優雅だった外国銀行

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43 ホンコン支店の運動会
2005年07月29日(金)



ホンコンのパリ国立銀行は、主事業所と小さな店舗が9店ある。 従業員数は800人を超しているそうだ。 日本の企業でも良くやるが、家族を含めての大運動会を毎年行っている。 1989年の大会に東京からの参加を呼び掛けて来た。 金曜日の夜に成田を出て、土曜日をホンコン観光、日曜日は朝から運動会、夕方にはホンコンを出て夜中に成田に着く、月曜日は出勤である。 大勢が同時に休む事は営業に差し支えるので致し方ない。 航空運賃だけを東京が負担し、ホンコン滞在費用と1日の観光をホンコン支店が見てくれる。 週末だけの忙しい旅であるにもかかわらず、希望者は、主に若い外人ディーラー達で占められたが30人を超した。 人選が面倒になった総務部長ローラン氏は全員を送り、がんばった人もいたし、プログラムの最初の方にあった、50メートル徒競走に申訳程度に出場し、ショッピングに行ってしまった女性も居たそうだ。

翌1990年の運動会にも参加を呼び掛けて来た。 東京支店としては、派遣をしない事に決めていたが、再三の派遣依頼に折れた総務部長は、小人数、男女各2名を送る事にした。

小人数となると人選が難しくなる。 「あの人と一緒ではイヤだ」となる。大人数なら、何となくごまかせるホンコンの人達との挨拶もしなくてはならない。 言葉の心配の無い人は運動嫌いが多い。 結局、謙治が人選をして引率する事になった。

謙治自身、運動が好きな方ではない。 友人にゴルフを薦められ、体力の無さを思い知って、ジョギングを始めたのが40才。 その後、45才位から自転車通勤を始めた。 謙治の住んでいる 総武線・下総中山駅近くから丸の内の銀行まで、おおよそ片道20舛髻帰りは少し時間がかかるが、朝は一時間弱で行ける様になった。 週に2・3回、夏も冬も続けて6年が過ぎた。 お陰で体力的には自信が出来ていたが、競技種目のどれをとっても自信が無い所か、初めてのものがほとんどであった。

急遽、練習が始まった。 運動会まで2週間。 遅い秋というより、冬の始めの11月下旬である。 ジョギングは、自転車に乗らなかった日と週末に、3祖走っていた。 だから、運動会でも1500辰3000辰暴个茲Δ隼廚辰拭 だが、それだけの為に東京から行くのはつまらない。 出来るだけ出場する事にした。 槍投げや砲丸投げの練習は場所も道具もない。 幅跳は近くの中学校へ忍び込んで2・3度やって見た。 腰に思いがけない負担が架かるのを感じてそれ以上は止した。 200辰鯀肝麓請して見た。 恐らく30年振りになろうか、全力疾走は耳に、身体全体に心地好い刺激を与えてくれた。 だが、200奪肇薀奪の半周を過ぎた辺りから、スピードが続かなくなり、あえぎ乍らやっと1週を終えた。 1人で走ってこれである。 競争だとどうなるのであろう。 もっと悪い事に、翌日、足腰に激痛が走り、歩くのにも支障を来し初めた。

3日経ち、4日が過ぎても痛みは引かなかった。 特に、大腿部に電気を当てたようなビリビリとした痛みがいつまで経ってもとれない。 出発前の3日間の練習を休んだら、いくらか落ち着いて来たような気がした。

高校時代に陸上の選手だったという30代後半の男性、高橋を同行者に選んでいた。 女性も1人は大学の体育クラブで、時々1万辰鯀っていたという頼もしい人と、その仲良しの子を選んでいたが、それぞれは練習をした様子はなかった。

12月初めのホンコン啓徳国際空港は、さすがに熱くはなかったし、話しに聞いていたホンコン独特な匂いも感じなかったが、空港だけではなく、セントラルに向かうタクシーから見る景観に圧倒された。 すさまじいアパート群にである。 東京のぼろアパートとは比較にならない、恐ろしいまでの規模とエネルギー。 増築に継ぐ増築で、道路に倒れかかるのではないかと思うのは、ホンコンに対して無知だからなのだろうか。 あとで分かったのだが、九龍地区の目抜き通り商店街ですら、アーケードのひさしの上は、さすがに道路方向に傾いては無かったが、ぼろアパートが連なっている事に変わりはなかった。そして面白い事に、多分、寒さに無関係だからなのであろうが、ガラスが壊れている窓たくさんあった。

金曜日に着いた謙治たち4人は、翌土曜日をホンコン支店訪問に当てた。 ホンコンの銀行は、まだ、土曜休業になっていなく、いわゆる半ドンである。

ホンコンのビジネス街は狭い、その気になれば、ほとんどを歩いて行けるのではないだろうか。 クイーンズ・ロード・セントラルの主店舗に行ってみた。昔、駐在員副代表であったシュナール氏から聞いた事があったが、商店が並ぶ雑居ビルの一階に、決して奇麗とは言えないキャッシュ・カウンターがあり、2人の女性テラーが働いていた。 謙治たちは、運動会のために東京から来た旨を告げ、それぞれがホンコンドルを特別レイトで買うほんの数分の間に驚く事に遭遇した。 カービン銃を持った軍服姿の青年とアルミトランクを提げた中年の男が奥から現れ、慌ただしく出て行ったのである。 東京からの4人は、唖然として見送っていたが、2人のテラーには何の変化もなかった。 これは、通常の現金輸送のスタイルなのだそうだ。

事務所は別の所にあるエスカレーターで2階に上がるのである。 上がった所に受け付けがあったが人はいなかった。 謙治は、びくついている連れの3人を尻目に、どんどん奥へ入って行った。 東京支店がまだ土曜日が休日ではなかった頃は、半数出勤をしていた。 ホンコンでも、その様にしているらしい。 しかし、引っ越しなので、準備の為に出勤しているのだといって、大勢が書類の箱詰めをしていた。 移転先は、すぐ近くの新しいビルで、既に、コンピューターチームや輸出入部等が越していた。 謙治たちの世話をする事になっているリー氏も、新しいビルに居るので行く事にした。

大きなビルの4階全部を使っているパリ国立銀行ホンコン支店は、窮屈な日本の会社の事務所を見慣れた謙治の目にもさえ乱雑に見え、通路は狭く曲がりくねり、まさに迷路と呼ぶに相応しく思えた。 移転の主な目的は、コンピュータールームの整備拡充にあったらしく、コンピュータールームのみが広く、機能的に、そして、厳重に作られていた。

監査部の部長として多忙を極めているリー氏は、運動会の実行委員長でもあった。 今回謙治たちが来る事になったのも、リー氏の再三にわたる要請に応じたのである。 勢力的で好感の持てるリー氏は、事務所内の案内が一応済むと、次の案内、飲茶となった。

銀行の下の階、3階に大きな、広大なと言いたくなるような中華料理店がある。 千人は入るのではないかと思えるような食堂で、その喧騒たるや、ラッシュアワーの新宿駅を何倍にもしたようなもので、会話すら満足に出来ない。順番待ちを呼び出す拡声器が、がんがん鳴り響く中で、数百人が大声でわめきながらごった返している。 予約が出来るレストランではないので、リー氏は既に、部下を席取りに行かせてあった。 騒音の中で、中国人たちは実に良くしゃべり良く食べる。 強烈なエネルギーを感じてしまう。 彼等の、お茶の注ぎ方が面白い。 茶碗を並べ、大きな急須の口を上げないで、次から次ぎへ注いで行く。 テーブルがびしょびしょになるのなど、全く気にしないのである。

謙治たち4人は、昨晩、町を歩き回った。 今朝も、ホテルのではない、本当のホンコンの朝食を求めて外へ出た。 昨晩もそうであったが、ホンコンの人達は、家庭で食事をしないのではないのかと思うくらい、夜も朝も外食している。 夥しい数の人達が、これもたくさんある小さな食堂で、素早く注文し、たくさん食べ、さっさと出て行く。 謙治は、朝食に粥と焼きそばのセットを頼んだのだが英語が通じない。 同じ物を食べている人の皿を指差して、やっと手に入れたそれは、安くて美味しくて、東京での朝食の二倍のボリュームがあった。

東京の4人の辞退にもかかわらず、リー氏はホンコンの案内と、夕食、そしてヴィクトリア・ピークの夜景まで付き合ってくれ、まだ宵の口だと言いつつ11時過ぎにホテルに送ってくれた。

ホンコンの小さな食堂群は、果たして閉店するのだろうか。 11時過ぎのたくさんの食堂は、何れも人で溢れていたし、人通りも一向に減った様子が無かった。 朝早くから、昼も、夜も、そして真夜中も町は人で溢れ、食堂は、屋台は、休む暇が無いようであった。

翌朝、連れていかれた所は、地理的には分からなかったが、400蛋甘係トラック、屋根付の数千人分の観客席を備えた、公営の立派なグラウンドであった。 「雨が降ったらどうするのか」という、期待を込めた東京選手団の問に、「全く問題ない」と、つれない答えが帰って来たのがこれで分かった。

人種の坩堝という言葉がある。 パリ国立銀行ホンコン支店は正にそれであった。 中国系の人達が圧倒的に多いのであるが、米英仏伊、マカオの関係かポルトガル人も多い。 インド人もたくさん居る。 気の良い、愉快な大男が居たが、エジプト人であった。 韓国人も居るという事であったが。「日本人は?」彼等は暫く考えていたが、不思議そうに「日本人は居ないね」と言った。

準備運動で、ゆっくり走っていた謙治は、心配していた大腿部の痛みを感じ初めていた。 朝一番の種目は、謙治の参加する1500蛋であった。 8人出場中、400奪肇薀奪の半周も差を着けられ8位でゴールした謙治は、1500蛋が、こんなに苦しく感じた事はなかった。 大腿部の痛みが増して来た。

出来るだけ多くの種目に出場する事にしていた謙治と高橋は、複数の競技に掛持ち出場になってしまう事が多く、走り幅跳びと砲丸投げの会場を行き来したりして休む間も無かった。 多くの種目が、謙治には初めての経験であり、槍投げの槍の軽さに戸惑い、ハンマー投げのステップを見よう見真似でやったが失敗したのを皮切りに、ほとんどの競技に参加し、笑いを振りまく事に専念した。 100蛋も200蛋も出場したが、足の痛みは耐えられる段階を超していた。 だから、最後の種目、5000蛋には出場を取り止めた。 男女混合だという急遽3000辰暴未泙辰燭海龍サ擦法▲曠鵐灰鵑らの女性の参加者は1人も居なかった。 東京から、この種目のみに来た大学での1万蛋者は、女性が1人になってしまっても果敢に挑戦し、途中ほとんど徒歩のようになったが、拍手喝采の中ゴールにたどり着き、3000蛋女子の部1位になった。

各種目共、上位3位までにメダルが授与されていた。 東京からの他の3人には何もなかった。 気を使った競技委員たちが、東京組みにもメダルをと、予定に無かった種目を追加した。男女各2人での400奪螢譟爾鯏豕チームを含めて3チームで行う事になったのである。 謙治は、競技委員に感謝しつつも閉口していた。 もう、足が言う事を聞かなくなっていた。 救護班が設置されている事を思い出し、あえぎ乍ら行って見た。 窮状を訴えられた平和をむさぼっていた2人の看護婦に薦められて、大きな容器に入った白い液体を手のひらに取り、両の腿に擦りつけた。 いくらか痛みは引いたようであったが、責任を果たすのが大変であった。 10日位後に、謙治の大腿部が腫れ上がり、随分苦しんだが、白い液体に被れたのだと思っている。

ともかく、参加する事にのみ意義のあった東京チームは、3000箪子の金メダルと400奪螢譟爾瞭璽瓮瀬襪髻競技委員のご好意により獲得する事が出来た。 前年は、台北からも選手団が来たのだそうが、今回の成績の良くなかった4人の東京選手団にたいし、表彰式での拍手は温かかった。




42 本店はセクショナリズム
2005年07月27日(水)



パリ国立銀行本店には、通信設備を担当するセクションが幾つもある。 テレックス、電話、それにパソコン通信。 それらは、それぞれ独立したセクションが担当していて横の連絡はほとんど無いらしい。

SESAMEと呼ぶ独自のテレックス通信網を、1975年頃から持っていた。 パリ本店を中心に主要国の都市を専用線で結び、グループ内にテレックスを送るシステムであったが、甚だ不安定な設備であり、本店もそれを認めていて「支払いの絡む重要な通信は通常の公衆回線(日本の場合はKDD)を使うべし」となっていた。 結構面倒くさいもので、メッセージには相手先別の通し番号を付け、一日の終わりに各送信先に「本日は何本送りましたご確認下さい」と出さねばならず。 受け取ったメッセージも同様に、相手が言って来た送信本数と照らし合わさねばならなかった。 その本数が合わないのが度々で、特にロンドン支店には泣かされた。

問題は、何故本店はこのようなシステムを強制的に使わせるのか、と言う事である。 本店・ロンドン間や本店・ニューヨーク間の様に通信量の夥しく多い所は、専用線によりコスト削減ができるのかも知れない。 しかし、東京支店は違った。 東京・パリ間を専用線で結ぶのには、大変な経費がかかる。そこで、パリ・シンガポール・香港と伸びている線に繋ぐのがいくらか安く出来るのだが、それでも月額80万円位になる。 重要なメッセージを除いたグループへのテレックスは、それだけの量は無い。 そこで、本店SESAMEセクションが考えた事は、公衆回線で香港のSESAMEステーションに送れ、という事であった。

東京支店では、大してメリットのないSESAMEを、本店からの注意を無視して長い間使わないでいたが、コンピューター化されたテレックス端末を使うようになってからは、謙治が夕方のテレックスの発信状態をチェックすることにして、SESAMEを多く使う様になった。

香港のSESAME中継ステーションであるケーブル・アンド・ワイヤーレス社は、かなり大規模な通信会社であるにもかかわらず、進歩的な設備を使用していないことがすぐに分かった。 長文のメッセージを送っている時、突然先方が割り込んで来て、「テープを取替えるから待ってくれ」と言って来たりした。 紙テープで受信し、そのテープを使って受信者に転送しているようであった。 

テレックスも電話と同じ様に時間で料金が計算される。 だから、余程タイピングに自身のある人以外は予めメッセージを準備してから送る。 1970年代前半迄は、テレックス端末を直に叩きさん孔テープを作っていた。 同時にモニタープリントが出来るのであるが、ミスタイプが有ると、昔テレックスを打った事のある人は忘れられないでしょう、テープの修正が大変面倒な事なのである。 ミスタイプでは無くとも、気紛れなボスが文章を変えたりするのは日常茶飯事である。 1970年代後半になると、さん孔テープを作る機械が、初歩的なワープロ機能付きで出て来た。 これは当時のテレックス・オペレーターにとっては福音以外の何物でもなかった。 完全な文章がタイプされてからテープを作れたし、挿入、削除の様な修正も随分楽になった。 しかし未だ、記録媒体は紙製さん孔テープであったから管理が面倒である事に変わりはなかった。

1980年代中頃になると、テレックス端末もコンピューター化されて来た。 ディスケットによる記録、保管、再生、発信が出来るようになった。 香港のケーブル アンド ワイヤレス社は、未だテープを使っている、と言う事は、メッセージを読む気になれば読めるのである。 電話だってそうではないかと謙治は思った、その気になれば電話だって簡単に傍受できる。 ただ、その気になる事は、いずれの国でも固く禁じられている。

SESAMEで問題が起きた。 ニューヨーク支店へのテレックスが、どうしても出ない事があった。 そこで、多額の支払いが絡むメッセージの時は使ってはいけないSESAMEを使った。 現実には、SESAMEによるメッセージで相手に着かないという事はほとんど無い。 「何通出しましたよ」と言って来る数が合わない事が度々あるが、それらは数え違いであるのがほとんどなのだ。 だから、SESAME経由でも、実際には心配はしていなかった。 テレックスというのは、特別な場合を除き、発信人と受信人が直接繋がって、発信人はアンサーバックにより相手を確認して送信する。 コンピューターによる自動発信の場合は、相手のアンサーバックを入力しておく事で、コンピューターが相手のアンサーバックを照合確認して送る。 SESAMEの場合にはメッセージをステーションに預けてしまう。 だから、出たかどうかは、「相手からの何通受け取りました」というメッセージが来るまでは確認出来ない。 その確認が支店によっては2・3日後になる事がある。

後で分かったのだが、この日のニューヨーク支店のテレックスは工事中で繋がらなかったのである。 SESAMEは、工事も、工事が終わる時間も知っていた。 だが、工事終了後送らねばならなかったメッセージを、引き継ぎミスか何かで送らなかった。 運が悪い日というのがある。 たまたま、このテレックスは、数億ドルの資金を動かすものであったので、大騒ぎになった。

そんなことが有ってから謙治の独断で、東京支店には何のメリットも無いSESAME送信を止め、各支店になるべく東京支店宛にはSESAMEを使わないように頼んだ。 本店から文句が有るだろうと申し開きを考えていたら、シンガポールもSESAMEを止めると言って来た。 そして、数週間後に本店からお叱りの代わりに、SESAME廃止の連絡が入ってきた。

大企業というのは、同業他社がやると「我が社も」と、その善し悪しを考える前に飛び付く様な所がある。 パソコンによる通信は、現在(1985年)では極当たり前になっているし、方法もたくさんある。 パリ国立銀行も随分早い時期から取り入れていた。 パソコン通信は、益々発展するものであろうし、後ろ向きに考える事ではない。 しかし、国際ネットワークを構築するという本店は、いささか乱暴である。 コストを考える事はしないで、いきなり専用線を引く事から始める。 アジア地区の中継地をシンガポールとし、パリからのラインが来ている。 オーストラリアの四支店と香港、ソウル、東京がシンガポールと繋ぐのであるが、少しでも節約したい東京は、香港へ伸ばして、その先は香港の線を使わせてもらっている。 それでも固定費用が専用線使用量その他で毎月60万円以上になる。

パソコン通信システムを導入した1987年は、まだ、テレックス全盛時代で、ディーリングルームを除いても、百万円以上のテレックス通信があった。 謙治はテレックスをパソコン通信に置き換える事により、専用線使用量を生かそうとして、サンプル・メッセージを本支店のたくさんあるメールボックスに送った。 ところが驚いた事に、全く使い物にならなかった。

本店のパソコン通信開発班は、装置の設置はどんどんやったが、教育はしてないのだ。 一応、説明書は送られていた。 謙治は、説明書がフランス語であったにも拘らず、研究し自分宛のメールボックスにメッセージを送る事でテストし、万全の体制で臨んだ。 新しいものにすぐ飛び付くのは、やはり日本人の特質なのであろうか。

テレックスは、着信すれば普通はプリントされる。 秘匿性を重視したパリ国立銀行のパソコン通信の場合は、受信者がボックスを開けなければメッセージを読む事は出来ない。 受信者がメッセージを読むと「ボックスナンバーxxは、メッセージを読みました」という短いメッセージが発信者に戻るようになっている。 そして、10日経っても受信者が読まないと「着信者は期限内にメール読みませんでした」という応答が来て、メッセージは取り消される。 謙治は、その「読みませんでした」という応答を、送信した内の90パーセントから受け取った。

無駄はパソコン通信だけでは済まされない。1990年になると電話とデータ用に専用線網を作る事になった。 回線の都合で、香港・パリ間は当分引けそうにない。 回線供給量が少ないのだそうだ。 シンガポール・パリ間も、それ程容量のあるものは引けないようであったが、東京・パリ間は、国際通信三社、KDD、IDC、ITJに十分余裕があったので、電話線に換算して32本分の回線256Kbを引いた。 ちなみに、この回線の月間使用量は日本側だけで300万円弱、パリ側でも同じような額を支払う。 設備には、また別にそれなりの費用がかかっている。 これは、東京支店が使う全国際通話料より高いのである。 ともかく、初めは地域が限られていたが、電話代を気にせずに架けられる様になった。 しかし、一般従業員に専用線を使ってもらうのには、大変な努力がいる。 専用線による電話の対地と番号表を、対地が増える毎に配るのであるが、ほとんどの従業員は、パリやロンドンに電話する事は極めて稀である。 配布されたメモを自分には関係無しとして処分してしまう。 たまたま、パリに電話の用が出来た時、メモを捨ててしまっている彼らは、専用線を使わずに架けてしまう。 パリ、ロンドン、ニューヨークは早くから専用線が繋がっているのだが、一向に通常の国際電話請求金額が減らない。 シンガポールへも繋がった。 しかし、これを使うのは、大変骨が折れるのである。 回線ルートは、東京からパリの交換機を通してシンガポールへとなる。 地上、海底ケーブルと違い、衛星回線では、地球が丸いからなのだが、東京・パリ間で2個の衛星を使い、音声は地球と衛星間を二往復する。 すると、どなたも経験がおありだろうが、声には遅れが出る。 東京・パリ間で一秒弱、シンガポール迄だと、あと一秒弱かかる。 東京からシンガポールへ約一秒半、帰りが一秒半、「ハロー」と言って返事が来るのに3秒強かかる、これには中々慣れない。 自分は慣れた積もりでも、相手がせっかちだと話しが出来ない。 結局、誰も使わなくなってしまった。

パソコン通信に使っている東京・香港間の回線を止めて、パリへの回線に収容することを本店に提案した謙治に返って来た返事は、「パソコン通信と電話はセクションが違う」であった。



41 BNP証券会社
2005年07月23日(土)

日本では、銀行と証券会社は別の会社であり、将来、銀行と証券の併設が認められるかも知れないが、1988年には、その可能性はまだまだ先の事であった。 諸外国では、銀行が証券業務を営むのは珍しい事ではなく、パリ国立銀行も本店には証券部がある。 1987年の日本の証券業界は、空前の好成績を上げていた時で、外国の証券会社も相次いで東京に進出している。 パリ国立銀行は一足遅れてしまった感が有ったが、1988年にBNP証券会社東京支店を、パリ国立銀行東京支店と同じ郵船ビルの4階に開設した。

銀行と証券の併設が認められてない日本では、例え元を辿れば同じ企業であっても、同一人物が両方の仕事をする事を厳しく禁じている事になっている。監督官庁も、同じ大蔵省であるが、片や銀行局であり、もう一方は証券局となる。 しかし、本店では、そんなことはお構いなしに、パリ国立銀行東京支店、大阪支店、それにBNP証券会社をまとめて、BNP日本グループと称し、そのトップにシュネイダー氏を置いた。

BNP証券に総務部も人事課も無い、それらの一切の事務が銀行に降り懸かって来た。 はっきりと決まっている訳ではなく、勿論、文書で銀行の総務部は証券の面倒も見るべし、と、書く事は出来ない。 だから、銀行の総務部では、こんなの自分達の仕事ではないと言い。 証券側の、特に数の増えた外人たちは、銀行の総務部に仕事を頼むと、何故不機嫌にされるのか分からないでいる。 彼等の多くは、証券も銀行も関係なく無く勝手に出入りしている。 BNP証券東京支店が開設された頃から、証券業の景気は下降気味になっていて、経費を厳しく切り詰める必要が有った。 そこで、編み出されたシュネイダー式節約法は、銀行の経費で必要を満たす事であった。 銀行では高くて導入出来ない高級コピー機や、銀行では中々買ってもらえないパソコンを、それもIBM PSー80という当時としては高級機を何台も証券会社のために買わされた。

問題の多い銀行のドライバー。 シャピュー氏は運転が下手で、特にアクセルワークがなってないと言って嫌っていた。 ルレー氏は大して文句は言わなかったが、タクシーに乗っていても、変な運転手に当たると「銀行のドライバーみたいだ」と言って笑っていた。 そして、ジュリアンは我慢出来ずに辞めさせようとしたが出来なかった。 シュネイダー氏も例外では無く、暫く文句を言っていたが、彼はあっさり車をやめる事で解決した。 総務部が引取った彼は、何をやらせても困難を極めたが、長い訓練の末、やっと使走員として60才定年まで首を繋ぐ事が出来た。



40 従業員組合の分裂
2005年07月20日(水)

従業員組合も波乱の時代となった。 真面目な従業員は、待遇の改善や労働環境の整備を明日の生活向上のために提案や要求をする。 そして、それらを勝ち取る為の闘争には節度がある。 だが、一部のディーラー達の要求はでたらめであり、闘争は過激であった。 しかしながら、ディーラーの人員確保がままならない支店長シュネイダー氏は、破格な手当と利益率による多額のボーナスをディーラー達に約束したのである。 人は残念ながら心の狭い動物である。 組合員たちは、ディーラーだけが優遇されるのに腹を立て、あたかも、ディーラー達が悪いかのように罵り合いが始まった。 ディーラー達は組合を敬遠し始め、遂には離脱して行った。

ディーリングルームは、機器類が多いため特別の空調をしていたのと、常に大声で喚いていたので、他のセクションとは仕切られていた。 その仕切りは、外光を遮断しないように透明のガラスで作られていた。 他のセクションの人達は、それを保菌室と言い、ディーラー達を未熟児と呼んで、はかない優越感に浸った。



39 銀行変革期
2005年07月17日(日)

30人を超えるディーラーと夥しい機器を容れる部屋を作る事になった。 専用線の数も桁違いに増え、通常の電話線、これを局線と呼んでいるが、これもぐんと増え、海外との交信も主役はテレックスから電話に変わる。

東京支店は急に手狭になった。 コンピューターの為に、既にかなりの面積を割いていたが、新たに200平米を産み出さなくてはならない。 あっちを詰め、こっちを狭めて、これからの稼ぎ頭になるというディーラー達のための部屋を作り出した。 決めなくてはならない事がたくさんあった。 ディーリング・テーブルというのは既製品には無い。 それぞれの要求、サイズ、高さ、電話設備の大きさ、情報スクリーンのサイズと個数、形も四角は勿論であるが、楕円形、L字型と多種である。 専門的な知識に乏しいローラン氏は、感心があったのはコスト面だけであったから、大部分の準備は順調に運んだ。 しかし、ディーリング・テーブルとカーペットの色に関して、彼は自分で決めたがった。 可能な限りのサンプルを取り寄せ、サンプルが多い為にかえって決めかねていた。 工期はどんどん迫って来るが決められない。 何日経っても色を決められないローラン氏は、彼のそばを通る人に次々と尋ねる、それぞれは無責任に勝手な色を選ぶ、そして、益々決められなくなる。 謙治はスールミヤック氏が懐かしかった。 スールミヤック氏なら5分と掛らずに色なんか決められただろう。

ヘッド・ハンティングと言うのは、欧米では当たり前なのかもしれないが、1987年の東京では耳新しい言葉であった。 元々、日本にはそれ程いなかったディーラーを各銀行が一斉に奪い合いを始めたのである。 ヘッド・ハンターの出番となり、給料の釣り上げ合戦になるのは当然の成行きであった。 国際的なヘッド・ハンターにより、いろいろな人種が集まって来た。 アメリカ人、ベルギー人、オランダ人、シンガポールや香港からの中国人、勿論フランス人も居た。 習慣や風習が異なる人種たちが、それぞれの訛りのある英語で騒いでいる様は、滑稽なのか、異様なのか分からなかったが、謙治はその雰囲気が嫌いではなかった。 しかし、困る事も少なくなく、謙治を最も困らせたのは空調であった。 ベルギー人とアメリカ人のディーラーが熱がりで、日本人、特に女性は寒がりなのである。

いろんな性格の人間の集まりであるが、ディーラーには一つだけ共通の意識がある。 彼等は自惚れ家で、自分だけを信じ、己の利益のみの為に働く人種である。 愛社精神のかけらも無いのが普通で、意の如くならなければさっさと他所へ移ってしまう。 だいたいディーラーとは、社会の為に何をしているのだろう。 銀行には必要な所へ資金を供給し、産業を育成したり、社会資本の充実に寄与したり、社会に貢献出来る事は少なくない。 しかし、ディーラーとは何ぞや。 輸出入の代金決済の為の外貨の交換、これは顧客の要請によって行われる。 だが、彼等の多くの仕事は、代金の支払い等には無関係の、単なる金儲けの為の通貨や債権の売買なのである。 投資ではなく、投機と言われる彼等の行為が、銀行の利益の大半を占めるとあっては、銀行の仕事も地に落ちたものだ。




38 支店長の若返り
2005年07月16日(土)

これまでに東京支店に派遣されて来ていたマネージャー達のほとんどは、常に海外を渡り歩いている人達で、本店はもとより、フランス国内での勤務の経験は極若い時を除いて無い人が多かったが、新しい40代前半の支店長シュネイダー氏は、ロンドンにディーラーとして少しの期間勤務しただけで、ほとんどを本店で勤務していた。 勿論、支店長として勤務するのは初めてであった。 ジュリアン氏が軽蔑を込めて「ヤングマン」と呼んでいたこの若僧のシュネイダー氏が、ジュリアン氏の後任として東京に来る事に、ジュリアン氏はだいぶ反対したようであったが、本店の意向は変わらなかった。

日本にも遅蒔き乍ら金融自由化の波が押し寄せ始め、東京は金融市場として重要な地位を占めるようになって来たのだそうだ。 どこの銀行も外貨の売買に力を入れ始め、ロイター、クイックの様な高価な情報システムを備えたディーリング・ルームの拡充競争が始まっていた。 パリ国立銀行東京支店にもディーリング・ルームは在ったが、4・5人が簡単な設備の狭い部屋で取引を行っており、海外との取引は専らテレックスに頼り、ブローカーや顧客との専用回線も数本を数える程でしか無かった。 ディーラーとしての経験豊かな新支店長シュネイダー氏は、ディーリング・ルームの拡充の為に派遣されたと言っても過言ではなく、銀行全般の事についてどれだけの知識があるのかは大いに疑問であった。

新支店長は非常に勤勉であったが、支店長としての大切な仕事、「人に会う事」を嫌った。 就任早々は、挨拶に行かねばならない所がたくさんあるのだが、時間を全く無視してしまう。 相手が日銀総裁であっても、である。 又、仕事とは違うが、外国人登録の為に区役所やフランス領事館へ行かねばならないのであるが、これ等を嫌った。 ともかく出かける事が例え昼食の為であっても嫌なのである。 常に神経質な顔をして数字と睨めっこをしている様は、何とも近寄り難い。 秘書を通じて頼んであった、登録の為の写真も撮りに行きそうもない。 謙治は恐る恐る年下の支店長シュネイダー氏の部屋に入って行った。

「失礼致します、何時も大変お忙しく、写真を撮りに行く時間も無いのは存じておりますが・・・・・」。シュネイダー氏はバネ仕掛けの人形の様に立ち上がり、椅子の背に架けてあった上着をつかんだ。 謙治はシュネイダー氏と話すのが初めてであった。 隣の丸の内ビルで写真を撮る、たった10分位の事であったが、青年のようなシュネイダー氏は、人懐こく、ユーモアに満ちた話し振りで、謙治への気遣いすら感じられた。 あの「人を寄せ付けない態度は」、単なる人見知りなのだろうか。

シュネイダー氏は権力が嫌いで、フランス領事館で恰幅の良い中年のフランス人女性に、高飛車に必要書類の提出を求められた時など、震え上がりそうになっていた。 そんな支店長を、謙治は好感を持って見守るようになった。



37 いい人は、仕事に不向き
2005年07月09日(土)

スールミヤック氏の後任としてやって来たフランス人ローラン氏は、ヒッチコックのような風貌のひょうきんな年長者で、鋭い銀行家にはどう見ても見えなかった。 腹が出過ぎているためか、よちよちと歩く様は決してスマートな白人という感じではなかったが、好人物の見本のような総務担当者であった。

今までに東京支店に赴任して来た人達は何れもそうであったが、ローラン氏もその例に漏れず海外勤務専門の男である。 近年は香港に長く、数年をマレーシアに勤務し、東京へは単身赴任であった。 彼の本拠地、つまり彼が永住地と決めているのは香港ランタオ島で、そこに疑わし気な家庭が在り、一寸した連休、飛び石連休であっても、仕事を放り出してさっさと帰ってしまい、秘書に告げた予定日には戻って来なかった。 スローモーションの動作に比例して、決断にはスールミヤック氏の数倍の時間を要し、未決書類の山がどんどん高くなって行ったが、本人は一向に気にする様子はなかった。 反面、気の弱い所が有る人で、誰かが気を悪くすると思われる事は決して口に出せず、立場上当然であるべき部下への注意や指導が出来なかった。 多くの人はこれを、「彼は人がいいから」と称した。

三度目の東京勤務であった支店長ジュリアン氏もシンガポールへ転勤になった。 もう東京へ戻る事はないであろう。 ジュリアン氏は支店長として悪くはなかったかも知れないが人使いが荒かった。 メッセンジャーが何人も必要なのだ。 彼専用のドライバーが居たが、それだけでは足りず、やれ、「眼鏡を忘れたから取って来い」「金を置いて来るのを忘れたので、ワイフに持って行ってくれ」「大使館経済部に何々の資料があるから取って来い」と総務部に言って来た。

ドライバーの問題も大変であった。 彼は、彼のドライバーを好きではなかった。 技量的にも、性格的にも問題のあるドライバーであったが、初代支配人であったラボルド氏がアジア民間投資会社から引き受けて以来10年以上勤務している、辞めさせる訳にもいかない。 ドライバーの年令は、55才になっていたので、ジュリアン氏は定年を55才としている労働協約を持ち出したが、実運用定年年齢は60才になっていると言う説明に、仕方なく従ったようだった。 労働協約書は形だけのもので、実際とはかけ離れたものになっていたので、ローラン氏が改訂版を作る事になっていた。



36 哀しい別れ
2005年07月06日(水)

人の出入りは外資系企業にあっては致し方ない事である。 パリ国立銀行東京支店への、いわゆる本店人事の出向社員は5年前後の滞在が多いのであるが、別れが哀しいのも少なくない。

謙治は、いつしか支店内で年長者の部類になっていた。 中学校を出てすぐ働き始め、長い間最年少者として働く事に慣れていた謙治であったが、ふと気が付くと周りは謙治より若い者ばかりになっていた。 上司のほとんども、謙治より若いか同年輩が多く、マネージメントの外人たちも、一部を除いて同年輩である。 ランクの違いはあれ、同年輩というのは通じ合えるものである。謙治は、総務・人事担当のフランス人スールミヤック氏と特に仲良くなっていたが、1986年の秋にロンドンへ転勤になった。 素早い反応、歯に衣着せぬ物の言い方、整理整頓と記憶力の良さ。 謙治は彼を尊敬し無理ではあったが見習おうとした。 しかし、相変わらずスールミヤック氏は、彼の上司たちからの受けは良いとは言えない状態が続いていた。 謙治の好きな事の一つ、「歯に衣を着せない言い方」は、洋の東西を問わず上司からは煙たがられるのであろう。

東京支店コンピューター化の折りに、香港支店から来ていたポルトガル人のオズモンド氏は、若い時代のスールミヤック氏も、その前任者モレオン氏をも良く知っていた。 彼は若い時、彼の部下であったモレオン氏を、小心で卑怯な策略家と称し、スールミヤック氏を人生の楽しみ方を心得た人だと言って、東京滞在中懇意にしていた。

パリ国立銀行駐在員事務所時代から続いているクリスマスパーティーは、いつの間にか新年会に変わっていたが、スールミヤック氏の人生を楽しむ心がイベントを盛り上げる為に奔走した。 ビンゴ大会を取り入れたのは彼であったが、その賞品を費用を掛けずに獲得するのが得意であった。 エール・フランスからタヒチ往復航空券、サイクル・プジョーから自転車、トムソンからはラジオカセット、かわいそうなスールミヤック氏の友人達は、新年会の季節になると何かをせびられる事になった。

一度だけ謙治は、スールミヤック氏に注意された事があった。 些細の事であったが身に染みている。 スールミヤック氏と一緒に何かの書類を整えている時、書き込む為の用紙が2枚必要なのに1枚しか無かった。 謙治はコピー機へ走り、書き損じを考慮して2枚コピーした。 スールミヤック氏は、きっぱりと言った「これを私は嫌いなのだ」。 以後、無駄なコピーは撮らないように心掛けている。

欧米人にとって、東京での生活は長い間天国であった。 物価高を除けば、天国は続いているかも知れない。 日本人は総じて欧米人に親切であり、特に日本女性の必要以上の親切を感じている男性達も多いだろう。 初めは戸惑い、次第に慣れ、遂には家庭を壊してしまった人もいる。 しかし、フランス人にとって、親類縁者から遠く離れて生活する事は好む事ではないらしい。 だからと言って、長い海外生活の甘い汁を存分に味わってしまった彼らは、本店勤務を心由としない。 スールミヤック氏は勤務希望地として、マドリード、バルセロナ、ブリュッセルを本店人事部に申請していたが、ロンドンも悪くないであろう。 「その内遊びに行くよ」と言って送り出した。 離日の数日前に、2人だけで食事をした。 多くを語らなかったが、お互い通じるものが多かったと、謙治は思っている。



35 戻った家族的雰囲気
2005年07月02日(土)

労働組合の騒ぎが治まって間もなく、総務で権力をほしいままにしていた藤森氏が退社することになった。 彼は悪い人間ではない。 どちらかと言うと勢力的に銀行の為に、従業員の為に良かれと思う事をどんどんやろうとした。 しかし、常識不在以上に皆に嫌われたのは、彼の信ずる神モレオン氏の言うこと以外を無視したことであったろう。 モレオン氏の居なくなった東京支店で、藤森氏は孤独であった。

日本の銀行を定年退職して監査として勤務していた厄介物の老人林氏も、こちらは自主的にではなく退職した。 企業の空気というものが、小人数に依ってこれほど歪められていたものかと感じるほど、支店内の空気が和らいだ。 謙治は、東京支店が健康になったことを嬉しく感じ取った。 「藤森の代わりを、ミスター角田にしようと思うが、お前はどう思う?」 ジュリアン氏に聴かれた。 大柄な角田氏は、謙治より2・3才年下であったが、他人の意見にじっくり耳を傾ける事の出来る穏やかな性格の持ち主で、謙治が信頼出来る数少ない人の1人である。 有名私立大学を出て邦銀の外国部に勤務し、海外支店にも籍を置いていた。



34 組合員に成りきれない
2005年07月01日(金)

くすぶり続けていた従業員のベースアップやボーナスへの不満と、締め付けられていると感じる労働環境に対する鬱憤が爆発寸前になっていた。 労働組合員全員が急遽銀行店舗ロビーに集められた。 スト権の為の投票である。 一部ではあったが、血気盛んな若いのが、埒の明かない交渉に業を煮やし、ストライキ突入を叫んでいた。 「フランス人共は、日本人を馬鹿にしている、交渉には少しの誠意も見られない、こうなったらとことん戦わなくはならない」。 それでも謙治は、フランス人達を信じていたかった。 労使が揉める事は良い方向には向かわない。 若い連中には、転職を「格好良い」と思っている所がある。 謙治も昔は転職を格好良いとは思わなかったが、恐れはしなかった。 もう45才になる、転職は面倒だ。 それに何よりパリ国立銀行は、謙治にとって自分自信であり、血であり肉であった。 少しくらい具合が悪いからと言って、切り捨てる訳にはいかないのである。

労働が過重になっていることは、謙治自身の場合も顕著であった。 外人たちは益々増えていた、もうフランス人だけでは無く、アメリカ人、イギリス人、皮膚の黒いフランス人も居た。 違うパスポート、違う滞在期限、諸々の手続きのための異なった大使館。

50人以上の事業所には、防火管理責任者を置かなくてはいけない。 消防計画を立て、従業員の防火訓練、非難訓練をしなくてはならない。 外国人たちは一応に、地震に強い恐怖感を抱いている。 それに備え、恐怖感を少しでも和らげるのも謙治の役目であった。

丸の内警察署が強力に推し進めている、「丸の内金融機関防犯対策連絡会」というのがある。 それも発足時から、謙治の担当になっていて、支部会、防犯の集い、総会等と結構一方的に指定された日時を取られる。

事務機の選定も、時間をかけて取り組まなくてはならない重要な事柄であった。 銀行で使う事務機は多種多様であり、規模の小さい一支店が使うには、特殊なものが要求される事が多い。 小切手の名入機を例にとると、パリ国立銀行が1985年に顧客に渡した小切手は、500冊に満たない。 平均すると1営業日に2冊半。 この為に専用の機械を購入することは無駄である。 そこで、あれこれ工夫しなくてはならなくなる。 そして、より一層の研究を要求されるのが導入が始まりだしたパソコンである。

金融機関コンピューター通信の、スイフトについては前に触れたが、スイフトの説明会と言うのに大勢が何日も行っていた。 機器設置の為の環境の説明も有った様だ。 謙治は、何も知らされてなかったので、自分には関係なしと思っていたのであったが、説明会資料のコピーだけが謙治に回って来て準備をせよと命ぜられた。 そして稼動後暫くすると、ログイン・ログアウト、受信メッセージのプリントアウト、各セクションへの仕分けを担当することになった。 これは難しい仕事ではない。 しかし、皆の出勤前にスイッチオンし着信メッセージのプリントを済ませて置かねばならず、スイッチオフは勿論、送信が終わるのを待たなければならない。 謙治は皆より早く出勤し、皆より遅くしか帰れなくなった。

それでも謙治は、業務改善を求めてストライキをする気にはなれなかった。 給料も2年間ほとんど上がってなかったが、自分の愛する職場に、赤旗を掲げて座り込んだり、奇声を上げたりする事は許せる行為ではないと思っていた。

「この銀行に最も長く勤務している者の1人として、少し考えている事を言わせて下さい」謙治はゆっくり話し始めた。「ここ2・3年、給与やその他の面で不満が有るかも知れない。 しかし、過去に辞めて行った人達のほとんどは、後悔している事も事実です。 他所の方が待遇が良いとは思わない方が良いのではないでしょうか。 僕は今までもそうでしたが、この銀行の責任者達を信頼しています。 確かに嫌な人、考え方について行くのが難しい人も居ました。でも、これからは違うと思います。 新首脳部を信頼してはどうでしょうか。ここは大きな事業所ではありません、使用者側、労働者側と言った所で、毎日顔を合わせ、一緒に仕事をする仲ではありませんか。 強攻策に出るよりは、まず、信頼し合う事の方が大事だと僕は思います。 フランス人達は、我々日本人を馬鹿になんぞしていません。」
先導者は、威勢は良いが、大勢ではなかった。 多くの人は、自分の労働環境や給与が、他の企業で働く友人達より良いことを知っていたし、結婚している女性たちの給料は、彼女たちのご亭主より良いのが普通であった。





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