日記
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2006年11月30日(木) 20年後の後悔

「ハンカチ王子と老エース」のあとがきに、

“今から10年後、20年後、何かに憑かれたように挑み続けたこの17〜18才の
 1年間を斎藤君がどうふりかえるのか、ぜひ聞いてみたい”

という、作者の言葉があります。

正直、私は将来の斎藤君が今をふりかえってどう思うか、というようなことは
それほど興味はありません。
聞きたいと思うのは、あくまで、今この時点の斎藤君の気持ちです。
もちろん、今は云えなくとも、時効を迎えて話せる話、というのはあるかも
知れず、それまで語られなかったエピソードなどが聞ければ嬉しいですが。


ただ、これから斎藤君がどういう野球人生を歩むのであれ、この1年について、
“後悔している”という言葉だけは聞きたくないと思います。

将来の活躍をを期待されながら、甲子園での連投で肩を壊し、その後の
野球生命を断たれたある投手がこんなようなことを云っていました。

“あの時は、今投げられれば、この後の野球人生がどうなろうとかまわないと
 本気で思っていた。
 でも今、実際に草野球すらできない身体になってやはり後悔している。
 あの時投げなければ良かったと”

そんな風にこの1年間を否定する言葉だけは聞きたくないです。
上記の彼にも、“野球ができなくなってしまったことは悲しい。でもあの時、
せいいっぱい投げたことは後悔していない”と云って欲しかったです。

優勝した後、早実の船橋君は云いました。

「もう一度生まれ変わっても、この仲間たちと同じ3年間を送りたい」


20年後、メンバーの口から同じ言葉を聞けたらきっと泣きます(笑)





ちなみに今日は仕事休みました。
何のかんの云って、昨日と同じ苦しみを味わう勇気はありませんでした(苦笑)





2006年11月29日(水) 再び発熱…

ウチの職場というのは、当然のごとくありとあらゆるウイルスやらマイコ
プラズマやらが飛び交っているわけで、ちょっと免疫力が落ちるとてきめん
です。

…にしても先週の今週、もらいすぎです(笑)
月曜・火曜と同僚が体調くずして休んでいたので疲れがたまったらしいです
が。
今日の仕事はマジでつらかった。
看護師になってから一番というくらいつらかったです(苦笑)
もう動けないから帰して下さいと何度も云おうとしたのですが、次から
次へと検診や処置が回ってくるので、とうとう云い出せないで終わって
しまいました。
“北朝鮮の収容所の人のつらさはこんなものじゃないはず”と自分に
云い聞かせて耐えました(いや次元が違うし)(笑)
そしてふだん失敗したことのない人の点滴を失敗しました(笑えない…)
明日は絶対休もうと思っていましたが、帰って薬を飲んでひと眠りしたら
少し楽になったので、今夜ゆっくり休めば行けるかな。ダメかな。

同僚が2日休んだばかりで、こちらがまた休めば、看護婦はなまけてばかり
…とは云われなくとも絶対嫌な顔されると思うと、こんな時でも休みたいと
云えない自分。
意地っぱりというかチキンというか(笑)



関係ありませんが、スキマスイッチが紅白に出るそうですね。
楽しみ。
曲は何だろう。
ありえなさそうですが「奏〜かなで」だったら嬉しい。
この歌かけながら“ハンカチ王子と老エース”読むとボロ泣きしてしまいます。
せめて「スフィアの羽根」なら……ってムリか。紅白はNHKだし(笑)



2006年11月25日(土) 運命という言葉

いつかもちらっと触れましたが、私は運命という言葉が好きではありません。

というか、自分の手の届かないところで、超越した何かによって、自分に
関わるものがすでに定められている、というような考えは、私にとって、
とても不快なものです。
世の中のすべての事象は、偶然と必然と、時にそれらに明快な意志と選択が
加わって生じるものだと、今も思っています。

ただ、単なる偶然のつみかさねというには、あまりにも劇的なめぐり合わせや
結末が存在した時、それを目の当たりにした人々の感動が、
その“奇跡”が“偶然”の一言で片付けられてしまうのを惜しむ人々の思い
それ自体が、「運命」という言葉を生みだすのでしょう。


もちろん、自分が運命という言葉が好きでないといって、そうでない人を
否定するつもりは毛頭ありません。
斎藤君も、その、そうでない人のひとりです。
斎藤君という人は、繊細そうな見かけによらず、非常に合理的に物事を
とらえるタイプだと思っていたので、彼がしばしば“運命”“宿命”という
言葉を使うのに、最初は違和感がありました。

しかし、彼の若さで、わずか1年たらずの短い間に、これほどドラマチックな
数々の経験をすれば、自然とそういう言葉が出てくると思います。

斎藤君のすごいところは、運命という言葉のもつロマンシズムにひたるので
はなく、それを自身の精神的な力としてしまうところです。

『ハンカチ王子と老エース』の中で、75年前に早実が中京商業に3連覇の
最初の一歩となる一勝を許し、その後史上2度目の3連覇を、最後の最後で
阻止できるかどうかが、早実の後輩である自分達の勝利にかかっている、と
いう因縁を知った時、斎藤君は迷うことなく

「それなら勝てる。自分達がここにいるのもそういう運命なんだ」

と思ったそうです。


私が、自分自身に運命という言葉を使う気にならないのは、ただ、自分の
人生があまりにも平坦で何事もないので、単にそういう言葉を使う必要が
無いだけかも知れません(苦笑)




2006年11月21日(火) ウイルス性胃腸炎?

…か、食中毒かは判りませんが。
週末、家族で会津へ旅行に行って帰ってきたその夜にいきなり発症して
えらい目に遭いました(苦笑)

帰りの電車の中ですでにムカムカしていて何だろうと思っていたのですが。
何とか我慢して、家に帰りつくと同時に戻すわ下すわ。
(うう汚い話でスミマセン)
ほんと、部屋にたどりつくまでよく我慢できたと自分をほめてあげたい(笑)
あの時なら、前処置なしで上下どっちの内視鏡もすぐできたと思うくらい
お腹の中がキレイになったと思います(笑)
(重ね重ねスミマセン…)

夜中の3時くらいからやっと、水を飲んでも吐かなくなって眠れました。
が、夜は37℃台だった熱が翌日の仕事中には38℃台に。

さすがに食事がまったくとれず薬も飲めない状態で8℃の熱で仕事するのは
つらいので、やむなく昼休みに点滴してもらいました。
点滴とか注射って、効き目は強いし、早いけど、その分切れるのも早いん
ですよね…

いったん楽になったんですが、17時すぎくらいには熱も38.3℃に逆戻り…
その後は熱測る気にもならなかった。
19時すぎの終わりまでがつらかったです。

こっちの仕事が終わったあとに、事務さんから仕事を手伝えと云われたん
ですが、さすがに「今日は帰らせて下さい」と云って帰ってきました。

ほんとは、こういう時に最後まで周囲に不調をさとらせず平然と仕事をやり
通せる人が理想なんですが、自分の根性では一生ムリそうです…。

あの炎天下の甲子園で苦痛や疲労をいっさい顔に出さずにすべての試合を投げ
きった斎藤君はやっぱりすごいなあ。
田中君の方は、今でこそ当時のつらかった話をいろいろと語ってくれていますが、
斎藤君は例によってほとんどそういうことは話さないようです。
延長15回の決勝で、延長に入った段階で「腕がちぎれそう」とポツリと
つぶやいたという話、「老エース」にて初めて明かされた“15回が終了した
あと、右手の握力がほとんど失われていた”というエピソードのみが現時点で
伝わっています。
…そんな状態で147kmの球を投げたのか、君という人は。(涙)
「気持ちで投げてた」って云ってたのはほんとにそのまんまだったんだね
(涙)



…ええと、話がそれまくりましたが(汗)、斎藤君の素晴らしさはさておき、
今はもう、ふつうに食事もできるし、熱も1日で下がったんですが、何だった
んだろうか??
とにかく今ウイルス性胃腸炎がものすごい勢いで流行ってるので、仕事中に
もらったとしても全然おかしくないんですが、自分的には旅行帰り、会津田島
の駅で買って食べた海老フライ弁当がかなり怪しい気もします。


ともあれ、一昼夜の苦しみの代償として体重が1kg減りました(苦笑)






2006年11月20日(月) 南会津に行ってきました

突然、妹の旦那さんもふくめた家族で旅行しようという話になったのは
先月でしたか。

行き先その他は私にまかせるということになったため、極めて個人的な希望に
より、南会津の湯野上温泉に決定。

紅葉もとっくに終わってるかなと思っていたのですが、けっこう残っていて
ラッキーでした。

駅から塔のへつりへ向かう途中の雑木林。
下が一面の落ち葉をしきつめたようで、晩秋のふんいき満点です。

わざわざ道をそれて、落ち葉の上を歩き回ってきました(笑)

陽ざしに透ける黄葉。
秋っぽい透明感と寂寥感があってイイです。



塔のへつり。

いちど行ってみたいと前々から思ってたので行けて嬉しかったです。
川の水がすごく深い緑で透きとおってて美しい。
吊り橋は思いっきりゆれました(笑)
向こう岸の洞窟までの川沿いの道(?)が柵も何も無くて、ちょっとかたむいてて
またコワイ(笑)


大内宿、本陣。

その昔の宿場町の姿をほぼそのまま残していることで有名な大内宿の、本陣に
使われていた建物だそうです。
幕末、容保公もここに泊まって京都-会津若松を往復したのかな?


本陣内部。

格子から射しこむ光がキレイでした。
ガラス窓とか電気のない昔の家の中はこんな感じだったんだろうな。


同じく本陣内部の囲炉裏。




関東の紫式部は、まだ葉も残ってて実も真っ白でしたが、さすがに奥会津。
すでに実はすっかり紫に染まっていました。




2006年11月14日(火) 『輝ける高校球児』……。

タイトルだけでも十二分に恥ずかしいのに、

“ハンカチ王子 佑ちゃんのときめきショット集”
“特別付録・斎藤佑気樹くん特大ポスター&2007年カレンダー”

等のあおり文句。
とどめに表紙は、優勝後の、泣くのをこらえ、今にもこぼれ落ちそうな涙を
いっぱいにためた斎藤君のどアップ。

私ならずとも、書店でこれを手に取り、購入するのにはかなりの勇気が要る
と思われます。


早々にあきらめ、ネット購入を試みましたが、なぜかどこをあたっても
扱っておらず。
ネットオークションに出るのを待って(出品されるのは確実だし)…とまで
考えましたが、結局、勇気を奮い起こして書店での購入を決意(苦笑)

ちょうど周囲に人もおらず、レジのお姉さんが、イベントでよく見かけそうな、
メガネをかけた大人しそうな人だったので、たまたま見かけた乃南アサの新刊と
共にせいぜい堂々と買ってきました(苦笑)

表紙が斎藤君だと、どうして買うのにこうも勇気が要るんだろう(笑)
これが田中君だったら何も気にせず普通に買えるのにな(笑)

でも優勝後のスポーツ紙一面とか、見たことのない写真もけっこうあって
思いきって購入して良かった(笑)


嬉しかったのはこの一枚

優勝後の歓喜の輪の中で、キャッチャーの白川君を、笑顔でだきしめる
斎藤君。

去年秋の神宮大会で、斎藤君の変化球に対応しきれず後逸をくり返し、斎藤君
との関係は口も聞いてもらえないほど悪化。
冬の間、全体練習が終わったあとの夜遅くまで、ひとりあざだらけになりながら
マシン相手に捕球練習を積んできた白川君。
斎藤君がやっと口を聞いてくれるようになったのは年も明け、2月になって
からでした。

真冬の寒さの中、来る日も来る日も痛みに耐えながらの、先の見えない
孤独な練習はほんとにつらかったと思います。

あの冬の日の白川君に、夏、これ以上ない最高の舞台で、こんな最高の結末が
君を待っているんだよ、と教えてあげたい(笑)

ちょうど白川君が背をむけて抱きしめられているショットなので、白川君の
表情は見えませんが、きっと斎藤君に負けないくらいの、とびきりの笑顔なん
だろうな。
今さらですが、白川君、本当におめでとう。



2006年11月12日(日) 不祥事という名の…

あー………という感じ。
正直、言葉が見つかりません。

駒大苫小牧の、甲子園ベンチ入りメンバーを含む3年生野球部員の喫煙。
この1年で3度目の不祥事。
あーもうどうしてなんだろ。

今の3年生部員と云えば。
先輩の飲酒事件による2度目の不祥事で、春の選抜出場辞退・監督の一時辞任
というつらい出来事を、身をもって味わっているハズ。

選抜辞退に追い込まれたあの不祥事のとき、

「泣きながら土下座して謝る先輩たちを、それ以上責めることはどうしても
 できなかった」

という部員たちが、どうして今になってこんなことを??(泣)

「自分達がこれほどつらい思いをしてきたのに、後輩にまた同じ思いを
 させるのか」

という父兄の方の怒りの言葉ももっともです。

このくらいみんなやってる、このくらいバレやしない、そんな心理があった
ことは容易に想像できますが。

でもやっぱり、甲子園準優勝校、高校野球の名門中の名門校としての自覚を
忘れて欲しくなかったなあ…

魔がさした、というのかな…。

斎藤君が、夏の甲子園前のインタビューで“甲子園に魔物はいると思うか?”と
聞かれ、平然と答えていました。

「いないと思います。居るとしたら(その人の)心の中じゃないですか?
 自分のなかには魔物は居ません」


ほんとに、人を負の方向に引き寄せる“魔”というものは、心の中に居る
んだなと思う……。


昨日、「早実VS駒大苫小牧」の中で、これまでの2度の不祥事で、香田監督や
部員たちがどれほど辛酸をなめてきたか、読んだばかりなだけにこっちもつらい。
特に香田監督…

田中君や本間君も。

今ごろつらい思いしてるだろうなあ…
あんな苦しい思いして、それでも必死に頑張ってきて、つらいこともたくさん
あったけど、最後は笑顔で終われてよかったねと思ってたのに。
どうして又、今になってこんな思いしなきゃならないのかなあ

今回は先輩というんじゃなくて、その苦しい時期を一緒に乗りこえて甲子園
に行った仲間だから、よけいやりきれないんじゃないかと。


せめて重い処分になりませんように。


2006年11月08日(水) 神様? 運命?

2005年、秋の明治神宮大会の、早実VS駒大苫小牧の一戦。

おととい、初めて見ましたが、田中君の方は、この時点では斎藤君など、
眼中にないという印象ですね。
同世代の投手の中で、ただひとりの傑出した存在として注目されていた彼。
たぶん、この時の田中君は…いや田中君に限らず周囲のすべてがこれからも
それは変わらないと思っていたでしょう。

斎藤くんのことを聞かれるたびに、

“自分が一番だと思っているわけではないが、同世代のピッチャーには負けたくない”

とくり返していた田中君。

高校野球生活、最後の最後で、斎藤君がこれほど大きな存在としてたちふさがる
ことになろうとは、この当時、思ってもみなかったと思います。

甲子園以降の一時期、一部のマスコミなどによる、あたかも斎藤君につぐ
NO.2ピッチャーのような扱い(もちろん、田中君本来の実力への評価は揺るがない
とは云え)が、それまで世代唯一無二の強さを誇っていた田中君の矜持を傷つけて
いたことは想像にかたくありません。

そういったものを顔に出すことなく、マスコミの注視の中で、優勝投手としての
斎藤君を立て続けた田中君は、斎藤君とは違う意味で、恐ろしく強い精神力と
自制心の持ち主だと思います。
17歳ですよ?
まだまだ、大人にわがままを云って甘えて、感情のままに不機嫌な顔をして、
そんなことが笑って許される年なのに。


夏の甲子園・決勝再試合。
9回2アウト・ランナー無し。1点差。

バッターは田中。
運命というか因縁と云うか単なる偶然というかは、その人次第だと思いますが。
(田中君は「野球の神様ってやっぱりいるんだ」斎藤君は「こういう運命なんだ」
と思ったそうです)

バッターボックスに入る際、田中君は一瞬、小さな笑みを浮かべました。

誤解を恐れずに云えば、田中君はたぶん、この最後の打席に入ったとき、
この試合に負けるということ、自分が最後の打者になるということを、何に
よってかは知らず、“知って”いたと思います。
本人が意識していたかどうかはわかりませんが。

あきらめていたとは云いません。
あの時、斎藤君に対峙した田中君は、全身から凄まじい闘志をみなぎらせて
いました。
でも、その闘志は半分、斎藤君というより、運命そのものへむけられたもの
だったような気がします。

勝つために、少なくとも同点にもちこむためには、絶対に、三振だけは許され
なかった場面。
あの三振かホームランかふたつにひとつ、と云わんばかりの大振りのスイングは、
なりもふりもかまわず、何としても石にかじりついてでも、勝つ、という
スイングではなかったように思います。
「見送りで終わるのだけはしたくなかった。思いきり振れたので悔いはない」
と後に語った田中君。

斎藤君の、最後の渾身の一球にバットが空を切った、一瞬。

追いつめられながら、必死の闘志をみなぎらせていた田中君の表情が、ふっと
空白になりました。

ある田中君のファンの方は、呆然としながらも“ああ、でもこれでこの子らは
もう勝ち続けなくてもいいんだ…”と思ったそうです。

田中君の代になってから、公式戦で一度も敗戦を知らずに来た駒大苫小牧。
不敗の王者として、73年ぶりの3連覇のかかった夏の甲子園・決勝戦。

それは、単に“終わった”というだけでなく、“勝つ”ことしか許されなかった
田中君が、長い間、縛られ続けた全てのプレッシャーから解放された一瞬で
あったかも知れないですね。

敗れてもういちど笑みを浮かべた田中君の、その静かな微笑の中に、満足と
共に、かすかな安堵が見えたと思ったのは。

気のせい…でしょうか、やっぱり…(苦笑)





2006年11月07日(火) 今年の注射は痛い?

インフルエンザワクチン。

接種が始まってもしばらくは何も云われなかったので、今年は打たなくて
すむかなと期待しかかっていたら、昨日、ちょっと患者さんが途切れたスキに、
スタッフ全員、有無を云わさず注射されました(涙)

去年はそんなに痛いと思わなかったのですが、今年のワクチンは液が入る
時、なぜかやたらと痛かった。
まあ、インフルエンザにかかるよりはマシとしましょう。
(あの身の置き場のない関節痛は地獄だからなあ…)


関係ありませんがが、国体開会式の時の斎藤君
両手を頭の後ろで組み、ちょっとあごをひき気味にして周囲を見渡してる
映像のひとコマ。
ひなたぼっこしながらのびをする猫みたいに、気持ち良さそうに見えました(笑)
瞳がキラキラ……(笑)




2006年11月06日(月) 見た………

見ました。
去年秋の明治神宮野球大会。
萌えつき……もとい、燃え尽きました。バタリ。
ありがとうスカイA(笑)。

この試合から1年もたたないうちに、あの劇的な甲子園の決勝があったん
だなあと思うと…
リュークではありませんが、何と云うか、こう、感無量です(笑)

斎藤君も田中君もみんな夏の甲子園の時よりずっと幼い感じで初々しい。

田中君、この1年たらずでずいぶん背がのびたんですね。
斎藤君は、夏より線が細くて目が大きくて、本当に美少年という感じ。
夏の甲子園関係の雑誌でも“紅顔の美少年”という形容を使っているのが
ありましたけど、夏は少年というより青年という感じになってたと思います。

この年頃の男の子って、ほんと1年たらずでこんなに大人になっちゃうん
ですね。

彼らの場合、その外見よりも中身のほうがはるかに成長している、ということ
がすごいと思いますけど…

この神宮の時の斎藤君には、あの甲子園での凄みや迫力、ひとことで云えば
オーラのようなものは、まだほとんど感じられません。
同じ、クールそのもののポーカーフェイスなのに何でだろう(笑)
同じようにマウンドに立ってるのに、カメラ越しの存在感がまるで違う。
たったの9ヶ月でこの成長…

それに、この神宮大会の時では、主役は駒大苫小牧、田中君であって、斎藤君が
完全に脇役なのも面白いというか新鮮です。
私が斎藤君のファンになったのは、まさにこの甲子園決勝からで、常に主役と
しての彼しか見たことがなかったので。

確か本間君が斎藤君とメル友になったのは、この神宮大会の時でした。
直に対戦した本間君は、この時の斎藤君に何か感じるものがあったので
しょうか?

田中君の方は、この時点では斎藤君など、まったく眼中にないという印象
ですね。
インタビューとか全部聞けたわけじゃないと思うので判らないけど。


白川君の後逸も、そんな致命的ミスにもみえなかったような…
斎藤君が打たれたのも7回の一回だけだったし。
解説者が「強気のストレート勝負ですね」とか云ってたけど、あの辺が
白川君の後逸のせいで低い変化球が投げられず打たれた、というシーン
なのかな。

打線も田中君を全く打てなかったというわけでもなく、2巡目からはそれなり
にあてていってた感じ。
(3塁を踏めなかったとか、もっと全然歯が立たなかったのかと思ってました)
田中君から最初にヒットを打ったのも斎藤君でした。
国体の時も、絶好調の田中君からチーム初ヒット打ったのも斎藤君だったよなあ…
田中君、それ覚えてたのかな??


この試合を最後に、斎藤君は白川君に

「前のキャッチャーはもっと練習してちゃんと捕ってくれたよ」

と云ったきり、4ヶ月口きかなかったんですよね(笑)
それほどムッとしてるようにも見えなかったですけど、そこはポーカーフェイス
なんでしょうか(笑)


ともあれ、想像していたような一方的な試合じゃなくて、両者とも頑張って
いた、いい試合で良かったです。




2006年11月05日(日) スカイA

もうずいぶん前から、CSのスカイAで今夏の甲子園の再放送などをやっている
ことは知っていたのですが。

さすがにそこまでは…と加入をためらっておりました(笑)
今の自分的高校野球ブームもいつまで続くか判らなかったですし。
云いたいことを云い尽くせば満足して終わるかなとも思っていましたし。

しかし、ここに至って未だに抜けだせる気配すらカケラもなく。
更に12月の放送予定の豪華さに、とうとう観念して加入手続きしちゃいました
(苦笑)

もともとこのマンションはBS・CSがそのまま見れるみたいなのが売りだった
ので、工事とかは無しでネットで申込んだら次の日には見られるようになって
いました。
…文明の進化って素晴らしい…(意味不明)

ビデオの方はデジタル対応でないので、どうしたら録画できるのか判らず
???でしたが、今日コード買ってきて何とか接続。

嬉しい〜vvv
これで、今まで見のがしてた試合めっちゃ見れる〜vv(涙)
(そしてますます睡眠時間と料理&掃除etcが疎かになる…)


もうホント、過去に戻れるものなら西東京大会決勝からの早実の全試合を
録画し直したいと思ってたので嬉しいです(笑)

一番見たいのは、大坂桐蔭戦の中田君との勝負かな。
この怪物とさわがれていた2年生に対し、斎藤・白川のバッテリーはホント
容赦なかったそうで。
第一打席では自信たっぷり、余裕の笑みを浮かべていた中田君が、最後の
打席ではほとんど泣きそうだったとか…

早実ファンでさえ、“もういいよ許してあげなよ”と見ていて思ったそう
です(苦笑)

12月は熱闘甲子園の再放送もしてくれるそうでありがたいです。


まずは明日の、去年の神宮大会の、斎藤君と田中君が初対決の試合。
木曜のアメリカ遠征第3戦ももう一度じっくり見たかったので楽しみです。
(あの試合は斎藤君が打たれたのがつらくて、一度録画した映像、全部消し
ちゃったんで)(苦笑)




2006年11月03日(金) 甲子園で背負うもの

夏の予選決勝、大接戦の末に早稲田実業に敗れた日大三高のある選手は
未だにそのショックから立ち直ることができず、夏以降、早稲田実業の
試合は一試合も見ていない、という話を聞きました。

初出場校だろうと無名校だろうと、甲子園に出場するというだけで
選手たちはさまざまなものをその肩に背負うことになります。

地区予選で敗退していった選手たちの無念。
学校やOB、各関係者、地域や家族・友人たちの過剰な期待と応援。
同じ厳しい練習に耐えてきて試合に出場できない控え選手たちの悔しさと
友情。

ましてや早稲田実業のような100年という途方もない歴史を誇る伝統校や
今夏の駒大苫小牧のように三連覇という偉大な記録がかかっていれば尚更です。


伝統、と云えば「ハンカチ王子と老エース」という、近く発売になる本の
紹介文にこんな記述がありました。

今から75年前の甲子園。
早稲田実業が中京商業に敗れ、それが中京商業の、翌年・翌々年と続く夏の
甲子園三連覇の、最初の一勝となりました。

それから73年という時を経て、平成18年の今年、夏の甲子園三連覇という
大記録に挑むチームがまたあらわれました。
駒大苫小牧。
その前に立ちはだかったのが、奇しくも75年の昔、相手に三連覇という快挙の、
第一歩となる1勝を許してしまった早稲田実業でした。

そして迎えた早実優勝の瞬間。
75年前に先輩たちが果たせなかった、対戦相手の三連覇阻止を見事なしとげ
ての優勝でした。
今年92歳になる、75年前に敗戦投手となった早実の元エースは、この結末を
自分の目で見届けていた、という内容です。

斎藤君はこの因縁を知った上で、決勝のマウンドに立ったそうです。

斎藤君ら、わずか18歳の高校生の肩にかかっていた、伝統、という言葉
そのものの重みを、実感させられるエピソードでした。


斎藤君という人は、どんな時でも、何があろうと言い訳になるような言葉、
自分の苦しさつらさを絶対に口にしない人です。

夏の地区予選の延長で200球以上を投げ抜いた時は試合後、腕が曲がらない
状態でした。
延長を含む4連投となった甲子園では、すべてが終わった時、すでに腕の
感覚が無かったそうです。

いずれも本人が直接云ったものではなく、ネット上の(新聞の)記事による
リークのような形で明かされました。

アメリカで打たれた時も、彼は当初のインタビューで一度だけ「疲れとかも
あったかもしれないんですけど」と口にしましたが、後日の取材では「体調は
万全だった」ときっぱりと云いきりました。
国体の時も、誰の目にも練習不足による不調は明らかでしたが、本人は
調子は良いと云いはり、もう一度優勝して自分達の強さを証明するとまで
云いました。

万事、こんな調子なので、彼が感じていたプレッシャーの大きさを、私たちが
知ることは永遠にないかもしれません(苦笑)。


決勝再試合の前日。

ある早実の後輩野球部員は絶叫するように云ったそうです。

「僕らには斎藤さんしか居ない。
 斎藤さんが投げてくれるなら、たとえどんな結果に終わろうと本望です」


斎藤君に託された、後輩たちのこの信仰にも近い絶対的な信頼。
ひとりで受けとめるには、重かったろうなとも思います。


今まで自分の前に敗れ去った無数の球児たちの思い。
悲願の初優勝にかけられた、102年という早実野球部の歴史と同じぶんだけ
つみかさねられたOBたちの思い。
その瞬間を夢見ながら、ついにみずから目にすることなく逝った先輩達、師、
そのひとりひとりの無念。
家族の思い、仲間たちの思い、仲間への思い。

甲子園という舞台で、彼はどれだけのものを背負って投げてきたのか。
彼が語らない限り、私たちに知る術はないわけですが。


しかし同時に、あの日、斎藤君の限界を超えた右腕を支えたのは、あるいは
彼が背負った無数の思いそのものだったのかも知れないと思います。






なつき