銀河鉄道を待ちながら
鬱と付き合いながらの日々を徒然に

2008年05月30日(金) 士郎の株が少し上がったようです

ここ10日くらい、ずっとまともに寝ていません。

今日の会議のために、毎日必死に資料を作っていたからです。

仕事の進め方が大幅に変わるということで、その説明を関係者に伝える会議なのですが、

何しろ初めての試みなので説明する方も

「果たしてこれで上手くいくのか?」

と、半ば疑問型なのです。


普通にやったら反発と混乱は必死

ですので、とにかく

難しくはありませんよー

とアピールしなくてはいけないという。


資料を作るにあたっては、

「如何に見やすくするか」

「如何に分かりやすくするか」

「如何に具体的に示すか」

の三つの点を重視しました。


個人的な意見ですが、資料は、たくさんの内容を詰めた細かいものより、絞り込んだシンプルなものの方が難しいです。

細かくて、説明したいことの全てが書いてある資料は、多くの場合、解釈は読み手に任すことになります。

「ここに全部書いてるんだから、自分で見ればいいでしょ」

というスタンスになりがちです。

確かに、細かい資料というのは、レイアウトやフォントなどを整えるのが大変で、時間もかかるのですが、

「ここを押さえてください!これで大丈夫です!」

という責任を持った提示をしないので、心は楽です。


今回の仕事で、僕は

「今の自分がどれだけできるか」

ということを試そうとしました。


といっても、悲壮な決意でも何でもなく、

「多分いけるよなー。いやむしろ結構いいんちゃうの?」

くらのノリで。


だから、体力的には大変だったんですが、とてもやりがいのある楽しい10日間でした。


で、結果の方はというと……

90点

くらいの自己評価です。


「よし!上手くいった!」

という手ごたえと、

「ここは課題だなあ……」

という部分の両方がありました。


次につながる仕事ができた、という意味で90点。



今回の仕事では、

大まかな流れについて上司の判断を仰ぎ

細かい仕事は同僚各自に振り

自分が作成した資料について皆の意見を聞く

という明確な流れを作ることができました。


自分が中心になって行ったことで、

「判断をしてもらって助かる」

と、同僚からの評価も上がったようです。



無事に一山越えて、ほっと一息です。

でも、実はすぐに次の山場が控えていたりして(今のところ、「次の次の次」まであるかな?)。


頑張りすぎず、楽しみながら山を登っていこうと思ってます。




2008年05月23日(金) 「ハイ…ごめんなさい…」

水曜に日帰り東京出張に行ったせいか、昨日今日とどうも体がだるい。

頭も鈍っているのか、資料を作るためのアイデアが出てこない。

「うう……だめだ……ネットでも見てサボるか

と思ったが、何とか踏みとどまる。

仕方なく、単純作業を始めてみた。

ゆっくりダラダラとデータを作成していく。

期限は来週の26日(月)

どう考えても間に合いません。ありがとうございました。

……まあ、土日がんばればいいんだけど。


ボーッとしていると、同僚から声をかけられた。

「あの、士郎さんが作ってくれたこの資料おかしくないですか?」

僕「あ、ごめんなさい」

「それからこの資料のこの部分なんですけど、どういう意味ですか?」

僕「……間違ってますね。修正します」

「ここも……」

僕「……ハイ、ごめんなさい……」

「それから―」

僕「……」


ハイ、全部僕が悪いですね

おれって……

とちょっと思いましたが

「まあ、おれ一生懸命やったじゃん」

と自分を許すことにしました。

結果より過程が大事なんです。

今日だけは。



2008年05月17日(土) ついに日本でも……(浦和レッズ対ガンバ大阪)

今日、Jリーグ 浦和レッズ×ガンバ大阪戦で、サポーター同士の衝突がありました。

どうしてそうなってしまったのかは、まだ不明確ですが、


ガンバサポ レッズサポ席に水風船等を投げ入れる(試合中も断続的に続く)
 
         ↓

レッズサポ  何とか耐える

         ↓

       レッズ敗北

         ↓

       円陣を組み喜ぶガンバ選手たち

         ↓

       レッズ選手の一部がガンバ選手たちにキレて突っかかる

         ↓

レッズサポ  キレたレッズ選手に同調するかのようにキレて反撃

         ↓

レッズサポ  防護柵を乗り越えてガンバサポ席側になだれ込む

         ↓

レッズサポ  スタジアムの出口を封鎖、ガンバサポをスタジアムに閉じ込める
         ↓

ガンバサポ  代表者がレッズサポに謝罪

         ↓

       封鎖解け、ガンバサポ帰路へ(封鎖開始から3時間程経過)


こんな感じのようです。

ネット上の各所で、レッズ・ガンバ双方への非難合戦が続いています。


非難の内容の多くは「どちらが悪いか」という視点で語られています。


「ガンバ側が先にやった」

「円陣を組むのはよくなかった」

「レッズサポの怒りは当然」


しかし、「どちらが悪いか」という問題については、

間違いない答えがあるので、語る必要はない

と思います。

答えは「両方悪い」です。

これ以外の答えはないと言い切ってよいでしょう。


今回の騒動を一連の流れとして捉えると、問題の所在が分かりにくいのですが、

一つ一つの行為に注目すれば、どちらが何について悪かったのか明確になります

まず、「水風船などを人に向かって投げる」という行為

これが悪いのは明白なこと。

ガンバ・レッズサポ双方行っているので、両方に責任があります。

「相手を侮辱する言葉を使って応援をする」という行為

このような非紳士的行為が許されるはずがありません。

ガンバサポが行った行為ですので、これについてはガンバ側に責任があります。

「スタジアムの出口を封鎖しスタジアムに観客を閉じ込める」という行為

人の身体の自由を奪う行為ですから、当然悪い。

レッズサポが行った行為ですので、こについてはレッズ側に責任があります。


先か後か、という問題を取り除けば、両方悪いことは自明の理、です。


さて、以上の問題行為の中で、何が一番深刻かというと、それはやっぱり

「スタジアムの出口を封鎖しスタジアムに観客を閉じ込める」

という行為です。

これは本当に大問題なのですが、実際その場にいた当事者の方たちはおそらく問題の大きさに気付いていなかったと思います。

彼らレッズサポが行ったことというのは、つまりこういうことです。


「人の身体の自由を制限するための権限を、何ら持たない者たちが、
相手よりも圧倒的に多い人数の力(威力)をもって、相手の身体の自由を奪った」


さらに言うと

「さらに、自分たちが行った行為について反省せず、正当化しようとしている」


「あいつらから仕掛けてきたんだ。自分たちが怒るのは当然だ」

騒動に加担したサポはそう考えていたことになります。

とても恐ろしいことです。


犯罪を犯しているのに、それを

「当然そうする権利(理由)がある」

と考えているのです


違和感のある人は、問題を少し小さくすれば分かりやすいと思います。


20人の人間が、2人の人間を部屋を閉じ込めてこう言うのです。

「お前たちのどちらかがおれたちに石を投げた。どちらかが『おれがやった』と言わない限り、おれたちはお前たちを部屋に閉じ込める。その間、水も食料も与えない。トイレにも行かせない」


今回の事件は、それを1000倍にしたものです。

つまり、被害の範囲も1000倍にもなっているということです。


このようなことが続けば、熱狂的でないファンや、休日の楽しみとして来ている家族連れは来なくなります。

また、サッカーのイメージの低下も招き、サッカー界全体に対して影響を与えかねません。


僕はイタリアサッカー(セリエA)が好きなのですが、イタリアではサポーター同士の衝突が原因で起こる死亡事故が絶えません。

その結果、イタリアでは、サッカーは

「男のスポーツ」

となり、子どもや女性が見に行くものにはなっていません。

そして観客減少が続き、クラブを悩ますタネになっているのが現状です。

日本のサッカーはそうなって欲しくないと思っています。


ですから、残念ですが、双方のクラブ・サポーターに対して厳正な処分を下し、反省の材料になってほしいと願います。



2008年05月14日(水) 芸術って何だろう

僕は昔から「芸術作品」と呼ばれるものが大好きだった。

絵画、映画、写真、彫像、小説……こだわりなく何でも好きだった。

芸術というものが何か、分かったような気になっていた

それどころか、

「おれは芸術を知っている。お前らは知るまい」

と他人を見下していた。


そんな時、「たけしの誰でもピカソ」という番組を見るようになった。

番組では、シロウト(中にはプロと言える人もいた)が作った「芸術作品・パフォーマンス」を、批評家を始めとする審査員が10点満点で採点するコーナーがあった。

そこで出てくる作品はいつもヘンテコリンなものばかりだった。

「何これ?」

と思うものが高得点だったりした。

僕にはさっぱり分からなかった。

「あいつらの感覚がおかしいんだ。おれの方が芸術を知っているんだ」

と思おうとしたけど、無理だった。

自分が、

実は芸術のことをこれっぽっちも理解していないんだ、

と悟るには十分な刺激だった。


その後、僕は大学を卒業し働き始め、芸術どころか本の一つも読まなくなった。

芸術のことなど、思い返すこともなくなった。


そんなある日、一つの芸術作品に出会った。

出会ったといっても、テレビで見ただけだったと思う。

その作品は、かなりキツイ原色の色とりどりの花びらのような形のものを何層にも重ねてバランスの悪いひと塊にしたモニュメント(?)のようなものだった。

その解説はこんな感じだった。

「この作品は『美しい』ということそのものを表現したものです」

なるほどと僕は思った。

その作品がブサイクなひと塊の形をしているのは、

形を「ある何か」にすることを拒絶しているからなんだ。

そしてこれは何かの形を通して「美しさ」を表現しようとしていない……。

そう思った瞬間、それまで見てきた「芸術作品」が次々と脳裏をよぎり、

急に僕は

「ああ、そうだったのか。それが芸術なんだ」

と妙に納得した。


僕が出した「芸術とは何か」という問題についての解答はこうだ。

「人間の感情・感覚を、本来それらが生じる原因となる具体的経験とは別の方法で再構成してみせるもの」

神の偉大さを知るには、神に出会うしかないし、戦争の悲惨さを知るには、自分で戦場に立つしか、本来方法はない。

でも、芸術はそれを可能にする。

ミケランジェロやラファエロの作品を通じて、僕らは神を信じる人が感じている神の偉大さというものを感じ取ることができる。


では、優れた芸術とは何なのか?

「優れた芸術は、他の表現に取って代わることができない」

だから、優れた芸術は言葉にすることができない。


ヘンテコリンな芸術作品を見て理解できなかったのは当然だった。

だって、それそのものが新しい一つの言葉なのだから。


僕の理解は、間違っているかもしれない。

でも、僕は気にしない。

僕はその解釈を、結構気に入っている。



2008年05月10日(土) 終わらない物語

僕はマンガが好きなので、定期的にマンガ喫茶に行きます。

月1くらいで。

そのくらいのペースだと、読みたかったマンガの新刊がちらほらとあるのでちょうどいいのです。


最近は若い時のように、

「何でもかんでも気になったら読んでみる」

ということはしなくなりました。


というか、できない。

大抵のものは、第1巻を少し読んだだけで、

「ああ、アレみたいなヤツね」

と思ってしまって、それ以上読む気がしません。


別に今のマンガがダメというのではなくて、

現代では物語(ストーリー)というのは、もう語りつくされていますから、

「これはすごい!」

と単純にストーリーベースで思うものがない、とうことです。

そういうストーリーのダブりというのは、特に少年向けのマンガで顕著に現れる、

と僕は思っています。


というのは、子どもの価値観・嗜好・憧れというのは大人と比べ変化しにくく、

理解力も限られますから、

「子どもに受けるストーリー」

というのはどうしても範囲が狭くなってしまい、

その分、ダブりが生じ易くなる、というわけです。


それは少年向けマンガの宿命だと思っていますから、別に気にならないのですが、

他の点でちょっと気になることがあります。


どうも、最近のマンガは連載期間がやたらと長い気がしてなりません。

僕の若い時のマンガといえば、やっぱりドラゴンボールで、

「あれは随分長く連載してたよなー」

と思うのですが、それでも全部で30数巻で終わっています


それが今では30巻なんて全然大したことなくて、

平気で40巻、下手すれば100巻近く続くものが多く現れています。

「こち亀」や「美味しんぼ」など、元々ストーリーにあまり意味がないマンガはいいとして

ちゃんとしたゴールがあるようなストーリー構成のマンガでそれだけ続くのは、

「延命措置」

以外の何者でもないと思います。


具体的な例を挙げるのは控えますが、どう考えても

ストーリーが破綻していて収拾がつかなくなっている

ものが多数あるように思えます。


また、どう見ても作者がやる気を失っているものもたくさんあるように思えます。


出版社の事情・作者の事情、両方あるのでしょうが、

完成度の高かったものが、少しずつ輝きを失って、評価が徐々に下がっていくのは、

とても不幸なことです。


物語は終わるもの

「終わらない物語」はミハエル・エンデだけで十分なのでは?

と。



2008年05月05日(月) 究極の料理

今日は一日雨模様だったので、ほとんど家でゴロゴロしてました。

昼寝の気持ちいいったらありゃしない。

おかげで溜まった疲れがすっかり消えて、気持ちも前向きになれました。

やっぱり休日は何もしないのが一番、かな?


特に何かに刺激されたでもなく、ふと昔のテレビ番組の映像を思い出した。

それは、どなたか高名な美食家(残念ながら故人)が、料理について語っている場面。

その方が言うには、

「最近『究極の料理』みたいな言い方が流行っているようだけれども、問題は

『誰にとっての究極か』

ということで、それを抜きに語ることはできない」

とのことでした。


リアルタイムで見たときは、

「あー、何かカッコイイこと言ってんなー」

くらいしか思わなかったのですが、未熟ながら社会に出て経験を積ませてもらった今では、
その言葉に心底共感できます。

それって、料理に限らずすごく普遍的なことなんですよね。


人間の考え方は千差万別。一人一人の価値観がある。

そして会社、地域なり、国といったある集団にはそれ固有の考え方がある。

だから、「良いもの」っていうのは、常に「誰にとって」良いものなのかを考えなくちゃいけない。

仕事でもそう。


「○○に関する資料を作ってくれ」

と上司に言われたとする。

よくありがちなのが、作ってみたものの

「これじゃダメ。こうして」

と何回も直されて、仕舞いに

「じゃあお前作れや」

と逆ギレするパターン。

こういうとき、大抵の場合は、部下の方が上司の真意を汲み取れてないのでは。

多分、OKをもらえないのは、

「誰にとって良い資料か」

を考えて作ってないからじゃないかと思う。

その資料とは、

1.誰に見せるのか、あるいは誰にも見せない上司自身のためのものか

2.どんなシチュエーションで見せるのか

3.どの程度重要性があるのか

4.どのように資料が活用されるのか

そういうところを慎重に考えれば、ムダな時間を大幅に削減できるのではないかと。


1.上司だけが見るのなら、見栄えにこだわる必要はないし、

  鉛筆でメモ書きを入れてもよし。

  外部の人間が見るなら、さすがにキレイにまとめないと×。

  見た目でダメだとマイナス評価されやすい。


2.大勢の人に対して大きなスクリーンで見せるのなら、
  
  字は大きく、視覚的な効果を使って見やすくする。
  
  色合いのメリハリがないと見にくい。

  また、資料を見る人が知識を持っている人かそうでないかで
  
  内容を変えないと×。

  専門家でない人が対象なら、専門的な言葉の使用は
  
  できる限り控える。

  逆に専門家ばかりなら、ブレのない表現をするために、
  
  専門用語を使った方が話が早い。


3.ある会議の中のほんの少しの話題程度のものであるなら、
  
  やはり細かいところは不要。

  逆にメインとなる話題であるなら、話題の中心以外に、
  
  関連する事柄についても出来る限り資料に盛り込んで、
  
  比較対照ができるようにする。


4.その資料がその後基礎的資料として様々な場面で使用されることが
  
  予想される場合は、細かい記述や誤解されるような表現を避けると
  
  同時に、視覚的効果を十分使用する。


そんなところかと。


結局これって、

相手の立場に立って考える。

ていうことなんですかねえ。

つまり

小学校から教えられてきたことじゃん

義務教育ってすごい。



2008年05月02日(金) いい本読みました。「墜落遺体」

ここ一週間、ずっとあることについて調べていました。

「JAL123便墜落事故(日航機墜落事故)」
です。


事故があったのは1985年8月12日。
今から20年以上も前の話。

なんで急に調べてみようと思ったのかは忘れました。
ウィキペディアだったのかも。

僕は事故発生当時まだ小学生でしたが、事故のことはよく覚えています。

僕の四つ違いの兄が、夏休みの自由研究のテーマにその事故を取り上げたのですが、僕はその手伝いをさせられたのです。

僕は事故を扱った新聞の切り抜きを画用紙に貼る仕事をしたのですが、
山の濃い緑と、くすぶる炎の鮮やかな赤がとても印象的でした。


当時は「大変なことが起こったんだなあ」と思うくらいでしたが、あらためて事故の様子を調べてみると、本当にとんでもないことだったことが思い知らされます。

死者520名、単独飛行機事故の犠牲者としては世界最大。
有名な歌手(「上を向いて歩こう」の坂本九)や俳優も亡くなっています。

事故を取り上げた書籍は多く、様々な視点から事故の様子が書かれています。

僕はその中の一つ、「墜落遺体(著者飯塚訓)」を読みました。

著者は事故で犠牲になった方の遺体の身元確認作業に関わった方なのですが、遺体の無残さや遺族のいたたまれない様子、作業に携わった人たちの思いを、現場にいたからこそ分かる生々しさで描いています。

飛行機は時速600キロを越える速さで墜落したため、遺体の損傷は激しく、多くは頭部や手足が吹き飛び、また身体の一部(歯、指、皮膚の一部など)しか残らなかったようです。

その描写も傷ましいのですが、本当に心を揺さぶられるのは、遺体を確認する遺族の様子です。

ついに他の部分が見つからなかった夫の中指を愛おしく触れる女性や、家族を失ったお婆ちゃんが毎日遺体安置所を訪れる姿などは、読んでいて自然と涙が流れてきます。


死はとても恐ろしく、怖いものです。

そんな死を目の前にしたとき、
僕は人間の人間らしさ(良くも悪くも)が最も強く現れる
と思っています。

死を覚悟して家族への感謝と思いを遺書に残した男性。

冷静さを失わなかった客室乗務員。

そして、機体が衝突する最後の瞬間まで決して帰還を諦めなかった機長たち。

誇り高い魂があった事実は、僕を勇気付け、励ましてくれるような気がしました。


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