希望の日記

2005年10月31日(月) 今日

 昨日は薬のせいでよく眠れた。脳の興奮を鎮めよう。人と会いたくない。特におかしなやつと。声のでかいやつと。egなんか二度と行かない。自己啓発セミナー。洗脳。人格改造。正気ではない。道徳的でないのは悪くなければならないというibに囚われているからだ。残酷でなければならないというibに。人非人出なければならないというib。幸福になってはいけないというib。道徳的であってもいいのだ。勤勉であってもいいのだ。人に好かれてもいいのだ。ババアに嫌われてもいいのだ。脳の興奮を鎮めればこんなibはなくなるだろう。
 私のような生き方をしていればそれは疲れるだろう。脳の興奮を鎮めよう。勤勉でないのはうつだからだ。そして勤勉であってはならないというibに囚われているからだ。人から離れたい。一人になりたい。不道徳なのは不道徳でなければならないというibに囚われているからだ。自分で自分の身を守ってはいけないというibにも囚われている。私はありとあらゆるibのとりこだ。不真面目なのは真面目であってはならないというibに囚われているからだ。真面目か不真面目かはどちらでもいいのだ。女が好きか好きでないかはどちらでも良い。明らかにする必要はない。何で明らかにしなければいかんのか。脳の興奮を鎮めることと、悪でなければならないというibを取り除こう。勤勉で努力家でいいのだ。女が好きでも嫌いでもどちらでもいいのだ。無理やり近づいてくるババア、これが一番許せない。嫌だったら嫌とはっきり言っていいのだ。もちろん言う必要もないが。言わなければならない義務はない。でも嫌なのに無理やりセクハラされるのが嫌なのだ。
 脳の興奮を鎮めよう。覚せい剤を飲んでいるように興奮している。安らかな気持ちになろう。何でババアにセクハラされなければならないのかわからない。セクハラ110番てないのか。文校でもセクハラに遭う。助けてくれ。ババアはセクハラをしてはならないというibがあるのだ。セクハラをしないに越したことはないがしたからといってどうということはない。目に余るならやめてくれといえばいいのだ。人の嫌がることをどうしてやめられないのだ。
 脳の興奮を鎮めよう。自分で自分を守ろう。自分を守ってはいけないというibがあるのだ。真面目であってはならない、極悪人でなければならないというibがあるのだ。



2005年10月30日(日)

 妙な夢を見た。忘れたけど。昨日は掲示板で一騒動あった。他人のけんかは面白い。仲裁するやつも出てきて面白い。でも何も解決しない。勝ち負けは明らかなのに負けを認めないやつ。変なやつに見込まれると災難だ。できればあんな板には出入りしたくない。どんな板でも同じだ。もっとひどいところはいくらでもある。普通の社会とは違う。
 昨日はずっと家にいた。自分に過酷な仕打ちだろうか。そうではない。休むべきだ。人前に出たくない心理状態だ。私は社会に害をなすものと見られるようだ。どんな人間だって社会に害をなす可能性はある。あの運転士も一所懸命会社の言うとおり働いていただけなのに多数の死者を出し、命を失った。会社は花も手向けてくれない。会社とはそういうものだ。今は特におかしい。eg以来私は変わってしまった。洗脳された。自己啓発セミナーだ。その頃には保たれていた倫理のバランスが壊れてしまった。新しい倫理を身につけるしかない。前の倫理が持たなくなっていたので仕方がない。新しい倫理を身につけることで環境により適応できるだろう。やっぱり努力は必要だ。
 今の問題は基地外が嫌で声を聞いているだけで気が狂いそうでうつになって仕事ができないというものだ。このまま我慢していたら人格崩壊するだろう。その前に自ら薬とegで人格崩壊を招いた。母親も何も言って来なくなった。嫌いだったわけじゃないのにどうしてこうなるのか。ああ、休みたい。一年くらい休みたい。人と会わないで人格を静かに立て直したい。でも今現に生きているからそうも言っていられない。働きながら治すのか。私の倫理はもともと崩壊していた。その私をこの会社は受け入れてくれた。だからその恩義に応えて倫理を確立しなければならない。こうなったら何かにすがるのだ。それがアサーティブであり、論理療法だ。あの本の中にも相当ひどい症例が出て来る。アル中で人格崩壊。それでも何とか立ち直っている。論理療法は信じるに足ると思う。
 今日も一日家事で静かに過ごそうかな。私はやはり客観的に見て倫理的でなくなっている。そうすると攻撃される。でもそれで怒るのは不良だったり、やくざだったりということになる。やはり道徳を立て直さないといけないのじゃないか。道徳なんかどうでもいいということにはならない。今は論理療法に従って自分のibを正しながら静かに自分の足元を固めたい。うかうかと出て行くべきときではない。どこへ行っても嫌われるし、いじめられる。倫理的であることは必要だ。あのt氏も作品を書くということで倫理的でありえている。何に対して倫理的であるかだ。
 今は本当に人に接したくない。倫理的じゃない状態になっているからだ。働くことさえできない。一からやり直そう。倫理的じゃないから仕事ができない。ものを書くことに対してだけは倫理的になれそうだ。今日も朝からこうして書いている。これはibに囚われているからではない。書かなければならないとは少しも思っていない。書きたいから書くのだ。楽になるからだ。楽しいからだ。
 いろいろある。女が嫌いなのはどうしたら良いとか。一方的に無視すると無視されたといって怒って攻撃してくる。恐ろしい。なすすべがない。オニババ化したおばはんに至っては宅間に狙われた子供のような状態で抵抗さえできない。だからアサーティブで抵抗くらいしようということだ。そうした上で女が恐い、嫌いという考えの背後にあるibを正していく作業をする。車の両輪だ。
 私は倫理的におかしい。銀行の休職期間が切れたときも銀行と連絡を取っていればこんなことにはならなかった。それなのに父親を責めてしまった。おかしい。完全におかしかった。でも自分を責めるのはやめよう。もう済んだことだ。でも罪は消えない。一生かけて償っていこう。
 私が経験したことは、ババアが嫌いでけんかになっていじめられたということだ。ただそれだけのことだ。でももういい加減にしてほしい。私を目の敵にするのは。また別のババアが私を狙っている。
 安らかな気持ちでありたい。デパスやリスパを飲んで落ち着こう。外出もせず人にも会わず、家でじっとしていよう。一生そうしていたい。落ち着いてたまった仕事を片付け、内省し、今後を思い、論理療法を行い、アサーティブを学び、文学を楽しみ、小説を書く。人とのかかわりを避け、ひっそりと隠棲したい。それが私には向いている。人が嫌いなのではない。触覚を刺激されたこおろぎは出会ったこおろぎを攻撃する。たぶん私はそんな状態だ。だから人に会いたくない。いつ死んでもいいように安らかな気持ちでいたい。
 私は父がそうであったのと同じように一生正気ではないだろう。できたら人を避けて生きたい。どうしても避けたい。人と仲良くできないのはわかる。攻撃的になる。自分に対してさえも。安らかな気持ちになることだ。ヨットに乗ったときにそう思った。
 挨拶しなければならないというやつがいるが、ibだ。会社はibを押し付けるところだ。洗脳される。洗脳なき軍隊はないだろう。20年以上かけてありとあらゆるibをインプットされる。私はもうそんなことはあほくさくて付き合う気がしない。というより苦しい。ibは苦しい。
 人のibを指摘するのは簡単だが自分が捉えられているibに気づくのは大変困難だ。人に自分のibを押し付けるのに気づいていない。権力者とは自分のibを人に押し付けることができるもののことだ。気が狂っていても構わない。一切の掣肘から自由だからだ。信長や小泉はやりたい放題やっている。人との約束はibである。走れメロス的な。太宰は約束は守らないのにあんな小説を書いた。あいつは一切のibから自由であった。
 女嫌いは性的嗜好と関係しているだろうからibに由来する。女には何のことやらわからないだろう。迷惑な話だ。だから私はもう一切言わない。私が女が嫌いだろうと差別していようと、内面に留めておくならば全く自由でとやかく言われる筋合いはない。仲良くしなければいけないというのはibだ。
 仲良くできたらいいのに。くらいだったらibではない。人はそれぞれ単純ではないから誰とでも仲良くできるなんてibだ。気が合うなんて会社で2,3人もいればいいほうだ。会社は仲良しクラブではない。競争と支配とibの集団だ。
 触覚を刺激されたこおろぎになっているのだ。そういうやつも中に入るだろう。でも強い倫理観で抑制している。スポーツとはそういうものだ。m氏はありとあらゆるスポーツを楽しんでいるが、医者で高い倫理観を持っているはずだ。そうでなかったらあれだけ稼げない。私はそういう自分を律する技術を持っていなのに快楽だけ味わおうとしてもだめだ。それは自滅と蕩尽だ。文学の王道だ。だから今こそ落ち着いて自重することだ。ふらふら世間にさまよい出ないことだ。文校やサークルが楽しくないのはそういうことだ。私には倫理観が欠けている。
 まず落ち着いて刺激や快感を遮断することだ。リスパがその役に立つだろう。京都の庭園でも見に行ったらどうどす。何か断定したり結論を求めたり、理由を知りたがったり、分析したり、妄想を膨らましたり、そういう一切は百害あって一利なしだ。虚心にありのままを感じればいいのだ。ibですべてを理解しなければならないというのはやめよう。落ち着いて内省することだ。決して自分探しなどしてはいけない。
 自分が今どんな状態かは知ったほうが良いだろう。客観的な状況を。どうして現実から目を背けるのか。大学の頃から、それ以前から私は倫理的ではなくなっていった。病気になった。でもこんな人生だが否定はしないし、後悔もしていない。こんな人間も一人くらいいてもいいだろう。太宰や坂口安吾はもっとひどいことをした。でも私はたぶんこの堅気の世界に踏みとどまりたい。そうであれば過去の行いを悔い改めて正気に戻らなければならない。女遊びをしていたあの頃の狂気がまだ私に取り付いている。それがこの社会で私に違和感を感じさせる。正気に戻り、倫理的になることだ。
 落ち着いたほうが良い。脳が興奮しているのだ。その始まりは中学時代で発病のきっかけだった。何とか無事生き延びるためには興奮を抑えなければならない。文学を飼いならすことができるだろうか。無事生き延びたい。天寿を全うしたい。安岡章太郎のように無事生き延びたい。
 落ち着いたほうが良い。文校でもサークルでも本当に気味悪がられる。作品を二作発表してやっと理解された。ぱっと見にはわからない。というよりおかしいと思われる。おかしさがとうとう外見や態度に出始めた。落ち着いたほうが良い。
 欲望を刺激し、物を買わせ、快楽を追求して生きていく。都会に住む人間はそうだ。私の住んでいる町は都会ではないが。田舎に住んで田舎で働く。働いていないけどね。都会人とは考えが合わない。田舎者なのだ。いつまでたっても適応できない。でも都会に住んでいても掲示板のmさんのように禁欲的に生きてきた人もいる。それは悪いことではない。でもかわいそうになる。もっと楽しめと。最近そうなってきたそうだ。結構なことだ。
 北原は無理を承知でグループの環境を整えてくれた。単なるわがままとして通らない。無理を通してくれた。その男気に感謝してついていくことだ。これが最後じゃないかな。一から出直すという意味では。これでだめだったら行くところがない。謙虚にならなければ。幸い環境も整ったし精神的にも成長した。ちゃんと文句を言われずにやれそうな気がする。せっせと小説を書こう。読んでくれる人がいる。幸せなことだ。人が何かをしてくれることを期待してはならない。自分で人に何かしてあげなければ。それが仕事だ。夢や憧れは金を出せば買えるという話に目からうろこが落ちた。稼ぐことが難しいのだ。
 疲れた。辛い人生だった。でも希望の光が見えてきた。狂気の中から正気の光が射してきた。自分にどれだけ欠点があろうと、弱かろうと生きていくために主張してよいし、そうしたほうが良い。べきというとibになるが。あまりにもいろんなことを考えすぎて脳が疲れ果てているので、休ませたほうが良い。感覚への刺激を遮断して脳の興奮を鎮めたほうが良い。心理療法はアサーティブと論理療法に限ったほうが良い。心理療法ショッピングはもうやめよう。脳の興奮を鎮めることさえできれば、問題のほとんどは解決する。仕事はその次に考えることだ。文校がなぜ疲れるか。芸術家は物まねがうまい。良いことも悪いこともすぐ真似する。私の悪い点もすべて取り入れて攻撃的なところもすぐに真似して攻撃してくる。心身が持たない。仲良くしようなんて無理だ。私の中には攻撃的な反社会性、犯罪性がある。安らかな気持ちになることだ。それは言い換えれば脳の興奮を鎮めることだ。人と会わないことだ。引きこもっていたのは良いことだった。私には必要なことだった。必要な時間だった。脳の興奮を鎮めよう。小説を書きたいという気はあったのかというとないといわざるを得ない。書ける能力もない。フィクションを書けないのだから小説家には向かない。何のために行っているのか最近わからなくなった。わけのわからない小説を読まされて気が狂いそうになる。これもストレスになるんじゃないだろうか。通い始めてからおかしなことが起こるようになった。おかしさに拍車がかかった。
 私が腋臭だろうが、分裂病だろうが、性的少数者であろうがどうでもいいことだ。障害者は生きていちゃいけないのか。人権を守ろう。
 最近酒を飲みすぎる。酒量が増えた。ストレスがたまっている。父親もストレスをうまいこと処理できなかったのだろう。酒に逃げていた。私も気を付けよう。
 あまり家にこもっていると良くないかと思って外に出てきた。しかしあまり気分は良くなかった。若い娘に目が行くがどうにもならないので目の毒なだけだ。刺激するもの、欲望を刺激するものは良くない。もっと良くなってからでも良い。下流社会という本と島で暮らそうという本を買った。もう本はこれ以上必要ないのに。私は少ないものだけで生きていける。
 脳の興奮を鎮めよう。人に会いたくない。本当に会いたくない。掲示板に書き込むのも嫌だ。不意に襲い掛かってくる基地外がうようよいる。どうして人を信じるんだ。そんなおかしなやつら。悪いことをするに決まっているのに。文校でも自分が守れない気がする。組み会も面白くないし、飲み会も同様だ。少し休もうかと思う。刺激はもうたくさんだ。あの薬を飲んだのは本当にまずかった。具合が悪くなった。今自分に必要な倫理を早急に確立しよう。
 脳の興奮を鎮めよう。全く世の中と噛み合わなくなっている。脳の興奮を鎮めることができたら正常化するだろうか。それとも興奮したままコントロールしなければならないのかさっぱりわからない。人が恐い気がする。会社に行っても鍼灸院に行っても文校に行ってもサークルに行っても変な顔をされるだけだ。抗うつ剤を飲んだのはさすがにまずかった。脳の興奮を抑えないといけないのにハイになる薬を飲んでしまった。脳の興奮を抑えよう。うつの背後にはibがあるだろう。それを正せばうまくいく。日記に書いていればいいことを掲示板に書くのはやめよう。人は優しくなんかない。自分をこれ以上傷つけるのはだめだ。人はすべて常にやさしくなければならないというibがあるから何度傷つけられても行ってしまう。そんなルールはないのだ。あのおばはんが私をいじめようが咎められるいわれはないのだ。私の父は優しかった。ところが世間はそうではなかった。そこに私の発病の原因のひとつがある。遺伝もあるだろう。脳の興奮を鎮めようと思ったことは大変正しい気づきだ。だから悪い方向には行っていない。正しい方向に行っている。
 脳の興奮を鎮めないとまたおかしな方向に行くだろう。おかしなやつらとは付き合わないことだ。人それぞれ個性がある。それぞれibを持っている。それを他人が正すことはできない。私は私のibを正すことができるだけだ。本当に嫌だ。嫌だと感じる背後には何らかのibがある。恐怖や嫌悪感。おばはんは私を侵害してくる。それはibではない。ibは全ての人に好かれなければならないというもの、全ての人を好きにならなければならないというものだ。人とは仲良くならなければならないというib。仲良くできないと思えば仲良くなんかしなくて良い。言うことを聞かないと不利という理由で仲良くする。従順である。女にそんなことを強いてもだめだ。ibだ。人にいつの間にか仲良くするよう強いている。ibだ。私は意外にibから自由な気がする。女と同じだ。女は全く自由だ。昔の女と違って完全に解放されている。私がibから自由になるのに長い時間がかかったが女は初めから自由だ。人を恐れたりすると攻撃してくる。自分が強いと思い込む。しつけのできていない犬と同じだ。kやhと同じだ。私がibに囚われているので他人にも強いてしまう。
 脳の興奮を鎮めないといけない。文校で気味悪がられたのは脳の状態が普通でなかったからだ。芸術系の人々はそういうものを見抜くのがうまいのだ。ものすごく引かれていた。人を必要以上に恐れてはいけない。嫌ってもいけない。ibに囚われている。それをひとつずつ解きほぐすことは良いことだ。がんばろう。私は精神障害で何もできなくなってしまった。だからせめて小説くらいうまく書きたい。ある程度めどはついた。がんばるだけだ。あの基地外は私の悪い点も全てコピーする。人間コピー機だ。自分の醜い自画像を見せられているみたいでぞっとする。それがわからないのだろうか。あいつのだんなはどうやって耐えているんだ。信じられない。人を恐がったりしたら損だ。つけこまれてしまう。そんなことは当たり前のことだ。
 ほんとあの掲示板はやめたほうが良い。最初から嫌だったし、今も嫌だ。ほかの連中は皆顔見知りなのに、私一人知らないのだから入っていってもだめだろう。自分を大事にしなければいけない。今こそ自重しよう。自分を大事にしよう。新しい出会いなんかより、安全第一だ。文校も嫌になってきた。ババアがいじめる。どこでもババアだ。嫌われると怒って攻撃してくる。黙ってセクハラに耐えないといけないのか。おかしいじゃないか。アサーティブに行こう。さわやかに自己実現しよう。恐くなんかない。嫌なことを嫌というのは恐いことなんかじゃない。
 ほんと基地外ばっかりだ。自分を大事にしないといけない。もう文校やめようかな。あんなき地外ババアにいじめられるのは嫌だ。私が行くようなところではないのじゃないか。もっと自分を大事にしたほうがいいんじゃないのか。ババアはほんとに嫌だ。何で嫌がらせをされなければいけないのだ。全くわからない。完全におかしい。あの頭おかしいババア氏ね。
 自重しよう。脳の興奮を鎮めよう。日記の書き込みもおかしいんじゃないのか。脳の興奮を高めるのではないか。ほどほどにしておこう。日記だとどうしても自分の独り言だから独善的になってしまう。そうかと思うと自虐的になったり、攻撃的になったりする。止め処がなくなる。大変危険だ。人の本を読んだほうがまだましだ。
 ババアが嫌いとか女が嫌いとかhが嫌いとか言うのは相当やばいところまできている。どうしてここまできているのに放っておいたのか。普通嫌いでも態度には出さない。それが出てしまうということはおかしい。掲示板のあの基地がい野郎みたいに。態度に出す出さない以前にそういう気持ちになることが問題だ。そこを何とかしたほうが良い。
 日記やめたほうがいいんじゃないのか。どんどん心が悪くなっていくのじゃないか。例の人の日記を毎日読んでいるが、誰のために書いているのかわからない。自分をさらに傷つけているような気がする。でもそうせざるを得ないのだろう。そうしないとおかしくなりそうなのだろう。リストカットみたいなものだ。論理療法やアサーティブはアメリカ人が考えたものでわかりやすい。
 論理療法とアサーティブを実際に実践してみよう。私は他人とどう接してよいかわからない。だからもう全面的に他人の考えを受け入れよう。もう自分の力では無理だ。強さが残っていない。他者との接点に論理療法とアサーティブを使おう。



2005年10月29日(土)

 今日は雨。打つ出し脳。アサーティブとは人権思想だ。私はわきがで性的少数者で人と仲良くできない。でも人権はある。私がどんな人間でも宅間みたいな人間でも人権はある。本来死刑などあってはならない。結局中学の頃も私がよりどころにしたのは人権思想だ。ルソーでありマルクスだ。権力の桎梏から人を解き放つものだ。日本人の差別もいい加減にしないといけない。でも私は権力を志向したことがある。似合わないことをしてしまった。でも差別や人権侵害から人を救うにはやはり権力が必要だ。アサーティブは権力をよこせという戦いだ。黒人は人権を剥奪されたままでいいのか。女は私の外見が男なので抑圧者と受け取るらしい。文校やサークルでいじめにあうのはそういうことだ。しかし私には人権がある。人権の主張は哀れみを乞うことではない。対等な立場でできるものだ。でもブスばかりのクラスに美人が入ってくると途端にセクハラするじゃないか。私も権力者として振舞いたいのだ。権力にはそういう魔力がある。組合だってそうだ。会社の言うことをコピーしてるだけなのに甘い汁を吸っている。でも皆で甘い汁を吸いましょうというのがマルクス主義だ。でも幻想に過ぎなかった。人間の欲望を肯定する資本主義の勝利に終わった。資本主義はマルクス主義も取り込んでいる。
 どこへ行っても嫌なやつはいる。いじめにあう。明らかだ。どこへ行ってもだ。文校に逃げ込んでも同じことだ。恐いというのは嫌いということと同じことだ。恐いと思うと嫌いになる。ハンセン病者の顔は恐い。顔は人間の意識が集中する場所だ。それが崩壊しているので恐い。恐いから嫌いとなる。自然といえば自然だ。
 人権闘争だ。アサーティブは。でも仕事をしない言い訳になっていないだろうか。私は確かにあの基地外と仕事をするのは嫌だ。うつになってしまった。あまりの嫌さに。何でも受け入れる私が受け入れられなくなった。誰でも受け入れなければならないというのはibだ。受け入れたくなければ受け入れなくても良い。でも誰も受け入れないという引きこもりの思想は自分で自分を兵糧攻めにしているようなものだ。うつで人格崩壊。仕事拒否。この点は行動を変えればすむことだ。人権闘争とは別の問題で、論理療法の守備範囲だ。
 安らかな気持ちであれば頭の回転が速くてもいいが、頭の回転が速いだけなら精神障害か、犯罪者だ。今の私はちょうどそういう状態だ。だから恐がられる。恐がられるというのは嫌われるということだ。恐いと思う存在を好きにはならない。smくらいだ。そこまで行くと人格崩壊一直線だ。smはibだ。嫌なことでもやらなければならないという。権力者に多い。法律は元々ibだ。道徳宗教もibだ。ネバならないの塊だ。ネバならないことなんかないのに。引きこもりはそういうことに無言で抗議している。学校に行かねばならない。良い大学に行かねばならない。良い会社に就職しなければならない。世の中全体がibだ。ニッポン株式会社。でも会社にいる以上はibに付き合わねばならない。会社のibに付き合わねばならない。このネバならないは、強制だ。解雇、評価、給与でいくらでも締め付けられる。現に私はこんなところに流されてもう戻れない。でも戻りたくもない。あんなibの塊みたいなところに不良中年の私が戻れるはずがない。
 働けないというのがしんどいなあ。大きな顔ができないのは当然だが、基本的人権まで侵害される。会社というのはそういうところだ。自分で自分を売り渡しているのだから仕様がない。自分には自分の働き方がある。大声でわめき散らすだけが仕事じゃない。そんなやつはあいつしかいないじゃないか。静かに仕事すればいいだけの話だ。
 私は何の理由であれ目の敵にされるのが辛い。遅刻したから、仕事ができないから、馬鹿だから、貧乏だから。いろいろ理由をつけていじめてくるのはあの基地外が自分が好かれないので反撃しているだけだ。好かれないからといってどうして攻撃してくるのか理解できない。文校でも同じだ。好かれないので攻撃してくる。すべての人を好きにならなくても良いだろう。それはibだ。でも逆にすべての人に好かれなくても良いだろう。でもすべての人に好かれないのは耐えられない。弱くてもいじめられないようになりたい。女は弱いと思うといじめにかかってくる。女は優しくなんかない。男と同じだ。アサーティブは弱くても自分を守ることはできるということだ。女との関係は一部競合する。でも一部はそうではない。だから女同士ではない。今は透明な存在だ。好きでも嫌いでもない。恐くもない。関心がない。遠くにいてほしい。係わり合いになりたくない。人権問題と捉えれば強調ということもありうるが、性愛の問題と考えると違うといわねばならない。ねばならないというとibになるが、そういったほうがいい。人を殺してはならないといっても、どうしても殺さなければならない状況であれば罰せられない。人権問題と考えれば同じ立場に立てるのであって、協調できるだろう。でも私が人権というとうそ臭いと思われる。私は中学のころいじめられたので人権思想とマルクス主義に頼った。悪くないと思う。時代が変わっても人権思想は変わらない。いつでもそこに戻れる受け皿だ。人権を床の間の飾りにするのではなく実際に使おうというのがアサーティブだ。だから不穏当ではある。場面によっては。力関係によっては。でもあの二人は人権を理解できない。理解できなくてもかまわない。権利なのだから嫌でも受け入れてもらわないといけない。女に対して私はそれを言いたい。愛されないと納得しないのはおかしい。ibだ。私と女の間にあるのは性愛でも仲良しクラブでもなく人権思想だ。対等で率直で誠実な関係だ。味気なかろうとぎすぎすしていようと構わない。人間は好き嫌いで決まるというのはibだ。
私がやったことは基本的にOKだ。馬鹿と付き合ったことも入院したことも、会社を辞めたことも全部okだ。後悔なんかしない。それは理想の人生、過ちのない人生を送らなければならない、人生の勝者でなければならないというibだ。あの基地外はその私のibをコピーしているのだ。何でも猿真似だ。アサーティブに接すればアサーティブにまねするだろう。それは歓迎だ。論理療法とアサーティブはまねして結構だ。asはぎすぎすするがそれもやむをえない。あの基地外が桁外れにぎすぎすしているのだ。恐い、嫌い、気持ち悪いはセットになっている。どれにでもなりうる。おばなんかは第一候補だ。でも今は恐くもないし嫌いでもない。嫌いとか気持ち悪いというと攻撃の口実を与えることがわかった。アサーティブに自分を守ろう。
 文校でもしゃべるのは嫌だ。誰とも仲良くなんかなりたくない。最初の時間からおかしかった。おかしいといわれてもわからない。今はあまり外に出ないほうがいいと思う。そんなにいじめなければならないほど変かという問題がある。本当に変だ。あいつらは。外に出て行くのはおかしい。今こそ自重して慎重にいくべきだ。というより行ったほうが良い。ネバならないというのは全部おかしい。
 今日は良く働いた。楽しかった。私は腋臭だ。二度手術して治らなかった。だまされた。痛い思いをして腋毛も失った。今は前よりひどい気がする。わきがであってはならないというibのせいだ。腋臭でもいいのだ。ダウン症だから悪いのか。障害者だから悪いというのはibだ。女は障害者だ。差別されている。だから被害者意識を持つのはもっともだ。実際差別しているし。でも女だからだめ、というのはibだ。日本の男尊女卑が甚だしいのは戦国時代の影響か。戦では男が尊重されるのも無理はない。でもそれ以前には差別はほとんどなかったらしい。ibであることは明らかだ。私はokだというのが本当に実感できるようになって来た。全てのibを捨て去ろう。全てというとまた新たなibになるか。
私はokだ。今日は楽しかった。よく働いた。恐いものはない。嫌いなものはない。女がどうしたというのだ。ただの馬鹿じゃないか。反撃できないというのがおかしい。反撃はいくらでもできるのだ。
 アメリカ人は大嫌いだ。当たり前だろう。日本に原爆を落とした国なんだから嫌いで当たり前だ。私の腋臭を電車の中で罵った。というか絶滅すればいいんだよ、おまいらなんか。市ね。絶滅しろ。豚。嫌いなものは嫌いだ。嫌いなものを何で好きにならなければいけないんだ。馬鹿。市ね。
 人間は死ねばいい。アメリカ人と日本人は。人類は滅びるべきだ。私はokだ。私は何も悪い点はない。掲示板が面白いことになっている。変なやつとおっさんがけんかしている。でもおっさんの方が正しい。変なチンピラみたいなやつで前から苦々しく思っていたのでいい気味だと思った。よく言ってくれたと。でも良く考えると人はものを言うとき必ずバックに集団を背負っているつもりなんじゃないかと思う。背後に集団を背負っていることが正しさの証だと。今回の場合、あの基地外が抗議されたとき、良くぞ言ってくれたと思った。それは自分の考えと集団の考えが一致したと思ったからだ。私はそういうことはめったにない。そういうことが多いほど良いんじゃないのか。集団の意思と自分の意思が一致することが大事なんじゃないのか。少数意見は無視される。多数意見に従っていたほうが楽なんじゃないか。集団と自分が一致しているのは楽しい。権力が自分と一致していて自分に歯向かうものが賊軍だということになっているからだ。権力と自分が一致するのは楽しいものだ。常にそうなるようにしよう。集団に一致するというのは楽しいものだ。権力と自分が一致するというのは楽しいものだ。自分が権力を持つ必要はない。女が出世が早いというのと同じことだ。アサーティブとはそういうことだ。集団と自分の意見が一致しないときは集団の上に立つことだ。不可能ではない。権力者に訴えることだ。不当な仕打ちを受けたときは裁判所に訴えるだろう。自分が強いと思うからできないが女みたいに自分が弱いと思えばできるのだ。もちろん自分でもできるのだが。



2005年10月28日(金) 自分

 最近調子が悪い。皆にいじめられていると思う。会社はもちろん、文校でもサークルでもどこへ行ってもいじめられて居場所がない。つらい。母親もこの間の温泉がこたえたのか何も言ってこない。悪いことばかりしてしまう。いいことができなくなっている。論理療法もいいが自分の行動も変えることを考えたほうがよい。仕事を真面目にやるとか、生活をきちんとするとか、部屋の掃除をするとか。サークルで出歩いているばかりじゃない。今こそ慎重に行動すべきだ。文校に行ってもばばあや親父や教師にいじめられる。味方がいない。仲良しクラブじゃないのか。権力が絡むとわからなくなる。自分が損をすることはやめて利益だけを図ろう。自分の利益だけを。もちろん他人の利益は尊重するが、自分の利益が最優先だ。私が利己的に見えるのか。そうではない。アサーティブになって自分を守ろう。論理療法で自分を改善しよう。後は働くだけだ。
 女については何も考えないほうがよかろう。好きとか嫌いとかここがどうとか考えても仕様がない。別世界の住人だ。遠い惑星の石ころについて何も考えないように女について何も考えない。幸い性欲もほとんどない。利害関係がないから争うこともない。男に生まれたから女を好きにならなければならないというのはibだ。好きになれるやつは好きになったらいい。私は好きでも嫌いでもない。恐いとも恐くないとも思わない。無縁だ。
 アサーティブとは何か。弱い人間でも自分を守れるということだ。護身術だ。いくら弱くてもいい。男だから強くなくてはならないというのはibだ。強いに越したことはないが、弱いからといって少しも困らない。より強いやつの力を借りればいいし、自分でも十分自分を守れる。泣き寝入りする必要など全くない。台湾のハンセン病患者でも国を相手に勝てるのだ。
 論理療法は私のibを明らかにする。私の考えはほとんどibだ。断定するところとか、極端な思考、ネバならない、ibの見本市のようなことを書き連ねていたことを思い出す。ibを捨てると実に楽だ。男が女より偉くなくてはいけないのか。男が女みたいで何がいけないのか。法律や道徳は100%ibだ。破られるためにある。だって最初はなかったじゃないか。服も着ないで近親相姦でも何でもありだった。それが今は気取って飯食うのにも無数の礼儀作法がある。どれも破っても死んだりはしない。人を殺しても死んだりはしない。大阪にいると、人間が如何に多くのibに囚われているかわかる。働き者の皆さんはみんなibに囚われている。働いて業績を上げなければ、出世しなければ、稼がなければ、良い家に住まなければ、幸せにならなければ、皆ibだ。幸せに越したことはないがネバならないというほどではない。不幸でないに越したことはないが、不幸だからといって飢え死にするわけではない。偉くなってもいじめられるだけだ。ばかばかしいにもほどがある。権力者はibに囚われているかもしれない。ご苦労なことだ。リーダーは法律というibを執行しなければならない。それが仕事だ。だけど本当にibに囚われているだろうか。そんなはずはない。信長がibに囚われていたか。最もibから自由であった。私はいくらなんでもibに囚われすぎだ。だから生きることさえできなくなった。
 ネバならないことなどない。全くない。人に好かれなければならないか。好きにならなければならないか。仲良くしなければならないか。挨拶しなければならないか。目上の人に気に入られなければならないか。全部ibだ。しかも誰も信じてはいない。私が一番囚われている。誰も真面目に仕事をしなければならないと思っているやつなどいない。ibだと皆知っている。人をいじめちゃいけないか。いじめてもいいと皆思っている。自分がいじめられるといじめがあるなんてとショックを受ける。いじめてもいいと思っているに決まっているのに。愛と信頼と相互理解で職場の人間が結ばれていなければならないか。そんなこと信じているやつは私以外独りもいない。平気でいじめをするじゃないか。良い人じゃなければならないなんて誰も信じているわけないじゃないか。そんなやつがどうしていじめなんかするんだ。何で良い人じゃないといけないんだ。そんなやつ一人もいるか。
 悪いことをしちゃいけないか。攻撃しちゃいけないか。悪いことをされて反撃しちゃいけないか。誇りを傷つけられて起こっちゃいけないか。全部ibだ。自分の利益を図っちゃいけないか。私利私欲を追求しちゃいけないか。女を好きになっちゃいけないか。仏陀の女と交わってはいけないというのは最大のibだ。ibだから日本では誰も守らなくなった。女は優しくなければいけないか。全然やさしくなんかないじゃないか。一体どこに目をつけているのか。
 文校で私は警戒されているらしい。鍼灸院でも同じだ。不気味がられ、不審がられ、嫌われ、いじめられる。私からすれば何の理由もなく。でも相当に風変わりだ。それでいじめられないと思い込むのがibだ。当然いじめるだろう。ばかにしているようなニヤニヤ笑い。無言で決して打ち解けようとしない。非協調的な態度。なにやら攻撃性を秘めている。何をするかわからない。それはいじめるでしょう。いじめないはずだというibはどこから来るのだ。いじめるべきでない?それがibだ。何度試しても同じだ。必ずいじめるだろう。理解しあえばいじめないだろうか。絶対そんなことはない。
 何で人に好かれなきゃいけないんだ。何で自分をいじめるやつと仲良くしなきゃいけないんだ。何で自分を嫌うやつと仲良くできるんだ。何で関係を改善しなきゃいけないんだ。何で馬鹿と付き合わなきゃいけないんだ。
 自己犠牲をしなければならないというib。これが一番悪質なibだ。カミカゼ、ハラキリ、玉砕、バンザイクリフ。西洋人には理解できない。これはやめましょう。リーダーになればそれは必要かもしれない。サービス残業、過労死。自殺。馬鹿なことはやめましょう。生き抜きましょう。このきちがいじみた世の中を自由に泳ぎ渡って行きましょう。自己犠牲はだめです。
 自分を嫌う人間に好かれたいか。女に好かれたいか。全くそうは思わない。透明な存在。女は私にとって透明な存在だ。好きとか嫌いとか超えている。考える対象ではない。感情の対象ではない。興味の対象ではない。女を好きにならなければならないというibはもう捨てよう。好きでもないのに。女に好かれなければならないというibもついでに捨てよう。人と仲良くしなければならないというib。友達はいっぱいいなければならないというib。いなくていいじゃないか。人のために自己犠牲なんてまっぴらだ。
 自己犠牲はやめよう。馬鹿な子供と付き合うとか自分を傷つける人間と仲良くしようとするとか大嫌いな女と仲良くしようとするとか。自分の利益を守って何が悪い。自己犠牲をしなきゃいけないというib。税金を支払うくらいはいいけど命まで差し出すのは嫌だ。私は腋臭なので大体人に嫌われる。嫌う人間と仲良くするなんて馬鹿だ。人に嫌われるんだったらそれでいいんじゃないのか。どうしても人に好かれなきゃいけないか。それがibだというのだ。全てのibを捨てても良い。捨てなければならないとすると新たなibになるが。



2005年10月27日(木) 文校

 今日は文校の日だった。h君の作品が抜群だった。力をつけている。若さだなと思った。私もがんばろう。それにしても調子が悪くて最初に逆戻りしたようだ。いじめもある。私はどこへ行ってもいじめられる。周囲の全員を敵に回し代表者であるリーダーが私をいじめにかかる。いつものパターンだ。落ち着こう。こういうときこそ自重して慎重に行こう。しかし不愉快だった。ババアはどうしても不愉快だ。セクハラするか、いじめるか、両方だ。始末に終えない。女は嫌いでもないし怖くもない。気の迷いだ。あんなものを恐がったり、嫌ったりする理由はない。そんなそぶりを見せるとむやみに攻撃してくる。本当に始末に負えない。環境は整った。薬で病気は治った。後は仕事をやるだけだ。こういうときこそ自重しよう。仕事を大事にしよう。ふざけないで真面目になろう。外に発散しないで集中しよう。アサーティブに生きよう。それは自分も他人も絶対に傷つけないということだ。人と仲良くしなければならないというのはイラショナルビリーフだ。誰も仲良くなんかしていないのに。人が愛と信頼と完全な理解で結ばれていると考えることはebだ。ネバならないと考えることは全てebだ。



2005年10月26日(水) パソコン

 パソコンがやっと来た。メールを除いて設定できた。嬉しい。抗うつ剤を飲んで気分が悪くなった。しばらくやめよう。アサーティブでありたい。論理療法をがんばろう。今のようなときだから慎重に自重して丁寧に生きよう。くそみたいな女のために人生を台無しにしてはならない。安らかな気持ちでありたい。死ぬときも同じだ。自分の利益だけを考えよう。自分の利益を死守しよう。アサーティブとはそういうことだ。
 抗うつ剤を飲んでから具合が悪い。頭が上滑りしている。目に見えるものが頭に入ってこず、違和感がある。リスパを飲むか。無理しないで。今やはり飲むべきではなかったのだ。十分コントロールできるが、やはり無理がある。誰ともうまくやっていけない気がする。今日kが組織を変えるといった。ある程度救われるんじゃないかと思う。もうこれ以上は無理だ。あのkとかhの態度は全く理解できない。あれで一緒に仕事なんかできるわけない。二度目に戻ってきたとき、大きな物音を立てて私を威嚇した。いったい何の真似だ。人と仲良くすることは無理だ。文校でも最初はうまくいかなかった。今もうまくいっていない。いろんなサークルに行ったけれども結局うまくいかない。人格が変わったと思っていたがそれは自分だけでやっぱり受け入れられる状態ではない。無理してはいけない。今こそ自重すべきときだ。ゆっくりじっくり行こう。全く本調子ではない。ものすごく変な目で見られる。腋臭だけの問題ではない。抗うつ剤で調子がおかしくなっている。精神状態はカウンセリングと服薬と北原に言うことによって改善された。これ以上くどくど言えばかえって不利益をこうむるだろう。論理療法でいうと完全さを求めるとかネバならない思考による低ストレス耐性症だろう。こういうときこそ自重しないと破滅への道だ。人生は苦しい。仕事はつらい。人間関係は厄介だ。誰にとっても同じなのに自分だけ完全に楽でなければならないと考える。不合理な思考。それが狂気だというのだ。地道に足元を固めていこう。自分の利益を図るべきときだ。
 頭の回転が速いということは問題だ。仕事が速いということは手を抜いているか人に振っているだけだ。それは仕事とはいえない。落ち着いてじっくり立て直しを図るときだ。どんどん外に出て行って何かを求めるときではない。逆にできるだけシンプルにすることだ。
 書くことはやはりストレス発散になる。女は今は無理だ。あの変なdvdをみてからほんとにおかしくなった。自分の利益を壊してはならないし、自分の尊厳を傷つけることもだめだ。h君と同じになってしまう。文校の中でさえ許されないことだ。アサーティブとはまず自分にアサーティブになることだ。自分を傷つけないことだ。汚さないことだ。危害を加えないことだ。不利益を与えないことだ。絶対に自分を傷つけてはならない。女は嫌いでも怖くもない。でも今は無理だ。絶対に無理だ。アサーティブに接することは可能だろう。男女に限らず。自分が悪いと思うこともアサーティブのひとつだ。アサーティブは悪いことをごり押しすることではない。抗うつ剤は逆効果だ。飲むべき薬を間違えた。父親がなくなった教訓はどうしたのだ。これ以上人も自分も苦しめないと誓ったのではないのか。自分を責めているのではない。サドを見てヒットラーを見て人はなんというだろう。正当化できる言葉があるだろうか。偉いから何でも許されるのか。偉いとは何のことだ。貴族だから偉いのか。良い学校出たから偉いのか。そんなことはない。どうしたら正常に戻るか。論理療法か。アサーティブか。まず自分を疑うことだ。自分が悪いのではないかと疑うことだ。悪いことをしてそれがなぜ通ると思うのか。弱いものをいじめて楽しいのか。強さに解決を求めるのは間違いだ。部長を見ろ。偉そうにしても島流しにあっている。自分が常に正しいと思うものの悲劇だ。一度自分がおかしいと悪いと疑ってみることだ。悪いことをしたいという欲望が私の中にはある。悪いことをしていても全く気がつかない。あるいは好んで悪いことをする。悪いことをしても何ら良心の呵責を覚えない。やっぱり私はおかしい。足を組むなとか昼休みに騒ぐなといってみてもだめだ。もうその時点でおかしい。ノイローゼか分裂病だ。確かにかつては偉かった。でも今は何だ。謙虚にならなければならない。今やることは手を広げることではなくできること、得意なことをしっかり丁寧に慎重にやることだ。行け行けどんどんではない。今こそ自重すべきだ。
私は自分に適応していない。どん底まで落ちて人に馬鹿にされるようになった自分になれていない。こんな自分になれろというのか。でも仕方がないだろう。頭も悪くなった。年老いた。キャリアも積んでいない。貯金もない。妻子もない。勉強もしていない。自分の治療に精一杯。誰も相手にしない。もっともなことだ。最低のどん底に落ちたのだから逆に焦らず、じっくり自重して絶対に人も自分も傷つけないと誓うことだ。今こそ自重せよ。キジも鳴かずば撃たれまい。ゼロからやり直すしかないではないか。何も蓄積がないということは逆に自由だということだ。しかし人生は一度きりで短い。チャンスはごく少ない。私はすべてを無駄遣いしてしまった。今こそ自重して落ち着いてこれ以上損しないようにすることだ。心身の病気だから仕方がなかったのだ。決して自分を責めてはいけない。何もかも残っているではないか。自由に価値を高めていけるではないか。やる気さえあればいくらでもやり直せる。



2005年10月07日(金) 原稿

 もうすぐ原稿の締め切りだ。作家になったらさぞ不健全な生活になるだろう。究極の肉体労働だ。今日は一日気分がすぐれなかった。恐らく昨日遅く寝たからだろう。そんなことくらいでストレスを感じるなんてひ弱だ。でも安らかな気持ちでいたいと思い続けた。
 女が嫌いでも良いじゃないかと思った。それは関係ない話だ。過去に嫌なことがあって女が嫌いになったとしても今目の前の女はそんなことは知らない。だから嫌いということを今目の前の女に言うべきでもないし、態度で示すべきでもない。安らかな気持ち、アサーティブな気持ちがあればそういう気持ちにはならないだろう。



2005年10月05日(水) 今日

 今日は落ち着いて過ごすことができた。安らかな気持ちで。安らかな気持ちである時は悪いことを考えない。普通の人間は悪いことは考えないものだ。私は違う。放っておくと悪いことを考える。だから考えない方が良い。人間は悪いことはできないようになっている。宅間みたいに悪いことをやって得をしようと思っても得にはならない。今は何をやってもうまく行く気がする。当たり前だ。うまく行かなければ誰も相手にしない。仕事もうまく行く。小説もうまく行く。人間関係もうまく行く。女もうまく行く。これが普通なのだ。人間関係にしろ何にしろ考えてもだめで、体で体得する以外にない。ヨットでも体で分かったからうまく行ったのだ。考えてもだめだ。
 会社の女は嫌だが、社外の女だったらしがらみはないし大丈夫なんじゃないのか。ヨットに行った時も女というだけで構えてしまったが、大丈夫だ。会社の女が嫌いなんだろう。女一般が嫌いなのではないだろう。社外の女だったら積極的に行っても良いんじゃないだろうか。
 私は会社では全くしゃべらない。そうするとしゃべらないで良いと思う。でもサークルに出た時はしゃべった方が良い。しゃべらないというのはおかしい。大体いつも泥棒に間違えられる。



2005年10月04日(火) 今日

 安らかな気持ちというのはいいものだ。そうすると落ち着いて物が考えられるし、行動ができる。ヨットは面白い。自分の欠点が良くわかった。女は苦手意識がある。こんな不幸で良いわけがない。でも今は何をやっても失敗する気がしない。何をやってもうまく行く。今回のヨットもかつてなくうまくいった。アサーティブに生きていこう。アサーティブは好き嫌いとは関係ない。嫌いということはアサーティブではない。人を見ても何も反応しない。特に女はだめだ。いても透明に見える。遠い目になってしまう。安らかな気持ちでいると悪の気持ちが消えていく。酔わなくなる。間違った気持ちが消えていく。人を受け入れる気になる。嫌いな人間がいなくなる。
 会社にいるときは天才サラリーマンであろう。そう思いこもう。家にいる時は、天才作家であろう。そして常に安らかな気持ちであろう。
 心理療法よりやっぱり実際に人に会って練習した方が効果がある。間違いない。体得できる。回路が体を通じてできる。頭で考えてもだめなことが体を使うとすっと分かる。この要領で行こう。



2005年10月03日(月) 今日

 昨日から一夜明けてやっぱり楽しかった。また行きたい。9時間も大勢の人と一緒にいてほとんど問題なかったこと、多くの問題に気付いたことは嬉しかった。帆が上がる瞬間は胸がすく思いだった。うつが一瞬消えた気がした。脳が勝手に興奮しすぎる。暴走状態になり、コントロールできなくなる。安らかな気持ちになると脳が普通になり、使えるようになる。邪悪なことを考えなくなる。女が嫌いとかどうでも良くなる。女との問題は簡単には解決しないかもしれない。でもそんなに大きな問題ではない。大きな問題と考えなければ良い。すぐパニックになる。パニックとは脳が暴走している状態だ。呼吸がいつも浅く余計なことばかり考える。女の問題はあまり大きな問題ではない。私は明らかに女と同性だと考えられる。すごく仲間扱いされる。でも私は嫌いで気持ち悪い。私は特別に悪い人間ではない。でも脳が暴走すると悪い人になる。安らかな気持ちになるよう一日中意識的に努力しよう。リラックスすることと同じことだ。何かまたヨットに乗りたくなった。彼らにまた会いたいものだ。
 女を嫌うのはやっぱり間違いだろう。間違いをいくら言い繕っても正しくはならない。安らかな気持ちになる。そうすると何が正しいかわかる。そして真面目な気持ちになる。やらなければという気持ちになる。安らかな気持ちになると意地悪な気持ちが消えていく。人に嫌われたいとか思わなくなる。逆に人に好かれて当然という気がしてくる。今何をやってもうまくいく気がする。うまくいって当たり前だろう。うまくいかない人間をどうして使うんだ。



2005年10月02日(日) 差別

 最近差別されるようになってきた。年をとると差別されるだろう。昨日の高台寺の馬鹿女はわざわざ駆け寄ってきて私が踊りを見ようとするのを邪魔した。京都の奴は全員頭がおかしい。必ず意地悪される。アサーティブに生きよう。差別される理由なんか無い。相手にしないことだ。hも相手にしないことだ。キチガイなんだから相手にする必要はないだろう。
 堺は犯罪者の巣だ。来てしばらくして犯罪の被害に何度か遭った。こんな町出たい。アサーティブに賭けよう。私は悩むことは無くなった。悩みは自ら生み出すものだ。hみたいなキチガイは相手にしなければ済むことだ。京都の奴とか頭のおかしな奴ら。アサーティブは弱者の最後の手段だ。みだりに使うことは無いが要所では使おう。怒ることはない。怒らせることもない。暴力は禁じられている。嫌うこともない。嫌うかどうかはアサーティブとは関係ない。アサーティブであれば嫌うことはないだろう。人を嫌うことはアサーティブではない。それは差別や偏見と区別がつかないからだ。私が女を嫌う理由は差別しているのではなく過去にひどい経験をしたからだ。左遷されたからだ。それで十分一生嫌う理由になるだろう。
 今日はヨットに乗ってきた。西宮のハーバーから出航した。m氏のイベントだ。途中酔いそうになったが何とか持ちこたえた。いろんなことを考えた。m氏にまた苛められた。相性が悪い。行かなければ良いのに。でもそれを上回る何かがある。自分が女性であって女性と競合するのだと思った。でも酔わないコツは人間関係のストレスをやり過ごす方法と同じだ。それは安らかな気持ちになるよう自分に言い聞かせることだ。ヨットマンに構えているとか力が入っているといわれた。でも今は何をやってもうまく行く気がする。今日も何とか最後まで無事に行けた。以前だったら絶対だめだった。ヨットで酔いそうになったとき安らかな気持ちになるよう言い聞かせた。そうすると快楽のレベルは下がる。でも落ち着いて脳が暴走を止めて正常に近づく。それは開かれつつ閉じていく。ストレスをコントロールする知恵だ。明らかに女性と同じ性だと感じる。これは偶然的なものだ。でもそれをどうするかは自分の理性で何とかなる。最初行った時は緊張ですごく辛かった。うつがぶり返しそうになった。社会人として生きていくことは簡単ではないのだ。簡単に生きている人間などいないのに。自分だけ簡単に生きて行こうなんて虫が良すぎる。人間に対してものすごい拒否反応が自分にあることがわかった。攻撃的な感じ。敵意と言っても良い。それを抑えようとすると自閉的になる。でもそれは明らかに現実と合わない感情だ。歪んだ思考と言っても良い。人が敵意など持っていなのに悪意に取って自分が嫌われていると感じる。そうすると自分の中に敵意が生じる。女に対して生じる敵意のメカニズムはそうだ。自分の中の敵意を他人に特に女に投影してしまう。それが今日雨雲のように心にあるのが感じられた。
私の今のテンションの低さはうつ病と言って良いレベルだが、それは攻撃性を内包している。中学の時から変わっていない。人が恐い。でも今大きな転機を迎えようとしている。今までクリアーできなかった壁をクリアーできる気がする。そんな壁なんかはじめからないのだ。簡単に一跨ぎできそうだ。安らかな気持ちの背後にあるのは他人は決して自分を傷つけないという信頼だ。今何をやってもうまく行く気がする。実際かなりうまく行った。自分が動き出している気がした。安らかな気持ちになると人を拒絶する気持ちがすっと消える。抵抗が消える。当たり前のことができるような気がする。戸塚ヨットスクールを思い出す。厳しいやり方が今は合っているのかも知れない。無理やりシュノーケリングをやってみたり、飛行機に乗ったり、ヨットに乗ったり、自分に少し厳しくしてみた。人の中にいることは大変なストレスだ。それでもやってみる。今だったらそこから自分を変えるきっかけを掴める気がするからだ。今まで確かに自分を変えずにやってきたけど(やれてなかったけど)私のうつは大変な攻撃性のようだ。この間のアッシュの飲み会ではそれがはっきりと裏目に出た。でも今日は少し改善した。帰りの電車で悪い人はいないんだというカウンセラーの言葉が信じられる気がした。それを信じることは大変な勇気がいる。傷つくこともあるからだ。でもそれを恐れていてはいけない。飛行機に乗ることも人を信じることだ。機械ではない。ヨットに乗るのも人を信じることだ。人を少し信じることができるようになった。悪い人はいない。そこまでは言い切れないがほとんどいないと信じられるようになった。悪い人はいない。今日話していて少しずつそれが理解できた。私が考えすぎる。もう大丈夫なような気がする。今までできなかったことができる気がする。人は誰も完全ではない。限界がある。それだからといって人を責めることはできない。自分も同じだからだ。
 女に敵意を持つメカニズムはさっき書いた通り、自分がまず女に敵意を持つ。過去に嫌な思いをしたから、元々嫌いだから、色々だった。それが相手に感染する。女同士がうまくいくのはそういう訓練をしているからだ。仲良くしようと意識的に努力しているからだ。でも私はその気がさらさらない。嫌いでも仲良くしようという気がない。うつだし、その気力がない。でも安らかな気持ちになったとき、嫌いという気持ちがすっと収まった。なくなったわけではないが、現実とはかけ離れた敵意がコントロール可能なまでにしぼんでいく。だれでも持っているレベルにまで下がっていく。これなら大丈夫だと言えるくらいまで。死ぬ時も安らかに死んでいこうと思った。生きている時もいついかなる時も安らかな気持ちであるべきだ。諦念を持つべきだ。オニババな気持ちになるのは欲求不満が大きい。今日朝初めて会ったときと分かれる時とではとてつもなく違っていた。普通に好きになれそうな気がした。不機嫌というのは攻撃的なことだ。私は長いこと人と離れて暮らしているので人前で平気で不機嫌な顔をしてしまう。女が嫌いという気持ちをはっきりと顔に出してしまう。かなり疲れている。テンション低い理由はうつだろう。でもそれは何かの結果でもある。それはアサーティブや、論理療法で意識して取り除くことが可能だと信じる。今までは可能ではなかったが、これからは可能だ。時が満ちた。あの変なおっさんともうまくやれるのだから誰とでもうまくやれる。テンション低くても何とかうまく人と付き合っていける。それは理屈ではなく体得しないとだめなようだ。今日一日中人といるというストレスフルな状況に耐え抜いて何とか過ごすことができたのは自信になった。もう大丈夫だ。何をやってもうまくやれる自信がついた。
 もう大丈夫なような気がする。大丈夫じゃない時は何もできず何をやってもうまくいかなかったのが今は何をやってもうまく行く気がする。安らかな気持ちで人と争う気がしない。自分の利益を守ろうとするからだ。うまくいかないときといくときとでは何もかも違う。うつな状態から自力で抜け出せるだけの力が身についた。安らかな気持ちになった時に心が落ち着き、人を信頼でき、人への敵意が消え、受け入れる気が生じる。今日初めてそういう心理になった。これは実際に人を相手にして体感しないとだめだ。だから辛いこともあるが勇気を出して旅行したり、サークルに参加したりする。ああいう健常者が集まるイベントは安全とは言いがたい。文校もそうだ。安全ではない。でも一番鍛えられ、実際に効果があるのはそういう辛いサークルに出たときだ。実際に自分の誤りがダイレクトに伝わるからだ。これが一番はっきりして分かりやすい。私の理解力は以前とは比較にならないくらい高まっている。悪い人はいない。女だって悪いわけではない。悪いという現実ばなれした歪んだ思考が私の側にあるだけだ。それを相手に投影している。この悪循環を断ち切るべきだ。安らかな気持ちになること。これは生きる準備であり、死ぬ準備だ。魅力とは何かプラスアルファのものだ。人から吸収ばかりする奴は嫌だ。アサーティブとは言えない。アサーティブは無償で何かを付け加えることだ。人から要求するばかりではいけない。人間が生きるとは本来無償だろう。無償の愛を受けて誕生し、育てられたのだ。無償で何かをしてあげることは大事だ。
 風をはらんだ帆は文句なく美しかった。人間もこうありたい。船上を駆けずり回るヨットマンも文句なくカッコ良かった。やっぱりこうありたい。川端の小説の文章を味わうような魅力がある。



2005年10月01日(土)

 今日は休みだ。ここまで来るのに大変な年月かかった。でもやっとアサーティブに言うことができるようになった。自分の望むことを望むとおりに言えるようになった。大変な進歩だ。でも必ず身に付けなければならない事柄だ。なおざりにして良い問題ではない。今考えの筋道が良くなってきた。前はかすりもしなかったことが当たってくる。誰にでもからめるようになった。自分を天才作家だと思うことにしよう。そして天才ビジネスマンだと。天才常識人だと。天才市民だと。天才ニューヒーローだと。そして恐れず仕事に向かっていこう。私の能力をもってすればどんな仕事だってこなせる。そう信じて頑張っていこう。質量ともに日本一の仕事ができると。小説は立派な仕事だと気付いた。小説書ける奴はそれだけで有能だ。全ての仕事のモデルになる。
 私の悪い点は横着なところか。感謝の気持ちを持たないところか。感謝の気持ちを持てば人に苛立ったりしないだろう。アサーティブとは自分にも向かう。横着できないし、不真面目にもなれない。誠実、率直とはなかなかに辛いものがある。芸術の道は険しい。でも楽でもある。アサーティブに言おう。アサーティブとは決して怒らないということだ。怒る必要はない。こんな楽なことはない。人にものを言うときに怒らなくていいんだと初めて気付いてとても嬉しかった。率直で誠実であることは何も恥ずかしいことではないのだ。人は皆平等なのだ。気持ち良いことなのだ。他のことは良いからアサーティブと論理療法に絞ってやってみようかな。アサーティブは簡潔で全てに通じる。どちらもアメリカ人が発明したものだというところが面白い。アサーティブであろうとすれば横着ではありえないし、意地悪でも邪悪でもありえない。正直で善良で穏やかに生きて良いという教えだ。
 女は完全に頭がおかしい。善悪の区別なんか全くつかないし、平気で人を殺す。人間はと言い換えた方が良いかもしれない。何で私が一方的に利益を損なわれなければならないのか。好きとか嫌いとか全然関係ないじゃないか。私の利益を守ることだけが大事なのだ。アサーティブに生きよう。アサーティブに生きれば女が、人間がいかに危険か分かるだろう。
 自分の利益を死守せよ。仲良くしよう何ていう考えが甘い。いつでも誰とでも利益は対立する。kの問題はほぼ解決したが、hの問題が残る。あいつも死んで欲しい。関係ないじゃないか。感情的になって女みたいだ。死んだらいいのに。
 アサーティブに自信を持とう。自慢にならないよう。自慢は人を傷つける。差別に通じる。あのキチガイは人の悪いところばかり真似する。だから自分の戯画を見せられているようで付き合う気がしなかった。今でも。アサーティブは非常に有力だ。自己改善という意味でも非常に優れている。
 ほんとにhは死んだらいいと思うよ。キチガイだから絶対に付き合ってはいけない。完全に頭おかしい。私は天才ビジネスマンだ。北原もあいつのキチガイぶりには困っているのではないか。あんな奴人間じゃないんだから相手にしてはいけない。受け入れられない。あんなキチガイはアサーティブに拒絶しよう。アサーティブは何でもできるんだ。キチガイめ。何でも思い通りになると思うな。
 頭がおかしくなりそうだ。あのhのことを考えてしまう。あまり考えない方が良いだろう。完全に頭おかしい。アサーティブに生きよう。
 嫌なことは最低限止めよう。本当に本気で止めよう。あまりにも嫌なことばかりやりすぎて何が嫌なことかわからなくなってしまった。仕事だからといって嫌なことはしなくて良い。でも必要なことはしよう。必要なこととはこれをしなければ攻撃されるということだ。当たり前のことだ。あのキチガイにつけこまれないようにしよう。
 今日はお祝い。阪神優勝ともう私が傷つけられないというお祝い。京都の高台寺に行って来た。変な奴が二人くらいいた。京都には必ずいる。死ね。
 もし私がこの世で一番弱い存在だったとしても、最も惨めな存在だったとしても、アサーティブに生きてさえいれば大丈夫だ。
 アサーティブに生きよう。恐いものなんかあるだろうか。何も無い。ああ、楽しい。この世に生きている奴で何か意味のある奴いるか?あるわけ無いだろう。楽しく生きよう。というか何で生きているんだ。私以外の人間は。
 私は神に近い。というより神だ。神は間違いを犯さない。神は間違いを犯さない。


 < 過去  INDEX  未来 >


リスパ

My追加