過去ログ一覧前回次回


2011年07月26日(火) 苦手な頂き物

実家に帰省中、しばらくぶりに地元の友人に会った。お土産のお菓子を渡したら、彼女は「これ、好きやねん!おいしいよねえ」と言ったあと、「でもさ、もらって困るお土産ってのもあるよなあ……」とぼそり。
彼女は最近、北海道を旅行した人から「まりも」をもらったという。瓶の底に小さな緑色の玉がコロンとふたつ転がっていて、「ま、可愛い」と思わず笑みがこぼれた。が、育て方のしおりを読んだらたちまち憂鬱になってしまった。
熱帯魚を飼うような世話はいらないものの週に一度の水換えは必要で、表面についた汚れやバクテリアを取り除くためにときどき洗ってやらなくてはならないらしい。そしていよいよ彼女の気を重くさせたのが、「上手に育てれば人間より長く生きます」という一文だ。
「ってことは、私はこれから一生これの世話せないかんのー?」
そう思ったら、その場で返却したい気持ちになったという。
お盆には一週間里帰りする予定だ。その間閉めきったマンションの部屋はサウナ状態になるだろうが、寒冷地に生息するそれは耐えられるのか。預けられる人もいないし……と困惑している彼女を見て、すっかり気の毒になってしまった。

たしかに生き物系は困る。
私にも覚えがある。学生の頃、当時流行っていた高さ四、五センチのミニサボテンをもらったことがあるのだけれど、まもなく枯れてしまった。友人には「水やりしなくていいサボテンをどうやって枯らすの?」とあきれられたが、私は子どもの頃に花壇の塀を歩いていてサボテンの上に転落して以来、それがどうしてもだめなのだ。そういう人間が義務で世話をすると、枯れるはずのないものも枯れる。
誰かに花束をプレゼントされたら喜んで頂くが、鉢植えだったら……。受け取った瞬間から否応なしに生じる「命あるものに対する責任」を思い、億劫になるにちがいない。

* * * * *

「人からもらって困るもの」で私がもうひとつ思い浮かべるのが、縁起にまつわる品である。
以前勤めていた会社に、神社仏閣巡りが趣味で有名どころに出かけるたびにお守りを買ってきてくれる人がいた。色も形もご利益の内容もさまざまで、お守りにもいろいろあるんだなあと毎回感心したが、三つ、四つと受け取るうちに複雑な気持ちになってきた。
私は自分でお守りを買うことはない。それは「大事に扱わなくてはならない」というプレッシャーもさることながら、不要になったときのことを考えてしまうからである。
お守りの有効期限は一年と聞く。しかしそれを過ぎたからといってゴミ箱へ、とはいかない。授かったところに納めに行くことはできないにしてもどこかのお寺か神社でお焚き上げしてもらわなくてはならないが、「ついでのときに」と思っても初詣さえ行ったり行かなかったりの私にそのチャンスはいつ訪れるやら。といってそのために出向くのは面倒だ。だから買うのはやめておこう……というわけである。
その同僚は行く先々で可愛らしいお守りを見つけ、キーホルダーを買うような感覚でお土産にと考えてくれたのだろう。気持ちは本当にうれしい。けれども、「返しに行かなきゃ」と思いながら古くなったお守りを持ちつづけているのは宿題を抱えているみたいですっきりせず、すべてを返納したときは肩の荷が下りたような気がした。

大学時代、京都に住んでいたので地元の友人が遊びに来ると金閣寺に連れて行ったのだが、そこで拝観料を払うともらえる拝観券もまた私を悩ませた。「金閣舎利殿御守護」と書かれた大きなお札なのだ。
「開運招福」「家内安全」などの文言があるそれを丸めてポイ、とはできないが、それなりにおしゃれにしているつもりのワンルームマンションの部屋に貼りたくはない。といって机の引き出しに入れっぱなしにするのは気がとがめる。
次に行ったときに前回のものを納めてもまた新しいものをもらうのでお札はいつまでたってもなくならず、扱いに難儀したものだ。

わが家の本棚の上にはだるまがずらりと並んでいる。
何年か前、遊びに来た友人がそのさまを見て「めずらしい趣味だね……」と絶句したので、そうじゃなくて義父が毎年正月に必ずくれるのだ、どうしてかしらねと言い訳したら、彼女があきれ顔で言った。
「そんなの決まってるじゃない。早く子ども産んで目を書き入れろってことでしょ」
それはともかく、このだるまもお守り同様たまる一方。縁起物だけに、たとえ趣味でなくても押入れ行きというわけにいかない。
昨年ある神社にお礼参りに行く際にここぞとばかりに持参したら、「だるまはお預かりできません」と言われてしまった。お寺でないとだめらしいが、神社よりさらに行く機会がない……。

ただいま友人への新築祝いを検討中。なににしようか悩むところだが、先方の手を煩わせるもの、処分に苦労するものだけは贈るまい。


【あとがき】
植物のプレゼントは決して無難なチョイスではないなと思います。相手を選ばないと、喜ばせるどころか困らせることになってしまう。花が咲いているのを見るのは好きだけど育てるのは無理……という私みたいな人はきっと少なくないでしょう。
ちなみに、うちの夫は庭いじりが趣味の人。いまの家に引越してきたとき彼が真っ先にしたのは、庭全面を耕して芝生を張ることでした。週末に朝早く起きて芝生の雑草を抜いたり花がらを摘んだりしているのを見ると、「あんな面倒くさいことよくやるなあ」と思いますが、好きなんでしょうね。鉢植えをこういう人に贈ったら大事にしてもらえるんだけどねえ。




2011年07月20日(水) よりによって……

先日、友人と会ったときのこと。「ちょっとこれ、読んでみてくれる?」と彼女が携帯を差し出した。
今朝義母から届いたメールだという。嫁姑の関係は良好だと聞いたことがあったので、「なんかおもしろいメールでも届いたのかな?」と読みはじめたところ、そこに並んでいたのが友人に対する不平不満の言葉だったので驚いた。
新聞の人生相談欄などで、姑が嫁について「実家には頻繁に帰るのに、こちらにはちっとも孫の顔を見せにこない」とか「よくしてあげているつもりなのに、母の日に花一本持ってこない」と愚痴をこぼしているのを見かけるが、友人の義母のそれもまた「嫁の気遣いと常識の欠如」を嘆くものだった。日頃は穏やかに接しながらも思うところが相当あったらしい。
しかし、読み進めるうちにさらなる驚きに出くわした。最後まで読み、私は嘆息しつつ言った。
「このメール、ほんまは誰に送るつもりやったんかな。これ、間違いメールだよね?」
「そうなの、義妹に書いたメールを私に送っちゃったらしいわ。宛て先を間違えるにしたって、なにも本人に送らなくてもいいじゃない……」

書いている最中、嫁のことで頭がいっぱいだったものだから、無意識に送信先に選んでしまったのだろうか。ああ、おそろしい。
しかし、こういう「しゃれにならない誤送信」はしばしば起こるようだ。以前勤めていた会社の同僚は上司の悪口を長々と書いたメールを本人に送ってしまい、呼び出されてこっぴどく叱られた。内容についてではなく、勤務時間中に私用メールをしていたことを、だったそうだけれど。隣席の女性が社内恋愛中の男性に宛てたメールが営業部全員に一斉送信されたこともあったっけ。
「発言小町」でも、「今日は排卵予定日だから早く帰ってきてね。先月あなた、先に寝ちゃったでしょ〜プンプン(`へ´)」というメールを義母に送信してしまった、というのを読んだことがある。「孫の誕生を楽しみにしています」と返事が返ってきたそうだが、私だったら半年は立ち直れまい。

「これ、どうしたらいいと思う?」
と彼女が言う。
これはむずかしい問題だ。間違いファックスは「誤送信です」と書いて送り返すのが親切だというけれど、この場合はどうなのか。
たわいないメールであれば「宛て先間違ってますよ〜」と教えてあげられるが、今回は内容が内容だけに悩ましい。たとえ謝られても、いつもこうして私の愚痴を娘にこぼしていたんだなと知ってしまったから友人の気が晴れるわけではない。
かといって、黙っていたほうがいいとも思えない。義母もじきに送信ミスに気がつくから、次に顔を合わせたときのことを思うと、いまの時点で一定の解決はしておいたほうが気持ち的に楽なんじゃないだろうか。
とはいえ、友人は大きなショックを受けているし、本人に読まれたと知れば義母の動揺もかなりのものになるだろう。感情的なやりとりになってしまってはいけない。
自分だったらどうするかとめいいっぱい考えて、ご主人にあいだに入ってもらうことを勧めた。

* * * * *

こういう「よりによって……」な話を聞くと、私にもひとつ思い出すことがある。
三年前、今の家に引越してきて間なしの頃、玄関を掃いていたら隣家の奥さんに声をかけられた。
「これがうちの庭に落ちてたんですけど、小町さんのところから飛んできたんじゃないかと思って」
彼女が差し出したものを見て、私は悲鳴を上げそうになった。たしかにうちの枕カバーである。しかし、それはただの代物ではなかったからだ。
その枕は結婚したときに友人がプレゼントしてくれたものである。披露宴の余興の終わりに彼女たちが言った。
「本当におめでとう!お祝いにイエス・ノー枕を贈ります。○○くんの方は表がイエスで裏がノー。でも小町ちゃんはたぶんノーはいらないと思って、イエス・イエス枕にしておきました」
ウケ狙いで作られたド派手な枕を高々と掲げられ、私は親や親戚の前でなんてことを!と赤面を通り越して真っ青になった。そのイエス・ノー枕のカバーだったのだ。

「まああ、すみません」
にこやかにそれを受け取り、ちょうど掃除が終わったふりをして家に入り……私は床に突っ伏した。
たまたまピンチがはずれ、風に飛ばされたのがタオルでもワイシャツでもなく、どうしてこれなのだ。誰に拾われても恥をかかない洗濯物はいくらでも干してあったのに!
仕事から帰ったご主人に「ねえねえ、お隣さんったらイエス・ノー枕なんか使ってるのよ〜」「大きなハートマークのアップリケがついててね、お手製だったわよ」なんて報告されるんじゃないだろうか……。
違う、違うのだ。私は本来の用途でそれを使ったことは一度もない。大きさと厚みがちょうどいいので授乳クッションとして利用していたのだ。
ああ、しかし誰がそんなことを察してくれるだろう。

ところがしばらくしてから、実はこの時点では恥ずかしいことなどひとつもなかったのだ、ということが判明する。本当に恥をかいたのは後日、その奥さんと立ち話の最中にこの件について釈明しようとしたときだった。
「勘違いされちゃったかもと思ったら、もう恥ずかしくって。あははは」
とわざとあっけらかんと言ったら、彼女は無邪気に言った。
「そのイエス・ノー枕ってなんですか?」
な、なんですって?
「ほら、『新婚さんいらっしゃい!』でプレゼントされるアレじゃないですかー」
「その番組見たことないんですよね」
……愕然。イエス・ノー枕を知らないとは。
「なにがイエスとノーなんです?」
と畳み掛けられ、頭を抱える。これからもお付き合いがつづくご近所さんである。露骨でない言葉を選ばなくては。
「それはその、なんていうかな、つまり夫婦のサインといいますか……」
しどろもどろに答える。「今晩オッケー」なときはイエスが見えるように枕を置き、「ダメ」なときはノーを表にする。夫と妻、両方の枕がイエスだったら合意成立、というわけで……なんてことを道端で解説する恥ずかしさ、ばかばかしさといったら。

授乳クッションとしての役割を終えたその枕は、現在押入れの中で眠っている。しかしあれ以降、風のある日は私のパジャマや夫のよれよれのTシャツは部屋干しすることにしている。


【あとがき】
イエス・ノー枕を知らない人がいるとは思わなかったなあ。その用途を聞いたお隣さんは「なるほど!そういう意味なのねえ!」といたく感心していました(恥のかき甲斐があった、と思うことにしよう)。
実際に使っている夫婦がいたらほほえましいですね。そういう茶目っ気のある夫婦っていいなあ(*^―^*)