My life as a cat
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2005年11月30日(水) パリジェンヌの気持ち

寒い日が続いていた。初夏のキャンベラへやってきたはずなのにここ2,3日は家の中でも足元に湯たんぽを置いてダウンジャケットを着てウールの帽子を被っていた。天気もずっとどんより、雨も降ったりやんだりを繰り返して洗濯物も乾かない。"広大な自然"のみが取り得のこの場所でこんな気候が続くというのは日中ミケと野生のオウムだけがお友達のわたしをちょっと鬱にする。今朝はとうとうマーティンのランチにサンドイッチを作ってまたベッドに戻り随分長いこと寝てしまった。昼過ぎに眩しくて目を覚ました。外がパッと明るく晴れている。反射的に飛び起きて、外に出て陽にあたってみた。やっぱりここはオーストラリア。どんなに涼しい気候だろうと紫外線は肌に突き刺さるように強い。でも久々に陽を浴びて青白くなった肌に色が戻ったような気分。東京やパースでこんなに太陽を喜ぶことはなかったのにな。急に元気が出てきて、窓をガラガラと開けて、まな板を天日に干して殺菌、洗濯も一揆に済ませた。

パリジェンヌは太陽が顔を覗かせると一斉に外にでてきて肌を陽にさらすというけれど、ここに住んでそういう気持ちがはじめてわかった。しかし気候というのは本当に人間の心の表情を大きく左右させてしまうものなのだ。


2005年11月27日(日) PM's plea to Singapore fails

"PM's plea to Singapore fails"。今オーストラリアで人々の関心をひいているニュース。シンガポールからヘロインを密輸しようと試みてシンガポールの空港で逮捕された24歳の(ベトナム系)オーストラリア人の青年が今週の金曜日に絞首刑になろうとしている。これに対してこの国内では大きな反響が湧き上がっていてオーストラリアのプライムミニスター、ジョン・ハワードも減刑を掛け合っているようだが、シンガポール側は全く気が変わずというもの。

テレビの映像ではこの青年が刑務所内でぽろぽろと涙をこぼして泣いている映像が映されていた。双子の弟の借金を返済する為にお金が必要だったと言っている。

しかし何故シンガポールなんかに?という疑問の声は多いのではないだろうか?シンガポールは鞭打ち刑などというものがあるほど刑罰が過酷で厳しいことで有名だし、現にそれで治安を保っている。単に彼がそこにしかルートを確保できなかったにしても、絶対に突破できるという自信があったのだろうか。それともかなり考え足らずだったのだろうか。かなりの量を持っていたし、なんとかシンガポールを出ることができてもオーストラリアも厳しいだろう(けれどこういう悪人がオーストラリアで逮捕されたというと人々は口を揃えてそれはラッキーだったという。それくらいあちらで捕まるほうが厳しい)。彼にどんなバックグランドがあるのか知らないけれど、もう少し様子を見る余地はあるのではないかとわたしは思う。


2005年11月26日(土) なんとかこの街で

朝から雨。わたしは一人早起きで、コーヒーを入れてニュースを眺めていた。しばらくしてお腹が空いたので何か作ろうとキッチンで音を立て始めるとマーティンとミケが同じようなマヌケ面で一斉に起きてきた。名前を呼んでもダルそうにしていて来ない癖にキッチンで音を立てると走ってくるあたりこの2人はそっくり。

午後からショッピングにでた。決して便利な街ではないけれど、とりあえずはわたしにとって重要なもの(質の悪くないスケール、何も混ぜられていないただの強力粉、出汁用昆布、日本のパン粉)が見つけられたので思った程不便じゃないと少しここを見直した。

夕方に余っていたカリフラワーをフリッターにしてみた。塩を加えたカリーパウダーでいただく。美味しい!マーティンはこれをつまみに1人ゴクゴクとビールを飲んでいた。さぞかしビールに合うに違いない。飲めないがそれだけはわかる!んーー悔しい!と一口もらってみたがやっぱり苦い。


2005年11月22日(火) OZ Starbucks Coffee

スターバックスコーヒーはブランドイメージを保つ為に基本的には要請があってもお洒落な町と認められない区域にはお店を出さないというが、キャンベラの街中で二つも見つけてしまった。ということはスタバはここをお洒落な街と認めたというのか!?上野にもスタバはある。お洒落な町ではないが、いいビジネスになるから例外だろう。が、ここではどうだろう。(ちなみにパースにはスタバはなかった。代わりにDome Coffeeというスタバに変わるような緑色のカラーを基調としたカフェがあった)とりあえずは一度入ってみることにした。

この手の巨大チェーン店の魅力は世界中どこでも9割型同じテイストを保っていて感嘆するほどうまくはないけれど、落胆する心配もないということ。知らない土地で知らない店に入る勇気がない時などはとてもフレンドリーな存在。わたしはあらゆる場所のスタバに入ったことがある。サンフランシスコのマーケットストリートからはじまり、シンガポールのラッフルズプレイスまで。どこでも同じでいつでもシナモンロールは美味しかった。それなのに!ここのスタバと来たらもう店の見た目から崩れている。椅子などあちこちに飛んでいて酔っ払いが去った後のパブのようだし、テーブルも隅のほうに追いやられていて掃除中なのかと思わせる。そして食べ物の入ったショーケースを覗くとわたしが知っているスタバの食べ物など何一つない。太い指で積み上げたような形の崩れたオージーケーキのみ。辛うじてシナモンロールを見つけたが、こんないびつなものは見たことがない。上にはアイシングがベッタリと塗りつけられている。レギュラーサイズのカフェ・オレをオーダーすると大きなカップにめいいっぱい入ってきた。見ただけでお腹一杯。

キャンベラはトップクラスの人々の街でトップクラスのレストランが立ち並ぶなんていうのはイメージだけではないか?だらしなく太っているような人々は見かけなくて、みんなスマートで颯爽と歩いているし、街中はマクドナルドよりも日本食レストランが幅を利かせているようなオージーにしてはヘルシー嗜好な印象。けれどトップクラスのレストランとはどこにあるのだ?スタバがダメな街とはもう他の飲食店に期待できるものはないのではないか?と思わずにいられない。

と恐る恐るキャンベラの実態調査は続く。


2005年11月20日(日) 初夏のCanberraへ

金曜の夜に、いつものように送ってくれた母と妹と成田空港で食事をし、お腹にぐっと力を入れて手を振る二人に背を向けて飛行機に乗り込んだ。

成田から9時間。シドニーに到着。キャンベラは更にここから車で3時間かかる。迎えに来てくれると言ったのにマーティンがいない。出口のすぐそばのベンチで1時間待ったけれど来ない。家に電話しても出ない。わたしは沢山荷物を持っていたから、身軽なマーティンが探し出してくれると思ってひたすら動かずに待った。3時間待っても来ない。パースと違って人がウジャウジャしているので探しだせないのかもしれない。泣きそうだった。高速バスに乗ってキャンベラのM家に着いたところで本人がいなければ中に入れない。途方に暮れて少し動き出したところでFree Internetを見つけた。ダメもとでメールしてみよう。と大きな男が使い終わるのを待っていた。大きな男は夢中で何かを探している様子で終りそうにない。と、よく見るとその大きな男こそマーティンだった!泣きべそをかきながらどうして探してくれなかったのかと責めて、責められたマーティンも言い訳しながらもどうしてひたすら待ってしまったのか、オレはバカだったと自分を責めていた。

ともあれ無事に再会を果たし、キャンベラに向かった。オーストラリアで一番の大都市シドニーなのに、車で15分も走るともう一面ファームがひろがっている。この国自体がもう田舎なのだといまさらながら知った。それにしても東側は西側とは違うのではないかという期待もみごとに裏切られ、ほんの少し植物の緑が濃い以外にはなんらかわり無い。所詮ここは歴史も浅く文化も乏しい、広大な自然のみが取り得の国なのだと悟って、乏しいものには期待せず、この国の長所のみを楽しむ覚悟を決めた。

キャンベラ、奇妙なところだ。キャピタルがあるのみで町はパースよりも小さい。険しくはないけれど山岳地帯で車で3時間でシドニーという都会に着くところなど、長野に似ていると感じた。だから田舎で物価も安いのかと思いがちだが正反対。税金で食べている人々はお金持ちなのだ。物価(特に家)はパースよりも断然高い。走っている車も新しくてちょっと気取っているし、人々は太っていない。日本人も見かけない。アジア人自体あまり見かけない。他の都市に住んでいる政治家などが飛行機に乗って仕事だけのためにかけつけるようなところなのだ。

こうなると本当の外国に来てしまった気分だ。日本人を見かけない=日本食も充実していないということ。日本語を話す機会もなかなかないかもしれない。パースなど本当の外国ではなかったと今更ながら実感。

ともあれM家は居心地が良い。丘の途中にある家は窓を開けると初夏の美味しい空気が入ってきて、夜は向かいの丘の家々の明かりが細々とでも暖かく灯っているのが見える。緑の豊かな庭ではミケがかくれんぼしている。さぁ、新しい生活のはじまり、はじまり。


2005年11月16日(水) 一山越えて

今日で退社。お世話になった人々にお菓子を配りながら挨拶まわり。半年しかいなかったわたしなのにプレゼントを用意してくれた人が沢山いて、抱えきれないほどになった。ストレスに壊れそうになったことも沢山あったけれど、峠を乗り越えて風が穏やかに感じるところまで頑張って歩いた甲斐があったのだと思った。

夜に仲良しだった同僚と3人でいつものように居酒屋へ。"同僚"というのは情の移りやすい存在だ。1日のうちで共有する時間が家族よりも長いのだから。明日から当然のように「おはよう」と顔を合わせる存在ではなくなってしまう。実感も湧かない。それでもどんどん別れの時間は迫って、東京駅で姿が見えなくなるまで手を振ってくれた彼女達に背を向けて涙を呑んだ。お互いの道で元気にやっていきましょう。


2005年11月15日(火) 愉快な晩餐

部長と2人のマネージャー、仲良しの同僚2人と小ぢんまりとしたお別れ会。わたし達女子が大好きな、部長の客が経営するイタリアンレストランに連れて行ってもらった。開発途中の場所にあるため貸切のように静かでいい。料理の腕は抜群、サービスもいい。この土地の開発がすすんだら流行ること間違いなし。

今回が3度目なのに肉を食べないことを覚えていてくれてコース料理の肉の部分は特別に違うものととりかえてくれた。

この会はもう初っ端から笑いが止まらない。わたし達女子3人はこういったお店に行き慣れているから横文字の料理もお手の物だけれど、男3人はいつも"ホッピー冷えてます"系の錆びれた店ばかりで飲んでいるので食べ方もスマートでない。中でもマイペースな部長(実は同校出身の先輩でもある)に至ってはもう笑わせられっぱなし。"食前酒は何になさいますか?"と聞かれ、じゃぁ**のベリーニをと答えた女子を見て、"べ、ベリーニ? 、、、、 オレもベリーニ!"と言葉だけ真似をし、"食後のコーヒーはエスプレッソ、カプチーノ、ブレンド、カフェ・オレなどありますがどうなさいますか?"と聞かれ勢いよく"アメリカン!"と答える。前菜ででてきた揚げたチーズを口に入れて、"うまい!これお餅?"などと言い、最後のデザートの盛り合わせが出てくると一つづつ口に入れてはいちいち"これはチーズ、、、でしょ?で、これはアイスクリーム"と確認を取りながら食べていた。

そして最後に恐れていた部長のプレゼント。知らなかったふりをして"えー!ありがとうございます"といいながらも中身がビミョウな物でも歓声をあげて喜ぶ覚悟を決めた。が!本当に素敵な漆塗りの夫婦箸が入っていた。心の底から感激!部長は本当に何がいいのかと熟考しながら高島屋をずっとうろうろしたのだと言う。あぁ、だから食事の途中でオーストラリアでもお米はよく食べられていると言った時にすごく嬉しそうな顔をしていたのか。ありがとう。あなたはずっとわんぱく坊主のように可愛くて面白くて憎めない部長でした。


2005年11月13日(日) 教育白書

Videoに撮っておいてもらったたけしの教育白書3時間スペシャルを見ながらサンデーブランチ。

携帯メールに配信される学校便り、男女の差をなくすための体操服の色の統一、○○君やあだ名ではなく「○○さん」と呼ぶことの徹底、、、極端な例なのだろうけど、わたしが子供の頃とは随分違っている。

個性を潰してしまう日本の教育について。これは欧米と比較して致命的。番組では主にアメリカの飛び級制度を例にあげていたけれど、そう、脳や体の成長のスピードは差があるし、なによりも個性は誰もが持っているもの。わたしは飛び級できるような特殊な能力はなかったものの、体の成長は人よりも早かった。10歳までに今と同じ体つきまで成長し、生理もあった。それなのに依然子供として扱われた。体つきにはおよそ釣り合わないランドセルを背負わなければならないことや体重測定では男の担任の前で大きな胸をさらけださなければならなかったこと、ブルマー一枚で走ったり飛び跳ねたりしなければならなかったことなどはとても屈辱的だった。

そしてモラルについて。北野たけしが基本的に電車の席は全てシルバーシートなのだとかそういったことは親が家庭で子供に教えるべきことだという。だけれど現状は厳しい。だって親の世代がシルバーシートの前にお年寄りを平気で立たせているし、ましてやシルバーシートでなければ譲る必要がないと思っている。近頃わたしは扉が開いた瞬間に走って席を確保するような男性までもよく目にしてしまう。その顔つきには余裕の欠片もない。こういうのを見てしまうとき本当に日本は大丈夫か?と不安になってしまう。

最後に子供に考えさせることについて。番組では最後に食べるという前提で豚を飼い、名前をつけて全て彼らの手で育てさせたとあるクラスのことを取り上げていた。Pちゃんと名づけたその豚の飼育を彼らが責任を持ってやっているうちにやはり情が移っていく。やがて彼らの卒業にともない3年間育てたPちゃんをどうするかと決断をせまられる子供達。他のクラスに引き継いでもっと長く生きて欲しいという意見やそれは責任逃れだから食肉場に売るという意見に割れる。結局子供達の意見は引き分けで最後の先生の一票が分かれ道となった。最終的にPちゃんは食肉場に引き取られていった。迎えに来たトラックに乗ってしまったPちゃんにみんな一個ずつ大好物のトマトを与え、ぽろぽろ涙を流して泣く子友達。これは命の授業だそうだ。子供に残酷な物を見せると残酷な子供になってしまうというのは違う。過保護にされて考える機会を奪われている子供こそが突然残酷なことを単なるはずみでできてしまったりするのだ。


2005年11月12日(土) How sweet!

外交に忙しい隣の席の係長が今朝わたしの退社を聞きつけるなり走って大好きな100%Chocolate Cafeのチョコを買って来てくれた。「うわぁ、ここのカフェ大好きなんです!」と言うと「それはよかった」なんて言いながらも知ってたよという顔つきだった。きっとわたしがよくここのホットチョコレートを手に出社してくるのを覚えていたんだろう。ステキ!係長はマイペースながらも品が良くて育ちの良さや真面目にコツコツと生きてきたことが滲み出ているような人。いつも気の利いたものを絶妙なタイミングでくれたりするスマートさはその育ちの良さに起因しているのだと思う。わたしのような一風変わった女子でもやっぱり甘い物を与えてくれる男性には弱いのよ。


2005年11月11日(金) もう刺激はいりません

男というのはどうしてこうも言葉が足りないのだろう。たったもう一言付け加えれば大分ニュアンスが変わって印象がよくなるというのに不完全なまま終えてしまう。この半年間こんな男達に随分と苦しめられたが最後の最後、「退職」の件にまでひと悶着あった。

退社の1ヶ月前くらいにはその旨を上司に伝えるという社会人の常識をわたしは実行した。当然2,3日以内には同じグループの人々はそれを知って仕事の調整などをしていくものだと思っていた。が何日経っても音沙汰が無い。それどころかそれを皆に伝えて調整を図っていかなければならないマネージャーまでもがわたしが辞めるのを忘れてしまったのか、半年先の仕事を頼んでくる始末。部下の退職願いを忘れるなんて普通では考えられない。どうなってるんだ?と更に上の部長に聞いてみると一言「忙しくて忘れちゃったんじゃない?」とサラリと言う。忘れる?辞めることを忘れてしまえるほどわたしなど居ても居なくても同じ存在だったのか?そう思ったら涙がこみ上げてきてトイレにかけこんでしまった。その日は仕事をする気にもなれず、一部始終を同僚に話すと「デリカシーないよね。でも彼らのことだからなんにも悪気はないんだよ、きっと。困った人達だよ。」と言い、それでもわたしの気が晴れないのを見かねてマネージャーに話してくれたようだった。

「Michellinaさん相当ショックうけてますよ」と言うとマネージャーは「えーー!忘れてるなんて、誤解だよぉ。そうじゃなくて、ずっとどうみんなに話そうかって悩んでたんだよ〜。そんなつもりは全くないんだぁ。困ったなぁぁぁ」と言いコミュニケーションって難しい、、、、と頭を抱えてしまったそうだ。

そしてその後に部長にわたしとマネージャーが呼ばれ、わたしの後任者を雇うかどうかについて意見を聞かれるとマネージャーは「後任者は絶対必要です。彼女のポジションは絶対いてもらわなきゃ困るところなんです」と妙に強調して恐る恐るわたしの横顔を盗み見ていた。わたしは彼の非常に単純でわかりやすいその行動に笑いがこみあげてきた。

その後は順調にグループの人にも認知されて調整なども少しづつ相談するようになってきた。がそんな矢先、部長がお別れ会をしなくちゃなと言い出した。大好きなのだけれどわたしのお小遣いでは遠慮がちになってしまうイタリアンレストランへ連れて行ってくれるというのでまたあの美味を堪能できるのかと楽しみにしていた。

が、今朝、同僚(女の子)がやってきて「やばいよ。部長が昨日わたしのところに来てプレゼントを自ら買いに行くって言い出して、何がいいか相談しにきたんだけどさぁ、アイディアがまた突飛で"オーダーメイドの靴"なんて言ってるんだ。これだけはいらないとかこんな物が欲しいとか希望があったら言ってね。さりげなく部長に伝えておくから。」と言う。こ、こわい。。。会の途中で渡され、みんなの前で包みを開いたら、とても反応に困るようなものが入っていたらどういう顔をすればいいんだ。正直者でお世辞のひとつも言えないわたしがビミョウな物を前に顔を引きつらせながら「ス、ス、ステキですね」などと言うところを想像して身震いした。彼女に「わたしの希望は部長を止めて"趣味のいいあなたが選んでくれること"のみよ」と言っておいた。

部長、マネージャーありがとう。でももうこれ以上刺激は要りません。最後くらい穏やかに終わらせてください。


2005年11月10日(木) 生命の力強さ

親戚の家に生れた女の子は3才で白血病が発覚。もう1年の命だろうと告げられてから奇跡的に4年生きた。彼女にとってのその4年は想像を絶する苦しみと痛みと、そして希望に満ちていた。わたしが20年以上経った今でもキープしてある彼女が病室でせっせと書いた手紙には絶望の色などひとつもなく希望ばかりが詰っていた。最後に喋った時はもう天使の白い肌は黒い悪魔に侵されていて可愛らしい巻き毛はすっかり抜け落ちていた。それでもそれから数日後に受け取った最後の短い手紙には依然希望が詰っていた。「治ったらおばあちゃんちに行こうね」と書いてある。わたしと行く場所はおばあちゃんちと決まっていたからだ。

医者は彼女の生命力の強さがここまで彼女の生命を引き伸ばすことができた一番の理由だろうと言った。

本田美奈子さんの死、ヨルダンのホテルのテロ、福井の古い火葬場で発見された老夫婦の白骨死体、、、、ここ数日は命の儚さを思って胸を締め付けられていた。生命など意図も簡単に断ち切られることが出来てしまう。

けれど今日、信号待ちで止まっていると痩せた小さな体のシマ柄の猫が激しくビッコをひいてそれでも何かに向かって一目散に歩いているのを見かけた。一歩歩くごとに今にも横にコテっと倒れてしまいそう。それでも夢中で歩いていた。その姿に小さかった親戚の女の子を重ね合わせて、生命の儚さに対する哀しみよりも生命の力強さに希望をもらった。


2005年11月08日(火) 郵政民営化賛成!

仕事でもプライベートでも郵便局の集荷サービスを頼むことが多いのだけど、集荷に来る人というのが全てどんくさい。

集荷を依頼する時に電話で総重量や形などを伝えてあるにも関わらず、小さな袋ひとつ持って26階まで上がって来る。そして荷物を見て初めて下から台車を持ってきますといって10分後くらいに再度現れる。

内線番号と名前を伝えてあるにも関わらず、入口で通りすがりの人に「どなたかに集荷を頼まれました」などと言って、呼び止められた人にマイクでフロア中に「集荷を頼まれた方!!」などと叫ばれて呼び出される。

お金の計算は出来ない。電卓も持っていない。=わたしが自分で計算する。=自己申告制なのでわたしが悪人ならその場限りいくらでも騙すことができる。

領収書は手書きなので時間がかかる。原本を手渡し控えを持って帰っていき、後で慌てて取りにくる。金額を書くのを忘れて後で書きにきたこともある。日付の入ったハンコが逆さに押されたことも(気に留めずにどうぞと渡して帰って行った)。

プライベートで頼んだ集荷。電話でオーストラリアへの船便**kgなどと電話で伝えたのに、いざ来てみると「エー!オーストラリアですか!」などと言って料金が解からないからと一度郵便局に荷物を持ち帰って、再度集金に来た。しかも保険料をチャージするのを忘れて次の日にまたやってきた。数回頼んでいるので郵便局中わたしの名前を覚えているようで、誰がでてもわたしの苗字を名乗るだけでもう用件が解かるらしい。それなのに!ちゃんと用意してこない。いつも同じ失敗を繰り返す。

これは全て同じ人の話ではない。6人くらいで日替わりのように来るけれど、みんなこんな調子なのだ。彼らが悪人ならば苦情の一つでも言うが、これがみんな世間の荒波に揉まれたことのないような善人ぶりでやってくるので、もうわたしは泣くしかない。

そこへすがすがしい顔で「集荷に参りました!」とやってくるクロネコさんやペリカンさんや自転車便の若くて元気で手際のいいお兄さん達。もののみごとに3分で片付けて「ありがとうございました!」と颯爽と立ち去る。わたしはこぶしを握り締めてこの時ばかりは「ぅう〜ん、郵政民営化賛成!」と唸ってしまうのだ。

ちなみに同僚が送った郵便物が届かないので問い合わせたら1ヶ月後に出てきたがその時に「郵政民営化でちょっと人手が足りてないから本当に大事なものは宅急便なんかで送ったほうがいいですよ。」と親切にアドバイスされたそうだ。


2005年11月05日(土) 動物と共生すること

長いこと放置していた髪にはさみをいれようと銀座へ出た。美容院まで歩く間に目に入るショーウインドウにきれいにディスプレイされた"Fur"。美容院は混んでいて待たされている間に手渡されたファッション雑誌の中にもリアル・ファーの嵐。柴犬程度の大きさのキツネ一匹とわかるようなマフラーの値段、たったの5万円。わたしのお小遣いでも買える様な値段。ファーを購入する人々はファーの作られ方を知っていて、それでも購入するのだろうか? 愛犬を溺愛する神田うのがキツネからはじまり犬や猫までもが生きたまま毛皮を剥がされ(あるいはお尻に電極を入れられて殺され)無惨に死骸の山に積み上げられるのを何とも思わないのか(彼女のファーショップは人任せだとしてもあまりにも無知or残酷ではないか)? ファーを首の周りに巻いたショップの店員などが近づいてくるときなどはわたしは後ずさりしてしまう。綺麗な人に血生臭いリアル・ファーは似合わない。ちなみに猫(うちのミュンミュン)は本物のファーを近づけると獣臭さを嗅ぎつけて襲い掛かる。

今日の愛読書は「むつごろうのオーストラリアふしぎ旅」。著者が絶滅したとされた後も度々目撃情報もあがる幻の珍獣タスマニア・タイガーを求めての旅の途中の動物達との珍道中を綴ったもの。彼はベジタリアンでも動物愛護家でもなく、ただ「動物と共生している」ところが凄い!もう彼ほどになるとムツゴロウという一種の雑食動物のようだ。旅の道中で車に跳ねられて死にかけたワラビー(カンガルーを小さくしたような有袋動物)のお腹のポケットに子供が息をしているのを見つけ、人間が育てることは難しく、かえって彼らを痛めつける結果になる可能性が高いと知りながらも情にほだされ連れて帰ってしまう。が、この後がすごい。タスマニアに居残ってでもこの子ワラビーの親として生きることを決意した著者は哺乳類の親がするように子供のお尻までも舐めて拭ってあげる(味までも記されていた(笑))。結局はそのワラビーを引き取ろうと申し出た動物園に引き渡すことになるのだけれど。

動物と人間の共生は難しい。なにせ人間は圧倒的に彼らよりも強いから。でもだからこそ人間はどちらにでもなれる。彼らを全滅させることも保護することも、そしてただ共生することも。難しいけれどただ共生できたら地球の空はもっともっと青いはずなのに。


2005年11月04日(金) いつもの週末

同じグループの男性がわたしがもうすぐ退社することを聞きつけて突然ランチをおごるぞ!と言って誘ってくれた。この男性は年はわたしとさほど変わらないのだけれど一応役職がついていて上司にあたる人で今期にこのグループに移動してきたばかりなのでゆっくりと話すのはこれが初めてだった。わたしの好きなイタリアンレストランへ行き、あれこれと他愛もない会話をした。ふと「辞める理由って実は自分の都合以外に何かあるんじゃないの?」と聞くので、今までずっと思っていたことをぶちまけた。

この事業部での人間関係がきつかった。女ひとりで営業マンの中に入れられたまでは問題なかったのだけれど、問題は彼らがわたしを「異性」としてしか見ていないのではないかと感じることだった。みんなと仲良くしたかった。けれど人々があまりフレンドリーではなく、個人的な誘いは受けるものの、それ以外のところでわたしに近づいてくる人はいなかった。それはわたしを「君は女の形をしている意外には価値が無い」と言われているような気分にさせて人間としての自信を大きく喪失させた。

そういったことを話すと彼は申し訳なさそうに「そんな風に思ってたのか。いや、本当はみんな話しかけたいんだよ。でもほら、事業部の古臭い体質があってその中で女の子と仲良くするというのはなんとなくまずいんじゃないかという気になってしまうだけなんだよ。」という。言っていることはおおいに解かる。けれど、

「でもね、そもそも女の仕事にあまり期待をかけないこの事業部の中で何が女の人を救ってくれるかと言ったら仲良しの同僚がいるとか悩みごとを相談できる上司がいるとかそういったことでしかないんだよ。だからわたしの後任の女の人が来たらフレンドリーに接してあげてね。」とお願いした。

いつも女の子の同僚に影で打ち明けていた思いを当事者に伝えられたことでとてもスッキリした。(彼は午後から早速"フレンドリー"を心がけて頑張っているのが窺えた(笑))


夕方になって仲良しの女の子の同僚とソフトクリームを舐めながらさなちんさんが教えてくれた穴場のそば屋へとことこと歩いて向かった。金曜の銀座の喧騒に飲まれることのない潔くて寡黙なこのお店で玉子焼きとかき揚げを肴にお酒をちびちびと。わたし達って子供なのか大人なのかわからない。「いつもの週末」もあともう1度しかやってこないのだと切なくなった。半年仕事を続けられたのはささくれ立った心を銀座と彼女が癒してくれたから。


Michelina |MAIL