はぐれ雲日記
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2005年08月31日(水) ヨサコイソーラン祭りで

日曜は友人の四十九日で 浅草のお寺から青山墓地へ納骨、
お清めは原宿の南国酒家。(20年来の友人であり、同業者でもありました。)
原宿の駅前はヨサコイソーラン祭りで一万人以上の賑わい。
交通規制で車がニッチモサッチモ動かず参りました。

去年は練習していたのにこうして祭りの横をされこうべもなく通るとは。
いのちってはかないねえ。
夏の日差しもはかないねえ・・・・


2005年08月26日(金) 漱石と落語

きのう、真夜中深夜になにやらムナサワギがしてので起き20060826てテレビをつけたら
なんと千駄木〜本郷の町並みがでてきて柳家花禄と知らない年配の男性が対談していた。
この男性はどうやら漱石のお孫さんをお嫁さんにもらったらしい。けんど
名前は知らない。大学の先生か作家のようだ。途中から理解できたが、テーマは「漱石と落語」 漱石は寄席好きで「小さんは天才である」と言っていたので、ゆかりの若手落語家の花禄が出演したもよう。メリハリのある話し方と知的好奇心に満ちた瞳。上品なのに滑稽な顔立ちはわたしは好きだなあ。
でもライブとか寄席で観た感じでは・・・落語は・・・・いまひとつなので・・もう少し
きく姫さんに何とか育ててもらいたいけど。アハっ。これは大きなお世話かと。
ところで「我輩は猫である」は漱石が鬱のためにリハビリとして書き始めたとのことだった。これは初耳でしたがどう読んでも躁状態としか感じられない文章だがそんなものか。
とりわけ、なかでも花禄さんが「猫」は落語そのものでこの部分は特に好きなところ・・・
と朗読された部分は真夜中なのにひそひそ笑ってしまった。

「我輩」が三味線のお師匠さんの飼い猫の三毛子ちゃんと会話するシーン

以下青空文庫「我輩は猫である」より引用。ふぅ。
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……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間(ま)が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院(てんしょういん)様の御祐筆(ごゆうひつ)の妹の御嫁に行った先(さ)きの御(お)っかさんの甥(おい)の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入(い)った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰(つま)るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先(さ)っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言(うそ)を吐(つ)かねばならぬ事がある。

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そのあとの対談は寝てしまったので覚えていなひ。
台東区根岸の友人。落語と野球好きの正岡子規の家が出てきたと思う。


2005年08月19日(金) 花の街

戦時下に東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載。
井伏鱒二が1942年にシンガポールにおいて徴用作家の
時代に風刺的な箇所も交えながら書いた体験本らしい。
「花の街」では見つけられなかったので。題名が変わったのかな。

甘粕が青酸カリ自殺したときに机の上にあった本だったそうだ。
敗戦記念日の前にどうしても読みたかったのに間に合わないかも・・・。

井伏さんはよく「塹壕の中のことは語るべきでない」と複数箇所の本に書き、
黙したまま亡くなったから作家といえども書けない。
書いてはならないこともあるのだろう。


2005年08月14日(日) 慶応大学 塚本太郎命 二十一歳。

回天(人間魚雷)を志願してフィリピン沖で散華した塚本太郎大尉(慶応大生)は
レコードに吹き込んだ肉声で語りかける。

「幼い頃みんなで陽が暮れるまで遊んで、あの崖の下で転んで泣いたのは誰でしょうね。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって。然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に,日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。」さらに

「年長けし人々よ,我等なき後の守りに,大東亜の建設に,白髪を染め,齢を天に返して
健闘せられよ。又幼き者よ,我等の屍をふみ越え銃剣を閃かして進め。日章旗を翻して
前進せよ。それではみなさんさようなら。元気で征きます!」

遊就館でこの青年の心の葛藤を聴くことができました。
聞き取りメモなのでまったく正確といいうわけには行きませんが。
ご冥福をお祈りいたします。
塚本太郎大尉(以前は少尉だったが今回は広告塔にされて二階級特進か)

九段の坂をダラダラと上がっていくと真っ黒な大鳥居がたたずむ威容。
そこはあたりとはまるで異なる空気が漂い黒く暗く重く沈んだような雰囲気です。
お宮参りや七五三、初詣に行くそこらの神社仏閣などとは全くわけが違う
天皇のための日帝軍国主義の犠牲となり戦って死んだ兵士を祀ってある。
気のせいか参道を通ったとき晴れているのに昼下がりの暖かさはなかった。この感じは
いつか秩父のほうで見た風景、風が渡り見渡す限り全山の水子地蔵が無数に佇み
いっせいに赤い花が廻っていた風景。渺茫とした青空と風があるのかカラカラ回る風車。
花と見えたのは真っ赤な地蔵のかざくるまだったのだ。
こんな寂しい風景をみたのはおそらく生まれてだったろう。あの青はまさに死の色だった。

参道をさらに奥に進むと大きな「菊の御紋」の扉が。重苦しさに思わず立ち竦む。
道路を渡ると「皇族下乗」と大書してあるが皇族はいつ参るのだろうか。

今上天皇が殿下であらせられたときに沖縄のかの地では猛暑に火炎瓶がおとも。
さきのサイパン行幸時では。生存者40余名の天国のコーラスがお出迎え。

海ゆかば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね
 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ (大伴家持)


2005年08月13日(土) 花の街

まったくもってなんて言ったらいんだろー。
あらかーさんの演技にゃ鳥肌もんだったわけよ。
その上、さくさくっと金だもんね。武勇伝。


でぃも、ロシアの王子様プルシェンコは鳥肌どころか戦慄。
あれは人間じゃあない。鬼人だと思ふよ。
コンドルのように飛びピューマのように撥ねる。
花になり月と輝き竜巻を起こし稲妻と光る。どきがムネ。
前回五輪では銀だったがそれをすぐポケットにしまってた。こわひ。

今回もロシアが金芽米を独占するつもりでエキシを仕切っていたけんど
あらかーさんが阻止してくれたのでありがとう。
んんんん〜。でもショーだからもっと楽しませてー。
ロシアはハンガリーの天才バイオリニスト、マートンの生演奏で舞った舞った。
でわ日本も次回のパン喰う場では和楽器で「越天楽」や「元禄花見歌」なぞ。


2005年08月03日(水) 秘密日記


パソで打つのか。紙なんか。いずれにしろ日記は「読者」を想定しないでしょう。

希望。悲嘆。悦び。などのこころもよう。備忘録。見聞録。生活記録。
そんなものを記録するのにまさか神楽坂相馬屋の原稿用紙に書き付ける人はいまい。
紀貫之の「土佐日記」だって、「読者」が必ずしも想定されていたわけではないでしょう。まあそのときの状況は背景はよくわかりませんが。
後世になってからその「文学性」に気がついた学者たちが、これを勝手に古典「文学」に仕立てあげただけだと思います。ひょっとすると、そんなことは貫之にとつては迷惑千万のことだったかもしれません。あれは彼自身が、土佐から京都へのたびの途中で経験したみずからの体験を綴りながら、それをいくつもの和歌に託した私的日記なのだと考えます。以上は「読者」を前提としない文章は自由ということに関連した補足です。自由とは公権力に縛られないという意味。との知人さんのご指摘は生まれて恥めて奇異たことでありなるほどこれは助かった。と感じたわけです。いつもありがと。


ああ。ここはあてくしの秘密基地ですかんね。いまんとこ。


2005年08月02日(火) 書くということ

職業的文筆者はつねに「読者」を意識する。言論の自由といううるわしいことばがあるが、じつは読者という相手があるから、筆者はけっして自由ではない。題材や用語にも注意しなければならないし、他人から抗議をうけそうな表現は遠慮する。わたしじしんも、ウエブページに書くさいはずいぶんそういう苦労をしてきたし、いまでも事情はかわらない。
しかし、「読者」を前提としない文章は、ほんとうに自由でありうる。メディアがとりあげてくれない問題だって自由に書けるし、メディアの悪口を書いても文句はいわれない。世の中で「中傷」とか「差別用語」などとレッテルを貼られそうな表現をつかったっていっこうにかまわない。おおげさにいえば、ものを「書く」という行為は、「読者」を意識したとたんに自由を失い、拘束をうけ、ときには屈辱的にならざるをえない。つまり「発表」などという大それた行為を視野にいれると「言論の自由」の完全な保障はなくなるのだ。皮肉なようだが、虚飾と妥協のない文章は「読者からの自由」のもとにはじめて成立するのである。
もとより人間には欲があるから、書いた作品がしかるべきメディアに発表され、読者をもちたいと夢みるものだ。大手の雑誌、新聞などにじぶんの書いた文章が掲載されればうれしいし、ましてや小説であれ評論であれ、それが単行本になれば自慢もできる。うまくいくといささかの原稿料も手にはいる。だが、その代償になにを失うかは、くわしく書かずとも刷り込み済みであろう。そのことがよくわかるのは、たとえば永井荷風の『断腸亭日乗』(岩波書店)であろう。荷風は『腕くらべ』をはじめとする小説をのこしたが、『日乗』は自由な日記体。かれのばあい、若いころから「発表する日記」という形式に興味をもつていたから、この日記体文学に「読者」を想定していなかったといってはウソになるが、いまなお『日乗』がおもしろいのは、ひとつひとつの文字の背景にそれぞれの時代が自由に描かれ、かれの内面生活が躍動しているからであろう。枚数制限もないし、締め切りもない。わたしが荷風の真髄は『日乗』にあるのではないかとひそかにおもつているのは、このような理由による。


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