希望の日記

2006年03月31日(金) 今日

今朝早く目が覚めたが、呼吸が浅く息も絶え絶えと言った有様だった。酒を飲むとこうなるのか。それで呼吸法を思い出してやってみたら楽になった。ヨガも太極拳も呼吸法だ。人間は恐い。女が嫌いなら嫌いでいいのだと気付いた。嫌われても全然okだし、嫌いになっても全く構わないと気づいた。私は行きずりの女や初対面の店員にまで馬鹿にされたり、いじめられたりする。平日の昼間にふらふら歩いていると、変な目で見られたりする。嫌われても良い。嫌いになっても構わない。そう思うとすごく楽になる。もちろん、嫌いにならなければならないわけではないから、好きになってもいいが、嫌われているのを好きになってもらおうと努力したり、大嫌いな奴を好きになろうと努力したりする必要は全くない。嫌いになることは不幸なことでもなんでもない。当たり前のことだ。好き嫌いでこの世が動いているわけじゃない。
ただ嫌うのは構わないが、嫌いというのは恐いと言う感情と結びついている。いじめられたとか嫌なことをされた、いわれたとか言う経験が元になっている。でもそういう奴らだ。というか哀れな奴らだと言うことを忘れてはいけない。人間は全て自分も含めて死すべき哀れな生き物だ。男も女も老いも若きも、大人も子供も哀れな存在だ。そう考えたら怒る気にもならないだろう。嫌ったりすると人間が小さいから余計に色んなことをしてくる。本当に始末に終えない。
嫌いでも仲良くすることはできる。ブスとかおばさんは嫌いだけど仲良くしておくと何かと好都合だ。逆に敵に回すと恐い。私のように休職に追い込まれる。哀れな奴らだ。哀れみさえ忘れなければ怒りは湧いてこない。
今朝起きたときはどうなるかと思ったが、結構調子が良くなった。むしろ、好調すぎるくらいだ。疲れているから休んだ方が良い。誰も恐くない。今は絶好調だから何でもできる。悪いことをするわけではない。良いことをしよう。人に親切にしよう。誰でも困っている。誰でも窮している。生まれたときは一人で生きていくことさえできない哀れな存在だったのだ。そしていろんな人に世話になりながらやっと大きくなったと思ったら、年老いて人の世話になる。いつも人は窮している。だから親切にしてやれば良い。私も窮しているから親切にして欲しい。今窮しているのに、蔑まれたり、いじめられるのはたまらない。そういうことをしてくるのは必ず女だ。でも恐がる必要はない。女ほど哀れな生き物はない。大人になっても一人では食べていけないのだから。全く問題にならない。相手にしてはいけない。適当にあしらうことを覚えないと。好きになる必要はさらさらない。適当に相手にしてやるだけでいいのだ。
大体見えてきた。私がやるべきこと。進むべき方向。宗教が必要なこともわかってきた。宗教的な気持ちに導かれればできることは山のようにあり、私も成長し、人の助けにもなり、物心両面で豊かになる。あの和尚はそうやって豊かになったのだ。見習うべき点が多い。意識して善行を積もう。悪いことをすることを意識して止めよう。考えることも止めよう。今からでも遅くない。人相が悪くなっている。今から回復していくにつれてやっぱり、忙しくエネルギッシュにスピーディーに活動するのが良い。緻密に勤勉に日本人のように働くことが一番望ましいとはっきりわかった。作家だって遊んでいたらなれないことは明らかじゃないか。学校に通ってちゃらちゃら人と仲良くしたいなんていう根性では小説家にはなれっこない。自分を追い込む必要はさらさらないがやる以上は良い仕事をしよう。これは宗教的な決心であって、世俗的な義務ではない。ではないとは言い切れないが、宗教的な重みの方が圧倒的に大きい。
 今日は調子が良いのか悪いのかわからない。気持ちが良いのか悪いのかわからない。頑張れるときは頑張った方がよい。でも頑張れないときは休んだ方が良い。悪いことをしてしまう。小さい頃からだ。どんな友達とであったとかじゃなく、もともとそういうところがあった。もちろん、男の子だから悪がきとか、腕白とかやんちゃとか言うのは何も珍しくない。でも私は気の弱い女の子みたいなところもあるから、そこのバランスが良くないようだ。そんなことはもうどうでも良くて解決済みだ。中年になるということはそういうことだ。危機であると同時に問題が漸く解決されるときなのだ。
 自分にも人にも優しくしよう。そうするとぐっと楽になることに気付いた。それが本来の性格だからだろう。生き抜くために悪を覚えていく。今は必要ない。
 朝ばてばてだったのが、呼吸法でよみがえり、何かが見えてきた。酒でリラックスできたのでかえって良かった。やる気が湧いてきた。良い人でいられそうな気がした。人に親切にしようと思った。良いことをしようと思った。
 自分が神のような気がする。というかこの世の人は皆神として生まれてきているのだと思う。皆神だ。自分も神だ。神である以上、安心して生きてよい。



2006年03月30日(木) 今日

 昨日はk和尚と飲んだ。余り盛り上がらなかった。私の調子が落ちているからだ。きっとまた上がるはずだ。今までもそうだった。風見鶏のように不安定であるが最後には落ち着く。私は良い人間だ。
 悪いことをしてしまう癖がある。これは癖で悪気があるわけじゃない。性格が心底悪いわけでも、生まれつき極悪人でもない。でも良いことができないで悪いことばかりしてしまう。もう大人なんだからそれだけは止めよう。そして大人らしく良いことだけをしよう。良いことをしていればいつか報われる。報われなくてもいいじゃないか。京大でカール博士が言っていたじゃないか。人のために何かいいことをしてあげることはそれだけで幸せじゃないか。死ぬときに良かったと思い出すのはそういうことだと彼は言っていた。これは誰も反論できない。人に親切にしてあげたこと、人から親切にされたこと、それだけが大切な思い出だ。それでいいじゃないか。
 今日は昼から堺浜シーサイドステージと言う施設に行って来た。面白かった。とんでもない荒涼とした広大な土地に巨大なショッピングセンターができていた。ケーズデンキでホットプレートを衝動買いした。これはいいだろう。今日焼肉がしたかったのだ。こういう衝動買いなら許される。私はそれほど異様な精神状態ではない。躁状態などではなく、ちゃんと正気だ。ただちょっと無駄遣いが多いので収入と支出のバランスをこれからは考えよう。節約の前に無駄遣いを抑える。それから節約だ。そして欲しいものはしっかり買う。今までは欲しいものでも絶対に買わなかった。幸せが恐いのだ。自分が幸せになってはいけないと思い込んでいるのだ。理由はわからない。気が弱いのか。結婚して子供を作れば幸せになれるのになぜ拒否する。そこがおかしい。ただただ生きることに、人に怯え、引きこもる。馬鹿じゃないのか。もうそれは止めよう。幸せになろう。hとかkとかは私が幸せになってはいけないと言うオーラを出している。自分は幸せになっているんじゃないのか。どうして私が幸せになってはいけないのだ。
 ホットプレートは良い買い物をした。私が欲しがるものはそれなりに理由があるのだ。ノートパソコンでもミニコンポでもipodでもそれなりに欲しい理由があって無駄遣いではない。dvdレコーダーでも本当に重宝しているじゃないか。今私はさえている。今が書き入れ時だ。勉強しても遊んでもいくらでも身につき、役に立つ。スポーツをすればあっという間に身に付き、上達するし、とても楽しい。今すべてのことをやってもいいのだ。
 ホットプレートは良かった。今までに食った中で一番うまい焼肉ができた。こんな簡単なことで幸せになれるのだ。勇気を出そう。どうしていつも不幸でないといけないのか。全くわからない。幸せになろう。人に親切にしよう。
 それから今日出かけるバスの中で思ったが人に好かれなくても良いし、人を好きにならなくても良い。これに気付いたとき、とても楽になった。どうしても自分を嫌っている人間に好きになってもらわないといけないのか。そんな理由はないと気付いた。また人を好きにならないといけない理由もないということに気付いた。会社はまた学校はそんな酷なことを要求はしていないと言うことに気づいた。教師を好きになろうとしていたのだ。好きでなければ従ってはいけないと思い込んでいたのだ。全然嫌いでokなのだ。好かれる必要もないし、好きになる必要もないとは何て楽なことじゃないか。私は道行く人にまで全て好かれようと無意味で不毛な努力をしていたと言うことだ。あのババアが嫌いなら嫌いでいいじゃないか。嫌いと言う態度を思い切りだし、やられたらやり返したらいいじゃないか。誰でもやっていることじゃないか。



2006年03月29日(水) 今日

 今日は午前中スポーツクラブのプールに行った。良い運動になった。水中ウォークだけでかなり良い運動になった。それから平泳ぎのクラスに参加してみた。とても面白かった。スポーツは面白い。仏医師の代替医療の本を読んでいるとEPAや運動が良いと書いてある。ペットもいいそうだ。このマンションはペット禁止だがハムスターくらいはいいだろう。この四十代の前半は一体何をしていたのだろう。全く無駄にして、年だけ取ったので自分の年が信じられない。まだあのキチガイが来る前の三十代のような気がしてならない。失われたときを取り戻したい。順調に生きてきた人はそんなことを思わずにいられるだろう。四十代の前半をリセットしよう。そして若々しく生きていこう。
 女に嫌われても良いし、誰に嫌われてもいいのだ。何で女に好かれないといけないのか。全くわからない。どうしたら女とうまく行くかなんで考えないといけないのか。全くわからない。向こうも何で私に好かれないといけないのかと思っているから、不愉快な行動に出るのだろう。だったらこちらも同じじゃないのか。何なんだ。ババア。死ね。死ね。オーストラリア人。死ね。一生その孤立した大陸にいろ。



2006年03月28日(火) 今日

 今日はピースボートの説明を聞きに大阪事務所に行った。行く気が薄れているので聞く方も身に入らず、説明する方もそのようだった。それなのに申込書にサインしてしまった。九月まで十分間があるので一応押さえておこうと思ったのだ。実際、七月のクルーズは満席になっている。ただ11月出発だと帰ってkるのが2月になるので一年は休むことが前提になる。私がババアが嫌いな理由は理由もなく攻撃してくるからだ。喧嘩売ってくるなら買ってやる。何で女が嫌いって理由もなく攻撃してくるからじゃないか。当たり前じゃないか。ワキガだったら攻撃していいのか。女なんかくそみたいな哀れな奴らじゃないか。何で恐がる必要があるのだ。反撃してしてやればいいのだ。犬畜生みたいな奴ら。犯罪者じゃないか。殺したっていいのだ。
 私は絶対あの職場には戻らない。あのegでもばばあともめたじゃないか。どうやったらうまく行くってうまく行く訳ないじゃないか。
 私はピースボートなんか行っても居場所がないと思うし、楽しくない気がする。それでも行くと言うのであればいいが。楽しむ力がないんじゃないか。うつだし、ババアが何で嫌いかと言うと上からものを言うからだ。女も同じだ。何で上からものを言われないといけないんだ。何を偉そうにしているんだ。犯罪者め。あのババアが何が嫌いと言って話しかけてくることと、偉そうにすることだ。何で偉そうにするんだ。何で暴力を振るうんだ。
 問題は解決済みだ。何を我慢する必要があるのだ。ババアはババアじゃないか。皆嫌いじゃないか。ヤンキーだって皆嫌いじゃないか。何が悪いんだ。不愉快だからだ。危険だからだ。当たり前じゃないか。ババアが。死ね。
 今日、電車の中でババアに失礼なことをされた。完全に頭おかしい。あんな哀れな奴ら。馬鹿でキチガイで無能で無知でスケベであほで最低の奴ら。何で恐がる必要がある。死んだらいいのだ。
 何でババアなんかのことで悩まないといけないのか。何でババアと一緒に働かないといけないのか。何でババアと同じ空気を吸わないといけないのか。いい加減にしろ。この間まですごく気分が良かったのに、今はそうでもない。波がある。昨日は本当に疲れていた。消耗しきっていた。今日は少し回復した。何かこんな境遇だから馬鹿にされているような気がして仕方がない。そんなことはどうでもいいのに。全くどうでもいいのだ。ババアが嫌いなら嫌いでいいのだ。あんな嫌なものなんで好きにならないといけないのだ。嫌いと宣言すればいいのだ。本当に嫌いなのだから。何の理由もなく攻撃してくる奴を何で好きになるのだ。



2006年03月27日(月) 今日

 京都から帰ってきた。いつも疲れる。京大で二日間セミナーを聞いていたら本当に疲れた。行く前に疲れていたが、本当に疲れた。でも面白かった。理系の人は本当に自由だ。学問もやる方はきついと思うのだが、聞いている分には面白い。泊まったホテルはきれいでまあまあだった。疲れているといらいらしやすいのだが、それも限界を超えるとどうでもよくなる。怒る気力もなくなるのだろう。駸駸堂にも行ってみたがやっぱり場違いだった。どこに行っても場違いだ、私は。ワキガだから人の集まるところに行くと嫌がられる。それでも行かないわけには行かない。
 本当に疲れた。でも今は吸収できるときだから頑張って働こう。私は出社していた頃よりずっと働いている。今まで何もせずに生きてきた。これからは何でも好きなことをして生きて行こう。女との問題は何もない。女なんか全く馬鹿でキチガイでスケベで無知で無能で嘘つきで無力で哀れなつまらない奴らだ。そんなことは明らかだ。哀れな奴らなのだ。そこを見誤ってはいけない。どれだけ哀れでつまらない奴らか。だから張り合おうと言うのなら張り合ったらいいんじゃないのか。私は矛盾するメッセージを送っているのだと思う。仲良くしないのなら張り合うことになるのだ。私は女と仲良くしたくない。嫌いだからだ。



2006年03月26日(日) 今日

 今日は天気がよくない。京大の心理学セミナーに行って来る。泊りがけでゆっくりしてこよう。自分のやったことをあれこれ後悔するのは止めよう。そうするべくしてそうしたのだ。私と女の問題は終わった。と言うか何も問題など何もない。幻だ。全く考える必要などないことだけはきわめてはっきりしている。女は哀れな存在だ。馬鹿でキチガイで弱く嘘つきで、依存的で隷従状態にある。男も同じようなものだが、女は決して自由でも強くもない。それを恐れるなんて、饅頭恐いと言っているようなものだ。



2006年03月25日(土) 今日

 今日も良い天気で行楽日和だ。昼からカウンセリングのセミナーだ。私がカウンセラーになるわけじゃないが。日記に書きすぎたかな。あっちの方の日記に。少しセーブしよう。朝からインターネットのavばかり見ている。頭がおかしくなる。猿じゃないんだからいい加減にしよう。
 昨日花ちゃんにも話したが、体本位で行けばうまくいくのだ。女は弱くて馬鹿だ。だからまともに相手にする奴はいない。どうして相手にするのかがわからない。馬鹿じゃないか。キチガイじゃないか。弱いじゃないか。無能じゃないか。無力じゃないか。何言っているのかわからないじゃないか。何でそんなものを恐れるのだ。子犬に怯える和田アキコみたいなものだ。
 人を信じることは大事だ。疑い抜いて騙されるリスクは最小にするのはいいがいったん信じれば信じる。信じることは価値のあることだ。自分のためになる。人を疑い続ければその人間からはおよそ何も得られない。信じてくれる人間には人はいいことをしてくれる。信じることは最大のストロークだ。
 今日はしんどかった。カウンセリングサービス会社のワークショップに出たが、ぎりぎりっぽい内容だった。洗脳と言うか集団催眠と言うか、危険なにおいがして、参加できなかった。前にも出たことがあるから問題ないと思うが、調子が悪かったので、大事を取った。泣かせる音楽なんか流してちょっと安易なところもある。でも言いたいことはよくわかった。宗教的な内容だ。それがいいかどうかは別にしてヒントにはなる。誰かのために何かをしてあげることなど久しくない。濃密な人間関係がだめだからだ。でも人を信じることは大事だ。今日は人を信じることができないモードだったから、見返りも少なかった。ローリスクローリターンだ。リーダーシップの一つの仕事は人を信じることだ。自分より10歳以上も若い連中が礼儀正しく日本人的なのが、驚いた。ついていけない。例えばあのおばさんも宗教的なのかもしれないと思った。夫や子供のために人生の大半を費やすと言うのは宗教的でないとできない。それを押し付けられそうになってパニックになった。自分はまず自分だろうと思った。リーダーシップを取ると言うことは自分から状況を変えていけると言うことだと言う。それはいいことだ。女は哀れな生き物だ。それは時代が変わろうと変わることはない。それは人間が哀れだと言うことと同じだから変わることはない。
 女と私の問題はすっかり終わっているので全くもめることはない。女は哀れな存在であって、私と何か関係してくることはない。全く哀れな奴らだ。馬鹿でキチガイで無力で無能で無知でどうしようもない。それだけのことだ。女ともめるとか何か問題があると考えるのは間違いだ。完全に私の勝利で決着したと言って良い。それだけのことだ。



2006年03月24日(金) 今日

 今日は朝からパソコンのavサイトに接続して契約した。とても楽しかった。世界がどんどん広がっていく。変なサークルからドタキャンしたとかいうわけのわからん理由ではねられた。これだから女は嫌いだ。本当に大嫌いだ。b校に行ったときも本当に嫌だった。本当に嫌いなんだからそれでいいんじゃないのか。好きになる必要なんかどこにある。本当にそう思った。女なんか大嫌いなんだ。恐怖条件付けが成立していると。だからといって好きにはならない。サークルとか行っても一度も楽しかったことはない。理由は女がいるからだ。アッシュとかm川とか行っても女がいるためにリラックスできない。楽しめない。もう二度と行かない。高校のときも女がいるので楽しめない。大嫌いなんだ。女が。悪いか。男嫌いの女だっているじゃないか。女とはうまく行かない。好きじゃないから。体は好きだ。大好きだ。
 昨日の夜は気合が入った。何でもできるような気がする。確かに今までできなかったことが次々にできている。世界がぐっと広がっている。まだまだできることはいっぱいある。全部やるぞー。
 今の私の調子から行くと女なんか全くどうでもいい。何で女の機嫌なんか取らなきゃいけない。いい加減にしろ。普通にしていたらいいのだ。b校でも私は全然関係ないのにチューターと一緒になっていじめられた。関係ないだろうと。主導権争いなんか文学と何の関係もないじゃないか。頭おかしいんじゃないのか。境界例の巣だ。私もつられておかしくなった。今日は部屋でずっと過ごしている。飲みすぎたわけじゃないが、あの健康食品のせいかよく効いた。眠れなかったし。女のことなんか今全く考える必要はない。これからもきっとないだろう。何で人にいちいち気に入られないといけないのだ。いい加減にしろ。いつでも自分のみを守ることができるのだ。
 人を信じると言うのは大事だなと思った。人を信じるときのみちゃんと意味のあることをしゃべれる。今日歯医者で初めての女の歯科衛生士だったが、ちゃんとしていた。この間の変な女じゃなくて良かった。そのときその女を信じることができたように思う。信じることができないので恐いと思う。信じることができない人間の側にいることは大変苦痛だ。それが結局モラハラということになる。花ちゃんでもこの間までは余り信じていなかったのだが、今回は私のことをほんとに心配してくれているんだなと信じる気になった。そうすると話していても楽しいし、安心する。信じると言うことは安心して心を開けるということだ。信じていなかったら、心は開けない。それで開くと言うことは無謀だ。
 女は強いと言っても弱い。体力精神力は強いかもしれないが、社会的地位はまだまだ低い。社会参加したくてもできない人の多い。子供生んだだけで退場を強いられる。女は弱いと思うことだ。実際弱いのに恐いとか嫌ったりするのはおかしい。



2006年03月23日(木) 今日

 今日は午後からまた神戸に行ってくる。年を取ったら神戸に住みたい。楽だ。芸術的な生活が可能だ。朝から事務処理をやっている。なかなかはかどらない。昨日くらいから元気がない。またうつ状態か。
 楽しい。気合がはいる。なんでもできる気がする。今日は神戸に歩き遍路の説明会に行ってきた。神戸の人は独特だ。何か普通の人も芸術的に生きている。しかも肩の力が抜けている。贅沢な生き方をしている。関西弁も気にならない。横浜ほど気取っていない。年取ったら神戸というか阪神間に移住しようか。懐次第だから、金ためないと。
 b校のあの女どものことを思い出して腹が立つ。あのチューターが女みたいな奴だから余計腹が立つのだ。何か我慢しないといけないことでもあるのか。馬鹿馬鹿しい。いい加減にしろ。俺は女なんか大嫌いだ。何が悪いんだ。



2006年03月22日(水) 今日

いっぱい不愉快な思いをした。朝はスポーツクラブに行った。昨日から何か調子悪い。あのb校の奴らのせいだ。可愛げがない。最初にこのクラスに入った瞬間に感じたことだ。誰も味方がいないという。ツッキーも私の敵に回った。女だったのだ。女は性質が悪い。あの坊主も女の味方だ。馬鹿じゃないのか。私が腋臭だろうがなんだろうが、何も悪くない。肩身の狭い思いをすることはない。歯周病だろうがなんだろうが、関係ないじゃないか。差別じゃないか。世の中は暴力だと思った。あの女も暴力的だ。女が暴力的じゃないなんて幻想だ。私が人から身を守れるのは法律や道徳ではなく、暴力だ。自分で自分を守れなかったら誰も守ってくれない。腋臭だろうが歯周病だろうがインポだろうがお前に関係ないじゃないか。死ね。暴力だけが身を守るだろう。
 私はつくづく良い人間だなと思う。私の家族が機能不全家族だったことは間違いない。全部自分が悪いと考えていたが、悪い子供なんていない。結局家族の歪みが私にしわ寄せになったのだ。それと遺伝と。そんなこと自分ではコントロールできないだろう。宅間はまだしも宮崎はあんなふうな自分になったことに責任があるとは思えない。同情とは違う。自分が宮崎だったら、責任はないと感じるだろうと思う。知らない間にやってしまっていたのだ。だから私は自分が悪いなんて思わない。昨日もエピナールとか行っていじめにあった。余りで歩かない方が身のためじゃないのか。私の居場所なんかあるわけないのだ。家で本でも読んでいたほうが良い。医者はなるべく外出しろという。できるだけ人のいない所に行き、そこで寛ごう。私が仮に境界例だったとしても何一つ私には責任はない。だから自分を責めることはない。むしろ助けを求めることだ。今日は病院で何かの測定をした。リラックスしたときの脈の状態を見るのだろう。それともいすに仕掛けがあるのか。
 昨日までおかしくてハッピーだったのにあっという間にうつみたいになってしまった。またスポーツクラブに通い、体本位に戻ればOKだと思う。スポーツに励もう。めんどくさいこと考えなくて体本位で行こう。体であれこれ考えたことは全て無意味だ。やられたらやり返そうとかそんなことは決めなくてもいい。やりたいときにやればいい。でも絶対のやれないと考えるのはおかしいだろう。私は少しも悪くない。全く悪くない。
 いずれ回復するだろう。ノーストレス状態であれば悪化することがないから、簡単に回復する。今までもそうだった。体で直そう。スポーツクラブに通おう。楽しい。私に何一つ落ち度はないのだから自分を責めることだけは止めよう。ワキガだからといっていじめられるのは私が悪いんじゃない。仲良くなんかできないしその必要はない。暴力だけだ。世の中は暴力だ。



2006年03月21日(火) 今日

 今日は疲れた。よく眠れたが熟睡感がない。体を動かした方がよい。今日はあいにくスポーツクラブは休みだ。やる気がなくなってきた。修了集会は嫌な後味が残った。あの嫌味なババア本当に腹が立つ。最初の瞬間からそうだった。恐怖条件付けが成り立っているという。顔を見るのも嫌だ。女の。嫌なことをされたらしたらいいのだ。女なんかみんなキチガイじゃないか。キチガイが。絶対に一緒にいるのは嫌だ。
 中途半端がいけないんじゃないか。女なんかひっぱたいてやればいいのだ。弱い生き物だ。有名中学に受かった男の子にメールするように促す母親。それに従う娘。何て弱い生き物なんだ。そんなものを恐れるなんて馬鹿じゃないのか。
 私の恐怖条件付けにしろ共依存にしろ、境界例にしろ、理由がある。説明可能な理由がある。それにほとんど気付いてきた。それを耐えやすいように改善する方法もある。
 今考えているのは私の反応振りを見て恐怖から攻撃する女には反撃する用意がなければならない。そういう心を持つと全く恐くない。女なんか。そうしたうえで友好的な態度の場合だけ受け入れるという当然の態度を取るべきだ。
 長崎堂という喫茶店で開かれた催し物に行って来た。嫌がらせを受けた。大体どこに行ってもそうだ。断固立ち上がらないといけない。中学時代から自分が守れなくなった。まず教師が私をいじめてきた。最初のモラハラは教師だった。小六のとき。暴力なんか恐くない。日本は法治国家だ。暴力なんか恐くない。暴力を受け入れる理由なんかない。断固立ち上がらないといけない。小六のとき、いじめにあったが抵抗する術がなかった。大体いつも居心地が悪かった。家庭であれ、学校であれ、居心地がよかったことはない。今回のb校でも余り楽しくはなかった。何であんなのに付き合わなくてはいけないのだ。私は今まで集団の中で楽しかったことはない。小中高大学、企業を通じて一度も居心地がよかったことはない。だから居心地が悪くても気付かないのだ。でも今回だけはおかしいと気付いた。立ち上がらなければいけない。
 大体小三くらいから嫌だった。学校行くのが。いじめに遭って。嫌になった。それが小六の頃、うつになって現れて、中学になって不登校、遅刻になって現れたのだ。それから境界例の道をまっしぐらだ。
 多分たいていの人間は何かを引きずって生きているのだろう。引きずりすぎる人間は芸術家になるか、病気になる。私は自分が何かを引きずって大きくなったことにやっと気付いた。それに苦しめられてきたのであって、私は何も悪くないということ。迫害されたり、暴力を受けたりすることはない。あんな催し物には行かない方が良かったのだ。
 暴力は良くないが、暴力的な方法はokだ。体を使うことは暴力とはいわない。体本位であることはいじめの犠牲者にならないことを意味する。会社を休むことはある意味暴力的だが、最も効果がある。好き勝手にしていい。本当に自由だ。恐怖条件付け。これを解除できるだろうか。smは本当にそれと関係ないだろうか。私はあると思っている。でも全て良い方向に向かっている。どんどんいい方向に進んでいる。もう一息だ。
 嫌なことは嫌という意思表示をすることが大事だ。自分がそれをできないと人がそれをすることが許せないというおかしなことになる。意思表示をすることは大事だ。



2006年03月20日(月) 今日

 昨日はb校の修了集会があった。やっぱりあのおばはんが嫌味な態度を取って難儀した。私は嫌味な態度には当然嫌味な態度で応じるということにしたので問題はなかったが。女が私は嫌いだ。一昨日の飲み会でも女がいるだけで不愉快な気分になる。姿を見、声を聞くだけで不安になる。恐怖条件付けが成り立っている。体に依拠するだけでそういう問題はなくなるか極小化する。
 私の中に悪があるといってもそれは当たり前のことだ。誰の中にもある。そして悪に抵抗することもできる。悪に対しての抵抗力を持った上で、それをめったに行使しないということが大事だ。刀を持っていてもめったに抜いたりはしなかった昔の侍と同じだ。刀を持つのを止めるかというと止めなかった。それと同じだ。絶対に抜かないということではない。体に聞いてみることだ。あの最初の文校の日にもめたことは今でも変わりはないのかと思う。でも日に日によくなっている。このまま行けば十分回復できる。今まで経験したことのないところまでいけそうな気がする。体本位で行けば混乱することもないし、悪とか善とかいう悩みも出てこない。全てうまく行く。時間の問題だ。
 緊張しすぎるのがよくないところだ。緊張が不釣合いに大きくいつまでも持続し、人と打ち解けるということがない。でもそんなこともないことに気付いた。自分の思い通りに行動しても全く混乱を引き起こすわけではなく、ごく自然に進んでいく。それは私がそれほどとっぴな人間ではないからだ。いつもそんなに緊張する必要はない。



2006年03月19日(日) 今日

 昨日はM氏のグルメ会に参加してきた。楽しかった。私の周りに女は来なかった。年だし、貧乏臭いし、病的な感じがする。それは近寄らないだろう。でも近くに女がいないことは、私は落ち着いていられるからOKだった。私のテーブルは石油の卸、運送会社の社長、なぜか奇遇にもタンクローリーの運転手、若き歯医者さんだった。愛すべき奴らだった。向こうがそう思ってくれたかどうかは疑わしい。私は境界例でうつ状態を脱し切れていないから、一目でおかしいとわかったようだ。この間宮崎の精神鑑定書を読んだとき感じた、安心感。宮崎は明らかに精神を病んでいるが、了解可能な哀れな人間だと直感されたこと。人は決して怪物ではない。そう感じて安心したのだと思う。
 私もよくおしゃべりできた。不思議なくらい口が動いた。私は不必要に緊張しやすい。だから必要以上に疲れる。大げさだとか両極端だといわれる。遊びの世界がなぜいいかというと誰も傷つける心配がないからだ。もちろん節度を守った上でのことだが。何事もやりすぎはよくない。社長の話はとても面白かったし、タンクローリーの運ちゃんのやさぐれた感じは実に愛すべきであったし、歯医者先生のノーブルでシャイで謙虚な態度は学ぶべきものが多かった。ただ女とはやっぱり一言もしゃべれなかった。今の状態では無理だと思う。無意味に女を傷つけ、結果女を怒らせ自分も傷つけられるだろう。だから近づかないのが一番だ。
 最近疲れ気味だ。ちょっとペースダウンして体調をコントロールしよう。どうしてもやりすぎてしまう。コントロールが利かなくなって、結局自分を台無しにしてしまう。
 体が大事だということでカウンセラーのk氏と意見が一致した。恐怖条件付けというパブロフの犬みたいなものが私に起こっているそうだ。そういえばz氏にも同じことを言われた気がする。でもそのときは自分のことじゃないような気がしてピンと来なかった。だからどうしろというのだという気持ちになった。彼はフォーカシングを勧めてくれた。多分同じ体へのアプローチという点で最善の方法だったと思う。でも私はフォーカシングにどうもなじめなかった。というか飽きっぽく集中力の持続しない私はそれさえも満足にできなかったのだ。今、ヨガとかスポーツとかに凝っている。多分こちらの方がファッショナブルなので、続ける動因が強い気がする。手軽だ。内面を凝視するという辛い作業を強いられないことが何より良い。
 私はモラルが欠けている。どうしてそうなったかははっきりしないが、職業モラルなんか全くない。社会に出たときからというより、大学に入ったときから全くモラルもモチベーションもなかった。それは私が精神的に重大な問題を抱えていたからであって、私を責めるのは値しない。今でも事情は変わらない。
 私は自分の罪の大きさを十分認めるべきである。私は少なくとも今まで善悪の区別が付かず、悪いことばかりやってきた。その罪の大きさを十分に反省し、二度としないと誓うならば、やり直しは利くと思う。それは倫理的な問題であろう。精神医学的な問題というよりは。ほとんどの人間はそれくらいの危うさを抱えている。人間は生きているだけで既に窮している。君子もとより窮すと孔子は言ったが、全ての人は生きるために常に窮している。走り続ける自転車のように止まれば倒れる。だから精神障害を理由に遊んでいる暇はない。体に戻ることだ。m氏のことが漸く理解でき、なぜ人がひきつけられるか、わかった。彼はネオテニー的風貌だった。直感的にそう感じた。頭が良いのは人類の中でも進化の進んだタイプだからだろう。頭が大きくて幼児体型のかわいらしい風貌。でもサディスティックなお坊ちゃま君タイプ。スポーツと芸術に生きよう。そうする資格がある。
 私は良い人でいいんじゃないのか。と思った。良い人以外何があるのか。宮崎でさえ犯行当時良い人だった。美化しているといっても美化できるということは良い人なのだ。良い人だったら何か困ることがあるか。ほとんど全ての社会人は良い人である。そうでなかったら排除される。日本人は残忍な一面があることは戦国時代の歴史とか、第二次大戦にしでかした行為とか見ていると簡単に見て取れる。でも日本人には縄文人の和を尊ぶ優しい心性が消えずに脈々と残っている。武士道の担い手は渡来系の貴族ではなく縄文系の侍である。日本文化は両者の微妙なバランスの上に成り立っているようだ。



2006年03月18日(土) 今日

 風邪がどうしても治らない。休養が取れない。どうしても自分を酷使してしまう。そういうプログラムになっているかのようだ。自分は良い方向に変わりつつある。どんどん毎日成長している。今日の自分は昨日の自分とは全く違う。目が毎日開かれていく。どんどん良くなっていくので心配することなく邁進せよ。
 昨日、宮崎の精神鑑定書を読んだときに感じたこと。人は清らかで美しく、信じ、愛するに値すると。私は緊張しすぎる。小さい頃変な奴と付き合ったこと。でもそんなことを言っても仕方がない。アシュリーを見ろ。神が宿っている。あんな小さい女の子に。私はこの世に恨みを抱きがちなので、悪事を働く可能性がある。それが人に不快感を抱かせる。h君に抱く嫌悪感と同じだ。
 体本位で行こう。スポーツと芸術を愛そう。自分に意地悪するのは止めよう。体本位で行けばそうならないはずだ。この世が敵意に満ちていると決して思わないようにしよう。どんどん良くなっている。立ち止まることや後戻りすることはない。安心して一歩一歩味わいながら人生を楽しみ生きていこう。あざみのように。
 緊張しすぎないようにしよう。緊張しすぎると人間はとんでもないことを考えたり、したりするものだ。私は人間を信頼する。体で行けば緊張せずに恐がったりせずに、自然に適切に振舞えるものだ。女はそういうのを敏感に感じとって意地悪してくる。意地悪されたら怒ればいい。我慢する理由など全くない。
 日本は相当おかしくなってきている。国を挙げておかしくなっている。少年を死刑にしようと躍起になったり、精神障害者を死刑にしようとしたり。宮崎は完全な狂人である。犯行当時も現在も。n鑑定人は幼時からの宮崎の精神状態を仔細に検討して、おかしいことがわかっていながら、正常という結論を下している。理解しがたい。初めに結論ありきじゃないのかと疑いたくなる。国民からの強いプレッシャーは理解できるが、専門家は自分の意見を曲げないでもらいたい。日本は一般人も専門家もおかしくなっている。専門家が専門馬鹿と馬鹿にされる国だ。裁判官の判決を支持するものは少なく、世間の常識とかけ離れたエリートのたわけた判決のように言われることが多いが、だからといって裁判員制度なんか始めてもうまく行くとは到底思われない。素人は素人で馬鹿なのだ。同じ馬鹿なら専門家の方がいいんじゃないのかと思う。少なくとも安定性にはつながる。つまり専門家の常識に従った判決をするから、誰がやっても大差はない。今回の最高裁で少年に死刑判決を下そうとしている裁判官は、ちょっと変わっている。そういう変わった裁判官は避けるのは弁護士として当然の戦略だ。それを素人でありながら居丈高に罵る頭に血が上りやすいアナウンサー。やっぱりおかしくなっている。
 疲れた。五木寛之と沖浦という学者の対談を聞いてきた。被差別民とか遊芸民とか言うキーワードだ。面白かった。差別の問題ははっきり言って面白い。当事者にとっては深刻だろうが、民俗学的視点から見ると、きわめて興味深い。日本史の教科書には書かれていない。日本人の実像が浮かび上がってくるからだ。日本の芸能文化芸術は賎民が担ってきたという紛れもない事実。世阿弥も出雲阿国も皆卑しい身分の出身という。娘の芸能界入りに反対する親という構図にはこういう事情が働いている。
 ところで価値破壊的なことより価値創造的なことをやろう。当たり前のことだ。私はそういう能力に富んでいることもわかった。頑張ろう。



2006年03月17日(金) 今日

 昨日は説明会で変なおばさんに暴力を振るわれそうになった。私はこんな身の上だから、侮られるのか。でも思ったのはそういう状況にならないことが肝要だが、そうなったら応戦するしかない。抵抗できないと思われると好き放題し始める。抵抗できるどころか相手をつぶすことができると思うと、安心して町を歩くことができる。私の何かが誰かを刺激する。男女を問わず。でも女の方がより強く刺激するのと、女は我慢できずに直ちに攻撃してくるので、問題になりやすい。b校でもトラブルになった。仲良くなんてできない。喧嘩するならするがいい。こんなに嫌いなのに仲良くなんてできるわけがない。もっとも仲良くするに越したことはないが、こちらが疲れているからといって攻撃してくるものは反撃するしか仕方がない。何に反応して私に攻撃するのかわからない。その理由を知りたい。今日もダスキンの女は客である私を待たせて仕事をしている。全く意味がわからない。私の仕事をするのが嫌なのか。私に不快な思いをさせることがそんなに面白いのか。私もはっきり言おうと思う。溜め込んでいるとまた病気になる。
 私は悪いことをしがちだ。でも誰でも悪い心は持っている。それを良心とか道徳、法で縛めている。当たり前のことだ。私は境界例かもしれないと思っているので、悪いことをしがちなのは不思議ではない。でもそれを放置することはできないので何とかして社会生活ができるように努力しよう。社会人として当たり前のことだ。
 私は本当に自分のこと、来し方行く末がはっきりと見えてきた。私は成長した。これからも成長し続けるだろう。人に迷惑をかけないような人間になろう。立派な大人になろう。
 自分を大切にしよう。どうなってもいいなんて思わないこと。決して。h君みたいに自分をコントロールできなくなったら社会から排除されるだろう。仲間はずれにされるといっているが、彼のようになったらそれも仕方がないだろう。
 私は人間の心の清らかさを信じる。幼子を見ていると、本来人間が清らかで美しい心の持ち主であることを容易に見て取ることができる。昨日のイベントで見た可愛い女の子。小さな心で大きな男の子をゲームで負かしてしまった。本当に可愛かった。男の子はゲームの前にジャンパーを脱いで気合を入れていたが、ゲームに勝つのに力は要らないという証明をあの小さな女の子がやってのけた。素晴らしい。アメリカ人のような生き方は時代に反する。アメリカと一緒に戦をしようとしている日本もおかしな国になろうとしている。不戦の誓いのどこが悪いのだ。
 私は良い方向に進んでいる。大丈夫だ。自分を信じてこのまま着実に進んで行け。
 私は概ね良い方向に進んでいる。ちょっとくらいトラブルや失敗があっても、そのために休んでいるんだから、ドンマイと言ってあげよう。私は自分が入院もしないで一人でしっかり療養していることは奇跡的なくらい感心なことだと思う。私は本当に善良で清らかで立派だと思う。決して人と比べて何ら劣ってはいない。攻撃してきたら堂々と反撃すること。そしてそれと同時に争いごとの好きな日本人とトラブルを避けるために全力を尽くすこと。何の努力もしないでこの厄介な競争、闘争好きの皆さんと平和にやっていけると思ったら大間違いだ。不戦主義、奴隷主義、無抵抗主義ではいけない。ありとあらゆる努力を惜しまない。努力の甲斐なく争うごとになったら堂々と戦う。恐れてはいけない。ただ私は緊張しすぎだ。今日、宮崎勤の精神鑑定書を読んでいて、不意に彼が愛おしくなった。理解できた気がしたからだ。直感的に共感できた気がした。あのかわいそうな男を死刑にしてはならない。治療こそが彼に必要なことだ。冷静になりましょう。彼が幼女といるとき甘い感じ、つまり手のことも忘れて辛いことを忘れて、気持ちよくなる。というよりこの世を心地よいものと感じる幸福な瞬間のことを彼はそう表現する。それを感じる能力があることが彼にも人間性が残っているということだ。その後、私は不必要に緊張しやすく、他人を世の中を、恐れすぎ、敵意を持ちすぎていることに気付いた。世の中は親和的で、優しいものだ。あの今日の営業の女とか、病院の窓口の女みたいに暴力的に私をねじ伏せようとする奴には、激しい憤りを感じる。憤りを感じたら、即座に表現せよと思った。あの説明会でババアが喧嘩を売ってきた。売られた喧嘩は買え。自分の身を守るために。攻撃されて無抵抗なんてありえない。そうなる前に手を打って争いを事前に避けるということは必要だ。しかしいきなり理由もなく暴力を振るう奴に無抵抗でいることはありえない。自分への冒涜だ。正当防衛はどんな弱者にも許されているのだ。誰も助けてはくれない。どんな理論も今現在攻撃されているときには意味を成さない。他人の攻撃を正当化する理論なんかない。それはマゾヒズムのみだ。醜いマゾヒズム。そんなものに親しむ義理はない。



2006年03月15日(水) 今日

 今日は良い天気だ。まだ少し風邪っぽいのでスポーツクラブには行かない。昼から大阪城に行きたくなった。昨日行きたかったのに寒かったから止めた。やっぱり毎日楽しい。だいぶ回復した。日に日に回復している。一年くらい休みたいと思った。
 今日は大阪城公園の梅林に行ってきた。満開で天気もよく最高であった。電池が切れてぼったくられたことを除けば。それから水上バスに乗って川から大阪を見た。結構きれいだった。実に幸せな一日だった。今まで生きてきて今が一番幸せだ。誰も邪魔できない。誰も私を邪魔できないのだ。誰も私を侮辱できないのだ。大阪に来られて良かった。水の上から見る大阪は美しかった。わずかなお金でこれだけ楽しいのだ。



2006年03月14日(火) 今日は

 寒いようだ。できることは全部やろう。できることからやろう。長いこと何もできなかった。勉強も仕事も恋愛も結婚も友達作りも子育ても趣味も何もかも諦めた。生きているだけでしんどくて死にそうだったからだ。でも人生に無駄はないとあのおじさんは言ってくれた。その言葉を聞いただけで良かった。行った甲斐があった。
 今日は散財した。水彩絵の具とか本とかスプーンとか、塗り絵の本とか訳がわからない。でもきっとストレス解消になっているのだ。私は全てを諦めてきた。境界例だから恐くて何もできなかったのだ。でももう中年になって少しはわかるようになってきた。境界例にままでも働くことはできたかもしれない。でもあの頃はそれどころではなかった。今日はbpdの全てという本を買ってきた。交換してもらった。
 朝KDDに電話したら訳のわからない女が出てきて訳のわからない対応された。切れそうになった。何で何もしていないのにけんか腰になるのかわからない。それで思ったけれども絶対にうまくやるということはできない。何もしていないのにいきなり攻撃してくるのだから通り魔と同じだ。直ちに反撃してよい。正当防衛だ。やりたいことをやってよい。それが今日はっきりわかった。私が普通に振舞っているのにいきなり喧嘩を売ってくる。私は何もしていないのにそんなことをされるからうろたえたり、我慢したりする。でもそんな必要などないことに気付いた。日本は誰のものでもないのだ。少なくとも女とは近づかないほうが良い。
 何もしていないのに喧嘩を売ってくるのだから、正当防衛しかないだろう。
 今社会に出て義務を果たさないといけないのなら切れてはいけないだろう。しかし私は社会の外にいて失敗しても義務が果たせなくても、病気だからという理由で許される。私はきれたかったらきれても良い。



2006年03月13日(月) 診察

 今日は保健所のソーシャルワーカーに話を聴いてもらった。カウンセリングみたいなものだ。ずいぶんきわどい話もした。保秘義務があるからいいだろう。それから午後は神戸の病院に行った。ずいぶんお上品な病院だった。多分私には合わない。でも私の話を初めて十分聴いてくれた。モラハラのことも聴いてくれた。私の回復振りは順調だといってくれた。私も助けを求めるというより、自分の話を聴いてもらってこれでいいのかどうすればいいのか聞きたかっただけだ。
 護身術を身につけよう。世の中にはボーダーもいる。うようよいる。モラハラも普通にある。紳士的でない奴もいっぱいいる。護身術の中には当然攻撃もある。自分のみを守る一番良い方法は攻撃である。攻撃は最大の防御である。状況をコントロールするとはそういうことだ。逃げる、遮断する。攻撃する。攻撃という選択肢を持つことでずいぶん自由になる。楽になる。
 



2006年03月12日(日) 今日は

 今日は少し早朝覚醒気味だった。疲れているのかな。大阪の集談会のことを思い出して腹が立ってきた。二人、会側の人間がいてずいぶん失礼なことを言われた。攻撃的というか、侮辱的というか。私は姉にも理由もなくよく攻撃された。あのキチガイババアにも同じことをされた。私は人が悪いことをしないと信じる傾向がある。でも悪いことをする。無防備な人間は攻撃するのが人情というものだ。あの境界例の姉もとにかく悪いことをするのが当然という態度だった。私は人間は悪いことをすべきでないと思っている。そのように信頼する。でも実際は攻撃される。私は人を信頼することが他人に脅威を与えるらしい。そして攻撃を誘発するらしい。最近疲れているせいか怒りっぽい。でも怒らないと決めたら怒らないで済む。怒りとはほとんど無意味なものだ。怒っても自分が損するだけだ。私は境界例で長くうつ状態にあったので自分を守れない状態にあった。でも今ははっきり変わった。だから能動的に身を守れるということに気付いた。能動的になると、自分を守れる。自分を衛生的な状態に保つことができるようになる。これが修身ということだ。修身ができれば周囲に働きかけて、自己をよりよい状態に導くことができる。あの職場にいる人は100%ボーダーだ。女は全てボーダーだ。おばはんになるとボーダーであることを隠さなくなる。もともと若い頃からボーダーなのだ。私は変わった。それが全てだ。それで十分だ。過去についてあれこれ言う必要はない。森田療法も人の現在の行動に着目して行動を変えようとする。それが唯一意味のあるアプローチだと思う。逆に行動が変われば必要にして十分なのだ。
 私が置かれている状況はかなり悲惨で笑い事ではない。それを更に侮辱されたり、笑いものにされたり、傷に塩を塗るようなことは止めてもらいたい。はっきり言いたい。私は十分傷ついている。保護と平安を求めているのに、その正反対のことをするのはやめてもらいたい。私は変わった。内面から変わった。だから行動も変えていくつもりだ。もっと衛生的な生き方をするつもりだ。被害妄想から脱したい。だから私を攻撃して被害妄想を誘発することは止めてもらいたい。攻撃や侮辱を感じたら直ちに逃げるか反撃する。私は電車で暴力を振るわれたことがある。私の何が暴力を誘発するのかがわからない。だから対処の仕様がない。でも多分私は私がルール違反をしていて、不道徳だということに気付いている。でも疲れているためにそれを直そうともしない。それが原因である。そういうことを止めて暴力を誘発しないようにするということが、修身ということだ。体というのは大事だ。そういう基本がわかってくる。私は内面が変わったので行動も変えていく。そうすると周囲が変わって来る。昨日ラーメン屋でそれを感じた。攻撃する奴より上に立てば決して攻撃されない。上に立つということは状況をコントロールできることだ。例えば私が休むことができたのは状況をコントロールできる第一歩だ。あのおばはんは条件反射のように私を見ると攻撃してくる。それを止めさせることはできない。犬にパンツはいて二本足で歩けといっているようなものだ。絶対に四足で歩くだろう。状況をコントロールすることはいくらでもできる。優位に立つとはそういうことだ。私は病院で状況をコントロールできなくなったので家に逃げ帰った。それはそれで勇気ある決断だったと思う。権力に服することはできなかったのだ。境界例だから仕方がない。それを押して就職したり、都会に出たりすることに無理があったのだ。ここまでになるのに33年掛かったということだ。中島先生などはいまだに戦っている。世間と言うより自分自身と。死の恐怖と。
 本当に疲れている。どうしてこんなになるまで頑張ったのか。疲れているとはなかなか気付いてもらえない。弱いんだとか怠けていると思われる。h君のことも道徳的にいくらでも批判できる。でも病気だと思えばどうしようもない。いくら頭が良くてもNGだ。
 しんどい。朝からずっと寝ている。悪いことをするのは止めよう。宗教的に生きよう。精神異常と犯罪とは親近性がある。自分を傷つけるのが精神障害で、人に向かうと犯罪になる。両方の奴も多い。宗教にすがることは悪いことではない。病気になったら医者に見てもらう。心の病になったらカウンセリングを受ける。当たり前のことだ。悪いことばかり考えるようになったらどうしたらいい。宗教にすがろうと思う。いつもいいことだけ考えようと思う。とにかく疲れている。ボーダーのようだ。十分休んでから対処法を考え実行しよう。
 疲れた。今日は本当に疲れた。でも最悪でもこの程度だからすぐ回復する。今日薬を飲んでぐっすり眠れば大丈夫だ。同窓会とNPOがえらいストレスになったのだ。本当に疲れた。明日は保健所で相談&三宮で診察。ちょっと癒されるかも。余り期待しない方がいいか。
 全く受身で自分を守ることはできない。他人に意味もなく攻撃されてそれをどう受け取れば自分を納得させることができるのか。そうじゃなくて未然にそういう事態を防ぐ危機管理が必要だ。ボーダーである私はこの会社に入ったとき、何の理由もなくいじめを受けた。女どもに。私は女が大嫌いだった。それもボーダーゆえだろう。今も問題は変わっていない。今その問題を放置して自然に解決するとは思えない。積極的に解決する緊急の必要がある。職場を転々としているのも、今回初めて会社を休職する羽目になったのもこの理由だ。放置するわけには行かない。受身とか我慢では解決しない。嫌がらせを止めろとかいっても止めない。そういう暴力に晒されるときに、遮断する、逃げるという選択肢以外に、戦うという選択肢があるだろう。当然のことだ。介入する。政治的行為。チンパンジーでもやっている。受身では合理化できない。危害を加えられたことをどうしても容認できない。当たり前だ。例えば掃除はサボると汚れてどうしようもなくなる。健康にも良くない。それを積極的にやれば病気の予防になる。受身と怠慢ではどうにもならない。私が陥っている悪循環はそういうことだ。どうしたらいいかというと当たり前のことをやれば言いだけだと思う。いつでもものをいう権利がある。いつでも立ち上がって権利主張する権利がある。いつでも戦う権利がある。状況をコントロールする権利はいつでもある。人をコントロールすることは必ずしも容易でも可能でもない。だが状況をコントロールすることはいつでも簡単にできる。逃げる、遮断する。牽制する。抗議する。アサーティブに言う。でも状況だけに反応するのは疲れているための病的反応の可能性が高い。
 疲れた。本当に疲れた。生きるってことは本当に大変だ。ボーダーにとっては特に。人を憎むのは悲しいことだ。いつからこうなったのか。悪いことをするなといっても無理だ。悪いことをせずに生きていくことはできない。何が悪いことかも判然としない。余り善悪が問題になるような場所には近寄らないことだ。ドストエフスキー的な世界。本当に疲れる。
 疲れた。悪いことばかり考えているから、人相が悪くなって悪いことばかり怒る。女が意地悪をしてくる。女に優しくしようとか言ってももう遅いが、弱者に優しくしようと言い換えれば理解できるのじゃないか。女子供というじゃないか。やっぱり弱者には他ならない。



2006年03月11日(土) 今日

 昨日は同窓会に行って大変緊張した。同窓会とは本来同じ年の同じクラスの者が集まるものだがこれほど年が違うと何のことやらわからない。緊張するばかりだ。でもお話はとても面白かった。南極にいった理由が行きたかったからというのは笑った。私と同じお調子者、好奇心の塊だ。都市は好奇心を満たしてくれる。田舎ではこうはいかない。やっぱり都市が好きだ。
でも昨日は自分の限界を感じた。いきなりハードルが高い。低いハードルを設定して一つずつクリアーするようにしよう。人に嫌われる性格を何とかしようと思った。でも問題があるから休んでいるので仕方のない面もある。疲れているときは悪い面が出るので人に会わないほうが良い。人に好かれることを恐れているんだと思う。人に好かれることは良いことだ。嬉しいことだ。社会に参加できる最低条件だ。でもだいぶ仕事ができるようになった。この調子で悪い面を直していけば十分行ける。
 やっぱり悪いことばかり考えてきたから顔に出るんだな。どこに行っても怪しまれる。排除される。たとえどこかにもぐりこんでもすぐに怪しまれ、つまみ出される。自分がどういうことを考え、どういう行動をしているか良く考え、慎重に行動しよう。そうすれば自分の高い能力を生かして社会に貢献できる。昨日お会いした皆さんは皆そうして自分の力を社会で十二分に発揮して、相応の社会的地位を築いてきた人ばかりだ。私が場違いだなと感じる一番の理由はそこにある。
 活動も良いが、休みも必要だ。今は疲れが溜まっている。自分を酷使することも自分に害悪を加えているのと同じだ。それが続けばやがて人に迷惑をかける事態にもなりかねない。ゆっくり休もう。そのために休んでいるのだ。
 やっぱり宗教が必要だ。私だけではなく誰でも。特に私は悪いことばかり考えてしまう癖があるので、宗教的な思考を取り入れて、というより宗教的に生きようと思う。理性で正しいことは何なのかを常に意識し、良心の命ずるとおりに生きよう。悪の心に流されるまま生きてはいけない。宅間氏のようになってしまう。尾崎のような死に方をしてしまう。彩姐さんはボーダーっぽいと思うけど女の強さで立派にしたたかに自由に生きていらっしゃる。女でありながら尊敬できる人は彩姐さんをおいて他にいない。
 今日は社会企業家ということでイベントに行ってきた。一癖も二癖もある皆さんは見ているだけで飽きなかった。途中嫌がらせとかされたけど余りにも面白かったので最後までいた。私は内面が大きく変わってきて普通の人と同じように考えることができるようになってきた。そこで行動もそれに合わせて変えたらいいんじゃないかと気付いた。内面が変化したことを行動で外に示すのだ。そうすれば過敏状態は解消されてうまく行く。今疲れ切っている。本当に毎日一所懸命生きている。宗教的に生きようと思った。ただ外界の物事に反応するだけではとても生きてはいけない。どうすれば世の中に貢献できるかとか、正しいことだけをやろうとか道徳的なことを考えて常に行動しようと思う。生きることは運動だ。生を極限まで燃焼しつくすことだ。客観的に自分をセルフプロデュースして自由に生きていけばいいのだ。過敏状態からそうして脱出することは可能だと思った。
 ラーメン屋亀王というのに入った。谷九にある。入るつもりではなかったがおいしかった。私が始めて生まれ変わって受け入れられた店として永遠に記憶されるだろう。私はvipのように扱われ、大変気分が良かった。生まれ変わった私は行動も全く新しいものに変えて良いんだと思い、その通りに行動し受け入れられた。その意味で記念すべき場所である。フランス系カナダ人の精神科医の本を読んでいた。エキサイティングであった。私の中で何かが大爆発を起こして、もはや止めようがない。かつてのような制御不能なものではなく、全く穏やかで、常識的で親和的で、世間から受け入れられ、世の中から感謝され尊敬される。もともとそういう身分であったのに自ら身を落としたのだ。馬鹿な奴もいたものだ。黙って働いていれば良い身分になれたのに。でも今からでも十分間に合う。私は生まれ変わった。何でも思い通りに行動し、全くその通りに受け入れられ、人々から敬われ、感謝され、尊敬され、豊かになれる。これが私のこれからの人生である。そう確信した。
 先日は京大oクラブに出席して大いに勇気付けられた。大いなる力に守られていると感じ、自分も恥ずかしくないように頑張ろうと思ったことであった。清らかな心の結びつきは非常に良いものだ。私の中にもそのような清らかな気持ちが熱く、脈脈と流れているのを感じ勇気付けられた。
 私はもう悪いことをしなくても良いんだ。良いことだけをして皆に感謝され尊敬されて豊かになり、皆を幸せにすることができるときがきたのだ。心が変わってしまったので、行動も言葉も変えていいのだ。自分が変わったことを周囲に誇示しても一向に構わない。私がこんなにすばらしい人間だということを誰が嫌がるだろう。皆歓迎し、祝福するだろう。



2006年03月10日(金) 今日

 昨日は一人で痛飲した。ラム肉が極上でよかった。いつも手に入れば焼肉はいつもあれにしようか。安くておいしい。ラムだから柔らかくて臭みがない。酒は日本酒。焼酎なんか飲めない。うまみがある。avも観た。たまらなかった。高いヘッドフォン買おうかと思った。医師のmさんのライフスタイルに影響されている。金もないのに。金がなくても楽しく過ごせる。毎日楽しい。
今日は京大に行って、京大フィールドワークの80年というイベントに参加した。霊長類の話はとても興味深かった。それから大阪に移動し、大阪京大クラブに参加した。面白かった。20年、30年卒の大先輩ばかりで恐縮した。ダイキンの社外役員をされている舘氏が会長だということでまたまた恐縮した。セーターを着ているのは私一人でドレスコードを間違えてまたまた恐縮した。紹介者になってくれた人の名前を出すのを忘れてしまい、顔をつぶしてしまい、不興を買った。こういうところが私の変なところだ。でも同窓会なら失敗しても大丈夫だ。これだから休んでいるのであって気にする必要はない。



2006年03月09日(木) 楽しい

 今日は堺駅の方に行ってみた。いろいろ買い物をしてしまった。レンタルビデオを借りた。cdも借りた。金がないのに色々使ってしまう。でも楽しい。帰りにスーパーで買い物をした。本当に充実していた。世の中は本当に楽しい。どんなに辛くても楽しいことはある。人から見ると給料減らされて、自宅待機で辛いだろうと思うのかもしれないが、毎日本当に楽しい。



2006年03月08日(水) 今日

 今日は良い日だった。よく働いたし、気分が良かったし、人と争わなかったし。昨日はよく眠れた。薬で9時間くらい眠れた。朝は書類の整理や読書をして昼からcospaに行ってヨガをやった。エロいポーズが良かった。それから自転車をやった。自転車を買おうと思う。景色が変わらないのは面白くない。これから良い季節になる。気分の悪いのはだいぶよくなった。体だけに依存して生きて行こう。昼から歯医者に行って一日終わった。いつも忙しい。休みに入ってからずっと忙しい今日も本当はお水取りに行こうと思っていたのだが疲れていたので止めた。明日行こうと思う。
 私は境界例もしくは自己愛性人格障害の可能性があると気付いた。中学の頃からそれで悩まされていた。今やっと青春がめぐってきた。これから人並みに楽しく暮らしていこう。



2006年03月07日(火) 今日

 今日は余り気分がよくない。焦らずぼちぼち行こう。週末まで予定はない。のんびり過ごそう。体本位で行こう。宮崎の鑑定書を読んでからおかしくなった。
今日はスポーツクラブに行ってきた。プールで初心者のメニューをやってきた。ずっと体だけ動かしていたらいいんじゃないか。全ての仕事は肉体労働だ。それから太極拳をやった。大阪のおばちゃんだった。乗りも関西人ののりでべたべただった。面白かった。楽なんじゃないか。なれれば。ストレスの解消になる。爺さんやばあさんとはいえ人間なので面白い。
 体を使うのだ。頭は疲れ切っているのだから。今日も飯はうまかったのに人が不愉快でしょうがなかった。頭の中から追い出したらいいのだ。絶対入れない。言葉で私の中に入ってこようとしてもシャットアウトしたらいいのだ。



2006年03月06日(月) 今日

 今日は疲れた。一昨日より昨日はましで今日は昨日よりましだ。疲れたときは休もう。人と会わないほうが良い。
 疲れていると過敏状態になり、全く初対面の店員でさえも関係が悪くなる。信じられないことだ。昨日は定時制高校の廃止に反対する会に出てきた。私は女優に会いたかっただけなので、ずいぶん場違いな場所に出てしまったように感じた。でも楽しかったし、感動したし、大いに勇気付けられた。主催者のm氏というのは昔風の人格者タイプのおじさんで勉強になった。文筆家でもあるらしい。ペンは剣よりも強し。親しくなりたいものだ。電話で話したが良い感じのおじさんで話もちゃんとできた。かばん持ちにでもなろうか。
 今日はz氏と会って話した。最近疲れてネガティブになりかけていたのでほっとした。知っている人と話すのは良いものだ。最近見知らぬ人間にいじめられるという不愉快な経験をいっぱいしたので、本当にほっとした。
 生活発見の会に行ったが、やっぱり不愉快な思いをした。おかしな女が全く思いやりのないいじめのような意見を言いやがった。あいつの意見はもう二度と聞かない。聞いていて本当に不愉快になった。もともと真面目に聞いていなかったが。面白くない意見は聞かなくていいのだ。馬鹿馬鹿しい。知りもしない、思いやりのない人間の意見を何で聞かないといけないのか。全てが思い通りになる気がする。全てが見通せるし、全てがコントロールできる気がする。



2006年03月05日(日) 疲れ

 最近疲れが出てきた。宮崎の鑑定書を読み始めてからだ。読まないほうがいいのかも。気楽な暮らしが最優先だ。体本位だ。頭は休めろ。でも今の私は自分が見えているから軌道修正なり、改善なりいくらでもできる。そこがよくなった点だ。
 疲れたら休む。すると元気になる。ワキガのことだが気にしたら負けだ。気にしないことだ。それと人に近づかないことだ。私は過敏状態になっている。イルゴエンヌ女史の言う過敏状態に。それと精神が低下して悪を行いやすい。誰の心にも悪魔はいる。当たり前のことだ。休むことと、体本位になることだ。
 疲れた。気分が少し落ち込み気味だ。体を使うことが大事だ。



2006年03月04日(土) 今日は

 良い天気だ。昨日と打って変わって。昨日は何かの罰のように雨、雪、霰が降っていた。寒い中、菅原盆梅展に行ってきた。野趣があって良かった。それから堺に帰ってきてhと会った。見舞金をくれるというので会いに行った。余り気が進まなかった。堺東の居酒屋に行った。結構うまかった。話しているうちに面白くなっていっぱいしゃべった。誰でもいいから聞いてくれる相手が欲しかったのだ。世間話とか、トリノ五輪とかいっぱい話した。もう職場に戻りたくないという話を一応しといた。モラハラの話もした。中学の頃からおかしいという話もした。大体理解したようだ。話しているとだいぶ楽になった。ずいぶん楽になったがまだまだ我慢して解放されていない点、気付いていない点がある。でもだいぶ自分を客観視できるようになった。それが全ての始まりだ。今まで45年生きてきて自分の姿が見えたことは一度もなかった。今はかなりはっきり見えるようになった。
 b校のことも思い出す。何か最後の日はモラハラまがいのことをされた気がする。wとあの坊主はどうも食えない。うるさすぎる。ツッキーは私のことが理解できたらしく仲良くしてくれるが、あの二人は全然だめだ。何も仲良くなんかしなくていいのだ。仲良くできない人が集まっているのだからその辺は適当でいいのだ。
 私の中にも悪がある。つい悪いことをしてしまう。女を見ると腹が立つ。側に来られると腹が立つ。優しくなんてできないし、優しくして欲しいとも思わない。それが本音だ。それを職場なりb校で出すと嫌われる。悪いことを考えたり、言ったりしたりする。人を傷つけることも十分悪だ。差別とか、嫌うとか、恐がるだけでも人を傷つける。そうなる気持ちは結局ストレスだと思う。姉にいじめられたトラウマが私を無力なうつ状態に追い込む。ストレスがますますうつを誘発する。悪を呼び込む。
 疲れがストレスになり、次第に弱ってくる。悪の誘いに乗りやすくなる。精神状態が既におかしくなっているのだ。そうするとモラハラを誘発する。あの家庭がまともだったかどうか自信がない。ストレスに晒される家庭だったかもしれない。父親は境界例的な傾向があり、アルコール依存症気味だった。そういう意味ではアダルトチルドレンの可能性はある。サドを読んだとき私は決定的なトラウマを受けたと思う。ptsd的な症状がはっきりし始めたのはその頃だった。自殺未遂をやったのはそのしばらく後だった。立ち直りは正直まだだろう。ストレスから自分を解放して、休ませ、慢性的衰弱状態から脱出することが近道だ。
 自虐のループから多分抜け出せない。自分を虐待し、傷つける可能性のある奴のそばから離れられない。もしかしたらb校もそうである可能性がないとは言い切れない。そんな状態である以上、そういう場所に近づかないというのも賢明な選択だ。高ストレス状態であることは間違いない。好きな文学だから大丈夫だなどとは言い切れない。実際いじめにあったし、最終日なんかはまたいじめが復活していた。女とはどんな理由かはわからないが、うまく行かないのは事実だ。なぜかわかるまで近づかないというのが唯一の道だ。
 この間に最終日におかしくなった原因は何となくわかる。私は結構高ストレスに耐えられてしまう。それで自分に知らん間にストレスをかけている。でも反応は正直に出てくる。不機嫌、悪いことを考える、言う、行動する。表情や態度に出る。休む以外に方法はないのに休めない。我慢してしまう。あの日は宮崎の精神鑑定書を読んでいた。結構きつかった。読むこと自体がしんどいし、内容がしんどい。そうすると知らん間にストレスがたまってまう。それが苛立ちや意地悪になって表に出て、それが自分に返ってくる。だからストレスをためないこと。たまったら、休む。その場を離れる。これが唯一の解決策だ。勉強になった。



2006年03月03日(金) 今日

 今日は良い天気だ。家で本を読もうと思っていたが急遽予定を変更して、奈良の盆梅展に行こうかなと思っている。昨日の打ち上げは後味が悪かった。何でだろう。体ではなく頭で行動しようとしていたからだ。やっぱりおっさんとはうまく行かない。中学のとき私に食らい付いてきたのもおっさんだった。この問題は永遠だ。
 一つ思ったのは弱いもの、醜いものを嫌悪したり、差別したりするのは止めようということだ。会社でもめるのも突き詰めればそこに至る。そこに気付けば問題解決は早いんじゃないかなと思う。あの爺は差別されて育ってきたので、ちょっとでも差別されると異常に怒る。境界例の一つだろうと思う。大変しつこく攻撃的で貪欲である。人間とはあんなものだろう。私は辟易する。おっさんという圧倒的な存在に辟易する。そうであれば女とか若者などの弱者に寄り添えば良いものをそれもできない。そこがジレンマだ。でも今は少しできるようになった。oさんとかyさんには優しくできるようになった。少し落ち着いてきたんだ。成長してきたんだと感じる。姉の家に行ったときも落ち着いて過ごすことができた。絡まれても適当にあしらう自信がある。びくびくしたり、ぺこぺこする必要はないのだ。
 小さい頃からボーっとしていた。今でも変わらずボーっとしている。自分の大切なことを考えずに夢のようなことにずっと心を奪われている。近頃ますます夢見がちになっている。そういう一群の人々がいる。その人たちの中でも私は群を抜いてボーっとしている。体で生きれば頭はボーっとしていても体が勝手に動いてくれる。頭で考えたことはほとんど間違っている。だから体が言うとおりに従っていれば間違いない。



2006年03月02日(木) 今日

 今日はb校の最終日だった。何だか気が乗らずにおしゃべりしなかった。無理する必要はないのだ。楽しければいいのだ。座の中心になってしゃべらなければならないというのはマスト思考だ。楽しめればそれで良い。だから今日は良かったのだ。あの三十代の人間の相手をしろと言われたら疲れるだろう。だから良かったのだ。嫌なことを進んでするなんて私の柄じゃない。だから疲れ切ってダウンしたんじゃないか。気にしてないけどね。
 宮崎君の精神鑑定書を読んできた。彼が正気かどうかは微妙だと思った。悪いことは何かはうすうすはわかっているらしい。しかし正常人と同じとは言い切れない。三歳児レベルで精神的成長は止まっているようだ。大人の正常な思考に全く付いていけない。きちんと会話ができないということは正常でないことを大いにうかがわせる。表面上は噛み合っていても本当に正気ではないという気がする。一見正常なところが逆に不気味だ。



2006年03月01日(水) 今日

 今日は雨だ。部屋でdvdを観ていると上の階の奴が物音を立てて攻撃してくる。本当に気分が悪い。昨日は疲れていた。昼から寝ていた。それから歯医者に行って、治療してもらい、また帰ってそれから小説を読んで葉山クラスの見学に行った。最低だった。異常に攻撃性が高い。人を支配しようとする意思が異常に強い。根暗で攻撃的で始末に終えない。絶対にあのクラスは嫌だ。嫌なことは嫌と言おう。それができないからいじめられるのだ。悪いことをされても自分が悪いと思い込む。今日は酒を休もう。休肝日だ。ちょっと今は疲れている。自分を酷使しないということを旨としよう。
 人は悪いことをする生き物だと思った。平気で悪いことをする。私は人が自分に悪いことをしないだろうという根拠のない信念を持っている。絶対に間違っている。どんな人間でも私を憎み平気で攻撃してくる可能性がある。自分が無理に相手を好きになって相手にも自分を好きになってもらって、つまり仲良くするということは難しいし、その必要はない。そんなことを求めてくるなんて頭がおかしい。自己愛性人格障害だ。境界例だ。何で好きにならなきゃいけないのだ。好きにならないとしつこく攻撃してくる。人の持っているものを欲しがり、盗もうとする。危険な情事のあのキチガイ女が境界例らしい。なるほどと思う。そっくりだ。とにかく今は疲れていてぎりぎりだ。
 私も絶対に悪いことをしないとはいえない。人が絶対に悪いことをしない。してはならないという前提で行動すると実際にはどんどん悪いことをしてくるので頭がおかしくなってくる。女は皆悪いことをしてくる。女が悪いことをするのは当たり前のことだ。それでパニックに陥るのはおかしい。現実的に対処しなければならない。疲れてどうしようもなく休むことも許されないとすれば悪いことをするかもしれない。少なくとも正気を失うだろう。実際にそうなった。悪いことをされてもパニックに陥らず、反撃することができれば収まるだろう。精神的には安定するだろう。小さい頃、姉に何の理由もなく攻撃された。モラハラだ。8歳も離れているので攻撃しやすかったのだろう。私が反撃する方法は暴力しかなかった。それでなくても暴力的な九州の社会で疲れ果てていたのだ。人は道徳、法、良心、マナー、慣習、宗教などありとあらゆるもので悪いことをしないように縛られている。でもほんの少しでもストレスが高まると簡単に悪いことをする。きわめて自然なことだ。子供と同じだ。子供でもほっておけば、他人を攻撃する奴がいる。大人は法で縛られているが簡単に子供に戻って悪いことをする。悪いことをして良い状況であれば迷わず悪いことをする。何度もそういう目に遭った。信頼できない奴を簡単に悪ができる状況にしてはならない。例えば今の状況は簡単に悪いことができる状況に女を置いている。だから当然悪いことをする。悪いことをしないという根拠のない信頼。ルールを守るだろうという全く間違った信頼。それは簡単に裏切られる。混浴温泉に行ったときの状況がそうだ。
 今日は疲れている。一昨日、京都のビジネスホテルに泊まって朝帰りして文校の見学に行って、kさんと飲んで本当に疲れた。疲れているから機嫌が悪くなる。疲れていなければイライラなどしない。中学のときにもううつ状態だった。それから私はおかしくなった。疲れた私を攻撃するが本当の理由は私が悪いからではなく、疲れているからだ。疲れていると正常な判断ができなくなる。何もできなくなった。勉強だけに集中した。人付き合いなんかできなくなった。今日は早く寝る。明日もゆっくりする。人に会わない。人ごみに出ない。


 < 過去  INDEX  未来 >


リスパ

My追加