希望の日記

2006年07月31日(月) フェアー

フェアーでありたい。フェアーであればなんでもできる。反俗で行こう。親鸞でも庶民の味方であったが庶民に媚びたりしなかった。非僧非俗はそういうことだ。エリートならエリートでいいじゃないか。
フェアーであればなんでもできる。この宇宙は私のものであって私のものでない。私は宇宙のものであって宇宙のものでない。今は有機生命体として意識を持っているために悩んだり喜んだりしている。しかし私の意識を成り立たせている物質も法則もいつからあるのかわからないくらい古い。これからも止むことはない。それでも私はそれを一瞬でも知ることができたのは幸福だ。私が死んで私の意識がなくなってしまったとしても何が苦しいだろう。それが将来、誰かの意識によって想起されなければ納得がいかないとはなんと狭い心だろう。私は今こうして私の意識を知りえ、今一回だけ味わっていることで十分満足だ。それ以上付け加えるものはない。動物も全くそうだろう。人間は体は他の動物と同じくらいの古さなんだが、脳は比べ物にならないくらい発達している。それで余計なことを考えるんだが、地球の先輩である魚や爬虫類やほ乳類を見習うがいい。余計なことは考えない。ただ人間としてできることは人間に生まれて意識を持ったことを悲しみや苦しみとするのではなく、喜びや幸せと感じるような生き方をすることで実際そう感じられれば幸せといえるだろう。人生は一回かぎり、それでいいじゃないか。もう一回やれといわれても嫌だろう。一回でももうたくさんと思っている。この宇宙というステージで一回だけの生を与えられた不思議。誰も皆一回だけというのはフェアーである。人生が一回だけというのは誰も皆知っている。それでフェアーだと思う。人間の知りえない。複雑精妙な法則それ自体を神といってもいいが、それが物質であるとも意識であるとも言いがたい。物質だけでなく意識をも生み出すこの宇宙の神秘性を感じる。感じるだけで十分だ。知ることは許されていない。誰にも許されていない。でも満足だ。幸せな人はその宇宙の神秘さを感じることができて満足している人だ。
私がこうして生きているのも偶然ともいえるし、必然ともいえる。私は物質でもあるし、意識でもある。心と体は一体だ。切り分けることはできない。一つの命だ。今この瞬間は現在と過去と未来は区別が付くだろうか。永遠の未来もはるか過去も同じものだ。今は過去であって未来でもある。物質も生命も同じといえないだろうか。昔の人が物質に生命があると考えたとしてもあながち間違いではない。物質であるからだが意識をもっている不思議さ。未来は遠い未来とも言えるし、今現在でもある。過去は遠い過去であるが今現在ともいえる。過去は現在であり。未来も現在と変わりない。だから人生は一回でいいのだ。一回生きればこの宇宙の全ての時間と空間を知ったことになるのだ。後何百年何億年生きても同じことだ。未来と現在は同じことなのだ。永遠と一瞬とは同じことだ。永遠が長く一瞬が短いのでない。一瞬とは永遠のことだ。永遠とは一瞬のことだ。
宇宙は永遠であり、生命も同じくらい長い。人類はある一時点で生まれ、将来のある時点で滅亡するだろう。でも必ず生命はこの宇宙のどこかで生まれているし、過去にも未来にも生まれている。決して滅びない。宇宙の法則のなかで生命はもう生まれないというルールがある時点で採用されることは考えられない。だから生命は永遠だ。私の命は今生まれたものではない。それは明らかだ何十億年前に生まれることは決まっていた。それは必然であって偶然であろう。必ず決まっていたともいえるし、全く偶然だったともいえる。ものすごく偶然だったとしても驚くには当たらない。限りなく必然だったともいえる。今ここにあることはずっと前から決まっていて、ここに存在したことは永遠に消えない。誰かに記憶の中に残るからでなく100年後誰も覚えていなくてもここに存在したことは無名であっても客観的事実として永遠に残る。人類はあまり賢くないから、その意味を十分に理解できない。偉くなかったから意味がなかったとか、赤ん坊で死んだから意味がないというものではない。赤ん坊が死んだのは偶然ともいえるし、必然ともいえる。それは人類が生まれたのも滅亡するのも偶然であって必然というのと同じだ。一回と100回は同じことだ。一回の人生と100万回の人生とは同じことだ。一回とは100万回と同じだ。一瞬と永遠は同じことだ。現在と過去と未来は同じことだ。
この世の真実というのは知りえない。物理学の最先端では世界はつながっていて裏側の世界では一つになるそうだ。そうでなければ会話すらできないだろう。私の思うように永遠とは一瞬のことであり、一瞬とは永遠のことである。現在とは未来であり、過去でもある。他の命は自分の命であり、物質は命であり、命は物質である。ここにいることはどこにでもいることである。今ここにいる自分は恐ろしく神秘的であり、今ここの一回限りの命を生きていることは無限回の命を生きることと同じである。一回限りの命と永遠の生命は同じものだ。等価だ。フェアーな生き方をすればそのことを忘れないだろう。そのことを忘れないならば全てうまく行くだろう。
この世の真実を完全に知ることは人間の知性では無理だろう。でも恐ろしく神秘的な世界に今いるということはわかった。今ここにいるということは永遠に偏在するということと等価だ。それくらいを知っておけば十分だ。信じることだ。信じるといっても感じることはできる。動物でもこの世の神秘さをそれなりに感じているに違いない。犬が遠吠えしたり、鳥がさえずったり、そういうことは何かを感じているのだ。人間のできることは信じることだ。神秘主義ではなく人間の知りえない神秘的な法則があるということを感じることだ。今ここに存在することが限りなく神秘的だ。その奥にどれだけ深い神秘が隠されているか。それを知りえなかったとしても不幸ではない。それを感じることができるだけで幸せではないか。
フェアーでありたい。フェアーであればなんでもできる。もの相手でも人間相手でも何でもできる。フェアーであろう。なんでも手にはいる。私にはその価値がある。能力もある。全てが可能だ。
フェアーであることは大事だ。フェアーでありたい。フェアーであればなんでも手にはいる。一瞬とは永遠であり、永遠とは一瞬である。こことは全宇宙であり、過去は現在であり、未来である。生命は物質であり、物質は命である。命は孤立していなく苦しみは一瞬である。一回きりの生は永遠の生命と同じである。何も知らなくても全てを知っていることと同じである。極小は無限大と同じである。全宇宙と一個の原子は同じ大きさである。フェアーであることによってこれだけのことを知ることができる。
フェアーであることは素晴らしい。本当に素晴らしい。フェアーであれば全てを知ることができ、全てほしいものを手に入れることができる。
命と物質は同じものである。空間と時間も同じである。あるものは空間であると同時に時間でもある。時間は時間だけの存在はなく時間であるとともに空間でもある。存在することと存在しないことは同じである。色即是空空即是色とはそういうことである。時間は無限であってないのと同じことだ。空間は無限大であって存在しないことと同じである。ビッグバンはそれを実際に証明する。存在しないものが存在し始め、そのときに時間が進みはじめた。やがて宇宙はゆっくりしぼみ始め、収縮し、ついに存在しなくなる。恐らくそれを繰り返している。私が今ここにいることと、未来永劫の先にあることとは関係している。未来永劫の先にあるものは遠くにあるのではなく、今ここにある。はるかかなたにあるものは今ここにある。生命の誕生は偶然であるし、必然である。そのことを認めることはおかしなことではない。完全には知り得なくても、何かがあると感じることは誰でもいつでもできる。人間は宇宙の一部であるから、一部を知ることができても不思議ではない。完全には知ることはできないだろう。でも感じること、信じることはできる。
この世にはものすごいエネルギーがあって物質と時間を生み出している。物質と時間はエネルギーと同じもので伸び縮みする。無から有は生じる。有と無とは同じだ。今ここの存在は存在していないのと同じことだ。未来永劫の先にあるものは今ここにある。何もかもが今ここにある。人間は惨めでちっぽけだが、やがて他のものに姿を変えて何かに戻っていく。それは100年先であっても今ここと同じことだ。100億年までも現在でも同じことだ。
宇宙はフェアーである。一回きりの人生でも100億回でも同じことだ。一瞬も永遠も全く等価だ。広がりきった宇宙は紐でひっぱられてまた一つに束ねられる。延びきった時間も引っ張られて一瞬あるいは不在に戻る。それは不思議でもなんでもない。人間はそれを知らないからといって悲しむことはない。確かに信じることはできる。喜ぶことはできる。不幸でも不運でも惨めでもないと、信じることはできる。知ることはできないが感じることはできる。動物も感じることはできる。
全てのものは同じものだ。いつか過去に未来にではなく現在過去未来常に既に全ては同じものだ。そうでなかったら会話もできない。時間も空間も同じものだ。名前のあるものもないものもこの世にあるものもないものも皆同じものだ。今も昔も未来も同じものだ。
フェアーでありたい。フェアーになりたい。フェアーであれば全てが手にはいる。フェアーであると決めたら、全てが手に入ったのと同じだ。
フェアーでありたい。フェアーになりたい。自分に対してもフェアーでありたい。



2006年07月30日(日) フェアー

フェアーで行こう。最近特におかしい。自分で自分がコントロールできない。酒におぼれている。体調が良くないにも拘らず飲んでしまう。文学なんかにのめりこむとろくなことはない。結局フェアーじゃなかったので全てはうまく行かない。自分が守れない。フェアーになれば正々堂々と自分が守れる。昨日電車で驚くほどの美少女を見た。絶対堺にはありえないほどの。大和川からミナミには人間は住んでいない。女が嫌いなんじゃなくてブスが嫌いなだけだ。婆とか。フェアーであれば努力もいらず危険もなく自分を守り、主張することができる。アサーティブということだ。大阪の女は全員ヤンキーだ。犯罪者なんだから恐いに決まっている。でもヤンキーは権力には弱い。悪いことをしていることには間違いないからだ。フェアーであればそんな奴のことなんか気にならない。昨日天保山の催しに行ったが死ぬほどつまらなかった。何も面白いと思うものはない。大阪に面白いものなんかあるわけがない。東京行きたい。
仲良くなんかできないので何も考えずフェアーでありたい。好かれなくてもいい。人格障害。ヤンキーは人格障害だ。大阪は宅間のふるさとだ。全員人格障害だ。全く理解できない。私が理解されることもない。フェアーであって自由でありたい。
うつであっても人格崩壊していてもフェアーでさえあれば全てうまく行く。人間は皆人格障害だ。特に大阪の女は全員ヤンキーで人格障害だ。それでもフェアーであれば自分を守れる。絶対確実に守れる。
他人に興味がなくなった。人にどう思われてもいい。人を好きとも嫌いとも思わない。健全化の兆候だ。全く葛藤も軋轢も生じない。私が今まで感じていたのは人格障害的な感情だ。フェアーであればそんな偏った人への関心はありえない。危険な人物に接近することもない。
フェアーでありたい。何かしたいと思ったのは初めてだ。自分を守るためにその人間と仲良くするのは間違いだ。我慢できないし、人格が崩壊する。自分を守るのに方法なんか選んでいられないし、選ぶ必要はない。フェアーであれば自分を守る方法はすぐわかる。すぐ実行できる。病んだフェアーでない状態は避けるべきだ。フェアーであれば自由にいつでも自分を守れるのでびくびくする必要はない。人に注意する必要はないので興味がなくなる。とても興味の持てるような奴らではない。女は人格障害のヤンキーだ。
反俗に行こう。人に興味がなくなった。山奥で仙人のように生きていこうか。興味ないのに興味ある振りをするのは馬鹿馬鹿しい。とにかくあの職場には戻らない。そのために全力を尽くす。フェアーでない状態になっている。元に戻すことはできない。キチガイと付き合うことはできない。
フェアーである私は昨日までの私とは違う。フェアーとは健全ということも含まれる。いつも健全な状態かどうかセルフチェックする必要がある。誰に対してもフェアーであればうまく行く。うつ状態でも統合失調症でも大丈夫。
フェアーであれば俗世間に興味がなくなるので利他的な社会貢献的な行動ができるようになる。松下幸之助や一人さんの言うことがわかるようになってくる。浄土に行こう。聖なる世界に遊ぼう。俗を避けよう。人から離れよう。
最初の頃の躁状態も今思うとおかしかったかもしれない。それからすると今のほうが普通だ。無防備であってはいけない。何で悪いことをするのかなどと人格障害に言っても仕方がない。休む前に私にされた仕打ちはいじめ以外の何者でもない。それを耐えるのが馬鹿なのだ。フェアーでなければいけない。昔いたウジムシと同じことをやっている。フェアーでなければならないというより、フェアーでありたい。
とにかく絶対の復帰条件はあのグループを離れるということだ。人を信用するな。何で盗人を信用するのだ。何で自分を守らないのだ。馬鹿じゃないのか。フェアーであるということが重要だ。私は両親にフェアーでなかった。鬼っ子だ。フェアーであればこれからも十分生きていける。
とにかく自分を全力で守ろう。仲良くするなんて意味ない。馬鹿馬鹿しい。私はこの世に納まりきらないスケールの大きな人間なのだ。人と仲良くする方法を考える暇があったら、フェアーに考えて自分を守ることを考えるべきだ。フェアーであればいくらでも自分を守れる。フェアーでないと自分を守れなくなる。
今ほど休みが必要なときはないし、危険に敏感であり、避けるべきときはない。生命力が弱り、頭の働きが衰え、手も怪我してしまった。自分で自分が守れない。アドレナリンが過剰放出されて不適切な行動を取るというパターンが繰り返されている。
あのヤンキーと人格障害ぞろいの職場が恐ろしい。長年耐えてきたのがここに来て耐え切れなくなった。ストレスによるダメージの蓄積だ。
n氏はそんな職場でもちゃんと課長をやっている。素晴らしい。きっと内心は辛いんだろう。きっと芯が強いんだ。私も統合失調症的な反応ではなく理性的に対処しないといけない。今こそ理性が必要なときはない。フェアーであるということは言葉で理解できる唯一の感覚だ。今まで抽象的なことしか言えなかったのが初めて実際的なことがわかるようになった。アメリカも犯罪が多いし、悪い奴はとことん悪い。でもある部分ではピューリタニズムで、徳を重んじる。そうでなかったら豊かにはなれない。
今ほど合理的、理性的、倫理的に生きるべきときはない。フェアーであれば現実にも完全に対応できる。こころなき獣のような奴らにも完全に対抗できる。フェアーでさえあれば。フェアーでありたい。闇雲に人を傷つける。自分だけ利益を貪る。安逸を貪る。そういうことは止めたい。サドの考えたようなことだ。フェアーでない行為とは。それは意識的に変えることができる。フェアーであることは意識的に完全にできる。フェアーじゃないことは一時的には耐えられても絶対に続かない。必ずおかしくなる。あのグループでの扱い。絶対に耐えられないし、絶対にあそこには戻らないという理由だ。フェアーであればいつどこでも誰に対しても自分を守ることができる。自分を守るために相手と仲良くなる必要はないのだ。いじめられないために愛される必要などないのだ。戦争状態であっても自分を守ることはできるのだ。フェアーでありさえすれば。
人に全く興味がなくなった。良いことだ。人に腹が立つ可能性が全くなくなる。フェアーな気持ちになる。
フェアーでありたい。フェアーであることは意識的にできる。完全にコントロールできる。中学のときからフェアーであることができなくなった。原因はわからない。そうなるべくしてなったのだ。フェアーであれば全ての悩みは解決する。絶対につけこまれることはない。フェアーであれば人生は私のものになる。フェアーであると自分の願望がかなう。フェアーであるとは誰でもいつでも100%正しく判断できる。うつであっても統合失調症であっても。フェアーであればどんな場合でも誰からでも自分を守ることができる。
人格障害みたいな奴と仲良くなんかできるわけがない。何するかわからないのに何で一緒にいられるのだ。フェアーでありたいものだ。
フェアーであればなんでもできないことはない。世界征服もできる。フェアーであることは生きることと一義だ。
最初の躁状態も必ずしもベストな状態ではなかったのだろう。すぐにこけてうつになった。自業自得だ。しかし私は二つの気付きを得た。親鸞の教えとフェアーであることだ。
フェアーでありたい。自分にも他人にも。他人なんか全く興味がない。全く。だから葛藤が生じようがない。



2006年07月29日(土) フェアー

本当に弱っている。酒はやめたほうが良い。我慢と無理は禁物だ。フェアーという考えは気に入っている。私の置かれた立場はフェアーではない。フェアーという考えは怒りを生じ、原動力にはなる。不正を正し、権利主張する。正義が実現すれば怒りは収まる。日本人が外国人に思えてくる。外国語は頭の中が外国語になる。帰国子女と同じで適応が難しくなる。雅子もそういう弱さをもっているのかもしれない。美智子はいじめに耐えて生まれ変わった。雅子はひ弱なのだ。あの笑顔は日本的でアルカイックで不自然だ。微笑まなければならないと思って努力している。私もひ弱だ。ババアのいじめに耐えられない。でも耐える必要はない。フェアーな態度を取らなければどこまでもつけこんでくる。徹底してフェアーな態度を取ろうと思った。あんな職場には絶対戻らない。hやkは人格障害でフェアーではない。z氏も完全に人格障害だ。共依存的関係になっている。共依存とは人間関係のアディクションだ。フェアーな関係ではない。知らぬ間に支配されている。私は人格障害の傾向がある。ヤンキーが勘違いして近寄ってくることがある。でも私はヤンキーではない。ヤンキーが大嫌いだ。気持ち悪い。あの職場には戻らない。文学の世界に進めばよかったのだ。三島由紀夫だって、役所を辞めている。フェアーな態度が何かを徹底すれば答は自ずから見つかるだろう。母親は過干渉だった。私の自立心を奪った。共依存でもあった。父親に託せぬ思いを息子に託すというよくあるパターンだ。でもそんな人生でも私は嘆いたりしないし、失敗だったなどとも思わない。最後までわからないし、諦めない。幸せとは物質ではない。収容所にいた人が言うのだから間違いない。フランクルは収容所にはいる前から人生の意味に疑問を感じていたらしい。だからあの経験は人生を広げるチャンスでもあった。何が幸いかわからない。人は宗教的な考えを抜きには生きられない。私は親鸞との出会いが大きかった。宗教なんて大したもんじゃない。深刻ぶって修行したりするもんじゃない。フェアーであるならばそんなことを要求されたりはしない。仏陀というのはおかしな人だった。宗教なんて気楽なもんだ。重い人生を気楽にしてくれるのが宗教だろう。余計重くしてどうする。親鸞は苦しみ惑う人にとを救った。真の宗教者だ。比叡山の仏教は誰も救いはしない。
フェアーであれば生きていける。そう確信した。あの職場には戻るべきではない。フェアーではありえない。自分が守られていると考えるのはどんな場合でも間違いだ。自分の安全は自分で確保しないといけない。それがフェアーな考えだ。自分が何もせずに安全だと思っているのはきっと誰かに依存してフェアーでない関係になっている。絶えずチェックして自分の安全を確保しないといけない。精神的に弱くても強くても同じでフェアーという考えは実行できる。
人間は罪を犯しやすい。だからフェアーという考えが必要と考えたのだ。特に両親にフェアーでなかった。学校でもどこでもフェアーではなかった。b校というのは嫌なところだった。何であんなところに一年も通ったのかわからない。人格障害の巣。とにかくあの職場には戻らない。フェアーな考え方をするならばそうなるだろう。誰にでも自分も含めてフェアーに接するということは決して難しいことではない。人間はフェアーでないことが多い。そうなりやすい。ほっておくとそうなる。hはとにかく嫌だ。困る。あの類の連中は全て困る。人格崩壊の危機に瀕した。それも生きていく上でやむをえない。でもフェアーではなかった。よく内容を知らされないで参加したことはデメリットが大きかった。カルトと同じだ。洗脳だ。やってはいけないことだ。
生まれてすぐは母親に全面的に依存する。それは仕方のないことだ。しかし徐々に自立していく。しかし人は愛情に依存して生きていくことには変わりない。一切依存しない存在はありえない。家族を作り、子供に依存される。愛情に裏打ちされているからそれは嗜癖にはならない。でもときどき虐待というアディクションが生じることがある。私は女が嫌いだ。三島由紀夫と同じ理由だ。だから愛情ある関係にはならず、嗜癖的な関係になる。疲れた。フェアーであれば怖いことはない。自分がフェアーな考え方ができていないから恐い。つけこまれて自分を守れない。フェアーであれば女であっても恐くない。誰であっても自分を守ることができる。
人にあまり興味がなくなった。人に興味をもたれるのも重荷に感じる。フェアーであれば嘘をすぐに見抜ける。人と出会ってどうとかegみたいな幻想をまだ捨てていない。そういううそ臭さをもう信じられなくなった。信じてもいない嘘を信じている振りをするのは苦痛だ。
満身創痍だ。人に興味がなくなったというのはいい兆しではないか。人に興味を持ち、依存する気持ちが脳の暴走につながっている。フェアーであれば、誰にも依存しない自律的な気持ちになり、脳は沈静化する。人と仲良くしたいという気持ちが一切なくなった。すごくいいことだ。結局人は一人で生まれ、一人で死んでいく。人に依存しているから、人の態度に敏感になる。気分とか感情に依存すると平安は得られない。
人に興味がなくなった。すると観光とか旅とか温泉にも興味がなくなった。秘湯とかは人間に興味がなかったらできない。自分を守りたい。当然のことだ。フェアーであれば全ての問題をクリアーできる。感情とか気分に依存したり、基盤を置いたりすると病気になる。そんな不安定なもの誰にもコントロールできない。だから芸能人は大変だ。皇族なんかはもっと大変か。雅子はかわいそうだ。若い連中は携帯とかで人とつながっていないと不安らしい。依存症だ。愚にもつかない用件を伝えるために莫大な金額が投資されている。馬鹿だ。やっぱり私は下品な奴らとは付き合えない。フェアーであれば余計なことは気にならない。
人格が完全に崩壊した。自分がコントロールできない。人と仲良くする必要はない。フェアーでありたい。両親や周りの人間にフェアーでなかった。フェアーであればうまく行く。
人間に興味がなくなった。周囲に関心がなくなった。そうすると悩みがなくなった。人に危害を加えられるんじゃないかとか思わなくなった。くそ女が地下鉄の中で言葉の暴力をぶつけてきたが、全く気にならなかった。全く興味がない。こんなにも自由かと思う。誰も人のことなんか気にしていない。全く人に関心を持たない。これがどんなに楽なことかわかった。
フェアーでありたい。フェアーであれば無意味な攻撃をされても反撃できる。
今考えていることを全て放棄するといいんじゃないか。女がどうしたんだ。全く関係ない。どうでもいい。人間が全く気にならなくなった。全く関心なくなった。
フェアーで行こう。今日のくそ女はなんだったのか全くわからない。何で女なんか生きているのかわからない。



2006年07月28日(金)

酒を飲んでしまった。胃が痛い。手首も痛い。満身創痍だ。フェアーであれば大概のことはクリアーできる。自分だけ得をしようとしてもうまくいかない。浄土真宗に帰依してから気持ちがスッキリした。真宗こそフェアーな宗教だ。一切差別をしない。修行とか言って結局差別している。日本人はフェアーとは言えない精神構造をしている。どうしても影響されやすい。フェアーでない取り扱いを受けても我慢してしまう。我慢と無理はいけない。私がこんな症状が出ているのは全く当たり前だ。自分をフェアーに扱っていない。女が嫌いでもいい。好きになろうと努力しなくてもいい。自分の身は自分で守っていい。私はあの職場に戻らないだろう。ストレスが溜まりすぎている。自分をフェアーに扱わない場所にはいられないし、いる必要はない。自分で自分の身を守っていいのだ。
昨日母親には悪いことをしたと思った。フェアーでない態度をした。キチガイ教師にいじめられてストレスが溜まって母親に暴力を振るってしまった。あのキチガイは母親にも電話していた。気の毒だ。ずっと戦っていた。でも子育てだから仕方ない面はある。ぐれる子供もいるだろう。社会に出てからも舞い戻ってきて迷惑をかけた。楽しい老後の暮らしが待っていたのに、めちゃくちゃにしてしまった。フェアーでない態度だ。そして一人きりにして置き去りにした。もちろん子供は独り立ちするものでいいのだが私が自分にフェアーでなかった。フェアーでないとは一方的とか搾取的とか言う意味だ。誰も煩悩を断ち切るなんて無理な話だ。親鸞はそれを見抜いていた。真宗はメシア主義だ。もともとの仏教はエリート主義で無理なことばかり要求する。根本的な組み換えを行った。もとの仏教とは似ても似つかない。キリスト教に似ている。z氏も全く幻想にとらわれている。会社に貢献することが目的とは本末転倒だ。だから人格改造でも何でもいいということになる。失敗すれば放り出せばいいということになる。全然人を救うことが目的ではない。フェアーでありさえすれば私がどんな成育歴だろうが、トラウマがあろうが、関係ない。今ここに生きることができる。フェアーに扱えということになる。フェアーということは大雑把なようで精密な道徳だ。どこまでも精密になる。関係性だから絶対と言うことはない。バランスの問題だ。固定した身分などない。靖国の問題もアジアの人々をフェアーにあつかっていないことになる。支離滅裂だ。人の嫌がることはしない。当たり前のことができないのは、小泉がアンフェアーなメンタリティーの持ち主だからだ。ブッシュの犬。そういう奴隷的な身分でないと安心できない。やくざに見られるものだ。あれの祖父は侠客で刺青宰相と言われたらしい。そういうものを許す風土がある。浪花節、任侠。フェアーな世界ではない。全く理屈の通らない世界だ。女が嫌いかどうかは関係なくフェアーであるかどうかだ。嫌いであることを変えることは不可能だが、フェアーであることはできる。女は好きかどうかを探ってくる。すぐに見破る。女が嫌いというのは偏食と同じで差別的な面、アンフェアーな面もある。差別的、アンフェアーである限りにおいては改めないといけないだろう。でもメンタリティーなど代えようのない部分もあるからそこは無理して変える必要はない。変えるべきなのは態度であって、好き嫌いではない。
自分にも誰にでもフェアーになると楽になる。無理や我慢を一切強いない。嫌いであってもフェアーであることはできる。自分を守ることは許されている。あの職場は私をフェアーに扱っていない。だから単純に拒否できる。恐いというのは許されている。フェアーに振舞うことはできる。恐くても。嫌いな人間であってもフェアーに振舞うことができる。好き嫌いなんか関係ない。人間関係は好き嫌いではない。
うつでも統合失調症でもノイローゼでもフェアーであることはできる。フェアーになれば病気にはならない。egとはアンフェアーな状態に置き、人格を破壊する。あのいんちきカウンセラーは会社の立場に立って私の人格破壊をそそのかしたのだ。フェアーであると生きていけないと思っている。ウジムシと付き合ったことによるptsd。キチガイ教師の虐待によるptsd。それでも私は生き延びる。フェアーであることを実行すればここから抜け出せる。
フェアーであること。これはうつでも何でもできる。自分を守るということの前提でもある。人にフェアーでない者は自分にもフェアーでない。
とことんセルフケアーする。カウンセラーに見捨てられても私は私を見捨てない。カウンセラーなんか人をモルモット扱いするキチガイ集団だ。egなんか害毒ばっかりで効用は何もないのにしがみつく。快楽とアディクション。犯罪だ。
フェアーであることに慣れてくると感情も正常化する。アディクションがすっと消える。今おばさんを見ると恐いが、その根底には差別感情がある。中学の頃から訳のわからないことを書き綴るようになった。同時にフェアーでなくなった。フェアーであれば、差別感情は消えていく。フェアーであれば正当に誰でも接するということだから問題ない。恐いとか気持ち悪いとか言う感情はフェアーであれば消えていく。フェアーというのは感情であって感情ではない。理屈であって理屈でない。それらを越えた倫理的感覚でどんな場合でも誰に対しても通用する。誰でも差別されたくないだろう。
フェアーは中庸にも通じる。極端な考えは自然に遠ざけられるから、認知療法的考えとも一致する。自分いじめの連鎖は断たれる。
アディクションにはまる人はフェアーでない考えに取り付かれている。何かによって自分だけ幸せになれると信じている。それは一部満たされ、一部満たされない。満たされないから際限なく求める。幸せは後からついてくるものだということが納得できずに何かに依存する。人に向かう場合は人を奴隷化し、自分の快楽の目的としようとする。家庭内暴力、小学校の頃あのウジムシがやっていた行為。
フェアーであれば多少嫌なことがあって気分が変動しても持ち直すことができる。小さい頃馬鹿で相手にされないから人に片っ端から悪さをする馬鹿がいた。私は愚かにもその馬鹿の友達になってしまった。やっぱり私も馬鹿だったのだ。でもフェアーであれば過去の過ちもプラスにできる。
フェアーであること。アイムオーケーユアオーケーに通じる。フェアーであればどこにでもいける。
悪いことをしたいとは思わない。フェアーであれば物事はうまく行く。女でも好き嫌いに関係なく、フェアーに扱うことはできる。フェアーに接することだけが唯一の態度だろう。
頭が勝手に暴走を始める。これを薬の力か、呼吸法か何かでコントロールできるようにならなければ社会復帰は難しい。こんな状態でもフェアーであれば、人間関係はうまく行く。自分に対しても他人に対してもフェアーでありたい。
私は悪い人間ではない。悪いことを考える癖がついているだけだ。フェアーに考え行動する癖をつければくだらない揉め事はたちどころになくなる。被害妄想もなくなる。余計なことを考えなくて良いから考えなくなる。私は宗教のレベルまで成長した。これは誰でもできることだ。古来多くの人が当たり前のようにできたことだ。これなしでは生きることはできないだろう。簡単なことだ。フェアーに生きるということでいいのだ。修行とかは必要ないのだ。
今日はしんどかった。でも一人さんの言う困っていない、学んでいるんだというのは身にしみてわかる。でもできれば苦しみたくない。あの頃は元気だったのに、明るい未来が見えていたのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。私は悪いことを平気でする。フェアーになろう。フェアーになればうまく行く。邪悪なこと。これをのぞけば私もまともになる。フェアーになったとたんに人に興味がなくなった。いいことかもしれない。今日は一日家にいた。昨日怪我したから恐くなった。生きるパワーが落ちてしまった。フェアーに生きれば必ずよみがえる。焦らないことだ。ここを脱出したい。今がチャンスじゃないのか。九州に出かけよう。あるいは東北へ。



2006年07月27日(木) 心臓

昨日の夜はまた心臓がバクバクいって目覚めた。死にそうな気がする。酒を飲むのは良くない。眠りが浅くなる。眠れないとやっぱりおかしい。少し機嫌よくすること。この三ヵ月の絶不調を脱出できそうだ。女を嫌いたければ嫌ってもいい。自分を守ることは許される。それから自分がフェアーじゃないかもしれないと思った。人間関係においてもバランスの取れない考えをする。一方的に自分が有利な関係を持とうとする。smみたいな非対称な関係。日本人は割と好む。体育会系ではよく見られる。私はそれを嫌っていながら無意識のうちにやっている。hとの関係にしてもそういう非対称な方向にリードしようとしている。自分が都合のいいことばかり言ってしまう。kはそういう非対称な関係が我慢ならないという思想の持ち主で逆に真似して自分が非対称な優位な関係に立とうとして、金持ちアピールをしているのだ。100%人のまねをする。キチガイじゃないのか。何でこんなのに悩まされないといけないのか。例えば女との関係においてきっとそういう非対称なものを求めるのでうまくいかない。非対称でなければきっとうまく行く。
少し機嫌をよくしよう。それから自分をとことんセルフケアしよう。セルフヘルプしよう。日本は半分アメリカなのだから、アメリカ風な考えをしてもおかしくはない。民主的だといわれる。フォーカシングをやってみようかと思う。自分をカウンセリングする。相性は関係ないし、いつでもできるし、ただだし、危険なことはないし、過去の嫌な出来事を全てフォーカシングしてみようか。自分を王侯貴族のように扱おう。自分を知らぬ間に非対称の下の方においている。だから自分が自分に反乱を起こすのだ。自分で自分が守れなくなるのだ。この非対称な関係を修正しないとやっていけないだろう。小さい女の子が好きなのは非対称な幻想をかなえてくれそうに思うからだ。smもそうだ。非対称な関係が安定しているような錯覚を持っている。それはあまりに幼稚だ。もちろん世の中にはそういう趣味を持っていながら普通の暮らしをしているものもいるが、私は正直なので無理だ。嫌なことは嫌だといえばいいのだ。自分は自分で守ればいいのだ。誰かに守ってもらう必要などない。そんなに弱くはない。
z氏も私に愛想を尽かしたようだ。eg以来性格が変わった。非対称であることは良くない。それが一番のポイントじゃないか。旅館に行ってももめたりするのは機嫌が悪いから、そして非対称な関係を求めるから。そんな関係は母子関係ですらない。一方的に相手を攻撃する。そんな関係はない。eg以来性格が変わってしまった。これを直すのは一人さん流の自分の機嫌を取ることしかない。フェアーであること。アメリカ人も非対称な関係を求める。原爆なんかそのいい例だ。ベトナム戦争、イラク戦争。それがテロを招いたのだ。テロでいっそうそういう性格が前面に出てきた。非対称をやめて、フェアーであれば大体うまく行く。
英米人も変わりもんが多いからすぐに非対称な関係になってしまう。だからフェアーということをいう。一方的な関係、一方が不正を働く関係。他方が反撃を封じられた関係。これを彼らはフェアーでないと怒る。真珠湾攻撃など日米のメンタリティーの一番大きな違いが現れた。ああいうフェアーでないことは非常に怒る。正々堂々と戦って被害があることはやむをえないと思う。日本人よりかえって潔い。私も変わりもんだから彼らに倣ってフェアーという考えを取り入れよう。
自分を大事にしよう。それには呼吸法とフォーカシングが良い。フェアーであろう。健康に気をつけよう。人間関係もそのほかのこともアンフェアーで非対称なことをしてしまう。hやkとのことも結局非対称な関係を求めるからだ。それは絶対にかなわない。eg以降にやったことは全部間違いじゃないのか。
女が嫌いでもいいじゃないか。自分で自分を守っていいじゃないか。大体いじめとかやるのは日本人と英米人くらいだ。おかしいんだ。世界で友達がいない。
昨日はババアにいじめられた。朝日カルチャーにいってもババアにいじめられる。いじめかセクハラ。関係ないだろうと思う。フェアーであること。仕事に関してもそうだ。もらった分だけ働く。これが大事だ。自分を自分で守る。これが大事だ。
フォーカシングを久し振りにやったら少し良かった。内面の感じ、体の感じを探るというのは良いことなのだろう。私は今胃が無性に痛い。神経性なのかよくわからない。スポーツクラブも人付き合いはしたくないのだから、スタジオのプログラムは参加しないほうがいいかもしれない。調子が最悪だからトラブルの元になる。
自分で自分のカウンセリングをやってみようかなと思う。そのときどう思いましたかとか。自分に問いかけてみる。過去にあった出来事を順番にやってみようか。このマンションも居心地がよければいいのだが、全然良くない。恐い。だから外に出たくなるが外は全然安全じゃない。
昨日酒を飲んだから眠れなくて調子悪くておかしくなる。酒は飲まないほうがよい。今調子が悪いから自分を細心の注意で扱ったほうが良い。
フェアーじゃないなと思う。弱いなと。でも仕方のない面はある。心が弱かったのだ。もって生まれた面もあるから自分を責めるのは止そう。ただ自分がフェアーじゃないということだけは知っておこう。
さっき転んでまた手首を捻挫した。馬鹿だ。何回転ぶ。足がというより脳が衰えている。気をつけよう。フェアーに行こう。一方的に人を責めたりしない。
フェアーに行こう。女との関係も一方的に卑屈になることはないし、気に入らなかったら、思い切り、反撃しても良いし、自衛してもいい。フェアーであることが大事だ。私は頭の中がアメリカナイズされているのでそういう表現の方がピンと来る。かぶれ易いのだ。フェアーというのは非常に便利な概念だ。抽象度が低く理解しやすい。現実にそのまま当てはめやすい。考え込まずにすぐに実行判断できる。誰でも自分だけ得したい。楽したい。と思うものだ。でもフェアーという考えを入れるとどうすべきか簡単にわかる。
フェアーというのは精神的なことのようで社会的なことであり、具体的で理解しやすい。商人の道徳だ。近江商人の三方良しみたいなものだ。精神的な徳目ではないから苦しくなく、理解しやすく実行しやすい。易行だ。
今日は女であれ、男であれ、若かろうが年寄りであれ、腹の立つことがなかった。短い間に成長した。女は働く力が弱い。いまだに社会的立場が弱い。だからだめだというのではなく、哀れむことが普通じゃないか。それがフェアーということだ。フェアーというのは感情的なことではなく物質的、利益に関する感覚でありながら一番感情に配慮する基準だ。フェアーというのが一番感情が納得する。損得に人間は一番反応する。私はそのことに漸く気付いた。これは社会的な感覚の目覚めだ。商人が何を気にしているのかやっとわかった。自分だけ得をしようとしてもだめだ。一回だけうまく行っても次からは相手にされない。でも自分だけ損するのなら意味はない。これは誰でも同じことだ。だからフェアーということが意味があるのだ。女が嫌いでも好きでも関係ない。女をフェアーに扱えるかどうかが大事だ。ホモでもインポでも関係ないのだ。
フェアーであればアメリカ大統領にでもなれる。アメリカ生まれじゃないからだめか。
フェアーというのは自分自身に対しても当てはまる。自分が自分にフェアーでないことをする可能性もあるのでそれに対する警戒ということもありうる。



2006年07月26日(水) 梅雨明け

もうすぐ梅雨明けだ。楽しい。女が嫌いなのは偶然であり、かつ意味がある。それを無理に原因を探ったり、変えたりする必要はない。それで不利益を受けたり、処罰されたりする必要もない。自分を守っても良い。守る必要がある。こんな簡単なことを許さなかったとは愚かだ。うつが治ってきた。薬のお蔭だ。
自分を守るとは簡単なことだ。素晴らしいことだ。
私が付き合ってきたウジムシたちも私に何かを教えてくれたのだ。もちろん付き合わないほうが良かったが、こんな奴もいるということだ。自分を守ることだ。女が嫌いでもいいのだ。自分を守ってもいいのだ。
諸富の本を読んだらいいことが書いてあった。popという心理学のことが書いてあった。全く東洋哲学みたいなものだ。
自分を守るということはいいことだ。女が嫌いなら嫌いでも良い。誰でも嫌いだろう、ババアなんか。トランスパーソナルを読んで人が人を超えてつながっているのだという思いを強くした。あのキチガイババアでも同じ人間なのだという感じがした。自分を守っても良いし、女を嫌っても良い。そんなことは自由だ。宗教も同じことだ。誰でも死に行くものも生まれたばかりのものも同じだという気がする。生まれ変わりも信じたければ信じてもいいと思う。浄土に行くつもりだ。弥陀の本願にすがって浄土に生まれ変わるつもりだ。
女を嫌ってもいいということ。自分を守って良いこと。憐れみの気持ちを持つこと。女を嫌っていることを女に感づかせないこと。トランスパーソナルな考えを持つこと、つまり、人は皆同じで現在過去未来、人類皆つながっている、平等であると考えること、これは一歩進んだ考えで楽になる考えだ。小さい頃はそういう考えを持っていた。しかし数々の付き合ってはいけない人々との出会いにより、私は汚れきってしまった。これは簡単に元に戻る。浄土真宗とトランスパーソナルによって。ホンのちょっとしたきっかけで浮上できる。というより、したまで下がっていく必要はない。いつも機嫌よくしてなというのはそういうことだ。私は機嫌が良かったのだ。
ものすごく良くなってきた。浮上してきた。いつも機嫌よくできる。私は誰にでも好かれる。とても良い性格で誰からも好かれる。あの小説も誰からも好かれるから好評だったのだ。私の良い性格を信じることだ。



2006年07月25日(火) 大画面

大画面テレビは素晴らしい。今日はまた風邪を引いた。食生活が良くないのだろうか。もう一度初心に帰って規律ある生活をしよう。よく眠れたのは良かった。きちんと薬を飲み続けるのがいかに大事か。変な夢。精神病院に入った夢。今そういう生活だ。脳が衰えている。脳力トレーニングでもしようか。
楽しい。映画が楽しい。楽しい。楽しめることはいいのだ。
自分を守るというのはいいことだ。自分で自分を守ることはいいことだ。素晴らしい。自分を守るというのはいいことだ。
楽しい。私は良い人間だ。素晴らしい人間だ。自分で自分を守るのは気持ちいいことだ。
私は神だ。良い人間だ。自分で自分を守ることは良いことだ。楽しいことだ。自分を守ることだ。素晴らしい。こうして休んでいるのも自分を守ることだ。何であんな会社にいないといけないのか。全くわからない。
ぶっ殺すぞと思う。俺の利益を害する奴はぶっ殺すぞといっているのだ。
女が嫌いでもいいじゃないか。私が女が嫌いだといっているんだ。女だってほとんど100%私を嫌うじゃないか。何が悪いんだ。自分の身を守ってもいいんだ。女を嫌うことを自分に許さず、自分の身を守ることを許さなかったら立つ瀬がない。それはおかしくなるだろう。女が嫌いで良い。自分を守って良い。この二つだ。
自分を守ることだ。これは大事だ。これは本当に大事だ。大事だ。本当に大事だ。女から自分を守ることは本当に大事だ。女が嫌いでもいいのだ。それを出さなかったらいいだけじゃないのか。女を嫌っても良い。でも出す必要はない。自分を守って良い。これは大事なことだ。女を嫌ってもいいというのは本当に大事なことだ。



2006年07月24日(月) 寝た

昨日はよく寝た。11時間くらい寝た。ユーミン効果か、大画面効果か。規律正しい生活をしよう。小田和正といい音楽は救いになるんじゃないか。バイブレーションが直接伝わって元気になる。
ちょっとしたことをきっかけに這い上がろう。浄土真宗もいいだろう。諸富もいいだろう。呼吸法もいいだろう。薬もいいだろう。スポーツもいいだろう。何かいいことを探してやってみよう。うきうきした気分でなくてもいいから普通に楽しくやっていけそうだ。じっとうずくまって自暴自棄になってはいけない。必ず這い上がる。私は必ず這い上がる。バイブレーションの高い人に接する。元気が出る。親鸞、法然に着目している。
自分を守ることだ。それが一番大事だ。自分が守れなくなったら働けなくなる。自分を守ることイコール働くことだ。
自分を守らないといけない。それは明らかだ。それができないのが問題だ。普通にしていれば自分が守れるものだと思っていたが全然そんなことはない。全く守られていない。自分を守ることに全力をあげないといけない。
自分を守らないといけない。自分を守るには色々ある。暴力なんか一番最後だ。
自分を守るくらい当たり前だ。給料が減っていたのでショックだった。当たり前か。会社に行かないというのはデメリットが大きい。
自分を守るのだ。堺の住民なんか全員犯罪者だ。油断するとすぐに攻撃してくる。



2006年07月23日(日) ユーミン

今日はユーミンのコンサートがある。楽しみだ。人生楽しまないと。大画面テレビには大満足だ。ケーブルテレビの会社とやり取りするのは大変だった。脳がちゃんと動いていないことを知った。テレビを買ってから良く眠れるようになった。やっぱり相当なストレスになっていたのだ。
だいぶ改善した。テレビのお蔭だ。自分を守らないといけない。他人に攻撃されないようにしよう。侮辱されないようにしよう。姉は完全におかしい。小さい頃から私を理由もなく攻撃して来た。人に優しくすることができない奴だった。とにかく自分を守ろう。アダルトチルドレンと共依存を読もう。合わない人とは会わない。一人さんの言うとおりだ。日本人は境界例だ。芸術、スポーツをやる奴は境界例だ。人間は境界例だ。言葉や文字を持った時点で境界例だ。
宗教はいいなあ。善悪の区別が付くようになった。自分をコントロールできるようになった。自分に優しくしよう。とことんセルフケアーしよう。セルフサポートしよう。無謀なことをしてはいけない。自分を守らないといけない。嫌いな人間と会ってはいけない。自分を合わせようとしてはならない。自分を徹底して守らないといけない。徹底して自分を守らないといけない。あの境界例の巣みたいなところで生き抜くためには、徹底して自分を守らないといけない。
自分を守ろう。非常に恐い。人間が非常に恐い。恐いものから自分を守るのは当然だろう。宗教はすごい。
ユーミンのコンサートに行ってきた。欝の真っ最中だったが、楽しかった。盛り上げ方がすごい。何かバイブレーションが直接伝わってくる。それが癒される。言葉を越えて肉体と肉体の共鳴のようなものか。それが癒しだ。親鸞のバイブレーションが伝わってくるから癒されるのだ。
自分を守ろう。これが一番大切なことだ。中学の頃から自分が守れなくなった。変な奴と付き合うことが一番悪い。芸術なら芸術でも良い。何か打ち込んだ方がよい。ユーミンを見ろ。完全燃焼しているので絶対病気にはならない。ああいうエネルギーの高い人のバイブレーションを受け取るのだ。それで自分を守るのだ。
自分を危険な目に遭わせているのは自分なんだ。自分が自分を守るのだ。自分で自分をいじめている。危険な方、苦しい方に自分を追いやっている。得する方、楽な方、安全な方、道徳的に間違いないほう、経済的なほうに向かうのだ。自分で自分を守るとはそういうことで、人と争うこととか暴力とかではない。ツイテルツイテルっていってなと、自分の機嫌を取れということだ。
自分を危険な目に遭わせるのは止めよう。不利益な選択をしない。絶対にしない。自分を守る。自分を守る。関西人から自分を守る。自分を守る。自分を守る。おかしな奴と仲良くしない。不利益な選択をしない。
自分を守る。これは大切なことだ。自分を守る。自分を守る。



2006年07月22日(土) 梅雨

今日は梅雨の晴れ間だ。生きている以上しないといけないことがたくさんある。部屋の片付け、掃除、人にやってもらえないことがたくさんある。本当は恋愛、結婚、子育てもあるのだが、できないので放棄してしまった。仕事もできていない。人付き合いも一切しない。無力だ。最後にはうつになって趣味も旅行もできない。でも回復できると信じている。すこしずつでも良い。
規律ある生活をしよう。だんだん食事もしなくなっていく。酒量も増える。部屋も散らかり放題。洗わない皿が山積み。読まない本、雑誌が床を占領。スポーツクラブも行かなくなった。意欲が低下してきた。うつの影響だろう。
女のカウンセラーと話したのは結構辛い体験だった。それでもその後女への恐怖心が和らいだのは確かだ。修行と考えてやってみるのもいいのではないか。5千円払って苦しい思いをする。嫌い恐い。これが女に対する感情だ。例の行為が関係していると思う。でももうそろそろ脱感作というかできるんじゃないか。
仕事と女だな。問題は。見た瞬間に恐い。どうしていいかわからない。恐い。嫌い。気持ち悪い。気分が悪い。話すだけで恐い。電話で女が出ただけで嫌だ。凍りつく。自分が守れない。自分を守ることは簡単じゃないか。方法も決まって稲。もちろん護身術というのはある。それは精神面でもあるだろう。カウンセリングや宗教や心理学はそのためにやっている。
ともかく落ち着こう。ずっとパニック状態にある。考えたら死の恐怖に取り付かれてつまり、自分の命が限りあるものと知ってから、ずっとパニックにあると思う。宗教はその安全ネットになる。
芸風変えよう。深刻ぶって小難しい理屈を書き並べるんじゃなく、楽しいことを書こう。ハイヒールの番組を見ていて思った。短い人生楽しく生きよう。せっかく能力あるのに生かさないのはもったいない。宗教的に生きることはやっぱり大事だ。美しく生きることは実利にもかなっている。だろうか。何に価値を置くかによって違うんじゃないか。昔の侍は生きる美意識が強烈だった。名誉を何よりも命よりも重んじた。境界例じゃないかと思う。切腹なんておかしいもの。でも世界中から尊敬され憧れられている。でもなりたいとは思わない。百姓で十分だ。切腹や戦士なんかしたくない。かっこ悪く生き延びたい。華々しく散りたくなんかない。先の大戦でも一人残らずそうだったに決まっている。戦争は誰でも嫌だ。
規律ある生き方をしよう。中学時代からうつと人格障害でおかしくなっていたが、勉強だけはやっていた。今は勉強もしない。規律が失われている。アメリカ人でもむちゃくちゃやっている放埓な野蛮人というイメージがあるが、勤勉な清教徒的性格もある。私は全く生活も人生も規律が失われている。それは何もできないだろう。快楽だけ求めてもだめだ。m氏のサークルに行っても働かされるのは当たり前だ。自律的な人間になろう。他人に道具のように使われるしかない。このままでは。自律的な人間になるきっかけに宗教を利用するのは賢明だ。
規律ある人間になれば自分から自分を守れるし、他人から自分を守ることもできる。今はどちらもできていない。わがまま放題に育った子供のようだ。hが嫌いだというが結局、あいつも私が嫌いだと思う。ストレスを感じていると思う。でも我慢して生きている。生きていることはストレスがある。仏陀も生きるストレスに耐えられなくて何もかも捨てた。家も親も妻子も身分も何もかも。今の私もそうしたい気分だ。でも宗教という支えがあれば何とか生きていけるように思う。
ずいぶん長いこと休んで苦しんだこともあったが、多くのことを学んで成長した。めくらだったのが、少し目が見えるようになった。規律ある生活をすることの大切さ、勤勉節約、つまり勤倹、これが一番大事じゃないのか。放恣は良くないだろう。



2006年07月21日(金) 大型tv

今日テレビが来る。嬉しい。古いテレビともお別れだ。16年間ご苦労様。私の社会人生活と重なる。
神が訪れた。疲れて眠くなった私。確かに疲れている。しかし精神的にも物質的にも自分をコントロールできるような気がした。親鸞のお蔭だ。これは誰でもがやっていることだ。あのくそババアもhもやっていることだ。それができるようになった以上、恐れることはない。宗教のお蔭で無碍の一道を体得し、自分と他人が良く見えるようになった。心と体がコントロールできるようになった。これで何も心配は要らない。後は本を数百冊読破する。
死が異様に恐かった。気付いたことは嫌いなもの、嫌なもの、恐いものを徹底的に忌み嫌うということだ。でもそれを避けて生きることはできない。いずれ死ぬし、病気にもなる。嫌な奴に会わないといけないし、会いたい人には会えない。別れもある。働かないと食えないし、働きたくても職がない奴もいる。私みたいに病気で働けない奴もいる。宗教的な気持ちになることで嫌な気持ち辛い気持ちが少し軽くなる。人と共有できるからじゃないかと思う。辛いことがあってもうつになったりしない。過去にあって落ち込んだとしても立ち直ることができる。



2006年07月20日(木) 大画面tv

昨日店員に邪慳にされたのにはへこんだ。30万以上の買い物をして何でその態度。笑顔一つなく、馬鹿にしきった表情。そしてなぜかきれている。さっぱりわからない。
最近アル中気味かな。昨日はのみたくないのに辛いから飲んでしまった。初めてのことだ。一人で酒を飲むのは本当は良くない。
宗教はいいな。心の悩みが一気に社会に向かって開かれる感じがする。解決するかどうかは別だ。むしろ解決しないだろう。
死の恐怖。これが大きい。なぜ私は悩み始めたか。これが大きいのではないかと思う。これは解決することは不可能だ。でもコントロールすることは可能だ。宗教はそのためにある。親鸞の言葉を信じよう。
フッキー症候群は治らない。梅雨の終わりとともに吹き飛ばしてしまえ。私が人と付き合いたくない理由はこれだ。悪い奴と付き合って苦しむ。もう人と付き合うのが嫌になった。それも中学頃の話だ。全ては中学に始まる。
自分がコントロールできなくなっている。eg以来。大目標はセルフコントロールできるようになることだ。それとセルフケアーができること。自分をネグレクトしてはいけない。宗教は死の恐怖に答を提示してくれる。それをネグレクトする社会はおかしい。世の中が乱れるのは宗教が機能しなくなっているからだ。日本人は無宗教ではなかったのに今本当に無宗教になりつつあるのではないか。
自分が調子が悪いならそれだけケアーのし甲斐があると言うものだ。誰かにケアーを求めるのもいいが自分でできることはいくらでもある。私は自分が苦しいから人を攻撃してしまう。これもウジムシと付き合った結果、悪影響を受けた。何で付き合う相手を選ばない。誰とでも付き合ってはいけない。そうすると付き合うのが恐くなって孤立を選ぶ。極端なのだ。良い相手とならば付き合ってもいいのだ。
b校で最初のときいじめみたいなのに遭った。講師もそれに加担していた。全然わからない。何で無防備にあんなところに行ってしまったのかわからない。何であいつらはあんなに攻撃的なのかわからない。人格障害の巣だ。行くべきじゃなかった。nとかeとかoとかwとか全員嫌だった。女が本当に嫌だ。昨日のクリーニングのくそヤンキーは一体なんだ。堺はdqnの巣だ。死ね。自分を守ろう。もっと怒った方がいいんじゃないのか。怒れば自分を守れるのに怒らないから調子に乗るんだ。昨日だって恐がってばかりいて無視するからいじめられるんだ。
呼吸法は本当によい。生き返った気がする。毎日必ずやろう。酒の飲みすぎで弊害が出ている。腹の周りがだぶついている。これじゃアル中の失業者だ。自制心をもとう。一人さんの言うのは機嫌よくしないといけない。私は機嫌が悪くなっている。呼吸法をやるとてきめんに機嫌が良くなる。交感神経の興奮が抑えられて落ち着く。変な理論とか何とか療法よりいい。あのegのときの攻撃的な興奮状態は交感神経が過度に興奮した状態だった。それを下界に持ち込んだらおかしなことになる。斉藤さんはその辺のバランスが絶妙だ。非常に意欲的で負けず嫌いで強気な面と非常に優しい、慈悲深い面とがよくバランスしている。どちらかに偏ってはいけない。私は長くうつ状態優位、弱気一辺倒だったのでeg以来今度は針が逆向きに触れて強き一辺倒になり、周囲を軋轢が生じているし、自分でも自分がコントロールできなくなっている。機嫌が良くないのに機嫌がいいことが前提になっている場所にいくと非常にまずい。しんどいだけでなく攻撃される。一人さんの言うブスっとしてるだけで罪なんだという奴だ。非常に攻撃的に映るのだ。b校然り、温泉旅行然り、m氏のサークル然りだ。職場もそうだ。およそ人と接触する可能性のある場所ではニコニコ機嫌よくしているのが良い。私はもともと機嫌が良かったのに、hとかkとか機嫌の悪い奴が側にいるためにうつ状態になって行ったのだ。
怒りや恨みの気持ちをもってあの職場に戻ることはできない。怒りや恨みが消えるまで休む。機嫌よくないととても働けるものではない。機嫌よくする。一人さんの言うとおりだ。感謝の気持ちが多い人は成功する。怒りや恨みが果たして正当なものかどうか疑わしく感じる。母親に対する怒りが激しかったがそれは支配欲、権力欲のなせる業で人間が憎いわけではない。
私は難儀な性格なことは確かだ。人が恐い。恐いからブスっとしてしまう。そうすると攻撃的に映る。無視しているとか。訳のわからないことを言うな。うつ状態でも困ったことになるし、そう状態でも困ったことには変わりない。私の父が酒を飲まなくても飲んでいても嫌だったのと同じだ。過剰適応か適応障害のいずれかで適切ということがない。
困ったことは起こらないと一人さんも言っている。困ったということは自分を責め、追い詰めることになる。困ってるんじゃない。学んでいるんだ。学ばせてもらっているんだ。困ってから学んでも間に合うんだ。人間関係がわからない。だから今学んでるんだ。学ぶことは何も困ったことなんかじゃない。喜ばしいことだ。私は困っていないからカウンセラーなんかに相談しちゃいけないんだ。病気でもないから医者なんか行っちゃいけないんだ。宗教と自己啓発本で十分だ。
egに行ってから性格が崩壊した。本当に困る。自分の機嫌が取れなくなった。昔はもう少しセルフコントロールできたのが今は初対面の店員やそこらじゅうの人間とトラブルを起こす。職場の人間はもちろんだ。困ったことは起こらないという説によればこれから学ぶんだということになる。
私は何でも仕事はできる。人間関係もできる。何も心配は要らない。学べばいいのだ。皆そうやって学んでいったのだ。
憐れみや慈悲の感情が弱いのではないか。残酷な感情になることを抑制する感情が。悪いことをしてしまうのはそのせいだ。親鸞によると宿縁によるらしいが、意思でコントロールできる部分はしていいのだ。今思ったことは悪いことは悪いとわかっている以上はしないということだ。昨日のキチガイ女みたいなことはしないし、させないということだ。悪いとわかっていてやるのは病気だ。反社会的性格だ。姉は悪いとわかっているはずなのに私を傷つけた。何でそれが悪いことがわからないのか不思議で仕方がなかった。宗教的な気持ちがどうしても必要になってくる。善悪の区別が必要になってくる。強気なのはいいが悪いことをしていいわけじゃない。悪いとわかっていることはしないことだ。
優しい気持ち、人間らしい気持ちが衰弱している気がする。どうしてそうなったかは宿縁というしかない。もう一度原点に戻って優しさを取り戻そう。
まず自分に優しくしないといけない。この期に及んで自分いじめをやっている。あるいはこれくらいいいだろう的な行為が目立つ。細心の注意を払わないといけない。腫れ物に触るように優しくしないといけない。無理をしてしまう。我慢を重ねる。これが悪い点だ。中学時代の教師による虐待は耐えられるレベルを超えていた。それでも我慢強い私は我慢を重ねた。そうするとまだ懲りないかと更に虐待はエスカレートして言った。我慢と無理は止めよう。普通に判断すればいいのだ。難しいことなんか何もない。
機嫌良くしていればうまく行く。もちろんできる範囲で構わないが。自分がしんどいからとぶすっとしていると人に攻撃の口実を与える。優しさと明るさを自分から取り戻せばそういう悪循環は断たれる。
甘えすぎな面と甘えられない面が両極端に同居しているのかな。甘えられるとなったらとことん甘える。というより悪事を働く。それは甘えとは言わない。いじめとか犯罪である。それか一切心を開かない。中庸がいいのだ。人をいじめたり、甘えすぎたり、貪ったり、してはならない。当たり前のことができていないんじゃないのか。だから女や若者にまで馬鹿にされる。
カウンセリングに行ってきた。女だった。女が嫌いといったらやっぱり強く反応した。どんなに遠まわしに言ってもあんな他が嫌いといっているようにしか聞こえない。これはある種のハラスメントだ。私の中にそういうものがあるのだ。女は馬鹿にしていいと。あのキチガイババアは何でもまねをする。人格障害の一種だが、私のそういうところをまねしたのだ。
苦しい場合は何かやり方が間違っているんじゃないかと思う。一人さんが言っていた。egのときも面と向かっておばさんが嫌いといったらある種の嫌がらせと受け取られた。権力闘争とみなされる。中学のとき母親が嫌いになったのはあるウジムシの一言がきっかけだが、それが権力闘争とみなされた。実際そうだったかもしれない。でも帰りがけに女が少し平気になっていた。少し続けてみようかと思う。おかしいだろうか。女が嫌いとはっきり行った以上、向こうは嫌だろう。人の嫌がることはできないだろう。少し感受性が鈍い。人の痛みがわからない。そういうところは女は敏感だ。
やり方が間違っていることは確かだ。一人さんの言うとおりだ。早く気付け。ただ自分ではどこがどう間違っているのかわからない。多分、人としておかしい。思いやり、人の痛みがわかる。悪いとわかっていることはやらない。人を傷つけない。前のパワハラ野郎が全くそんなことを介しない奴だったので、わからなくなっている。しかし間違ったことをいくらやっても正しくはならない。早く改めることだ。
カウンセリングを受けるだけの資格もないのか。仲良くできない。女を認めることができない。母親との関係がおかしかったのか。真相はわからない。薬を飲んでおとなしくしていよう。テレビが明日来る。どれだけ待ったか。相当ストレスになっていた。酒飲むと酒量が増える。テレビ依存症なのだ。ましてこんな状況だ。自分にストレスを与えてはならない。自分を尊重し、細心の注意を払うこと。鈍感であってはならない。苦痛に鋭敏であれ、セルフケアーせよ。
追い詰められているからといって機嫌悪くしてはならない。死活問題だ。商人が不機嫌だったら客が来ない。人の道を守ろう。ツイテルって言っていよう。
世の中少々辛いことはある。それすら忘れている。そういうことが人を腹立たせるのだ。もちろん今はそれすらわからないひどい状態という前提でケアーしないといけない。いたずらにがんばれということは今は無理だ。
我慢はしちゃいけない。少しくらいならと我慢しているとおかしくなってくる。ゆで蛙みたいになってくる。無理もだめだ。すぐ無理をする。戦うのが嫌なら逃げることだ。逃げるという戦略もある。草原の草食動物はほとんどそうだ。逃げ足の速さだ。今はカウンセリングすらしんどいということか。男のカウンセラーに慣れたら、女性に変えてみるというのもいいかもしれない。
穏やかで人道的な気持ち。これが理想だ。人の痛みがわかること。人の嫌がることはしない。女が嫌いなのに女のカウンセリングを受けるのも無神経な話かもしれない。実際一度断られている。年齢とか容色とか関係なく全ての女がだめになっている。しかし帰りがけに女が少し平気になっていた。これは続ける価値があるかもしれないと思っていた。相手さえよければということだが、わからない。
今ストレスに非常に弱い。ほんの少しのストレスを辛く感じる。もう少し元気になったら、森田式を少し取り入れてみよう。でも無理と我慢は禁物だ。
しんどくなってくると感謝と忍耐、寛容の気持ちが失われ、些細なことで怒る。私も今そんな状態だ。フッキーの挑発的な態度に晒された結果精神的に崩壊した。完全におかしい。あいつは精神犯罪者だ。地球から抹殺した方が良い。私はあんなキチガイとは違う。良心と人道主義と優しさのかたまりだ。でもしんどいから今は頑張らない。頑張れるようになってから頑張る。
感謝の気持ちが大事だ。これを失ったら畜生道に落ちる。あの大谷大学のおかしな坊主は畜生がどうとかおかしな話をしていたのは私に対するあてつけか。訳がわからん。人の親切をなぜ当然と考えて感謝しないのか。甘えがあるのだ。わがまま。自分を主とし相手を奴隷とする誤った考え。未熟といっても良い。中学の頃既に形成されていた。間違った考えをいくら推し進めても正しくはならない。その背後には自分を卑しいとする卑屈な考えもある。どちらも間違いだ。どうして極端な思考になるのか。うつになりやすい。穏当で中庸な考えが良い。優しさを取り戻そう。正気に戻ろう。感謝の気持ちを取り戻そう。人の心を取り戻そう。嫌いな女のカウンセラーに我慢しながら付き合うのは相手に失礼だと思わないのか。少なくとも人の心を推し量ることができない。といわざるを得ない。



2006年07月19日(水)

また酒を飲んでしまった。いいだろう。浄土に行くことが約束された祝いだ。私はあのグループには戻らないだろう。犯罪行為が野放しになっているグループ。というか死ね。死ねお前ら。何で生きてんだ。死ね。
死ね。何で生きてんだ。殺すぞ。キチガイ。何であんなとこに行かないといけないんだ。死ね。キチガイ。
死の棘というタイトルを聞いて家で療養していた頃のことを思い出す。帰るべきではなかった。あの母親はキチガイだった。全てを失った。父親も職も何もかも。母親は私を父親代わりの目で見た。死ぬほど気持ち悪かった。何でこんな目に遭わないといけないのかと思った。母親はその後ストーカーと化して私を追い求め、住所がわからなくなったときは半狂乱になった。明らかにおかしい。私の家に上がりたがり、一緒に住もうとした。完全に頭がおかしい。完全に頭がおかしい。私は戻るべきではなかった。私は戻るべきではなかった。でも行くところがなかった。キチガイ人殺し医者に殺されそうになった。善悪の区別もつかないキチガイ医者に。
私は自分を守る。その権利がある。私はptsdだ。一連の悲劇の。あのババアに襲われそうになったことへの。病気になり、職を失い、父親を失ったこと。ババアへの底知れぬ恐怖。ストーカーオニババ。私に襲い掛かってくるな。
今目の前のキチガイババが発狂してストーカーオニババと化して私に襲い掛かってくる。うるさいストーカーオニババ。この間家に来たときのあの目つきはキチガイそのものだった。来るな。側に来るな。襲い掛かってくるな。
私はこの穢れた穢土を離れていつか浄土に行くだろう。誰にも汚されない。純潔な存在に生まれ変わるだろう。弥陀の誓願にすがって生きよう。
女が嫌いというのは思い込みに過ぎないのではと思う。100人に一人くらいは可愛いと思う女がいるのだから嫌いではないのに小学校の頃ウジムシと付き合ったために勘違いしたのだ。
厭離穢土欣求浄土これに尽きる。弥陀の本願にすがって生きよう。宗教は良い。母親とのことがあってババア嫌いになり、あのババアの声を聞いただけで頭がおかしくなって、ストレスからうつになったのだ。モラハラ過敏状態になっておかしくなったのだ。無理することはない。でもこの要求は聞いてもらわないと困る。
ババアとのことが何があっても弥陀の本願にすがって浄土に生まれることに比べればどうということはない。
ばあさんが私の部屋に泊まりたがっていたのは本当に嫌だった。本当に嫌だった。本当に嫌だった。
私は悪いことは全部してしまった。父親にも母親にも私はその報いを受けているのだ。ババアやくそガキにいじめられているのは私が両親にしたことなのだ。私は悪いことをして何も思わない人間だ。どうしてかわからない。自分が愛される理由がないように感じるのか。そんなことはない。誰でも愛される理由はある。弥陀の本願にすがって浄土に生まれよう。他力にすがろう。
宗教的な話だけが人に通じる。あのレイプされた女性カメラマンが立ち直れたのは教会の牧師の粘り強いサポートがあってのことだ。宗教的な話だけが通じるのだ。
男同士でも友情というものがある。それは同性愛だろうか。違うだろう。それを拒否することはできない。私が父親を否定したのは男同士の友愛を自分に禁じていたからではないだろうか。自分に禁じる以上は人にも禁じる。従って男に友情を感じることはない。恐らくそういう構造だろう。私は同性愛的であったので自分が同性に感じる感情は禁じられるべきだと考えていた節がある。芯から男に友情を感じたことはない。友達も一人もいなかった。むしろ女に友愛を感じることがある。でも女はそんなものは必要とはしていない。
弥陀の本願にすがろう。浄土に生まれよう。こう思っただけでもう救われているのだ。私は必ず浄土に生まれるのだ。
セルフコントロールできていない人はいる。でも私はひどい。人格崩壊者と変わらない。宅間とか、畠山とかとそう遠くない。b校にいた人々とも近い。何で仲良くなろうとしたのかわからない。生きる力がほしかった。生きる力になったか。むしろ自分を食い破るような力だったんじゃないか。何ともいえない。自分をとことんセルフケアーしよう。セルフコントロールしよう。
今日はおかしなことがいっぱいあった。クリーニングを出していたらヤンキーみたいなくそDQNに絡まれそうになった。さすがにあれは何もしていない。何もしていないのに絡まれる。半年前と全く変わっていない。ファミレスでメニュー持ってきた女にいきなりキレられたときはz氏も同情というか驚きの表情だった。何も悪いことをしていなくても切れられる。今日大画面テレビを買ったが、買うときからおかしな店員だったのに、また別の店員が出てきて更に切れられた。全くわからない。図書館の職員にもいつもひどい態度をされる。全くわからない。酒も飲みたくなるだろう。でもすごく色んな気付きがある。やっぱり休んでよかった。あそこにいても何も気付かなくてただ苦しむだけだ。こうして一人さんの本や親鸞の本を読むから目を開かれる。毎日目からうろこの連続だ。どんどん自分が変わっていく。これでいいのだ。これでいいのだ。
業縁というものを感じる。両親に対して犯した大きな罪を後悔する。自分の犯した罪は自分に必ず帰ってくる。業というものだ。他力にすがるしかなかろう。自力で何とかできると考えるのは傲慢というものだ。
世の中は奪い合い、足の引っ張り合いみたいなものだ。和やかに仲良くというのは幻想に過ぎない。弱肉強食。善人は食い物にされる。今日の出来事でもわかった。善人ぶってもだめなのだ。きれいごと言ってもだめだ。ちゃんと自分の力で生きて行こうと思ったらきれいごとではだめなのだ。私はhを一番信頼していない。あいつが一番危険だと思っている。人間は善良ではないのだ。狼なのだ。
親鸞の教えに共鳴する。こんなに波長の合う教えはない。宗教家はいない。その上で例えばサービスはやめる。egでサービスのつもりでババアが嫌いといったら本物のババアに切れられ危険な目に遭った。何でそんなサービスしないといけない。何でわが身を危うくしないといけない。何でそもそもegなんか出ないといけない。自分の身を危うくして人の機嫌を取らないといけない。自分の機嫌を取れ。egに出たお蔭で強気になった。人を簡単に信じるようになった。どちらも致命的な間違いだ。今の私の境遇がそれを証明する。それを勧めた当の張本人はうっとうしがって私に会おうともしないじゃないか。どういうことなんだ。私は世の中を何も知らないままだ。一人さんは弱気だろうか強気だろうか。大手も恐れず挑んでいくところは強気だ。でも商売を進める手法は超手堅い。これが理想のバランスだ。私は逆転している。手法は超いい加減で、目標は弱気だ。逆だろう。人を簡単に信じてはいけないし、いつも強気では命がいくつあっても足りないという奴だ。
今は良い状態だと思う。人の書いた本が驚くほどよくわかる。これが全くわからなかったら絶望的だが、これほどよくわかるということは誠に心強い。喜ばしい。成長している。学んでいる。未来は明るいという気がする。本を読んで書いた人とたちどころに対話できる。書いてあることが1001%わかると確信できる。事実わかる。やはり伊達に年をとってはいない。見込みは大いにある。若い者に決して負けはしない。困っているんじゃないんだ。学んでいるんだ。困ってから学んでも遅くはないんだ。私は今一所懸命学んでいる。これまでになくよくわかる。目に触れる全てが学びを促す。人生の秋だ。収穫の秋だ。読む本全てが身になる。こんなことは今だかつてなかった。誠に喜ばしい限りだ。決して困ってなんかいない。



2006年07月18日(火) 浄土真宗

私は浄土真宗に帰依した。浄土に生まれ変わることに決まった。無碍の一道を進むのだ。昨日は眠れなかった。酒で脳がおかしくなっているのか。脳がスカスカになっているんじゃないか。
とことん自分をサポートしよう。自分は素晴らしい人間だ。問題児扱いされたり、怒られたりする人間ではない。素晴らしい人間だ。褒めてあげよう。自分は素晴らしい。何でもほしい物をあげよう。王侯貴族だ。とことんサポートしよう。
私は弥陀の本願に帰依したので浄土に生まれ変わることになった。誰もとめることはできない。とことんケアーしよう。サポートしよう。王侯貴族のように扱おう。
本当に疲れた。眠い。疲れた。とことんケアーしよう。サポートしよう。疲れているのに疲れていないなどといわない。疲れているのに働いたりしない。
とことんケアーしよう。とことんサポートしよう。私のことを全く理解しない。それどころかいじめてくる。それが私と社会の関係であった。私をケアーせよ。サポートせよ。私をいじめている場合じゃないだろう。世の中の人間を見ていると好き放題振舞っている。私はいじめられているばかりか今もいじめられるんじゃないかとびくびくしている。これはおかしいじゃないか。十分ケアーしよう。サポートしよう。
親鸞がこの世のことは全て嘘だ、幻だといっているところが共鳴できる。それはそうだ。まともに受け取るからおかしくなるのだ。
私は宗教に目覚めた。浄土にいけると確信した。弥陀の本願におすがりすれば浄土に行ける。後は自分の好きなことをやろう。自分の苦しむことは止めよう。楽しいことをやろう。文学が好きなら文学をやろう。
私をサポートせよ。ケアーせよ。私は危機的な状態だ。深刻な事態だ。それなのに助けないとはどういうことだ。
宗教はすごい。今朝気分が悪かったのが良くなった。素晴らしい。
セルフケアーの最たるものは宗教だ。宗教を信じる。これ以上のセルフケアーはない。
私は神だ。私が中学生の頃だったか、引越しして私のせいかわからないが父がリストラされて、隣町に引っ越すことになった。その頃私は遅刻するようになり、キチガイ教師に虐待されるようになった。それから私は家庭内暴力に走った。キチガイ教師のせいだ。死んだらいいのだ。



2006年07月17日(月) 親鸞

昨日は10時間以上寝てよかった。私は真宗に帰依することにした。弥陀の本願にすがって生きていく。善でも悪でもいいのだ。細心の注意を払って自分のケアーをしよう。セルフサポートをしよう。
自分の身を守るのに理屈はいらない。何をしても楽しくない。人と会うのも嫌だし、人ごみが嫌だ。人間が嫌だ。疲れた。本当にとことんケアーしないといけない。サポートしないといけない。それがわからない。世の中の人間はサポートしないといけないと言うのが絶対にわからない。怠けているとか甘えているとかになる。弱っているとか疲れているとか、ケアーが必要とか全くわからない。生活保護を受けられずに死んだ奴でも死んでもいいと思っている。それくらい人間は残酷だ。自分でケアーするしかない。戦う以外ないと思っている。奪い合いであり、戦いであると。仲良くするとかありえない。
女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。それでいいのだ。セルフケアーしよう。セルフサポートしよう。自分をとことんサポートしよう。一人さんもそういう人だ。自分をとことんサポートできればうまく行く。
自分をとことんサポートしよう。人の機嫌を取ってはならない。自分を守るのだ。あのキチガイババアを見ろ。自分を守ることしか考えていないじゃないか。自分をサポートしよう。とことん自分を守ろう。自分をケアーしよう。自分のことしか考えないあの醜い姿。死ねばいいんだ。私は自分をケアーしよう。
弥陀の本願と言う信仰を得たので女がどうとか社会がどうとかいう気持ちは何もなくなった。全く問題はなくなった。信仰の力は強い。無碍の一道という。
宗教を得たので非常に力強い気持ちだ。何とか療法とか一切いらない。弥陀の本願に従えば浄土に行ける。この世のくだらない成功よりもそのほうが重要だ。
好きにならなくても好かれなくてもいいじゃないか。母親はたまたま母親なのだ。何で好きにならないといけないのだ。どこにそんな奴がいるのだ。そんなことはどうでも良い。私には宗教がある。宗教が最大の支えになる。
なんか怒りを覚える。この世の中に怒りを覚える。宅間のように怒りを覚える。中学の頃から虐待された。いじめに遭った。女と付き合ったこともない。仕事がうまく行ったこともない。何で婆なんかにいじめられないといけないのか。いい加減にしろ。怒りを覚える。心の底から怒りを覚える。宗教が一番強いのだ。宗教に打ち込もう。何が母親だ。キチガイババ。
死ね馬鹿。あの職場にきちがいども全員死ね。馬鹿じゃないのか。死ね。宗教だ。宗教だ。
歎異抄は念仏のみが真であると教える。世間のことなどどうでもいいと。ものすごく共鳴する。すぐ人を差別し、いじめる奴ら。お前らなんてどうでも良い。幻のような存在なんだ。ものすごく共鳴する。道徳では得られない納得感がある。この世なんかどうでもいいんだ。善悪なんか思い通りにならないんだからどうでもいいんだ。その通りだ。
世間なんか全くどうでもいいんだ。女なんか更にどうでもいいんだ。女が何を言おうが何を考えようが全くどうでもいいんだ。死のうが生きようがどうでもいいんだ。浄土と念仏だけが真実なんだ。この世は幻なんだ。本当に納得できる教えだ。この世は苦しみだ。穢れだ。浄土に生まれ変わるのだ。弥陀の本願にすがって生きるのだ。厭離穢土欣求浄土これが私の気持ちだ。
浄土に生まれ変わるのだ。こんな穢れた世の中は忘れるのだ。念仏を信じるのだ。弥陀の本願を信じるのだ。
女なんか全くどうでもいいんだ。そんなことはわかりきったことじゃないか。誰もが知っている。女なんか全くどうでもいいということは。殺したって良いんだ。
私は回心した。真宗に帰依する。弥陀の本願にすがって生きる。浄土に生まれることが決まったのだ。



2006年07月16日(日) 久保田

昨日の反動か妙にしんどい。うつには久保田は効かないようだ。自分を王侯貴族のように扱うと言うことが一つの案だが、一方では規則正しい生活、目標管理、掃除、などがいいような気がする。宗教は絶対に必要だ。間違ったことを一所懸命やっていても仕方がない。何の価値もない有害な奴と付き合っても仕方がない。正しい考えに戻ろう。正しい考えは楽な考えだ。無理な考えは間違っている。
悪いことをことさらにするのはやめたほうがいい。確信犯的に人を傷つけるとか義務を違反するとか、禁じられたことをやるとか。全く意味ないじゃないか。これはウジムシと付き合った結果で何の意味もない。今すぐ改めて正道に就こう。宗教的なことしかしないという意味はそうだ。そうすれば道を踏み外すことはない。
尾崎放哉はほとんど一人で死んだ。酒で人格崩壊していたため、誰にも相手にされなくなった。
しんどいけれども、最大限のケアーをする。セルフヘルプ、セルフサポートをする。誰も自分をケアーしてくれないというより、自分で自分をケアーするのだ。王侯貴族のように真剣にケアーしようと思う。とことんケアーしようと思う。
昨日帰りの電車の中でくそみたいなオタク爺から嫌がらせをされた。阪和線と言うのはキチガイの巣だ。スラムへの道。
自分を徹底ケアーするぞと思うと周囲との軋轢ができる。でもそれが人間じゃなかろうか。何の軋轢もなくと言う事はなんの得るものもなく人間関係も生じず、一人で生きていることと変わりはない。それが寂しい私の人生。すぐに軋轢を恐れて身を引いてしまう。引きこもってしまう。主張すべきは主張せよ。それがアサーティブの教えだ。自分を守ろうと思うと他人の権利侵害は許すまいと思うし、強くなる。昨日もキチガイババアに割り込みを許して何も言えなかったのはアサーティブではなかった。何であんな職場にいなければならない。それが一番アサーティブじゃない。私は精神的にケアーの必要な人間だ。その人間を虐待することは許されざる罪だ。地獄に堕ちろ。私は戦う。
私が弱かったり、引きこもりがちなのは私が悪いからではない。そんなことを責められるいわれはない。
私は自分をとことんケアーする。私に道徳的に云々されても一向にわからない。私は自分のためにとことんサポートする。セルフヘルプする。
親鸞の教えは私のような凡夫に誠に最適の教えだ。修行、戒律お断り、悪いことをしても大丈夫、死が怖くても適応障害でもますます大丈夫、これが宗教ではないか。弱いからだめ、悪いからだめと言うのでは話にならない。だめな奴こそ救われるのだと言う教えは誠に心強い。
いくら道徳や倫理で厳しく縛ってもひょんなことで悪行をなす身になる。これは私のことを言っているようだ。善行悪行は自己のコントロールを超えているのだという認識は誠に鋭い。私が何で悪の道に踏み入ったのかいくら考えてもわからない。親鸞はわからないのは当たり前で自分が決めることではなく宿業業縁によって決まっているからだと言う。それは一見無責任なようでいて実感と一致する。人間とは悪とも善とも決められない複雑な存在だ。何もかも業縁によって決められていると聞くと納得できるし、ほっとする。人間は自分は賢い、全て知っているなんでもコントロールできると慢心しがちだが、全くそんなことはない。それを認めることはなんと心の救いになることか。ストレスレベルが一気に下がる。
あのくそみたいな職場に戻ることは考えられない。自殺行為だ。どこか別の職場に行かなければならない。自分のケアーをとことんやる。私はケアーの必要な精神状態だ。なぜそうなるのかはわからない。自分を守らないといけない。自分のケアーをとことんやって自分を守れるようになることが重要だ。hやkから身を守れることだ。誰にも会いたくない。親兄弟でさえも。それほど深刻な事態だ。私は大学で発病して入院してからほぼ働いたことはない。社会生活ができないから働くこともできない。自分をケアーしないといけない。ケアーせずに我慢していると大変なことになる。細心の注意を払って自分をサポートし、多くの努力をしないといけない。普通にうまく行くことはありえない。自分を守らないといけない。
めまいがする。あまり調子が良いとはいえない。親鸞の教えは確かに大きな支えになる。あのおじさんに教えてもらわなくても本を読めばわかる。でも興味を持ったのは確かだ。最近一日部屋にいてもテレビを見なくても大丈夫だ。素直になることだ。すると本でも頭にはいる。自分のケアーをしっかりやる。安心とはいえない状態だ。非常に深刻な状態だ。ずっと以前からそうだ。慎重に細心に注意すべきだ。入念に手を打って自分をサポートすべきだ。自然に物事がうまく行くことはない。慎重であろう。このままうまく行くわけがない。手を打たないといけない。自分を十分サポートしよう。セルフヘルプしよう。全く大丈夫ではない。入念に手を打とう。慎重にことを進めよう。
めまいがするのは昨日のコンサートで大音量を聞いたからじゃないのか。自分の利益を第一に追求しよう。不真面目でも何もいいことはない。念仏で浄土に行こう。そう考えるだけで楽になる。難しいことは考えなくて良い。
無理することはない。調子が悪いから休んでいるのだ。宗教に従ってのみ生きてみよう。このままでは死んでしまう。親鸞の教えはシンプルで力強い。こうすべきとかこうあるべきは一切ない。私にぴったりだ。森田療法より楽だ。今は人に出会うとか近づくではなく、離れていよう。強力にサポートしよう。セルフヘルプ。人がわからなくなった。徹底して遠ざけよう。私は傷ついている。傷口に触ってほしくない。
しんどい。何をやってもうまく行かない。小説だけは褒められた。どうでもいいけどしんどい。人とうまくやっていくのは難しい。あのくそ職場行きたくない。やくざとくそヤンキーの腐れ職場。悪い波動が出ている。もう悪いことをするのは止めよう。真面目に生きていこう。
宗教だけに従って生きよう。苦しみを軽減したい。苦しいときこそしっかりと強力に自分をサポートしよう。これは今までできなかったことだ。楽しい。しっかりと休もう。何もできなくなっている。セルフケアすればきっと良くなる。人と出会うのは苦しい。今はじっとして力を蓄えよう。
苦しいのは重大な問題でケアーが必要なのだ。セルフケアーが。それなのに放置してはいけない。女はもう嫌だ。
十分にセルフケアーしよう。細心の注意を払って、障害を取り除こう。
私は無力だ。宗教にすがろう。考える力さえない。宗教のパワーをもらおう。道徳ではだめだ。弥陀の本願にすがろう。簡単なことだ。他力本願だ。自分を王侯貴族のように考えることと一致する。自助努力は信心と念仏だ。
私は人に残酷なことをしがちだ。これは小さい頃付き合ったウジムシの一人の影響によるものだ。ウジムシの影響は底知れない、計り知れない。だから宗教にすがる以外にない。自力では無理と言うところから他力本願が生まれるが、誰だって自力では無理だ。修行によって悟りを開けるなんて絶対に無理だ。信じられない。誰も皆凡夫という教えに強く共鳴する。
道徳とか自己とか過去とか性格とかに根拠を置くと間違ったことばかりする。宗教に従って生きよう。帰依するのだ。回心だ。弥陀の本願にすがろう。何が悪いんだ。簡単だし、何も間違っていない。森田療法なんかにすがるよりはるかに良い。私は煩悩具足の凡夫だから浄土にいけるのだ。浄土に行けることの方が正しい。価値がある。現世での利益や幸福より浄土にいけることに価値を置くことが宗教的ということだろう。現代人はそんなことは思わない。ニヒリストだ。この世で良い思いしたいだけの浅ましい獣だ。良かろうが悪かろうが信心があれば念仏を唱えれば浄土に行ける。私は無力だ。凡夫だ。だから絶対浄土に行ける。
弥陀の本願にすがって生きれば、恐いものはない。どんなことが起きても。必ず浄土に行くことができる。悪かろうが良かろうが。
ウジムシと暮らした45年。もうたくさんだ。私は弥陀の本願にすがって生きていく。どうでもいいことは考えない。ウジムシから得たウジムシパワーが出ているから誰ともうまく行かないし、何をやっても失敗する。これからは弥陀の本願だけにすがって生きていく。そのほかのことは考えない。ついてるツイテルといって生きていく。



2006年07月15日(土)

もう朝だ。ゆっくり休まないといけない。女嫌いで何が悪い。私の内心の問題だ。それをとやかく言うのは内心の自由への侵害だ。自分を王侯貴族のように扱おう。そうしないと治らない。とことんケアーする。とことんサポートする。とことん優しくする。女が嫌い、権力が嫌い、何が悪い。
あるがままの自分を認めよう。とことんサポートする。ケアーする。女が嫌いなのは偶然か必然かわからない。しかしそれで迫害されるのは絶対に許せない。女や権力が嫌いなのは内心の自由だ。神聖にして侵すべからざる領域だ。それでうつになったのだろう。そうであればとことんケアーしてサポートする。女だって男が嫌いだ。自分の欲望のために利用しているだけだ。
私は非常に危険で深刻な事態にある。細心の注意をして絶対に傷つけないようにケアーしないといけない。egなんて出たのは大間違いだった。
もう頑張るのは嫌だ。何でこんなに迫害されないといけないんだ。自分を徹底して守る。女による暴力と迫害から自分自身を守るのだ。
うつ状態からウジムシみたいなのと付き合ってしまった。その言葉に影響されて母親や権力が嫌いになった。うつ状態の判断だから常識とはかけ離れている。どうしてそれにいつまでも縛られないといけないのか。女嫌いと言うのもそういうところから来ている。今でも嫌いだ。サポートの必要なときに暴力や虐待を受けた。それから私の人生は混乱と迷走だ。今でも傷口から血が流れている。小さい頃おかしな餓鬼と付き合ってしまったことが私の人生をここまでおかしくしてしまったのか。元々遺伝なのか小学校高学年の頃にはうつ状態だったことは確かだ。そこでどんな判断をしたって間違っている。今私は自分を守らなければならない。全力で守らないといけない。田舎暮らしといってここが田舎じゃないか。十分田舎だ。
私は力を奪われ、疎外され、差別され、迫害されるべきだろうか。逆に力を与えられ、社会に受け入れられ、もっと多く与えられ、もっと守られるべきだ。サポートされ、ケアーされ、力づけられなければならない。全然逆のことをされている。まったく理解できない。
頑張らなければいいのだ。何で頑張って会社に行くのだ。サポートされ、ケアーされ、力づけられなければならないのに何でいじめられないといけないのだ。いい加減にしろ。女が嫌いで何が悪いんだ。何でいじめられないといけないんだ。中学のときも頑張って学校に行ったからいけないんだ。教師にいじめられるために学校に行っていた。教師は遅れてきたら俺の話が途中で注意がそれるから。そんな理由で人をいじめていいのか。お前の快楽のためかよ。快楽を邪魔されたからいじめて快楽を得るのか。
何で馬鹿と付き合わないといけないのかわからない。何で馬鹿から身を守れないのかわからない。キチガイウジムシ教師。馬鹿医者。
言葉から悪い波動が出ているかもしれない。いい言葉を言おう。ツイテルとハッピーだねと。そんなことがあってもこうして生きていられるというのは感謝しなきゃ、ツイテル。恵まれてるね。
身を守れればいいのだ。中学くらいから身を守ることもできなくなった。今もそうだ。とことんサポートし、ケアーしないといけない。大学時代に本当に発病した。適切に早期にケアーすべきだったのにしなかったからだ。その後も適切に慎重かつ細心にケアーすべきだったのだ。治るかどうかはともかくとして大事に至らないようにサポートし、ケアーすべきだったのだ。
宗教とは有益な嘘というべきか。わらをもすがる思いで宗教に救いを求めている。騙されることは快いことだ。それで苦しみが軽減されるならよいことだ。親鸞はどんな人だったのだろう。人はどうして宗教を必要とするのだろう。私は苦しい。中学の頃から苦しい。高校の頃も苦しかった。大学で発病した。社会に出てからも苦しくなかったことは一度もなく、うまく行ったことは一度もない。宗教にすがって生きるしかない。人は無力な生き物だ。偉そうにしているやつでも本当は無力だ。死を前にして弱い生き物だ。あの世に金も地位も名声も持って行けはしない。
宗教がどうしても必要だ。どうしても苦しみを軽減したい。そのために必要だ。あの職場に戻るのは耐え難い。別の職場に行きたい。働くことができない。苦しい。あのキチガイのいるところへ戻ることはできない。
ケアーが必要だ。サポートが必要だ。頑張ると言ってもこれでは頑張れない。救いを求める心が必要だ。宗教もそういう救いを求める素直な心が必要だ。素直に救いを求めたらいいんじゃないか。
どうやっても気分が晴れない。ツイテルツイテルと言おう。ハッピーだねと言おう。自分は疲れている。私は深刻な事態にある。俵山に行ってこようか。新しいところに行くより、実績のあるところがいいかもしれない。
商人は誰と戦うでもなくいつの間にか金儲けをしている。これはすごいことだ。戦いが好きなら、弁護士にでもなれば良い。その頭がなければ商人になるしかない。中卒でも納税日本一の人もいるのだ。
考えることが良くないことは明らかだ。私はもう考えない。うつなのに考えてもろくな知恵は出ないことは経験済みだ。考えることは全く無意味だ。自分を守ることだけ考えていればいいのだ。徳を積むことだ。一人さんのテープをシャッカイ聞くことだ。ついてるといっていればいいのだ。人の機嫌を取らない。自分の機嫌だけ取るのだ。
明るくのんびり過ごそう。南の島だと思ってのんびり暮らそう。何も考えない。考えることが一番良くない。悪い波動を出す。いい言葉を言おう。ついてると100回言おう。
具合が悪いから休んでいるので具合が悪くても心配ない。困ったことは起こらない。学んでいるのだ。ツイテル。ツイテル。といって自分の機嫌だけ取る。
久保田利伸のコンサートに行ってきた。懐メロがよかった。後ろの方で笑っているくそばか女が本当に腹が立った。それにしても欝はすごい。乗りのりの音楽を聴いても全く楽しくならない。すごいなと思った。



2006年07月14日(金) 散髪

昨日は散髪に行ってきた。それだけでも偉い。トラブルにならなかった。宗教だけに従って生きよう。親鸞でもキリストでも良い。悪化していることを認めよう。egに行って以来悪化した。思わぬ症状が出てきた。二次被害だ。こうなったらとことんセルフケアーする。セルフサポートする。そのため自己防衛もする。人と離れて暮らす。気晴らし、癒しになることは何でもやる。セルフコントロールできるために薬、呼吸法など何でも利用する。こういう症状が出ていることが私がもっと自分を大事にしないといけない。何かを変えないといけない、問題を解決しなければいけないという、神様からのメッセージだ。自分を王侯貴族のように扱おう。自分の機嫌を取りまくろう。人の機嫌は取るな。害になるものは徹底排除。kとかhとか。自尊心を持とう。自己重要感を持とう。とことんセルフケアーしよう。セルフサポートしよう。そのための努力を惜しまない。それで外界とぶつかるなら自分を最優先しよう。
母親との関係が問題だと気付いた。母親から離脱することができただろうか。無理なんじゃないか。そういうくびきのようなもので逃れられない。女も男と言うくびきを抱えているが逃れようとはしない。女が悪いことをするような気がしてならない。でも悪いことはできないのだ。誰でもそうだ。悪いことをすればつかまるし、お金をもらえなくなる。
とことんセルフケアーする。セルフサポートするを合言葉にしよう。自分を王侯貴族のように扱うと。もっともっと慎重に細心の注意を払って正常化に持って行きたい。hやkのような存在は排除する。あのくそどもの顔を見ただけで腹が立つ。私が過去どんなことがあって過ちをいっぱいしたとしても宗教さえあれば正しく生きていくことができる。小さい頃、母親に暴力を振るったり、憎んだりしたことは原因はわからないが、病気のようなものだったのだ。自分を責めることはできない。へんな子供と付き合ったから。ではなぜ付き合ったか。わからない。全体的におかしくなっていったのだ。どれか一つと言うものではない。機能不全家族のacだった可能性もあるからそうすると犠牲者と言うことにもなるから責めるどころではない。責めるなどと言う行為がまた悪化させる。全体が一まとまりの逸脱状態であって、子供ゆえ、また病気かも知れず、責めることはできない。苦しかったのだ。適応に困難を覚えていたかもしれない。自分に全責任を負わせるのも良くないし、父が過剰適応でアルコール依存症で機能不全家族だったからとか、誰かを攻めても仕方がない。いずれにせよ、共依存的な性格が形づくられたのは確かだ。それゆえなるべく自分に優しくしよう。自分をケアーしよう。サポートしよう。私を攻撃するなんてもっての他だ。私が悪いと言っても私は一人で生まれ育ったのではない。遺伝と環境の中で生まれ育ったのだ。どうして自分を責めることができようか。
今は疲れている。考えは良くない。自分の責任を追及して小さい頃に遡るなんて暴挙だ。遊ぶことだ。休むことだ。無心に。子供に帰って癒されることだ。
私はptsdだろう、うつだろう、acだろう、人格障害だろう、統合失調症だろう、サドマゾ傾向だろう。でも全部まとめて面倒見よう。ケアーしよう、サポートしよう、休養が必要なら休養しよう。呼吸法がいいなら呼吸法をやろう。自分を責めることは一切止めよう。責めて苦しめてうまく行くだろうか。うまく行かなかったじゃないか。人間は楽しいことしかできないのだ。一人さんの言うとおりだ。
私は何でも思い通りになりそうな気がする。仕事でも人間関係でも女でも何でも思い通りになる。病気なんかなんでもない。病気ですらない。誰でもなる一時的な失調状態だ。自己啓発本を読んでいるとなんでも思い通りになりそうな気がする。ババアとの死闘もそのお蔭でババアも恐くなくなった。女嫌いなお蔭で結婚しなくていいから余計な出費がない。自由だ。なんでもポジティブに考えよう。結婚できないんじゃない。結婚しないという生き方を選んだのだ。
サドマゾを知っているから北朝鮮やファシズムが恐くない。警戒できる。安心もできる。学んだからだ。ホモだから女の気持ちがわかる。男の魅力がわかる。文学好きだから人の世や社会の実相がわかる。もののあわれがわかる。法律を勉強したので政治や宗教がわかる。馬鹿と付き合ったので馬鹿の気持ちがわかる。一つとして無駄なものはない。今朝は調子悪かったのに段々調子よくなってきた。世間は調子の良い人を相手にして、不調な人は相手にしない。せめて調子よく見せるようにしていれば向こうから鴨がねぎをしょってやってくる。女がきれいに着飾って男が金をもってやってくるのを待ち構えているのと同じだ。
ツイテル。とか絶好調とか言っていると自然に調子よくなってくる。間違っても人の機嫌なんか取ってはいけない。自分の機嫌を取るのだ。人が機嫌よかろうが悪かろうが、俺はいつでも機嫌いいぞと言っていれば良いんだ。一人さんはすごい。さすが中卒。これからは中卒、小卒の人の言うことを聞こう。
楽しいことをやっていると自然に回復してくる。苦しいことや我慢ばかりしていると途端に不調になる。楽しいことを追い求めよう。一人さんの言うかっこいいと言うのはそういうことだ。
人生楽しい。ツイテルといっていると自然に楽しくなって来る。とことん自分のケアーをしよう。サポートをしよう。優しくしよう。労わろう。休ませよう。世間がいくら厳しくても自分をいたわろう。母や姉と戦い抜いた日々、今も女が嫌いだ。側にいるだけで落ち着かない。
どうしたらいいのかイメージが湧かない。一緒に仕事をしているわけではないのに仲良くするわけにも行かない。こんなこと考えるだけ馬鹿らしい。キチガイじゃないか。考える必要なんかないのだ。絶対に離れる。これだけだ。あのグループとは絶対に離れる。戦う以外ない。それ以外答はない。キチガイ職場なくなればいいのに。グローバルと言うのもキチガイの巣だった。哀れみと慈悲が必要だ。悪いことはできないのだ。女に嫌がらせなんかできない。
とことん自分の機嫌を取ろう。女が嫌いと言うなら近寄らないことを許そう。酒が好きなら飲ませよう。本が好きなら読ませよう。病気なら休ませる。王侯貴族のように扱おう。そうしないと回復しない。楽しくないことは人間はできない。長続きしない。一人さんを見習ってくじけず生きていこう。女なんかの機嫌をどうして取らないといけないんだ。俺が女の世話にいつなったんだ。私が大阪で働き始めた頃あのババアはストーカーと化して私に付きまとい始めた。一緒に住もうとか言い出した。共依存の最たるものだ。自分を守るのに理屈はいらない。hが北原に何か言ったから北原が私にうるさく言い始めたのだ。もう絶対にあのグループには戻らない。100%間違いない。何だあのキチガイは。全く理解できない。本にも波動が出ていると一人さんは言う。あの悪書を読んでしまった私は悪い波動に侵されてしまった。母親や姉が嫌いと言うことから女が嫌いになった。
自分をとことん許そう。優しくしよう。いたわろう。女が嫌いで何が悪い。お金が節約できるし、言うことないじゃないか。偉そうにするな。女が嫌いな私を許そう。それは偶然かもしれないし、必然かもしれない。でもそのことを理由に私を迫害することは絶対に許さない。
女が好きかどうかなんかおまいらに関係ないんだ。私を迫害するなといっているんだ。暴力振るうなら暴力振るうぞ。きちがいども。自分に優しくしよう。とことん優しくしよう。いたわろう。サポートしよう。ケアーしよう。女が好きかどうかなんか関係ないんだ。偉そうにするな。攻撃するな。お前らだって男が好きなわけじゃなくて金が好きなんじゃねえか。好きでも嫌いでも関係ねえじゃねえか。いい加減にしろ。攻撃するなといっているんだ。何でお前らの機嫌を取らないといけないんだ。いい加減にしろ。
とことんセルフケアーしよう。セルフサポートしよう。俺を攻撃する奴は殺すぞ。覚えて置け。女が好きかどうかは偶然とも必然とも着かないデリケートな問題なんだ。口出ししやがったら殺すぞ。
死ね馬鹿。関係ねえだろう。俺が女嫌いかどうかなんて何の関係があるんだ。何が森田療法なんだ。と言うかなんでお前ら生きているのかわからない。今すぐ死ね。今すぐだ。お前らなんか生きてても何の意味もないんだ。今すぐ死ね。お前らが生きて害毒を撒き散らしているなんて正義に反する。国益に反する。あらゆる倫理道徳宗教に反する。今すぐ死ね。
女が好きかどうかなんて関係ねえだろう。お前がいるだけで耐えられないんだ。今すぐ死ね。それだけだ。死ね。お前がどんな生まれだろうが関係ねえんだ。お前の亭主がどんだけ稼いでいようが全く関係ねえんだ。今すぐ死ね。それだけなんだ。わかったかクソヤロウ。
女が好きかどうかなんて関係ねえだろう。嫌いでいいんだよ。お前らには関係ねえんだよ。



2006年07月13日(木)

昨日も眠れなかった。でも明け方ふと気持ちが楽になった。自分を愛し、優しくし、労わり、休ませ、慰め、守り抜くと思い続けていると、自分をいじめても仕方がない。外界からの不当な圧力には反撃しようと思った。戦う勇気が出てきた。そうすると楽になった。両親には感謝、女には憐れみ、慈悲。自分は間違っていない。自分の機嫌を取ろう。とことん自分の機嫌を取ろう。自分を守り抜こう。人の機嫌を取るな。自分を守れ。女が嫌いでも攻撃されるいわれはない。大体なんで人を攻撃できるのだ。何を考えているのかわからない。
自分をとことん守ると考えると自分に向いていた刃が人に向くようになる。勇気が出る。誰にも負けないと思う。絶対誰にも負けない。
女を見ると腹が立つ。母親との葛藤が原因だ。今でも腹が立つ。ずっと喧嘩していた。過去の話だ。でも現在の話でもある。
自分を守り抜こう。ストレスがあるならストレスを取り除き、休養が必要なら休養しよう。とことん休もう。労わろう。優しくしよう。
アイムオーケーユアオーケーは母との葛藤をすっきりしたものにしてくれる。私が母を嫌いになったのは偶然か必然か今となってはわからないし、どうでもいいことだ。好きでも嫌いでも恩義があり、感謝していることには変わりはない。仏陀は親を捨て反省することもなかったし、女を忌み嫌って排除した。私はそこまでは行かないがそういう考えもありうると言うことだ。そこまで女が嫌いということもありうる。私はしかしアイムオーケーユアオーケーと言う立場に立ちたい。好きでも嫌いでもその立場にいささかも揺るぎはない。良い関係はそれしかないのだ。私は否定されたりすることはないのだ。アイムオーケーユアオーケー。そこに好き嫌いの感情はない。好き嫌いのような偶然的な感情に左右されず正しく判断行動できる。自分の利益を損なうことはない。
アイムオーケーユアオーケー。私は生涯のほとんどを母親や社会との闘争に明け暮れて、実りあることがほとんどできなかった。ほとんどの人生をうつ状態とノイローゼと統合失調症の混乱の中で過ごしてきた。ババアや女に自己重要感を与えることができれば簡単にコントロールできる。あなたは私にとってかけがえのない人ですと言えば女やババアは私のためにいくらでも働くだろう。選挙のとき政治家が汚い婆にまで手を握って目を見つめ話しかける。これで投票してくれるのだ。ババアと言うのはそういうものだ。ババアや女を本当に愛することなど必要ない。そういう自己重要感を与えるだけでいいのだ。コントロールできるのだ。あまりにも馬鹿なのでわからなかっただけだ。本当に馬鹿なのだ。女は。
アイムオーケーユアオーケーの中でそういう自己重要感を出せばコントロールできるだろう。あまりにも馬鹿なので私の常識では理解できないのだ。
自分の身を守るのに理屈はいらない。方法も何でも良い。こうして休んでいるのも一つの手っ取り早い方法だ。自分をとことん守りぬく。とことん優しくしよう。王侯貴族のように扱おう。
egの後脳が勝手に暴走し始めておかしくなった。でもおかしいまま生きていかないといけない。ババアが本当に嫌いだ。中学くらいから始まった。あのキチガイウジムシくそガキと付き合ったからだ。母親を嫌いになる理由はないのだ。母親はあのウジムシを嫌ったのであのウジムシは母親の悪口を言った。それで影響されて母親が嫌いになった。何で悪いウジムシと付き合うのか。何でウジムシの影響を受けるのか。この二つを反省すれば母親との問題はクリアーできるだろう。
あんなくそ見たいナ職場には戻りたくない。うつが再発する。自分の機嫌を取ろう。人の機嫌を取るな。サラリーマンの世界ではうまく行かない。物書きになりたい。
原因はわからないが中学の頃からおかしくなってきた。キチガイウジムシと付き合ったからだろう。そこにキチガイウンコ教師による虐待によるPTSDで完全におかしくなった。こんなストレスは取り除かないといけない。疲れたら休む。最近昼間外を歩いていると変な目で見られる。当然かもしれない。でも家でじっとしてはいられない。
もし病的な人格障害みたいなものであったなら、癒し、治療しないといけない。これを反社会的な性格と取られると困る。病気であって本人に落ち度はない。いいものに影響を受ければそういう風になるのだ。これからはいい物だけに触れ、いい影響だけ受けよう。いい影響とは何か。心を豊かにするものだ。過去を振り返ってばかりではいけない。現在に生きるのだ。とことん休み、とことんケアーし、サポートし、優しく労わり、幸せになる。それが責任と言うものだ。いじめたり、罰を与えるべきものではない。それすらはっきりわかっていないに違いない。あの下等動物はいじめにかかっている。ケアーが必要なものをいじめるとはどういうことだ。怒るぞ。とことんケアーしよう。サポートしよう。労わろう。王侯貴族のごとく尊重しよう。決して粗末に扱ってはいけない。価値ある存在なのだ。
自分でも自分がよくわからない。いつ何が原因でおかしくなったのかわからない。くそみたいな奴らと付き合った結果おかしくなったが、どうして付き合ったのかもわからない。誰を責めたらいいのかわからない。生まれつきだったと言うのか。そのときはそうしたかったのだし、今更何を言っても始まらない。今このときを生きることしかできない。今できることは昔を穿り返すことではなく、ゆっくり休むことだけだ。自分に優しく、労わり、病人を扱うように慎重に扱うことしかない。特効薬はない。宗教に親しみ、自分を美しく保つことだ。過去を振り返ることではない。
eg以降色んな経験はしたがいいことは一つもなかったし、結局精神病的な症状が出て休職に追い込まれた。復帰のめども立っていない。今はそういう人格崩壊を重く受け止めて慎重に行動することだ。セルフコントロールができるように慎重に訓練することだ。呼吸法、塗り絵、計算ドリル。思い切って小説に打ち込んでみるのもいいかもしれない。あれ以後評価されたのは一編の小説だけだからだ。自分に優しくし、宗教的にのみ生きることだ。
eg以降脳が暴走して自分をコントロールできない。hの奴とも何度も衝突する。病気がそうさせていると言うことがわからないらしい。でも私もあのくそ爺が信じられないことをしても病気がさせているとは思わない。危険極まりない爺で直ちに社会から排除すべきと思う。だから私も自分をコントロールできない限りは言い訳はできないと言うことだ。病気だといい募ればすなわち、社会から排除されることを意味するのだから危険だ。ドーパミンとか脳内物質のコントロールがうまく行っていないので、薬や呼吸法でコントロールできると思う。それ以外の何とか療法なんか一切止めた方が良い。休むこと。労わること。自分に優しくすること。王侯貴族のように扱うこと。他人と接しないこと。もうこうなってしまったものは仕方がない。危機管理ができてなかったのだ。子供の頃と何ら変わっていない。危険に晒されていないと落ち着かない。共依存の特徴だ。今後は宗教に従って生きていこう。それ以外考えられない。一人さんもそうしている。幸之助翁もそうしていた。偉人で宗教的でない人はいない。宗教的であって不快に思う人や文句を言う人はいない。それでいて物の価値を高める。商人なら儲かる。政治家ならうまく治まる。芸人ならヒットが出る。山本リンダを見よ。人に憎まれることはない。魂力をつけよう。
私はこれからどうなるのだろう。立ち直れるのだろうか。あのへぼカウンセラーの言いなりになってegなんか出たばっかりに人生めちゃくちゃだ。でも先のことはわからない。困ったことは起こらない。
自分をとことん守ろう。



2006年07月12日(水) 王侯貴族

自分を守ることができれば病気にはならない。今回のことも大学のときのことも中学高校のことも自分を王侯貴族のように考えて守ることができれば、病気にはならなかった。病気になったのであれば休むべきだった。今のように。自分のために怒ることができれば自分を守ることができるだろう。人は善人とは限らない。欲深な狼のような一面がある。人を貪り、傷つけて平気な一面がある。そういうものとして扱わないといけない。女は馬鹿で哀れむべき存在である。嫌がらせなんかされる筋合いはない。自分をとことん思いやり、優しくし、、守り抜かなければならない。たとえ人と争うことになったとしても自分を守りぬかなければならない。争いを避けるために自己犠牲をしてはならない。辛かったら辛いと言おう。できなかったらできないと言おう。病気になったら休もう。治るまで。まだこれでも辛いのならばもっと休もう。もっと労わろう。人のために何かしようと思わずに自分のためにできることは全てしよう。自分を守り抜こう。戦おう。暴力と戦おう。
自分を守り抜こう。自分を労わりぬこう。自分に優しくしよう。暴力と戦い抜こう。小学校の頃、くそ馬鹿ガキと喧嘩になり、母親の悪口を言われた。その頃から母親が嫌いになった。同時に学校が嫌になった。家庭内暴力に走った。自分を支配するものは母親だった。母親が憎くてたまらなかった。今思えばそんなに憎む必要はなかった。それ以来、女が嫌いになった。病気になり、戻ってきて母親との葛藤はいっそう激しくなった。父親はその間に立ってストレスで癌になり、死んだ。二人で父親を殺した。父親を奪い合って殺した。母親は私を頼るようになったが私はエディプスになりたくなかったので毛嫌いし、離れた。母は私をストーカーのように追い求めるようになった。私は今でも嫌いだ。ぞっとする。暴力を振るってでも私に近づこうとしているように思えてぞっとする。安珍と清姫のような気がする。私は殺されそうな気がする。私は母親を傷つけた。傷つけずにはいられない。父親を奪い、傷つけ、母親を拒み、傷つけた。私は母親を愛すべきだったのだろうか。愛情にべきなどあるだろうか。私は女に自己重要感を与えられない。嫌いだからだ。そうすると100%うまくいかない。それでも私に執着するババアは私に暴力を振るってくる。私は母を拒んだ。母に殺されそうになった。今母の代わりのババアに殺されそうになっている。母を好きになればいいのだろうか。ババアを好きになればいいのだろうか。b校でも女とうまくいかんかったのはそういうことだ。本当に私は女が嫌いなのだろうか。嫌いじゃいけないのだろうか。父親不在で母親と深刻な葛藤の生じる場合があるのだろう。引きこもりのパターンだ。日本特有だと聞く。母子の癒着だ。それでもうまく行く場合もあればうまくいかない場合もある。女を好きになって、女の味方になって優しくしてやって、協力して、協力してもらって生きていくのが普通の男だろう。女に依存している。私は女から独立しようとして苦しんでいるのか。私が女や母を嫌いになったのは偶然か必然かわからない。でも今では女をどうやって好きになって良いかわからない。本当に見ただけで腹が立つ。自分を騙してうまくやっていくか。全面戦争を続けるか。それは不可能だろう。自分が損するだけだ。私は女を愛することができない。さりとて女になることもできない。女に暴力を振るわれたり、セクハラされたりするのも嫌だ。女嫌いにも拍車がかかってきた。今更女を好きになることはできない。でも自分を守りぬく。自分を労わりぬく。女が好きであっても嫌いであっても自分が好きだ。自分を愛しぬく。私は変わっていても私は私だ。私は私を守りぬく。優しくする。危害を加えらるいわれはない。女が嫌いだったとしても迫害されるいわれはない。権力が嫌いな奴は女が嫌いだ。女は権力だ。権力が嫌いな私が私は好きだ。女が嫌いだからと言って私を迫害する権力が私は許せない。私は私をかばいぬく。私を守り抜く。疲れたら休む。病気になったら癒す。そうして生きていく。私は女が好きな奴なんてこの世にいないと思う。仕事が好きな奴がいないのと同じだ。女とは仕事を強いる動物だ。それが好きなんておかしい。男は女が嫌いだ。女は女が嫌いだ。だから女は誰にも愛されない。だから自分で自分を愛する。女も男を愛していない。自分を愛しているだけだ。私もそうしよう。自分を愛しぬこう。人に仕事を強いよう。自分だけうまいもの食っていい物着て良い気分になっていよう。女のように。
女が好きかどうかなんかどうでもいいんじゃないか。女は女が死ぬほど嫌いだ。自分だけを死ぬほど好きだ。私も自分を死ぬほど好きになろう。そうすれば楽になる。精神的のみならず、物質的にも楽になる。健康にも気をつけ、節約と貯蓄に励むようになるだろう。隣人を愛し、仕事を愛し、町や国を愛するようになるだろう。国を愛する心、自分を尊重し、愛する心は大事なんじゃないだろうか。商売は宗教である。学歴なんかいらない。政治も法律も宗教である。これも学歴はいらない。角栄を見よ。秀吉を見よ。幸之助を見よ。商人は権力が嫌いだ。商売は宗教であって、権力から逃れて、自分の食い扶持と権力を手に入れることだ。反権力だ。自分を愛すると言う一番自然な感情に従おう。自分にその果実を味わうことを許そう。自分を愛するならば、自分を必死で守ろうとするだろう。そうすれば簡単だ。それが答えだ。女が好きか嫌いか、男が好きか嫌いかなんか全くどうでも良い。自分を好きになれ、自分を労われ、優しくしろ。損得に徹しろ。
私の人生は母親との葛藤の歴史だったのだなあと思う。母親の言うことは間違いではないだろう。でも私は反発した。自分の人生を見通すことができた。これで直すことができれば最高だ。苦しみもなくなるだろう。今ババアや女どもと生じている葛藤。冷戦。モラハラ。それらのルーツは全て母親に冷たい気持ちになったことから生じている。母親に感謝の気持ちが必要なのではないか。母親に感謝そういうことではないだろうか。弱者には憐れみ。やはり宗教が必要だ。癒そう。休もう。優しくしよう。
感謝と言うのは大事だ。そういうところから自分を労わる気持ちが出てくるのじゃないか。人に優しくできないものは自分自身も粗末に扱うだろう。もっと簡単に考えたら簡単に解決できる。親に虐待を受けたりした人もいる。そういう人はなかなか解決は難しいだろう。でも私は違う。簡単すぎて答がわからないのじゃないか。親には感謝、弱者には思いやり。自分も労わる。一所懸命仕事する。シンプルなのが一番だ。複雑な人生など真っ平だ。簡単な人生をわざわざ難しくしている。それは病気だ。やめたほうがいい。感謝し、ツイテルと言い、困ったことは起こらないと考え仕事に励もう。それだけのことじゃないか。母親と葛藤など馬鹿馬鹿しいことだ。
私は神の前で哀れな弱い生き物だ。全ての人間はそうだ。いつ死ぬかわからない、哀れな生き物だ。であれば自分に優しくし、自分を尊重し、自分の素晴らしさを素直に発揮しよう。自分のだめさを発揮している暇はないのだ。
母親に感謝する気持ちはあるのだからそれでいいのではないか。反発する気持ちもあるだろう。でも今はどうでもいいことだ。
母親は血のつながりがあるからそういう気持ちは大事だが、そのほかの女はいつでも切れる関係にあるか全く関係ない。だから自分を守ることができる。
自己重要感を大切にしないといけない。たとえ相手が女であっても自己重要感を与えるようにしないと恨みをもって復讐してくる。私は女が嫌いなので今までどれだけひどい目にあったか知れない。
今不調だからものを考えないことも大事なケアーだと思う。気晴らしを連続する。一週間飲み続ける。それはやった。体に悪いと言うことがわかった。精神的にセルフケアーする。人に攻撃されたら、きちんと反撃する。アサーティブということだ。今多分自尊心がぼろぼろになっているのだと思う。同窓会に出入りしようとしたりしたのもそれを補填したかったからだ。結果は惨憺たるものだった。自尊心はいっそうぼろぼろになった。人に依存してもだめだ。一から十まで自分でやろう。自尊心、自己重要感を守るためには人から攻撃されて黙っていてはだめだ。アサーティブに自己主張しないといけない。自分を守らなければならない。都会にいて自分が守れるだろうか。田舎に引っ込んだら守れるだろうか。自分がしっかりしないといけないのではないだろうか。そのためにはしっかり休み、自分を労わり、十分癒され、回復した後、やるべきことを黙々とやる。これに尽きる。
堺浜のケーズデンキに行ってきた。プラズマがきれいなのか液晶がきれいなのかわからない。明るいのは液晶だ。外で過ごすのも神経が磨り減る。人の視線が気になる。当然と言えば当然だが、正常な証拠だ。私は深刻な事態にある。窮している。それは中学のときからだ。危機的な状況にある。外から見てもわからない。怠けているのだ。辛抱が足りない。わがまま。そうではない。頑張りたくても頑張れないと言うことが普通の人間にはわからない。しんどくてもできることがある。それをやろう。塗り絵とか計算ドリルでも良い。読書でも良い。集中してやってみよう。原田式を取り入れてやってみたら道が開ける。それからそれから誇りを取り戻すことだ。自分を王侯貴族のように扱う。誰がなんと言ってもそうする。ありとあらゆる気晴らしを試してみよう。こんなにもうつが高じたのだから全力で自分の機嫌を取ろうと思う。自尊心、自己重要感を守ろう。自分の機嫌を全力で取ろう。今が一番苦しいときだ。これがきっと後で役立つ。
自分をとことん優しくしよう。人のことなんか関係ない。人に優しくしてもらわなくてよい。自分で自分の機嫌を取る。今日は私の精神障害のルーツが母親への反抗にあるということがわかって収穫だった。少しずつ自分が見えて来ているのだろう。
世の中が繁栄しようが乱れようがどうでも良い。私が平穏無事であれば良い。
2ちゃんねるにアクセスできなくなった。絶対あの悪徳業者が細工したに違いない。信じられない犯罪領域が広がっている。
私は本当に優しく真面目で正しい。私がこんな目にあうことは間違っている。絶対に正しい。
母親には感謝の気持ちでいっぱいだ。女は損な役回りでかわいそうだ。哀れでならない。私は自尊心をもつべきだ。なぜ私が中学のときおかしくなったのかわからない。母親が嫌いになったのもなぜかわからない。皆あのくそガキのせいのような気がする。貧乏人の土方のせがれ。ものすごく頭が悪く、不潔で根性最低。何であんなのと付き合ったのかわからない。今でもそうだ。何でこんなのとというような馬鹿と付き合っている。私は自尊心を持つべきだ。
馬鹿と付き合うのは止めよう。2ちゃんねるみたいな非合法みたいなアングラみたいな奴らと付き合わないといけないのだ。あのキチガイみたいなババアとか。絶対許さん。私は人を否定できないものだからどんなに自分に害があっても否定できない。その結果自分を傷つけてしまう。親や兄弟を傷つけてしまう。どうしてかわからない。馬鹿は許さない。自分を守るのに理由なんかいらんばい。自分に危害を加える奴は絶対に許さん。何だあの中学のときのキチガイ教師は殴り返してやればよかったんだ。不登校で上等だ。馬鹿にするな。私は働くために通っているのに何嫌がらせしているんだ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。
私は絶対に正しい。何でこんな目に遭わないといけないのか。アイムオーケーユアオーケーは私と母親の関係についてだったのだ。私と母親の関係はあるときアイムナットオーケーユアナットオーケーだった。それがアイムオーケーユアオーケーになるならば全ては解決するのだ。私は中学以来、今に至るまで葛藤し続けている。アイムオーケーユアオーケーにならない。もう楽になりたい。大学のときもそうだったし、会社に入ったときもそうだったし、このくそ職場に入ったときもそうだった。アイムオーケーユアオーケーでないといけない。自分の機嫌を取ろう。人の機嫌は取らない。私は正しい。私は絶対に正しい。
母親にはひどいことをしたなと思う。中学時代から暴力を振るい、病気になって帰ってきて、また葛藤が生じ、喧嘩し、父親が死に、家を飛び出して一人にして不眠にした。これは過去のことだろう。でもやっぱり悪いことだ。過去を反省しなければ未来はないだろう。やっぱり悪いことをしたのだ。
母親は大事だ。小学校や中学校のくそ馬鹿がきは全く価値がないどころか有害ならい病菌みたいなもんだ。生まれてこなければ良かったんだ。今からでも生きてたら死ね。母親は大事だ。親兄弟は大事だ。大事なものを大事だと思えばいいじゃないか。間違いが正しくなるんだ。そういうことをしているからあんなくそみたいなババアにつけこまれるんだ。そこを変えれば自分も苦しさがなくなり、伸びていけるだろう。母親は大事だ。私に災いをもたらすくそガキどもは死んだらいいのだ。と言うか生まれてこなければ良かったんだ。罪を悔い、改めれば道は開ける。今からでも遅くない。人非人みたいなくそガキと付き合ってはいけない。感謝の気持ちが大事だ。母親に感謝、父親に感謝。それをくそみたいな餓鬼のいうことを聞いて親兄弟を嫌ったのは間違いだった。間違いを間違いと認めることは大事だ。自分を大事にしよう。自分の機嫌を取ろう。
親兄弟のいうことを聞かないでくそガキやくざの言うことを聞いてしまったためにおかしなことになった。親の言うことを聞いていればよかった。らい病菌みたいな毛じらみみたいなやつらのいうことを聞いて付き合ってしまった。本当におかしくなってしまった。



2006年07月11日(火) w杯

ワールドカップも終わった。昨日は不愉快なことが多かった。金にまつわる。世の中世知辛くなっている。卑し過ぎる。女の声を聞いただけで腹が立つ。自分の機嫌を取ると言うことを徹底すれば全てうまく行く。反撃できないと思うとエスカレートするので反撃できると言うことをアピールしないといけない。女は本当に馬鹿で嫌がらせなんてできない。絶対にできない。私を怒らせると恐いと言うことをわかってもらおう。一人さんも怒らせると恐い。何人首にしてるかわからない。私も厳しさが必要じゃないか。失礼なことをされたら怒る。これが大事だ。なめられたらだめだ。女になめられたらだめなのだ。それだけのことだ。
人生楽しい。もっともっと自分に優しくしよう。もっともっと自分をいたわろう。自分をいじめることは止めよう。もっと自分を王侯貴族のように扱おう。
自分をもっと労わろう。そうすればもっと働けるだろう。自分にやさしくできれば人にも優しくできる。女は馬鹿で哀れな生き物だ。源氏物語を読んでいるとそう思う。もっと哀れみの気持ちを持とう。今日はソニーの奴に決めようと思っていたのに画質がプラズマの方がいいとか言うものだから迷ってしまった。猛テレビは映らない。早くほしい。何でもいいから。幸之助の本を読んでから少し店員に馬鹿にされることが少なくなった。本当に女とか身分の低い店員とかには悩まされる。かっとする。でも幸之助を呼んでいると宗教的な本だし、商人の神様みたいな本だし、怖い面はある。そういうところがいいのかもしれない。自分が何かを知ってしまえば知らない奴らに頭を下げる必要はない。世の中はそういうことだ。
何か腹が立ってきた。私に嫌がらせしたり、馬鹿にしたりする奴に復讐したいと思うようになってきた。悪いことをしてどうして許されるのか全くわからない。絶対復讐すべきだ。



2006年07月10日(月) 田舎暮らし

田舎暮らしセミナーは面白かった。その時間だけは夢を見られる。でも1700万円かかるといわれて夢が覚める。金の話か。商品なのだ。興ざめだ。現実と夢の戦いだ。今は本当に自分をいたわろう。楽しいことだけしよう。
自分をいたわる方法は自分を大事な人間と考える、尊重すると言うことだろう。自分はだめだ、価値のない人間だと思えば、何をする気もなくなる。自分は尊い人間だと思えば自然と何かをしたくなる。その価値を外に示したくなる。いたわると言うことだ。自尊心を取り戻すことだ。
困ったことは起こらない。何となくわかってきた。今病気休職で困っているかと言うと全く困っていない。経済的にも精神的にも全く困っていない。心豊かで楽しい生活をして回復を待っている。問題は起こるがそれは自分が解決してステージが上がるためのものだ。決して困ったことではない。むしろウエルカムだ。なぜなら置き去りにしてきた問題や間違った考え、行動を自ら改めるチャンスだからだ。自分で解決できればいいことが山のように起きる。
女なんかの機嫌を取ろうとしてもだめなのだ。自分の機嫌を取らないといけない。いつもあの不機嫌な女の機嫌を取るにはどうしたらいいかと無意識に考えてしまう。でも絶対に機嫌よくはならない。悪だからだ。それで病気になる。私は善人過ぎて病気になってしまうのだ。自分の機嫌を取っていれば大丈夫だ。
疲れているので無理はしないほうが良い。いたわるのだ。自分をとことんいたわる。付加を取り去る。何もしないでゆっくり休む。そうすれば自発的に仕事をしようと言うことになる。慎重に行こう。注意深く、危険に近づかないようにしよう。できもしないことはできないと言おう。
とことん自分を尊重しよう。そうすれば何で人があんなにも欲深く、意地悪く残忍で利己的かわかる。そうすればうまく付き合う方法はわかる。宗教的な考えに至るだろう。一人さんのような考えが結局近道だとわかる。人に親切にするのは良いが自分の利益を損なってはならない。全く意味がない。人に幸せを上げれば自分も幸せになれるだろう。でも自分がまず最初に幸せにならなかったらしあわせはあげられない。
自分をいたわろう。自暴自棄になってはいけない。危険な奴から自分をまもろう。2チャンネルとか言うおかしなところから金をふんだくられた。信じられない。闇が広がっている。日本はおかしな国になっている。自分を尊重しよう。国自体がおかしくなっている。医療費を上げたり、税金を上げたり、自殺者を増やしたり、憲法を変えようとしたり、アメリカの言いなりになったり、やって良いことと悪いことがあるだろう。ほんとにおかしな国になっている。辺見庸の言うとおりだ。
気分が良くないということはやっぱり、自分にもっと優しくした方がいいということだ。今日が人生最後の日だと思えば自分にもっと優しくするだろう。これから思い切り、自分に優しくしよう。自分を王侯貴族のように扱おう。自暴自棄になってはいけない。
自分の機嫌だけ取ると言うことは自尊心を持つと言うことだ。都会の着飾った女に魅力を感じなくなった。田舎暮らし適齢期なのか。自分は癒されたいと思う。田舎に行って癒されるならそうしたい。女は本当に馬鹿だ。前からそうじゃないかとうすうす思っていたが、本当に馬鹿なのだとわかった。なぜ差別されるか、なぜ社会から排除されるかもわかった。
付き合いたくない奴らがいる。金融関係者、やくざ、芸能人、芸術家、スポーツ関係者。こいつらは命を金や快楽と取引する奴らで、付き合うととんでもないことになる。でも人間は力を持つとそういうことをするわけで、政治家、商人、宗教家、官僚、全ての人間はそうじゃないだろうか。だから人間はうんざりだと言うのだ。そういうのが嫌になって田舎暮らしに憧れる。どうなんだろう。それが本心なのか。カモフラージュなのかわからない。色々考えたが、宗教的な考えを離れることは私にはできない。全ての人間にとってもそうだろうと思う。働くと言うことを自分に納得させる上でもどうしても宗教的な考えは必要だ。幸之助氏の本を読んでいるが100%宗教的なことを書いている。天然自然の理法に従って商売をやればうまく行くという。それはすなわち宗教だろう。私も宗教的な人物である。そういう気持ちが嫌になったこともあるが結局それが一番楽で自然だ。無理とか苦労とかを強いるものは全て間違いと言ってもいい。親鸞の教えは何も難しいことはない。念仏を唱えよと言うことだ。難しいことを望んでなんになる。今苦しくて救いを求めている人間がどうしてややこしいことや苦しいことができるのだ。楽で簡単なものだけが真実じゃなかろうか。天然自然のほうに逆らっても苦労ばかりで自分や他人を傷つけるだけで絶対にうまく行かない。
egに行ったのは間違いだった。人の機嫌を取ろうとして自己破壊に突き進んでしまった。麻薬に手を出すようなものだ。あそこで起こったことは忘れよう。なかったことにしよう。宗教だけがこの苦境を救ってくれる。今苦しいならばもっと楽にならないといけない。もっと自分をいたわらないといけない。もっと優しくして、もっと負荷を減らさないといけない。もっと嫌なことをなくさないといけない。もっと楽しいことだけしないといけない。とことん自分を守らないといけない。自分を守るために戦わないといけない。
女なんか全く恐くない。遠ざけることは簡単だし、こちらから離れることも簡単だし、身を守るために攻撃することも可能だからだ。宗教的とは何でも許すことではない。許さないことは許さないことだ。戦うことだ。不正と戦うことだ。気持ち悪いババアがセクハラしても暴力を振るっても許さなければいくらでも身を守れる。相手が悪いことをしないという前提でいてはいけない。こちらが身を守れないと知ると、攻撃やセクハラをしてくるのだ。解決方法はない。どうしたらいいか。仲良くする方法はあるか。ない。戦うしかない。やっつける方法はかなたんだ。極めて簡単だ。自分を尊いと思うことだ。人の機嫌を取らないことだ。自分の機嫌を取ることだ。女が嫌いでも何の問題もない。仲良くできなくても何の問題もない。何か問題であるかのように気に病むことがおかしい。
私は前の会社をごみのように放り出された。そんなことが許されるのか。私も自分の害になるものを排除していいのだ。私も害になるものを排除すれば楽になる。
宗教は自分を守る最大の武器になるだろう。仏教は女を遠ざけよと言う。女に恨みがあるのだろう。私もある。でも簡単だ。近づけない方法は自分から近づかなければ絶対に近づいては来ない。仲良くなりたいと思わなければ絶対に仲良くはならない。昼間から女や若者がうじゃうじゃ歩いていた学生は夏休みなのか。それにしてもどうなっているのか。人のことは言えないが。
宗教が一番良い。楽だし、楽しい。奥深く心豊かで真実に一致する。動物は本能のまま間違うことはないので必要ないかもしれないが、人間は間違った道に入り込んだり、光を失ったりするので誰でも必要だ。私は宗教を支えに生きていくだろう。誰でもそうだ。学校でもどこでも宗教は教えていないが誰でも自然にそういう考えを身につけるだろう。
女は本当に馬鹿。そして女に嫌がらせなんかできない。この二つだけだ。完全に拒否されたら何もできないんだから、嫌がらせなんかそもそも成り立たない。相手の機嫌を取ろうとしているからおかしいことになる。自分は自分の機嫌を取ればいいだけなのだから、嫌がらせなんか成り立たない。私があまりに善良で人の機嫌を取ろうとするから病気になる。自分の機嫌だけとっていればいいのだ。人の機嫌なんか取らなくていいのだ。女はほんとうに馬鹿。女に嫌がらせなんかできない。女と仲良くしようとか機嫌を取ろうとか心にもないことをするから漬け込まれる。完全に拒絶すれば指一本手出しできないのだ。嫌いなんだから嫌いと言う顔をしていればいいのだ。
女は本当に馬鹿。人に嫌がらせして得することなんかないのだ。絶対に女なんかに嫌がらせされる筋合いはない。絶対にできない。機嫌を取ろうとか仲良くしようとか優しくしようとか思うからいけない。人間なんだから優しくしないといけないとか。全く関係ない。いやなことをする奴なんかの機嫌を取る必要なんかないのだ。



2006年07月09日(日) 今朝

今日も梅雨空だ。私の気分もはっきりしない。ゆっくりしたい。疲れた。温泉行っても癒されない。温泉のdvd見ているほうがいい。人の機嫌を取らないと言うのはいい。余力ができる。今のうちにサボろう。自分の機嫌を取ると言うのが難しい。美しく保つのが難しい。多分私が疲れるのは能力以上に求めるからじゃないか。小学校以来。求めすぎる。欲が深すぎる。勤勉すぎる。几帳面すぎる。俵萌子の例も人の機嫌を伺いすぎる。人のお世話ばかりして、自分を酷使していたから疲れて事故も起こすし、がんにもなる。もっと頑張らないで自分をいたわることができていればもっと違ったかもしれない。性分なのだろう。周囲も甘えすぎる。私も人の機嫌を取らないと決心してからずいぶん楽になった。自分に危害を加える人間に近づいたりしなくなった。フッキー加藤症候群の教訓だ。今はとにかく疲れを癒すことだ。自分にもっと甘くしていい。だらだらして良い。kさんは人格障害ぽい。私は癒してやれないし、その義務もない。それを無意識にやろうとするから疲れる。自分の愉しみをのんびりやればいいのじゃないか。もっと深刻に考えた方が良い。重病なんだと考えて、もっといたわろう。もっと休もう。
今みたいに調子の悪いときは、何も考えずに休む、負荷を取り除く、自分を思い切り、いたわり、甘えさせる、心を美しく保つ。宗教的な観点から望ましい状態に保つ。これくらいだろうか。こういうときこそ良い状態に戻さないと持ちこたえられないだろう。重大な状態だと深刻に考えるくらいがちょうど良い。結局宗教的に正しいあり方が健康な状態だ。自分の機嫌を取る。人の機嫌をとらない。それは共依存のことを言っているのだろうか。人の機嫌を取って疲れてしまう。
自分をいたわるならば、一所懸命やれるだろう。今はとにかく自分をいたわろう。とことんいたわろう。人の機嫌を取らないで自分の機嫌だけ取ろう。困ったことは起こらないと言うのも人のことを基準に考えるとジレンマに陥る。自分基準に自分の機嫌を考えることがストレスの緩和になる。自分の機嫌を取っていれば困ったことは起こらない。あのババアのこととか女のこととか困ってるか?困っていない。全く何も困っていない。仕事のこととか全く困っていない。自分の感情に気付かず、損得を考えず、人のために自己犠牲をするというのは良くない。それが中学時代のうつ状態に通じる。自分の利益を最優先し、自分の感情を大事にし、損得をベースに考えれば自ずと正しい行動がわかる。ここを根本的に改めれば、劇的に改善する。全く困ったことは起こらない。自分の機嫌を取るから、うつ状態は治り、一所懸命仕事ができると言うことになる。
女を見ただけで腹が立つ。さっき電車に中で超気持ちの悪い女どもにあった。本当に気持ちが悪い。死ね。b校の女も一緒だ。自分が嫌なことはやらなければ良い。相手の機嫌を取っているのだ。自分の機嫌を取ろう。それはああいうものに一切近づかないことじゃないだろうか。自分の気持ちに正直になればそういうことになる。女との関係は全く困ったことはない。相手の機嫌を取ろうとさえ思わなければ絶対に勝てる方法がある。暴力によらないで絶対に勝てる方法がある。
自分の機嫌だけ取ると言うことは大事だ。後10年間は女と近づかなければいいんじゃないのか。暴力を振るうな。馬鹿じゃないのか。
田舎暮らしの話に出てきた。面白かった。塩見氏の話は2回目だ。前回と同じレジメだった。それはそうだろう。不動産屋主導の怪しげなセミナーだったが、結局そうなるだろう。田舎暮らしアドバイザーなる肩書きの不動産屋の社員がしゃべっていた。私もそういう商売を考えていたがノウハウがない。結局不動産屋の仕事ということになる。でも前回よりリアリティーがあった。短い間に成長したのだろうか。
とにかく今は重大な事態だ。自分で自分が守れない状態になっている。ゆっくり休むことだ。とにかく重病人なのだから最大限にいたわることだ。危害を加える可能性のあるものに近づいてはならない。と言うことは女に近づいてはならないと言うことだ。自分で自分の機嫌が取れなくなったらおしまいだ。中学時代からそうだった。自分で自分の機嫌が取れなくなった。自分が一番大事だ。今しみじみというかつくづくそう思う。自分の安全が何より大事だ。人の機嫌を取っている場合じゃない。人の機嫌なんか取れる状態じゃない。冗談じゃない。
今はとにかく緊急事態だ。ICUにはいるくらい重態なのだ。体の病気だったら入院して絶対安静というところだ。自分を休ませ、一切の負荷を取り除き、回復に努めなければならない。egに行ったことがこれほど重大な結果になるとは。egに行ったのはz氏に気に入られたかったからじゃないのか。自分のためと言うよりも。自分の機嫌を取ろう。人の機嫌を取ると確実に病気になる。自分の機嫌を取ろう。自分の利益を最優先に考えよう。
戦い続けてきた。中学のときから、権力と、見えない何かと。本当に今大変なときなんだ。重大な事態なのだ。自分を守るのだ。休ませるのだ。癒されるのだ。戦う必要はなく、宗教的に美しく生きることだ。
他人に気に入られたいために自分を犠牲にするとはどんな馬鹿でもやらないことだ。これからは自分をいたわり、自分の損得をきちんと考えて生きよう。宗教的に正しいことが正しいと一人さんも幸之助も稲盛も言っている。私は宗教とも道徳ともかけ離れた獣道に迷い込んでいる。これではいけない。宗教に頼るんだ。それは依存ではない。
楽しい。自分は重大な事態なのだ。いたわられて当然な状態なのだ。癒すものは宗教だろう。自分が宗教的に美しくなることが一番だ。自分を守ることだ。
私は悪い人間ではない。宗教的感性に優れた人間だ。自分をいたわろう。自己に配慮しよう。自分の感情と利益を最優先しよう。いたわることができないから働くことができなくなったのだ。
自分をいたわろう。勉強とかしなくてもいいから楽しいことをしよう。楽しい気持ちが回復へと向かうだろう。自分をもっといたわらないと。回復しないならもっといたわる。利益に反し、傷つける奴は断固として排除する。休もう。楽しもう。いたわろう。自分を守ろう。自己の利益を追求しよう。



2006年07月08日(土) 呼吸法

呼吸法は唯一確実に効果がある。これを続けよう。セロトニンが増える。塗り絵も良い。自己啓発本。本が少し読めるようになって来た。あと人の機嫌を取らないで自分が機嫌よくしていること。
津島佑子の講演に出かけてきた。退屈極まりない話だった。kさんとn女史が来ていた。どちらも会いたくなかったのでさっさと帰った。生きることは素晴らしい。機嫌を取らないと言うことは素晴らしい。自分の機嫌だけ取ると言うのは素晴らしい。人の機嫌を取ると勘違いされる。ホモなんじゃないかとか、自分が好きなんじゃないかとか、訳がわからない。いいことは一つもない。「自分の機嫌だけとりな」というのは素晴らしい。世界一短い座右の銘。



2006年07月07日(金) 昨日

昨日は早く目が覚めた。なぜだろう。薬もちゃんと飲んだのに。
呼吸法をやった。これは一番効果がある。無の境地、空の境地がわかる。体と心が一致する。言葉は要らない。
私は神だ。お前らは死ね。



2006年07月06日(木) 今朝

今日はかなり気分が良い。と言うか今までだってそんなに気分が悪くはなかった。それを悪い悪いと言っていただけだ。自分と目標だけに意識を集中して他のことに気をそらさない。これが肝心だ。
私くらいの人物になると仕事も遊びも自発的に喜びを持ってできる。社長になるのも簡単だ。それをあのキチガイみたいに上からものを言われるとものすごく腹が立つ。
あのキチガイのことを考えること、女が好きとか嫌いとかいうこと自体が機嫌を取っていることだ。機嫌を取らないことは考えないことだ。自分の機嫌をひたすら取ることだ。楽しいことを禁じている。中学からだ。あのキチガイ教師に虐待されてからずっとおかしい。呼吸法で虐待によるptsdから脱出するのだ。
一気に全て瞬時に解決する方法はなくてコツコツやるしかない。呼吸法とか原田式とか自己啓発とか、塗り絵とか。一点突破的に小さなことからこつこつとやって言ったらいいんじゃないか。俵萌子でもホームページが面白かったことから回復したと言うから私も面白いことを見つけて何かやってみよう。塗り絵も意外に面白いし、自転車でもいいだろう。
人の機嫌を取らないで自分だけ機嫌よくしていればいいというのはすごいことだ。人の機嫌を取らないで良いのであれば、自分が機嫌よくしているのは簡単なような気がする。人の機嫌を取ることはものすごく難しく、神経とプライドをすり減らすことだからだ。自分が機嫌よくすることは簡単だ。
人の機嫌を取ることは難しい。不可能に近い。才能がいる。でも自分の機嫌を取るのは簡単だ。お金も要らない。苦労もいらない。ツイテル、ハッピーと言っていれば良い。人が機嫌が悪くてもそれはその人の都合で機嫌悪くしている。私がとやかく言う必要はない。私は私で機嫌よくしている。
私は100%機嫌が良い。人の機嫌さえ取らなければいついかなるときも200%機嫌がよい。人の機嫌を取らないでいいとわかったので私はいついかなるときも200%機嫌が良い。
人の機嫌を取らなくていいというのは素晴らしい。自分の機嫌を取っていればいいのだ。自分さえ機嫌よくしていればいいのだ。
人の機嫌を取らないで自分だけ機嫌よくしていればいいというのは素晴らしい。中卒の人の話がよくわかると言うのはこの世間が大体中卒レベルだと言うことだ。私は大卒の話をしようとしていたのが間違いだった。大体私が入れる会社が大卒の話なんか通じるわけがない。中卒の話で十分だ。中学のときに馬鹿に虐待されたのは、中学のレベルを超えていたからだ。機嫌よくしていればいいのだ。馬鹿のせいで機嫌を悪くする必要はないのだ。中卒で十分だ。世の中はシンプルだと言うのは一人さんの言うとおりだ。中卒レベルで十分なのだ。女なんか小卒レベルでも高すぎるくらいだ。機嫌なんか取る必要はないのだ。



2006年07月05日(水)

今日は雨で鬱陶しい天気だ。家で過ごそう。昨日の夜、動悸がして死にそうになった。運動した後の飲酒と動悸といえば最初の発作のときと同じだ。気をつけよう。
人の機嫌を取らなくていい。それだけで楽だ。自分の機嫌がよくなる。
日本人はあまり寛容ではない。私もそうなろう。自他の悪に不寛容であろう。
人の機嫌を取らなくてよい。これは大事なことだ。自分の機嫌がよくなる。自他の悪に不寛容であること。
モラルハザードになっているのかもしれない。自他の悪に不寛容。
自分に都合よく考えたらいいんじゃないのか。人に都合よく考えると病気になる。誰でもそうだ。自分が幸せになるように考えたらいいのに、それが考えられない。宗教的な考えのできる人はそういうところがあるかもしれない。
私は元々悪に不寛容だ。それが悪に機嫌を取るから寛容になるし、自分も悪くなるし、機嫌も悪くなる。人の機嫌を取らないでいいということはすごい楽なことだ。それだけ考えて生きていこう。すごく嬉しい。
人の機嫌を取ると必ず病気になる。自分の機嫌を取ろう。人の機嫌を取らない自分を経験したことがないので、新鮮だ。少し落ち着かない。人の機嫌を取らない。その隙間に何者かを呼び入れても良い。自分の機嫌を取る。人の機嫌を取らないとすごくいいことがある。傷つかなくてすむし、自己と他者の境界がはっきりするし、喧嘩にならない。具合悪くならない。私が機嫌を取るのは私に危害を加えるもの、可能性のあるもの、悪、馬鹿など。そういうたちの悪いものを機嫌取っていると確実に気分が悪くなる。やがてうつになる。この問題も、あのキチガイの機嫌を取っているのと同じだ。そうしなくて良いとなると本当に楽だ。自分が機嫌よくなる。ツイテルと素直に思える。
人の機嫌を取らないと自分の機嫌がよくなる。それを利用して、勉強する。自己啓発のほうが良いが、小説の勉強でも良い。生産的なことを考える。病気治療なんか必要ない。私は病気なんかではない。生体解剖みたいに自分の心を解剖してみても何もわからない。そんな暇があったら、好きなことをしていた方が良い。フッキー加藤症候群で私は大事なことを学んだ。ツイテルと言わなければならない。
人の機嫌を取らないと言うことは偉大だ。すごく楽になる。自分の機嫌を取るのだ。サラリーマンの世界で一番になれば良い。簡単なことだ。
人の機嫌を取らないと言うことは大きなボーナスをもらったようなものだ。使い切れないくらいのビッグボーナス。家一軒買ったくらいのボーナスだ。
一人さんによると楽しいとは仕事をサボって楽をするということではなく、仕事や遊びを一所懸命やって上達すると言うことらしい。そういえばm氏のサークルでもスポーツとかいろいろやらされる。まったりするとか言うことはないらしい。私が楽しいと思うことは一貫してそういう脱力系のことだった。多分小学校高学年の頃だった。ある種うつ状態だったのだ。それは怠けとかサボりと混同されやすい。違うと言うことを説明しようとしても不可能に近い。カウンセラーでもよくわかっていないんじゃないか。人の機嫌を取らなくていいということになると、だいぶ事情が違う。楽になるし、力いっぱい仕事ができる。うつも進行してくると明るくするということさえできない。自分の機嫌さえ取れない。私は辛かったけどやっとの思いで仕事をしていたのだ。それを怠けているとか、サボっているとかいう態度で個人攻撃された。それでうつが深刻化した。でも人の機嫌を取らないでいいとなると、楽になり、自分の機嫌を取れるようになる。
人の機嫌を取らないと言うのはすごい。自分の機嫌を取るのはすごい。自分が変わる。人の機嫌を取らないといけないと思うと、暗くなる。機嫌なんか取らなくて良いんだと思うと明るくなる。楽になる。困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。自分の機嫌を取れないから人に機嫌を取ってもらおうとする。それは良くない。人の機嫌を取らないと言うのは素晴らしい。
でも今は楽だ。人が恐いような気がしたが、機嫌を取らなくて良いんだと思えば楽になった。天王寺や堺や電車内のわけのわからん連中を見ていると腹が立ったり、恐くなりそうだったが、機嫌を取らなくていいのだと思うと何ともなくなった。恐かったり腹が立ったりするのは自分が機嫌を取らないといけないと思うからである。そんなことはない。全くそんなことはない。機嫌を取らなくて良い。自分の機嫌を取るのだ。これは楽だ。機嫌を取らなくていいというのは素晴らしいのと、機嫌を取らなくてはいけないと言うネバならない思考がものすごく強いのだと思った。機嫌を取らなくて良い。斉藤一人は偉大だ。でも完全に宗教だ。でも生きていくのに役に立つ宗教なら良いんじゃないのか。ツイテルツイテルと言っていればいいことが雪崩のように起きる。不機嫌な奴の機嫌を取らねばと思っていたらそれはいつかは切れるだろう。あの家に放火した高校生と同じだ。あの子は特別異常じゃない。異常なストレスを与え続ければああいう風になる。私も特別異常じゃない。私は人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。いつもニコニコ明るくしている。機嫌を取らなければと言う思い込みがものすごく強い。これから自分を解放すると楽になる。好きなことを何をしてもいいのに、何もできないと言う状態から解放される。人の機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取るのだ。
日記をあまり書かないほうが良いかもしれない。その暇があったらゆっくり本を読む。人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。
人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。自他の悪に不寛容でありたい。私は自分の大事な人生を邪魔されたくない。人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。高校くらいから精神病領域に入っていただろう。大学には運よく合格したので、おかしいとは誰も思わなかったのか。でも大学の同級生はおかしいと気付いた。でも道徳的におかしいと思ったようだ。そうするといじめと言う常套手段になる。それはおかしい。今精神病領域と正常領域を行ったり来たりしている。道徳的に非難するのは不当ではあるが、病気であると言ってしまうと勤務できないと言うことになる。思えば大学に入ったときももし精神的なケアーが必要だとするならば、そこで休んで服薬するなりする必要があった。でも誰もそんなことは言わないし、自分でもわからなかった。最悪会社を辞めて勤務に耐えられるようになる必要があるかもしれない。もし、健康であると言う立場に立つと、道徳的非難ということになる。ババアが嫌いと言うことは病気だろうか。微妙だ。私はジレンマにある。病気だと声高に主張すれば、やめざるを得ない。健康だと主張すればこの状況に耐えないといけない。モラハラはその境界例に忍び込む悪質な手口だ。中学高校大学で行われていたことはモラハラだったのだ。パワハラと言ってもよい。これを繰り返してはならない。病気と思うのなら、可能な手段で病気を治す必要がある。直すと言っても長いのだ。中学時代に遡るから、30年以上になる。病気だと主張すれば排除されるし、健康だと主張すればいじめに遭う。一人さんのやり方で解決できるだろうか。私は応急措置としても有効だし、根本的解決としても有効だと思う。私は自分でこの問題を解決できる能力があると思う。私は時々おかしくなるだろうが、基本的には正常だ。修行することによって、この苦境を脱し、ステージを上がることができる。そう考えればジレンマはジレンマでなくなる。誰でも問題を抱えている。それを抱えながら生きているのだ。北原もそんなことを言っていた。私は年の割りに幼弱な気質なのだ。森田療法でもあるがままとか恐怖突入と言っているから基本は同じだ。父も病気だと言ったことはなかった。酒に逃げていた面はあるが、休職などしたことはなかった。病気だと言って特別扱いを受けることは不可能だろう。でも一度は明らかにしておく必要がある。区切りはつけておいたほうが良い。でもこれからは病気は治った。あるいは薬で何とかなるという態度で一人さん的、原田式メソッドで行ったほうがよい。私は自分が健康だと言って厳しい仕事に耐えることは本当に不可能だと思うのだろうか。大学合格までは何とか耐えられた。でもそれからは一切耐えられなかった。なぜだろう。やっぱり問題があるからだろう。それでも騙し騙しやっていくこともできた。
当時の私の状況と今の状況と全く同じで死ぬまで同じだと思う。仮に職場を変えたとしても田舎暮らししたとしても同じじゃないか。そればかりか私と他の老若男女全てと同じじゃないか。裸でこの世に生まれてきてそれぞれ能力や与えられたものは千差万別だが、自力で運命を切り開いて生きていかないといけないのは全く同じだ。正社員であれ、パートであれ、派遣であれ、男であれ、女であれ。大卒であれ、小卒であれ。幸之助や一人さんは学歴がないだけにその辺がクリアーに見通せるのだ。私が躓いたのは小学校高学年から中学くらいだから、彼らの話がぴったり来る。逆に。高学歴の人間は逆に私の苦しみがわからない。大学のときにいじめられたのはそのせいだ。
俵萌子の話をやっていた。感動した。やっぱりうつは誰でも、どんな健康な人でもなりうる。うつは内発的なものではなくストレスによるものだ。脱出法は面白いことをやって夢中になること。仕事を無理やりでもやること。恐怖突入か。人のためになること。人の役に立つことをやっているうちにうつを脱したらしい。案外簡単だ。これは普遍的な真理だ。人の機嫌を取ると言うのとは微妙に違う。弱い無力な人がいて、自分が力を持っているということがわかれば私があなたに代わってやってあげますと言うことらしい。機嫌を取ると言うのは単に気分的、感情的なもので仕事にはなりえないし、救うことにはならない。私の解決法は夢中になれるものを見つけること。小説でも良い。ビジネスでも良い。それと仕事を見つけること、それに打ち込むこと。これはやったことがない。私の能力は証明済みであって誰にも非難されることはない。問題は悪に不寛容であるかどうかだ。やる気がなくなっていることだ。やる気がどうしても起きないと言うのであれば、仕事を変えるのも一つだ。小説は儲からないが、やりたければやっても良い。でも真剣にやらないと上達しないし、面白くない。上達するから面白くないのだ。遊びでも仕事でも。私の課題はうつとモラハラによって傷ついた脳を休ませて回復することと、一人、原田式に学んで職場で仕事を見つけて、一所懸命にやって結果を出すところまでもって行くことだ。単純明快である。そのために職場を変えたほうがいいというのであれば会社も協力してくれるだろう。原田式は道徳的に自分を責めると言う自分の一番嫌な、多分誰でも嫌なやり方ではなくて、目標設定して、自分で達成する喜びを得ていくやり方、靴をそろえる的なことがベストだろう。道徳的に単純明快でしかもゴールまで一直線でモラハラ的妨害にもびくともしない。大体見えてきた。まず人の機嫌を取らないことにより、自分の機嫌をよくする。そしてやる気を引き出していく。そして職場復帰、仕事獲得、問題解決というゴール、そして社長になるという目標に向かってやっていくのだ。
やり方は何でもいいのだ。人間関係でも仕事でも簡単なことなのだ。できるに決まっている。能力は証明済みなのだ。目標は日本一の社長になることだ。作家でもいいのだ。小説をまずいっぱい読むことだ。小説を一冊も読んでいないじゃないか。それでは話にならない。読んで書くことだ。この問題解決というおいしい仕事を神は私に課題として与えてくれたのだ。思う存分やればいいのだ。一所懸命何かをやったことはないじゃないか。原田式メソッドであれば道徳的に自分を責めることなく、習慣として目標と夢と達成感、生きる喜びと感謝を持って仕事をやっていくことができる。そこに人間関係など介在する余地など全くない。



2006年07月04日(火)

最近は薬を飲んでも十分眠れない。自他の悪に不寛容であること。これで全ての問題は解決する。今日は良い天気だ。山へでも行ってこようか。意外に楽しい。自他の悪に不寛容という悟りを開いたからだろうか。
犬鳴山に行ってきた。途中林道みたいなところを長く歩いて日焼けしてしまった。温泉でぞうりをそろえたら、女将にどうもといわれた。これは一人さんの影響でもあり、原田式メソッドでもある。いいことだ。やっぱりegのお蔭で全てはおかしくなった。それを何とかしたくて休んでいるのにフッキー加藤症候群になってしまった。あいつほんとに死んだらいいのに。まあ死んだも同然だ。わずかに私の症候群の中に痕跡を残すくらいで、この世には存在しない。
自分に危害を加えるものに寛容であってはならない。馬鹿や悪の機嫌を取ってはならない。馬鹿や悪は馬鹿や悪であっていいのだ。私が直してやる必要はないのだ。自分に危害を加えるのを我慢してやる必要はないのだ。
世界中の成功本を読破しよう。本を読んだだけで違う。商人の世界は奥深い。私は商人だったことはない。サラリーマンは商人ではない。商人は面白い。脱サラして商人になった人は多いが成功した人は少ない。私は成功しよう。
働くってほんとに楽しいよ。結果が出る唯一の行為だ。遊びで結果が出るか。遊びは遊びだ。楽しくはない。遊んでいて楽しいと思ったことはない。小説を書いているときくらいだ。ギャンブル。私はギャンブルはしない。女遊びもしない。酒くらいだ。酒も止めたい。仕事に命をかけたい。後は旅。芸術。尾崎放哉のように生きたい。と言ってもできないが。やっぱり安定が良い。
楽しい。酒は楽しい。テレビがなくても楽しい。楽しい。馬鹿や悪や機嫌の悪い奴の機嫌を取らない。自分の機嫌を取っていつもニコニコしている。これが大事だ。私は悪い人間になってしまった。それはいいとも悪いとも言いがたい。でも私の周りがそういう風になってしまって私を苦しめているのは確かだ。だからと言って私は今日限り改めましたすみませんと言ったって仕方のない話だし、その必要もない。一人さんの言うとおり、原田式メソッドの通りやっていたら自然にうまく行くような気がする。全て私の一存だ。
馬鹿や悪の機嫌を取らない。自他の悪に不寛容であろう。悪に不寛容であるのははやりでないようだが、それが肝心だ。人の機嫌を取らないと言うことは悪に不寛容であることだ。人の機嫌を取り始めたら、悪でもいいということ、悪に寛容になってしまう。それは間違いで悪に不寛容でなければならない。人の機嫌を取ってはいけないと言うことだ。
馬鹿や悪の機嫌を取らないと決めた途端に全てがわかった。自他の悪に不寛容である。これが大事だ。自分の機嫌を取るのだ。自分の機嫌を取るのは素晴らしい。人の機嫌を取るのは愚かなことだ。



2006年07月03日(月) 歌舞伎

今日は歌舞伎の日だ。今日じゃなければ良かった。しんどい。テレビ早く買ったほうがいいんじゃないのか。疲れる。いっそう孤独な気がする。生きるのはしんどい。脳内のドーパミンが暴走し始めた。でもこれは勤勉や生きろというサインだ。有効利用すれば困ったことではないんじゃないか。世の中にはそういう変な奴がいる。目が赤く血走っている奴。残忍な奴が多い。ドーパミンが出まくっている奴。暴力を振るう奴。暴言を吐く奴。馬鹿の機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取るのだ。馬鹿や悪の機嫌を取らないということは一歩進むと馬鹿や悪を許さないということになる。つい馬鹿や悪の機嫌を取ってしまうものだ。それで悪や馬鹿の増長を許してしまう。でも断固とした態度を取る。悪や馬鹿を恐れない態度が必要だ。自分の機嫌を取ろう。
歌舞伎を見に行った。面白かったが、面白くてたまらんというものでもない。三階席だったし。悪や馬鹿の機嫌を取るのは止めよう。自分の機嫌を取ろう。困ったことは起こらないというのは自信のある言葉だ。どんなことが起きても困ったと思わないということだ。どんなことが起きてもこれは神様が学びのために問題を与えてくれているのだ。問題が解ければステージが一段上がるんだ。その一つの方法が悪や馬鹿の機嫌を取らないということだ。ゼロトラレンスだ。絶対排除だ。馬鹿と悪の絶対排除。女は社会から絶対排除されていたのだ。それが仕方なく女を受け入れ始めたので色々問題が起きるのだ。でも問題と思ってはいけない。困ったと思ってはいけない。学びのために神様が与えてくれた問題と思わないといけない。
何で仕事がしたくなくなるかわかった。悪や馬鹿の機嫌を取るからだ。それをやめれば、自分の機嫌がよくなって、仕事もしたくなる。悪や馬鹿に対して許容的な態度を取るからだめなのだ。
何が起こっても困った困ったというなということだろう。何も困ってなんかいないのだ。実際今は幸せで仕方がないし、人がかわいそうだとか気の毒だという境遇で、幸せだというのだから私は相当タフだ。前向きだ。強い。馬鹿や悪の機嫌を取らなくなるとすごく楽になって機嫌よくなって働きたくなる。
悪や馬鹿の機嫌は取らない。このことさえはっきりしておけば全てうまく行く。自分の機嫌もよくなる。元々機嫌の良い人間なんだ。人の機嫌は取らない。絶対に。
悪や馬鹿の機嫌は取らない。それだけで機嫌がよくなる。困ったことは起こらない。何が起きても困ったと思ってはいけない。学びのチャンスだ。
私は自分に危害を加える人間の機嫌を取ろうとしていた。そいつはかわいそうなやつだという気がしたからだ。それがそいつは恩義に感じるどころか更に悪いことをしてくる。私の評判も悪くなる。だから私はそんなことはやめることにした。自分に危害を加える奴のことを機嫌取ったり、仲良くしてやったり、大目に見てやったり、自己犠牲になってやったり、それでうつになったら溜まらん。これからは危害を加える奴は機嫌を取らない。排除する。反撃する。何で危害を加える奴と仲良くしなくちゃいけないんだ。機嫌を取らないといけないんだ。いい加減にしろ。私は私の人生を始めよう。
こんな会社はいったときからおかしかった。あのキチガイ自体がおかしい。配属されたところの奴らがおかしい。周りの部署の奴らは私を敵対視する。コネで入ったからそうなる。私も自信がないから弱気になる。今の会社も完全におかしい。今の職場も完全におかしい。面接のとき私を侮辱するようなことを言ってきた。それでこっちから断ってやった。でも味方がいないのか向こうから誘ってきた。それでついつい乗ってしまった。それが運のつきだ。自分に危害を加える奴の機嫌を取ってはいけない。当たり前のことだ。
間違ったことを繰り返していると神様はそれは間違っていると教えてくれるんだ。いじめているんじゃないんだ、と一人さんは言う。その間違ったことというのは自分に危害を加える人間に優しくしたり、機嫌を取ったり、追従したりすることだろう。それをやめればずいぶん楽になるんじゃないか。そういうやつは誰にでも危害を加えるし、誰からも嫌われている。そんな奴の機嫌を取っちゃいけないんだ。そういうやつは誰も相手にしないから私に食いついてきて相手にしてくれないと危害を加えたりする。そういうやつにとって人間関係は危害を加えることしかないんだ。誰かがそうやってえさを与えたから勘違いしてあんなふうになってしまったんだ。私は間違ったことを中学以来一貫してやってきたんだ。悪の仲間になってしまったんだ。社会に危害を加える奴が排除されるのは当然のことなんだ。悪の機嫌を取らないで自分の機嫌を取るということがこんなに大きな気付きになった。フッキー加藤症候群は大きなものを私に与えた。
自分に危害を加える奴を排除するというのは極めてノーマルな考えだ。これだけで全てがうまく行くだろう。極めて単純なルールだ。悪に寛容でない、ゼロトラレンス的な考えを取ろう。その第一歩が悪や馬鹿の機嫌を取らない。自分の機嫌を取るということだ。でも悪の機嫌を取らないというだけで私は機嫌よくなる。元々機嫌の良い人間だからだ。人間は誰の機嫌も取らなくていいのだ。
そうすると自分の中の悪にも機嫌を取らない。不寛容であるという態度が当然出てくる。これが働きたいという気持ちだと思う。これが原田式メソッドだ。女なんか全員悪なんだから機嫌なんか取らなくていい。取らなくていいのに取るということは下心があるということだ。女は必ず私に危害を加えてくる。だったら絶対に機嫌を取るな。常に排除しろ。
斉藤さんの言葉はいつも過激で厳しい。私のような人間が一番嫌いなようだ。その一番の理由は私が悪に寛容だからだろう。私が優しいということ純真であること清らかであることと、悪に寛容であることは矛盾しない。優しいからこそそういう気持ちになる。でもそれはうまく行かない。自分の中の悪に寛容であればすぐ病気になる。正しい考え方をし、悪を常に排除しないと病気になる。私が病気になった理由は悪に寛容だったからだ。自分の内外の。だったら病気から治る方法もはっきりしている。自他の悪に不寛容であることだ。原田式メソッドが生きてくる。靴をそろえるとか、皿を洗うという行為が悪を排除するということとつながる。
悪に寛容であるとは単なる癖の問題であって、信念があるわけではない。だから簡単に諦めることができる。自他の悪に不寛容にすると決めたらすむ話で恥ずかしくもなんともないし、何の苦労もいらない。私は元々悪に不寛容な人間だからだ。それが悪に寛容だったために権力ににらまれて攻撃されたために習慣として悪に肩入れするようになっただけの話だ。それだったら悪にしがみついて不利益を受ける理由などあるだろうか。一人さんの言う神様が間違っていると教えてくれているうちに改めた方がいいんじゃないか。z氏も悪に寛容な方だ。私を見て共鳴するものがあったのだ。でも最近は人事の方針でカウンセリングの仕事をやらなくなって悪に寛容でなくなった。悪に寛容かどうかは自由に決められる。人間は本来悪でも善でもない。両方持っている。どちらにでもなれる。一所懸命働いている奴が善人で正直者かというと全然そうではない。自分の利益に忠実なだけだ。善悪など考えているはずがない。だからといって悪人だとか次元が低いというわけでもない。善悪とは関係ないことなのだ。私の善悪二元論が馬鹿馬鹿しくて仕方がないだろう。彼らはそれを超越している。善だの悪だのというレベルと違うところで生きている。損得で生きている。だから私が善悪などという話を持ち出すのは笑止だろう。あのキチガイがこんなことをしたあんなことをしたといっても全く理解も興味も示さないだろう。それは彼らが頭がおかしいからだろうか。辺見氏の説も私と似たところがある。悪に対して寛容かどうか。善悪で人は考えていなし、行動していない。辺見氏はそれにショックを受ける。しかしやはり人間は善悪を考えて行動しているのではないのだ。悪と私が言っているものを自分に損害を与えるもの、不利益を与えるもの、不快感を与えるものといったらどうだろう。私もそれに当てはまる。でもそれは生きている以上仕方がないだろう。自分に危害を加えるもの損害を与えるもの、不快感を与えるものに対して不寛容になろう。当たり前のことだ。当然自分に危害を加えるものは道徳的に悪いだろう。それがモラルハラスメントというものだ。危害を加えるものに意外に寛容だと見抜くと増長する。それが自己愛性人格障害だ。私はこの問題におおよそめどをつけた。長い道のりだった。再発を防ぐ方法もほぼわかった。自他の危害を加えるもの迷惑をかけるもの、損害を与えるものに不寛容であることだ。道徳とか倫理とか宗教とか行っているとどこかの坊主やキチガイにめちゃくちゃにされるということだ。女にまで馬鹿にされるということだ。女は私に危害を加えるので絶対に機嫌を取らない。
世の中には悪に寛容な人間はたくさんいて教祖さまのようになってしまう。人格障害の皆さんは世間に相手にされないからそういう人のところに集まる。植島氏はストーカーに付きまとわれるといっていたがそうかもしれない。悪に寛容だからだ。m山氏も害があるとわかっているegをしつこく続ける。病人を量産し続けている。一体誰の救いになっているというのだ。カウンセラー養成のためのモルモットじゃないか。反社会的行為だと言っても良い。z氏もそんなものを勧めた理由で責任がある。ただそのお蔭で私は自分の問題に気付いた。病人もカウンセラーと称する人間も同類だ。同じ穴の狢だ。どんな解決法も示せない。悪に寛容な人間から一時的にせよ受け入れてもらうと居場所を見つけた気になって癒されることがある。そういうものだ。
自分に危害を加えるもの、損害を与えるもの、その可能性があるものは一切遠ざける。排除する。反撃する。自衛する。カウンセラーも害になるかもしれない。いんちき療法をすすめられて薬を手放せなくなる。休職を余儀なくされる。
一人さんや仕事術の本を読んでいてしんどいのは悪に寛容でないからだ。森田療法がしんどいのは全然優しくないからだ。でも優しいと思っていたz氏が毒を持ったりするからわからない。悪に寛容でないということは自分が追い詰められるので苦しい。悪を認めてくれるのは芸術の世界くらいだ。だが芸術の世界の住人は常識がなく平気で人を傷つけるから付き合わないほうが良い。というか不可能だ。悪を認めてくれる芸術の世界ではひどい目に遭い、悪を認めない実業の世界では悪に寛容だと追い詰められる。どうしたらいいのだろう。でも悪に不寛容と決めたら簡単に実行できるのじゃないか。自分の中に敵がいるのだ。昔は禁欲的だった。でもあるときからだめになった。目標を見失ってからだ。自分の中の悪に不寛容になろう。自分の外も同様だ。
自他の悪に不寛容になる。これで全てうまく行く。簡単にできることだ。悪や馬鹿の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。もう一歩進んで自他の悪に不寛容になる。自分の悪に不寛容になる。これが大事だ。そうすると生活習慣も改善される。不寛容。これが大事だ。ゼロトラレンス。要は馬鹿や悪の機嫌を取らないことだ。そうならなくていいように自分も悪いことをしないということだ。
自他の悪に不寛容になる。自分でも他者でもどちらが主体でも客体でも悪は許されないということだ。悪自体が許されない。当然死刑は許されない。女は正不正で物事を判断しない。グレーゾーンが多いといった。辺見庸の話を思い出した。女はいっぱい悪いことをする。それにつられて男も悪いことをする。だから私も悪いことをしよう。悪の機嫌を取らない。悪を排除する。悪の機嫌を取らないというだけで大きい。正義とか持ち出してもそんなことを考えたこともないんだから無駄である。徹底して機嫌を取らない。これだけで十分である。自分の機嫌を取る。女は100%悪である。そんなものの機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取ればいいのだ。



2006年07月02日(日)

酒を飲んだが、酔えなくて眠れない。週二日くらいでもいいか。悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るんだ。大阪なんか悪ばっかりだ。人の機嫌を取っているからおかしくなる。自分の機嫌を取るんだと考えるとすごく楽になった。世の中がすっきり見えてきた。なんかこの二ヶ月の苦闘が報われて良い方向に向かっていく気がする。非常にはっきり見えるからだ。暴力的な方法でこの問題、私の人生の全ての問題を解決できると確信したからだ。宗教とはある種の暴力だ。暴力を効率的で美しい形に整えることだ。暴力のない社会はありえない。覆い隠そうとしても無視しようとしてもむき出しの暴力を向けてくる奴は絶対になくならない。暴力には暴力しかない。悪には悪しかない。悪の機嫌を取ってはいけない。悪を容認しない。ゼロトラレンス、絶対に許容しない。自分の機嫌を取る。悪の機嫌を取らないと決心すると気が楽になる。余裕ができて自分の機嫌を取ろうと思う。いくらでも働こうと思う。だって余裕ができるもの。この世の暴力的な構造が見えてくる。悪の機嫌を取らないことでそれを回避できる。むしろそれをコントロールできる。自分の機嫌を取ることで余裕が生まれ、外界と自分が一致する。悪の機嫌を取っていたら全てが嘘で永久に一致しないで苦しむだけだ。サディストであれ、暴君であれ。悪の機嫌を取ってはいけない。自分が苦しくなるだけだ。悪の機嫌は誰にも取れない。これからの人生は自分の機嫌を取って生きようと思った。すごく楽になった。人生観のコペルニクス的転回ではっきり、これまでのくだらない問題を一気に解決できると感じた。悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。悪を徹底的に排除する。悪を許容しない。人の倍働く。ツイテルツイテルといつも言う。人はなぜ悪いことをするんだろうと考えても仕方がない。非常に時間の無駄だ。z氏が繰り返し言ったようにそんなことを考える意味は全くない。悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。そうすれば人に機嫌を取ってもらおうとは思わないだろう。自分は人の機嫌を取らないのだから。これだけで大変な労力の節約になっていっぱい働けるから成功に近づく。悪とは何かとか考え出したらもうおしまいだ。どつぼだ。あくは悪だ。排除するしかない。徹底的に暴力的に排除するしかない。自分の機嫌を取れ、そして働け。人の機嫌を取っていたら働かなくていいだろうか。そんなことはない。そんな仕事はない。芸能人だって作家だって身を削って働いている。労働のない社会はない。暴力のない社会はない。ユートピアはない。あくの機嫌を取るからそんなことを考える。自分の機嫌を取れ。
眠れない。加藤フッキー症候群から二か月立ち直れなかった。今ようやく立ち直れそうな気がする。あくが抜けた気がする。悪い膿を出し切ったような気がする。非常に強くなった。悪の機嫌を取らないとかアイムオーケーユアオーケーとか強いメッセージを得た。これは大きい。あの事件がなかったらずるずる行っていたかもしれない。今のほうが良い。悪の機嫌を取らない。これは私の人生に対する根本的な治療薬だ。人に尽くして燃え尽きて、罵られ、反社会的になる。悪の機嫌を取らずに自分の機嫌を取っていればこうはならなかったのだ。でも意志の力で人生をコントロールできるかもしれないと思ったのは初めてだ。そうは思わなかった。悪の機嫌を取らない。これは大きい。自分の機嫌を取る。そうすれば自分は機嫌悪くならない。すごくさわやかな気分だ。絶対あんな悪にもう引っかからない。悪なんか恐れる必要はないし、媚びる必要もないし、機嫌を取る必要もないのだ。悪は悪だ。一生機嫌悪くしていろ。私は自分の機嫌を取って、人の倍働く。人を癒すとは自分がぼろ雑巾のように使われるということだ。馬鹿なことを考えてはいけない。悪の機嫌なんか取っちゃいけない。自分の人生を生きよう。私は親にも言いたい。自分の人生を生きようと。悪の機嫌を取ってぼろぼろになったからといって誰も私の機嫌を取ってはくれない。森田療法を見ろ。きちがいどもが寄ってたかって私を傷つけようとした。所詮キチガイだ。犬畜生と同じだ。フッキーというのは死んだ方が良い。仏陀の言った死んだ方がいい人間だ。生きているだけで害になるから死んだ方がいい。私は悪の機嫌を取らないと固く誓った。自分の機嫌を取って働くと。ツイテルツイテルといい続け、成功すると。どんなに妬んで不機嫌な奴がいても決して相手にしてはならない。自分の機嫌を取っていればいいのだ。自分の機嫌を取って機嫌よくしていれば、機嫌の良い方にあわせてくる。あのババアは人間として最低だ。そんなものの機嫌を取ってどうする。あいつも死んだ方が良い人間の一人だ。人間じゃない。害虫だ。エイズ菌だ。
悪や馬鹿の機嫌を取らないで自分の機嫌を取る。これだけでガラッと変わる。世の中が違って見える。悪や馬鹿の機嫌を取らないで自分の機嫌を取る。自分の機嫌を取るためにツイテルツイテルというのだ。ところでそれは置いておいて、今私に必要なものは休息だ。脳が暴走して休息できなくなっている。フッキー加藤症候群だ。人の機嫌を取るということは苦しいことだ。わざわざ苦しいことは止めよう。苦しいことをすると苦しくなるのは当たり前だ。馬鹿の代表が女でこれの機嫌を取るのは馬鹿の骨頂だ。自分の機嫌を取ろう。私はあのグループは耐えられない。いじめられているのは耐えられない。反撃だ。反撃すればいいだけの話だ。反撃しないから調子に乗る。人の機嫌を取るのではなく自分の機嫌を取るのだ。好きなことをしよう。休もう。本当に休もう。人間はろくなもんじゃない。自分を見ていて思うだろう。そういう風にプログラムされているのだ。どの世界に行っても人間はろくでもない。だから宗教が必要になる。自分の機嫌を取ろう。いじめられたら反撃しよう。簡単な方法だ。馬鹿や悪の機嫌を取らずに自分の機嫌を取る。本当に人間はろくでもない。ろくでなしの機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取ろう。
馬鹿や悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取ろう。今よりもっと休もう。気持ちが休んでいない。環境を変えてみるとか湯治とか良いんじゃないかと思うんだが、その元気もない。その元気が出たら決行しようかな。職場はくそみたいなもので忘れたら良い。すっかり忘れても良い。あんなところは戻る気がしない。絶対に戻らない。悪の機嫌を取らずに自分の機嫌を取る。馬鹿や悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。もっとゆっくり休息する。現実逃避する。田舎暮らしについて考える。全否定する。会社を全否定する。会社にいるから病気になる。
馬鹿や悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。疲れが取れなければもっと休息する。環境を変える。あまりに疲れているときはそれも難しいか。でも家でも絶対安静くらいにする。馬鹿や悪の機嫌をとらないということは私の画期的な考えだ。何の理由もなく馬鹿や悪の機嫌を取ってきたために根拠のない恐れさえ生じてきた。自分の機嫌を取ろう。悪や馬鹿の機嫌を取るのを止めよう。ゆっくり休もう。疲れが取れなければもっとゆっくり休もう。
脳が勝手に暴走するので疲れが溜まる。回復しない。変な症状が出てくる。不眠。ゆっくり休む。疲れが取れなければもっとゆっくり休む。テレビがないと疲れが取れる気がする。体を動かす。一定時間本を読んでみる。悪や馬鹿の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。
ずっと同じことばかり書いている。壊れているのか。でもテレビのない生活はいっそ潔い。馬鹿や悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るのだ。女は全員馬鹿だけど機嫌を取る必要はないということだ。普通そうだろう。誰も女の機嫌なんか取っていない。自分の機嫌を取るのだ。絶対悪の機嫌を取ってはいけない。悪の機嫌を取ると必ず自分も悪になる。そればかりか疲れる。病気になる。自分にないことを強いているからだ。もっと休もう。今も頑張っている。もっと楽にもっと休もう。疲れが取れるまで。
馬鹿や悪の機嫌を取ってはいけないというのは共依存のことを言っているかもしれない。悪は勝手に機嫌が悪いのに自分が申し訳ないような気持ちになる。自分の機嫌を取っていれば、自然と機嫌の良いほうに合わせて来る。私はあの声を聞いただけで脳が凍り付いてしまったので、機嫌良くできなくなったのが悪かった。悪は強制的に排除しないといけない。
馬鹿や悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るのだ。正当防衛の権利を行使するのだ。悪を排除するのだ。悪を排除するのだ。悪を許してはいけない。
馬鹿や悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取る。ツイテルツイテルという。楽になる。休める。人の機嫌を取らないでいいということは楽だ。楽だ。もっと楽になろう。もっと休もう。自分の機嫌を取って働こう。今すぐでも可能だと思う。
馬鹿や悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取る。どうにも疲れる。キチガイフッキー加藤症候群は本当に辛い。ゆっくり休もう。疲れが取れないということはゆっくり休めていないということだからもっとゆっくり休もう。人の機嫌なんか取るから疲れが取れない。自分の機嫌を取れ。
馬鹿や悪の機嫌を取らない。それが働く、生きる第一歩だ。悪の機嫌を取っている限り、自分の人生は始まらない。あのキチガイババアがいるだけで嫌だと言うのはその馬鹿の機嫌を取っていることになる。本当に悪ってこの世にいるんだから、機嫌なんか取ってはいけないんだ。
自分の機嫌を取るって言うのは難しいこともある。でも人の機嫌を取らないで良いんだったらそれくらいはやろう。宗教というのは我慢して少し良いことをやろうということだ。何でも好きなことをやっていいんだったら人間苦労はない。
困ったことは起こらない。あのキチガイババアが暴れ放題暴れたからといって何か困ることがあるだろうか。会社は少なくとも困ることはない。会社が困らないんだったら私が困ることはないんじゃないか。私の給料が減るわけでも会社の業績が落ちる訳でもない。困ったことは起こらない。女とトラぶって困った。本当に困っているだろうか。全く困らない。そこで成長して馬鹿や悪の機嫌は取らなくていいんだ。と学ぶことができる。成長して一段ステージが上がる。誰も女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。なんか相手にしてないじゃないか。困ったことは起こらなくて一段高いステージに上がるべく学んでいるんだと。これは素晴らしい。わきが。困ったことだろうか。全く困らない。こんなことは気にしないという風になれるために学ぶ。一段ステージが上がることなんだ。
私は自分の嫌いな人がいるとパニックになる。そんな奴がいて良い訳がないと思う。口も利かないし、無視する。幽霊みたいなもので認めるわけにはいかない。嫌いな人間を好きになろうと努力したりもする。気に入られようと機嫌を取ったりもする。でも嫌いな人間に好かれて余計に苦しい思いをする。困ったことは起こらない。自分の嫌いな人間がいたとしてそれが困ったことだろうか。魂がワンステージ上がるチャンスなのだ。成長のチャンスなのだ。考え方を変えるときなのだ。学びのときなのだ。問題は解決しない。大概の場合。私の過去は変えられない。しかし、過去に対する考え方は変えられる。それは宗教的だろう。でも宗教は悪いものじゃない。どうしても必要なものだ。私の内心を誰にも認めてもらう必要はないし、告白する必要もない。
困ったことは起こらない。私は休職しているが困ってはいない。私が成長し、ステージが上がっていることが実感できるからだ。病気に焦点を与えても仕方がない。楽しいことをやっていれば自分も幸せになり、人も幸せにできる。困ったことは起こらないと思えば、仕事でも人間関係でも恐くはない。
困ったことは起こらない。馬鹿や悪の機嫌を取らない。困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。私は休職しても病気になっても少しも困らない。魂のステージが今まで何段上がったことか。
馬鹿や悪の機嫌を取らない。これだけですごくすっきりする。私は悪の機嫌を取るために失敗を重ねたように思う。成功するとねたまれるから失敗する。そんな馬鹿な話はない。私だって成功したい。決して悪や馬鹿の機嫌は取らない。自分の機嫌を取る。
困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。私は学んでいるのだ。成長のステージを上がっているのだ。
堺はスラムだ。歩いているだけで不快と不安と恐怖と嫌悪がこみ上げる。気持ち悪い人間とは思えないような奴ら。決して慣れることはない。
困ったことは起こらない。私も今何も困っていない。給料は振り込まれるし、会社行かなくて良いし、食うには困らないし、人に会わなくて良いし、勉強はできるし、遊びもできるし、こんないいことはない。女なんか虫みたいなものだ。虫のことで悩む馬鹿がいるだろうか。バルサン炊けば良い。それは虫の機嫌を取ろうと思うから困る。虫の機嫌を取る奴がどこにいるのだ。虫の事で困る。虫の機嫌を取ろうとする。でもそんなことは不可能だ。で自分が不機嫌になる。こういうことだ。虫は無視。なんちゃって。
困ったことは起こらない。つまり起こったことは理由があって起こっている。自分が成長するチャンスということ。悪の機嫌を取らずに自分の機嫌を取ろう。悪の機嫌を取ることは悪のやることを黙って見逃すとか我慢するとか許すとか言うことも同じだ。悪のやることは一回であっても許してはならない。悪の機嫌をどうして取るのか。自分の機嫌を取れ。
困ったことは起こらないとはある問題が起きても、なんでもない小さな問題だとすることだろう。あいつらは虫以下だ。全く取るに足りない。虫の機嫌を取ろうとするからおかしなことになる。自分の機嫌を取れ。自分の本音を言えばあんなところには戻りたくない。あんな奴らと二度と会いたくないということだ。困ったことは起こらない。楽しい。人生は楽しい。馬鹿や悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。
脳が暴走している。egに行ったせいだ。これを止める方法は薬しかない。悪の機嫌は取らないということが全てを解決してくれる。私がこんな精神状態でもきっと解決する。きっとうまく行く。自分の機嫌を取るということが大事だ。しかし難しい。私に悪が乗り移っているのと、悪が私の機嫌を悪くしようと頑張っているからだ。



2006年07月01日(土)

昨日はまた飲みすぎた。酒量が増えた。例のeg以来脳が暴走しがちだ。これが一番の問題になってしまった。前は一応、臆病で社会性があったのに反社会的になった。悪の機嫌を取らないで自分の機嫌を取る。自分が悪になってしまっている。どんな人生だろう。中卒心、小卒心が必要だ。松下幸之助、斉藤一人、ビルゲイツ、ウォーレンバフェット。学歴なんか関係ない。小卒心でのし上がっている。私に必要なものはそれだ。作家も学歴は不要だ。悪の機嫌を取らないということと、自分の機嫌を取るということを堅く守れば大きな進歩につながる。
うつは良くなったが、脳が暴走してヤンキーに絡まれることが悩みだ。それでも悪の機嫌を取らずに自分の機嫌を取ることによってこの苦境を脱することができる。あのb校なんか今思うと溜まらん。何であんなところに入ったのかわからん。
私は明るくて優しくて親切な良い人だ。愛情豊かで不正を憎み、道徳的で宗教心豊かだ。こういう私のままで生きていこう。悪の機嫌を取って自分まで悪になっちゃいけない。自分の機嫌を取って、機嫌よく働こう。
脳が暴走してゆっくり休めなくなっていることが原因だ。その原因はegだ。対処法は、呼吸法だ。交感神経優位になっているからそういう症状が出てくる。悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るのだ。
悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るのだ。悪の機嫌を取っているうち、悪が心に忍び込む。悪と同一化してしまう。自分の機嫌を取ろう。自分の機嫌はいくら取っても良い。人と付き合いたくなかったら付き合わなくていい。付き合わないほうがいいんじゃないのか。悪の機嫌を取ってはいけない。あいつは悪なんだ。悪の機嫌を取っちゃいけないんだ。自分の機嫌を取ろう。温泉なんか大嫌いだ。
テレビがないのはいい生活かもしれない。大学に入ったとき、文学をやろうと思った。でも両立は難しかった。ただでさえ精神的に参っていたのだ。精神的に参っている人間を攻撃する奴もいる。逆だろう。不登校になる奴の気持ちがわかる。悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取ろう。中卒、小卒主義に帰ろう。一人さんや幸之助を手本にしよう。成功者を模倣することは千の心理療法より有効だ。
交感神経優位の危険な状態にあるので不利益なことを平気でやったりする。これを避けるために、悪の機嫌をとらない。悪を排除する。悪から離れる。優柔不断の態度を見せない。甘い態度を見せない。ゆっくり心身を休めるようにする。なるべく人に会わない。刺激は避ける。間をおく。リラクゼーションに努める。不快なものは避ける。シンプルライフを心がける。小中卒主義。笑顔、笑いを取り入れる。好きなことをやる。自分の機嫌を取る。アイムオーケーユアオーケーを心がける。原田式生活訓練を実践する。
頭の中を整理しないとこの苦境を解決できないだろう。基本的には松下式、斉藤式、原田式のシンプル仕事術で乗り切れる。ただうつの問題や、中学からの逃避傾向をどうするかという問題もあるので慎重に整理する必要がある。あんなババアのことなんか問題ではない。hのことも全く問題ではない。交感神経優位になって誰とでもトラブルになるのは問題だ。これがコントロールできなければ社会復帰はおぼつかない。それと仕事がやる気になるかどうかだ。自分の機嫌をよくすることで解決する気がする。今一時的にフッキー、加藤症候群でおかしくなっているのも事実だ。しかしよく考えるとその前からトラブルが増えている。自分がコントロールできないことによる周囲との衝突。悪の機嫌を取らないことで解決できるだろうか。悪を許容しない。そうすると自分の機嫌を取る余裕が出てくる。あんなババアは全く問題ではない。あんなものは忘れた方がいい。全く私の存在に何の意味ももたない。解決方法を考えなくてもいいということだ。全部自分自身の問題だ。残っているのは。
私の脳が特別おかしいわけじゃない。あいつらは好き勝手なことをやっているから病気にはならない。私はやりたいことを我慢しているから病気になる。病気になったうえに攻撃される。病気になった挙句に攻撃されたら死ぬだろう。殺そうとしているとしか思えない。あんな職場には戻らない。ちゃんと自衛できるようにならないといけない。人に会わないほうが良い。完全におかしくなっている。中学時代からおかしい。大学時代には本当におかしくなった。それ以来まともだったことは一度もない。私が悪いんじゃない。悪の機嫌を取るからだ。自分の機嫌が取れないからだ。私はあの職場には戻らない。戻れるわけがない。人を殺そうとしている奴らのいるところに。
自分の機嫌を取ろう。悪の機嫌を取るのは止めよう。今は人に会いたくない。ドーパミンが出まくっている。正常ではない。テレビなし生活二日目。もう慣れた。ない方が落ち着ける。
私は女遊びが特に好きなわけでもない。道楽が好きなわけでもない。温泉なんか嫌いだ。ローカル線なんかもっと嫌いだ。メンタル的に調子が悪いので諦めたことがいくつもある。作家になること。仕事をすること。結婚して家庭を持つこと。家を買うこと。一人さんの本を読んでがっかりしたことは当たり前のことしか書いていないこと。人の倍働け。そうすれば出世できるってそりゃ当たり前だろうと。それができない人はどうしたらいいんだと聞いている。それには答えがない。成功した平野氏の話を聞いてもとにかくがむしゃらに働くことと運が良かった、つまりついてるということ。ついてるというより時代が周囲がどんどん与えてくれたような気がする。なぜか。よく働くからだ。今最高に調子が悪い。人を見ると怖い。恐い反面腹が立つ。危険な状態といえるだろう。恐くても逃げていれば危険ではない。解決方法は人の倍働くこと。結局そうするためにはどうモチベーションをあげるかという話になる。
不安をなくそうとしてはいけないと。確かにegのあと一瞬不安がなくなったような気がした。でもその後に来たのはトラブルの山だった。不安や恐怖がなくなることはないし、それは逆に危険な状態だということをこの事実は教える。不安だから働く。出世したいという欲があるから働く。それを俺は欲を捨てたよとか恐怖はないよとか行っているとおかしなことになる。病気になる。道理に合わないから、自分に嘘をついているから。不安や恐怖を無視しているから。あのババアは恐怖や不安そのものだ。あのババアを無視することは恐怖を無視することだ。ババアは無視されるのが嫌さに人を恐がらせることを覚えた。それに味をしめてあんな状態になったのだ。あいつこそドーパミン抑制剤を飲んだらいいんじゃないのか。
今までで一番調子が悪い。恐怖や不安は持ち続けたほうがよい。働くモチベーションはそういうものじゃないか。宗教的な理由で働くこともある。それは恐怖や不安から逃れるための働くということと同義だ。
一人さんの本を読んだ。宗教だ。核になる部分は全く宗教だ。でも宗教でも現世的な成功を収めることができるとは素晴らしい。宗教は心の弱い人がすがるものだ。一人さんは少し気が弱い。優しすぎる面がある。おまけに中卒だ。それは不安だろう。でも不安や恐れが納税額日本一にしたのだ。宗教は悪くない。人に悪いことをするわけでも自分を苦しめるわけでもない。人に会いたくない。今は本当に人に会いたくない。宗教にすがるのは良いことだ。西洋人は強力に見えるが全員クリスチャンだ。人に会いたくなければ会わないほうが良いと一人さんも言っている。カウンセラーとは全く無力だ。無力なことを確認するために会っている。今は学んでいるのだ。困ったことが起こっても今まではやり過ごしてきたが、今は学んでいるのだ。天がこの時間をくれたのだ。悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るのだ。
ドーパミンがドバっと出ることは悪いことだろうか。宗教はそういう装置だろう。egは洗脳であってドーパミンがドバッと出ることがこの人間をよくすると神様が思ったから私をこういう風に変えた。それは悪いことではないのではないか。生き残るためにプラスなのではないか。人と会うと馬鹿に見えて仕方がないとか、顔も見たくないのであれば家で勉強していればいい。ドーパミンがドバッと出ているのでいくらでもできる。人に迷惑をかけない上に自分はどんどん成長する。悪の機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取るのだ。悪は排除する必要がある。一緒にいてはいけない。悪の機嫌なんか取らずに自分の機嫌を取るのだ。こうなったそもそもは北原が私にプレッシャーをかけ始めたからだ。それが悪い方に歯車が回り始めた。その背後にはhがいるのだ。だからあそこにいてはいけないのだ。滝にうたれたりするらしい。ドーパミンが出まくっているなあと思う。そうでなければ耐えられるもんじゃない。ステージを二段も三段も上げよう。そうすればあんなやつらのことはどうでもよくなる。
私がやらずにいたことがある。その第一が仕事だ。仕事がしたくないとかじゃなくて仕事はしたい。でも摩擦になるからしなかった。でも摩擦になってもいいから仕事をしよう。欲を持とう。恐怖や不安を認めてそれを原動力にしよう。休もう。今は今までで一番調子が悪い。療法とかやるなといわれた。休むのがいいだろう。自分の機嫌が取れれば働けるようになるだろう。悪の機嫌を取り、自分が気分悪くなるようなことばかりしている。自分の機嫌を取ろう。
本当に機嫌の悪い奴の機嫌ばかり取ってきた。お蔭で自分が機嫌が悪くなった。悪の機嫌なんか取れるものではない。どんなに優しくても無理だ。自分の機嫌を取ろう。ゆっくり休めて夜眠れるようになったら正常だが、眠れない。
悪と馬鹿の機嫌は取らなくていい。自分の機嫌だけ取っていればいいのだから楽だ。今日は今までで一番調子の悪い日だ。でも出かけたら意外に気分が改善した。馬鹿と悪の機嫌を取らなくていいと思ったら楽になった。相手にしないだけでなく、排除する。注意する。攻撃する。これらも当然許されていい。正当防衛だ。一所懸命働くことも正当防衛だ。私は奴隷じゃないのだ。自分が働く権利は自分にある。侵害されたら抗議する。馬鹿と悪の機嫌は取らなくていい。自分の機嫌だけ取ればいいのだからこんな良いことはない。
自分の機嫌を取って機嫌よく働きたい。人の倍働いたら出世できるそうだ。それができないから相談しているんだが。これからは心理療法的なことより、心がけとか常識でわかることを勉強しようかなと思う。私は病気じゃない。大阪で一番まともだ。仕事をゲームと考えるそうだ。私からするとずいぶん大胆に聞こえる。仕事が趣味みたいなものだからそうでもしないとやっていけないだろう。あんな変な奴と一緒に仕事をするのが嫌なのだ。馬鹿の機嫌は取らない。自分の機嫌は自分で守る。もう一つは自分の身は自分で守る。おかしなことをする奴は排除する。当たり前だ。人間としておかしいじゃないか。
馬鹿とか悪の機嫌を取るなんてそんな馬鹿なことはない。自分の機嫌は自分で取る。誰にも機嫌なんか取ってほしいとは思わない。人の機嫌は取らないということと、悪は排除するということだ。悪とは機嫌の悪い奴、強欲な奴、攻撃的な奴、理不尽な奴だ。悪とは戦うという覚悟をすれば恐くない。フッキーだってあんなこけおどしみたいな奴何が恐いんだ。死ね。世の中には死んだ方が良い奴がいるそうだが、あいつはその最たるものだ。商人や女の分際で猛々しく機嫌の悪い奴。訳がわからない。機嫌なんか絶対取らない。自分で自分を守れるからだ。何でそんなものに怯えないといけない。何が恐いんだ。そんなもの。大体謎が解けた。最初に馬鹿の機嫌を取ったとき恐かったか。恐くなんかなかった。だからそいつのうちまで乗り込んだ。今でも何も恐くないのだ。やくざが恐いか。権力から逃げ回っているような奴が何が恐いんだ。これは大きな分かれ道だ。恐れてはいけない。あんなどチンピラ何が恐いんだ。
馬鹿とか悪の機嫌を取ると自分が偉いと勘違いする。これは後々面倒だ。恐くもないのに恐く思えてしまう。自分は自分の機嫌を取る。自分の身は自分で守る。そうすると女なんか全く恐くない。馬鹿や悪と戦い、排除する。そのためにはどんなコストもいとわない。だって馬鹿や悪と一緒の幸せってありえないじゃん。馬鹿は排除するものだ。
馬鹿や悪の機嫌は取らない。だから女の機嫌は取らない。自分の身は自分で守る。何で私が不利益を甘受しないといけないのだ。ふざけるな。馬鹿や悪の機嫌は取らない。自分の機嫌は自分で取る。自分の身は自分で守る。これで私は人の倍働く気になった。自分の身は自分で守って良いのならいくらでも働ける。ついでに言えば何とか療法も馬鹿の機嫌を取ることだ。何で金払って馬鹿にされたり、いじめられないといけないんだ。あほじゃないのか。馬鹿は馬鹿悪は悪、機嫌なんか取らなくていいのだ。自分の身は自分で守るのだ。
何で馬鹿や悪の機嫌を取らないといけないのか。馬鹿や悪が勘違いする。馬鹿は馬鹿。悪は悪だ。自分の機嫌は自分で取る。人と仲良くしないといけないということではない。自分の身は自分で守る。この世が平和じゃなくても結構だ。不正が横行していても結構だ。自分の身は自分で守る。
馬鹿や悪の機嫌を取ることをやめるとすごく具合がいい。やらなくていいことをやらないのだから余裕が生まれる。それと思ったとおりに行動していいのだ。自分の身を守るために必要であれば人を殴ってもいいのだ。殺しても死刑にはならない。
何とか療法のやつらは全員キチガイだからそんな奴らの機嫌を取ることは愚の骨頂だ。自分が働いて出世したいと思えば働くんじゃないのか。
この世は安全じゃない。特に大阪や堺は全く犯罪者の巣だ。スラムだ。まともな人間は一人もいやしない。
馬鹿や悪の機嫌を取ってはいけない。自分の機嫌を取るとうまくいく。悪の機嫌を取ってはいけない。
テレビがないと退屈だ。やっぱりテレビを買ったほうがいい。自分の身は自分で守らないといけない。暴力は良くない。でもそれ以外の手段は使っても良い。あらゆる手段を使って自分を守らないといけない。あのくそババアは私の限界を超えている。全く信じがたい。変えてもらえばいいのだ。それしかない。自分の身は自分で守らないといけない。馬鹿の機嫌は取ってはいけないのだ。馬鹿や悪は受け入れてはいけないのだ。数段高いステージに立たないといけない。馬鹿や悪は排除しないといけない。自分の機嫌を取ろう。あの馬鹿のことは忘れていいんじゃないか。egに行って以来脳が勝手に暴走するようになった。何とかコントロールする方法はないか。呼吸法か。ヨガか。合気道か。今はゆっくり休もう。暴走するまま収まるのを待とう。
馬鹿や悪の機嫌を取るのは止めよう。この問題は解決済みだ。私の精神は成長した。ババアもヤンキーも恐くない。受け入れる必要はないし、機嫌を取る必要はない。機嫌を取らないといけないとどこかで思っている。だから機嫌を取らないと罪悪感を感じる。そんな馬鹿なことはない。何で馬鹿の機嫌を取らないといけないのか。何であんなくそみたいな奴らのために悩まないといけないのか。あんなものは人間じゃないのだ。機嫌なんか取る必要はないのだ。自分の機嫌を取ろう。
馬鹿や悪やババアやブスの機嫌を取る必要など全くないのだ。ヤンキーとか。何でヤンキーの機嫌を取らないといけないのか。全くわからない。自分の機嫌を取ろう。悪の機嫌を取るとなるとsmとかそういうことにもなる。悪の機嫌を取るのが全ての間違いだ。これは暴力的排除によって避けることは可能だ。この問題は完全に終わりだ。


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