優雅だった外国銀行

tonton

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あとがき
2005年09月02日(金)

謙治が退職して1年もしない内に、支店長ソテール氏は子分と共に、フランスの競争相手銀行のホンコン支店長としてパリ国立銀行を去っていった。 パリ国立銀行とBNP証券をまとめてパリ国立銀行日本グループと言っていたが、そのトップのフォンテーヌ氏も彼の学友の会社へ行ってしまった。 その他の多くの途中入社した人たちのほとんどは、それぞれ何処かの銀行へ去って行った。 誰も彼も愛社精神の欠片も無い、自分の収入が幾らかでも良くなればさっさと転職してしまう。 謙治から見れば屑みたいな連中が何人もが出て行った。

その影には国際的ヘッドハンターが暗躍しているのである。 出て行っただけの数が同じくヘッドハンターの手に依って入って来ていた。 一度ヘッドハンターに登録すると、もう、その人はヘッドハンターの持駒になってしまうのである。 A社からB社へ、B社からC社へ、C社からA社へヘッドハンターに依ってたらい回しされることになる。 その度に景気のいい時には幾らか収入が上がるのであるが、落ち着いて仕事に打ち込むことが出来なくなる。 パートタイマーの主婦ですら仕事に責任を持っている人が大勢居るが、彼ら、ヘッドハンターに依る腰掛け社員たちは、パート主婦以下の責任感しか所有していない。 人的にでも、仕事上でも困難に遭遇したら乗り越えるよりも他の会社へ移る方を選んでしまうというどうしようもない連中なのであるが、ヘッドハンターは彼らの履歴も業績も作り変えてしまうから転職で苦労することは少ない。 外国銀行の人事を誑かすのなんか、彼らには容易な作業なのである。

銀行それ自体も変わってしまった。 日本の銀行もそうであるが、世界的に銀行、証券会社の合併、統合、再編成の時代になり、パリ国立銀行も同じくフランスの銀行で、パリバ銀行と合併した。 フランス国内にあっては、パリ国立銀行がパリバ銀行を吸収合併するような状態であったが、おそらくは上層部の了解事項なのであったのだろう、海外支店はパリバ銀行がパリ国立銀行を吸収したような状態になり、謙治の馴染みの人たちは惨めな思いをすることとなり、そのために退職した人たちも少なからず居たようだ。

僕がこの小説をかいたのは10年も前のことであり、その間に日本も世界も大きく変わった。 ヴェトナム戦争がアメリカの初めての敗戦で幕を閉じ、世界情勢が少しは落ち着くかに思われたが、紛争は絶えることがない。 イラク、北朝鮮の問題はどのような結末が待っているのだろうか。

国内に於いても、謙治が退職する時には、2000人の人員整理で驚いていたが、何時の間にか200万人失業時代になってしまった。 一般会社員の性格も革命的に変わってしまった。 愛社精神、会社のために、そんな言葉は今いづこ。


               2005年2月末日


最後までお読みいただき有難うございました。



52 後ろ髪は引かれなかった
2005年09月01日(木)

宣告を受けてからの3ヶ月が瞬く間に過ぎた。 謙治の携わっていた多岐にわたる業務のどれを誰に引き継ぐかも分からぬままに日は過ぎてしまった。 直属の上司が、それらの総べての業務を引き継ぐような事を言っていたが、無理なのである。 パソコンの使い方から説明しなくてはならない。 データベースに入っている様々のものを、可能な限りを若い人達に引き継ぎ、「あとは野となれ山となれ」の心境になった。 引き継ぎの為の万全の体勢をとらないのは上司たちの責任だ。 諸々の機械に対する知識、これを短期間でどのように伝授せよというのだ。

個人個人には、別れの辛いのが大勢居たし、特に若い人達の中には、本心別れを惜しんでくれるのも居た。 多くの者たちが謙治の居なくなった後の事を心配していた。 諸々のトラブルを誰が解決するのだと。

謙治はパリ国立銀行との総べての関わりを断ち切りたいと思った。 一切の関係をなかったものにしたかった。 だから、民営化後保有していたパリ国立銀行の株も損を承知で処分したし、小切手口座も2・3の清算が済んだら閉める事にした。

謙治は、長い間パリ国立銀行に働く事に誇りを持ち、気のいいフランス人達と働く事を幸せだと感じていた。 だから、労働組合の空気が険悪になった時も、労使の信頼を説いて空気を和らげる事が出来た。 長い間には、トップの人柄によって、信頼が揺らぐ事はあったが、おおむね労使間は友好的であり協調的であった。

新労働協約原案には、定年年令が55才に成った事を除けば、良いものが幾つかあった。 永年勤続者に海外旅行でもしなさいと、10年目に1ヵ月分、20年目には2ヶ月分の給与が特別に支給される様になっていた。 女性が出産休暇を取りやすくするためのものも有ったようだ。 だが、支店長ソテール氏は、それらをばっさり削ってしまった。 骨抜きになっている労働組合は、それに反抗出来なかったようだ。 組合幹部にだけには、甘い汁が有ったのだと言う噂が、信頼すべき筋から聞こえて来た。 謙治に関係のあった退職金の割り増しは、新労働協約に条文化されていたが、発効が4月1日からである、という理由で謙治の退職金は古い労働協約で計算された。

「終わり良ければ、全て善し」謙治の場合、全く逆になってしまった。 初めは良かった。 中間も一時期を除いて、おおむね良かったのではないだろうか。 最後だけが悪かった。25年良くて、最後が良くないのと、25年悪くて最後が良いのと、どちらが良いのか分からないが、フランス人に対する考えが変わってしまった事も事実である。

整理していた持ち物の中から1枚の賞状が出て来た。 フランス企業に20年勤務した者に、申請によりフランス政府から与えられる銀メダルとフランス労働大臣がサインした賞状。 何かの間違いでメダルは届かなかったが、この賞状は何の値打ちがあるのだろう。 欧米では、実力のある者は、さっさと転職してより良い職場を得るという。 20年転職出来なかった無能な男の証明に見えて来た。

「人間らしい生き方」それがどのような事なのか、謙治は考える事すらしなかった。 ただ毎日を仕事に追われ、休暇も大半を切り捨てられていた。 フランス人たちの様に、割り切って休暇を楽しむ事を知らなかった。 これからは少し違った人生を歩もう。 会社人間、仕事が趣味の人間、何と惨めな生き方であった事か。

謙治は、今まで好きであった、好きであると信じていた仕事に嫌悪を感じた。もう、いやだと思った。 もう、しなくて良いのだと思うと、気が楽になり楽しくなって来た。 だから、仕事を紹介しましょうと親切に言ってくれた何人かに、感謝の気持ちだけを伝えて断った。 収入が減ってもいい、もっと気楽な生き方をしよう。



                      1994年 2月




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