希望の日記

2006年12月31日(日) 善良

善良に生まれ変わった私に今、よきことが雪崩のように起きている。脳がダメージを受けた分それがゆっくりと確実に起こっているので、何が幸いするかわからない。昨日は5時まで眠れた。少しずつ早く目が覚める。仕方ないだろう。十分眠れている。自分の人生が善良というキーワードで非常にクリアーに見えた。完全に理解できた。普通の善良な人々はこんなことは完全に理解できていたのだ。世の中は善良な人ばかり、値打ちのある人ばかりだ。人生の楽園に出てくる人々はエリートではない。どちらかというと失敗した人、不幸に見舞われた人々だ。リストラ、早期退職、子供の病気、職場不適応、親の介護。でも根が善良だから、新しい道で幸せを手に入れている。善良であれば不幸に見舞われてもまた幸せになれるのだ。邪悪であれば、どんなに権力やお金を持っていても決して幸せにはなれない。それから邪悪さに邪悪さを持って戦おうとしても絶対に勝てない。邪悪ということは才能も努力も要らない。女くらい邪悪な生き物はいない。そんなものと戦ってはいけない。自分が善良であれば、絶対に負けない。邪悪なものは善良なものに絶対に勝てない。だからいつでも善良であればいいのだ。
すごくやる気が湧いてきた。躁状態ではない。やらねばならないという気持ちとやりたいという気持ちが、静かに穏やかに混ざり合っている。もうあれこれ考えるときは過ぎた。ただやるべきときだ。読むべき価値ある、面白い本は山積みされている。行くべき土地は私を待っている。やるべき仕事は山積みされている。
人のやることは全て自己表現ではないだろうか。職人はいいものを作って名を残す。侍は良い働きをして名を残す。役者は良い芝居をして名を残す。政治家は良い国を作って名を残す。商人は巨万の富を蓄えて名を残す。これらは生きるために必要なことだろうか。生活必需品、食料以外は人間はそんなに金のかからない生き物だ。象じゃないからそんなに食べない。そうすると何のためにやっているかというと、自己表現以外にぴったりくるものはない。目立ちたがりと言い換えても良い。有名になるヤツは有名になりたいのだ。ただ生きていくだけだったら、動物と変わりがない。目立ちたい、認められたい、褒められたい、愛されたい。自己表現したい。人間にはそういうやむにやまれぬ欲求があるようだ。それを否定する必要があるだろうか。そういうところは出る杭は打たれるとか言って散々叩かれる。でも出過ぎた杭は打たれない。あのババアみたいなものだ。あのババアは生きるために必要な糧は夫が十分すぎるくらい稼いでくれている。でもあのババアの自己表現欲求、自己顕示欲、認知欲求は満たされない。だから安い給料で馬鹿みたいに働く。企業にとっては好都合な存在だ。それに引き換え、何の欲もなくまるでやる気がないのに、文句の多い私見たいな存在は邪魔で仕方がないだろう。だから私は何をすればいいか、自ずからわかる。
私くらい自己顕示欲、自己表現欲、認知欲が強い人間はいない。それを抑えるよりもいい方向に向ければすごくいい仕事ができる。私の未来はばら色だ。
精神障害者の犯罪率は低いが、凶悪犯罪を犯す確率は高いという。私が大きな罪を侵した理由がわかった。私のせいではなく、病気のせいだ。私のできることは悔い改めること、薬を飲み続けること。向上すること。善良であるという楽な道を歩くこと。
来年こそはいい仕事をしていい年にしよう。やるべきことも、やり方も全てわかった。後はやるだけだ。善良であること、人を好きでいること、自分を好きでいること。これだけ覚えておけば重大な間違いはしない。過去の私は邪悪で凶暴で大罪の連続だった。どこから反省していいかわからない。でもそれが精神疾患によるものだとしたら私も哀れな犠牲者であって責めることはできない。昔から説教されるのが何より嫌いだった。悪いことをいっぱいするのだが、人に怒られたり、非難されたり、説教されたりすると決まって逆切れした。病識がないことと、道徳的に鈍麻していること、これが私の特異な性格と行動の原因であった。でもそれはほとんど病気によるものだから、責めることはできない。私を道徳的に非難することはそれこそ道徳的に間違っている。薬を飲むことと休養、ストレスをためないことくらいしかない。父は善良だった。しかし根っからそうとばかりもいえないのは、よく信じられない差別発言をしていたことからも推測される。わが家系は強気になれば罪を犯し、弱気になれば、気が弱すぎて失敗するという浮き沈みの激しい家系である。とにかく馬鹿の一つ覚えみたいに善良であること。これに徹すればきっと救われる。信じるものは救われる。
病気だから道徳的な非難は当たらないということは置いといて、善良で道徳的であろう。それだけだ。そしてためらわずいいことはすぐやるということ。この二つだ。
一時は朝から寝て昼から寝込んでいた。そして夜7時に寝ていた。それから思うとものすごく回復した。善良であるだけでこれだけよきことが雪崩のように起きる。
ミナミに出て柴崎友香の文庫を二冊買った。そこでちょっとした不愉快なことがあってへこんだ。女は必ずしも善良ではない。被害者意識の塊だから、自分が優位に立つと、恐ろしく残酷で邪悪なことをやってくる。防御方法は善良であることだ。それ以外にない。こんな簡単なことはない。
今年もいよいよ終わろうとしている。私は今年一年本当によくがんばった。本当に自分を褒めてあげたい。本当に偉い。よく頑張った。
紅白が始まった。坂本冬美が声がかれててかつしわが増えてて衰えが目立って嫌だった。格闘技ももうひとつで良くない。



2006年12月30日(土) クリスマスの約束

昨夜は鮟鱇鍋を食った後、クリスマスの約束を見た。音楽コンテンツは最強だ。大画面、ヘッドフォンは完璧な音の世界に導いてくれる。小田は若い。といってももう還暦だ。さすがに衰えは隠せない。若者のはつらつたる伸びのあるボーカルには見劣りがする。でも人格力というか若者や大御所が寄って来る。というか言うことを聞く。上からものを言う嫌味なおっさんであるのにも拘らず。何かオーラがあるのだろう。観客も信者のようにその歌声に涙する。一度行ってみたいものだ。観客は悔しいけれど、上品で見た目の良い人が多い。というかそう感じる。関西人は一人もいないだろう。オフコースの歌に涙する関西人なんかありえない。これをディスクに永久保存できたらと思う。ブルーレイディスクが値下がりするのを待つばかりである。
昨日は良く眠れた。音楽コンテンツを毎日聞いてから寝たほうが良いんじゃないのか。脳のボケは日々良くなっているようだ。脳は可塑性があるのだ。いくつになってもだ。諦めるのは早い。
私は自分の秘密をすべて知ってしまった。幸せになる秘訣を知ってしまった。私がなぜこんなことになってしまったかがわかれば、どうすれば良くなるかもわかる。一人さんの言うことをよく聞いて頑張れば必ず夢はかなう。幸せになれる。
悪いけど私は何でもわかる。何でも楽しめる。何でもできる。善良だからだ。優れているからだ。正直だからだ。愛されるからだ。人が好きだからだ。自分が好きだからだ。
今は調子が良い。良く眠れて、統合失調症の症状もない。このまま正月を迎えられそうだ。善良だから正月を迎えられる。善良でなければ病院の中にいるだろう。地獄に底なしという。比較的安定していたこの十年であるが、激動が訪れた。それはそれで意味がある。私自身が安定していないので、むしろこれまでが幸運だったのだ。でももう大丈夫だ。私は大丈夫になった。全てオーケーだ。アイムオーケーユアオーケーだ。
不思議なことが起こった。善良であるだけで、正直であるだけで、素直であるだけで全てがうまく行く。なんとも不思議だ。苦しいことは終わった。後の人生は寝て暮らせる。豊かに幸せに、愛し、愛されて暮らせる。
あの医者で大丈夫だなと思うようになった。もっと早く行った方がよかったかもしれない。でも追い詰められないと動かないからな。これからの人生は良いこと尽くめだな。来年はいいことが起こりそうな気がする。私は全てがわかった。薬を飲んだだけでいろんなことがわかってきた。非常に魅力的なことが見えるようになって来た。
善良であることで頑張らなくても全てうまく行くということがわかった。全てが良い方向に変わり始めた。人を好きになることも簡単だ。自分を好きになることも簡単だ。無理したり、頑張ったりする必要はない。一人さんも言っている。頑張らないといけないことは全て間違っている。楽にできることでないと意味がない。小説も頑張って書いたものは全く評価されず、楽にたのしんで書いたものが絶賛された。万事これだと思う。力を抜いて楽にやる。頑張ったことは全部間違い。意図は正しくても頑張ることで間違いになる。善良であるだけで正しいことがわかる。
もう悪いことをしなくて良いんだと思うと気が楽だ。楽していいことだけしていれば幸せになれるんだと思うと楽しい。嬉しい。善良とは悪いことを考えないことから始まる。悪いことを考えても何の得にもならないどころか、大きな損害だ。一体何をしてきたのだろうと思う。薬を飲むことでそういう衝動が高まることを抑制できる。
善良であることは簡単だ。自分の素を出せばいいのだ。自分は元々善良な人間だった。だから善良に戻ればいいだけで、新たな努力は一切要らない。世の中は善良な働き者の人々によって支えられている。働くことは善意である。お金は天から与えられたご褒美だ。お金ばかり夢中になって追い求めるのは善良でない人々に任せておけば良い。何も羨ましくない。本当に羨ましいのは人生の楽園に出てくるような善良な働き者の人々である。そういう人々が本当に偉いのだ。権力者や金持ちが偉いんじゃない。
梅田に行ってきた。dvdと新書二冊を買った。小説の書き方の本とfxの本。楽して儲けるみたいな。長いこと働いていないと働かなくても食っていけるような錯覚に陥る。善良であることだ。今日も外出中一度も腹が立たなかったし、人に親近感を覚え、自分が受け入れられていると感じた。
善良であれば全てうまく行くとわかった。善良であれば全てうまく行く。来年から、今年からでも全てがうまく行き、良いことが雪崩のように起きると確信した。
世の中は私が考えているよりはるかに善良な人々で満ち、善意と愛に溢れ、価値の高い、素晴らしい世界だということを感じることができるようになった。自分が善良であることによってそれが可能になった。善良であることは生まれつきの本来の自分に戻ることだ。余計な悪という回り道をしないで、自分の望むものを簡単に、楽に争うことなく手に入れることだ。幸せになることだ。
善良であることによって、自分の幸せをかなえようという気になる。それは確実だ。幸せになるのは確実だ。
完全に私が生まれ変わって、全ての問題が完全に解決したことは明らかだ。これから信じられないくらい幸せが雪崩のように起きることは確実だ。



2006年12月29日(金) 年末

いよいよ年末だなあ。昨日のかに鍋、雑炊はおいしかった。ありがとう。ユーミンのコンサートは良かった。ありがとう。昨日は良く眠れた。いびきをかいて。相当深い眠りだ。社会復帰できるのだろうか。今朝自分のことが良く見えた瞬間があった。ある時点で悪のほうに傾いていった。それは幼稚園だったかもしれない。あのちょっとおかしな人間に会う前だったかもしれない。遺伝だったかもしれない。それは良い。でも悪の道にまい進してしまった。根が善良だからだ。だから善悪の区別が付かないのだ。それと中学には既に統合失調症を発病していた可能性がある。遅くとも高校までには。妄想は共産主義だったかもしれない。現実とあっていない。統合失調症と悪がなぜか私の中で結びついた。でも今からでも遅くない。意志の力で善良で道徳的になることができる。すると世の中が見えてくる。人が好き、自分が好きになる。女やババアのことが許せるようになる。
女やババアがなぜ恐いか。自分の罪が透けて見えるから。罪を認めて悔い改めれば、恐くなくなる。善良で道徳的で自分が好きで、人が好きであれば問題ない。それから薬を飲むこと。精神のお勉強と、薬を飲むこと。芥川も三島も薬を飲んでいれば死なずに済んだ。薬を飲むとゆとりができてくる。真人間になるチャンスが生まれる。苦しいままだと善良でも道徳的でもいられなくて、人も自分も傷つける。そうならないよう保つのに大変な努力を強いられる。だから薬を飲むことだ。
脳は少しは回復している。ゆっくりではあるが。昔は元気だった。でも今は新聞が読めるようになったし、催しにも参加できるようになった。後半年あれば回復するだろう。楽しいことが増えてきた。以前より、今のほうが自分を自分の人生が理解できる。全体として理解できる。細部が見えなくなったお蔭で全体が良く見える。すばらしいことではあるまいか。
善良であるだけで今までの人生が180度変わり、良い人生になる。幸せが雪崩のごとく起きる。
罪を償おうとすることが善良さの一つの証ではある。私は私の家族を全員大なり小なり不幸にした。と思う。一緒にいる間に不幸にした。一緒にいないときも不幸にした。また最近会ったりして不幸にしようとしている。やっぱり良くない。父は私が殺したようなものだ。母は父を失い、不眠症になり、私をストーカーのように追い掛け回した。私はそれを拒絶した。家が全焼した。何もかも失い、兄の家で嫁姑問題に苦しんでいる。兄は会社をリストラされ、母を養うことで苦しんでいる。全部私のせいのような気がしてならない。姉は難聴になった。全部不幸になった。甥はいじめに遭い、姪はデパガになった。全部私のせいだ。人が不幸になることを願っているのだ。そんなヤツのことを誰も受け入れるわけがない。善良であること、道徳的であること。人を好きでいること、自分を好きでいること。
脳がダメージを受けても、私が善良になれば、十分おつりが来る。脳のダメージはやがて必ず回復する。職場復帰も必ずできる。脳がダメージを受けるのはいいことだ。人が恐れず率直に私に意見してくれる。ここがおかしいよと。z氏もhも私におかしいといってくれる。通りすがりの人でも目の前の受付の姉ちゃんでもはっきり言ってくれる。本を読む速度が遅くなるからいっぱい本を買わなくていい。読まなくて良い。大体理解できないから読まなくなって本代がかからない。いらいらしないから退屈しない。悪いことをしようとは思わない。良いこと尽くめだ。病院に行っても何が悪いのかわからないという顔をされる。あの医者はよかった。前の医者も良かった。悪いから変えたのではない。新しい医者は私が相性悪いなと思っていることを理解しているらしい。何となくあの顔は人好きする顔じゃないから、幾度もそういうことを経験しているに違いない。それで不愉快な思いをさせまいとして、診察時間が短いのだ。優しいのだと思う。
今まで悪いことは散々やってきたからもう結構だ。これからはいいことだけをやって行きたい。善良でありたい。道徳的でありたい。悪いことをするのも必要だ。護身術みたいなもので、自分がやられそうなときに身を守るものだ。でも私は今まで散々やってきたからもう身についている。目をつぶってもやれる。だから今更修練しなくて良い。これからはいいことだけをやっていけば良い。善良な世界には多くの果実がたわわに実っている。悪の世界は殺伐として悪臭が漂い、汚いもの毒物悪魔鬼畜だらけで、値打ちのあるもの快いものは一つもない。善良になりましょう。弱いものには親切にしよう。



2006年12月28日(木) 年末

もう年末だ。テレビも年末番組だ。今日は眠れなかったが、意外に気分が良い。朝方いびきをかいて寝ていたのが自分でもわかったから、断続的に寝ている。後半年くらい休もうと考えた。今は調子が良くない。無理して復帰を急ぐことはない。楽しいことをいっぱいしよう。
株の儲けが50万を越えた。当初の期待通りだ。世の中難しいことなんかない。私は何でもわかる。馬鹿女が言うことが何かすぐわかる。
善良であることを自分に許そう。私は善良だ。でも善良であってはならないと思い込んでしまった。本当は誰よりも善良だ。だから善良であっていいよと自分に許す。それから人が好きだ。でも好きであることを禁じている。だから好きになっていいよと許す。自分が好きだ。だけどそれも禁じている。だから自分を好きになっていいよと許す。これで世の中は全てうまく行く。
世界一善良であろう。強くなくてもいい。善良であろう。それが私の本質だ。人間の本質はそうだ。
善良であればうまく行く。善良であるということはいいことだ。善良であってはいけないと思っているから、悪いことをするのだが、善良でもいいじゃないかと自分を許す。それで開けてくる。人を愛する。人を許す。自分を愛する、自分を許す。これでうまく行く。
邪悪なことは心の中から一掃して、善良なことを考え、善良なことを行おう。それだけで世界は開けてくる。
善良であることを許す。好きであることを許す。人も自分も。すごく楽しい。全てが新しくなった。全て良いことばかりだ。
善良であることを許すと強くなる。人や自分を愛する勇気が出てくる。人権を侵害されても戦う勇気が出てくる。暴力や暴言を吐く奴らに負けない。自分が善良であることを許す。これが今年最大の気付きだ。



2006年12月27日(水) 病院

a病院に行ってきた。あの医師はやさしいんだと思う。だから私も攻撃的にならないようにしよう。大分良くなった。私は善良である。人が好きである。自分が好きである。これからはいいことしか起こらない。ババアが小さな悪いことをする。何もしていないのに嫌がらせをしてくる。全くわからない。見た瞬間に興奮して攻撃してくる。全くわからない。薬飲んだほうがいいんじゃないのか。
善良になるといいものが色々見えてくる。心閉ざして悪にまい進するといくらでも地獄のような苦しみが押し寄せる。私はもう苦しみたくない。善良だ。私は善良だ。そう認めることだ。そうすればどんどんいいことや幸せがいくらでも押し寄せる。
りんくうアウトレットに行ってきた。おめあてのものはなかった。でも良い暇つぶし&運動になった。



2006年12月26日(火) 年末

もう年末だ。何も準備していない。掃除もしない。昨日は熟睡はできなかった。酒を飲み続けて脳が興奮状態にあって、薬が十分効かなかったのだ。今日からは眠れるだろう。こうして休めることに感謝だ。両親にも感謝している。そして謝罪する。許せなかった自分を許す。見境がつかなくなっていたのは病気のせいだ。でもそれは私のせいとみなされるだろう。それは甘受する。
善良であること、道徳的であることは気持ちが良い。人が好きであり続けること、自分が好きであり続けることは気持ちが良い。この二つだけで過ごせる。
悪の原因はなんだろうか。わからない。そういうことを言うとzは怒り出す。あくなんか関係ないと。私は善良でありたい。道徳的でありたい。そう考えるとつじつまが合う。ちょっと前まで朝から寝ていたのに比べるとかなり良くなった。やっぱり薬が効いてきたのだ。私は大体のことがわかってきた。悪は良くない。人を好きであり続けること、自分を好きであり続けること。これが最低限の義務だ。
今日は雨。どこにも行きたくない。行く場所がない。本を読むのももう一つ。書くのも嫌だ。今はじっと試練のときだ。焦っても仕方がない。昨日はうまく行った。というかよく自分が見えた。よく自分が見えれば自分をコントロールできる。
今日は一歩も外に出なかった。家にいるのが一番良い。やがて脳も回復してくるだろう。精神も安定してくるだろう。善良であることに自信もつくだろう。荒廃した気持ちで生きていくことはできない。善良であろう。人が好きでい続けよう、自分が好きでい続けよう。
統合失調症は胎児のときに原因が生じるという。私は逆子だったという。もしかして母胎での脳の成長がうまく行かなかったのかもしれない。思春期の頃にも非常に生き辛い感じを持った。最新の学説と一致する。大体私に起こったことが何かわかった。もう何でもわかる。恐れるに足りない。
私は善良である。人が好きである。自分が好きである。善良であるということはいいことだ。これで全てが解決する。これからいいことだけが山のように起きる。全てが新しくなり、悪いものは良くなり、いいことだけが雪崩のように起きてくる。悪い習慣はやめて良い習慣に置き換えよう。
これからは楽しいことしか起こらないような気がする。今でも十分楽しい。



2006年12月25日(月) チュートリアル

チュートリアルが優勝した。おめでとう。以前から注目していたが、やっとこれで全国に知られることになる。ただ一体どれだけの人間があの笑いを理解できるのか、心配ではある。ミクシーで変な女に中傷されて不快な思いをした。黙っているのも業腹なので、そのことを書いてやった。女というのは本当に仕方がない。女はウジムシだ。馬鹿にしてやればいいのだ。私は善良だ。人が好きだ。自分が好きだ。そういう人間を傷つけることは許せない。
何か目覚めた気がする。薬が効いてきたのだ。こんな気付きは今までになかった。この5年間苦しんできたことへの答だけでなく今まで物心ついたときから生きてきたことの答が見つかった。良かった。少し落ち着いたら整理しよう。
ミナミに行ってきた。二日連続。冬休みに入った若者たちで結構にぎわっていた。一人さんの幸せセラピーと金儲けセラピーとコーチングの本を買った。すごくわかりやすい本だ。謙虚な気持ちだ。前回の躁状態のときとは違う。あの時は誇大妄想だった。統合失調症はいってた。今は穏やかで優しい気持ちだ。女なんかどうでも良い。どうでもいいといっても優しくしよう。いたわろうという今まで全くなかった気持ちが芽生えてきた。私と宅間と小林以外は誰でも持っている。宅間も悪の道に入らなければ、ちゃんと働いて妻子を養うくらいのことはできたはずだ。
言葉でうまく説明できないが、私は自分の病気というか問題がどう発生し、どう私の行動や人生に悪影響を与えてきたかが非常にクリアーにわかった。考えたからわかったわけじゃなくて何となくわかった。わかるべくしてわかった。ヒトが言葉をしゃべり始めたときのようだ。完全に道徳的であって、人を愛し、自分を愛することが可能だ。今までは全く可能でなかった。自分がどういう状態か全くわからず、従って何をやったらいいかわからなかった。今はわかる。やっていいことと悪いことに区別がこの年になって初めてわかった。
私の療養は紆余曲折を経たが、結局ベストだったと信じる。脳の動きが非常に緩慢になったが、なぜかそれが良い方向に作用したらしい。非常にクリアーに今までの人生がわかった。同時に世の中がよくわかった。人の言葉が急に聞こえて来るようになった。同時に人を愛せるようになった。自分も愛せるようになった。
ああ眠れない。やっぱり、酒を三日も四日も続けるのは良くない。パニックにはならないが、やっぱり、辛いものだ。調子がいいからといって無理をせずに自分を労わろう。今は本当に弱っている。女やババアや餓鬼にまで馬鹿にされて抵抗もできない。ひっそりと身を潜めて気配を消して、養生しよう。怠け者だといわれてもいい。違うのだから。道徳的で正直でよい言葉だけを口にし、良いことだけを考え、おとなしくしていよう。善良であると信じよう。性善説。自分も人も善良で悪い人はいないと。決して裏切られることはない。



2006年12月24日(日) クリスマスイブ

昨日はテレビが面白かった。善良であるということはいいことだ。悪いことをしても何もいいことはない。わかっていてやるのは自虐だ。それに尽きる。悪いことをわかっていてやってしまう。この自虐を止めろ。これだけだ。昨日からあまり気分がよくない。アルコールを飲み続けたからか。一昨日はいい気分だったのに、調子に乗りすぎたか。優しい善良な人間であることを恥じる必要があるだろうか。今こそ自分を好きになれた。自分をいじめなくてもいいんだ。誰のために自分をいじめるのか。全くわからない。人を好きになる。信用する。人に優しくする。一人で暮らしていると人に優しくするとか配慮するとか、思いやりとか全部忘れてしまう。鬼畜のようになってしまう。善良であることはいいことだと気付いた。これが一番大きな気付きだ。簡単で一番力強い。
私は善良だ。私は人が好きだと唱えていると、不思議と心が安らぎ、落ち着く。悪いことが良いことみたいな勘違いが私にはある。悪いことは悪いことで、良いことは良いことだ。善良でいいじゃないか。善良だったら困ることがあるのか。私は善良だ。人が好きだ。
善良であることは恥じることではない。善良であろう。あのときから善良であることをやめてしまった俺。元に戻ろう。今からでも遅くない。善良であろう。姉や兄は私が乱暴者だったので嫌ったのだろう。責めることはできない。母親ももてあましていた。善良になることが答だ。
悪人を卒業します。私は正真正銘の善人になります。人を好きにないます。自分を好きになります。これは努力目標です。宣言です。誓いです。約束です。
どんな人間にも善と悪がある。どちらも生きていく上では必要だと認めざるを得ない。生存とか利己主義とか実存とか言葉を変えてもやっぱり、根っこには悪があるだろう。でもそれを追求してはいけない。純化することは許されない。例えばナチスとか南京とか原爆のようなことを認めることは誰にもできない。善と悪はバランスをとらないといけない。フェアーであるとはそういうことか。私も生きていくためには最低限のものが必要だ。だがそれ以上にほしいとまでは強くは思わない。お金がたくさんあればいいけど、なくても困らない。稼げる人はいっぱい稼いでくれ。私はほどほどで良い。ホリエモンがいいだろうか美女と自家用ジェットで南の島へって、確かに楽しそうだが、悪いことはしちゃだめだろう。一番の基本を踏み外している。グレーゾーンというヤツか。アメリカの資本主義なんか真っ黒だ。日本に太刀打ちできない。
私は善良でありたい。実際善良だ。善良だと競争に負けるだろうか。そんなことはない。善良で人が好きで自分が好きだったらいけないか。ほとんどの人はそうじゃないか。何で人は物語に癒されるのか。人のほとんどの活動は自己表現じゃないか。物語じゃないか。人の一生は物語で、働くことはものづくりであれ、サービス業であれ、表現行為であり、物語であり、芸術活動と変わりはない気がする。
人生が変わった。善良な人間になった。人が好きになた。自分が好きになった。ものの見え方が変わった。「清太郎さんの森」という地味だが良い番組を見た。効率至上主義の人工林じゃなくてエコロジカルな森を作っている粋なおじさんの話だ。良い人生はフィクションのようだ。楽しんで生きている。もっとも林業だけでは食えなくて米作りもやっている。ロマンでは食えないのか。でも食える食えないではなく、生き方の問題だ。ここまでわがままだといっそ気持ちが良い。善良な人だ。森で育った杉で家を建てた家族は大喜びだった。清太郎さんはロマンの力で家族を癒すのだ。ロマンが実学であるゆえんだ。もう一生かかっても償えないくらい深く大きな罪をたくさん犯した。今でも犯しているだろう。だから心置きなく残りの人生は良いことだけしよう。善良な人間になること。人を愛すること。自分を愛すること。
ミナミに行ってきた。大変な人出だ。やっぱり、南のほうが落ち着く。まったりとした人の流れ、関西人らしい気の長い感じ。関西人て私が思っているより気が長いんじゃないかと思う。私は気が短すぎる。焦りすぎる。焦りすぎて結局全部だめにしてしまう。仕事も女も人間関係も、何もかも。あわてるこじきはもらいが少ないとはこのことだ。善良である。私は善良だ。人が好きだ。自分が好きだ。この気持ちがとても大事だとわかった。



2006年12月23日(土) クリスマス。

世間はクリスマス一色だ。なぜクリスマスは幸せじゃないといけないのか。
昨日は良く眠れた。酒を飲んで朝まで眠れたのは久し振りだ。良くなったんじゃないか。昨日のいい気分はまだ続いている。いい気分は自分で作ることができる。維持することができる。いい気分になることができる。嫌な人物や出来事を考えないことでいい気分になることができる。昨日から気分がいい。
電車の中でも気分がよかった。自分の欠点のことが気にならず、人と同じ気持ちになった。おじさんたちがどんな気持ちが良くわかった。すごく楽だった。
良くなることはいいことだ。良くなることが悪いことと思っていた。良くなることはいいことだ。そう考えると良くなる。
脳がダメージを受けてから余計なことを考えなくなったので、良くなったかもしれない。人とトラブルを起こすこともなくなった。
人間が良くなった。あの薬のせいだ。人が好きになった。誰でも好きになれるし、嫌われても怒らない。悪いことをしなくなったし、しようとも思わないし、考えもしない。人が心の中で悪いことを考えることは知っている。でもそれは良くないことだから、自分もそうしたいとは思わない。自分が今までしてきたことは悪いことばかりだ。それは非難されるだろう。友達もできないし、評価もされないだろう。悪いやつとばかり付き合い、悪い遊びばかり覚え、親不孝ばかりする。そういうやつを悪人というのだ。それは誰も付き合ってくれない。今からでも遅くないから立ち直ろう。心の底から立ち直ろう。人のこと何かどうでも良い。まず自分のことだ。
人間は良い生き物でありたい。悪い生き物だったら困る。そんな生き物はいらない。良い生き物である報酬は無限大だ。悪いことをする代償も無限大だ。だから良いことをしよう。良いことを考えよう。元々良い生き物だった私が、どういうわけかあるときから悪いことばかり考え、するようになった。それが精神異常につながった。なぜかということはよくわからないし、考える気もしない。そういう素質もあっただろうし、環境とか偶然もあるだろう。私は重大な犯罪は犯していない。でも小さい犯罪は犯した。またつかまらないが人道上、道徳上の大罪を犯した。私は十分その罰を受けた。もう立ち直ろう。立ち直ることが罪を償うことに他ならない。ああ酒よ。私を癒してくれ。生きる力を与えてくれ。悪い気持ちを抑えてくれ。人には悪の心がある。それを抑えて生きていくのが人間だ。私は大事なことに気付いた。私は病気なんかじゃない。統合失調症なんかじゃない。単に勘違いしたり、悪いことをするだけのけちなヤツだ。思い直して普通の人間になろう。
すごくいい気分だ。すごくいい気分とは有頂天とは違う。自分が改心して人とのつながりを思い出し、生きていけるという感じ。これが当初の有頂天とは違う。すごく良くなった。悪いことをしない感じがする。何で人とうまく行かないか。仕事がうまく行かないか。悪いことをする癖があるからだ。本当に悪い人間ではない。気の弱い愚かな人間だ。その癖さえ直せば良くなる。放哉だって、酒さえ飲まなければ優秀で良い人間だった。酒を飲み始めたのがいとこの女性との失恋だったという。偶然ともいえるし、必然ともいえる。芥川もある女性との結婚を反対されてからおかしくなったらしい。それも幼時から蓄積された何かかもしれないし、突き止めることはできない。私は意志の力で正常な状態に近づけることは可能だと思う。昨日そう思った。今日もそう思う。薬が効くということは悪い部分が良くなるということだ。悪をすることはしんどい。悪の魅力に人は取り付かれることがある。でもやめた方がいい。悪い人間でいい思いをしたヤツはいない。サドは精神病院で一生を終えた。せっかくの溢れる才能を下らないことに費やした。文学的には素晴らしいが、人間としては最低だ。私はそんなものになりたくない。愚かでも真面目に真っ正直に生きたい。
私は善悪の区別が付いていない。損得勘定もできない。そんなヤツに仕事は任せられない。今はすっかり良い人間になった。気分も良くなった。薬のお蔭だ。感謝しよう。薬で性格良くするなんておかしいが仕方がない。最後の手段だ。悪いことを考えなくなった。悪いことをしなくなった。自然に良い人間になる。いい気分になる。好循環だ。
昨日は楽しかった。何が良かったといって、自分が良い人間になったことだ。悪いことをしなくなった。考えなくなった。考える必要ないのだ。悪はしんどい。自分が嫌がることをしてはいけない。それが悪だ。悪は人に悪いことをする前に、自分に悪いこと、しんどいことをすることだ。smとかしんどいだろう。どうしてそんなしんどいことをするのか。何の意味もない。そのことに気付いてから悪いことをしなくなった。何でわざわざしんどくて何の意味もなく、自分にも人にも痛みや害を与え、その報いを受けることをするのか。キチガイだ。私は薬の処方によってその悪循環から逃れた。悪いことではなく、良いことをしようと思った。心からそう思った。父は私と同じで悪いことを嫌った。でも自分の中の悪をどうにもできず、酒に逃げた。自分に悪いことをした。かわいそうだ。批判しているのではなく、それくらい善良だった。自分が悪であることを恥じた。私もそうだ。でも悪は人間に動物に生まれつき備わっているので、完全になくすことはできない。そうしようとすれば人類は滅びるだろう。いいことだけやろうとした国は滅びた。共産主義国家だ。悪いことやり放題の国が結局もっとも栄えている。歴史が証明している。勝とうとすれば悪いことをせざるを得ない。
悪いことはしない。そういう人間になった。自分が優れているとも思わない。悪いことをする人間が優れているはずがない。でもこれからは決して悪いことをしない。
気分は割といい。ところであの医者とは相性があまり良くない。恐い感じがする。人のことを統合失調症とか確たる根拠もなしに決め付ける。でも薬が効いたのでよしとしよう。
自分が嫌がることはやめよう。平井先生がいいんじゃないか。数時間待たされるが。
梅田に行ってきた。昨日よりは気分が悪かったが、大過なく過ごせた。ヨドバシカメラはすごい人出で、圧倒された。ミナミの2倍くらいの規模になっているんじゃないか。だいぶ水をあけられている。もうミナミの方になじんでいるので、何だか恐い気がした。特にブランド物を売っているコーナーは殺気立った雰囲気だった。あれは気持ちのいいものじゃない。
町を歩くのは情報を得るためだと聞いた。そうだと思う。物を買うためだけとは限らない。最後のほうは少し気分が悪くなった。昔の自分がまた復活する。やっぱり自分が嫌がることをすると、悪いものが出てくる。
帰りの電車で座れたのはいいが、向かいの年配の男女が葬式がどうとか辛気臭い話を気味悪い口調で話し始めた。気分が悪くなった。嫌がらせっぽい。人の嫌がることを見抜くのがうまい。何の芸だ。私はあんな人間にはなりたくない。悪いことはしない。心の中もきれいにしよう。
私は悪いことをいっぱいしてきた。残りの人生は良いことだけをして生きて行こう。良いことを考え、良いことをすることは楽だ。寝ていてもできる。悪いことをするのは疲れる。不安で恐い。見返りも全くない。必ずひどい目に遭う。それでもやる。何なんだ。楽をしたいか。であれば良いことをしろ。一番楽なのが、良いことだ。
楽をしたければいいことをする。良いことを考える。それだけだ。



2006年12月22日(金) 散髪

昨日は散髪に行った。やっぱり切れられる。何かおかしいのだろう。だから人に会いたくない。外に出たくない。zにも会わないほうが良い。
少し楽しもう。それがぼけの回復を早める。
少し調子が良い。今楽しいと思うことをやったら良い。何でも良い。楽しいことをやってみよう。明るく楽しく。人のことはいいから自分のことをやろう。
脳がぼけても良い。困らない。騒ぐ必要はない。ぼけたからといって誰かに迷惑をかけたろうか。大丈夫だ。
今日はミナミに出かけて、バランタインの17年ものとブランディーを買ってきた。店員のおっさんは私の顔を覚えてくれているみたいで気分良かった。今日は全体に気分が良かった。人が全く恐くない。気持ちに変化が生じた。手帳を買った。一年かかってやっと平常心を得ることができた。薬の効果だろう。リスパダールでも良かったのだが、結局人はストーリーを買うのである。ストーリーを生きるのだ。バランタインの17年物は私にとって何かのストーリーに他ならない。おばあちゃんは小さなマグカップをプレゼント包装してもらっていた。孫にでもクリスマスプレゼントにするのだろう。それもストーリーなのだ。私は手動のコーヒーミルを買った。それもそうだ。ネットで見ていたものがあったので衝動買いしてしまった。買い物とは何だろう。生活にどうしても必要なものを買い揃えてしまうともうほしいものはないはずなのに、やっぱり、ストーリーを求めて商品を買うのである。誰かと何かとつながっていたいという気持ちが、携帯やipodを買わせる。私はほとんど使わないが携帯を持っている。意味不明だ。全く生活に困らない。誰の携帯番号もしないし、メル友もいない。全く困らない。
今日の気持ちをどう表現すればいいのだろう。ものすごくいい気分というわけではない。でもアルコールの作用なのか、すごくリラックスした気分、不安や恐怖を感じない。もう一年になるがやっとこういう自分の境遇を許せるようになったのだ。薬の作用も大きいと思う。人に優しくできるし、人の優しさがごく自然に受け取れる。人を好きになるし、受け入れられる。人を差別したり、嫌ったりするのは良くないことだ。結局自分に返ってくる。あのちんちくりんの馬鹿女が私を理由もなく攻撃してくるのは、私があいつを嫌っているからだろう。私には美の基準があってそれをクリアーできない存在を許せないのだ。例えば、高級ブランドの店に貧乏人が入ってきたら、店員は露骨に差別するだろう。それはある意味当然だ。差別されたくなかったら、それにふさわしい、財力と地位を得るか、近寄らないかだ。
今日はとにかくいい気分だ。女子高生でも訳のわからん女でもヤンキーでもおっさんでも受け入れられるようになった。表を歩いていても楽しい。恐いとか不安とか感じなくなった。目立ちたい。偉くなりたいと思うようになった。



2006年12月21日(木) 深夜

日付が変わってしまった。脳が少しダメージから回復したかもしれない。難しいことが考えられるようになった。思いついたことを忘れてしまった。
大体自分の病気、あるいは健全さについてわかるようになった。うつだったり、統合失調症だったり、神経症だったり、ptsdだったりするのは何か表現というか現われのようなものであって、病名はどうでも良い。核にあるものは死の恐怖だったり、漠然とした不安だったりする。小さい頃からそういう個性は持っていた。夜中に死の恐怖から目覚めて大声で叫んだりしていた。そういうものが環境との兼ね合いで反社会性、あるいはメンタルな症状に膨らんで行った気がする。ptsdスペクトル障害群のもっと拡大版みたいなものだろう。全ての精神疾患を包摂している。でどうすればいいかというと、時々に応じて、デパスなり、パキシルなり、リスパなり、ジプレキサなりを飲めばいいだろう。それ以外のアプローチはないだろう。カウンセリングも効かないことがある。今日も休みだ。嬉しいな。私が昨日書きたかったことはこれだろう。多分。
昨日は眠りが浅かったし、寝た気がしない。ずっと起きていた気がする。酒は相性が悪い。飲まないほうがいっそ良い。
精神疾患とは現実と内面がずれていくことだ。ずれが軽ければうつとかノイローゼになるし、甚だしければ、統合失調症になる。うつも極端な思考をしたり、自虐的な考えをすることが多い。認知療法の対象になる。統合失調症はこれと全く無関係ではない。妄想などは現実と主観の食い違いを表現したものだ。幻覚などは実際にないものまで見てしまう。主観と客観のずれが極限まで拡大したものだ。私もずっとずれたまま生きてきた。ストレスが加わると、ずれが拡大して問題になる。今は境界例的なゾーンにいると思う。統合失調症というのは極端だが、薬が効くのならばやむをえない。
食欲が亢進して困る。食後にも何か口寂しく食べてしまう。こんにゃくを大量に調理しておいて置く。いくら食べても太らない。後は寒天のゼリーなど。病気の巣みたいな私はゆっくり休んだ方がいい。
めまいがひどい。体の脱力感。脳のボケ。何とかならないか。
散髪に行ってきた。これで正月が迎えられる。暇だから暇なことを生かせるようなことをしたい。料理でもやったらいいんじゃないのか。もっと楽しんだらいいのだ。
楽しい。脳が酔ったようになっている。眠いときと同じようになっている。これは人は余り感じ良くないらしい。攻撃されることもある。関係ないだろうと思う。



2006年12月20日(水) 早朝覚醒

昨日酒を飲んでまた早く目が覚めた。3時前。女は言って要らんことを言い、して要らんことをする生き物だ。それがいいと思っているらしい。もう気にしないことにした。何かしてきたらああまたかと思う。それでいいんじゃないか。やめさせることはできない。するなということをし、言うなということを言う。それが女だ。子供と同じだ。馬鹿じゃないのか。それを止めさせようとするのはもっと馬鹿だ。
今日もいい天気だ。家にいるのが悔しくなる。6時くらいから少し寝た。合計では結構寝ている。9時間くらいか。脳がダメージを受けているのでいじめられる。でも前からそうじゃないのか。というか自分のあり方からして攻撃されても仕方がないというか。
zにも攻撃された。でも仕方がない。やっていることは余り良くない。でもそれも仕方がない。でも薬が効いてきたのでこのまま行けば治る気がする。以前の薬だと治る気がしなかった。眠れるというのは大きい。
今年は良い年だった。脳のダメージなどどうでもいいじゃないか。本なんか読めなくても良い。
b校の嫌な女にまで馬鹿にされた。何もしていないのに攻撃してくる。嫌いだから嫌いだといっているのに。理由なんかないだろう。おかしいんじゃないか。何もしていないのに嫌がることをしてくる。そういうものだ。女というものは。するなということをし、言うなということを言う。相手にしないことだ。
アカンジアかなと思う。じっとしていられない。酒が悪いんじゃないか。
楽しい。一度くらい山に行ってみようか。朝早く起きること。明るいうちに帰ってこれること。文章が書けなくなった。読むに値する文章が。それを見抜いてあんなことを書いてるんじゃないか。あの性悪女は。どうしてあんな根性の悪い女に近づくのかわからない。自分が嫌な方、苦しむ方に行ってしまう。今の病院もそうだ。z氏もそうだ。自分が嫌な方苦しむ方に行くのは昔からそうだ。
なんばに行ってきた。地図を買った。意外に高くて2000円近くした。いつもより、穏やかで落ち着いた感じがした。自分の身分とかどう見られているかとか、余り気にならなかった。この方向でいいんじゃないか。この薬、こういう生活、こういうリラックスで良いんじゃないか。そう思った午後だった。
z氏とは会わないほうが良いんじゃないかと思う。お互いに不信感を持っている。お互いに傷つけあう。egのことで不快なやり取りがあった。あれの言うことなんか聞かない方が良いんじゃないのか。何で付き合うのか。機嫌を取る必要はない。あれの機嫌を取るためにegに出たり、b校に出たりしたのだ。間違っている。
依存しない方がいい。薬にしろ、医者にしろ、カウンセラーにしろ。功罪両面あるのだし、100%信頼できるはずもない。実際egは大失敗で、いまだにその悪影響というか、悪い連鎖のために立ち直れないでいる。カウンセラーなんか私の処方箋ではない。どうも眠れない。でも薬のせいか苦しくもない。酒と薬はどうやら正反対の効果を持つらしいから、なるべく酒は控えた方がいい。脳が壊れる。医者が出す薬は結局、どの曲が好きかということくらいでしかない。デパスという曲がすきなのか、リスパダールなのか。好みの問題でしかない。統合失調症かうつ病かptsdかなんて誰にもわからない。私のことを統合失調症と思うヤツはいないだろう。幻覚も幻聴もない。妄想もない。ただどの薬が好みですかという程度の差しかない。どの薬も一定の効果がある。どの効果がお好みですかということだ。昔だったら有無を言わさず入院ということなのだから、世の中進んだものだ。これで文句を言うなんて贅沢というものだ。
少し落ち着いてきた。脳にブレーキをかけることができた。
薬のせいか気分が軽くなってきた。眠れるというのが大きい。今日は眠れないが。もっと元気に復活したい。でもとやかく言われるのは困る。道徳的に悪いかのように言われるのは困る。病気とかアルコールによるダメージによるものなのに、私が悪いかのように言われるのは大変困る。勘違いも甚だしい。プロのカウンセラーにしてそうなのだから、一般民衆はそうなるだろう。だから人と会いたくないというのだ。zというのは完全におかしい。似非カウンセラーだ。でも薬のせいで少し回復した。この分ならいずれ回復する。人間はメンタル的に大丈夫な人間とそうでない人間の二通りいる。大丈夫でない人間はスペクトラム的にありとあらゆる病気を抱え込む。ptsdスペクトラム障害群を更に発展させれば、統合失調症やノイローゼも包摂するようなスペクトラムを考えることが可能だ。実際私がそうだ。ありとあらゆる病気の可能性がある。どの薬も相応に効く。だからパキシルも効くし、ジプレキサも効くのだ。でも損なわれていない、正常な部分も残っている。その部分を生かせば、狂気の部分は個性ということで通る。三島由紀夫も芥川も川端も狂気と正気の間を往還した。そんな人間にとって、世間の常識など意味を成さない。診断しても無意味だ。彼らが統合失調症であろうと人格障害であろうと無意味だ。私もそういう人生を歩む以外にない。何かのマスターになるのだ。大学を出るとマスターとかドクターとか称号がつく。仕事でも同じだ。経理のマスター、人事のマスター、自分の与えられた仕事のマスターになるのだ。私は何のマスターにもならない。小説家なら小説家としてクリアーすべき水準と言うものがある。芥川賞というのはあなたは純文学作家として水準をクリアーしていますよということだ。それだけの知識と技量を備えているということだ。それなくして憧れだけでは無意味だ。田舎暮らしならそれのマスターにならないといけない。年金生活者ならそれなりのマスターにならないといけない。
少し楽しんで生きよう。楽しむことを自分に許そう。



2006年12月19日(火) 師走

今日は良く眠れた。昨日は10時くらいに寝たと思うので、10時間は眠れた。ぼけは眠れる要素だ。ぼけているので長く眠れる。このまま良くなってくれないか。ぼけは少しずつリハビリしていこう。統合失調症は薬で治していこう。
しんどい。全身の力が抜ける。頭がぼけて新聞も読めない。どうしたらいいだろう。
しんどい。でもいい。ゆっくり行こう。
しんどい。めまいがする。こんなにいい天気なのに、めまいがしてだるくて外出できない。しんどい。意識がなくなってくる。大泉緑地に行ってきた。立っているだけでめまいがしてくるので、早めに帰った。でもいいところだ。森林浴もできる。堺にはいいものは何もないが、あそこだけは自慢できる。居心地のいい場所だ。
酒を飲んだ。会社何かどうでもいい。脳がダメージを受けようがどうでもいい。人間何かどうでもいい。世の中なんてどうでもいい。



2006年12月18日(月)

今日は良く眠れたと思う。夢うつつで起きてもわからない。今日は寒い。脳が鈍重になっている。食欲は相変わらずだ。目のかすみも。耳鳴りもひどい。作家の話を見ると興味をそそられる。以前は基本的な仕事が尊いと思っていた。金融より製造、農業とか、公務員とか政治家とか。どういう基準かわからないが。でも今は都市的なニッチな仕事も良いんじゃないかと思う。例えばさっきの作家エージェントとか。ニュービジネスっぽいこと。競争相手がいなくていいんじゃないか。田舎暮らしはそういう都市のうたかたのような暮らしが嫌で、地に足をつけた生き方がいいといって始めるのだが、私には無理そうだ。
疲れた。長い時間横になっているのに疲れが取れない。これで復帰できるのだろうか。
楽しい気分にならない。小説を書いてみたいと思わない。温泉行きたいとも思わない。女と遊びたいとも思わない。前頭葉がだめになったのか。新しい薬のせいか。わからない。廃人のようだ。
飯を食った。少し元気になった。何もできなくなったような気がする。外をさまよい歩く気がしない。馬鹿にされたり、変な目で見られる。今日は寒いらしい。ありがたいことだ。休んでいられるのは。それもあとわずかだ。
一年休んだけれども、結局悪くなったみたいだ。楽しいこともほとんどなかった。小説も書けなかった。読めなかった。
しんどい。外出した。天王寺のmioでダウンベストを買った。せいぜい山歩きしよう。やっぱり外出するとちょこちょこ不愉快なことに出くわす。でも大丈夫だった。世間の人は全くマイペースで生きているのだなと思う。あの薬のせいかマイペースを保つことができた。
疲れた。愉しみが湧いてこない。でも何とか過ごすことができた。
しんどい。何か楽しいことがないか。この薬がいいかどうかわからない。大体私が病気かどうかわからない。症状もないし。私は病気なんかじゃない。会社を休みたいばっかりに、そう言い張っているだけだ。
大体病気じゃないのに何の病気か聞いたって答えられない。無理なことをすれば嘘をつくしかない。江原みたいなことになる。あの医者は江原に似ている。嘘つきなんじゃないか。
大体病気でないのに何の病気か聞いても答えられない。



2006年12月17日(日) 師走

師走だな。昨日は7時に床に入った。10時くらいに薬が効いてきて眠れた。でも早く目が覚めて、3時くらいからうとうとしていた。夢を良く見る。睡眠が変わってきた。少しゆとりが出てきた。昨日はカレンダーを買った。食欲は相変わらずだ。起きていても眠っているようだ。
頭がはっきりしない。あの医者は私を嫌い恐れているようだ。統合失調症というのは誤診ではないかと思う。過去にそうだったからという極めて粗雑で乱暴な理由は納得がいかない。でも薬が効けばいいのであって、病名はどうでもいい。医者もそう思っている。
見通しが立たない。楽しくない。不安だ。職場復帰に黄信号がともった。どうしたら良いのかわからない。必ず治る。少しずつ良くなっている。
立ちくらみやめまいは当初よりは良くなった。目のかすみや活字が読めないのも少しは良くなった。全てがいつかはokになるだろう。
しんどい。脳がダメージを受けている。酔ったような状態になっている。眠った状態でもある。活字を読んだり、言葉を聞いたり、映像を見たりするのは疲れる。前頭葉が疲れている。人ごみが疲れる。目が少し明るくなった。徐々に正常化していくだろう。
疲れる。朝起きたときと同じくらい疲れた。自分で自分を守っていこう。頑張ろう。時がたてばだんだん良くなる。必ず良くなる。
しんどい。目が明るくなってきた。目のかすみも治るだろう。zに攻撃されることもなくなるだろう。
食欲だけが進む。副作用の多い薬だ。仕方がない。でもこれを飲んでから目のかすみが改善した。
しんどい。今日は一歩も外に出なかった。統合失調症の本を読んでいた。自分がそうだとは到底思われない。私は病気ではない。これからどうしていこう。職場に復帰できるだろうか。
中一の頃自傷行為をした。やっぱり当時から変だった。必ず治る。必ず立ち直る。



2006年12月16日(土) 希望

私にも希望が見えてきた。頭が悪くなって、人に馬鹿にされようとも、希望が見えてきた。偉くなれなくても良いんだ。私は中学時代に統合失調症を発症した。同時にptsdスペクトラム障害群を発症した。その後に私の行ったことは、その影響下にあることで、私に責任はない。多分。半分責任があるとしても私は自分を責めることができない。誰でも私のような病気を患えば、正しいことをすることは期待できなくて、悪いことをするだろうからである。そして今、ババアや小学生にまで馬鹿にされる自分であるからといって、自分や他人を責めることはできない。その代わりなのか、私は希望が見えてきた。良い薬を得て、落ち着いた穏やかな気持ちを見出した。薬なしで、心理療法や、宗教や哲学でこの精神状態を得ることはいまだかつて可能ではなかった。最新の医学はこれを可能にした。医学薬学、テクノロジーは日進月歩だ。得られるはずのなかったものが、今手にはいる。しかも安価で。千年前には王侯貴族も得られなかったものだ。私は希望を得た。長い苦闘の末に希望を得た。私は自分を許すことができた。自分の過去ばかりでなく、現在と未来を自分に許すことができた。この悪循環を断ち切って、生きるという希望を自分に許すことができた。私のしたことが私の責任でないならば、許すも許さないもない。たとえ私の責任であったとしても、許すことができる。私がコントロールできないものがリモコンのように私を乗っ取り操縦し、行わせたもののように感じるからだ。させられ感。統合失調症に良く見られる感覚。一部でもそういう状態にあれば、全てがその影響を逃れることはできない。だから私は自分を100%許せる。これからは統合失調症とptsdスペクトラム障害群に冒されなかった私として生きることが可能なように思う。薬はそれを可能にしてくれる。奇妙な病気の核のようなものを真珠のように何重にもくるみこんで、コントロールしつつ、生きていくことができるように思う。今の私をどれだけ道徳的に非難しようと、私には無効だ。ついこの間まで、私の病気の核は、私の苦闘によって真珠のようにくるみこまれていた。それが、脳にダメージを受けることで、それは私のそれが私を操ってそうさせたともいえるけれども、殻を破って飛び出し、私を再び、コントロールしようとし始めてきた。人格の荒廃をよりいっそう進めようとし始めた。そこに薬を飲んだので、それは抑えられようとしている。私の正気な部分が、再び目覚めようとしている。酒は良くない。私の脳にダメージを与えて、核が再び私を乗っ取ろうとする。薬を一日でも多く飲めばそれだけ、回復は早まる。この自明のことを実行しよう。その核に栄養とチャンスを与えないでおこう。
きっと治る。必ず治る。この薬で治る。私の病気の姿が明らかになった。急速に悪化した最近の病状。これは必ず良くなる。中学以来の自分の病気の姿が明らかになった。あの薬を飲んでいるとゆとりを感じる。今までにはなかったことだ。根治できる。
少し元気になってきた。そう思う。心がきれいになってきた。ゆとりということだと思う。きれいな面が出るようになって来た。鬼畜のような面とか卑しい面は出なくなった。誰も馬鹿にすることも差別することはなくなった。ゆとりだろう。薬が私を支えてくれている。
私が鬼畜のような行為をしてきたのは、私を乗っ取った病気がさせたのだ。私に責任はない。大変申し訳ないとは思う。心から悪いと思っている。でも私にはどうしようもなかった。どうか許してほしい。これからはこの薬を飲めば、決して悪いことはしない。
脳にダメージを受けたことで記憶障害になり、思考がうまくできなくなって、不安を感じる。それで転院したのだが、統合失調症と診断されてしまった。これでいいのだろうか。成り行きだから仕方ない。よほど矛盾が大きくなれば、再転院もやむをえない。しかし、今のところ薬は効いている。この調子で行こう。
明るく楽しく生きたいものだ。薬を飲み始めてから、少し良くなった。鬼畜のような考えはすっかりなくなった。穏やかになった。優しくなった。常識がわかるようになった。腹を立てることがなくなった。
何か疲れた。この薬を飲むのも一か月くらいすれば、よくわかるだろう。少しめまいがする。中学の頃おかしくなった。でも良いだろう。自分を責めることはできない。誰かを責めることもできない。病気を責めることもできない。災害みたいなものだ。今できることは薬を飲んで療養することだ。
ああ楽しい。本当に馬鹿になったのだろうか。情けなくなる。誰からも馬鹿にされる。最近の不調はひどい。誰にでも馬鹿にされる。あの病院との相性はどうだろう。良いとは思われない。しかし、成り行きだから仕方がない。
酒は二日続けて飲んではいけない。週に一回で良い。酒を飲んでも調子は悪くならないといっても二日続けるとやはりおかしい。この不調はなかなか理解されない。自分でも微妙だ。
しんどい。でもしんどいなりに何とか過ごせた。私は自分の望んだ人生を生きているのだ。天王寺に出てカレンダーを買った。本当にカレンダーが好きだ。会社からもカレンダーが届いた。私が催促したからだろうか。しんどくてもゆとりがある気がする。妄想的な考え方をしていることに気付いた。それはうつにもつながるかもしれないし、統合失調症や人格障害にもつながるかもしれない。人間は全ての病気の要素を持っているとある医師は言った。そうかもしれない。ptsdスペクトラム障害群の考え方はそうだ。それに統合失調症がくっついていてもおかしくはない。パニックになったり、落ち込んだりしない気がする。あの薬のお蔭だ。kクリニックでも同じかもしれないが、病名あるいはその可能性を告げられるのとそうでないのは違う。kクリニックはそれはそれで最良の病院だと思う。安定していれば。しかし苦しくなるとより専門的な治療を受けたくなる。a病院はそれはそれで良いと思う。これはだめだと思うまで付き合ってみようかと思う。
視野が白っぽく暗い。いつかは治るだろう。目を開けたまま寝ているような気がする。いつかは治るだろう。過去の私の悪事は全て病気のせいだ。正気だったことは一度もなかった。自分を責めてはいけない。
倉木麻衣のライブ映像を見た。面白い。ピュアな人だ。そういうところが好きだ。ピュアであることは良くないみたいな風潮があるが、ピュアでいいのだ。あるものにピュアに打ち込むことで価値が生まれるのだ。
今は調子が良くなった。全盛期の6割くらい回復した。すごく良かった。
こんなことを言うなんてとかするなんてと思ってショックを受ける。それは無意味だ。そういうことを言うのが人間であり、関西人だ。言わなくても心では誰でも思う。言うやつも中にはいる。言ってはいけないというのは自分のルールだ。人が従わなくても文句は言えない。私も人のルールを守っていないのだ。
私は遺伝的に弱いものを持っていたのだろうと推測できる。結果論だけど。小学生から少しおかしかった。ストレスを呼び込む。中学ではっきりした。高校で既におかしかった。前駆症状が出ていた。自閉であり、引きこもり、不登校だった。大学で統合失調症を発症する。それが完全に治ったとはいえなかった。今の会社に入る前、入った後、トラブル続きで私は精神的におかしいと思われている。おかしいのだからそう思ってもらっても構わない。むしろ自分自身が精神が余り丈夫じゃないということを自覚すべきだ。そうすれば無理はしなくなるし、卑屈でもなく、尊大でもなく働くことができる。障害があるのだから無理はしない。だからといって卑屈になる必要はない。



2006年12月15日(金)

昨日は酒を飲んだにも拘らず、朝まで眠れた。良くなった証拠だ。でも脳が重い感じは相変わらずだ。これは脳がダメージを受けたことによる。ずっと酔っている感じだ。これもいつかは治るだろう。あの薬は効くかもしれない。飲み続けるのが肝心だ。
あのキチガイは絶対に統合失調症だ。グルメとか言っているのは薬の副作用だ。作家と称しているのも病気の症状だ。私はこの生活に入るまでは正常だった。今は薬の副作用でおかしくなっている。キータイプもうまく行かない。
でも昨日眠れたのは嬉しかった。だいぶ回復している。あの薬は太るというのは本当だ。食べることだけが愉しみだ。でも物がおいしくなって良かった。昨日は硫黄島の番組を見た。悲惨な戦いだった。戦争は嫌だ。絶対やめた方がいい。
どんな気持ちで毎日過ごせばいいのだろうか。よくわからなくなった。職場に戻るのは恐くない。意欲は湧いてきた。ただ脳のダメージは大きい。薬の副作用も心配だ。あの医者が適切な助言をしてくれるだろうか。
あの薬を飲むと恐怖心が薄れ、ゆとり、余裕が生まれてくる。今のままでいいのじゃないか。統合失調症の薬を飲もうと、抗うつ剤を飲もうと同じことだ。
私は自分が大事だ。とても大事だ。自分を守ろう。そのために頑張ろう。薬を飲んで頑張ろう。別のババアとの衝突も結局そのせいだったのか。そうであれば納得する。
母との衝突も結局そうだったのかと思う。中学からずっと仲が悪かった。確執は根深い。でももういい。終わった。既に私に興味を失っているらしい。良かった。
梅田にカレンダーを買いに行ってきた。自然系のヤツとハセキョーのやつにした。薬の効果か、イラつくとか腹が立つということが全くない。穏やかというのはこういう気持ちかと。でも脳はぼけている。これは仕方がない。中学といえば性に目覚める頃であり、反抗期でもある。その頃私の心に何かが起こった。そんなことは誰も知ったことではないだろう。でも私にとっては大変苦しい、重大事なのだ。苦しみ続けて30年にもなる。でも今その尻尾を捕まえて退治しようとしている。egに行った時もめたのは私がカウンセリングの適応でない、カテゴリーの状態だったからだろうと推測される。それが境界例なのか、統合失調症なのかわからない。統合失調症といわれても幻覚も幻聴もないから信じ切れない。あの若造の言うことを信じるしかないのか。病名はどうでもいい。薬が効けばいいだけのことだ。薬は幸い効いてきた。希望が開けてきた。一筋の光明が見えてきた。
ところで某作家はそううつと称しているが、私と同じ薬を飲んでいるらしい。統合失調症の気があるのじゃないだろうか。そうでなければそんな薬を処方しないはずだ。顔を見ているとそんな気がしないでもない。



2006年12月14日(木)

今日も雨だ。目がかすむ。昨日は眠れたかどうかわからない。脳のボケと薬の効果と副作用が絡み合って何が何だかわからない。眠れないまま頭がボーっとして10時まで布団にいた。これで良くなるのだろうか。食欲だけが亢進して食うことだけが愉しみだ。偉大な文学を書こうとも思わない。今は休みたい。
楽しい。会社に行かなくていいのは楽しい。
あの薬を飲むと落ち着く。目がかすみ、暗くなってもパニックにならない。
世間の人と自分は大きく隔たってしまったなあと思う。悪いことはしないつもりだが、それだけではいけないらしい。あんな病院に行って薬を飲み続けないといけないだろうか。よくわからない。自分がわからなくなってきた。
厄介なことになった。これからどうしよう。復帰できるだろうか。焦らずゆとりを持ってやって行こう。
ついこの間まで朝から寝ていたことを思えばだいぶ元気になった。やっぱり薬が効いているのだ。落ち着いて考えることができる。だんだん楽になっていくだろう。
世の中はおかしい。せこいこと、みみっちいことを追求する社会になっている。タウンミーティング、奈良県、いじめ、未履修、どうでも良いせこいことを追及する。もっと大事なことがあるだろう。誰かをスケープゴートにして些細なミスや悪事を暴いて袋叩きにする。いつからこんな国民になったのだろう。自分は何一つ悪いことはしていないのか。誰でも一つや二つあるだろう。
今日はあえて外出しない。引きこもり気味だ。悪くない。しんどいときはゆっくりすれば良い。
しんどい。何をする気もしない。うつ状態ではなかろうか。ジプ何とかはセロトニンを阻害するから、うつになっても不思議ではない。
今日は良い一日だった。とても良い一日だった。私が自分の異変に気付いたのは姫路の駅地下の薄汚い食堂に入ったときのことだった。ババアにものすごい邪慳な態度をされ、ものすごく腹が立った。そのとき既に脳細胞がダメージを受け、えらいことになっていた。
早く会社に戻ったほうが良い。体がなまってくる。頭もついて来れなくなる。



2006年12月13日(水)

朝から雨だ。ふらつく。余り眠れなかった。大丈夫だろうか。
a病院に行ってきた。前回より好感を持った。自分がどう見られているかいつもよりわかった。人の考えていることがすごく良くわかった。良い傾向だ。
硫黄島を見てきた。評判ほどいいとは思わない。戦闘シーンにショックを受けることはなかった。残酷さとセンチメンタルが混淆した奇妙な感じ。アメリカ人特有のものか。それともクリント・イーストウッド氏の感覚か。日本人が主人公とは思わなかった。外国人が描いたにしてはきちんと描けている。芸者の話よりはずっといい。
ゆとりが必要だなと思った。自分にゆとりがないと思って焦ると良くないことをしてしまう。例のおっさんショックで私が悪くなった一番大きな原因はゆとりを失ってパニックになったことだ。それは漸くクリアーできそうだ。この薬はいいかもしれない。きつい薬が私には必要だ。
脳がダメージを受けている。めまいがする。このままでは餓鬼にも女にも馬鹿にされる。あの薬はそこから引き出してくれるだろう。
目のかすみが少し良くなった。暗さが取れてくれるといい。それと内容が良くわからないのは困る。あの医者は天才かもしれない。今まで治らなかったのが治るかもしれないと思った。あの医者とは相性が悪い。前の病院でも同じだ。でもそんなことはどうでもいいのだ。何で他の病院に行きたいと思ったのかうまく説明できない。変わってどうするのか自分でもよくわからない。薬なんかどれでも一緒だ。
目が少し明るくなってきた。文字自体は見えてきた。内容が理解できるかだ。



2006年12月12日(火) 雨の師走

昨日は良く飲んだ。前みたいに脳がおかしいということはない。目がかすむ。ゴマ酒を飲んだせいか何となく気分が良い。毎回飲もう。ジプレキサは副作用がきついが、効いているのではないだろうか。根本の病は確かに統合失調症だが、今それが再発しているのかはわからない。少なくとも幻聴とかわかりやすいものはない。妄想的になっていた時期はある。休み始めた頃だ。でもそれは心の中で思っていただけで、表に出さなければそれとはわからない。今日も休みだ。ありがたい。今日は雨だし、部屋で過ごそうか。新聞なんか何かいてるかほとんどわからない。頭がぼける。z氏はこの間はひどかった。私を遠ざけたくて仕方がない。a病院でも同じだ。
人間のやることは全て芸だ。文学で全てを理解できる。文学は固有の行為だが、何をしようとしているかは全ての行為と共通している。今日は朝、落ち着いた感じがした。この薬でいけるんじゃないだろうか。私の道は新しい段階に入った。デパスを処方するか、ジプレキサかは大きな違いはない。うつであろうと統合失調症であろうとどちらでもいいことだ。z氏もそう言っていた。どこの病院に行くかは好き嫌いだけで、どの作家を読もうと同じ小説であることと似ている。物事には本質というものはない。見かけがあるだけだ。なぜなら全ての人間の行為は芸だからだ。自己表現だからだ。職人がものを作るのも芸だ。政治家が政治を行うのも芸だ。商人が金を儲けるのも芸だ。芸の優劣だけがあるのだ。
最近の気分から言うと統合失調症といってもいいかもしれない。物音に敏感だし、人の言うことがわからないし。ただ妄想も幻覚もない。どうでもいいが、目が暗い。目がかすむ。こんなことで復帰できるのだろうか。ジプレキサで様子を見てみよう。
目がかすむ。こんな人間になってしまったということだ。それでもいいじゃないか。発病は5月頃だ。暴力とこの病気は密接な関係があると考えている。暴力は良くない。弱いものに優しくしよう。
今日は少し落ち着いている。あの薬は結構いいかもしれない。パニック状態だったのが、治まってきた。昨日も一応眠れたようだ。浅かったが、はっきり目覚めることもなかった。11時まで寝ていた。人に優しくできる。
統合失調症かどうか別にして、あのキチガイとの接触をきっかけに不調になったのは明らかだ。今はすっかり良くなった。あのキチガイのことなんかどうでも良い。リスパダールでも良かったんじゃないか。自分で自分がわからなくなっていた。脳がダメージを受けた。それは事実かもしれないが、どこにも言うところはない。それは気にしないほうが良い。
統合失調症という病名はどちらでも良い。かつてそうだったこともあるし、再発したといえば納得できないでもない。というかずっと治りきってはいなかった。妄想や幻覚はだめだと理性でわかっていたので、抑えられただけで、異常な性格は変わらなかった。あの薬のせいかパニックが少し収まった。脳がダメージを受けなければ良かったかもしれないが、あのままであれば早晩症状が現れたかもしれない。はっきり、そうだと認め、早期治療をした方がいい。脳がダメージを受けたと騒ぎ出したり、z氏に喧嘩を売ったりしていたのも元の症状が出てきたので、それを抑えないと小手先の方法では無理なところまで来ていたのだろう。だからこれはこれで良かったのだ。誰に迷惑がられようが、自分が良くなればいいのだ。人は人の世話にならないと生きてはいけない。私はあの病院では手に負えないところまできていたのだ。私の判断は正しかった。
午後から少し寝た。一体一日何時間寝るのか。明日は診察だ。本を読むのもできないし、人の言葉を聞き取るのも難しい。どうしてこんなになってしまったのか。目が少し明るくなった気がする。何とかこの時間まで持った。
今日は楽しい。録り貯めたテレビを見ている。これが意外に楽しい。薬が効いてきたのか。私は何か間違ったことをしただろうか。自分が嫌なことをしてしまったのか。kクリニックは嫌ではない。月に二回行けばいいだけだし、何も不満はない。でも治るかどうかわからない。a病院でいいじゃないか。だめだと思ったら、戻れば良い。
元に戻るんじゃないかと思う。この病院もうまく行かなくてもとの病院に戻る。どこの病院かなんて関係ないのだ。どこでも治る。
ゆとりは大事だ。ゆとりが持てるようになったら復帰できるだろう。私は良くなっている。すごく良くなっている。
きっと良くなる。必ず良くなる。どうしたらいいのかわからない。今は調子が悪い。誰に馬鹿にされようとz氏に冷たくされようと、医師とうまく行かなかろうが、問題ではない。
あの病院はおかしいかもしれない。それともこの診断が正しいといえるのだろうか。金儲け主義じゃないのか。私はかもがねぎを背負ってやってきたと思われたのじゃないか。
人間の全ての行動は芸じゃないかと思う。あの病院はやばい。いきなり、薬漬けにしようとして、血液検査をする。おかしいんじゃないのか。やめた方がいいか。受付や会計のブスやババアも気に食わないし。恐い。何より恐い。全然患者の立場に立っていないし。
迷走している。どう考えて良いかわからない。脳がハングを起こしている。ジプレキサを飲んでみて、効くようならば統合失調症だと認めよう。



2006年12月11日(月) 快晴

昨日は眠れたか眠れていないかわからない。はっきりと覚えていないからねたのだろうが、熟睡感がない。うとうとしていたように思う。体も頭もぼけている。どうしたらいいかわからない。統合失調症ということを受け入れていいのか。この薬はものすごくきつい。続けていけるだろうか。z氏に冷たくされたことが腹が立って仕方がない。私は価値がなくなってしまったのかと思う。
病名はどうでもいいんじゃないか。薬も何でも良いし、どの病院でも同じことだ。ゆっくり休めばいいだけだ。眠れているのならいいではないか。
kクリニックに行ったら冷たくあしらわれた。紹介状は書いてくれない。いつか戻ってくる日もあるかもしれない。文学は実学である。荒川洋治の言葉だ。そうかもしれない。それで世界を知ることができる。
結局私は変わっているかもしれない。でも社会に適応はできる。今だって騒ぎさえしなければ何も問題は起こらない。少しくらい薬がきつくても少し抜けばいいだけの話だ。頭がぼけた話だって、それは誰も相手にしないだろう。この際、統合失調症ということで治療してみて、様子を見よう。自由な時間はまだまだある。これがだいじなことだ。
昼から少し寝た。まだまだ頭がぼけているので慎重に行った方がいい。早く社会復帰したい。薬はどうでも良い。病院もどこでも良い。この薬の良い点は眠れることだ。悪い点は頭がぼけることだ。ふらふらになる。廃人のようになる。これで社会復帰ができるのか。
しんどい。出かけるのもしんどい。やっぱりやめておいた方がいいのだろうか。平井クリニックに行くか。
鶴見緑地に行ってきた。良いところだった。池の周りをぐるぐる回れば気分が良い。今日は恐いとか不安と言うことはなかった。やっぱり回復している。若い奴らが町にはあふれている。そういうやつらは何も悪くないが、不安を掻き立てることもある。年寄りはいつも若者が恐いのだ。だからいまどきの若い者はと、自己防衛する。
温泉に行こう。もう嫌になった。生きているのも嫌だ。でもどうでも良い。私が元気であろうとどうであろうと関係ない。病院何かどうでも良い。薬なんかどうでも良い。女なんかどうでもいい。病気なんかどうでも良い。私は病気なんかじゃないからだ。



2006年12月10日(日) 日曜

昨日は良く眠れた。あの薬は相当きつい。脳がダメージを受けているので働きが鈍い。それによって過去の統合失調症的な部分が抑えられなくなって、人格を乗っ取り始めているという感じだ。まず統合失調症の薬でそれをコントロールできるようにする。それからゆっくり、脳のボケを直していく。そういう作戦で行こう。それにしてもふらつく。めまいを通り越している。
今更統合失調症って言われても困る。このめまいに耐えて、療養を続けていくのか。今は調子が悪いので人に会わないほうが良い。自分が傷つけられる。
やっぱり今はゆっくり休むのがいい。夜眠れるというのは素晴らしいことだ。外出したくなかったらしなくて良い。z氏のことなんか気にしなくていいのだ。眠れるというのは脳が休めるということだ。脳を休ませることができなかったから、色々問題が生じていたのだ。
とりあえず眠れるのはありがたい。これで調子よくなるならばオーケーだ。脳がダメージを受けたのは困る。ちゃんとものを考えられない。パニックになっていたが、この薬でしばらく眠れるならば様子を見ても良い。
しんどい。どんどんしんどくなる。横になっていてもしんどい。脳がダメージを受けている。その前提に統合失調症があるとしてもしんどすぎる。もうあの病院はやめようか。外に出るのも億劫だし、テレビも見られない。z氏は私を見放したのか。すごい嫌そうな顔をして嫌なことをいっぱい言われた。あの病院以外で通えるところはない。平井クリニック。どうなんだろう。わからない。何もかも面倒だ。統合失調症が再発したのか。思い当たるところはある。入院した方がいいのじゃないか。
統合失調症が再発したのはごく最近のことかもしれない。過覚醒は以前からあったが、音に対する敏感さとかは最近だ。
しんどい。でも今日は夜は起きていられる。かなり良くなった。体は良くなった。さっき自転車に乗ったとき思った。体力は回復している。眠れるからだろう。眠れる日が続けば脳のダメージも回復するだろう。



2006年12月09日(土)

本当に疲れた。酒を飲むとひどいことになる。きつい薬だから一日あけた方がいい。金曜日に飲みたいと思ったら木曜日から薬を抜く。夜目を閉じていると模様のようなものが見えて不気味だった。前頭葉がめちゃくちゃだ。統合失調症とは乱暴な診断だと思う。やっぱりいくのはやめようか。それにしてもz氏の態度はひどかった。何であんな棘棘した態度を取るのか。さっぱりわからない。
少し楽になった。目がかすみ、ふらつくし、視界が暗い。統合失調症もやむをえないかもしれない。中学高校とおかしかった。自閉、不登校、家庭内暴力。おかしかった。大学に入る頃は全くおかしかった。ついに症状が出た。それから引きこもっていた頃は正常だったろうか。そうではないだろう。この会社に入っても症状は出なかったが、行動は異様だった。ここに来て、キチガイババアが私を真似し始めて、調子がおかしくなった。元気にはなれん。しばらく静かに休養しよう。
しんどい。今までで一番しんどい。誰とも会いたくない。外出もしたくない。自分が苦しくなるほうに進む。z氏に指摘された。a病院はやめた方がいいか。わからなくなった。イズミヤでも変なおばさんに変なことをされた。おかしな奴らばかりだ。



2006年12月08日(金) ジプレキサ

今朝は良く眠れた。でもこの薬はきつい。続けられるのだろうか。昨日のz氏は冷たかった。私が変わったからだろうか。考える力がなくなってしまう。眠れるのはありがたいが、こう眠いと困るのじゃないか。ボケが2倍くらいになる。廃人みたいになる。診断なんていい加減なものだ。どの薬が効くかなどわからない。z氏と会っていてもしっくり来ない。馬鹿にされているような気がする。パニックはとりあえず収まった。でもこんなボケ状態でやっていけるだろうか。危害を加えられそうな気がする。精神状態が不安定だ。医者めぐりをするなんて不安定な証拠だ。焦る必要はない。ゆっくりやったほうが良い。
目が暗い。焦点が合わない。昨日のz氏はすごく攻撃的で失礼な感じだった。私は脳がぼけて以来、人と話がうまくできない。何一つうまくできない。それで統合失調症などといわれて薬を飲んで大丈夫だろうか。不安だ。昨日のz氏は私に批判的で厳しいことばかり言っていた。私もegのことで苦情を言ったが。医者とももめる。受付とももめる。カウンセラーとまでもめる。ついにおかしくなったか。どうしたら良いのかわからない。脳にダメージを受けてから全くうまくいかなくなった。ゆっくりやろう。今は余り人と接触しないのが良い。焦りは禁物だ。脳が正常な状態に戻らないと復帰できない。
私は優しくされたい。統合失調症などといわれて、薬を飲みたくない。病気なんかではない。
z氏の言うことなんかまともに聞いていたらえらいことになる。雑談の相手で十分だ。ファミレスで話をしていると周りに人が大勢いて気になる。少し寝たら落ち着いた。でも焦点は合わないし、予想通り、廃人状態だ。これで復帰できるとは思われない。金儲け主義の怪しい病院ではないだろうか。会計のババアも腹立つし。もう自分がわからなくなってきた。どうしていいかもわからない。
少し落ち着いてきた。でもどうしていいかわからない。a病院に通うことがいいのだろうか。元の病院でいいのだろうか。
どうしたらいいのかわからない。とりあえずあの病院、あの薬で続けてみるか。
本当にしんどい。今は休むしかない。早く働けるようになりたい。目が暗い。何が書いてあるのかわからない。何を言っているのかわからない。会話が辛い。z氏との会話も苦痛だった。向こうも苦痛だったろう。
何で病院を替わろうと思ったのか。わからない。病気でもないのに、病人に仕立てられて、金を巻き上げられる。それだけのことじゃないのか。色んな病院に行ってみて何になるのか。病気ではないのだ。
より大きな苦痛を味わうだけじゃないのか。どうしてそんなことをするのか。全くわからない。行きたくない。飲みたくないならば、別のところに行けば良い。



2006年12月07日(木) a病院

 いろいろなことが頭を駆け巡って不安でたまらない。さすがにタフな私も死にそうな気がする。統合失調症だったとしたら復帰できるのだろうか。うつで休職職場復帰というのは普通のパターンだが、統合失調症は余り聞かない。私の解釈ではegで昔の傷口がぱっくりと開いた。それが統合失調症への入り口だった。b校に行くことでそれが徐々に広がっていった。そしてあのキチガイに会うことで何かがシンクロして統合失調症的な傾向に拍車をかけた。あいつは100%統合失調症だ。星子みたいにいつもふざけているが、それは統合失調症を見破られないためのカモフラージュだ。あんなキチガイにどうして会ってしまったのだろう。堺の人間と付き合うことが間違いだったと思う。統合失調症の薬を飲むとうつ状態のようになる。リスパダールで経験済みだ。それから復帰できるようになるまでにはどれだけかかるのだろうか。本当にあんな医者のことを信用していいのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。まず第一に私は病気ではない。病気ではないのに医者に行くから病気にされてしまう。会社に行くといじめられるからうつという口実で休んでいるだけだろう。そんなことはhも知っていることじゃないか。それがキチガイと会ってしまってptsdになり、例の事件で痴呆状態になり、キチガイ病院の暴力医師にキチガイに仕立てられる。そういえば最初の頃、k医師に血液検査するぞと脅されたことがあった。それは精神科医師の常套手段なのだ。恐ろしい奴らだ。本当に恐ろしくなってきた。k医師は私がリスパダールを飲まないことを恨みに思って、診断書に統合失調症だとめちゃくちゃ書いたんじゃないか。それなら何通紹介状をもらって、何軒かかろうと一緒じゃないか。予断を持ってみるだろう。どうしたらいいのかさっぱりわからなくなった。キチガイに仕立てられて失業するのか。z氏もグルのような気がして来た。これは妄想ではなく、結果として会社側の論理を代表しているということだ。勿論付き合わなければいいのだが。私は病気ではない。だからどんな薬を飲もうと復帰できる。そういうことだ。
少し落ち着いてきた。自分は病気ではないなどというとやっぱり本当におかしいといわれる。田舎暮らしのビデオとかホームページなどを見ていると落ち着いてきた。不思議だ。田舎で暮らしたい。寝ているときに体が痙攣する。自分でも不気味だ。脳の状態が明らかに変だ。
z氏と会ってきた。統合失調症と診断されてショックだということを言うと、別段驚くでもなく、診断名は関係ないと冷静に言っていた。確かにそうだとは頭ではわかる。どんな薬を飲むかの違いだけであって、私自身は何も変わりはない。今の苦しみが和らぐならば、薬を積極的に飲むのもいいんじゃないのか。パキシルを飲んでも眠れるようにはならない。一度新しい薬を試してみる価値はあるのじゃないか。



2006年12月06日(水) hクリニック

昨日はhクリニックに行ってきた。待合室でふと自分は病気なんかではないと思った。職場が嫌でたまらなかった、気に入らなかったから逃避しただけだ。kクリニックの先生も病気とは思っていないんじゃないか。hクリニックの先生は境界例と思っているんじゃないか。診断シートを渡された。私は病気なんかじゃない。そうするととても元気が出てきた。脳のボケもいずれ治る。脳は勝手にものすごいスピードで修復している。後はうつ気分を治すだけだ。私は病気なんかじゃない。
浅香山病院に行ってきた。若い恐そうな医師が出てきて、統合失調症と診断された。ショックだった。今までそんな診断をしたところはない。z氏が言い始めたのだ。でもそういわれても驚くほどのことはないと思った。若い頃、そういう症状が出たのは確かだし、むしろ、根本原因はそれだとすればかえって気が楽だ。fに会ってから、最近の事件に至るまで一連の流れがそういうものに私をひきつけて行ったのだ。そういう症状はマグマのように私の中にあったのだ。何とかそれを目立たせないように頑張っていただけだ。うつと言われても統合失調症といわれても私にとっては同じことだ。今日受け付けの女が余りにもど素人だったので腹が立った。パキシルは余り良くないように思う。余計腹が立ってくる。病気は個性の一種だと思う。病気なんかではない。何もかもうまく行かない。あのfと会ってからだ。あいつこそ生まれながらの統合失調症だ。私は影響を受けやすい。あんな馬鹿の影響でも受けるのだ。腹が立って仕方がない。
あの馬鹿の統合失調症がうつったのだ。あの後全てがおかしくなった。今は相当おかしい。今穏やかな行動をしようとすると攻撃される。この間、神護寺に行ったときも女子大生にひじでわき腹を小突かれた。受付の坊主につり銭を放り投げられた。昨日は電車でかばんで席を小突かれた。今外出するとトラブルになる。さっきの病院でも受付の馬鹿女とトラブルになった。医者ともうまく行かなかった。あの診断は納得いかない。全てはあのキチガイと出会ってからだ。しかしもうその頃には発病していてこうなる運命だったのかもしれない。ワキガがすごく苦痛だ。人に嫌な顔をされるとこらえ性がなくなっている。本当に腹が立つ。ババアなんかは言葉に出すからまた腹が立つ。穏やかではなくなっている。
私は病気なんかじゃない。昨日hクリニックでそう思った。絶対病気なんかじゃない。うつであろうと統合失調症であろうと同じことだ。何かあの病院はおかしいんじゃないか。暴力的だ。血液検査をするといっている。薬を飲まないんじゃないかと疑っている。
私は病気なんかじゃない。あのキチガイと出会ってしまったことが運のつきだ。あのキチガイの病気がうつったのだ。それでptsdになってこの間の事件で脳がダメージを受けて、統合失調症と誤診されたのだ。確かに今いらいらしている。人と会わないほうが良い。外に出ると、いい年をしたおっさんがうろうろしているというだけで変な目で見られる。おまけにワキガだから、ものすごい目で見られる。それがものすごく神経に障る。こうして仕事をしてなくて部屋にいることが良くない。自己嫌悪に陥る。ボーっとしていると暴力を振るわれたりする。
今の状態は自分でも変だ。何を見ても腹が立つ。喧嘩しそうになる。人の目を見ただけで喧嘩を売られそうになる。長いこと寝ていないからだ。熟睡できないからだ。それはあのキチガイの統合失調症がうつっただけで私がそうなわけじゃない。今ボーっとしている間に本物のキチガイに仕立て上げられている。別の病院で見てもらった方がいい。私が統合失調症のわけがない。そうだとしたら一時的にそういう症状が出ているだけだ。脳がダメージを受けたために昔の症状が出てきただけだ。今誰とも話したくない。z氏と話してもだめだろう。
あいつらこそ統合失調症じゃないか。あの職場のメンバーこそ。こんな状態が治るのだろうか。あのキチガイのせいでここまで追い込まれた。復帰できるのだろうか。恐ろしくなってくる。
復帰までhクリニックか元の病院でやり過ごして、復帰後こっそり、統合失調症の治療を受けてもいいんじゃないか。姑息過ぎるか。でも復帰できなくなるよりいいだろう。復帰できないというシナリオは絶対に避けたい。未来がなくなる。とりあえず、もう一つ病院を受けてみたい。それで統合失調症といわれたら諦めてa病院に行くか。私は言っておくが病気ではない。断じて違う。病気の人間が旅行に行ったり、買い物をしたりできるだろうか。最近は旅行もできないが。あのキチガイの病気がうつったのだ。私は望まないものを受け入れてしまう。smもそうだ。全く望んでいないのに受け入れたために、うつってしまった。目の焦点が合わないのは例の事件のせいであって、それで誤診されたのだ。あのくその娘は統合失調症らしい。統合失調症は遺伝する。あいつがそうである何よりの証拠だ。あいつが悪いわけではない。戦争が悪いのだ。あんな人間が生まれたのは。恨んではいないが、大変迷惑を蒙った。
私は弱いものいじめが嫌いだ。性に合わない。社会のルールを守る。赤信号で渡ったり、二人乗りする奴は大嫌いだ。自分や人を傷つけるのも大嫌いだ。あんな受付のババアみたいなのとは違う。何が統合失調症だ。絶対おかしい。一時的にバランスを崩しているだけだ。ただ飲んでみる価値はあるんじゃないか。母親と会ったときは完全におかしかった。キチガイの病気がうつっていただけの話だ。うつらないようにすればいいんじゃないのか。



2006年12月05日(火) 高雄

昨日は高雄に行ってきたが、良かったのかどうかわからない。とにかくしんどい。心も体もしんどい。頑張ることができない。目はかすむ。脳がぼけてるせいか何も感じられない。考えられない。絶望感が深い。ptsdは勿論だが、脳がぼけて能力が落ちたことがつらい。字が読めない。小説もかけない。読む気もしない。喜びが感じられない。自分が守れない。ボーっとして若造や女にまで馬鹿にされる。老人にまで。復帰できるだろうか。何をしたら回復するかわからない。しんどい。誰か助けて。どうしてこうなったのか。どうしたら治るのか。病院に行ってもだめだ。カウンセラーもだめだ。本も読めない。性格が本当に悪くなった。感受性がなくなった。悪いんじゃないが馬鹿なんだ。自分のやってきたことを考えるとそう思える。喜びが感じられない。理解ができない。脳のボケが治ったら復帰しよう。欝は薬で何とかなる。能力さえ戻れば大丈夫だ。変なおっさんと付き合って頭がおかしくなって、苦しんだ挙句、酒を飲んで薬を飲んで脳がぼけた。自業自得じゃないか。hが悪いわけじゃない。あいつは単純だ。私がサボっているといって怒っているだけだ。人の感情もわからない。自分がどう振舞って良いかわからない。いじめられるんじゃないか。休んだ最初の頃は元気だった。働いている頃より、元気だった。hもそれを見てサボっていると思ったようだ。今は元気がない。起きているときは何をして良いかわからない。何をしても楽しめない。脳がぼけてからどんどん悪くなっていく。人からどんどん取り残されていく。働くこともできない。
前は本も読めたのに読めなくなった。つまらない。せっかくb校で小説を覚えたのに。小説の喜びも失ってしまった。脳とは繊細なものだ。機械主義の人たちと付き合ったためにこんな乱暴なことをしてしまったのか。何のために生きているのかもわからない。働けないんだったら生きていけない。訳がわからなくなった。混乱している。訳がわかるまでじっとしていよう。
今はおとなしくじっとしていよう。回復するまで。
デパスを飲んだら少し眠れた。これからこうしようか。自堕落とか言っていられない。本当にしんどいのだ。私には反社会性や攻撃性がある。それが人を刺激するらしい。やっとわかった。ありがとうとか幸せ、感謝してます。許しますと相手に向かって言い続けることが大事だ。そうでなければ人は私を警戒するだろう。休み始めたときは本当に病気だったのか。軽いうつだけだった。ストレスは溜まっていた。しかしその後例の事件があってから何もかもおかしくなった。怒りっぽくなり、旅館の人とも衝突した。それから最近のグリシン事件があって脳がぼけ始めて急速におかしくなった。自分がコントロールできなくなった。感情がなくなった。文学的感興が全く湧いてこなくなった。頭が泥沼のように動かなくなった。泣き言ばかり言っても仕方がないが、どうにも理解できないことになった。病院を変えてもだめだろう。今はじっと耐えるのみだ。今は立っているのもしんどい。hが嫌だというのは会社が嫌だというのと同じだ。あいつはモラハラ的なことは言わない。今まで信頼関係を築いたのに壊れてしまった。どうしたら良いのかわからない。本当に辛い。じっくり回復を待とう。怒られるのは嫌だ。若造や女にまで馬鹿にされ、怒られる。わからない。休まない方がよかったのか。すぐ復帰した方がよかったのか。この寒空に放り出されるのは死を意味する。頑張ろう。人間性がおかしくなった。回復するまで頑張ろう。じっくり待とう。
優しさがなくなってきた。小さな気遣いもできなくなった。医者と意見が合わなくなってしまい、病院を替わることになった。大丈夫だろうか。入院しろとか言われないだろうか。
私は自分が何をやっているのかわからなくなった。立って歩くのもしんどい。どの薬を飲んでもはかばかしくない。どんな状態になれば復帰できるのだろうか。何か考え違いをしているのだろうか。道徳的に間違っているのだろうか。z氏の言うことを聞いてここまで来たが、それが間違いなのだろうか。こんな目がかすんだ状態で復帰できるのだろうか。焦っても仕方がない。じっくり待つしかない。egもb校も間違いだったのだろうか。いずれ頭がはっきりすればいい方法が見つかるのだろうか。それとも頭は回復しないのだろうか。
昔の日記はキレがあった。頭がちゃんと回転していたのだ。今はべたっとした感じで面白くない。脳が壊れたのだ。仕方がない。これで生きている人もいる。坂口安吾なんかどうなる。薬ばかりやっていた。
hクリニックに行ってきた。面白い医者だった。何かテストみたいなのを出されて、一応来てもいいことになったようだ。今脳が壊れているので変に思われたに違いない。でもこれで生きていくしかないのだ。今日は少し元気になった気がする。朝寝たからか。私は病院の待合室で不意に自分は病気ではないと思った。確信に近い感じ。病気だといっていれば医者は病気だといってくれる。欝だといえば欝だといって薬をくれる。でも私は病気なんかじゃない。hが最初思っていたように病気ではない。今も病気ではない。脳がぼけただけだ。



2006年12月04日(月) 快晴

今日は快晴だ。高雄に行ってこようかと思う。とても寒いと思う。脳のダメージでパニックになりやすい。自分がうまくコントロールできない。でも今日は少し良い。少しずつよくなっている。昨日は5,6時間眠れた。良い方だろう。少しずつ回復している。もう昨日であのおっさんのことは克服できた気がする。許せるような気がする。私がダメージを受けたことは間違いないが、自己責任だ。自分から近づいてしまった。変な奴に不用意に近づいてしまうのは悪い癖だ。今までで一番変な奴だ。でももう終わったことだ。回復できた。未来に不安を感じる。でも脳のダメージが回復すればきっと大丈夫だ。自分が辛いからといって人を傷つけることだけは決してするな。それはあのおっさんと同じになってしまう。大丈夫だ。仮にダメージを受けたとしても能力的に問題ない。ゆっくりやれば大丈夫だ。
高雄に行ってきた。精神的に疲れた。ワキガのせいで不快な思いをするのはいつものことだが、最近は忍耐力がなくなっていて、辛くなる。最近の若い女は暴力的だから恐い。脳がぼけているのにもショックを受けた。歩くと目の焦点が合わなくなって景色が見えない。何も楽しくない。弁当もまずかった。ただ全体に雰囲気は良かった。受付の坊さんにつり銭を投げられたのはショックだった。でもいちいち傷つかないことにした。今は仕方がない。なるべく人に会わないほうが良い。人が恐い。何も楽しめない。生きるのは辛いことだ。もう少し元気になったらいいのに。でも昨日の夜は元気いっぱいだったのに、今朝起きると元に戻っていた。ゆっくりやろう。カッとなっても仕方がない。
うつと脳のボケと二つ戦わないといけないのでしんどい。だんだん元気がなくなっている気がする。昨日は夜元気だったのに。だんだん良くなる。薄皮をはぐように元気になるから、辛抱強く待つことだけだ。人が何を言っても気にしない。以前より、人の気持ちがよくわかるようになった。前は人が何を考えているか考えなかったかもしれない。今は人の痛みがわかるようになった。
私の職場での評価は低い。働かないからだ。やる気がないと思われている。でも私は欝だと主張している。でも上から見たらどちらでも同じことだ。しっかり働けということだ。サボっているという風に見られているかもしれない。私は人間関係でおかしくなったと思っている。実際うつになった。でも休みにも限度がある。復帰しないといけない。そうすると脳の状態がおかしくなった。ぼけてしまった。復帰できるかという不安が頭をもたげてきた。体もしんどい。休む前よりひどいのじゃないか。意欲が落ちている上に能力が落ちてしまったら、さすがに職場にいられない。脳のボケが回復するのを待つばかりだ。パキシルのお蔭で意欲は戻ってきた。体力と脳のボケだ。
過去どうであったかということは意味がなく、これからどうなるかということに集中しよう。うつもいつかは治る。ボケもいつかは治る。そのときには仕事もでき、遊びも楽しくなる。人間関係もできる。過去いいときがあっただろうか。そんなにはなかった。これからだ。これから良くしていくのだ。
やっぱり私は横着なところ、反社会的なところがある。そこを直さないといけない。あの職場に入ったときは真面目に仕事をやっていた。投げやりなどでは決してなかった。それが気に入らない人間がいるからという理由で一所懸命をやめてしまった。それはだめだ。一所懸命やらないと話しにならない。小説も真面目に書いたから評価された。真面目に一所懸命やろう。兄貴も家を建てるからには一所懸命働いたのだ。私も天知る、地知る、己知る、神が見ているのだから一所懸命やろう。
行楽地とか行っても馬鹿にされる。行くまでの道中で馬鹿にされ、寺の受付で馬鹿にされ、寺で馬鹿にされる。どこにも居場所がない。でも私は私を見捨てない。弱者である私を守ろう。助けよう。何を考えても恐い。帰りのバスの車中で見るもの全てが恐かった。自分が無力になってしまって、底知れない恐ろしさがこみ上げてきた。未来に夢を持とう。今は調子わるいから良くないことばかり考える。休み始めた頃はいいことばかり考えていた。調子良かったのだ。今は一時的に調子が悪い。きっと良くなる。パキシルのお蔭でだいぶ良くなった。
今日は本当に疲れた。精神的に疲れた。あんまり頑張らないようにしよう。パキシルも一日おきくらいでどうだろうか。今の状態だときついような気がする。かえって疲れる。人は戦い争わないといけないだろうか。嫌だと言いながら、行楽地の石段で人を追い抜いたりする。電車の順番待ちでいらいらしたりする。矛盾している。今はそういうことを避けよう。意識的に。自分が辛いからいらいらして人に当たったりはやめよう。女性などはそういうことに敏感だ。知らぬ間に人を傷つけている。疲れを取ることだ。ゆっくり休もう。今日はちょっと無理をしたため、疲れが出たかもしれない。投げやりになるのもやめよう。嫌だと思ったら、嫌だと言おう。バスの中で若い女にひじでつつかれた。そんなことをしちゃだめだろう。暴力は嫌いだ。あってはならない。z氏に飯をたかったりしてどうかしていた。疲れているから人に甘えたり、傷つけたりする。hにもう会いに来るなと言ったり、病院を変えてみたり、どうかしている。ゆっくり休もう。しっかりしよう。どこまで暗いんだ。明るく生きよう。休むときは一所懸命休むこと、働くときは一所懸命働くこと。けじめをはっきりしよう。
元気になったら、自分が悪い点を十分反省しよう。今でも良い。父や母のこと、兄や姉のこと。全部私が悪い。そう認めれば楽になる。実際そうだし。職場のことも全部私が悪い。私がモラハラ的なことをやったことをあいつがまねをして私にやったのだ。何でも私のまねをすればいいと思っている。言葉まで真似をする。だから自業自得だ。悪いと思うことはしないことだ。全部私が悪い。本当に楽だ。そう認めれば。平日に中年のおっさんがわきがぷんぷんで電車に乗ってくれば嫌な顔をするだろう。咳もくしゃみもするだろう。それは私が悪いんじゃないか。ごめんなさいといえばいいことだ。



2006年12月03日(日) 快晴

今日は良い天気だ。昨日は7時半に逃げるように寝た。夜中に目が覚めたがもう一度寝た。でも熟睡感はない。疲れた感じがする。目がかすむ。自分が好きじゃなくなったような気がする。すごい疲れだ。女が自分を嫌いになることはない。自分の買った本も面白いと思わない。捨てたいような気がする。住む場所も変えたいが、マンションを買う金もない。悪いことを考えてはいけない。良い人間にならないといけない。弱いものいじめはいけない。自分をいじめるのが一番の弱いものいじめだ。自分をどこまでも守ろう。世界一弱い自分を守ろう。穏やかであろう。波動を穏やかにしよう。風邪が治らない。めまいがする。いずれ治るだろう。波動を穏やかにすることと、幸せ、ありがとうといってみること。悪いことをしないこと。弱いものいじめをしないこと。自分を虐待しないこと。自分を虐待する人間とはなれること。しばらくは薄皮を一枚ずつはがすように良くなっていくだろう。焦らないことだ。だいぶ良くなった。自分の立場が朝クリアーに見えてきた。前にはわからなかったことが見えてきた。自分の中でしか見なかったのが、外から見られるようになった。
清水寺に行こうと大阪駅まで行って電車に乗ったが、気が変わって戻ってきた。立っているだけで気分が悪くなった。大阪城公園で降りて、公園を一周してきた。晴れて気持ちが良かった。このほうが良かったかもしれない。いつもめまいがして焦点が合わない。外から見てもおかしいみたいだ。焦点が合わない人間なんて気持ち悪い。タイプもうまく行かない。いつも酔っ払っているみたいな状態だ。気が狂いそうだ。
脳にダメージを受けてからの日記を読んだら相当ひどいことを書いている。脳の理性的な部分が弱っていて、邪悪なことを考えさせるのではないだろうか。反社会的なことを考えてはいけない。弱者に優しくしよう。中でも自分に優しく。自分こそ守るべき弱者だと気付いた。そう気付くと人にひどいことはできない。風邪がスッキリしない。細かいことが気になる。小さな物音とか。理性が弱まっているので自分をコントロールできない気がする。薬局のねえちゃんと喧嘩してしまったこととか。街中で喧嘩を売られそうになるとか。今日もラーメン屋で変な奴に喧嘩を売られそうになった。自制心が緩んでいるのか。hと喧嘩しそうになったり。復帰は難しいかもしれない。少なくとも今の状態では。人と喧嘩してしまうのではないか。弱者に優しくする。社会のルールを守る。反社会的にならない。自分と他人を傷つけない。穏やかな気持ちになる。幸せ、ありがとうとつぶやいてみる。辛くなったら人から離れる。今はしんどいのでゆっくり休む。人を罵らない、差別しない。余り人と接触しない方が良いかもしれない。病院もついに代わってしまった。いいのだろうか不都合なことが生じないだろうか。何だか悪い方に進んでいるように見える。でも自分は回復している。脳のボケはあるが、うつ状態は改善した。後は食欲が出て、眠れるようになれば大丈夫だ。昨日も5,6時間は眠れた。脳のボケは長くて半年くらいで取れるだろう。そういう人は世の中にいる。アル中の人とか薬物中毒の人とか。私はそれほどひどくない。大丈夫だ。穏やかでいれば危険が身に及ぶことはない。
嫌なことがいっぱい起こった。この休みに入ってから、fに脅され、ptsdになった。それ以来人が信じられない。同じように人を傷つけてしまいそうだ。でも今はもう違う。ptsdは残っているが、人を傷つけたりしない。自分を傷つけたりしない。また人を信じられそうだ。自虐をやめたからだ。穏やかな気持ちに戻れそうだ。幸せ、ありがとうといえそうだ。
最近やせてきた。食欲がない。食べなくて腹が減っているのに食べられない。さっきホームセンターのレジの女がすごい恐かった。ヤンキーの成れの果てだ。人の目をにらみつけてすごく侮蔑した態度を取った。何であんなのにまで馬鹿にされないといけないのか。最近良く馬鹿にされる。帰りの電車の中でも男に脅されそうになった。どうしたらいいのかわからない。穏やかな波動を出すように努力しよう。この間のイベントに行ったのが悪かったのか。具合が悪い。今日のテンションがおかしかったのか。きっとそうだろう。
目がにらみつけているみたいで恐いのだろう。やっぱり脳の状態がおかしい。医師に相談してみよう。前の医者は相手にしてくれなかった。余り人に会わないほうが良い。電車でも人を見ない方がいい。どんな奴がいるかわからない。音に過敏になっている。穏やかな波動で生きていこう。幸せ、ありがとうといおう。あのイベントには行かない方がいい。脅して言うことを聞かせるヤンキー方式だ。人生は一度しかない。頑張ろう。
最初の頃は調子が良かったが、あれはあれで危険な状態だったのだ。危険な人間と平気で会ったり、危険な集会に行ったり。今はその危険が実現してしまった。でも仕方がない。こうなったらこれで行くしかない。道徳的にも正しい道を歩もう。弱いものいじめをしない。社会のルールを守る。自分と他人を傷つけない。変わったことをしない。サドマゾはやめる。弱者を労わる。弱者を助ける。
今は一番底だろう。これから良くなる。絶対良くなる。世間に出ても馬鹿にされるだけだ。九州にいた頃も馬鹿にされた。今の会社は良い会社だ。ベストといっても良い。絶対に離れたくない。離れたら生きていけないだろう。それくらいわかる。早く会社に行きたい。今より良い状態になってくれれば。新しい病院で出直そう。うまく行かなければ元に戻ろう。b校に行ったことがよかったかどうかもわからない。書き続ける根性があれば意味があったといえるだろうが、今は無理だ。こんな状態では。ゆっくり休もう。ptsdさえ治れば、良く眠れれば、必ず復帰できる。
今マイスリーとデパスを飲んで寝ていると気分がよくなってきた。あの事件のことがどうでもよくなった。あんな過去の下らない事件など屁でもない。完全に終わっている。私は解放された。そのことをここに宣言する。全く気にならなくなった。あんな無価値な人間が私を傷つけられるわけがない。あんなものは恐いんじゃなくてかわいそうで仕方がない。接するべきじゃなかった。接したとしてももう全く影響は残っていない。これからの人生、思い切り生きるぞ。休みが始まったときと同じくらいはしゃぐぞ。未来志向で行こう。過去のことをくよくよしない。決めた。あんなキチガイは堺にはいくらでもいる。全く意味がない。私にとって全く無意味になってしまった。もう影響は何も残ってない。怯える必要はない。何で馬鹿が利口に影響を与えられるんだ。馬鹿には意味がない。私は元気で意味がある。それだけだ。新しい人生が始まるぞ。全く新しい人生が。それをここに宣言する。
立っているだけでふらつく。それでも私の勝利は変わらない。パキシル強し。私は完全に勝利した。



2006年12月02日(土) 長谷寺

昨日は長谷寺に行った。いい寺だ。紅葉が見事だった。受付の女が感じ悪かった。最近は一度は馬鹿にされるようになった。ぼけているのとptsdで機嫌が悪いのとで衝突しやすい。昨日は一睡もできなかった。酒を飲むとこうなるのか。こんなに苦しい夜は初めてだ。不安になる。主治医を変えたことで不安定になっているのか。5年間も面倒を見てくれた医者だから頼る部分も大きかった。また嫌になったら戻ろう。私の病気が本格的なものとは思えない。統合失調症でもない。性格の歪みが大きいのではないかと思った。少なくとも家族や周りはそう思っている。私も最近そう思い始めた。ただの反社会性、ただの悪、ただのヤクザ性ただのわがまま。小さい頃から染み付いた悪の癖が抜けないだけだ。いい年をした大人がそれではいけない。真面目に生きようと思った。真面目に働こうと。きっとできる。真面目に働くことくらい誇りを満たすものはない。長らく忘れている。人情だ。この世は情だ。情を忘れたので何もかもうまく行かない。情を思い出そう。素晴らしい情を。
朝デパスを飲んだら目のかすみがひどくなった。やっぱりもう少しあけたほうが良かった。そのうち良くなるだろう。視野が暗い気がする。今日は本当にしんどい。自分を責めるのはやめよう。自分が一番弱者だ。自分を労わろう。じっとしていよう。パキシルは今日休もう。バランスが必要じゃないか。パキシルはきつい。真面目にやろう。弱いものいじめはやめよう。自分を含めて。というか筆頭だ。お調子者、愚行はやめる。ルールを守る。弱者を助ける。無理はしない。
今日は今までになくしんどい。じっと我慢だ。弱者である自分に優しくしよう。自分と他者を傷つけてはいけない。ルールを守ろう。
良い人だったら損をするのか。良い人でいいじゃないか。悪いことばかり考えるのはもう嫌だ。悪いことを考えれば悪人だ。頭がぼけていれば悪いことは考えられない。いいことだけ考えて生きていこう。反社会的だったり、犯罪的な人間、非人情な人間はだめだ。世の中は人情だ。情けだ。
リスパダールを飲んだらすっと力が抜けて楽になった。パキシルと一緒に飲んでいいのなら飲んでみようか。頓服的に飲んでも良い。穏やかな気持ちになるのがありがたい。ボーっとしていてもいいじゃないか。穏やかな方がいい。善良で愚鈍な人間になりたい。天才なんかならなくて良い。天才の末路は芥川、三島、太宰、川端と悲惨なものだ。凡人が良い。
リスパダールはいいかもしれない。時々飲んでみようか。穏やかな気持ちになる。波動が穏やかになる。これほど穏やかになったことがあるだろうか。世間の人間は大概穏やかだ。穏やかであるから自分が穏やかになると理解できる。自分という絶対弱者に優しくできる。そうすると世界が開けてくる。今は力がない。弱い。弱くていいじゃないか。
しんどい。穏やかなのはいいが、生きる力が弱くなるような気がする。そんなことはないか。
絶対復帰する。絶対良くなる。今パキシルで徐々に良くなっているが、脳のボケがあってうまくいっていない。必ず良くなる。
あの一夜以来回復しない。もうあのときのような状態に戻ることはないかもしれない。でもちゃんと復帰できる状態には戻れる。頑張ろう。頑張れる気がしてきた。穏やかになることじゃないか。波動が穏やかになれば、幸せとか、ありがとうとか自然に出てくる。
絶対回復する。徐々に上向きになっている。



2006年12月01日(金) 晴れ

今日は良い天気だ。今日は眠れなかったが、少し気分が良い。夜中に、人生は情だということを考えたら気分が良くなった。人生は人情だ。あのババアどもがそれに反することをするから腹が立つ。なぜ私があんな場所に戻りたくないかというと、情に反することを強いられるからだ。情が全てだ。夫婦だって親子だって仕事だって、家だって車だって全て情なんだ。情を否定すると全ておかしくなってくる。そう考えるとfの事件も真相がわかってくる。森田の奴らは情を否定するや面なのだ。人格に欠陥がある。
今日は元気だ。ただ脳がぼけているので何となく違和感があってスッキリしない。馬鹿な自分が嫌いなのだろう。面倒なことが嫌になってくる。すぐ機嫌が悪くなってくる。兄貴の家に行ったときもそうだった。
私は精神病というよりも犯罪者的なのではないかと思う。だったら精神科に行ったり、薬を飲むよりも矯正することが大事だ。脳がぼけて苦しい。でも今日は明るい気分だ。早く会社に行きたいと思った。情が大事だ。このことに気付いたのは大きい。悪いことをするのはたまらなく苦しい。弱いものを助けたい。良いことをしたい。働きたい。
かかりつけの病院に行ったら、やっぱり先生がそっけなくて冷たい感じがしたので、不安になった。これから先どうなるのだろう。とても不安になった。脳がぼけたのが一番恐い。職場に戻っても馬鹿にされて居場所がなくなるのじゃないか。こんなにぼけてて大丈夫だろうか。この世で大事なのは人情だ。私は精神病というより、犯罪者的なのだ。前の会社を首になったのも犯罪のせいじゃないか。この会社でも職場を転々としているのは犯罪的なことをするからじゃないか。今の職場でも不適応を起こしたのは仕事をしないという最大の犯罪的なことをしたからじゃないか。それをやめればいいのだ。大事なことに気付いた。情だ。人間に大事なのは。ちょっとくらいぼけても大丈夫だ。
優しさが必要だ。悪い部分がある。私の中にはすごく邪悪な部分がある。小さな悪の種が大きく繁茂してしまった。これを刈り取らなければならない。社会生活が可能になるまで。母親との葛藤もほとんど私が悪い。父親との関係もそうだ。この反社会性、犯罪性を放っておいて、うまく行くとは思われない。絶対にこれを直そう。精神病の治療は補助的なものだ。勿論善良な部分もあるし、強く残っている。だからそれを強く大きくするのだ。善良な部分もあるから精神的に苦しむ。だから悪い面をうまく抑えれば、正常に戻る。人情だ。情だ。情がこの世を動かしている。さっきの残留孤児のニュースでも裁判所は情を示した。非情な国の政策に対して反対した。素晴らしいことだ。この世は情だ。父の教えでもある。


 < 過去  INDEX  未来 >


リスパ

My追加