めめんと森
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2014年03月21日(金) ブタとイルカと人間と

 インターネットで見かけたミニブタの可愛さに夢中になってしまった。

 うちは猫を飼っている。一戸建てに越してきたのだから庭でも室内でも犬だって飼えるのだけど、犬はいろいろ面倒で飼う気がしない。ブタは私にとっては感覚的には犬に近い。しかし犬のようなある種の必死さがなくて、ヒトに媚びるでなくただ本能のままにシンプルに生きてるように見える。実家では長く犬を飼っていたから犬の魅力は知っているけれども、あの豊かな感情表現がやや苦手だ。犬種や個体にもよるだろうけど、いつも遊んでやって構っていなくてはならないところが幼児に似ている。

 実際のところ犬よりもブタの方が頭がいいらしい。本当に飼う気はあまりないながら調べたら、一頭のお値段はなかなか高い上に、ミニと言っても結構大きくなるし、エサ代もかかるようだ。

 そんな可愛いブタだけど、週に3回は彼らの肉を食べている。今まであまり気にしないで過ごしてきたのに、コミック『銀のさじ』を読み始めて、困った事に豚肉を食べるのにちょっと心理的抵抗を感じるようになってしまった。結局食べるけど。主人公の八軒君が実習で小さな頃から育てたブタを、出荷するようになり苦悩する下り。何度も読んでつい目頭が熱くなってしまう。

 八軒君の育てた仔豚はペットじゃない。最初から食肉になることが決まっていたブタだった。それでも可愛がって育てた命なので、割り切ることが出来ない彼は葛藤するのだ。

 私たちは何かの命を犠牲にしないでは生きられない。そして、奪って許される・許されない命についての価値基準がそれぞれにズレていてそれで争う。欧米社会の多くの人たちは、イルカは知能が高くて可愛い動物なのに食べるために殺す日本人が許せない。しかしイルカのところをブタに、日本人のところを他の国の人に入れ替えたって成り立つ。ブタだってあんなに可愛いのに、イルカの命を思って胸を痛める人の心はブタの為には決して痛まない。牛だって、魚だって、手塩にかけて育ててしまったら、きっと殺して食べるのに“慣れ切る”まではやはり辛いだろう。

 殺して食べていい“命”とそうでない“命”の線引きをして、その線を越える者を糾弾する身勝手に気が付かない。だから私はイルカやクジラの漁に抗議する人たちが嫌いである。

 今日も明日も、死ぬまで、他の命を犠牲にして私は生きている。命だけではなく、どこかで誰かの気持ちを踏みにじったり、心配させたりしていても、ほとんど気づかずに生きている。それだけでも大した罪なのに、それを棚に上げて他者の食習慣をやめさせようとしたり、思いが噛み合わない事で腹を立てて他者を攻撃したりして罪を重ねる。

 ただ生きて、肉になるブタのことを馬鹿にできるだろうか。


2014年03月09日(日) 雑草

 庭には前の住人が残していった庭石と煉瓦があった。

 煉瓦は2m四方くらいのスペースに敷いてあったのだが、目地をコンクリートで埋めるでもなく、あちこちガタガタで見るからに素人の仕事だったうえに、苔むして庭全体を暗くしていた。先週、この煉瓦を夫と全部剥がしてしまった。

 庭石は、小は手のひらサイズから大は直径30センチほどのものまで、伐採した木の周りをぐるりと囲っていたものが30個ほど。ゴミには出せないというので処理業者に見積もりを頼んだら煉瓦はともかく自然石は引き取れないと言われた。その煉瓦だけでも見積もりを取ったら処理代金は予想以上に高くて、縁台の下に置いてみたら全部収まるのでもう暫くそのままにすることにした。

 そうして庭がやっとスッキリしたので、残された雑草をせっせと抜いていた。今の季節、草むしりは楽しい。夏場と違って天気のいい日に外に居る時間が長くなっても気持ちがいいばかりでダメージはない。草抜き用のコテを使ってブツブツと根から抜いていく。小さなカタバミやオオバコの、以外に長い根。タンポポの太くて強い根。

 無心になってやっているようだが、頭の中は常に雑念でいっぱいだ。雑草でも花が咲いていると抜くのをほんの少し躊躇する。こんな小さな草にも花が咲くのだなぁと感心する。
雑草の花って可愛い。昔、ふとそんな事を言ったら、聞いていた人が
「ガブさんは、感受性の豊かなひとだね」
 と言った事があるのを思い出す。

 褒められたんだろうと思うが、感受性が豊かであるというのはそもそもどういう事なんだろう。雑草は小さくて、その花も当然小さくて、以外に可憐で可愛いと思った。ただそれだけの呟きを拾って、私という人間の感受性を測れるのだろうか。どんな感動的な映画やドラマや小説を見ても、人との別れの場面でも、涙ひとつ流さない私の。

 息子には、診断名がつくかつかないかくらいの発達障害傾向があって、知的な遅れもない、言語の遅れもないどころか、ある条件では人一倍喋る子で、幼児の頃にはそれは好ましい事と見做されていたので困ることはあまりなかった。学校で集団生活を送る今は、時にそれが原因でトラブルを起こす事があるのだが。
幼児の頃の息子はむしろ、拘りの強さと癇癪でものすごく扱いにくい子だった。私が自閉症やアスペルガー症候群を疑って発達相談に行ったのも、拘りと癇癪でヘトヘトになってしまったからだった。

 特に強かったのが順番拘りで、お風呂は自分が先で妹は後、風邪を引いたなどの理由で前後すると手が付けられないくらい泣き喚いて拒絶した。保育園から帰る時に通る道も、説明なしに変更するとパニックを起こしてそっくり返って家に帰っても暫く号泣した。対応に疲れ果てたし、この子はちょっと普通じゃないのかも知れないと思って担任保育士にこぼしたところ、

 「K君は感受性が豊かなだけですよ。お母さんもお仕事大変だしお疲れでしょうけど、あまり神経質にならずに、ドーンと構えたらどうですか。幼児期の基本は受容と共感ですからね」

 と言われた。

 感受性豊かだから変化に弱いのだろうか。急な順番の変更にもパニックを起こさない子は感受性が鈍いからなのか?息子が癇癪を起すのは私が神経質だからなのだろうか。保育士の言葉に半ば感心しながらもモヤモヤとしたものが胸を去らなかった。感受性という言葉は、もしかしたら理解不能だったりどうにも出来ない困った人の行動をボカして表現するために使われる便利なフレーズなのではないかと思えてしまう。何より、息子本人はパニックを起こしている間、物凄く困っている訳だ。感受性で片付けてしまっていいものかわからない。

 雑草を抜きつつ雑念に囚われてここまで考えて、いや、やっぱり感受性という言葉は刺激に対する弱さをも含んでいるのかもしれない・・・などとも思った。でも、サラっと流すべき事でパニックを起こすような特性も、感受性と言ってしまえばなんかいいイメージになる。お蔭で息子の発達についての診断を仰ぐタイミングが、就学以後にズレこんでしまった。

 私たちは雑草のようなもので、珍重がられるでもなく、勝手に生えてきて根を張って、物陰で生きている。ただし私も息子も雑草みたいに強くはない。人との関係でまずい立ち回りの末にズタボロに傷ついたり傷つけたりしてしまう。自分が自分のままで居てはいけなといつも思っている。せめてタンポポみたいに、咲くときは人目を引き、沢山種を飛ばして派手に散りたい。


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