そしてその三位一体の神様によって、天地は創造され、人は創られたのです。ヨハネはズバリそれを私たちに語りかけています。
 人は猿から進化した・・・と、多くの日本人は信じています。私の子供はアメリカで教育を受けていますので、そのような進化論も学びますが、神様を認めた教育も同時に受けることがあります。実際、二人の娘の担任の先生は、それぞれクリスチャンです(しかも次女の担任は宣教師の娘)。そういう視点で教育を受けれるということは、私にとってはありがたい限りです。だからといって、私は進化論を前面否定しているわけではありません。これはクリスチャンや牧師といっても、立場は様々です。進化論を完全否定する人、神様の創造の業の中にも、御旨のうちに進化は行われたと考える人など、色々な考え方があります。ここでそれを論議するつもりはありません。つまり私が言いたいことは、人間は偶然に出来たのではなく、神様に愛される者として創造された、ということです。
 かなり昔になりますが、こういう話を聞きました。ある人が、ある牧師に相談に来たそうです。「誰からも愛されていない」と言い張る彼女の手首には、いくつものカッターで切った痕が生々しくありました。だから彼女は、自分を愛する人を探し、次々と男性を関係を結ぶのですが、結局はかない愛しか作ることが出来ず、それはあっという間にこわれていきました。またカッターで手首を切る行為は、自殺したいのではなく、自分が生きている唯一の証が流れ出る血であるため、それを確かめるために手首を切る行為を繰り返したということなのです。しかし彼女はそこで、キリストの愛を知りました。自分がここにあるのは偶然じゃない、神様に愛され、創られ、存在しているということを知ったのです。それから彼女の生き方は変わり、高校を無事に卒業し、明るい人生を送っているそうです。
 人は偶然に出来たと思うから、自分の人生に確信が持てません。だから生きている目的が分からず、空しさが心を支配します。でも、信じてください。神様はあなたを愛し、あなたを創り、永遠の命を与えるために命を投げ出したということを。十字架と復活の主は今も生きて、あなたに愛を注いでいます。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行



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