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2023年02月26日(日) デートでのお会計作法と割り勘がつらい場面


デート代、なんで男が払わなくちゃいけないのって言葉 女性はそのデートのために準備して洋服、メイク、美容代も入ってると思う 全部安くない。リップだってブランドなら4000円はする 可愛いって言って欲しくて、そのためにすごく早起きして準備してる それを考えた上で、女性に出してあげて欲しいって思う!


セクシー女優・深田えいみさんのツイートに端を発した、「デート代は男が出すべきか」論争。
人気ユーチューバーや有名実業家、タレントらが持論を述べてネット上は大盛り上がりだが、その「おごる」「おごらない」を読みながら思い出したことがある。若い頃、恋人未満の男性と食事をするとお会計タイムが苦痛だったなあ……ということだ。

私はデート代を男性が持つべき理由はひとつもないと思っているが、「そろそろ行こうか」となったときにテーブルの上の伝票を自分が掴むことはない。
後で自分の分を出すつもりでも、レジで財布を開くのは男性にお願いしたほうがいいかなあと思うからである。彼が店員や周囲の客に「女性に払わせている」と思われるのを気にする人かもしれないから。
で、問題はここから。私は男性が支払いをしている最中、自分がどこでどうしていたらいいのかがわからない。そのため、デザートを注文する頃になると心穏やかでいられなくなるのだ。

……と言うと、
「あら、そういうときは女は先に店を出て、外で待っているものよ」
という声が聞こえてきそうだ。
店の外やレジから少し離れたところで待つというのが、「男性が領収書を切ったりクーポンを使ったりするところを見ないように」という女性側の配慮から生まれた“お会計マナー”であることは知っている。
だから、私も黙って後ろに突っ立っているなんてことは考えない。しかし、「先に出てるね」と声をかけ、レジの前を素通りする私を見て、彼は「おごってもらって当然と思っている」と感じないだろうか。
男性が会計を終えて出てきたらすぐに自分の分を払うつもりだけれど、たとえそれまでの数分間でも「払う気ないのかも」と思われたくない。そう思うと私はいてもたってもいられず、彼の顔を見るなり「いくらだった!?」と飛びかからん勢いで訊いてしまうのである。
まったく野暮な真似をしたものだ。席を立つ前にさっとお金を渡しておけば居心地の悪い思いをせずに済んだのに、あの頃はそういう知恵が回らなかった。
いや、会計時の"作法"はいまでもよくわからない。ごちそうするにせよ割り勘にするにせよ、男性はそのときどんなふうにふるまう女性を好ましく感じるんだろう。

ちなみに、私は「今日はおごっちゃう!」というとき、支払いをする姿を男性に見られたくないとはちっとも思わない。
大学時代の友人がこちらに出張に来ると、ごはんを食べようという話になる。で、前回ごちそうになったからと私が食事代を持つことがたまにあるが、レジで「細かいのあるよ」と言われてもイヤじゃないしはずかしくもない。
金額を見まいとする気遣いより、隣にいて財布をしまう私に「ごちそうさま。うまかったな」と言ってくれるほうがうれしい。

デートとなると、スマートに会計をしたいと思う男性は多いだろう。
でも私の思うそれは、トイレで化粧直しをしている間に支払いを済ませておいてくれることではない。
割り勘が気楽でいいと思っている私でも、「今日は楽しかったから、ここは僕に払わせて」と言われたら素直に厚意に甘えられそう。相手に「おごらせてしまって申し訳ない」という負担を感じさせないのがオトナだなあ、すてきだなあと思う。



が、こんな私にも割り勘に抵抗を感じる場面がある。
若い同僚がいいなと思っていた人と飲みに行ったら、帰りにホテルに誘われた。急展開に夢見心地になったのもつかの間、「五千円、いい?」と彼。
付き合い始めてからなら「ふたりで楽しむ時間なんだから当然」と思えたかもしれない。しかし、初めてそういう関係になるという場での割り勘はショックだったという。

せめてものプライドで平静を装ったと話すのを聞いて、うんうんと頷いた。彼女のいたたまれなさが伝わってくる。
食事代や映画のチケット代を自分で出すのとはぜんぜん違うもの。この割り勘はつらい。
……と言ったら、やっぱりフィフィさんに叱られるんだろうか。

【あとがき】
あの頃、レジに向かう途中で「先に出てていいよ」「外で待ってて」と言ってもらえるとホッとしたっけ。
「割り勘でごはん行く意味がわかんない」(タレント・大島麻衣さん)というタイプもいるんでしょうけど、「自分の分は出したいけど、どのタイミングで財布を出したらいいのかわからなくて」って女性のほうがずっと多いと思います。


2023年02月19日(日) 考え方のクセとメンタルの保ち方

夜勤で午後に出勤したら、待ってましたという感じで仲良しの同僚がやってきた。
「〇〇さん、異動だって」
今朝の朝礼で発表があったらしい。
循環器病棟で退職者が出て、さらにもうすぐ産休に入るスタッフがいるという話は聞いていたから、どこかの病棟から補充されるのだろうとは思っていた。そうか、うちは来月からひとり減か……。
とがっかりしていたら、彼女が小声でつづけた。
「師長、〇〇さんのこと苦手そうだもんね」
〇〇さんははっきりものを言う人で、師長にも意見することがある。そんな〇〇さんを師長はやりにくいと感じているに違いない、だから体よく追い出したのだ、と彼女はみたらしい。
へええと思った。私とは真逆の見方だったから。
立場が上の人にも臆さず考えを言う〇〇さんのことを師長は買っているだろう。だから、至急増員が必要な病棟で即戦力になり、かつクセの強い循環器病棟のドクターたちと渡り合える人材と見込んで抜擢したのだ、と私は思ったのである。

誰もみな、自分の“ものさし”を持っていて、それでものごとを測る。そのものさしは持ち主の性格や生活環境、体験、価値観などが反映されたオリジナルのものだから、同じ情報に接しても人によって感じ方や認識が違ってくる。
同僚は自分が師長の立場だったら〇〇さんのようなタイプは敬遠したくなるだろうと想像するから、「〇〇さんは追い出される」と思ったんじゃないだろうか。反対に、私はふだんから〇〇さんに一目置いていたから、「師長に疎んじられて異動」という発想が浮かばなかったのだ。

ものの見方、捉え方には人それぞれ傾向がある。
「昨日、△号室の受け持ちだったよね。ちょっと訊いていいかな」と声をかけると、いつもびくっとして「えっ、なんか間違ってました!?」と返ってくる人がいる。
内容を聞く前から、顔がもう謝る準備をしている。そんなに私が怖いのか……という話では(たぶん)なくて、とっさに「なにかミスをしたのでは」と思ってしまうのだろう。
また、あるスタッフは配られたばかりのシフト表を見て、ほかの人より夜勤の回数が少ないことを気にしている。
「私、仕事ができないと思われてるのかな」
「師長に嫌われてるのかも」
休み希望を多く出しているから夜勤を入れにくいとか、子どもが小さいから師長が配慮してくれているとかいう可能性は思い浮かばないようで、悶々としている。

こういう人はけっこういそうだ。
たとえば、挨拶をしたのに返事がなかった、LINEが既読にならないというとき、「私に気づかなかったのかな」「忙しいのかな。それとも体調崩してるとか?」ではなく、相手が気を悪くするようなことを自分がしてしまったからではと不安になる。なにかあると真っ先に自分を疑ってしまうのだ。
こういう考え方のクセがあると気苦労が多いだろうなと思う。

最近なにかと話題の“炎上芸人”クロちゃんは、メンタルを保つために「何事も人のせいにする」を信条にしているという。それでたいていのことは解決するそうだ。
受験に失敗したら「塾がよくなかった」、自分のミスで試合に負けたら「『One for all, All for one.』自分のミスはみんなのミス」。先日『日本中から嫌われている僕が、絶対に病まない理由』を出版したが、もし本が売れなかったら「事務所の押しが足りなかった。もっと読者が読んでわかるように編集者が直せばよかった」と考えるつもりだそう。
「“悪いのは自分じゃない”精神を身につけたら、いまより生きるのが楽になるはず」
ものすごく個性的な考え方だが、まあそうかもしれないと思う部分はある。



私にも自覚している思考パターンがある。
解釈に迷うことに出くわしたとき、ポジティブな可能性とネガティブな可能性があるなら前者を採用する、ということだ。
以前、向かいの家に外飼いの犬がいた。その犬は車が嫌いなのか怖いのか、誰かが車で出かけようとするとワンワンと吠えたてる。その日もシートベルトをしながら「また始まった」と思っていると、チャイルドシートに座っていた子どもが言った。
「ねえ、ママ。モモタロウはいつも『行ってらっしゃい』って言ってくれるね。かわいいねえ」
びっくりした。私には「うるさい」としか思えないこの鳴き声が、「行ってらっしゃい」に聞こえるのか。心のありようで見える景色はこんなにも違うのだ、とショックを受けた。

以来、起きていることの詳細や相手の真意がわからないのに、わざわざ不安になったり不快になったりする方向に想像を働かせることはしないようにしている。
どうして人より夜勤が少ないんだろうと思ったら、モヤモヤしていないで師長に理由を訊きに行く。次もその人から挨拶が返ってこなかったら、そのとき「無視された」認定をしてムカッとすればいい。

人が「マウントをとられた」「ディスられた」とカリカリしているので、いったいなにを言われたのかと思ったら、
「え、それって単なる近況報告じゃないの?」
「いや、相手はただ事実を述べているだけだと思うけど……」
と言いたくなることがある。
クロちゃんは他罰的思考をマスターすれば傷つかずストレスもたまらないよと勧めてくれるが、私はアンテナの受信感度をちょっと下げて生活するのも手だと思っている。

【あとがき】
他意なんて気づかなくていいと思うのです。いつも感度マックスでいて、なんでもかんでも受信しているとしんどいですよね。


2023年02月02日(木) テレビドラマとリアリティ

若い同僚が新ドラマ『夕暮れに、手をつなぐ』の視聴をギブアップしたという。
彼女はヒロインと同じ九州の地方出身なのだが、その方言が聞くに堪えなかったらしい。同じドラマを見ている別の同僚が、
「あなたも地元の友だちとしゃべるときは、自分のことを『おい』って言うの?」
と訊いたら、
「そんな一人称使う子、見たことない。広瀬すずがしゃべってるのは架空の方言だから」
と本気でムッとしていた。

このドラマの方言については、初回の放送後にネットニュースでも話題になっていた。
脚本家によると、「九州の既存の方言にピンとくるのがなかったので、ちゃんぽんにするという技を考えついて、宮崎と鹿児島と長崎の方言をブレンドしました」らしいが、
「方言をミックスって。九州の人間としてはバカにされた気がした」
「方言はその土地の文化。『ピンとくるのがなかった』って失礼でしょ。それなら九州出身という設定にするのやめて」
「『ばい』とか今時つけないし、違和感ありあり。気になってストーリーが入ってこない」
といったネイティブからのコメントがずらり。

作り手にとって、方言は登場人物のバックグラウンドやキャラクターを表現するためのツール。必ずしもリアルに近づける必要はなく、ヒロインに「九州の田舎で育ったおてんば娘」のイメージを持ってもらえればいいのだろう。
それに、方言を忠実に再現するとネイティブ以外の視聴者は聞き取りづらくなってしまうという事情もある。
とはいえ、その「それっぽく聞こえればオッケー」に、そこで生まれ育った人たちが「お国言葉に対するリスペクトがない」ともやもやを感じるのはわからないではない。いいのがなかったから“聞き映え”のする九州弁を作りました、と外の人に言われていい気分はしまい。
そのうえイントネーションが不自然で耳障りとなれば、見る気が失せても無理はない。



「これはドラマ」と割り切ってその世界を楽しめばいいのに、リアルとのギャップに目をつぶることができない------私も医療系のドラマを見ながら、よくひとりごとを言っている(らしい)。
でたらめな設定やシーンがなに食わぬ顔をして出てくるから、ついツッコんでしまうのだ。

患者の急変に居合わせた看護師が病室を飛び出し、人を呼びに走る……というおなじみの場面。最近も『ザ・トラベルナース』の主人公が夜中にドクターの仮眠室まで走っていたが、本物の看護師がこんなことをしたらむちゃくちゃ怒られるはずだ。
「その首から下げているPHSはオモチャなのか?」
「まくら元のスタッフコール(ナースステーションにつながる緊急呼び出しボタン)をなぜ押さない?」
それらで応援を要請するより、血相を変えて階段を駆け下りたほうが緊迫感が出せるということなんだろう。でも、実際の現場ではその状態の患者から離れてはいけないのだ。

で、その後はというと患者をオペ室まで運び、主人公はそのまま緊急オペに入る……がお約束であるが、これも考えられない。
病棟とオペ室では業務がまったく違うため、病棟看護師に手術介助はできない。滅菌ガウンを着ればオペ看に変身できるわけではないのだ。
こういう現実離れした展開には興醒めしてしまう。

胸骨圧迫(心臓マッサージ)のシーンもよく見かけるけれど、いつも不思議に思う。
たいてい肘が曲がっていて、トントンと軽く押しているだけ。医療監修が入っているのに、どうしてちゃんと教えないんだろう。
実際には体重をかけて胸を五センチ沈み込ませる圧迫を繰り返す。それは一、二分おきに交替しながら行う大変ハードな処置である。
肋骨が折れることもあるその圧迫を患者役に行うわけにはいかないが、そう見える演技をするのがプロというもの。
「死なせはしない!戻ってこい!」
いや、それじゃあ戻りたくても戻れない(でも、ドラマの中の患者は息を吹き返す)。

前クールの『ザ・トラベルナース』の初回はほとんどの同僚が見ていたが、完走したのは私を含めて三人だけ。大半が第一話で脱落していた。
「出てくる看護師全員が寮生活、しかも看護部長まで。みんな揃って寮母さんの作ったごはん食べて、大沢家政婦紹介所か!」
「で、男ナースはふたり一間で布団並べて寝てるんだよね」
大病院の看護部長や男性看護師が、一軒家の女子寮で『家政婦は見た』みたいな共同生活。ドラマの初っ端からビックリだ。
登場人物をひとところに集めておけば、話は展開しやすいに違いない。しかし、そういう作り手の思惑が見えると、「この先もこの調子で無理のある設定やありえないシーンをゴリ押ししてくるんだろうな」と萎えてしまう。



現実とここが違う、あそこが違うと書いてきて矛盾するようだが、ドラマにおいて実態を忠実に再現することが大事なのではない。
ドラマに求められるのは、リアルであることよりリアリティがあること。
『JIN-仁-』は現代の医師が幕末へタイムスリップするという非現実的な設定であったが、歴史を変えてしまうことになるかもしれないと悩みながらも、医療器具も薬もない中で目の前の命を懸命に救おうとする主人公の姿、その主人公を思う二人の女性の心情、江戸の人々の暮らしがていねいに描かれ、けっして絵空事ではなかった。
途中、「脳外科医に乳癌の診断やオペができるんだろうか」が頭をよぎっても、「私は乳癌を扱った経験がほとんどなく、触診だけでは判断できない」というセリフや、自分より乳癌に詳しいと思われる別の医師にも診察を依頼するシーンが出てくる。心の揺らぎがきちんと描かれているから、専門外のオペを決意した主人公を自然に受け入れることができるのだ。

リアリティはリアルを追求する中で生まれる。見せ場優先の「そんなの、ナイナイ」だらけのストーリーでは感情移入も疑似体験もできない。
フィクションだからこそリアルさが必要なんじゃないだろうか。

【あとがき】
警察関係の仕事をしている人は、サスペンスや刑事もののドラマをやっぱりツッコみながら見ているんでしょうか。刑事が白い粉を指先につけて舐めて「……シャブだな」とか、崖っぷちで波音をBGMに事件の謎解きをするとか、あんぱんと牛乳を手に電柱の陰で張り込みとか、取り調べに黙秘する被疑者の顔にライトを当てるとか。
さすがにここまでベタなシーンは今のドラマでは見られないのかしら。