胡桃の感想記
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1996年07月12日(金) ◇坂口安吾著「桜の森の満開の下」

桜の花の絶景という常識からすると、これは大変、華やかなタイトルである。しかし、安吾はこの常識をくつがえし「桜の下の恐ろしさ」を書いている。桜の花の下を通ると、人々は狂気に落ち、他者不信になるというのだ。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている。」と梶井基次郎の文が表すように、美しいものと不吉なものは紙一重なのかもしれない。私自身、安吾や基次郎の考えをすんなりと受け入れることが出来た。この美と不吉という関係は、日本人の深層心理に触れるもので、ユングのいう「集団無意識」と同じかもしれない。

物語の主人公は山賊で、街道に出ては容赦なく着物を剥ぎ、人の命も平気で絶つような男だと描写してある。そんな山賊ですら、桜の森の花の下へ来ると恐ろしくなり、気が変になるのだという。それ程、桜の花の下は人々に恐れられているのだ。山賊は、いつか桜の恐ろしさの謎を解いてやろうと考えるものの、実行できずに何年も経っていた。

恐ろしくてなかなか実行できないという所は、山賊の人間らしさが表れている。

ある日、山賊はいつものように街道から女をさらってきた。八人目の女房である。この女、とても美しいのだが、大変な我儘者だった。美しいのだから、多少の我儘は魅力的になるだろう。しかし、この女の我儘は“ワガママ”という一言では片づけきれない程だった。

女は「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。」と言って、一番綺麗な女から順に六人斬り倒させた。一番醜い女だけは女中にした。醜い女を女中として傍に置くことで、自分の美しさをより一層引き立たせようとしたのではないだろうか。六人の女を斬った後、男は静寂の中で美しい女を見て、何故か不安で不安でたまらなくなった。そう、桜の森の満開の下のような、奇妙で何ともいえない恐怖感である。

ここで作者・安吾は桜と女という美しさが持つ、不思議な不気味さを読者に知らせる。現に、桜の花の下の恐ろしさを男から聞いた女は、ただ苦笑しただけだった。女と桜は同一なものなので、恐ろしいはずはないのだ。そして、女の苦笑は男の頭に「ハンを捺したように」刻み込まれるのだった。

次に、主人公の呼称について注目したい。最初は「山賊」で登場したが、六人の女房を斬り、静寂の中、美しい女を見て不安になった時から、「男」に変わった。そして、女の苦笑を見てから「彼」になる。これは、一歩一歩確実に読者との距離を縮めている証拠だろう。主人公が登場した時は、なんて酷い山賊だろうと思っていたが、気づくと、女の恐ろしさに身震いすら感じるようになっていた。私はいつの間にか、主人公の男と同じ視点になっていたのだ。

女の案により、男は女と都へ行く。男は、都をくだらない所だとバカにしていたが、それはコンプレックスともいえる。何故なら、都で男は子どもからもバカにされているからだ。一方、女は来る日も来る日も首遊びをしていた。男が夜、様々な所から持ってくる首を、女は毛が抜け、肉が腐り、白骨になっても遊びつづけるのだ。この首遊びの描写は4ページほどに及ぶ。読んでいてもゾッとして背筋が寒くなる部分だ。都の場面では、女が生き生きとしているが、男は退屈でたまらなくなり、生気すら薄れていっている。

とうとう男は極限とも言える状態に陥る。「空が落ちてくる」という言葉は、世の中すべてに対する絶望を表しているようだ。そして、この絶望感から男を救ったのは、一本の満開の桜の木である。山へ帰ろう・・・男はそう決心した。不吉なものも象徴として出ていた桜が、男の救いになるとは・・・安吾は何を伝えたかったのだろうか。

山へ帰るという男に、女は迷わずついて行く事を選ぶ。首遊びの出来る都よりも、男のいる山を選んだことに、男はとても喜んだ。男には絶対に理解できないはずの他者である女が従順になる。そして、桜は男の救いになった。

美しさに対して人は憧れる。しかし、同時に近寄りがたさも感じ、そう思う心が「恐れ」として表れていたのだ。その「恐れ」が無くなり、自分(男)の手に入った時、それらはどうなるのだろう。答えはラストシーンにあった。

男は幸福で、もう桜の花の下を恐れる事無く、女を背負って歩いていく。パラパラと花びらがどこからともなく落ちてくるのも気にせずに。桜の満開の下へきた時、だんだんと冷たくなり、気づくと背中の女は鬼になっていた。全身が紫の顔の大きな老婆と描写されているが、これは男の心がそう見せたのだと思う。鬼というのは、女の内面の現れなのだろう。男は無我夢中で鬼(女)の首を絞めて殺す。平常心に戻り、改めて見るとやはり美しい女だった。男は始めて胸の悲しみに気づき、ほのかに温かい気分にすらなる。男の手が女の顔に触れようとした時、女は花びらとなり、男も桜の満開の下で消えてしまう。花びらが舞うだけの、冷たい虚構で物語は終わる。

この作品は安吾の女性観が表れていると感じた、安吾にとっての女性は、憧れの対象ではあるものの、他者だから絶対に理解しあえないという思いが伝わってきたような気がしたからだ。


1996年07月11日(木) ☆ご挨拶☆

2004年10月9日(過去に遡るのでここでご挨拶)

初めまして、胡桃(くるみ)です。
ここでは日々の日記ではなく、観劇・映画・読書などの感想を書いていきます。
せっかく舞台観ているのに、そのまま忘れちゃうのは勿体無いなぁと思い、時々感想は書いていたのですが、続きませんでした。
理由は、起承転結上手く書こうとしていたから。
ですから最近はノートに思いついたことを、観劇後3日以内に殴り書き、もしくは箇条書き。
ただこれをキレイに清書するのが大変そうで、そのままにしていました。
最初は手書きで清書するつもりでしたが・・・このエンピツ日記にまとめる事にしました。

ちなみにノートに書き始めたのは2004年5月28日「〜A New Life〜」以降です。
2002年5月の「エリザベート」は偶然感想メモが残っていたのでそのまま載せましたが、あとは全くないので、これから少しずつ思い出せるものだけでも書いていきたいと思っています(って忘れっぽい私が無謀な事を・・・)。

本の感想は、時々書いていたものをほぼ当時のまま載せました。
ちょうど日本文学を勉強していた頃は、小難しい単語を使っていますが、その後は見事にボキャブラリーが減っていて楽しいですね(そうか?)。

そしてしばらくして、この感想を読み返して私は間違いなく再確認するはずです、
“ああ、私ってバカだな〜”って。


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