Rocking, Reading, Screaming Bunny
Rocking, Reading, Screaming Bunny
Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2008年12月31日(水)  just waiting for time to pass

毎日が辛いのは、ただ単に治るのに必要な時間がたつのを待っている日々だからだ。眠ることが全く休息に感じられない。体を真っ直ぐにすると痛いのでリクライニングを少し上げて眠るのだが、横を向くと痛いのでずっと仰向けで動かずにいるのに、ベッドが硬いうえに防水のシーツが滑るので、体重がお尻にかかったままになり腰とお尻が痛くてしょうがない。自分の体重が呪わしくなるような痛みだ。色々と腰の下にしいてみるが全く改善されず、今日も元ダンナがドーナツ型のクッションを探してきてくれたが、やはり駄目。
眠っている間に必ず数回は目がさめる。鎮痛剤は当然きれている。一度は必ずトイレに立つが、眠っている間に膀胱が張っていて情けないほど痛い。目覚めるといつも疲れきっている。

起きたら、椅子に座って本を読もうとするが、なかなか集中出来ない。あっという間に足元が冷える。*病室の床が冷えると思い込んでいたが、退院後に自宅でも同様に冷えるので、摘出手術のせいで自分の下半身が異常に冷えることに気づいた。 なのでベッドに上がるがあっという間にお尻が痛くてたまらなくなる。なので我慢できず下に下りる。これの繰り返しだ。移動は勿論痛い。

鎮痛剤は一日3回まで、6時間おきにしか飲めない。なのに効くまでに1時間かかり、4時間もすると切れる。
食事をすると腸がぎりぎりと痛む。一昨日の夕食後などは、元ダンナの前で1時間もうなり続けていた。食事時間との兼ね合いで、いつ鎮痛剤を飲むかをはからねばならない。

ああ、疲れる。

けれど、それにしても、ハラを切られて臓器をいくつも取られて。それでも問題なく生きてるなんて。人間って結構すごいなあ。

いつもなら年明けの瞬間は時計を見て確認するのが好きだが。今年はそんな気分も体力もない。22時に眠る。
(2/8up)

just waiting for time to pass (ただ時間が過ぎるのを待つ)



2008年12月29日(月)  will be haunted by the memory of her smile

目を覚ましたら左脇にカピバラが寝ていた。ふわふわでのほほんとして、隙間風などふさいでいる。無言で見つめあった後、やおら手にとって「高いたか〜い」と上に差し上げてみる。「・・・パブリック・イメージが」と一人でつぶやく。うーん。
モノが増えるのが嫌いな片づけ魔なうえに、インテリアにはこだわりがある。なので「ヌイグルミ」なんていう代物はもう10年くらい無縁で、ましてこの大きさは小学生以来だ。
ちっこい左の耳をつかみあげて、ふいふいと揺すって「痛い痛い痛い?」とやり、今度は右耳をふいふいと揺すって「釣合い釣合い」と言う。
・・・なんか楽しいw

11時頃に母が来たので驚く。面会時間は13時からなのに堂々突破していることもあるが、それよりも、実は一昨日の夜母と大喧嘩して、もう沖縄に帰ってくれと言ったのだ。(父はその前日に先に帰っていたが、母は私が退院するまでいると言っていた。母こそ仕事で忙しい筈だが)
要点だけ言うと。私は母に「子宮も卵巣も取られたと聞いてショックを受けた」と言った。そしたら母がすかさず「自分が全部取れって言ったのよ?!」と言ったのだ。・・・つまり、術前に医師と、腫瘍が良性と悪性の境界上にある場合はどうするかについての話し合いがあって、そこで私は「子供を産む予定はないので、必要ならば全部摘出してもいい」と承諾を与えたのだ。
呆れた私は、「・・・あのね、そういう問題じゃなくて。摘出していいと言うことと、実際にされてショックを受けることは違うでしょ?」と言ったが、母は全く理解出来ない様子だった。
ちなみに怒って母を帰した後、父に電話した時、全く同じことを言われたので驚いた。父は私がショックを受けるのは理解できないと言い、「おまえが医者に全部取っていいと言ったのを聞いて、ショックを受けたのはこっちだ」と言ったのだ。・・・うちの両親は、私が子供の頃から子供は産まないと言い続けたのを無視して、ずっと「結婚しなくてもいいから孫を産め。とにかく産め。産めば財産をやるが、産まなければ1円もやらない」とまで言い、私を心底苛々させてきたのだ。
「・・・お父さんなんて大っ嫌い」と言って電話を切った。お子ちゃまだって? ええそうですとも。

今日現れた母に私は、「一昨日は申し訳なかった。親にたてついたからにはもう一切世話にはならない」と言った。しかし母はにこにこして、一昨日のことは気にしないで忘れようと言う。・・・思わずしみじみと、「あのさあ、お母さんは私に対して下手(したて)に出過ぎるよ。ひとごとみたいに言うけど、それはおかしくない?」と言ったら黙っていた。世の中に内弁慶というのは多いと思うが、母は全く逆で、対外的には先生と呼ばれ敬われているのに、家庭では完全に自分を一番下に置いている。
そして私は一昨日母を怒鳴りつけたことで(と言っても今の私の体調では、本当に「怒鳴る」のは不可能だけど)心底いやな気分になっている。昔から私は母に辛く当たるといつまでも―――それこそ何十年も心が痛むのだ。・・・ああ今回のも残るぞ。病室のカーテンの下に母の靴先が見え、それに次いで、雄雄しい決意をした少女のような笑顔で入ってきた母親の姿が、この先一生忘れられないんだ。

母は明日帰ることにしたと言う。元ダンナが今日来てくれると言ったら、それなら安心だと喜んでいた。母と喧嘩したと聞いた元ダンナが、有難いことに今日から来てくれるのだ。14時半に現れたので、母はしばらくしてから帰る。
元ダンナは面会時間の20時過ぎまでいて、私の荻窪の留守宅に泊まりに行く。
(2/7up)

will be haunted by the memory of her smile (母の笑顔が脳裏を去ってくれないだろう)



2008年12月28日(日)  Kappy

18時半に、SBバンドの3人がお見舞いに来る。今のところ、元ダンナ以外ではこの3人にしか連絡していない。
時間的に夕飯直後なので、昨日と同じ羽目にならないよう鎮痛剤のロキソニンを飲む時間も調整しておいたが。実際は3人がいる間、入院してから一番、というより奇跡的なほど体調が良かった。昨日までは声も殆ど出ていなかったが、今日はよく喋れる。まだ笑うと痛いので、あまり笑わないよう気をつける。
MY(b)が12/22のリハの音源を持ってきてくれたので、皆で聴く。まさにそのリハ中にハラが痛み出し、結局そのまま治らずに帰宅後救急車を呼んだわけだが。しかし思えば全員で一緒にリハ音源を聴くというのも初めてのこと。これはこれで何か楽しい。

全員で来てくれただけでもかなり嬉しいが。律儀なAM(g)はお見舞い金をくれた。マメなMYは事前に私に何が欲しいか訊き、「甘いもの」と答えたら、キャラメルとチョコ(私の大好きなキャドバリーのデイリーミルクも!)を買ってきてくれ、本やDVDやCD多数と、プレーヤーまで持ってきてくれた。
KP(drs)も何かあれば言ってくれとメールをくれたので、何も要らないと返事をしかけたのだが。ふと思いなおして「カピバラのヌイグルミが欲しい」とメールしたら、きれいな茶色の、体長50cmもあるやつを探してきてくれた。なんでカピバラかというと、先月上旬にMYがKPを「ゴマフアザラシのような瞳」と言ったので私が馬鹿ウケしていたところ、それを知った本人が会社の女の子に「俺、何かに似てる?」と訊いたら「カピバラ!」と即答されたと言うのだ。(なんか今流行ってるらしい) 以来KPは私に「カッピー」と呼ばれている。
と、いうことで。
日記をお読みの皆様。今後KPは「カッピー」と表記しますのでよろしく。3時間のリハに2時間40分遅刻するつぶらな瞳のドラマーは、「カッピー」です。
(2/3up)

Kappy (こう表記した場合はうちのヌイグルミのことです)



2008年12月27日(土)  You should see my scars

朝、初めて傷を見てみる。術後は複帯(ふくたい)を巻かれているが、一日に何度も看護婦に傷を見る為に開かれてはいる。その時一緒に見ないのは怖いからではなく、頭をもたげてハラを見るには腹筋を使うからだ。痛くて出来ない。もうひとつには、とにかくハラの中が痛くて辛くて、表面の傷どころではなかった。内部の痛みがひどくて、傷の痛みなど全く感じないし。
鏡の前に立ち、腹帯を外してみる。腰周りが久しぶりの外気にひやっとして、心もとない。
おへその2cm上から、下に切れるぎりぎりいっぱいまで、20cmあまりの傷。糸でなくホッチキスで留め、10ヶ所ほどテープを貼っている。おへそのところで左に迂回し、そこのところの皮膚が少し膨れ上がっている。
特にショックもない。まだ、見ているものがよくわからない。これからまた状態も変わるだろうし。
ガービッジの歌詞が頭をよぎる。今日のことを日記に書く時は、これをタイトルにしてやろうと考える。
これまで冬でもハラの出る服ばかり着ていたのに。これじゃ服が全部着られなくなるじゃないか。
パンクスの女で傷跡を勲章のようにさらしてる奴っていそうだな。いや、実際にいなかったっけ。何かでいきがりたいとしたら、でかい傷跡なんていうのはなかなか勝てるものがない。でかい刺青だって本来は似たような心理なんだし。
シャーリーに、ずっと自傷癖が取れないらしい彼女に、彼女の書いた歌詞を添えてこの傷の写真を送ったら、どう感じるだろう。

ようやく今日から、水を飲んでいいと言われる。「ブラックコーヒーもいいですよね?」と半ば無理やり確認。
点滴を引きずって、地下の自販機コーナーまで飲み物を買いに行く。実は既に手術の翌日、看護婦に少し歩かされ(看護婦曰く、卵巣腫瘍の手術をした同僚看護婦が「翌日歩かせるのは鬼だ」と言っていたとか)、その後もなるべく歩くようにと言われているのだ。中腰でしか歩けないので、痛いだけでなく非常にしんどいが。歩いた方がいいと言われてるんだということを頼りに歩く。
自販機コーナーに、手術前日に私に点滴を2度失敗した例のハンサムな医者がいて、飲物を買ってパンを食べていた。食事時間もないと見える。「先日は失礼いたしました」と頭を下げる。「色々と気が立ってましたので」と。医者は立ち上がり、恐縮して「いえいえこちらこそ」とさんざん謝り、私の体調を訊いたり、私の買った飲物を取ってくれようとしたりする。元々やさしそうなタイプではあるのだ。「最近注射が上手くいってたんで調子に乗ってたんです」と言う。・・・正直だなあ。

病室に戻り、半ば考え事をしたままでミネラルウォーターを口にした途端に、冷たい水がすとーんと胃に落ちてびっくり。何しろ4日半ぶりに胃にものを入れたのだ。思わず「・・・おお、悪い悪い」と自分の体に謝る。
その後コーヒーも飲むが、あまり入らない。

今日から食事と言われたので、昼に期待して待っていたら、結局夕方からだった。入院以来今朝まで全く食べたいという気も起きなかったのに、この昼から夕飯の時間までに相当おなかが減る。
ところがようやく来た流動食メニューが、糊のような十分粥、具のない味噌汁、ピーチジュースまではいいとして、チョコレートアイスクリームって・・・。粥と味噌汁の熱さの後に、アイスの冷たさを胃に入れたものだから、あっという間に腸がぎりぎりと痛み出す。母親の見ている前でいつまでもいつまでも激痛でうなり続け、とうとう母にしばらくコーヒーでも飲んでくるよう言う。

この日母に、私の傷を見てみるかと訊いたら、案の定「怖いからいい」と言われた。
そういうの、愛情があるっていうの?
(1/31up)

You should see my scars (私の傷を見てごらん)  *Bleed Like Me / Garbage (2005) の歌詞。



2008年12月26日(金)  no Christmas, no womb, no ovaries

元ダンナ(b)から昨日も今日も心配したメールが来ている。その日付を見て驚く。「いつの間に26日になったの」と返信。

入院してからまだ水一滴飲んでいない。なのに、ずっと点滴しているせいで一日に十数回もトイレに行く。少し溜まっても膀胱が痛むせいもある。
体を起こすだけで重労働だ。リモコンでベッドを起こし、横を向いてから先に足を下ろし、腕の力で何とか上体を引き上げる。・・・どうやったって結局は激痛に見舞われるんだけど。中腰で、個室内のトイレまでの長い旅をする。座ることが既に痛い。排泄自体が痛い。

昨日、最初にトイレに行った時に出血があったので、てっきり生理が来たものだと思い込んだ。私は術後、何がどうなったのか、全く聞かされていなかったのだ。
それで母に生理用品を買ってきてくれるよう頼んだ。そしたら母が、病室に来ていた医者に、「全部取ったのに、生理があるんですか?」と訊いたのだ。
・・・ああ、そうなんだ。私、子宮も卵巣も取られたのか。
そしてそれをこんな風に知らされるのか。

子供の頃から子供を産む気がなかった。でも、いくら片づけ魔の捨て魔だからって、要らない臓器まで捨てることはないだろう、などと考える。
子宮はまだいい。だが、卵巣がないと女性ホルモンがつくれないんだということに気づいたのは少したってからだ。卵巣腫瘍がわかってから入院まで5日もなかったので、何も前もって考える時間がなかった。
(1/28up)

no Christmas, no womb, no ovaries (クリスマスもなければ、子宮も卵巣もない)



2008年12月24日(水)  went into surgery

10時過ぎに、いきなり今日手術することになったと言われる。慌てて生徒全員に年内の授業が出来なくなった旨のメールを送るが、一人だけ携帯に連絡先が入っていない。しかし幸い彼女だけはこの日記を読んでいるので、携帯から日記に「本日緊急手術することになりました。生徒のXさん、携帯に連絡下さい」と書き込む。
着圧ストッキングをはかされ、爪を切らされ、待っていたら、12時前に「時間が空いたので12時から手術します」と言われる。

搬送用ベッドに寝かされ、両親に付き添われて、隣の病棟まで随分と長い移動。エレベーターの振動が体に響いて痛い。もうすぐ手術室という時に、ふと思い出して母に「あのね、ネットで買物した荷物が二つ届いてた筈なの。不在票が入ってる筈だから、うちに行った時に再配達依頼しといてもらえる?」と頼む。
万一私が手術中に死んだりしたらこれが遺言になるのか、などと考える。
ああ、不思議なほど怖くないな。

手術室に入る。さすがに緊張する。左右からわらわらとスタッフが寄ってきて、いちいち自己紹介する。ああ、どうも。お名前覚えてられませんけど。
手術台に寝かされ、髪の毛をまとめられ、麻酔。



夢は、目覚める直前につくられることがあるという。例えば登山の夢を見ていて崖から落ち、実際にベッドから落ちて目覚めるのは、ベッドから落ちかけた瞬間に登山の夢を全部つくるんだと。
私はPCの前でメールチェックをしていた。次々にメールを開いていたら、そのうちのひとつのメールが、私に声を出して呼びかけてきた。私の本名を呼んだ。何だこれ、と驚いていたら、もっとはっきりと大きな緊迫した声で名前を呼ばれた。そこで思い出した。やばい、私手術してたんだ。実際に名前を呼ばれてるんだ。終わったんだ。まだ目覚めなきゃよかった。まだ心の準備が出来てないのに。まだ。


痛い。

なんだこれ。痛い。おなかの中が痛い。痛い痛い痛い。嘘でしょ。こんな。
激震、と言いたいような痛み。目を真ん丸にあいて、顔をしかめることすら出来ない。何かをこらえる時に力を入れる筈のハラが、まさにそこが爆発するように痛いので、痛みにまったく抵抗出来ず、体の中心をつらぬく痛みに蹂躙されるままになる。
両方から数人のスタッフに抱えられて、隣の搬送用ベッドに戻される。痛い痛い痛い痛い。ガラガラと搬送されながら、あまりの痛みに驚く。驚きのあまり、何かを確かめたくなってハラに思い切り力を込めてみる。当然激痛がくるかと思ったら、全く何も感じない。痛みが既にマックスに達してるんだ。

病室へ。今度は個室だ。痛くて周りがよく見えない。
下腹部に間違いなくブロックが一個乗っている。はっきりと長辺の角が食い込んでいる。
天使のように可愛い声の看護婦さんが来て、大丈夫ですか?と訊く。「痛いですか? 痛いですね」と切なそうに言う。痛くて声が出ない。

痛くて時間の経過が判らない。いつの間にか夜になっているらしく眠れといわれる。何かの薬のせいなのかどろどろとした眠気もあり、それがずっと痛みと競い合っている。しょっちゅう看護婦さんがやって来て、天使のような声で「横を向きましょうね」と体の向きを変えさせる。そのたびにひどい激痛が走る。が、どっちにしろ痛いので同じだ。

痛い。呆れるほど痛い。悲しいほど痛い。痛い。
(1/27up)

went into surgery (手術)



2008年12月23日(火)  went into hospital

救急車っていうのは、苦しんでいる人間を楽に運んでくれるものかと思ったら。薄くて硬くてガタガタのベッドに座らされる。急いでいて運転が荒いので、振動が体にがんがん響く。見れば横に作り付けの快適そうな座席が。「そこに座ってもいいですか?」と訊いたら、そこは救急隊員の座るところだから駄目だという。ああそう。
杏林大学病院へ。医者が来るまでしばらく一人きりで待たされる。ぎりぎりと痛い。妙に喉が渇く。痛みが何故か左から右へ移ってきている。
ようやく、若い当直医がやってくる。PCの方を向いたままで私に挨拶をし、何をしていて痛み出したのかと訊く。「バンドのリハで歌ってたんです」と言うと、全く興味なさそうに「なるほど」と言い、PCに書き込んでいる。
その医者が内診をする。痛い。そのまま待たされて更に別の医者が内診。痛い。痛みが胸まで上がってきている。内診が終わったら、高く上げてある診察台を下げる筈が、そのまま「はい、降りてください」と言われる。抗議しようにも喋るのも辛く、そのまま飛び降りる。下から激痛が走る。
またしばらく一人きりで待たされる。看護婦がぞんざいにそこらにかけた私のコートが床に落ちるが、かがんで拾うなんて出来ない。痛くて痛くて涙が出てくる。
ようやくわらわらと人が集まってきて、ベッドに寝かされて心電図など取られる。足を伸ばして横になるよう言われるが、痛くて出来ません。血を採られ、点滴を打たれ、どうこうされているうちに痛みがすうっとおさまってきた。助かったという思いで、ほのぼのと幸せにすらなる。ハラの中にまだ痛みはあるが、先ほどまでの人前で泣くほどの激痛に比べたら。

親に連絡を取るよう言われる。今日にでももし手術となった時に、万一私が死んだら困るので、ということだ。7時前に母に電話。
病室に移される。二人部屋。病室内は携帯電話の使用は禁止だが、こそこそと今日授業の生徒にメールし、授業が出来なくなった旨を伝える。明日の生徒にはどうなるかわからないとメール。
実は痛みが治まったのを見た医者が、「・・・だったら一旦帰ってもらっても」と言い出したのだ。腫瘍は捩れやすいので、捩れて痛んでいたのが、元に戻ったのかもしれないと。
何もせず様子を見ている理由は、今日が祝日で担当医がいないということもあるらしい。ああそう。

疲れた。休みたいが、横になっていると看護婦がひっきりなしにやってきては色々したりさせられたりする。この書類に署名しろだの、体温を測れだの。
血圧を測りに来た看護婦が、測定器を私の腹の上にぽんと置いたのには呆れた。

今日は水一滴口に出来ないと言われる。食べられないのはなんとも思わないが、飲み物も駄目なのか。さっき異常に喉が乾いていた時に、水をもらっておけばよかった。

15時頃に両親が到着。
右腕の点滴の針がずっと痛いので、看護婦に言う。若くてハンサムな医者がやってきて、左腕に刺し換えようとするが。ぐいぐいと刺した挙句、失敗したらしくパッチを貼り、無言で右腕をぐいぐいぐいと痛めつけてまた失敗、更に無言でパッチを貼る。更に黙ってもう一度やろうとしているのを見て、「もういいです」と言う。
ここに至ってとうとうちょっとキレたのだ。今回のことがあって以来、二つの病院でずっと、人間らしい扱いを受けられないことが続いてきた。手遅れかどうかはわからないけど予約がいっぱいだから待てと言われることが二度、腫瘍が見つかったら無神経に「こりゃハラキリだよ」と言われ、痛くて泣いているのに見向きもせずに問診され、診察台から飛び降りさせられ、患部に機器を投げ置かれ、その他にも色々あって・・・もうやだ。
「点滴いりません。っていうか帰ります」と言う。本気で言っているのが私のアホなところだが。しかし本当に帰りたい。ハンサムな医者はうろたえ、細い針に変えるからもう一回だけやらせてくれと言う。私の血管は普通より細いのだ。そんなこと知ってるわよ。だけどぐいぐいと痛めつけた挙句無言で何度もやり直すのがアタマきたんだよ。こっちゃ今普通の精神状態じゃないんだから。
半泣きで「わかりました」ともう一度やらせる。今度はすいっと成功した。

夕方になって初めて、今日はとにかく一泊させられるんだとわかる。慌てて明日の生徒にも授業が出来ない旨メール。
21時消灯。何しろまる二日寝ていないので、23時頃には寝てしまう。
(1/25up)

went into hospital (入院)



2008年12月22日(月)  At five o'clock, siren's getting louder

AM(g)の授業後、荻窪リンキーディンクで19〜22時、SBバンドのリハ。
本日の服装はマウジーのモスグリーンの極薄長袖トップスの上にBA-TSUの極薄半袖を重ね、24インチのマウジーのマイクロショートパンツ、迷彩柄のタイツ、ゴスロリブーツ。痛む腹を押さえつけたうえに、腹が出て冷えるという格好だ。
5分遅れでスタジオ入りしてみたら、MY(b)が誰かと話している。スタジオのスタッフ?と思ったら、なんとKP(drs)がもう到着して!!! ・・・心の底から驚きました。
歌う。後半、ホールの'Violet'のハイトーンが、次いでキルズの'Superstition'の16小節に及ぶシャウトが、ハラに鈍く響きだす。何となく血の気が引く。

リハ後、MYとKPと駅前の居酒屋へ移動。MYにお見舞いでワインを1本頂く。
あっという間に痛みがひどくなる。今寒い中を歩いて帰るのも辛いので、しばらく我慢して半ば無意識に喋ったりしていたが、おさまるどころか気絶しそうになってきたので、徒歩8分の距離をタクシーで23時過ぎ帰宅。すぐにロキソニンを飲む。効くまでの一時間、服も着たまま全く動けずに固まる。救急車を呼ぼうかとも思うが、とにかく動けない。

ようやく薬が効いたので、今日MYからもらった20日のゲリラ演奏のDVDを見る。痛いので集中出来ない。が、何故か「今のうちに見ておこう」という気分。
3時前に早くも薬の効き目が切れ、痛みが戻ってくる。胸が苦しくなり、動悸と吐気まで。MYから来たメールの返信に、「駄目だ。救急車呼びます」と打ったのが3時半。
しかし思いなおして我慢し、4時にアスピリンを飲む。が、全く効かない。

4時55分に119に電話。激痛をこらえつつ、元々ものすごくかたづいている部屋を完璧にかたづけ、今使っていたコーヒーカップを洗う。この日記に「救急車呼びました。万一戻れなかった時の為に書いておきます」とだけ書き、普段なら外出時でも24時間ネットにつなぎっぱなしのPCの電源を切る。
(1/19up)

At five o'clock, siren's getting louder (5時に、救急車のサイレンが近づいてくる)  *Sour Grapes / Honeydogs (2001) の歌詞。



2008年12月21日(日)  I am growing something, but I don't really know what it is

ネット検索で初めて知ったが、正常な卵巣は大きくてもウズラの卵大らしい。それが13cmにまで膨れ上がってるんだ。
そう、13センチ。12日から20日までの間に1センチ大きくなっていた。1月末まで放っておいたら、どれだけ大きくなるんだか。
何より。毎日痛いのに、あと一ヶ月以上も我慢しろってのか。
最初にかかった近所の総合病院からは、鎮痛薬のロキソニンが山ほど出ているが。痛むたびにとにかく痛み止めを飲んでろってのはおかしくないか?

ああ、早く手術してしまいたい。
(1/18up)

I am growing something, but I don't really know what it is (ハラの中で何かが大きくなっている。何なのかはっきりとは知らないけど)  *I Think I'm Pregnant / Soko (2007) の歌詞。



2008年12月20日(土)  Forgotten and absorbed into the earth below

9時半に杏林大学病院で診察の予約。
荻窪駅に向って歩きながら、ささくれだった気分を鎮めるべく、iPodでスマッシング・パンプキンズの'1979'を聴こうとしたら。'Mellon Collie'のアルバムが入っていない。そんな馬鹿な。探しまくるが、ない。聴きたい。今聴きたい。強烈にストレスがつのる。くそ。'1979'の入っていないiPodなんか何の価値があるんだ。
アンプラグト―――あれにも入っていた筈だ。ところが見つからない。かなり焦っていて、3回見直してようやく見つける。
聴く。スタジオ盤と違い、いきなり入るアコギのスチール弦の音にほっとした瞬間、ジミー・チェンバレンのドラムの音が垂直に落ちてきた。うわ、スネアの裏の鳴りがすごい。がっしりと振り下ろしてざらりと鳴る。
自分の鼓動を聞くように、ドラムしか聞こえなくなる。なんて、ひたむきで清潔な音だろう。他の全ての音楽の厭らしさ―――ロックンロールの下心、ブルースの自己陶酔、ソウルの押し付けがましさ、ジャズの気取り、ロックの中の性も愛も全部汚らしいと糾弾するかのように真っ直ぐに叩き下ろす。冷えた体が、一打ちごとに血管を揺さぶられる。
繰り返し聴きながら電車に乗り、ドア際に立って外を見ていたら、不思議な気分になってきた。
実は私は、おととい卵巣腫瘍で開腹手術だと言われた時からずっと、もし死ぬことになっても怖くないなと思っていた。別に死んでもいいや、と。物心つかない子供の頃から死ぬのを怖がって泣いていた私が、いつどうしてそんな心境に変わっていたのか。だが私は、人間が死の恐怖に打克つことは、生きている間の一番の課題だと思っていたから、この気分になれるのなら何よりだ。
だが。電車に乗って外の明るい景色を眺めながら、もしこのまま死ぬんだとしたらと想像した時、かなりの幸福感が湧き上がってきたのだ。はっきりとした嬉しさがあって、涙ぐみそうになった。
―――なんでだ? 別に私は現在の自分に絶望なんかしていないし、それどころか今も私は、自分がおそろしく幸運で幸福だと思っている。「死にたい」とは思わない。思う理由がない。なのに今、死を想像してみて、これほどの嬉しさを感じるのは何故なんだ?
たぶん。ジミーのドラムのせいなんだろう。人は、あんまりにも真っ直ぐなものを目の当たりにしてしまうと、死にたくなったりするんだろう。たぶん。うん。

検査を待つ間も下腹部が痛い。最近はもう毎日痛い。子宮癌検診を受ける。またもあの不快な診察。体が縮こまり息がつまり、医者に質問されてもすぐに声が出ない。機械を入れられたまま、横のスクリーンに映った私の体内を見せられるが、見たくありませんから勝手に判断して下さい。
診察した医者は、「こりゃ手術だね。ハラキリだよ。悪性かどうかはあけてみないとわからないね」と言う。病室予約がいっぱいなので、手術できるのは一番高い個室を選んでも早くて1/25頃。一番安い4人部屋を希望したひにゃ2月末から3月頃になるという。それで手遅れでないのかどうかは、「あけてみないとわからない」のだ。*実は「充実性腫瘍」の8割が悪性であることを、退院後に知った。
採血して、12時前に終了。帰りに吉祥寺駅に向うバスの中で、すでに先ほどの死に対する幸福感がなくなっているのに気づく。

17時にAM(g)と新宿駅で会って押上へ。まずは居酒屋で飲み、18時半にロックバーRock Bottomへ行って、MY(b)のバンドとKP(drs)のバンドのライヴを観る。
最後にうちのバンドがいきなりゲリラ演奏。私はビーフィーターのジン・ロックをがんがん飲んでいてへろへろで、バンドが弾き出すまで何の曲をやるかもわかっていない始末。だが楽しかった。
ひとつ非常に納得がいかないのは、遅刻魔KPが本日一番乗りで来ていたらしいことだ。「どういうことなんですか(怒)」と詰め寄ったが。
実はそんな私は今日、私が遅刻するかどうかに今日のライヴ・チャージを賭けようとAMに言われ、待合せ10分前に到着したのであった。(自分でも驚いた)

今日も早めに、23時帰宅。
(1/16up)

Forgotten and absorbed into the earth below (忘れられ、土に返り)  *1979 / Smashing Pumpkins (1995) の歌詞。



2008年12月18日(木)  ovarian tumor

10時に近所の総合病院へ。先週のCTの結果を聞く。左卵巣に腫瘍。CT写真を見ると、腹いっぱいいっぱいを占めているものが腫瘍だ。縦横に+で線を入れて示しているように116mm×92mmの大きさ。体を真下から見た図だが、腫瘍のせいで腹部が大きく膨れているのがわかる。ここ最近何故か食べなくても腹が出るのでどうしてだろうと思っていたのだが、これだけでかいものを抱えていたのでは当り前だ。
11/14のSBバンドのリハにシマロンのぴたぴたの革パンをはいていった時、ウェストが異常にきつかった。もともとかなりタイトなパンツではあったが、夏頃にはパンツのサイズは24インチだったからラクに入っていたのに、いつの間にここまで太ったんだろうと思いながら無理やりボタンを留めていた。思えばあの時私は、膨れ上がった腫瘍をぎゅうぎゅうに押さえつけていたのかと思うとぞっとする。
向かって左上に写っている白いものが子宮で、本来真ん中にある筈が、巨大な腫瘍にここまで押しやられている。

早速婦人科に回されるが。この病院では開腹手術が出来ないので、大学病院に紹介状を書く為だけの診察だと聞き、「どうせ大学病院でイチから検査するんだから、ここでの診察をしても二度手間になるだけなら、省いてもいいんじゃないですか?」と抵抗してみる。婦人科の内診は心底嫌いなのだ。言われた看護婦は「二度手間」を認めつつも、「ここで内診をしておかないと病院間のトラブルが起きる可能性があるので・・・」と言う。
あんた達の事務処理の為に我慢しろっていうのね。

待合室でぼうっと考える。婦人科・・・'gynecology'、子宮・・・'womb'、腫瘍・・・'tumor'、卵巣・・・卵巣? 卵巣って英語でなんて言うんだ?? やべえ私「卵巣」も知らないのかと思いつつ、すぐに携帯の和英で引く。'ovary'だって。初めて見たわこんな単語。覚えとかなきゃ。

エコー検査。ああどうして婦人科の検査ってこんなにこんなに不快なんだろう。膝が、言われてもどうしても開かない。空中で完全に無防備無抵抗な姿勢をとらされ、何かを耐える力の入れどころがなく、力を入れたい筈の腹に下から器具が入ってくる。ただでさえ痛いのに。
「充実性腫瘍」だと言われる。硬いものがぎっしり詰まっているんだそうだ。どうりで体重も増えてたのか。

そういえば。私のベスト女性シンガーであるローラ・ニーロは、卵巣癌で40代で死んでいる。
「ローラとおそろい」と、しょうもないことを考えてみる。

授業後21時に新宿Crawdaddy Clubでけいとさん(drs)に会う。BLACK AND BLUEのマスターが亡くなった時から、ずっと私にクリスマスカードを送り続けて下さっている方で、これまでメールでのやり取りはあったものの、広島にお住まいなのでお目にかかるのは初めて。
10年前に癌の告知をされ、それ以来好きなことをして生きていると言うけいとさん。そのおかげか再発の気配はなさそうだ。こんな日にこの人に会えて良かった。
お顔は画像で既に知っていたこともあるが、もう全然初対面という気がせず、普通にすいっと馴染んでお話しする。私より細くて私より年上で私より若く見える。お酒も今日は(チンザノにしたせいか)くいくい進む。途中、けいとさんのネット友だち(b、♂)も現れるが、この方もけいとさんもマニアックなまでのロック通(今はバリ島のプログレを聴いているとか)で、楽しいやらついていけないやら。
けいとさんがどうしてもこの機会に私の歌を聴きたいと言ってくれて、今夜ライヴをしたギタリストの方に声をかけたところ快諾して下さったので、その方の持っていた楽譜から1曲やる。といってもこの男性、さっきのライヴ内容からしても不思議なくらい私と趣味がかぶる。キンクスも'Victoria'をやっていたので、ではと'Sunny Afternoon'を歌わせていただく。気分いいなあ。
けいとさんのお友だちがいつの間にか全部おごって先に消えていた。おお、かたじけないです。

0時過ぎにけいとさんと新宿駅で抱擁して別れる。(尾道ラーメンを頂いた)
これから渋谷のロックバーに移動するというけいとさん。普段なら絶対に朝までつき合うところだが。さすがに今は大事を取る。
(1/16up)

ovarian tumor (卵巣腫瘍)



2008年12月14日(日)

フレドリック・ブラウン著"Deep End"読了。ブラウンは全部読んだつもりでいたが、これ1冊を読み逃していた。(2006年に米古書店に注文したが在庫切れ) なので先日アメリカの古本屋から購入。日本語訳はない。
1952年という初期の作で、私の名前の元となった"Screaming Mimi"(1949)や"Here Comes A Candle"(1950)という衝撃的な作品からわずか2、3年後であるが。
ブラウン唯一の駄作だと思う。
筋の運びが雑だ。主人公が「事故」に疑いを抱く理由はいい。だがその単なる不審が確信に至るプロセスが無理やり過ぎる。説得力を欠くというレベルではなく、単純に主人公がパラノイアに思える。実際、己の妄想を確認したいという理由だけで家宅侵入までしてのける彼は、立派なパラノイアと言っていい。
伏線のラヴストーリーが、伏線にすらなっていない。見栄えを水増しする添え物だ。彼が妻の留守中に恋に落ちる女性の存在は、結果的には不必要どころか雑音だ。また彼の彼女に対する愛し方は見ていて不快である。
最後にいきなり恋が終わり、いきなり事件の真相が明るみに出るのは、まるで連載小説が突然打ち切りを告げられて「巻きに入った」かのようだ。
私は実はこれをずっと、異常心理を味わう小説かとすら思っていたのだ。そうでないとなれば、この主人公は単に自己を客観視出来ないクズでしかない。
最初から繰り返し現れる暗示的な蝿の記述も、取ってつけたようで陳腐だ。事件の真相がわかっても、最も大切である筈の心理的背景は一切わからず(主人公の妄想が正しかったと推測するしかない)、カタルシスがないどころか不満がつのる。

しかしそれでも、この文章のトーン。フレドリック・ブラウンだとすぐにわかる、知的でいながらもチープで、残酷である場合にすら子供っぽいセンチメンタルさを失わない、少し夢見がちな文章は、一冊を後悔させないだけの力はある。
(12/14up)



2008年12月13日(土)  Shine A Light

15時半に新宿でyer-bluesさん(g)と会う。
体調が悪いので、一時はキャンセルも考えた。実は夕べは結局吐いちゃってるし。ハラもまだ痛い。
それで集中力が低下したのか、出がけに財布を忘れてしまう。そういう時の為に名刺入れに千円入れてあるので、電車には乗れた。yer-bluesさんに「財布忘れた」と言ったら、「いつものことじゃんかよ」と言われる。いや、いつもは持っていながら払って頂いてるんですけど。今日は本当にないんです。スミマセン。(何に対してのスミマセンだ?)

ローリング・ストーンズの映画'Shine A Light'を観る。マーティン・スコセッシがセットリストをなかなかもらえず苛々して、ようやく届いた瞬間に演奏が始まるというオープニングは絶対に話を作っていると思うが。つくりものとわかっていても痺れるな。
で、思い出す。スコセッシが32年前(32年前!!)につくった映画'Last Waltz'で、クラプトンのストラップが物凄くいいタイミングで外れて、その瞬間すかさずロビー・ロバートソンが代わって弾き出すあのシーン。アレがハプニングだと信じている人が多いようだが、私はずっと「偶然にしちゃ出来過ぎだ。二人で仕込んだに決まってる」と言っていた。が、考えてみればアレも要するにスコセッシの演出だという単純な事実に気づく。私も騙されてたのか。

映画自体の出来は、'Last Waltz'ほどではないと思うが。しかしあれはザ・バンドの解散にあたって一流アーティストが勢揃いしたという大イベントで、ドラマの盛り上げ方も楽だろう。
比べて今回は要するにただのライヴだ。途中に挟まるインタビューも陳腐なものが多く、こう訊いたらこう答えるに決まってるだろうと読める。
今回この映画をつくったのは、スコセッシというよりストーンズだと思う。正確に言えば、ミック・ジャガーだ。
いやもう。始まった瞬間から最後まで、ミック・ジャガーに圧倒された。以前にも書いたが、ミック・ジャガーである人生は余りに凄過ぎて、憧れることすら出来ない。ステージでの一瞬も気を抜かない集中力、気力と存在感は、ロック界どころか音楽界にもこれを凌ぐ人物はいないんじゃないかとすら思う。
実は私はミックの声と発声法がどちらかというと好きではない。しかし私の好みなどは問題でないほど、ミック・ジャガーというシンガーは素晴らしい。45年間(45年間!!)維持している体型と体力、45年前より際立っている個性と歌唱力。
チャーリー・ワッツはいつもと変わらぬタイトなドラムを叩き、キース・リチャーズロン・ウッド――世界で一番幸せなギタリスト達は、今回も全く幸せそうに弾いている。'Jumpin' Jack Flash'をステージで何千回弾いたのか知らないが、今でも尚これだけの意欲と満足感を届けられるとは。

声でも体型でも完全に負けて浮いていたジャック・ホワイト、鼠花火みたいな存在感で堂々と対抗していたクリスティーナ・アギレラ、俺の方が上手いだろうと言わんばかりの迫力のバディ・ガイも、全部邪魔だったな。ストーンズには、箸休めなんぞは要らない。

ローリング・ストーンズというバンドをどう捉えるかというのは、私にとって、その曲を初めて聴いた10歳未満の頃からずっと未解決の課題だ。今でも、ストーンズを好きかと訊かれて、安直にイエスと即答したくない。おそらく私にとってストーンズは、一人の男なんだ。その男に屈してしまうことに抵抗している。
ただ、'Shine A Light'を観ていてもしみじみ確認したが、ロックという言葉はもうストーンズにくれてやってもいいんじゃないかと思う。何が上等かではなくて、これが、これこそがロックだろう。
終盤で'Brown Sugar'が始まった時は、思わず声を上げて、椅子に座ったまま半分踊っていた。私にとって「愉悦」と同義であるこの曲に関しては、とっくに完全に屈服しちゃってるな。

今日は食べるのは無理かと思っていたが。映画を観たら少し気分が良くなったので、yer-bluesさんお薦めの焼き鳥屋へ。(ただし飲み物はホット・ウーロン茶)
もう一軒のお誘いを辞退して、21時半帰宅。
(1/14up)

Shine A Light  *Rolling Stones の曲。(1972)



2008年12月12日(金)  local ecstatic

朝10時に、人生初のCTスキャン。ベッドに寝かされてから造影剤なるものを注射される。「体が急に熱くなりますけど、びっくりしないでくださいね〜」と言われたが。
確かにいきなりぼっと熱くなった。が、体全体かと思っていたら、二ヶ所が局部集中的に熱くなった。喉元もだが、殆どが、えとその、いわゆる「局部」で。
えええええ何コレというくらい、じわーーーーっと熱くなる。
「気持ち悪くないですか〜?」と訊かれたが。「・・・いやどっちかっていうと気持ちいいです」というボケをかましたくなったよ。

16時に近所の美容院で前髪をカット。アイロンでカールもしてもらう。今日の格好は期せずして古着のコーディネート。ヤフオク落札品の黒のセーター、同じくピンクのヒスグラのミニスカ、古着屋で購入した赤のスエードのコート。
この赤のコートはしょうもない思い出がある。KR(g)に大阪に連れて行ってもらった時に買ったのだが、キスされた勢いでボタンが一個取れた。その時はKRに文句をたれたが、ふと思いなおして残りのボタンも全部取った。大きめの金ボタンがなくなったら、多少フォーマルだった印象がすっきりと可愛らしくなった。以来そのままなのでこのコートは前が留められない。防寒着としての役割を果たさないわけだが、コートは前を開けたほうがかっこいいので、そのままにしている。

16時40分にスタジオへ。AM(g)が16時から入っているのだ。二人で18時まで、色々合せる。
地下鉄で四谷三丁目へ。時間までコーヒー飲んでから、AMが予約しておいてくれたレストランで、フレンチのコースをご馳走になる。CT検査の為に昨日から飲み食い出来なかったので、28時間ぶりに固形物を口にするが。元々の体調不良と造影剤の影響が思ったより大きく、食事も残してしまい、しまいにはかなり気持ち悪くなってぐらぐらする。
新宿でお茶して23時半帰宅。
(1/10up)

local ecstatic (局部的快感の) *'local anesthetic(局部麻酔)のもじり



2008年12月11日(木)  I feel something here.

午前11時に近所の総合病院へ。
9日夜から腹痛が始まり、10日夜に痛みが強まってそのまま12時間痛み続けていたのだ。
だがこの痛みは珍しくもない。私が最初に婦人科にかかったのは13歳。この「救急車を呼びたいほどの」下腹部痛に時々悩まされるようになったのは19歳頃だ。しかし、一晩中うなって翌朝婦人科に駆込んでも、「どっこも悪くありませーん」と言われるばかり。
今回は9月頃から時々痛むようになり、授業を休もうかと思ったことも何度かあったが、我慢しては切り抜けてきた。だから、今度の痛みもそのまま我慢したところかもしれない。だが。
昨夜、左下腹部に突起を発見したのだ。立ったり座ったりしていると判らないが、寝た姿勢で触ると、明らかに盛り上がっている。「・・・ここに何かある」という感覚はかなりぞっとするものがあり、今朝一番で病院に電話し、予約を取った。

ただ、今回は腸の気配もある。*卵巣腫瘍のせいで腸にガスが溜まっていたんだと退院後に知った。 なので、まずは内科を受診した。婦人科には何度診せても「異常なし」と言われ続けてきたこともあるし。
触診した医者は、突起の大きさに驚いた気配。裏で看護婦に、「すぐ大腸検査の予約を」と言っているが、しかし看護婦が「でも年内は予約がいっぱいでーす」と返答。「いや、でもこれは急いだ方が」と緊迫した声で言う若い医者に、「でもいっぱいなんですよー」と答える婦長らしき年配看護婦。・・・全部聞こえてますけど。
結局戻ってきた医者は、「・・・大腸検査は1/5で」と言う。後で予約を取りながら看護婦に、「1/5じゃ遅いってことはないんですか?」と訊いたら、「・・・・・う〜ん、予約がいっぱいなんですよねえ」とのこと。あ、そう。

とりあえず明日、CTスキャンで検査となる。

I feel something here. (ここに何かある)



2008年12月07日(日)  Hey babe, take a walk on the wild side

なんとなくオフスプリングの'Pretty Fly (For A White Guy)'のPVをYouTubeで出してみる。この曲は好きなのだが、歌詞を殆ど把握していない。タイトルも意味が解らず、'fly'は蝶の意味もあるから「綺麗な蝶=可愛い子ちゃん」くらいの意味にでもなるのかなとテキトーに考えていたが。
ちゃんと聴いてみたら、"All the girlies say I'm pretty fly."と言っている。
"I'm pretty fly."だって?
'pretty fly'の前に、不定冠詞の'a'がついていないじゃないか。てことはこの'pretty'は形容詞じゃなく副詞、'fly'は名詞じゃなく形容詞だ。
'pretty'が副詞で「かなり」の意味があるのは中学生の頃から知っているし、よく使ってもいる。だが、'fly'が形容詞? 名詞と動詞しかない筈じゃないの? すかさず辞書を引く。コリンズとケンブリッジにはない。ウェブスターのはよくわからない。オックスフォードでようやく、米俗語で'fashionable'の意味があることを知る。更にネット検索し、俗語で'cool'と同義だとわかる。
てことは。あの台詞の後に女の子の声で"For a white guy."と入るのは、「白人にしちゃあね」ってことか。
ではこれ、白人男性を馬鹿にしている内容だということになる。歌詞を全部見て、ついでにWikipediaまで参照。結局、主体性がなくファッションとしてヒップホップ系の音楽を聴く白人男性を嘲る歌だと知る。では多分'fly'というのも黒人の俗語かもしれない。

しかし。Wikipediaでオフスプリングのジャンルがパンクとなっているのに驚いた。正直'Pretty Fly'以外の曲をたいして聴いていないし、あまり考えずにメタル寄りくらいに思っていたのだ。ビジュアルも知らなかったが、見てみたら確かにボーカルは正統パンクス風。'Pretty Fly'も言われれば、例えば"You can always go on Ricki Lake."の節回しはパンクっぽいが。うーん、このギターがパンクねえ。
てことはハードコア寄りってことになるのか?と思いつつ更に見れば、ジャンルに'Skate Punk'とも書いてある。調べたら、「スケートボーダー達の聴くハードコア」だと。
・・・何だそれ。
「パンク」と「スポーツ」の融合だなんて。「退廃」に「健康」をぶち込むようなもんじゃないか。
こんなジャンルをつくった奴を、ジョニー・サンダース様の霊に説教して頂きたいわ。最近のロッカーは真面目さが足らないんだよ。たまにはきちんと人生踏み外して死にやがれ。
(1/6up)

Hey babe, take a walk on the wild side (ワイルドな方を行けよ)  *Walk On The Wild Side / Lou Reed (1972) の歌詞。



2008年12月05日(金)  It's black in here

朝、横浜UP'n DOWNのマスターが急逝されたとの報せ。数回しかお会いしていないが、新宿での私のライヴを観て、「うちに出てくれ」と声をかけて下さった方だ。おかげで横浜で、今までで一番心に残るライヴが出来た。だから今でもその音源をサイトにアップしている。歌いだしに一瞬マスターの声も入っている。
きっかけになった「新宿のライヴ」は、BLACK AND BLUEのマスターの追悼ライヴだ。切ない。

自宅でAM(g)の授業後、荻窪リンキーで19〜22時SBバンドのリハ。AMが車に置いてあるギターを取りに行っている間に先にスタジオ入りしたので、初の一番乗り。部屋が真っ暗だったのでスタッフにそう言ったら、電気をつけるよう言われる。
・・・私、ここのスタジオを2003年から使っているのに、自分で電気をつけるんだなんて初めて知ったわ。そうか、スタジオって、到着したら電気がついていて、マイクスタンドがセットしてあるものじゃないのね?(だって今までずっとそうだったからw)

ちなみにKP(drs)は順調に40分遅れ。

リハ後、リズム隊と3時まで飲む。

It's black in here (ここ真っ暗ですけど)  *Northern Star / Hole (1998) の歌詞。



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