運命の29日間【5】

 「……遅いね、うさぎちゃん」
まことが時計を気にしながら、殆ど一分おきに言った。レイはそれに溜息がちに答えた。もちろんこれも一分おきに。
「いつもの事じゃない、もうすぐ来るわよ。」
そういうレイ自身も落ち着かない。確かにいつも通りではあるけれど、いつも通りじゃない要因があるから、色々考えてしまう。けれどどれもまっとうな思考ではなくて、しっかり形になってはくれなかった。
「ヒント、みたいなものを、」
不意に亜美が言った。
「あげたらどうかしら。東京には1264万人の人が居るのよ。恋どころか、もう一度出会うだけでもちょっとした奇跡だと思うんだけど。」
みんなの注目の中で、亜美は単なる軽い思いつきと言うように淡々と話す。単なる協調性の発揮、と言うようにまことも頷く。
「いいんじゃない? 予告も無しだったしね、少しくらい“ヒント”があっても。」
後ろめたさ――衛にではない、うさぎにだ――からか、まことがその意見に大きく傾いているのは見て明らかだった。
レイと美奈子が顔を見合わせる。いいや、レイが美奈子を見つめている。窺うように見据えるレイの視線をするりと交わして、美奈子がまことに振り返る。
「賛成。」
次いで亜美にも視線を送る。
「でもどうやって? 衛さんはあたしたちのことだって覚えてないのよ。当然よね。あの人とあたしたちは、うさぎちゃんが居なければ繋がらなかったんだもの。」
面白い冗談でも言ったような風で、美奈子がくすくす笑う。レイはその笑顔を見るたびにいつも少し冷めた。そしてその冷めた温度の奥で、罪の意識がサッと燃え上がる。
世界で最も美しかった均衡を壊してしまったのだと言う、途方も無い罪。ミャンマーの奥地で、崖の縁に立つ今にも転がり落ちそうな巨石を支えているという聖髪――それはきっと金髪に違いない、金髪の仏陀だ――を引き抜いてしまったような、取り返しもつかない罪。そうだこれは罪だ。怖ろしい崖を、黄金の巨石が転がり落ちていく。思いもつかないスピードで、見届けることも叶わないほどの深さへ。落ちていく、落ちて――。石とともに落ち始めたレイの意識は、亜美の声で引き上げられた。ハッと顔をあげると、亜美は少し哀しそうな顔で、それでもまだ平坦な調子を続けようと苦心していた。
「元基さんに相談してみたらどうかしら。適当な理由や嘘を重ねて、一度だけでもうさぎちゃんと彼を合わせられたら、それで充分でしょう?」
亜美が固く組んだ指は、先が白く、凍っているようだった。
「わたしたちは、それ以上は干渉しない。それで終わるようなら、――そう、それで終わりよ。」


2003年02月15日(土)



 運命の29日間【4】

 いつものように身の入らない授業を六つこなして、友達たちの笑い声の中を足早に通り過ぎた。また明日と、最後に声を掛けてくれたのは誰だったか思い出せない。うさぎは逃げるように校舎を離れた。
「あー、今日、レイちゃんちで勉強会だ」
判断を曇らせる鈍痛が頭の中で居座り続けている。もう少し明確な痛みなら、それを理由に勉強会も断れるのに、とうさぎはまた浅く溜息をついた。
一日中まとわりつく、この痛みとも言えない鈍い痛み。気分を滅入らせるには充分な痛み。
――こんなんじゃ勉強に集中できないな。
いつものことじゃないと言われるのが目に見えているから、決して口には出さない言葉を心の中で呟く。行く宛ての無い者らしく、重い足取りで帰り道を外れた。とにかく今は誰にも会いたくなかった。

 ふらふら辿りついた公園のベンチに座ると、少しだけ楽になった。
疲れてるのかなと、目を閉じて背中を預ける。
「どけよ、俺の席だ。」
いきなりのぶっきらぼうな口調に、うさぎは驚いて目を開く。目の前には声のままのぶっきらぼうな顔。背は高く、整った顔立ちに黒い髪がよく映えていて、そのままどこかの王子様のようだった。
しかし高い身長は威圧的な雰囲気を、整った顔は冷徹そうな雰囲気をそれぞれ醸し出していた。うさぎは急に腹が立った。
「はぁ? 公園のベンチに俺の席なんてあるわけないでしょ。ばっかじゃないの。」
特別調子の悪い日に限って、こんな誰とも知らない誰かにわけの分からないことを言われては、うさぎも初対面の相手に噛みつくぐらいはやってのける。
男は半径10mくらいには聞こえそうな盛大な舌打ちをした。
「この時間は俺がいつも座ってるんだ。」
「早い者勝ちよ」
苛立った様子の男に、同じくらい気が立っているうさぎは負けずに言い返す。見たところ大学生くらいのようだが、なんだってこんな子供っぽいことを言って怒ってるんだろうと、うさぎが頭の隅で思った。神聖な場所でもあるまいし。
しばらくのにらみ合いののち、途端に男は疲れた顔をした。
「……分かった、早い者勝ちだな。」
言うなり踵を返して立ち去っていく。うさぎはその背中を眺めながら首を傾げた。
「なによ、あいつ」
気がつけば苛立ちは消えていて、不思議と気分が良かった。鈍い痛みは砂糖のようにさらさらと溶けてしまったようだ。
うさぎは大きく伸びをすると、随分遅れてしまった勉強会に向けて足を向かわせる。せっかく勝ち取った場所に、もうすっかり未練は無かった。
自分こそ、なんだってあんなにムキになったんだろう。


2003年02月14日(金)



 運命の29日間【3】

 満月の夜だった。新月の夜じゃなくて良かった。
引っかき傷ほどの光すら残さず消えた、真っ暗な空のような自分の心に、ふっくら満ちた月が少しだけ――ソロモン王の優しさにも似た――光を投げかけてくれている。
眠たげに揺らぐ瞳の中で、無造作な自由連想が走り抜けていくのをルナが見ていた。引き返せないスタートを切ったあとで、亜美から事と次第を聞かされた。怒りでも呆れでもなく、哀れみをもってルナはそれに応えた。あの子たちは、こんな形でしか叫べないんだ。自分の孤独や悲しみを。
その全てを引き受ける破目になったうさぎに、責任も罪もないとは言えないのだろうけど、ルナは言いたかった。そして世界中で一番の重罪人になるかもしれない四人の少女たちも許したかった。
「ルナ、あたし、」
ルナは応えて、うさぎが視線を預けている窓にふわりと飛び上がる。
「どうしたの、うさぎちゃん」
「あたし、」
受け取る手の平すら無くなってしまった「何か」に、言葉を与えることはできなくて、うさぎは口を閉ざした。
「……なんでもない。もう寝ようか」
神経の麻痺したような笑顔で笑うと、ルナを抱き上げてベッドに横たわる。ルナはうさぎの腕の中で居心地の良い場所を探し身じろぎながら、せめていい夢を、と思った。
うさぎにも、かわいそうな四人の少女たちにも。



 「あれ、まこと。どうした、こんな時間に。って、ここじゃなんだから、まあ入りなよ。」
衛は突然の来訪にも嫌な顔ひとつせず、気さくにまことを招き入れた。この辺はうさぎちゃんの彼氏だよな、とまことが思う。
「お邪魔します」
「どうぞ」招き入れられた部屋の大きな窓から、月が見えた。嫌だな、今夜は満月だ。
「実は最近すごいおいしいお茶が手に入ったんで、衛さんにも飲んでもらおうと思って」
つい数時間前に言った台詞よりは、幾分こなれた口調でスラスラ言った。罪悪感をひとつも感じなかったから、だろうか。
「へえ、悪いね。わざわざありがとう。」
カウンター越しに手際よく準備を始めるまことを見ながら、衛が微笑む。
「いえいえ、うさぎちゃんの大事なひとは、アタシ達にとっても大事なひとだから」
「嘘が上手いね、まことは」
うさぎの隣に並んでいてもなんら見劣りしない穏やかさで、衛は微笑んでいる。
思わず振り返ってその顔を確認してから、わざとらしく聞こえない振りで、まことはまた手を動かし始めた。
やがて持っていった紅茶のカップを、衛はなんのためらいもなく手に取った。
「……嘘だと分かってて飲むんですか?」
遂に耐えきれずにまことが聞いた。口元に運ぶスピードも緩めず、衛がまことの眼を見つめる。
「よく分からないけど、俺は試されてるんだろ?」
「…………」
「こんなことで認めてもらえるなら、喜んで挑戦するよ」
ごく、と、衛の喉が鳴る。流れ込んでいくさまが見えるようだった。
「……こんなことかどうかは、確認するべきでしたね」
染みわたる、危ない薬。
「なんだって大丈夫さ。俺は。」
言葉の切れ目を狙って、衛の体が揺らぐ。うさぎが見せたのと同じ陰りが、さっと衛の目を横切っていった。
次の瞬間には、あの穏やかさはすっかり消えていて、不審と拒絶だけが残っていた。
「誰だ、おまえ。なんで俺の部屋にいる。」
そうだこの声。会ったばかりの頃、いつだって苛立たされた切羽詰った人間の声。今となっては、あの穏やかで、いつだって高みから自分を見ている声よりずっと心地よかった。
まことは一瞬前とは逆だなと思いながら、出来うる限り穏やかに微笑んで見せた。
「お邪魔しました」

 衛のマンションを出て、一度だけ振り返る。罪悪感や後悔は驚くほどない。ただ何かを確認するように振り返った。
そびえる黒々としたマンションの頭上高くで満月がまことを見ている。
見えるもの全てを救おうとする純粋な眼。できると思っている子供の眼。
「そんな目で見ないでよ――プリンセス」
少なくとも自分たちは、その眼じゃ完全には救われなかったんだ。その眼が、こんなにも狂わせた。



2003年02月13日(木)



 運命の29日間【2】

 「もうっほんと信じられない! 美奈子ちゃんの裏切りものー」
「別に狙ってやったわけじゃないし。てゆっかうさぎちゃん蟹座だから仕方ないよ。最下位でしょ、今日。」
「げっマジで?!」
「見てこなかったの? 朝の占い」
「……その時間まだ寝てた」
「……始業の20分前だよ?」
「美奈子ちゃんこそ、なんでそんなの見てんの」
「あたし、それ見てすぐ家出れば間に合うもん。こないだの1500m走、タイム4分ちょいだったよ。」
2人のぐだぐだの会話に割り込んだレイに、美奈子が事も無げに答える。本気出せば3分台でも走れるけど、と、どこまで本気か分からない呟きに、まことの声が重なった。
「遅れてごめんよ」
まことは鞄を置くなり、落ち着かなげにまた立ち上がる。
「レイちゃん、早速だけど台所借りていい? おいしいお茶手に入れたから、みんなにも飲んでもらいたいんだ」
意識して聞いてる分、棒読みが耳につくまことの台詞に、レイは少し呆れ顔で微笑んで「どうぞ」と言った。ちらりとうさぎを盗み見ると、まだ美奈子から占いの詳細を聞いてるところで、そんなまことの様子には気付いていなかった。仲間のフォローはお手の物と言ったところね。さすがリーダー。レイが感心する。
もっともこんな時にばかり連携が上手くいくのもどうかと思うけれど、更にそれを遠巻きに見ていた亜美は思った。
レイと美奈子から最悪の悪戯計画を聞かされて、逡巡し、そして加担するまで僅か数秒。そんな自分もどうかと思うけれど。
「はい、お待たせ」
ややあって戻ってきたまことが不揃いのカップをテーブルの上に並べると、真っ先にうさぎが飛びついた。
「うわーいい匂い!」
言って躊躇いなく、すっかり所有物のようになったウサギ柄のマグカップを手に取る。一瞬張り詰めた空気にも気付かず、うさぎはそれを口元に運んだ。
視線と沈黙の中で、飲み下される紅茶。淡い水色の液体が溶け込んだ紅茶。

どくんと、うさぎの中の何かが大きく脈打った。

一瞬真っ白になった頭の中が、次の瞬間には何事も無かったようにまた彩られる。決定的に何かが欠けた色合いで。
うさぎはそのたった一瞬の変化に唖然として、思わずカップを取り落とした。うさぎ本人を含め、誰もその事に気を留めない。ただ夢中でうさぎを見守り、レイがやっとで口を開いた。
「……うさぎ、大丈夫?」
おそるおそる――これは不安? それとも期待?――声を掛けながら、うさぎの肩に触れる。うさぎの体は硬い石のようで、人間らしい温度もあの鮮やかな色彩も失ったようだった。
「分かんない。……なんか息が、止まりそうになった」
不思議に遠くを見つめながら、うさぎが呟く。
それは薬の作用だったのか。それとも――彼を忘れたからだったのだろうか。


「美奈子ちゃん」
それからすぐに笑顔を取り戻しまるでいつものように振舞ったうさぎも帰り、2人きりになった神社の境内で、レイが淡白な声で言った。
「説明書、最後までちゃんと読んだ?」
「読んだわよ?」
美奈子も負けず劣らずの淡白な声で返す。
「だから、試したの」
その薄く平坦な台詞に、レイが、自分の淡白さなんて可愛いものだと思いながら肩を竦めた。
「よくやるわ。歴史が変わるかも知れないのに」
「レイちゃんこそよく言うわ。止めなかったくせに」
冷たい微笑でレイを見返す。そしてまた、手の中の空になった瓶に視線を戻した。
「こんなもんで終わるならその程度。試させてもらう権利くらいあるでしょう、あたしたちには」
手の中でころころと転がしながら、醒めきった目をそっと閉じた。
「あの2人の恋に、過去も未来も、全部めちゃくちゃにされるんだから」


まことは部屋でひとり、冷えた笑いの仲間から渡された『取り扱い説明書』を手の平で弄ぶ。説明書の最後には、悪趣味な設計者からのこんなメッセージが添えられていた。

もしも29日間でもう一度恋に落ちなければ、
二度と相手を思い出すことはない。



2003年02月12日(水)



 運命の29日間【1】

まもうさ←内部。


written by みなみ






次に月が満ちるまでに
もう一度恋に落ちるだろうか。



 「レイちゃん、それ、何?」
縁側に座って淡い水色の液体が入った小瓶を眺めていたレイは、その声で初めて、美奈子がすぐ側に立っていた事に気付いた。
好奇心に駆られ、居ても立ってもいられなくなって声をかけたと言うような顔の美奈子が、態度で答えを急かす。レイは小瓶を陽の光に透かしながらふっと笑った。
「早かったじゃない。うさぎ達は?」
「うさぎちゃんは居残り、亜美ちゃんとまこちゃんは部活に顔出してから来るって。で、それ何?」
「珍しいわね。うさぎが居残りなのに美奈子ちゃんは免れてるなんて」
「ツイてたのよ。ボーダーまたいでの一点差。で、それ何?」
「それはあとで煩そうね。そういえば美奈子ちゃんは部活出なくて良いの?」
「男バスも女バスも試合前だから体育館が空かないのよ。つかレイちゃん、わざとでしょ?」
「バレた?」
「あからさま。なんか言えないようなものなの?」
美奈子が改めて小瓶に目をやる。午後の陽射しを受けて小瓶が白く縁取られていた。
「まあ、別にそういうわけじゃないんだけど」
レイが難しげに眉を顰める。
「29日間、恋人の事を忘れるんだって」
「は?」
「そういう薬らしいわ。時々、御札とか色々といかがわしいものを売りつけにくるやつがいるんだけど……」
「ちょっと待って。……神社に?」
「そう神社に。中々剛の者よね。」
レイが肩を竦めるのを見て、美奈子も呆れた顔を作る。
「あ……そう。で、その人が?」
「そうそいつが、これ置いてったのよ。試作品だからモニターになってくれって。ご丁寧に説明書まで付けて」
ポケットから取り出した紙を、美奈子に手渡す。受け取った美奈子はそれを見て黙り込んだ。
「……どう思う?」
シンとなった美奈子を見据え、レイが声をひそめて問い掛ける。
しばらくの間の後、美奈子がにやりと唇の端をもちあげた。
「試してみようよ、それ」


2003年02月11日(火)



 金魚花火【9】

 「誰か居たの?」
人の出入りの殆どないこの場所で、自分以外の足あとを始めて見た――わたしは足あとをつけられない――ものだから、彼女は少し驚いていた。規則的に折れた草の跡をなんとはなしに目で追ううさぎに、わたしが頷く。
「懐かしい友人が遊びにきていたの」
うさぎは嬉しそうに微笑んだ。
「友達居るなら、紹介してくれればよかったのに。」
ありがちな独占欲も妬心も彼女には無いから、純粋な喜びの顔でわたしを見た。
三回も一方的な別れをつきつけているのに、それに気づいているのかいないのか、また何食わぬ顔で現れる。そしてわたしも、まるで何も無かったかのように、親しさだけを募らせていった。
「そうね、今度会えたら必ず紹介するわ」
「ありがと。それじゃ亜美ちゃん、今度こそ行こう。」
にこりと笑うと、ためらいもなくわたしの手を取った。確かな感触でわたしの手の平にぬくもりを繋げ、わたしはその全てに戸惑う。
「お祭りが始まるよ」


 「月野、こっちこっち」
うさぎに手を引かれながら歩いて行くと、すっかり祭りの後の静けさを湛えた神社の境内に、3人の少年たちが居た。その中のひとりがうさぎを見つけて手を振る。
「そっちが噂の幽霊さん? 俺、星野って言うんだ。よろしく」
「……ほんとに居たんだ」
「なに、夜天くん疑ってたの?」
「普通疑う。星野は普通の神経じゃないんだよ。ねぇ、大気?」
「…………」
「固まってるし。――まあ、これくらいの反応の方が正しいと思うよ。」
親しげに言葉を交わしている3人に気を取られていると、うさぎが軽く手を引いた。
「中学で出来た友達なんだ。亜美ちゃんのこと話したらみんな協力してくれるって」
「協力?」
亜美の言葉を遮るように、うさぎは星野に手渡された狐の面を亜美に被せた。ごく普通のことのように収まった面を見て、大気が息を呑む。
「……非常に興味深いですね」
「分析はいいから、さっさと始めようぜ」
ようやく硬直から脱した大気と、気だるげな夜天の肩を叩いて星野が走り出す。
「いいよって言うまで、見ちゃダメだよ」
一緒に駆け出したうさぎの悪戯っぽい声を聞きながら、亜美はお面の内側で目を閉じた。閉ざす瞼ももう無くて、それは形ばかりのことだけど、本当にそうできたらどんなに良いだろうと思った。
自然と流れ込んできてしまうやさしい子供たちの悪戯に、涙が止まりそうに無かったから。


ああ、お祭りが始まる。



2003年02月09日(日)



 金魚花火【8】

 「久しぶり」
遠くを見つめた青白い光の中心が、あたしの声に振り返る。
光の中心が目となり、それを取り巻いていたぼやぼやした光が、次第にヒトを模り始めた。完成前にあたしはもう気付いている。
「その姿で“マーキュリー”は無いわね、きっと」
「……亜美、と呼ばれていたわ。あなたこそ今はどんな名で呼ばれているの。マーズ。」
哀しげに、或いはバツが悪そうにとでも言えば良いのか、そんな曖昧な微笑みはどこか不敵だった記憶の中の彼女にはそぐわなかった。
「レイよ。――会ってしまったのね」
もし思い出せるのならばきっと何度目ともしれない再会は、ひどくあっさりとしたものになった。彼女はあたしの言葉に、着物なんて似合わない目の色をしていた頃のように思慮深そうな沈黙を返してみせたけど、本当は違う。何を言われているか分からないだけだ。ここに居る彼女はほんの一部だから。
帰りの飛行機の事を考えながら、あたしは矢継ぎ早に質問を繰り返した。
「もう会ったんでしょう?」
亜美はやっと何かに気が付いて目を見開く。そうよ会ってしまったんでしょう? だからこんな水浸しのまま、どこにも行けずにうつむいて。
「修行中の身だから、あんまり長いこと此処には居られないの。手短に説明するわね」
宣言すると、彼女は黙って頷いた。
「あなたが一目であたしをマーズと見破ったように、あたしにもあたしがマーズであることが生まれた瞬間から分かっていたわ。そしてあたしは炎の中に過去を見た。未来だったかもしれない。どちらにせよ、あたしはそれがとても怖くて、」
亜美は真摯な目であたしを見守っている。まるで幼子のようだと思った。たったひとつの感情だけが心を支配する、原始の目だ。
「怖くて――あたしはその運命から逃げたの。だから、あなただってきっと逃げていい。そう望むなら、あたしには手助けができる。そう思ってチベットからこの極東の地まで来たのよ。」
「……何の話か分からないわ」
彼女にしてはとても素直に、自分の無知を認めた。いや、元々素直だったのかもしれない。ただあの頃は、本当に知らないことなんて無かっただけで。知らないことなんて何もないと思うくらいに、あたしたちは愚かだっただけで。
でも今は知ってしまった。恋しいと言う意味を。それを知ってしまうと、他のことには途端に無知になる。
チベットの乾いた風が懐かしくなる。今夜の飛行機で日本を離れたら、きっとあたしは二度とここへは戻らない。生ぬるい風が、肌を嫌な手つきで撫でていく。予感に似て。
気が付けば殆ど泣きそうになりながら、あたしは言い募っていた。
「……会ったこともない誰かに、会いたくなるのよ。恋しくて、泣きそうになることがある。でもきっと、会ったらもっと泣きたくなる。だからあたしは逃げたの。小さい頃からずっと、この町はあたしを息苦しくさせる。」
目を閉じて風を感じた。彼女にはきっと出来ないその仕草を、亜美が少し焦がれるように見ているのが分かる。そしてその向こうから。
「ほら、もうすぐ駆けてくる。」

亜美には、せめてあたしが知っている全てを伝えようと思ったけれど、あたしの覚悟はそれに足りなくて、説明は滅茶苦茶だった。でも、彼女は何もかも知った顔で振り返る。
「もう行くわね」
切ないほどの愛おしさに満ちた目で見つめる先を、同じように眺めながら、あたしは疲れた声で言った。
「あなたは想いを果たせばいいわ。あたしは昔のよしみでせめて忠告をしてあげようと思っただけだから」
足音すら聞こえない彼方から近づいてくるその気配に、自分でも驚くほどの怯えと敬意を感じながら、反対の方向へと歩き出す。すっかり私への興味を失った彼女はただ、待ち焦がれるようにかなたへ視線を馳せている。
「またいつか、どこかでね」
それでも礼儀を通して肩越しに挨拶をした。
濃い色をした夏の草を踏むごとに、あたしは遠ざかる。見た事もない誰かから。
会いたい。
本当は振り返って、亜美すら追い越すスピードで駆け出して、「会いたかった」と伝えたい。
そうする勇気だけがないままに、あたしは遠ざかる。
佇んで、ひたむきに待ちわびる亜美の姿を思い浮かべた。
「レイ」
呼びかける声。あたしは立ち止まっただけで振り返らなかった。思い浮かべた彼女の姿が、強すぎる日差しの中、微笑んでいるように見える。
「もう大丈夫」
静かな強さ。憧れたその戦い方。
「前に進むわ」
そう、あなたは戦友、だったね。

答えも返さずに大きく一歩を踏み出す。あたしはまたここから逃げ出すけど、死ぬまでここには帰らないと思うけど、いつか生まれ変わって、あたしがもっと強くなれたら。
また一緒に戦いましょう。


2003年02月08日(土)



 金魚花火【7】

 「なんて馬鹿なことしたんだ」
遠くから、またはその内側から、わたしは2人のやり取りを眺めていた。やり取りと言うにはあまりにも一方的な会話だったけれど。
「亜美ちゃん、……アタシの声が聞こえないのかい、ねえ、亜美ちゃん」
彼女が必死に呼びかける。呼吸するだけの死体みたいだったのあの数日間のことを、わたしは殆ど覚えていない。
「……狐のお面が見つかったよ。」
わたしはハッとなる。だけど記憶の中のわたしは何も言わない。布団に横たわったまま、何か遠いものを見つめてじっとしている。まばたきをしなければ、誰も死体であることを疑わないだろう。
「あんたが腰につけてたのと同じものだ。下流の方で引っかかっていたのが見つかった。……彼は見つからなかったけど、これは彼のものだろ? 2人でこのお面をつけて、お祭りに行ったんだね? 違うかい?」
反応を待つように、彼女は少し間を置いた。それでもわたしは何も答えない。沸々と怒りの温度があがっていくのが分かる。
「どうしてそのまま逃げなかったんだ。逃げれば良かったんだ。死ぬ覚悟があったなら、それくらい出来た筈じゃないか。」
叫びだしそうになりながら、それでも彼女は立場をわきまえていた。彼女がここへ奉公に上がってきた頃から、彼女はいつだってわたしに正しい事を教えてくれた。そんな彼女にしては珍しいほどの感情論だ、と今のわたしは冷静に思う。あの頃、どこへ逃げたって世界はそんなに変わらなかった。どこも等しい地獄だった。
「話をする気がないならそれで構わない。ただ、ひとつ言っとくよ。あんたを許さない。」
「出て行って。」
吐き捨てると言うほどの感情すらなく、“わたし”が言っていた。彼女も、もはや未練ひとつ残さず「ああ」と言った。
「もう来ないよ。今日限りだ。」
彼女は自分の言葉を守りそれきり二度と会うことは無かったけれど、もう動かなくなったわたしの体に、すがって泣いてくれていたね。
今ならわたしにも、あなたの怒りのわけが分かる。



 小さい頃から、かぐや姫とか桃太郎とかのありふれた童話のひとつみたいに繰り返し聞かされた。初めて聞いたときの事は覚えていないけど、この歳になってみれば、その話の真意は単純だ。
江戸時代、うちのご先祖様が奉公にあがってたお武家様のとこの一人娘が、身分の低い男に惚れて心中――実際には“後追い”になったけど――した話の結末。なんてことはない。
その2人が大好きだったから、どんな形でも生きていて欲しかったんじゃないか。
面職人だったと言うその男(と言うより殆ど少年だったらしい)とも仲が良く、その人柄に惚れ込んでいたうちのご先祖様は、自分の主が、武家の女でありながらその男の住む長屋に身を寄せたときは怒りもせずに手を貸したらしい。彼女の父に問い詰められたときも知らないと言い張って、2人の恋を守ったんだ。だからこそ、2人が心中を選んだことを許せなかった。生きていて欲しかった。そりゃそうだ。
「偶然じゃなかったみたいだね」
前後の脈絡無く言うと、あの夜とは違うカジュアルな服装の少女は首をかしげた。ピンクの浴衣が非常に可愛かったので、アタシはちょっと残念だった。
「いやこっちの話。えっと、狐のお面だよね?」
促せば、思い出したようにまた言い募る。
「あ、そうなんです! 確かふたつあったと思うんですけど、もしまだ残ってたら……」
「うん、あるよ」
言葉の途中で遮って、玄関先で元気いっぱいの声を出すおだんご頭の女の子を玄関の中に引っ張りこんだ。少女の軽い体が一瞬浮いて、きゃっとびっくりした悲鳴をあげる。
「このアパートの連中は夜行性が多いからね。こんな真っ昼間に騒いでたら怒られちゃうよ。」
「あ、ごめんなさい。」
慌てて両手で口を押さえる仕草が可愛くて思わず笑う。
「いいさ。」
アタシにしてみても寝起きで、いつもなら居留守くらい使おうかってくらいの眠気だったけど、玄関の向こうから呼びかけてきた声には覚えがあった。
「それより、よくここが分かったね。」
「夏祭り委員会のひとに聞いたんです。」
「そっか。熱心だね。待ってな、すぐ持ってくるから」
部屋の奥に引っ込んで、言葉通りすぐ戻ってくると彼女はびっくりした顔をした。アタシはなんとなく予感がして、しまいこまずに出していたんだと説明する。
「予感?」
「これは、うちに代々伝わっていたものなんだ。昨日あんたが買ってった方とふたつ一緒にね」
少女はじっと狐のお面を見つめる。しばらく考え込んでから顔を上げると、困ったような眼をしていた。
「……簡単に売っちゃっていいんですか?」
良い子だな。そう思った。
子供にとっては宝物のような夏休みの最終日に、わざわざ訪ねてくるほど欲しかったものなのに、躊躇う。きっと本当は、駄々をこねたいくらい欲しいんだろうに。
アタシは優しく微笑んで見せた。
「良いんだ。ご先祖様の言うところには、欲しがる人に渡しなさい。必要な人しか欲しがらないから、ってさ。だからこれはあんたにあげるよ。――あんたには必要なんだろう?」
お面を手渡すと、少女はそれはもう素敵に微笑んで、ありがとうございます!と、体育会系のうちのサークルですら中々聞けないような元気な声で頭を下げた。
もし“何か”あったら話を聞かせてと声をかけると、不思議と意味を承知しているような顔で頷いて、彼女は走り出して行った。


2003年02月07日(金)



 金魚花火【6】

 こんな真昼の空の下でも、幽霊は幽霊のままなのかな。そう思いながら、うさぎは「もらわれ林」をうろうろ歩いていた。
あの時亜美は「ありがとう」と言った。それが、とても優しいさよならだった気がして、うさぎは亜美の名を呼べない。
今日は浴衣も着ていない。夏祭りは、もう終わってしまったから。
それでも関係無く会ってくれるだろうか。
 たくさん叱られたそのあとで、はるかに頼んで買ってもらった狐の面を弄びながら、うさぎは昨日亜美と別れた木のそばにしゃがみこむ。不思議がった兄の顔。『わたあめでもリンゴ飴でもフランクフルトでもたこ焼きでもなく、なんでそんなものを?』と如実に物語りながら、それでも結局、なにも聞かずに買ってくれた。売れないまま何年もの夏を持ち越されたのか、白かっただろうそのお面は、満遍なく日に焼けて黄色くなっていた。
『本当に、困った子』
くすくす笑いは、うさぎの頭上から聞こえた。驚いて見上げると、そこには熟れた緑の隙間から覗く青空があるだけだった。首を傾げながら視線を下げていけば、たった2日だけど、細かい模様まですっかり目に焼きついた青い着物の亜美の姿。
――亜美ちゃん!と、笑顔いっぱいで呼びかけようとして、うさぎは慌てて声を喉に沈める。その様子に今度は亜美が首を傾げた。長いあいだここで人間を見てきたが、うさぎの行動ばっかりは亜美にも予測不能だった。
うさぎは手にした狐の面を被り、いつもよりずっと大人しい動作で立ち上がる。
どうしたんだろう。問いかけようとしたとき、ソプラノの音域から微かにアルトにかかるくらい、それでもうさぎの精一杯の低い声が、亜美に語りかけた。
「亜美ちゃん、」
光にも闇にも眩まなかった亜美の目が一瞬眩む。


「会いにきたよ」


 初め、亜美にはうさぎが何を言っているのか分からなかった。多分うさぎが思い描いてたほどには上手くは出来なかったから――いや、元々、無理は承知だったのかもしれない。
「…………」
それでも亜美は理解した。
「長いあいだ、待たせてごめん。」
ためらいがちにゆっくりとうさぎは話した。会ったこともない「彼」の話し方、仕草、イントネーションを模索しながら。
「お祭り、一緒に行こうよ」
亜美を包む水の滴りが初めて土を濡らす。ぽたぽたと、頬の上の同じ軌跡を辿って一瞬の雨のように土に降る。
優しい仕草で差し出されたうさぎの手の平。記憶の中で、同じ仕草で差し出されたものより一回りも小さい丸い指先。差し出しながらも戸惑って、緩く曲がっていた。
残酷だ。うさぎは知らない――覚えていない――だろうけど、それはとっても残酷だった。
その手があの時、差し出したほんの数分後、たったの数秒で、それからの何百年ものあいだ彼女を愛から別ったのに。
「……お祭りは、終わってしまったでしょう?」

心に 泳ぐ 金魚は 恋し 想いを 募らせて
真っ赤に 染まり 実らぬ 想いを 知りながら
それでも そばにいたいと 願ったの


「まだ終わらないよ。」

光で 目がくらんで
一瞬うつるは あなたの優顔


 のっぺりした笑みの狐の面の下で、うさぎが微笑んでいる。既にこの世の全てを見透かせる亜美には、何もかも見えていた。うさぎが狐の面の下に思い描いて欲しかったのは彼の顔だろうけれど、亜美にはうさぎの顔がはっきり見える。顔の造作は、今の亜美にとっては骨格や臓腑のように大した差異を認識させる対象ではなかった。だからこそ、うさぎの想いの中に彼が見える。
「行こう」
まだ心許なげな手の平を、それでも真っ直ぐ亜美の前に差し出してうさぎは言った。裏切りの記憶と愛しさの記憶が重なりあって、その輪郭は上手く線を結べない。
またこの手はわたしを遠い岸へ突き放すのかな。それでもいいと思った。水浸しの青白い手を、そっとうさぎと重ね合わせる。
「……いいわ」

心に 泳ぐ 金魚は 醜さで 包まれぬよう
この夏だけの 命と 決めて
少しの 時間だけでも
あなたの 幸せを 願ったの




 どこまでもどこまでも彼方を見つめることが出来たから、滅多なことではそこを動かなかった。動く気も無かったし、まして重力を感じる生物のように、足を交互に動かして歩くなんて、本当にもうずっと昔のこと。ぎこちなく、ゆっくり歩く。彼女はそれに合わせてくれてるのか、もともと歩きにくいこの林の道におぼつかないだけなのか、やっぱりゆっくり歩いていた。
温度を捨てたわたしの手の平に、ゆるい熱を伝え続ける小さな手。
「うさぎちゃん」
頭ひとつ分も違うから、彼女は顎を大きく持ち上げてわたしを見る。
「……違うもん」
呼び掛けに続く言葉も待たずに彼女は言った。わたしはまた首を傾げてしまう。
「なにが?」
「あたし、うさぎじゃないよ。亜美ちゃんの彼氏なの。」
狐のお面を指しながら、そのお面の下の顔をしかめる。言ってる側から一人称も声色も元の調子に戻っているのに。
「……亜美ちゃん、なんで笑ってるの?」
ああ、わたし笑ってるんだ。
ありがとう、うさぎちゃん。たくさんの事を教えてくれるね。
「嬉しいから」
そしてわたしを素直な気持ちにさせてくれる。
でも、と言って、繋いだ手と反対の手で狐のお面に触れた。強い意志を持って現実に干渉する。激しい脱力感のような――痺れにも似た――感覚、(感覚?)に耐えながら、本当には存在しない指で、狐のお面をそっと外した。
「わたし、うさぎちゃんとお祭りに行きたいわ」
うさぎちゃんはしばらく考え込んでいた。わたしはその考えがまとまるのを黙って待つ。待つのはわたしの特技か性質か。どちらにしても、今はそれがとても心地よかった。風を感じられる体だったなら、きっともっと良かったのになと思いながら、ふわりふわりと吹く風に、揺られる金の前髪を眺める。わたしの肌に重く張り付く着物は、最後の瞬間だけを留めているから決して動かない。
「うん、分かった。亜美ちゃんがそう言うなら、それでいいよ。」
どんな思考過程があったのかわたしには分からないけど、うさぎちゃんは何かに納得して頷いた。その言葉が、また記憶を揺り起こす。
二百十余年、黒い川を流れていく彼の姿ばかりを繰り返し思い出した。そしてその記憶にばかり縛られた。それより前の記憶はなんだかあやふやで、わたしはまだ何か大事な事を忘れているのかもしれない。
だから、その言葉にはどきりとした。
あの日も彼は、そう言ってくれたんだ。
『うん、分かった。亜美ちゃんがそう言うなら、それでいいよ。』
そのあとで、わたしをお祭りで沸き返る町に連れ出した彼。狐のお面を被って。『お祭りに行こうよ』って。
「……うさぎちゃん」
指先との境界線を曖昧にしながら、溶け合うように手に馴染んだ狐のお面をみつめて、呟いた。
「これをどこで」
「? 昨日のお祭りで買ってもらったんだよ。」
ふたつの、狐の、お面。
「どうしたの?」
「……もうひとつ、」
「もうひとつ? あ。うん、あったよ。他のお面はみんな綺麗だったのに、この狐のお面がふたつだけ、すごく古い感じだった。かわいいのもいっぱいあったのに、なんとなくこれが気になって。――お兄ちゃんが怒ってたからひとつしかねだれなかったけど、ほんとは二匹一緒にいさせてあげたかったんだ。……どうして分かったの?」
純真な眼でお面を見つめて話しながら、不意に不思議がってわたしを見上げた。
答えようとしたけど、わたしの意識は夜の川に流されて、もうここでの干渉力を失ってしまう。うさぎちゃんの手に重ねていたわたしの手が、手がかりを失って滑り落ちた。
本当は触れ合えない。わたしたちは同じ場所に存在していない。そのことを裏付けるように、驚いて伸ばされたうさぎちゃんの手がわたしの体をすり抜ける。



2003年02月06日(木)



 金魚花火【5】

 壊れてしまったと思うほどの必死さで、はるかはうさぎを探して走り回った。勿論私の方も、人のことを言えないくらいには取り乱していたと思う。
何もなかったから良かったようなもので、「もらわれ林」のはずれでうさぎを見つけたときには、本当に心臓が破けそうなくらいの不安と安堵感を感じた。うさぎは立ち尽くして泣いていた。そんな泣き方が出来たのかと思うほどとても静かに泣いて、いつもなら何があっても真っ先に報告してくれた私たちにさえ、そこで何があったかを話してくれない。心に留めると決めたのだろう。
何かが少女を少しだけ大人にしたのだと、感じ取った。
『おかしいわね』
受話器越しにも眉を顰めているのが分かるような声。事の次第を話し終えた直後の第一声だった。
『自慢じゃないけど、あたしの祈りはご利益あるわよ。あまりにも霊験あらたかだからって、色んな国から注文があったくらいなんだから。それを並みの霊がどうこう出来るとは思えない。それに、御札には傷ひとつついてなかったんでしょう?』
「ええ。入れたときのままだったわ」
『だとしたら本当におかしな話だわ。あたしの力を破るほど強力な悪霊だったとしたら、御札の端が焦げるとか、多少なり変化がある筈なのに……』
悪霊。その言葉が変にひっかかる。うさぎの友達は本当に良い子ばかりだったから、と言えば短絡的すぎるかもしれないけど、不思議と、そんな悪いものがうさぎに近づくとは思えない。
「変化と言えば……いえ、なんでもないわ」
『何? 言ってよ、姉さん。ちょっとした変化でも重要な手がかりになるかもしれないのよ』
「……気のせいだと思うんだけど、御札に触れたとき、少しだけ――少しだけひやりとしたわ。薄い氷に触ったみたいに。すぐに消えてしまったけれど。」
『……氷。』
レイが何かに反応したように繰り返した。
「どうしたの?」
『……いいえ、なんでもないわ。ただ、あたしの力の源は火だから、例えば水を源に持つ同等の力となら、相殺し合うかもしれないと思っただけ』
レイと同等の力? 身内の欲目なしでも、世界でも屈指と囁かれている能力者のレイと渡り合える力を持つ幽霊なんて想像もつかない。
そんな事を考えていると、不意にインターホンの音が響く。家には私以外誰もいなかった。
「誰か来たみたい」
子機を持って階段を降りながら言う。
『どうぞ、待ってるわ』
保留にして玄関を開けると、うさぎだった。
「どうしたの? ひとり?」
「うん。ちょっとみちるお姉ちゃんに聞きたいことがあって」
「はるかじゃダメなの?」
「お兄ちゃん、昨日から口きいてくれないんだもん」
またなんて幼稚なふてくされ方をしてるのかしら。何も話してもらえなかったことに少なからずショックを受けたのは違いないけど、時々その相変わらずの幼さに笑ってしまう。本人はすっかり大人になったつもりでいるから余計にタチが悪いわ。
「いいわ。とにかくあがって」
「ううん。ここでいい。――ねえみちるお姉ちゃん、“恋しい”ってどういう意味?」
突然の難題に、私は思わず目を丸くする。うさぎは期待を込めて私を見つめていた。

恋しい?

前振りもなく、なんてことを聞くのかしら。
問いの難しさより、うさぎの口からそんな言葉が出たことの方に驚いた。
事実命題から当為命題は導出可能なの?とか、何かそんな事を聞かれた方がまだ驚きは少なかったかもしれない。
「恋しい……ねぇ」
私は頭をフル回転させたけれど、その問いに易々と答えるには私は満たされすぎているのかもしれない。妹と離れ離れになっているとは言っても、声が聞きたければすぐに電話は繋がる。恋しいって、どういう意味かしら。
それっきり言葉に詰まっていると、沈黙の中に「星に願いを」が小さく響いて聞こえる。そうだ、電話中だったんだ。私は思い立って、保留ボタンをもう一度押す。
「ねえレイ、恋しいってどういう意味?」
突然の問いに、呆れか、さきほどの私のような反応が返ってくるかと思っていたのに。
『そんなの』
当たり前みたいに即答だった。
『会いたい、ってことでしょう?』
自分でその言葉を消化するより先に、オウムのように繰り返してうさぎに伝えると、「ありがとう」と言ってうさぎは駆け出して行った。その背中を見送りながら、レイはどこで「恋しい」気持ちを覚えたのだろうと思った。










 会いたい。何百年も経った今でも、まだ会いたい。

 あの夜はすべてのものがきらきら綺麗だった。一際、夜空を染めた花火の美しかったことを忘れられない。
『綺麗だね』
子供のように無邪気にはしゃいでいた彼。わたしもその夜ばかりは、本当に無邪気な気持ちになれた。今夜全てが終わる。全ての否定を振り切って、わたし達は海の向こうにあるという遠い国に行くの。
『ええ、本当に綺麗』
寄り添った彼の肩に頭を乗せた。幼さを残した顔立ちに見合って華奢な腕。だけど頼もしくわたしの肩を抱いてくれる。
そのまま2人とも夢中で(それか上の空で)花火を見上げていた。ぱらぱらと火の粉が舞い散って、わたしたちが座り込んだ川岸まで飛んでくる。ぬらぬら不気味に揺れる川の流れに、はたはた落ちては流れていった。
『わたし達、ずっと一緒よね?』
最後の花火を見送ったあと、そっと見上げて問い掛けた。身分を纏った体を捨てて、魂の世界で愛し合うの。
『うん』
彼はにっこり微笑んだ。『お祭りに行こうよ』、そう言って微笑んだときと同じままの顔で。
風に巻かれて今まで漂っていたのか、幾粒かの火薬の燃え滓が川に落ちてまた流れていく。
流れに揺れる様が、金魚の尾のようだった。
海に向かう金魚の群れ。そんな言葉が浮かんで、自分で笑う。何言ってるんだろう。金魚は海では生きられないのに。
『海に辿りつく頃には、わたし達、ひとつになっているかしら』
『きっとね』
そう言って立ち上がりわたしに手を差し伸べた。わたしはその手を取って、誇らしい気持ちで立ち上がる。遠い国へ行くのよ。ここを離れて、海の向こうで幸せになるの。
『汚れちゃうね』
『構わないわ』
わたしの着物を気にする彼に笑いかけながら、歩き出す。この先に未来があるんだわ。
滞った闇のような黒い川に足を沈めた。夏のぬるい風の中で、足の指先から染み渡るひやりとした感覚に酔う。
深い闇の中に呑まれながら、本能的な恐怖を抑え込んだ。握る手に力を込めれば、同じ力で握り返してくれる。励まされたようにまた一歩を踏み出せば、川は一層深くなり、その流れの思いがけない勢いに足が震えた。
『大好きだよ、亜美ちゃん』
わたしを襲う流れを緩和させる為にか、彼は川上に立ってわたしを見つめる。これからこの流れにすべてを任せるのに、どうしてそんな事をと思いながら、それでもその優しさを黙って受け止めた。
『わたしも、大好きよ』
お祭りの夜のざわめきが遠くで響いている。あんなに遠くから聞こえるざわめきよりも、こんなに近くで聴く彼の声の方がずっと遠かった。
『だからね、亜美ちゃん、』
濡れて重みを増していく体を、細くて逞しい腕が抱きすくめる。熱を持ってやわらかく脈動する体、呼吸。何もかもが近すぎて、戸惑ってしまう。
わたしは続く言葉を待った。待っている間にも、冷えて感覚の乏しくなった体は流れへの抵抗力を失っていく。
耳元で感じた吐息のような声。わたしが死ぬその瞬間まで、決して消えることの無かった、温かい、最後の熱。
『幸せになってほしいよ』

そしていつだって優しくわたしに触れたその腕で、今までおくびにも出さなかった意外な力強さで、残酷な意思で、わたしを岸へと押し戻した。
川岸の丸みを帯びた石に背中を打ち付けて、痛みで一瞬閉じた目を開いたときには、彼の姿はもう殆ど暗い暗い川の中だった。完全に呑みこまれる寸前、確かにわたしを見て、そして言った。

『生きて』

遠ざかっていく黒い闇の僅かなうねりを眺めながら、わたしの心は、そのとき既に死んでしまっていたと思う。



2003年02月05日(水)



 金魚花火【4】

 「おまもり?」
うさぎが不思議そうに首を傾げる。僕だって首を傾げたい。
レイ。うさぎが生まれる前に一度だけ、巫女服と神聖な空気に包まれた姿を遠目に見た事がある。その姿は子供心にただならぬものを感じたし、自分よりもずっと小さい体が、与えられた運命にじっと耐えてるさまを健気だけど可哀想だとも思った。
そのレイが日本を出る前に息を吹き込んでいったと言う護符を、僕とみちるは日が暮れる少し前に、一足先に神社を訪ねて借りてきた。赤い飾りで縁取られた札の中心に「悪霊退散」と、黒い堂々とした文字で書かれていた。信仰心といったものとは縁が無い僕にも、その札の物理的でない重量感は感じる事が出来た。激しい力が平面の札の中で渦を巻きながら、しかし威圧的ではなく柔らかい「護り」の名に相応しい優しさをも孕んでいる。
みちるは教えられたという手順をこなし、小さく折りたたんだ護符を、同じ神社で買った(身内でも割引はないらしい)御守りの中にしまい込む。霊に対し無防備なうさぎと言う存在を、包み込んで守るのだとみちるは言った。僕はみちるの妹の力を信じるし、護符の力も信じる。なによりみちるを信じている。それでも心臓に染みる悪い水のような不安は拭えなかった。
「転んで怪我をしたりしないように、よ。人がたくさん居るから気をつけてね」
「もう、また子供扱いする! 大丈夫だよ。それくらい」
「分かってるわ。念のためよ、念のため。――さあ、まずはどこに行こうかしら?」
微笑んで話を切り返すと、うさぎはそれ以上不満も疑問も抱かずに御守りを受け取って、祭りの中に溶け込んで行く。
僕とみちるは遅れを取らないようにうさぎのうしろをくっついて歩いた。


 光を見た。懐かしい光だった。ああ、しかもなぜよりにもよって、あの子が彼女の光をまとっているのだろう。
空間という感覚を捨てた目には、すべての物理を超えてその光がよく見える。それにしたって、見たいから見ているのだろうと気付いてはいた。いつもは漠然と世界を見渡すばかりで何かに意識を与えたことはない。
気にしているの? 自分に問い掛ける。
何もかも終わったことなのに。
否。
終わってないから、ここにいるんだ。わたしの中の想いに終わりがないから、わたしは此処から離れられない。そして今も、祭りの夜を眺めている。
『馬鹿ね』
言葉にしてみれば本当にその通り。わたしは馬鹿なんだ。あの頃は、もてはやされもし疎まれもしたこの知識以上に、わたしは馬鹿なんだ。
『元気にしている?』
懐かしい彼女の光に呼びかける。彼女の存在は、肉体と言うくびきを捨てたときに蘇った記憶のひとつだった。自分が生まれるより(それだって今はもう昔の話だけど)もっと遙かな遙かな昔に彼女とは仲間だった。ねえ、今はどんな名で呼ばれているの――マーズ。
合わせる顔も無いけど、久しぶりにあなたの光を見れて嬉しいわ。大嫌いな祭りの夜が、今日は少しだけ優しく映る。
『…………っ!』
突然、光だけの姿で漂うわたしの瞳のない「目」に、射抜くような真っ直ぐな視線が突き刺さる。呼びかける声が聞こえたのだろうか。闇を呑んで溢れかえる人の群れの中で、たったひとり、迷いもなくわたしを見つめていた。うさぎと名乗った昨夜の少女が、距離にしたって決して見える筈のない彼方から、真っ直ぐと「わたし」を見たのだ。
そして屈託なく笑ったあとで駆け出した。慌てて追いすがる誰かと誰かは、重力すら畏れをなす子供の軽やかな足取りには追いつけない。


 「亜美ちゃん、こんばんは」
嫌そうな顔で、亜美ちゃんは木にもたれかかっていた。本当に幽霊なのかな。足もあるし、生きてる人間みたい。そう思ってちょっとじっと見つめてみたら、昨日は気付かなかったことがひとつだけ分かった。
亜美ちゃんの青い着物は。外でずっと雨に打たれてたみたいにずぶ濡れだった。
髪も肌も、水色に濡れて青白く光っているんだ。
「亜美ちゃん、どうして濡れてるの?」
「……何しに来たの」
亜美ちゃんは怒ってるみたいに言った。聞いちゃいけなかったのかな。
「会いに来たんだよ。昨日お兄ちゃんの話したよね? 今日はお姉ちゃんも一緒なんだ。みちるお姉ちゃんは本当のお姉ちゃんじゃないけど、本当のお姉ちゃんみたいに大好きなの。2人とも大好きだから、亜美ちゃんに紹介したいんだ。だから、一緒に行こうよ」
亜美ちゃん、亜美ちゃん。何度も呼んでたら不思議な気持ちになった。なんだか懐かしい感じ。亜美ちゃんが生きてた頃、どこかで会ったことがあるのかな。だったら素敵なのに。
「亜美ちゃん、一緒に行こう。お祭りの日に、ひとりで居ちゃダメだよ」
手を伸ばしたらまた消えちゃいそうだから、あたしは根気強く言った。亜美ちゃんはずっと難しい顔。考えてるのか怒ってるのか迷ってるのか喜んでるのか、あたしには分からない。でも多分最後のはないかな。
「イヤ?」
ぴくりともしないまま、頷かれた気がした。本当に嫌いなんだ。あたしのことも、お祭りのことも。不思議。本当に不思議だ。あたしはこんなにどきどきするのに。
でも亜美ちゃんをひとりで置いて行けない。あたしはその場にしゃがみこむ。浴衣を汚したらママに怒られるなんて、気付いたのは土の上にぺたりと座ったあとのことだった。
亜美ちゃんは少し驚いてた。
でも何も言わないから、あたしたちはしばらく黙ってじっとしていた。
お兄ちゃんたちは、心配してるかな。あたしはまたわがままをして困らせてるんだなと思ったら、少し哀しい気持ちになったけど、でもごめんなさい。あたし、亜美ちゃんと友達になりたいよ。お兄ちゃんたちが心配する理由も知ってる。お兄ちゃんたちは、あたしは何も知らないと思ってると思うけど、子供はけっこう、大人が知ってることは知ってるんだよ。
「『もらわれ』って言うんだって」
あたしが沈黙を終わらせても、亜美ちゃんは表情ひとつ変えなかった。静かにあたしを見てた。
「大人たちはここのことを『もらわれ林』って言うの。」
それが、お兄ちゃんたちが心配していた本当の理由。パパやママが子供だったときから、この林で人が消えたと言う噂は絶えない。幽霊の話もいくつもあって、肝試しをしにくる人も居たし、帰ってこなかった人も居るって。でも噂だから、殆どは家出とか失踪ってことになってる。毎年そんな人はたくさん居るし、そんな噂のある場所もたくさんあるから、この林もそのまま。立ち入り禁止の札が立ってるくらい。
それでもこの町では(本当は引っ越しただけでも)誰かがいなくなると必ず、「もらわれた」と噂する。
あたしは、いくら同じ町にいたって、誰が新しくやってきて誰がいなくなったかなんて分からないことって結構あるんじゃないかなと思ってた。
ただあたしは今になって気になった。少なくとも幽霊は本当にいて、噂の半分は本当だったんだから。
「……亜美ちゃんがやったの?」
どんな答えを期待してたのか自分でも分からないまま、一瞬ためらってから聞いたら、亜美ちゃんは少し笑った。
「そうよ」
どきんと心臓が跳ね上がる。亜美ちゃんの前髪から、雫が滴って、地面に落ちる前に消えた。そのとき初めて気付く。亜美ちゃんはびしょ濡れなのに、亜美ちゃんの足元の土は少しも湿っていない。からからに乾いてる。ああ、やっぱり幽霊なんだ。
「あなたも早く帰らないと『もらって』しまうわよ。」
跳ね上がった心臓が、まだどきどき言っている。怖い。――怖い? 怖いのかな。違う気がした。
「違う」
無意識のうちに言っていた。
「……何が?」
あたしも分からない。でも何かが違う。違うよ。絶対に違う。違わなければおかしい。
だって、噂通りたくさんの人が消えていたなら、それを「もらって」たのが亜美ちゃんなら。本当なら。足りないんじゃないの。足りないから、今でも幽霊をやってるんじゃないの。分からないけど。死んでも死ねないほどの未練があるから、幽霊をやってるんじゃないの、かな。分かんない。ただ、あたしを「もらって」も、亜美ちゃんは救われないことだけは分かった。
「あたしじゃ、ないんでしょ?」
「…………」
「本当に欲しい人がいて、でもその人はもういないんだね」
亜美ちゃんが青い目を大きく見開く。
あたしの成績はいい方じゃない。でも友達を作るのは得意だった。それはうさぎが、人が本当に与えて欲しいものを知っているからだよ、とお兄ちゃんは言ってくれた。
あたし自身はそれが何か分からなかったし、分からなくていいんだよって、お兄ちゃんはいつも笑う。
「昨日、怖くないの?って聞いたでしょ。やっぱりあたし、亜美ちゃんのこと、怖くないよ。」
その哀しさを、あたしは分かる気がする。同じ哀しみを知ってる気がする。同情じゃない。ただ抱き締めてあげたくなった。
驚いたまま身動きひとつしない亜美ちゃんに手を伸ばして、また怒られてもっと嫌われてしまうかもしれないと思ったけど、でも怖くない。背伸びして首に腕を回した。亜美ちゃんは冷たくもあったかくもなくて、それがやっぱり少し哀しかったけど、確かにある不思議な感触に、一生懸命すがりつく。亜美ちゃんはここにいる。
「あたしで代わりになれるなら、あげるよ。あたしを全部あげる。『もらって』いいよ」
亜美ちゃんは黙ったまま、でもあたしの腕の中にいてくれた。消えようと思えば消えられるはずなのに、輪にしたあたしの腕の中にいてくれた。
「……200年以上も昔、許されない恋をしたの」
ぴったりとくっついた亜美ちゃんの体全体がスピーカーになってるみたいに、声は色んなところから響いて聞こえた。声に包まれてるみたいで、あたしは気持ちよかった。
「恋をしてはいけない人だった。でも、彼もわたしを好きだと言ってくれた。――うさぎちゃん、あなたにとてもよく似ていたわ。あなたは多分、彼の生まれ変わりだと思う」
突然ひんやり濡れた感触が、押し付けた頬や額から伝わってくる。不思議な水はあたしの肌をすり抜けるようにしてあたしの中に染みこんで、ゆったりと脳に流れ込んできた。閉じた瞼の奥に、優しく笑う亜美ちゃんの姿が映る。ずぶ濡れじゃない亜美ちゃん。きっと生きていた頃の。その隣には、確かにあたしに似たあたしじゃない男の人が立って、亜美ちゃんに笑い返していた。2人とも幸せそうで、きっと恋人同士なんだなと思う。
これは亜美ちゃんの記憶だ。
色んな場面が次々と入れ替わって、たまに泣いてるけど大体は笑っていた日々が映る。その隣で、同じように泣いたり笑ったりしている彼への優しい気持ちに満ちた記憶。あたしは嬉しかった。亜美ちゃんは生きているとき、こんなに幸せだったんだ。
突然場面が変わって、そこはお祭りの夜になる。
亜美ちゃんと彼は2人で楽しそうに歩いていた。しばらくして川辺に腰を降ろす。とても穏やかな顔で話をしながら、空に咲く花火を見ていた。そして花火の音が止んだあと、2人は手を繋いで川の中を歩いていった。川は深かった。
「……恋をしてはいけない人だった」
亜美ちゃんがもう一度呟いたその声で、あたしの金縛りにあったみたいな体が自由になる。頭の中に流れ込んできていた映像もぴたっと止んだ。
「2人で誰にも咎められない世界へ行こうと約束したのに。彼は最後の最後で、わたしに生きてと言って、そして岸に向かって押したの」
亜美ちゃんの両手があたしの肩に触れる。
「わたしは状況を把握出来ずに、黒い川に呑み込まれていく彼を見ていたわ。やがて通りがかった人たちがわたしを川から引きずり出した。わたしは動けなかった。わたしは彼に捨てられたんだと思った」
そっと体を離してあたしの目を見た。あたしはまた、無意識のうちに「違う」と言っていた。亜美ちゃんは優しく笑う。記憶の中の亜美ちゃんと同じくらい優しかった。そういえば、「亜美ちゃんの記憶」の中に亜美ちゃんの笑顔があるって変だ。もしかして、あたしの中にも「彼」の記憶が残っていたのかな。
「彼の遺体は見つからなかった。数日後、わたしはまた同じ場所から彼を追って川に入ったけれど――今も彼には会えないまま。幽霊となって、わたしはこうしてさ迷っているのに、彼は未練も残さず死んだのよ」
「……違うよ」
わけも分からないまま、でも亜美ちゃんにそんなふうに思っていて欲しくなかった。
亜美ちゃんは微笑みを分けてくれるみたいに、あたしの頬にキスをした。本物じゃないはずの水が、あたしの頬を濡らした。
「あなたの言うとおり、あなたは彼じゃない。」
自分で言ったことなのに、改めて言われるとなんだか哀しかった。あたしはこんなにさみしがってる亜美ちゃんを慰めてあげられない。
「それはあなたのせいじゃないから、あなたは哀しまないで」
心を読んだように亜美ちゃんが言う。
「ただ、」
ごぼごぼと音がして、亜美ちゃんの体をうねる水の塊が呑みこんでいく。

「とてもとても恋しくて、わたしはもう動けない」

昨日、炎だと思ったのはこれだ。まばたきのたびに形を変える水が光を受けて、炎みたいに光ってる。きれいだけど怖い。亜美ちゃんは死んだあとまで、何度この炎みたいな水にころされたんだろう。


『お祭り、誘ってくれてありがとう』


最後に声がした。亜美ちゃんがキスしてくれた頬に手を当てると、まだ濡れている。キスされてない反対側も濡れていた。涙だ。



2003年02月04日(火)



 金魚花火【3】

 誰ひとり物心ついていない頃からの付き合いになるけれど、私はいまだにこの兄妹を面白がって見ている。飽きない人たち。それってなんて素敵なことかしら。
「みちるからも何か言ってくれよ。僕の言うことより君の言うことの方が聞くかもしれない」
「あなたが普段甘やかしすぎるからよ」
困り果てた恋人は、いじけてそっぽを向いた妹の方を盗み見ながら溜息をつく。
中学のとき、男女が友情でのみ結ばれていると言うのが納得いかないらしい周りの視線をやり過ごす為、言うなればいつまでも3人で居たいが為に付き合いだしたような私たちにしてみれば、この子の為に時間を費やすのは少しも苦にならないことだった。
恋人と同じくらい、と言ったら大げさになるのだろうか。でも事実それくらいに大切な、実の妹のように可愛がってきたうさぎ。そのうさぎが幽霊に憑かれたとはるかは言う。
「頼むよ、ほんと」
本当に仕方のない人だわ。
「ねぇ、うさぎ」
「嘘じゃないもん」
「嘘だなんて言ってないだろ」
「はるかは黙ってて。うさぎ、昨日は楽しかった?」
「……うん」
「お祭り、大好きだものね」
声に笑みを含ませると、うさぎはきらきらと純粋な喜びを煌かせながら私を見た。
「うん! お祭り大好きだし、亜美ちゃんに会えたからすごく楽しかったよ。幽霊ってもっと怖いと思ってたのに、亜美ちゃんは全然怖くなかったの。嫌いって言われちゃったけど……また会いたい。お友達になれるかなぁ?」
「そうね、うさぎならなれるかもね」
「みちる。やめてくれよ。あそこがなんて呼ばれてるか知ってるだろう?」
「黙っててって言ってるでしょう? 私は今うさぎと話しているの」
「…………」
はるかは不承不承口を閉じる。はるかの過保護は自他共に認めるところだけど、この件に関して特に心配なのは私にしても同じ事だった。
「みちるお姉ちゃん、はるかお兄ちゃんに言って。亜美ちゃんはいい幽霊だって。お兄ちゃん、もう会っちゃダメだって言うんだよ」
「――ねぇ、うさぎ」
この上ない笑顔を浮かべてうさぎを見つめると、うさぎはその陰に“諭す大人の気配“を敏感に察して一瞬顔を強張らせる。私はそれ以上警戒心を抱かれないように、矢継ぎ早に次の台詞を口にした。
「昨日は一緒に行けなくてごめんなさい。課題も終わったから、今日は一緒にお祭りに行っても良いかしら?」
うさぎがぱっと表情を輝かせる。
「もちろん!」
頭を抱えたはるかの横で、うさぎがはしゃいで飛び回る。さて、ここからが問題だわ。



 チベットは雨季の真っ只中。通り雨が過ぎたあとの、気の長い曇り空を眺めながらバター茶を飲んで、日本ではちょうど地元の夏祭りが始まる頃かなと思っていたときだった。
「久しぶりね、みちる姉さん」
手紙で定期的に連絡を取り合う以外、不意に電話なんてかけてくる人じゃない。何があったのかと訝しむ。ただ、考えてみれば、行ったこともない地元の夏祭りなんて思い出したのは、ある種予感だったのかもしれない。
『本当に久しぶりに声を聞くわね。元気そうで良かったわ……レイ』
「ええ、お陰さまで。それでどうしたの?」
慣れない単語のように名前を呼んだ。あたしにしてみても、姉は遠い人だった。
ほんの小さい頃から異端の力を持ち、その修行に明け暮れてきたあたしは、物心ついたときには俗世との交わりを殆ど絶っていた。ここチベットでより本格的な修行をする為に日本を離れたときも、あたしは泣かなかったし姉さんも泣かなかった。泣いて偲ぶほどの思い出すら、共有してはこなかったから。
『相談があるの。うさぎを覚えてる?』
「覚えてるわ。実際に会ったことがないなんて信じられないくらい、何度もその子の話を聞いたもの」
布団を並べて、眠るまでの少しの間だけ。2人が過ごしたたったそれだけの時間の大半は、“うさぎ”と“はるか”の話に終始する。普通を知らないあたしには、ぜんぶ不思議だった。
きっと姉さんは、あたしに与えたかった分の愛情も全て、そのうさぎと言う女の子に注いできたのだろうと思っていた。姉さんは姉さんなりに寂しかったのだと今なら分かる。あたし自身、なんだってこんなにヤケみたいに力を磨いているのか分からないけど。
『その子が、昨日の夏祭りで幽霊に会って話をしたと言うの』
「そう」
当たり前のことのように頷く。元を辿ればあたし達の家系の本家に当たるその神社では、あたしもよく“うつむく者たち”を見た。いわゆる幽霊だけど、大概は無害だ。
ただ、話までしたとなると。
「それで、その子の様子は? 熱が出たり、体が冷たくなったりとか、顔面蒼白だとか……」
『全然、いつもよりご機嫌なくらいよ。すっかりその幽霊がお気に入りで、友達になりたいらしいの』
「……はぁ?」
『どうやったら諦めてもらえるかしら? これが相談。』
「……えっと……そうね、じゃあ取り合えず神社に行かないようにすれば良いんじゃない?」
無難に返してみる。
『夏祭りは二日間あるのよ。今夜、はしゃぐ子供を神社に行かせないようにするのは、世界中の核兵器を一瞬で楽器に変えろと言うようなものだわ』
「……そんな無茶と分かっていながら、あたしに相談してるの?」
『だから、お祭りに行かせない以外の方法を考えて欲しいの。』
毒されたのか、そのうさぎと言う子に。こんな強気な我侭を言う人だとは思ってもみなかった。ふつふつと込み上げるのは、自分でも意外な事に笑いだった。
『レイ?』
「姉さんもやっかいな事に首を突っ込んだわね」
『やっかいかしら?』
「多分姉さんが思っている以上にね。……“うつむく者”に話しかけてはいけない。これは鉄則よ。それを破ってしまったなら、それ相応の報いを受けなければいけない。まだうさぎに異変は無いと姉さんは言うけど、その“うつむく者”に心を奪われた今の状態は、いわゆる“憑かれている”のと同じことよ」
『そういえばはるかも言っていたわ。うさぎが幽霊に憑かれてる、って。そういう意味だったのかしら』
「分家とは言え、仮にも神主の家系の言葉とは思えないわ」
『勉強不足は認めるけど……。あなたも言うようになったわね』
怒ったと言うより感心したように姉さんが言うので、あたしはまた笑う。
「幽霊や妖怪、物の怪の類が出てくる怪談や都市伝説によくこういうのがあるでしょう、“この話を聞いた人のところにも3日以内にやってくる”って言うくだり。あれは割りと本当で、“怖れ”が強い意識となって、それらを呼び込んでしまうの。来るな来るなと言いながら大声でオバケを呼んでるようなものなのよ。怖れることで、心は霊を認め開かれてるわけだから」
『なるほど。それどころかうさぎは喜んで霊に心を開いてしまっているからやっかいなのね。』
そうよと応えると、深刻そうに一度黙り込んでから事の次第を詳しく話し始めた。国際電話なんだけどと思ったが、まあ、きっと気にしてないんだろうからあたしも気にしないことにした。

2003年02月03日(月)



 金魚花火【2】

 大好きなやさしいお兄ちゃん。お兄ちゃんの手はいつもあったかくて、あたしは大好きだった。あたしが間違ったことをしたら怒ってくれるし、いいことをしたらほめてくれる。あたしが迷子にならないように、いつも手を握っていてくれる。
「うさぎって、ほんとお兄さんと仲良いよね」
「うん。大好きだもん」
お兄ちゃんにヨーヨーを取ってもらってるところで、なるちゃんに会った。
「ふーん。まあ、はるかさんみたいにかっこいいお兄さんだったら、私も大好きになるかな、きっと。」
「でしょ? あっ、ありがとー」
あたしのお願いした通りのピンクのヨーヨー。あたしは喜んで受け取る。
「なるちゃんも、何かリクエストがあったら取ってあげるよ?」
お兄ちゃんは優しく微笑んでなるちゃんを見た。小さいときからいつも一緒で、とっくの昔に見慣れてたなるちゃんでなきゃ思わず恋しちゃうくらいの素敵な笑顔だった。
「私は大丈夫です。実は妹とはぐれちゃって探さなきゃいけないところなんですよ。そういうことだから、ごめんね、うさぎ。そろそろ行くね」
「そっかぁ、残念」
「ほんと、いつまでも手の掛かる妹よ。私がいなきゃ何も出来ないの。――あんたもいい加減お兄さん離れしなさいね」
最後の一言だけ小さな声で、なるちゃんはあたしの耳元にそっと囁いた。人ごみに消えた背中を見ながら、お兄ちゃんが感心した声で言う。
「小さい頃からそうだったけど、ますますしっかりした感じだね、なるちゃん。うさぎも見習わないと」
たった今言われたのと同じ言葉を言われた気がして、あたしは思わずむっとして頭を撫でようとしたお兄ちゃんの手をよけた。
「わかってるもん!」
言って駆け出した。すぐに追いかけてくれると思ってた。でも混み合ったお祭りの中で、まだ小さいあたしの通った道を大きなお兄ちゃんが追いかけてくるのは無理だったみたい。


 空っぽの左手と遠くでちかちかする色とりどりの明かりを変わりばんこに見ながら、あたしは首を傾げた。
「……お兄ちゃん?」
呼べばすぐに応えてくれる、いつもの優しい声は返ってこない。はぐれちゃったんだ。
そんなに走ったつもりはないのに、振り返った途端お祭りはすごく遠ざかってた。
「戻らなきゃ……」
でもなんでこんなとこまで来ちゃったんだろう。神社を囲む大きい林の深み。木と木の間が開いてるおかげで月の光は届くけど、あんなに眩しかったお祭りの明かりに慣れた眼にはこんなのじゃ物足りない。
――そうだ。光。
光を見たからだ。ふんわりほわほわしてて、なんとなく切ないみたいな光に呼ばれたみたいで、だからここまで走ってきたんだ。
あれはなんだったんだろう。





 ――カラン


 ――――カラン


 その、涼しげな音には一瞬気付かなかった。あまりに耳慣れてしまっていた。カランカラン。祭りを練り歩く者たちのどこか物憂げな足音。カラン。


『……迷子?』


不思議に響く声に、うさぎの鼓膜がぎゅっと縮みあがった。耳と心臓は直接繋がっているんだ、とうさぎは感覚で学ぶ。早鐘を打つ鼓動がこんなにも耳に痛い。
「だれ?」
おそるおそる問い掛けたうさぎに、声がふっと笑う。
『はやく戻ったほうがいいわ。早足で、決して振り返らないようにして。』
木々の間から高く低く響いてくる声は優しかった。うさぎを案じる言葉に裏は無いように思える。だからこそうさぎはその言葉には従わなかった。立ち尽くして動けないのは、竦みあがっているからじゃない。その声があまりにも優しかったからだ。
「ね、あなたはだれ?」
突然かけらも残さず消えた怖れの代わりに、純粋な好奇心が問いを重ねる。
影の奥でゆらりゆらりと揺らめきながら、うさぎを誘いこんだあの光が何かの形を縁取る。まるで最初からそこにいたように、ひとりの少女の姿が浮き彫りになっていく過程を見守りながら、うさぎはまた自分の鼓動に耳を傾ける。どきどき、クリスマスの夜みたいな心音。夏の終わりにそんな幻想を抱く。どきどき。わくわく。あなたはだぁれ?
輪郭の曖昧さすら無く、それが当たり前に存在する少女のような姿でうさぎの前に現れたとき、薄暗い林の中でうさぎは目を細めた。眩しがるように。


「わたしは亜美。――あなたこそ、誰?」


 慣れずに手間取る初々しさやはしゃいだ心を投影する浴衣とは違う、ごく自然に着こなされた青い着物の少女は、顰めた眉の下からうさぎを見つめる。
しかしどんなに自然に振舞い、うさぎに理解の出来る言葉で話していたとしても、その少女がこの世のもので無いのは明らかだった。
「あたし、うさぎ」
臆せず応えるうさぎに、亜美と名乗った少女はまた眉を顰める。
「危機感の無い子ね。怖くないの?」
問う亜美にうさぎは不思議そうに首を傾げた。
「亜美ちゃんが?」
「あみちゃ……」
「亜美ちゃんは怖くないよ。キレイ。どうしてひとりで居るの? お祭りなのに」
「…………」
うさぎの言葉ひとつひとつに、亜美は驚きや戸惑いで返す。人がただ生きているだけで磨耗していく純粋さを、まだ原石のまま心に留めているうさぎには、そんな彼女の心の揺れは理解出来ない。
「亜美ちゃんは幽霊なの? 幽霊はおまつり嫌いなのかな。嫌いじゃないなら一緒に行こうよ。あたしのお兄ちゃんもいるよ。すごくかっこよくて優しいんだ。ヨーヨー取ってくれるよ。亜美ちゃんは何色が好き? やっぱり青? その青い着物、キレイだね。あ、目も青いんだ。あたしと一緒だね」
にこにこ笑って、背後に並ぶ祭りの明かりを指差す。亜美は思わず指し示されるままその先を眺めた。
「行こうよ、亜美ちゃん」
うさぎが亜美の青白い手を掴もうと手を伸ばしたとき、亜美は鋭い目つきでそれを制した。
「やめて」
うやむやになりかけていた存在の違いが明らかになる。亜美の体は真っ青な炎に包まれ、うさぎが今まで見た事もないような儚い色の光になって消えた。

『祭りの夜は嫌い。青も嫌い。……あなたも嫌いよ』

生まれて初めての激しい拒絶を受けて、うさぎは身動きひとつ出来なかった。なんで嫌いなんだろう、と思いながら、遠くに自分の名前を呼ぶ兄の声を聞く。

2003年02月02日(日)



 金魚花火【1】

パラレル亜美うさ。(ていうか総愛)
「何度となく繰り返した転生のうちのひとつ」です。

written by みなみ




 剣道部の地区大会が終わったのが4時半。片付けと挨拶を済ませて体育館を出たのがなんだかんだで5時過ぎで、開放感で異様なハイテンションを見せた打ち上げ→カラオケ大会が終わったのは、時計がぐるっと一回りした朝の5時。それからマックで朝食を食べたらさすがに多少胃がもたれた。現役高校生の体力恐るべしね、と大人びた笑いの彼女から電話がかかってきたのはもうすぐで家につく所だった8時前。ちがう学校に通う彼女は、4通のメールと2回の着信をたったの今まで無視していた事を優しく責めて、僕を呼び出した。
不調だと言う彼女のパソコンを直して再び家の前に辿りついたのは、太陽が激しく輝く午後1時だった。
ブレザーだけを脱いでベッドに倒れこむと、僕はすぐに眠りについた。

 「はるかお兄ちゃん、起きて」
深い深い眠りの奥底に、声はやんわりと届いた。
薄目を開けて、今年の春中学にあがったばかりの妹を見遣る。薄桃色の浴衣が、カーテン越しに流れ込んでくる黄昏た藍色に映えていた。
ふっと微笑んで身を起こし、かわいい妹の頭に手を伸ばす。そのままいつものように頭を撫でようとして、綺麗に結い上げられた金髪に思い留まった。代わりににっこりと笑う頬に手を添える。
「きれいでしょ?」
「うん、どこのお姫様かと思ったよ」
こんなことばかり言ってるからシスコンの肩書きを頂戴するんだぞ、と、そんな事を言う自分が居るけど、本当なんだから仕方無い、ともうひとりの自分が言う。僕は後者の自分の意見に大賛成だった。
「うれしい。ね、聞こえる? 夏祭り、もう始まってるよ」
「了解。それじゃあ、行こうか」
どんなに疲れ果てて眠ったところだろうとも、どんなに心地良い睡魔に身を委ねていたところだろうとも、可愛い妹の声にねだられれば、そのわがままこそが何より心地良いに決まっている。
僕は脱ぎ捨ててあったブレザーを掴むと、恋人のような仕草で妹の手をとった。


 気をつけてねと見送った母親から受け取った千円札を右手に、気をつけるんだよと念を押した僕の手を左手に握り締めて、地上に落ちた星空のような祭りの道をうさぎは歌いながら歩いていく。
 夏休みももう終わると言う頃にやっとで始まる地元の祭りが、うさぎは一番好きだった。
別々の中学に散っていった、少しだけ懐かしい顔ぶれが次々とうさぎの名前を呼ぶ。たったの数ヶ月分だけど、幼かったうさぎの友達はみんな大人になっていた。
「なんだかさみしい」
小学生のときとはどこか違う友達を見送るうさぎの横顔に、僕も同じ感想を抱く。
「そうだね。」
きみがきれいになっていくことが、僕はすこしさみしいよ。
はしゃぐ人の群れの中のいくつもの背中と横顔と笑顔を眺め、握る手に力を込めた。
「でも、きっとステキなことなんだよね。時間が過ぎてくことって。」
――まいったな、妹の方が大人だ。
僕が内心で自嘲するのをよそにうさぎはぱっと表情を変え、僕の手を引いて走り出した。
「笑って、お兄ちゃん。お祭りだよ!」
駆け出す妹の肩越しの笑顔に、いつの間にか強張ってた自分の頬がほどけていくのが分かる。
 大好きなかわいい妹。きっとその笑顔で、いつか誰かを救うだろう。


2003年02月01日(土)
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