ふつうのおんな

2006年05月24日(水) POWER YOGA体験

個人的なことでは色々とあり、ここにかけるほどまだ解決していないのでそれは今度書くとして。

一ヶ月前に予約を取った銀座のとあるPOWER YOGAのスクールに体験入学してきました。
ヨガはまったくの初心者なので入門クラス。
初めて1年経っている人はこのクラスにはいないだろうから まー全然できなくても気後れしないかなと。
有楽町からてくてくと地図を見ながら歩いていくと かなり解りやすいところにスタジオが。
意を決して入っていくと 既に着替えを終えた人たちがわらわらと談笑して始まるのを待ってる。

うわー はいりにく。
でももう来ちゃったんだし、と靴を脱いで受付に行くとどうも話が通じない。
???
・・・・あ!スクール間違えた!!!

そこは「ここもいってみようっと」とチェックしていた別のスタジオだった。
あわててスタジオを出る。
受付の人はとても親切でいい感じだったのだが うーん 生徒さんの雰囲気がなあ。

と思いながらいく予定のほうのスタジオに電話をして道を尋ねると そこから徒歩10分かからないところだったので途中走りながら電話で誘導してもらう。
おお なんかすごく親切だぞ。
ようやくスタジオに着くとその日最後のクラスだったので人も少なく、同じく体験レッスンを受ける二人組がいた。
さらにちょっと安心する。

ここでスタジオの名前を挙げてしまうと 検索で引っかかって「あ、こいつね」とブログと本人が一致してしまう気恥ずかしさがあるので割愛。

ただ、ホットヨガでもピラティスでもなくパワーヨガを選んだのは それなりの理由があってのことです。

体験の感想としては「もっと腹筋背筋鍛えないとつらい」ですね。
ジムもサボりがちになっているので(とても行く気になれていなかった)トレーナーさんが心配して電話をくれました。
トレーナーさんのいない曜日にこっそり行って少し体力回復してからまたトレーニングを受けるつもりです。
って本末転倒?

最近体を動かす時間を作るように意識してます。
体を動かしているときって 割と無心になれるんですよ。

毎日生きていると気が重くなることが多いから「はい 次は足をあげてー」とか言われて「うひー」って足をぷるぷるさせないことだけに集中する時間があるのはとてもいいことだと思ってます。

受付の方とレッスン中の雰囲気がとても気に入ったので会員になっちゃいました。
まずは12週間 がんばります。

chick me

2006年05月11日(木) 母からの伝言?

友人から久しぶりに電話があった。
彼女は昔からなんだか勘のよい人で 私がこの日記に家族の病気のことなどを書いたときに限って見て 連絡してくることが多かった。
今回も 父のことを読んで電話してきたのかな?と思ったら 違った。

「えっちゃんのお母さんが夢に出てきたの。
『悦子に連絡取りたんだけど全然電話が繋がらないから あなたから連絡とってくれない?』
って。あたし、わかりましたっって答えてさ。
起きてから なんでえっちゃんのお母さんが?と思ったらもうすぐ母の日じゃん。」

彼女は母の入院中も 母とデパートで会う夢を見たりしている。

私は彼女の話を聞きながら足に鳥肌が立った。
もしかしたら母は、私になにか伝えたいことがあるのではないか?と。

彼女の夢では母は元気そうだったという。
「私の夢のお母さんは いつも病気なんだけど・・・。」
「えっちゃんは看病にずっとついてたからね。」
そうか
もうあれはトラウマにちかいものなのかもね。

ひとしきり彼女と話し、そのうち会社休んで平日に遊びに幾夜と約束をして切った。

母の写真をいくら眺めても伝えたいことはなんだか解らない。

まだ熱が下がらない私は(5/5から熱出して寝込んでたの)ぼーっとDVDを見ながら考えていた。

ふと時計を見ると23時半。そろそろ寝ようかなと歯を磨いたりしていたらオットから電話があった。
「俺今どこにいるのかな〜。」
ああ・・・・今日オットは悪い友達と飲みにいってたんだっけ。こりゃへべれけだなあ。
「迎えに行こうか?」
「うん。」
「どこにいるの?」
「マンションの前。」
「じゃあ上がってきなよ。」

果たして登場した夫は立派なヨッパライ。
まず歩けてない。
そして服の前が雨と吐瀉物のようなもので汚れている。
「はきたい?」
「ううん」
風呂場に連れて行き、全部脱がせて洗い場に押し込みシャワーをかけると冷たかったらしく
「なにすんの?!」
という目でこっちを見てくる。
なんだ、意識しっかりしてるじゃん と思いながら手のひらに洗顔フォームを出してやり顔を洗わせる。
しばらくシャワーにうたれた後体を拭いてやり新しいTシャツとパンツをはかせて寝かせると
「はく」
とヒトコト。
おい!吐かないっていっただろーが。
しかたなく水を飲ませてトイレに連れて行き(一人で歩けない)便器にトイレットペーパーをしきつめてやる。
「ちゃんと便器の中にはいてよ」
「ぅおーい」
ドアを閉めると盛大にリバースしている音。
ったくもう・・・と思いながら廊下で待っていると半ドアだったドアからオットがひっくり返って出てきた。
どうやら寄りかかり損ねたらしい。
飲みかけの水の入ったコップもひっくり返しトイレの床から廊下まで水浸し。

「ゴルァ!」

オットは目をまん丸にして「いま転んだ?おれ転がってる?」という顔でひっくり返ったまま。
手も汚していたので「壁に触るんじゃない!」と怒鳴りながらまた風呂場に連れて行く。
トイレを見るとまー 汚しまくってはいるものの固形物は全然吐いていなかったので
「シャワーのお湯飲んで吐いてって繰り返しな。もう水しか出ないから。」
とまた洗い場に連れ出す。

おえおえ言っててももうなんも出てないだろうなってとこで上がらせて また着替えさせてウコンを飲ませて寝かせる。

・・・もう1時過ぎてるよ。
しくしく
早く寝なくちゃ・・・なのに・・・隣で とんでもないオオイビキが始まる。
ゴガーとかぐがーとかのレベルではなく 多分 お隣にも響いているのではないか?ってくらい。
部屋のドア閉めて台所にいても聞こえたもん。

とほほ

お母さんの伝えたいことって「今日あなたのオットはとんでもない事になって帰ってくるわよ」だったのかなあ・・・。
結局私は2時過ぎまで眠れませんでした。


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chick me

2006年05月09日(火) だいぶ回復してきたそうです

検査の結果、糖尿から端を発した一時的な症状だと。
そういえば10数年前にも同じことがあったな。
前はもっとひどかったけれど。

父は地道にリハビリしているらしく 大分歩けるようになってるそうです。

けれど心配には変わりなく。。。

そしてオットの父も糖尿で目が悪いことが発覚。
糖尿だらけです。

あれって遺伝だから 私自身も気をつけなければ。

chick me

2006年05月05日(金) 去年の新聞

衣替えのついでに色々整理していたら
去年の5月28日の新聞が
どさっとでてきた

母に私が生まれたばかりのとき きついことをいってしまったと詫びた伯母からの手紙や
母の葬儀の際に母にひどいことを言ってしまったと泣いた叔父の顔
ぐるぐるとまわり
私は泣いてばかりで

ぜんぜん片付けにならない

母に会いたくて
母の残したハンカチに残る母がよく使った匂い袋の香りに顔をうずめて
泣いてばかりだ

おとうさんを連れて行かないでね

お母さんに会いたいけど
会いたくてたまらないけれど
お父さんはまだ生かしていてね

お母さんのお誕生日に会いに行くから

chick me

2006年05月04日(木) 神様 一体何の試練ですか?

この日記に何度も書いてきたとおり 私の母は58歳と6日で他界した。
胃がん発症の多臓器不全。
最期は苦しみぬいて病院で 私がそばで寝ている間に亡くなった。

そしてこの間は父が肺炎で入院したのだが3週間で退院した。
この退院は会社(父はとある企業の産業医)から3週間の診断ならそれできっかり出てきてほしいと請われ、あまりよくなっていないうちに退院したのだ。

この間は私とオットと旅行した。
今度は紅葉などのきれいなときに新幹線で遠出しよう、と話していた。

でももしかしたらあれが最後の旅行になるかもしれない。

今日実家に顔を出してきた。
4月の終わりから本当は妹夫婦と父はおととし母を連れて行ったハワイに行くはずだったのだが ハワイの記録的な長雨を知り「いやな予感がするから」と直前で一人キャンセルしたのだ。
妹夫婦はそれなら、とグアムに切り替えて昨日帰ってきたのだが・・・・・・。

まず、玄関を見て妹は「お客さん?」と思ったらしい。
見慣れない靴 それも介護用のようなマジックテープで止めるタイプの靴。
家に入って洗濯物が干しっぱなしになっているのに気が付き なにかあったと察したらしい。

父は几帳面な性格なのだ。何日も前の洗濯物が干しっぱなしというのはありえない。

そして父の部屋にいき愕然としたという。
父が何十年も大事にしてきた医学書類が全部なくなっていたと。
ついこの間オーダーして壁一面に作った本棚がほとんどスカスカになっていた。

「ああ、父は自分の身の回りの整理を始めたんだ。体に何か起きたんだ。」
と妹は泣き崩れたそうだ。

そして、父はというと 左の手と足、口の周りの主に左側に麻痺が出た。
泣きながら説明をきく妹に父はこういったという。
「世の中には住む家の心配をしながら闘病していたり、子供にほっとかれたりお父さんよりもっと大変な立場の親がいる。それに比べたら子供がいて孫もいて家もあって 闘病のためのお金の心配もしないで済むんだから 本当に恵まれている。」と。

先週の金曜出勤中突然左足がしびれて動けなくなり、ほうほうのていで職場にたどり着いたものの痺れがひどくなっていったそうだ。
帰りにデパートに寄って自ら介護用の靴を買ったと。
月曜に叔父(母の弟)を家に呼び、本の整理を頼み一緒に食事をして叔父に泊まってもらったという。

父の左足先は少しむくみが出ていた。
動かせないからなのか別の原因だからなのかは分からない。

ハワイ行きを父がやめたとき妹たちはちょっと不満だった。
ハワイといったのは父だったし あまりに直前で妹たちも行き先変更に奔走したからだ。
しかしもしも飛行機に乗っていたら 気圧の変化で浮腫みではすまなかったかもしれないし 何より帰ってくることができなかったかもしれない。

父は妹たちの不在を幸いとし、一人で階段を上る練習や廊下を歩く練習をしていたそうだ。

本当ならすぐに病院に連れて行くところだが父は医者だ。

くも膜下出血ではないだろう
脳梗塞とも違うようだ
であれば、糖尿から端を発したものでは?と自己診察した結果GW明けの8日の診察でいいと判断しているのだから 私や妹がごちゃごちゃ言うべきではない。
さらに連休であと3日間は丸々休みなのでゆっくりと寝てすごしたいのだという。

父が41のころ腎臓がんと診断され 外科的手術無に父は完治した。
しかし糖尿は父の体を蝕み何度も目の手術を繰り返し一度は足が壊疽しかけて切断寸前までいった。
そのころ作った外用と家用の杖を父は今また使い始めているのだ。

こんなふうにちょくちょくメンテナンスしているのは逆によいことで 結婚してから20年以上健康診断をしてこなかった母は胃がんになったわけだ。

ただ、母の死後父が私と妹の小さいころの声をテープに録音したものや家族旅行の8mm撮影したものなどすべてを全部DVDに焼きおこし(20枚以上あります)親戚に配ったり 自分の私物をどんどん整理していったりする姿を見て 私も妹もずっと不安だった。

定年後の夢を語る割には片付けすぎてる。


そして、麻痺。


父はもうワイシャツを一人できられない。
父は痩せているが骨格がしっかりしているのでワイシャツがすごく似合うのだがボタンを留められないのだという。

なんで?
破天荒なこともしてきたけど相対的に他人より真面目に生きてきた父が もう体の自由を奪われるの?
そんな父をずっとずっと支えてきた母はあんな苦しみ方をして58歳で死んじゃったの?
世の中もっと悪い奴もいやな奴も たくさんいるのに私の両親はそんなに早く自由を奪われてしまうの?
命は平等だというけれど だったら動ける体で最期まで生かしてよ。
今度こそ私の命と健康を父に分けたいんだけど どこの誰に頼めばやってくれるわけ?

それとも母がそんなに呼んでるのか
だったら仕方ない
けれど母は父の体が動かなくなって娘たちに負担をかけるような連れていきかたは絶対にしない人だからきっと母じゃないよね。

父が足をあちこちにぶつけると聞いたので父の爪を切った。
父の足の爪を切りながら あ、私生まれて初めて父の足の爪を切っている と思った。
私が悪戦苦闘しているのを見ながら父が「娘が二人いてほんとに幸せだな」と言ったのを聞いて私は母がまったく同じことを言ったのを思い出し「死なないでね また元気になってね」と叫びたいのを懸命に押さえ込んだ。

世の中にはできたお嫁さんもいるだろうし息子もいるだろう。
しかしうちは、私と妹の二人でなくてはならなかった。
母は男の子をほしがっていたけど 私たちどちらも男じゃなくてよかったね と母が病院にいるときに足を洗ってあげながら冗談めかして言うと 母は半べそをかきながら「ほんとうにそうね。あんたたちが産まれてくれてほんとうによかった。」と言っていた。

8日の検査の結果でもしも長期の闘病を覚悟する状態になったら 父はすべての検査の後は家で過ごしたいといった。
妹も妹の夫も快諾してくれたそうだ。

体の自由が利かない人間の自宅療養というのは 世話をする人間には計り知れない負担がかかる。
もしそうなったら私も週末ごとに自宅にとまりに行くべきだと思っている。
せめて土曜日と日曜の夕方までは妹たちの手が空くように。

どうか糖尿だけであってください。
杖なしに戻れる生活をください。
母が逝って一年経っていません。
もっともっと親孝行する時間をください。

chick me

2006年05月02日(火) 母の最期の旅行から一年経ちました

去年の昨日 母は無理やり家に帰り 父の夏の衣類を衣替えしました。
といっても母は横になっているだけで 母にイチイチ見せてしまうならどこ とかそういうことやってたんですけどね。
あのとき 母が
「きらんかもしれんけん お母さんの夏物は出さんでよか」
とさびしそうに言った姿が今も鮮明に浮かびます。

そして本当にそうなってしまったなと。

そして今年ももう5月になってしまいました。

去年は ここからが 本当に毎日毎日不安と悲しみとわずかな希望とないまぜになった苦しい時間を過ごしました。
亡くなる一週間前というのは もう回復の見込みはなく とにかく苦しませたくない気持ちと生きて欲しい気持ちとでぐちゃぐちゃでしたが 5月の最初の頃は「もしかしたら もう少し時間が経てばまた元気を取戻してくれるんじゃないか」と思っていたので辛かったです。

他の何よりも母を思い 自分の寿命をどうやったら削って母にあげられるのだろうかと そんなことばかり考えていた5月が また来てしまった。

母の生まれた5月。
母の苦しんだ5月。

私は一年の中で一番5月が苦しい です。

chick me
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etsu

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