私の雑記帳
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2010年01月31日(日) 過去の日記の所在とかいろいろ

(数日前にmixiに書いた日記から)

ずっとログインしなかったので削除されてしまったと思った過去のenpitu(別のIDの)日記が復活した。
消えてしまったことが諦めきれずに、殆ど使っていないメールアドレスの中身を隈なく漁り、当時の自分のIDを発見。たぶん使っていたと思われるパスワードを入れると、なんと日記が復活。5年ぶりに日記を更新しておいた。しかし、あの日記をやめたのは5年も前だったのか・・と思う。私は今回読み返すまで自分の日記のタイトルもそこでの名前も忘れていた。
自分の日記など読み返したくないし、特にあの頃の自分はかなり冬の時代だったので思い出したくないのだがお気に入りに入れておいた数人の日記のことが気になっていて、それがわかって嬉しい。でも二人くらいはやはり日記が消えていた。

古い記憶をたどってみると、たしか私がそこの日記を始めたのは2002年頃だったと思う。そこがまだ無料で日記開設できた時代。個人的に2000年ころから数年間は怒涛の時代だったので当時を細かく思い出したくないが、とにかく1度はその日記をやめてしまった。鬱々とした日記が多かったと思う。今でもだけど。
ほったらかしにしておいたら、無料版だったこともあり確か日記が消えてしまったと思う。それで新しくIDをとって2004年頃に再び日記を書き始めたが、そのときは有料で私は1年だけ会費を払っていた。
そのときに経緯は忘れたが、その無料版時代の消えた日記を復活してもらえないか、事務局に問い合わせたと記憶している。(そして確か復活してもらって、自分の新しい日記にお気に入り登録してあったはず)

2度も同じ失敗をして恥ずかしいが、とにかく今回2004年頃の日記が自分で復活できたのは1度でもお金を払った有料版だったからなのかもしれない。
しかしとにかく、そもそもIDがわからなければ問い合わせも何もない。
今回、一応復活した日記の中のお気に入り登録から、たぶん自分の一番古いIDを発見した。名前もタイトルも消えているので確証はないけれどたぶん、それだと思う。ダメ元で再び戻してもらえないか問い合わせてみようと思う。そこにはやはりお気に入り登録した日記が存在するはず・・。


当時、というのは離婚前だけれど、その日記サイトから私はある地元の主婦の日記から彼女のHPを知るようになり、そこの掲示版に顔を出すようになった。そこに来るのは私以外に一人か二人。こじんまりとしていて居心地がよかった。ネット上とはいえ親しくなってきて、少しずつ個人情報を知らせあうようになり(どの辺に住んでいるとか)、それで彼女が私の実家の斜め前に住んでいた一家の長女だということが判明した。本当にびっくりするような出来事だった。交流こそなかったけれど当然名前も知っていたし私より3つ上で高校も同じだった。一家は彼女が高校を卒業するかしないかの時に市内の北の方に引っ越してしまっていたが。
とにかく大人になってから、偶然にも交流を持つことが出来、もう一人の常連さん(埼玉在住)を含めて3人でお茶会もした。彼女は遅い結婚だったようで、当時子供が3歳くらいで二人目がお腹にいるという状況だった。
 私も今思うと激動の時代がスタートした頃で、その後自分の離婚もあり忙しく、彼女もまた忙しく、結局そのHPは閉鎖してしまった。今では年賀状のやりとりしかなく、今年の年賀状には「私はmixi廃人になっています」と書かれていた。やはりmixiやってるんだなぁとは思ったが、それ以上踏み込めない空気があった。本当はまたお会いしたいのだけれど、向こうはそれほどでもないと思う。年賀状も私が出すので、やっと返事をくれる状態。

話が長くなったけれど、ここ(mixi)での名前を「椿」にした由来なのだが、その当時の思い出から。地元伊勢丹の並びに「椿」という渋い店があり、彼女がその店のことを日記に書いたのである。それで私も最近行ったということをコメントしたら「椿にいらっしゃったのですね・・」と返事があった。その時の日記がとても素敵だったこと、そして、その店がまもなく閉店してしまったこともあり、椿という名がその頃の思い出と共にずっと心に残っていたことに由来する。
ちなみにそのBBSで私は彼女からなぜか「マダム」と呼ばれていた。マダムのイメージは彼女の方であったはずなのに。彼女はピアノと絵が上手で頭もよくて、それからカッコよく煙草を吸っていた。妊娠八ヶ月でも平気だった。今思うとちょっと歎美な感じだったのかもしれない。
きっかけは忘れたけれど、彼女は私をいつもマダムと呼んでいた。彼女は当時まだ小さかった長女と会って「この子は早く大人になっちゃうねー」と言っていた。親のドタバタや私の不安定さを見て、精神的に早く自立せざるを得なかった長女の気質を見抜いていたフシがある。私が娘達のことをクソガキと書いたら「マダムのクレバーなお子さんをウンコ児童呼ばわりはいけません」と言われたりした。彼女の息子こそ、まだ3、4歳でも見るからに利発そうな顔をしていてまさしく「栴檀は双葉より芳し」であった。

過去は思い出したくないけれど、そんな懐かしい思い出もある。読み返さないけれど、その頃の日記は残しておきたいなんて、ほったらかしていたくせに矛盾しているのだが


2010年01月02日(土) 年のはじめに・・

長女の六年の時の同級生がインフルエンザ脳炎で亡くなったと先ほど連絡が来た。その男の子T君は中学1年の途中から特殊学級のある別の中学に転校していた。その中1の頃だったが、T君から2回くらい電話があった。娘に遊ぼうという誘いの電話だった。だいたい用事がある時で娘は「ごめんね遊べなくて。でもまた誘ってね、電話ちょうだいね」と答えていた記憶がある。
T君は6年の修学旅行の直前に交通事故にあって入院(頭を強打)し、旅行には行けず、娘達クラスメートはみんなで土産を買ってきた。そのお返しにその子のお母さんは折り紙で動物(うちにはキリン)を折ってクラス全員分のお返しに配った。園児ならともかく六年生で折り紙というのはびっくりしたが、うんと細かい細工がされたその折り紙を私は処分する事が出来ずにずっとしまってある。30数個も折り紙を折ったそのお母さんのような素朴さ、私はまぶしく思った。
T君には弟がいたそうだが、小さい時に亡くなったと聞いている。2人兄弟だったが、二人とも失った両親の苦しみは想像できない。

話はずっとさかのぼるが、長女が保育園で一緒だったY君は保育園を卒園の頃にはやっと歩ける程度で、人づてに聞いた話だとY君もそのお兄さんも二人ともに、筋ジストロフィーだと聞いた。数年後、もうY君は歩けないんじゃないかなと同じ保育園だった子のお母さんから聞いた。Y君は母子家庭で、美容師さんのお母さんは髪が長く美しく、人当たりがよく明るく朗らかで感じが良い人だった。私は無知でその頃筋ジスの病気について全く知らなかったから、Y君が歩けなくなったと聞いても、そうなんだ・・としか思わなかった。子供が二人ともそんな進行性の難病で、それでも明るかった、そのお母さんとY君はどうしているだろう。


死を考える事は生を考えることだと言われる。
お正月早々、暗い話題で日記を書き始めるのをためらったのだが、生きるということを考えるには私にとって意義のあることと思い、今日のことを書いておく。


pearl〈パール〉 |MAIL

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