この世のような夢

2006年04月30日(日)




シンプルなこころ











今日 ── 図書館へ行った折に「歌壇」(本阿弥書店)という本が目にとまったので表紙を見たのですが、そこに《小島(こじま)ゆかり》といふお名前が載っていてそれは《小島なお》というジョシダイセイカジン(女子大生歌人)のお母さんだと知ってましたので本を手にとりました(ふだんはあまり短歌には興味がありません)。

「女子大生歌人小島なおの母は短歌界一の美人」(週刊文春)という見出しの記事や、ケータイ短歌(朝日新聞2006年1月4日夕刊)ということでも話題にもなりましたが(← 小島なおさんは、携帯に短歌をメモりはる)、小島ゆかりさん(49歳)と小島なおさん(19歳)はともに歌人の母娘です。お母さんのゆかりさんは歌集「希望」で第五回若山牧水賞(2001年)をゲットされましたし、小島なおさんは「乱反射」という作品で第50回角川短歌賞(2004年)を最年少で(高校生のときに)受賞された女性です。「短歌」11月号に載ってた小島なおさんの写真(高校の制服姿)の表情は、まっすぐで、シンプルで、美しいのでありました。いや、そういうことではなくて ── 小島なおさんの作品も、同様の意味で魅力的なのでした。

第50回角川短歌賞の選考委員の小池光氏はかように言います。──「単純な言葉を単純に使って一つの知的世界を構築しえている。若い世代の歌に一般にみられる自閉的な内面告白とは次元が違う世界です。これくらい若い子で才能があって切れるのは、春日井建以来・・」と絶賛でした。 同じ "切れる" でも、"切れ方" がちゃいます(苦笑)。

彼女の短歌は優れてハイセンスです。自らの中にエスプリがあります。"センス"は芸術作品では作品の質を決定してしまうほどの要素だと思うのですが、素人小説(=同人小説)(→ ノンプロ小説っ! と呼ぶほうが奥行きが深いかな)の合評会でこれ(=センス)をとりあげたりすると、みんなしらけちゃいますね(ひいてしまう)。そうゆー "ノンプロ小説" の合評会では、あまり "センス" に言及しません。それを言っちゃっちゃ-あおしまいよてなとこがあります。

文学の合評会ってご存知ない方にはソれはソれはトてもトてつもなくへんちくりんな世界だと思います。若いもんもおっさんもおばはんもじじいも同じ土俵で(メンバーの創った作品を)まじで批評してど真剣です。作品は批評しても良いけど人格の攻撃はあかんというのが当然のルールなのですが危ういときもあり次の合評会で仕返しされたりすることもあります(ありました)。かように、へたに作品を批評したりなんかすると、相手によっては人格や人生までを否定されたようにも感じるので、あなたは・・と指摘せずに、(この物語の)作者はたぶん・・とか言うたりもします。

そうゆー文学の世界では知識コレクター系の文学マニアも多いです(あるいは左脳系の方も多いな)。勉強家なので知識や情報はいっぱいあるようです。感想を訊ねると、引用によっての説明を延々とされます。でも、それであなたはどう思うのかと訊いても、感情の言葉、は出てきません。"原形" に対する感受性(=肌感覚)を有しないので "自分のことば" が無いのだと思われます。いわゆる「身体性」の欠如といふやつ。こういう方は "センス" の感知や自覚からは一番遠いです(にぶいです)。広い意味での "sense(=感覚)" が欠落してるんじゃないかと思います。電気通してほしいです。

小説の世界では、感性、とかいう言葉を嫌いな方も多いようです。「感性などというちゃちなものは文学には必要ない。それは違うんだ」というようなことを断言された有名小説家Sもいらっしゃいました(言いたいことも、わかるけど。最近は、コピーライターが書いたような小説が賞に入ったりもしますから)。

でも ── (文学も含めて、)芸術は、やっぱり、センス(=感性)じゃないかなと思います。あるいは、すじ、というべきかもしれません。文芸だって、芸ごと、ですから。すじ、のいい人には、かないません。


●で、小島なおさんの短歌です↓ そのようなことを感じさせる才能です。ひとつひとつがすばらしい。 



第50回角川短歌賞受賞作「乱反射」/角川書店「短歌」2004年11月号より




乱反射   -------     小島なお  





牛乳のあふれるような春の日に天に吸われる桜のおしべ


ギリシャの神話の裸婦を思わせて林の奥に美術館あり


ダリの眼に映る天地は狂気なり世界は透みて『聖アントワーヌの誘惑』


たくさんの蟻群がれるその中に美少年なるダリの悲しみ


足長象と燃えるキリンを描きたるサルバドール・ダリはマザコンなりき


十七歳で母を亡くしたダリのこと人を殺した少年のこと


東京の空にぎんいろ飛行船 十七歳の夏が近づく


中間試験の自習時間の窓の外流れる雲あり流れぬ雲あり


はつなつの若楓(わかかえるで)のきらめきてその下通る人ら美し


エタノールの化学式書く先生の白衣にとどく青葉のかげり


講堂の渡り廊下に藤棚のこもれび揺れて午後がはじまる


なんとなく早足で過ぐ陽差し濃く溜れる男子更衣室の前


五月闇ひとびとの肌仄白くそのひとびとのまなざし遠し


黒髪を後ろで一つに束ねたるうなじのごとし今日の三日月


バス停やポストや電柱ひびき合い痛いくらいに夜は澄みゆく


海亀が重たきまぶた閉じるごと二つ雫のコンタクトはずす


むせかえるような匂いを放ちつつだんだん小さくなった石鹸


銀色に朽ちてゆく竹現われぬ祖父の入院聞いた今宵は


われのまだ幼き頃の思い出は紫陽花の花群れいる蒼さ


霧雨のあたたかく降る夜ふけてわたしの体かぐわしくなる


三階の一番隅の教室で英語の虹の詩を読む六月


かたつむりとつぶやくときのやさしさは腋下にかすか汗滲(し)むごとし


制服のわれの頭上に白雲は吹きあがりおり渋谷の空を


噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし


靴の白 自転車の銀 傘の赤 生なきものはあざやかである


やわらかく白い体をひるがえしゆっくり沈む水槽のエイ


ほの暗き水槽の壁にたくさんの吸盤つけて蛸、瞑想す


維管束もたぬ海藻揺らめいて海のからだをひきよせている


妹が叱られている雨の午後こぼれ落ちゆくアロエの果肉


まだ染めぬ黒髪香る妹は首のうぶ毛をそよがせて寝る


曇り日の母の碧のワンピースぼんやりとして少しかなしい


手回しのオルガンまわすてのひらのなかいくたびも耳が咲(ひら)けり


日光を浴びることなく食われゆくホワイトアスパラガスあくまで白し


台風の目に入りたる青空に胸の艶帯びからすは光る


台風の過ぎたる今日は夏めきて教室のなか陽の斑がゆれる


聖書読む時間はいつも眠たげなり眼鏡をかけた先輩の顔


蛇口からこぼれる雫 キリストの出現前のヨハネの涙


図書室の窓より見れば緑蔭のベンチに友がひとり座しおり


たくさんの眼がみつめいる空間を静かにうごく柔道着の群れ


黒々と垂れるぶ厚い雲の下地(したつち)より生える二本の鉄棒


特急の電車ぐわんとすぎるとき頭の中でワニが口開(あ)く


梅雨の夜は重たくあかく濡れている小さき球のさくらんぼ食む


生ぬるいシャワーを浴びて出でくれば雨ののちなる空潤えり


首長く夜空へ伸びてこっくりと満月を包むきりんのまぶた


母親に抱かれ静かになりし子の眼は深みどり深夜のバスに


はるかなる遊牧民のはるかなる歴史を思う人は孤独なり


ひと吹きの音遠くのび麦笛は太古の風の韻(ひび)きとおもう


水面を揺らす金魚の淡き鰭ゆうべの時間あかあかとして


公園の電灯強き土の上花火のあとを甲虫這う


ベランダに風呂桶置いてめだか飼い知らないうちにいなくなった夏




●同様に、小島ゆかりさん(お母さん)の短歌も挙げておきます。作品の品格や感性は、娘の小島なおさんに受け継がれているのがわかります。



以下は、「歌壇」(本阿弥書店)2006年5月号「沐雨の象 ※」よりの抜粋です。※ 沐雨(もくう)とは= 雨で体を洗うこと。




沐雨の象   -------     小島ゆかり





ふんすいのひかりゆれつつまぼろしに沐雨のしろき象の群見ゆ


ふんすいの見えるベンチに座るとき春ぞらにある象のまなざし


一六歳の娘のなかのあまりりす留学生アリソンの思ひ出


熊蜂のセレブな毛皮すてきだわ まだうらわかき菜の花言へり


空腹の帰り道にてポストさへ失意の友のやうでなつかし


からだのなかにいつもとろ火が燃えてゐる猫を抱きては抱きてはさびし 





●以下は、第五回若山牧水賞のときの自選15首。



月ひと夜ふた夜満ちつつ厨房にむりッむりッとたまねぎ芽吹く


抱くこともうなくなりし少女子を日にいくたびか眼差しに抱く


思春期はものおもふ春 靴下の丈を上げたり下げたりしをり


人の靴もわが靴も斜に踵減りまつすぐあるくことのむづかし


二重瞼にあくがれわれを責めやまぬ娘らよ眼は見るためにある


「最後の恋」打ち明けし友も聴きしわれも別れて夏の一通行者


温水の田螺おそるべし藻を食みてじつと交みてぞくぞくと殖ゆ


世を棄てし寒さと棄てぬ寒さあり新宿西口地下道を行く


らくだの切手貼りし手紙を投函す越の国まで旅ゆくらくだ


さうぢやない 心に叫び中年の体重をかけて子の頬打てり


花しろく膨るる夜のさくらありこの角に昼もさくらありしか


希望ありかつては虹を待つ空にいまはその虹消えたる空に


転びたるはづみに深く呼吸してからだの中も秋になりたり


なめこ汁どろりとすすり霧の夜のふかいふかあい暗愚のこころ


青虹のうなじ光りつつどの鳩もびくりびくりとすぐに驚く



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2006年04月29日(土)




シンプルなきもち




ネットでみつけたかわいい絵───


「めったにかざってもらえない美術館に飾れてうれしい」という高橋華奈子ちゃんの『親子のヤギが来る家』


・・だってさ。いいな。




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2006年04月23日(日)




ふとした思い(シンプルな感受性)





問い。木は切られるずっと前から、切られる事を知っているか?

───と、ぶっきらぼんに画家のiさんからメールが来ました。とても感受性の強い方です。何日も前から、見るたびにその柿の木がへんだったと言います。

そんなこともあるでしょと答えておきました。木に訊いてみたらよかったのにとも。とくに柿の木には霊魂がひっかかると言いますし(昔、何かの古典で読んだ記憶が・・・)。あるいは、木には、木の精(木霊)が宿っていますから・・・訊けばいい。樹木医だってそのようにしてると思います。

いつか蘭好きだった知人が亡くなりその遺品として東洋蘭を戴いたことがあります。が、遺された蘭室の蘭たちは何やら寂しそうで険しい雰囲気でした。生彩がなくいつもの瑞々しさに欠けていました。そして・・・これは育ててもダメかなとふと思いました。(私は東洋欄の栽培には慣れているのですが)それら何十株かの蘭は結局2〜3年で全滅してしまいました(殉死か?)。遺品でもあるし " 自然力" で恢復させられなくてじつに残念でした。蘭がその故人の体質に馴れすぎてた(馴らされすぎてた)からだと思います。東洋欄はかようにムズカシイ人なのです。たとい元気であっても花が咲くのに幼苗からは10年もかかります。かまいすぎても枯れますし。東洋欄は気品ある妖しい(怪しい)植物です。

心を向けると植物は語ってくれます。あるいは何かが聞こえてくると言えばいいでしょうか。例えば木を触ってみると(拒絶される場合もありますが・・たとえば神社の樹)こちらの身体に入ってきて伝えてくれます。植物とのつながりはその人が撮る花の写真からもわかりますね。そのとき植物も"気"で反応してくれますから。 写真に映る(写る)のはそうした " 関係性 " です。身体(からだ)のカンケイ。アラーキーの撮る花の写真なんかはそうですね。

この季節は、植物のオーラに驚かされます。手を当ててみると、その発する"気"に強く圧し返されてしまいます。個体によりその感じはいろいろです。



写真:電動歯車式太陽追尾装置・ヒミドリくん(1999年の作品)



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2006年04月16日(日)





近ごろ落ち着きがないのは 'テクノ依存' のせいだ(と、自覚しています)。沈思できない。

どっか、行こう・・・。





大人は、とっても長いから。


http://www.jreast.co.jp/tabidoki/tvcm/index.html#otona

(JR東日本 CM 2005年 )



─── いいコピーだな。


※ ↑ このCMはライブラリーからもう無くなってるかも。



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