My life as a cat
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2012年09月29日(土) パート・ド・ヴェール





















久々のぽっかりと予定のない一日。気候も良いしとふらり、期間中に観ようと思っていた石田家のパート・ド・ヴェールの展覧会を観に出かけた。息をのむような繊細で儚げな美しさにうっとり。しかし、価格も息をのむようなもので、決して自分の物にならないであろう高嶺(高値)の花であった。夫婦と息子、家族でこれに打ち込んでいるというのもまたすごい。

その帰り、先日通りかかって気になったCanal Cafeに行ってみた。文字どおりカナルに面したカフェ。クロワッサンサンドとコーヒーを買った。こういう場所のフードにあまり期待はしていなかったが、意外に悪くない。クロワッサンはパリッとしていてとても美味しかった。カナルの鯉たちはとても成長が良くぷっくり太っている。が、おなかをすかしているのか、皿に残ったクロワッサンのカスを投げたらたちまち集まってきてしまった。鯉たちが口をパクパクあけて泳ぐのを口をぽっかりあけてぼんやりと眺めて過ごす初秋のうららかな休日の午後。なんとも贅沢な気分。このあたりは桜の木が沢山あるからその時期は壮観らしい。半年後、また来よう。

そう決めて良い気分でカフェを出た。そこでわたしを待っていたもの。。。。(つづく)


2012年09月27日(木) Rustique

″世界仰天ニュース″で取り上げられていた桶川の女子大生ストーカー殺人事件。この事件についてよく知らなかったから、殺害されるに至るまでの過程を鳥肌を立てながら見ていたのだが、何よりも上尾警察署の記者会見に目を疑った。テレビの前にいる勤労でせっせと税金を収めている大半の堅実で善良な一般市民はわたしと同じ反応をしたことだろう。すぐにYoutubeにアップされて、沢山のコメントが寄せられていた。人が殺されているというのに結婚報告する芸能人のようにへらへらとだらしなく笑いながら、ジョークまでとばしている。それを笑って受ける記者の声も聞こえるのだ。マヌケな社会人は一日にして成らずだ。警察署の中でぼんやりとふんぞりかえり、お茶を飲み、機械のように書類にハンコを押すだけの細胞具のような日々の積み重ねで培われたのであろう思考能力の低下と感情の麻痺が顕著だった。なんと哀れな姿なのか。政府や警察が機能しないのは途上国だけではない。

夜にリュスティックの生地を仕込んでおいて翌朝焼いた。仕事に出る前のいつもと同じ忙しい朝だろうと、挽きたてのコーヒーと焼きたてのパンの薫りが漂う朝は格別だ。



2012年09月24日(月) エリンギ・チリ

エビチリじゃなくってエリンギ・チリを作ってみた。色んな手間を省いてあってとても簡単。ごはんが進む味。放っておくとぐんぐん食べてしまうね。隣でホンモノのエビを食べている愛猫を見てふと思いつく。エビをエリンギと交換したら食べるだろうか。今度試してみよう。

テレビに夢中になっていたらいいところでピンポーンとチャイムが鳴った。ドア越しに返事をすると生協のセールスだと言う。あぁ、もうなんでこんないいときに!と鬱陶しく思いながらも仕方なくドアを開けたが、
「この家ではあまり物を食べないので」
と適当なことを言って追い返してしまった。

テレビがひとだんらくしてふと思った。あのセールスのお兄さん・・・・。決して悪い人には見えなかった。こんな暗くなってみんな家で楽しく夕飯を食べてる時間にあちこち歩き回って、怪訝な顔をされて、鬱陶しがられて、長々説明した挙句に契約取れなかったりするんだろうな。あんなに適当にあしらわないで
「ごくろうさま」
の一言ぐらいかけてあげればよかった。そうしよう、今度から。


2012年09月23日(日) You are so sweet :)

こんな一日雨が降り続くなんて何日ぶりだろう。恵みの雨だ。朝から家の隅々まで磨き、やっとひとだんらくしたのは午後2時。おなかもすいてきた。ちょっと肌寒いし、暖かい甘いものが食べたくなった。たっぷりバターを塗ったぶ厚いパンを焼いて、メープルシロップもたっぷり塗って、更にアイスクリームを乗せたトースト。血液どろどろになってしまいそうな食べ物だけど、たまにはいいよね。朝からよく動いたし、ね。

昨夜何気なく見ていたテレビ番組に生まれつき両手もない、足も短い奇形のが一本あるだけという若い女の子がでていた。お母さんが彼女が子供の時から毎日懸命にトレーニングをさせたから、自分で服が着られて、一本の足でごはんも食べられて、折り紙も折れる。高校ではチアリーダー部に入部し、卒業した現在は執筆活動や講演会に動き回り、歌手としてうたもうたっている。体全体で表現するということが難しいせいなのか、彼女はとにかく嬉しそうに顔に満面の笑みを浮かべて喜びを表現する。人間の可能性って無限だ。丈夫な手足を授かっても笑って生きられない人もいれば、手足が無くても歌って踊って笑って生きられる人もいるのだ。


2012年09月20日(木) 母の梅干

小倉千加子著「アイドル時代の神話」を読んだ。大いに笑って大いに頷いた「結婚の条件」と比べるといまいち納得しかねる話の多いものだった。中でも鈴木保奈美とエコロジーについての箇所。

要約すると、鈴木保奈美は徹底して自然食しか食べないとかそんな人種は気味が悪いと思っている。自身は深夜のコンビニの常連客でプリンやドリトスを買い込むのが好きだ。エコに対する彼女の意見はこうだ。

「人類の未来が危ないのなら、それは根本的なところから打ち崩さなければ建て直しなんて不可能で、今更自然食にしようが何をしようが滅びるものは滅びるのだ」

しかし根本って何?エコロジーを提唱する人々の中にはその根本が何か解らないから自分の身の周りからというたとえ小さくても無よりはいいという健気な思いの人が多いのではないだろうか。そこまで言って具体的な"根本"も示さないのはずるいのではないか。無であることを正当化して小を見下しているという意地悪な印象を受けてしまった。

そして更に著者の見解だ。

「女性にのみ関して言うならば、日本でエコロジー運動をやっている人の圧倒的多数は主婦である。そしてエコロジー主婦の多くが高学歴である。夫はホワイトカラーでエリート層が多い。つまり日本の高度産業化を推し進めてきた当の近代的知の持ち主の妻が、ほかならぬ近代を非難する役割を演じているのだ。 市民運動は、まず余暇がなければできない。無農薬野菜は、裕福でないと買えない。自然を愛する人たちは、自分たちの生計を支えている夫が自然を否応なく破壊することに加担してくれているからこそ、エコロジーをやれる時間的・経済的自由を保障されているのだ」

ここまでは納得。真実でしょう。

「日本にも消費者運動という主婦の運動はあった。だが、それは下火になってしまった。企業を敵にまわすのは結局夫を敵にまわすことになるからだ。かわって主婦たちは、"自分の身の回りからできること"という敗北者の大義を使うことで、箸箱を持ち歩くようになった。身の回りの汚れを祓うことで罪悪感を晴らすエコロジーは、だから宗教の一種なのである。それが逃避だということは企業で働いている女になら容易にわかる」・・・(鈴木保奈美もそれがわかっているのだという結論に結びつく)

うーん。。。企業で働いてるけど、わかんないねぇ。じゃぁ、夫の働く会社が自然破壊してます。だから自分も思う存分自然破壊しますっていったら一体この地球はどうなるの?そういう行為こそを逃避と呼ぶのではないですか。生きていく上で環境汚染に加担せずにお金を取るという行為は少なくとも日本では、日本人には難しいことでしょう。いきなりソマリアの遊牧民みたいになれといっても無理な話でしょう。"身の回りからできることを"実行する人々を敗北者と呼ぶなら、何事も完璧を目指すあまりに、この世の矛盾にばかり気をとられて何一つ実行しない人々はなんなのだろう。エコロジーに興味を示さない人々を批判などしないけれど、わたしは、大なり小なりエコロジーに取り組んでいる人々を、見下す態度をとる人々を嫌悪する。100できないなら0でいるという人より、100できないけど30ならできるという人々のほうがよほど素晴らしいでしょう?

夜に母が今年作った梅干を持ってきてくれた。なんの変哲もない普通の味のものだが、なにせ手作りで化学調味料や添加物が一切入っていない。今の日本ではフツウに買い物をしていればすぐに化学調味料漬けになってしまう。最近驚いたのはツナ缶のツナにも化学調味料で味付けされているということ。それは結局、化学調味料で味付けしなくてはまずくて食べられないような不味いマグロを使用しているということでしょう。企業はこぞってあの手この手で"一瞬口当たりがよくて美味しく感じるもの"を売り出すことに専念しているけれど、"素朴な味だが安全"をウリにした商品は少ない。それはそのまま消費者の声を反映するものなのか。。。わたしはスナック菓子も食べる。でもだからこそ、食事は安心できるものを食べたい。

母の作った梅干を雑穀のごはんと白ゴマと混ぜておにぎりにして紫蘇で巻いて頬張った。こういう素朴な味がいちばんいいね。


2012年09月17日(月) 全て優先席

北野武が著書の中で、"優先席なんて概念がおかしい。どの席だって全て優先席だよ。年寄りや体の不自由な人に席を譲るなんて当然だろう"というようなことを書いていたが、まったくもって同感だ。

電車で座っていたらピンと背筋は伸びているけれど60歳を超えていることは明白といった見た目の男性が乗ってきたので席を立った。

「ごめんね。ありがとう!」

彼はにっこりして座った。一日歩いてぐったり疲れていたわたしは立って壁によっかかりながらうとうとと目をつぶっていた。と、先ほどの男性が肩を叩いた。

「席が空いたよ」

今度はわたしがお礼を言って座った。彼が電車を降りる間際に近づいてきて言った。

「席をゆずってくれてありがとうね。今まで譲ってもらったことなんて一度もなかったからすごく嬉しかった。こう見えても73歳で最近はひざが弱っちゃって。助かったよ。気をつけて帰ってね」

「あら、若く元気に見えるからなかなか譲ってもらえないのかもしれませんね。どういたしまして」

と返したものの、本当は譲ってもらえない理由はそこじゃないことは明白だ。当たり前のことをしたのにこんなに感謝されてしまう東京の風潮に暗澹たる気持ちになりながらも、一方で自分の些細な言動で見ず知らずの他人を笑顔にしたことが誇らしかった。

そういえば、以前つきあっていたヨーロッパ出身の彼を連れて日本に来たとき、彼は女子高生に席を譲っていた。

「子供と女性とお年寄りには席を譲るのがマナーでしょ?」

ところかまわず、つけまつげと化粧に熱中する女子高生よりも1日8時間しっかり労働してる彼のほうがよほど座るに値するような気もしないでもないが・・・。席を譲ってもらった女子高生は、つけまつげをばさばさと動かしながら、"オモシロイガイジン"とでも言わんばかりに彼をちらちらと盗み見ていた。


2012年09月16日(日) ロングウィークエンドの冒険

連休中はいったことのない場所やお店を体験してきた。気さくな友と美味しいものに恵まれた楽しい冒険だった。メモしておこう。

紀の善

学生の頃、神楽坂出身の友人に連れられてぜんざいを食べに通った店だが、あんみつ好きにもたまらない店だというんでためしに食べに来た。感想はさすが!です。フルーツのコンポートの甘み、あんこの甘み、赤豆の塩加減、杏子のやわらかさ、寒天のやわらかさ、蜜の味全てよく計算されつくしている。上質です。ただ個人的にはみはしのほうがちょっとだけ上かな。抹茶ババロアも美味しそうだったぁ。





タイ屋台風料理ティーヌン
飯田橋の駅ビルの地下にあるお店に行ってきた。この蒸し暑い日本の夏にタイ料理の美味しいことよ。わたしの評価ではこのお店は今まで行ったタイ料理屋の中では一番。

チェコ料理のダルシェンカ
四谷にある、オーナーさんの趣味の小部屋のようなバー。チェコってレトロで愛嬌のあるデザインのものが多いけれど、料理はベジタリアン的にはきつい。またビールを飲めないわたしにはことさらであった。お茶をしに行くならいいかも。

韓国料理 パンガ
有楽町のbic camearaの7階にあるレストラン。休日の13時だというのにガラガラ。やる気あるの?というくらい気だるい空気が漂っている。が、黒豆のマッコリ、冷麺、石焼ビビンパ、ちじみどれをとっても安くて美味しかった。6階までbic cameraに占領されているというロケーションが悪いのでしょうね。

ユナイテッド・シネマ豊洲
豊洲のららぽーとにある映画館。映画館の近くに行列が出来ているのでもしや?と後ずさりしてしまったが、同階にはなにやら子供向けの大人気スポットがあってそれに並んでるらしい。映画館は静かなものだ。新しいこともあって清潔でいい。「夢売るふたり」を見てきた。アベサダヲっていかにも「フツウの男」な感じが逆にすごいリアルな詐欺男役にはまっていた。見た目抜群の二枚めの男が出会ってすぐに結婚ちらつかせたら疑わしいものね。でも松たか子は漁港でフォークリフト運転して働くにはちょっと可愛いらし過ぎやしないかね? これといったメッセージの読み取れないエンタテイメントな映画ですね。


2012年09月14日(金) おかま節

アマゾンで高い評価を受けいていた美輪明宏さんの「人生ノート」を読んだ。期待が大きかっただけにがっかりだ。高貴な美意識と物事に対する根拠の薄い思い込みの激しさは典型的おかま節であった(おかまというのか知らないが)。おかまの美意識はそんじゃそこらの女性よりよほど高い。さすが、「女でいること」に本物の女性たちより何倍も努力を要しただけあると思わせてくれる。この本も出だしの美に関しての部分はなかなかよかった。しかし、社会を語らせるとたちまち偏見の世界に入ってしまう。例えば、フランスについて。

「エセヒューマニスト達の浅知恵で受け皿も用意せずに移民を受け入れた結果、職につけない移民達が町に溢れ盗みを働くようになって治安が悪化した。危険だからパリの人々はおしゃれして外出できなくなった」

とか、

「音楽はロックとニューミュージックだけになった・・・・そうしたら世界中のひとが憧れていたフランスらしさがなくなってミニアメリカのようになってしまった」

とか、ちょっと極端じゃないのかと思わずにいられない。フランス人がアメリカを目指しているなんて想像もつかない話だ。近代的なビルを建てるとか新しい音楽を聴くこと=アメリカ化とは呼ばないだろう。それにいまだにまともな英語をしゃべるフランス人など見たことがない。

出産についてこんなことも書いている。

「子供を産んで幸せになるというのは錯覚だ。みんな子供が欲しいわ、というけれど子供はウンチをして夜鳴きして、教育を与えて・・・そういうことまで考えていない。ペットをかわいがるくらいにしか思っていない・・・楽しめるのはせいぜい20年であとはよその人になる。ところが自分が年をとったら下の世話をしてもらうつもりで産んでいる人が多い・・・」

そうだろうか。子供を産んで育てる大変さを想像しない親がいるだろうか。それでも産む。その大変さよりもよほど大きな幸せをもらえるだろう。そう思わない親がどれだけいるだろうか。20年楽しんで、子供が新しい家族を作っても依然親は親だ。介護してほしい一心で子供を産む親がいるだろうか。介護は子育て以上に大変だろう。しかし、親の介護を投げ出す子供がどれだけいるだろうか。

20代前半くらいの人なら新しいアイディアを得ることができるかもしれないが、わたしは素直にうなずくには経験を積み過ぎている。


2012年09月13日(木) 日出る国の住人

ATMでお金をおろしていたら、隣にいた女性が透けてお札の入っているのがわかる封筒を見せながら、
「これ誰の?」
と慌てている。とっさに自分ではないと首を振る。オレンジ色のシャツを着た男性が彼女の前に使用しているのを見た。そう告げると彼女はATMの外に飛び出し叫んだ。
「お金忘れてません?」
男性は気づかない。もうひとり並んでいた若い男性がその封筒を掴んで追いかけていって無事彼の元にお金が戻った。

家に向かう坂道を登りながら、たったいま目の前で起きた出来事を思い返し、いたく感動していた。この国に生まれたことにつくづく感謝した。こんな国がどこにあるだろうか。数年前下着ドロボーに入られた時も、こんな国がどこにあるだろうか、と嘆いたが、忘れたお金が返ってくる国なんてのもなかなかないでしょう。失業率が高くなった、格差が広がったなんていっても、他国を見てしまえば、そんなの比ではないでしょう。ペンシルベニア出身の同僚がこんなことを言った。
「故郷にはおかしな奴が多いよ。日本だって道を歩けばおかしな奴はいるよ。でも、その割合は比じゃないね」

オーストラリアは盗人が多い。2度強盗に押し入られ、1度スリに時計を取られた。こんなことを人に話しても、誰も驚かない。むしろ自分も同じ目にあったと返される。でも、悪い話ばかりではない。小銭がなくて電車に乗れなかった時、仕方なく唯一駅のプラットフォームにいた女の子に小銭を貸してくれないかと聞いた。シティについてからか、住所を教えてくれれば夜に返しに行く、嫌ならこちらの住所を書くからと。彼女は、
"No worries"
と財布から小銭を出しわたしの掌に乗せ何も聞かずさっさと去っていた。
また、スーパーマーケットで赤ん坊を抱えたアボリジニの女性がオムツやらミルクやらトイレットペーパーなど生活必需品をバスケットに入れてレジにいた。夕方の混んだ時間で後ろに5人くらい待っている人がいた。赤ん坊は明らかに白人との混血だった。レジ係の女性がバーコードをスキャンして合計金額を告げる。彼女の持っているお金は足りなかった。トイレットペーパーを諦めてもう一度合計金額を出す。まだ足りない。今度はオムツを除ける。わたしも含め列に並んでいた人みんな同じ想像をしていたに違いない。赤ん坊の父親はまともに働かないアル中のようなトラッシュなのだろうと。誰が、教養もなく、労働の機会を得ることも困難であろうアボリジニ女性に、そんな男との子供を産んだオマエが悪いと言えるだろうか。税金が高く社会福祉の厚い国だ。ちゃんと政府の援助は受けているのかもしれない。そのお金はどこへ消えたのか。しかしそんな理屈をもって接することができたなら彼女はこんな風にはなっていないだろう。列に並んでいた人々がざわざわといくら足りないのか?とレジの女性に尋ね、みんながポケットをあさり小銭を差し出して、彼女はオムツを諦めずにすんだ。顔を半分だけ後ろに向け、まともに振り返らずに
"Thanks"
と言って足早に去っていった。日本よりもよほど格差の激しい国で目にした光景である。

国の状態がどうであれ、世の中捨てたもんじゃないですよ。


2012年09月09日(日) Sliding Doors

あの時こうしていたなら、、、誰もがそんな想像をしたことがあるでしょう。人の運命なんて日常の中のなにげない選択が創造するもので、それによって天と地ほどに変わってしまったりもするものだ。この映画は一瞬の差で電車を乗り逃してしまったグィネス・パルトローが演じるヘレンと一瞬の差で電車に乗ることのできたヘレンのその後の運命を交差させて描いたものだ。ニコラス・ケイジの"Family guy(邦題:天使のくれた時間)"では空港で恋人と別れるか否かで男の運命が全く違う方向にいってしまったが、この映画では出だしは主人公の日常生活とそれをとりまく人々には大きな違いはなく、ただ浮気者の男と少し長く一緒に過ごしてしまうか、新しい男とデートをはじめるかくらいの差しかない。現実は電車を一本乗り過ごしたか否かで変わる運命なんてせいぜいそのくらいのというのが大半だろう。それでもそんな小さな選択の積み重ねで少しずつ運命は二つの路に別れていくのだが。

しかし、この映画に出てくる二人の男性ときたら、、、わたしだったら両方付き合いたくないな。イギリスではこんな男性がうけるの???見た目が詐欺師みたいなのは二人とも同じで、ひとりはそのうえ浮気までしてるんだけど、気が弱くて、ちょっと浮気がばれそうになると情けないほどおどおどしちゃって、全く浮気なんてする器じゃない。もうひとりは電車の中で女性をナンパするのはけっこうだけど、本を読みたいって言ってるのにマシンガントークをやめない図々しさ、妙にハイテンションでつまらないジョーク連発したりして、ドンビキだ。

この映画を見てこんなことを思い出した。わたしのアートカレッジの講師の話だ。授業で彼が「後悔」という議題で喋っていた。

「例えば僕の後悔、、、それは飛行機の中で隣り合わせになった女性と話がはずんで、そのまま別れたのだけど、その後、電車の中で偶然彼女を見かけたんだ。でも相手はもう覚えていないかもしれないとかあれこれ考えてしまって、話しかけることができずに、彼女は電車を降りていってしまった。彼女にすごく魅力を感じていたのに、どうして連絡先を聞けなかったのか、何もせずに諦めざるを得なくなったのが大きな後悔なんだ」

飛行機で隣り合わせになった人とまた電車の中で会うというのもすごい確率で起こる奇跡だからわたしはこの話をしっかり記憶していた。

ところが、更にどんな奇跡が起こったというのか、数年後彼が彼女と結婚したと聞いた。結婚式の二次会に顔をだした友人によれば、鬼講師だった彼が感動のあまり号泣していたそうだ。「ご縁」とはこういうことなんでしょうね。目の前で電車を乗り過ごしたなら、チッ、などと舌打ちせずに素敵な運命に期待するのもいいかもね。


2012年09月07日(金) Anzac Biscuit

オーストラリア国内ではよく売られているアンザックビスケット。旦那さまを戦争に送り出す奥さま達が生み出して焼いて持たせたというだけあって、栄養満点、しかも芳ばしさがたまらない美味しいビスケット。あらゆるレシピを試してたどり着いた我流レシピを書いておこう。

(約25枚分)
A
・小麦粉 60g
・全粒粉 60g
・オートミール 100g
・ココナッツロング 100g
・砂糖(きび砂糖がおすすめ) 60g
B
・有塩バター 100g
・ゴールデンシロップ(ハチミツかメープルシロップでも)
・重曹 小さじ1/2
・水 大さじ2

1、Aの材料をざっと混ぜる
2、Bの材料を小鍋に入れて極弱火にかけて煮溶かす
3、AとB全てを混ぜ合わせて適量ずつ天板に並べて手でつぶして
 2,3mmの厚みに整えて160℃のオーブンで20〜30分焼く
 (ビスケット全体がよく炒られたような状態になるまで焼くのがポイント)


2012年09月02日(日) 結婚の条件

久々のぐずついた天気。近所のカフェで先日もらったコーヒーの無料券を握り締めて再訪した。なにせここのコーヒーは香り高くて本当に美味しい。今時まずいコーヒーを出すカフェも滅多にないが、かといってこんな美味しいコーヒーを出すカフェもそう滅多にない。使い込まれているが、清潔なWedgwoodのカップで出してくれるところに客への気遣いを感じる。こういうところが平然と紙コップでコーヒーを出す大型チェーンのカフェにはない良さだ。カップが美しいことが20%くらいコーヒーの味をアップさせているだろう。

こんな日は読書に尽きる。小倉千加子の「結婚の条件」のあまりにもの面白さに一揆に読み尽くしてしまった。これは結婚したい人のHow to本ではない。フェミニストで大学で心理学を教えている著者が結婚という制度について滅多切りにする。どの章もラッパーかい?落語家かい?とつっこみたくなるようなうまく韻を踏んでいたりする痛快な喋り口だったが一番インパクトの強かったのは、

女性の最終学歴は父親の学歴で決まる。またその最終学歴によって結婚に対する意識は、高卒は「生存」(あまり良い職につけず食いっぱぐれるから)、短大卒は「依存」(たいていはOLになりそれで貯めたお金で留学などして専業主婦になる)、四大卒は「保存」(相手の収入などあてにせず結婚後も自分が専門職でばりばりとやり続けるのを尊重してくれるということが前提)、と変化していく

というところ。

更に

結婚とは「カネ」と「カオ」の交換であり、女性は自分のカオを棚にあげてカネを求め、男性は自分のカネを棚にあげてカオを求めている

とか、もう腹の底から不気味な笑いがこみあげてきた。笑って唸って、飽きないが、未婚でも既婚でもあらゆる女性にとって手厳しい現実をつきつけられる内容だ。結婚のポジティブな面というのは話題性に乏しい。しかし、小倉千加子先生が"幸せな結婚"をしていて、この本を書いたなら、視点は少し違っていたのではないかと想像してしまう。


Michelina |MAIL