綿霧岩
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2009年03月31日(火) メモ

味噌汁は毎日のように飲む。だからその味が少しくらい残ってたって、いつもなら気にも留めない。でもそのときは気に留まったのだった。それがどういうことなのか、そのとき私は何も知らなかった。

味噌汁がのどに残るなーと思った12時間後くらいから、様子が現われてきた。

喉が炎症を起こしているようで、どんどんひりひりしてきて、唾を飲み込むのも痛くなってくる。喋ることが痛い。喋ること、声を出すということは体内から息を吐き出し同時に喉の筋肉を動かし、そして舌や唇や口の中をせわしなく動かすことだった。そしてそれは今や大変困難な動作なのだった。
しかし楽観主義の私は、すぐさま、可能な限り口を開かないことを即座に決定し実行した。そう決めてしまうと、喋らなくていいっていうのもなんか楽でいいもんだという気がしてくる。普段私は決してお喋りな方ではない。だから口を閉じている時間は全人類中でも結構、少なくとも半数よりは長いと思う。それでも、喋るときは喋ります、という体制を維持しているのは、ほとんど筋肉的には喋っているようなものかもしれない、とさえ思ったのだった。
そしてだんだん頭がぼんぼん薪がくべられるかの如くぼやーっとしてきて、本を読むのもテレビを見るのもしんどくなる。目の前にある何かに集中することが辛くなる。息をするのも苦しい。ふーーうーーふーーうーーと息を整えながらひとつひとつゆっくり動いて、寝る。

こう言ってはおかしいかもしれないけれど、このときの眠りへの過程は非常に良い気持ちだった。

こういうとき私は全面的に積極的に自分を大切にすることを心がけているので、ただただ安らかにお眠りと私の体に無言で伝え、それをキャッチしたぼんぼん言ってる頭は、ただただぼんぼんを受け入れ、援護射撃のように、えらいねー戦ってるんだねーがんばれーがんばれよーとまた無言で激励すると、体の方も無言であとはまかせろ、何も心配しなくていいから眠れ、それがお前のするべきことだ、というメッセージを返してくるので、じゃあ私は眠りますのであとはよろしく、ということになるのだった。
生きるために眠る。この当たり前でシンプルな行為は、普段なかなか実感を伴って自覚することは無く、この「実感を伴って自覚」することは、私にとってまぎれもなく喜びであった。


2009年03月27日(金) メモ

みそ汁の味がのどに引っかかっている。いま家の冷蔵庫にある味噌は、大豆の粒粒が粗く残っている味噌で、みそ汁を飲み終えると粒粒が下にとぼる。それも必ず(飲むというよりはむしろ)食べる。


カタギリミワコ |MAIL