遠雷

bluelotus【MAIL

父との別れ
2009年06月13日(土)

先日父が亡くなりました。
年末から体調を崩していて、そのまま三が日のうちに救急病院へ取りあえず連れて行ったら、慌ただしいまま休み明けに入院。すでに末期に近い状態で、血液の癌だったために進行が早く、年齢的に強い治療もできず、三ヶ月といわれ、その通りになりました。

前の日記は、父を入院させた後な上に、同時進行で友人に裏切りとも言えるメールを送ってこられ、ワケもわからないままに書いたものです。その時点では、もしかしたら別の臓器の腫瘍性のがんの可能性があり、もっと酷い状態を覚悟していました。あと1ヶ月、あるいは数週間単位なのではないかと。もし本当に肝臓がんなどだった場合は、一ヶ月だったらしいのですが、幸か不幸か進行の早いがんではあれど化学療法が有効な種類だったために三ヶ月でした。

父の両親が長命だったので、本人はまだまだ生きるつもりでした。その一方、虫の知らせか、昨年思い立ち正式な遺言状などを用意してもいました。家で色々済まして入院するような状態でもなく、1日ほど病院の都合で家に居られただけ。準備はしていたものの、まさかとしか言いようがなく、本人も歯がゆかったと思います。父としては母の面倒を見ているつもりだったのに、急に自分が逆の立場になってしまたのですから。そして何もかも自分でやりたい人でしたから、自分の体が動かず、何もかもを人に頼まなくてはならない状態に急になってしまった自分が。

三ヶ月はもちろん長いとは言えません。満足いく事をしてあげられたかと言えば、後悔することばかりです。でも、今まで考えられなかったほど会話をし、家族らしくあれたと思えます。主治医の先生や、看護師さんたちにも毎度感心して頂いたほどでした。父も「正直お前がココまでしてくれるとは思ってなかった」と、何度も言ってくれました。それもこれも、これ以上はないというタイミングだったとしかいいようのない時期で、私の時間の融通が丁度きく時期で(これ以上長引くと4月からの1年間の予定が諸々どうなっていたかわからないくらいなのに、あまりにすっぽり時期に収まっていました)、それにより母の負担も少しは減ったからでした。そして、まずはここまでがんばろうと目標としていた父の誕生日を乗り切り、ほんの数日後の私の誕生日までは具合が悪いものの機嫌良くしていたのに、その次の日から急変して二日でなくなりました。まるで待っていたかの様に。

色々思いはあります。ろくな親孝行もせず心配かけるばかりで、遺言代わりのメモにも、「こうなったら我が家の血統が途絶える事も覚悟している」といったようなことが書かれていて、誰よりも長男として家を守って行くと言う気持ちの強かった父にそこまで書かせてしまった事がただ申し訳なく、でもどうにもできない自分が歯がゆい思いでした。

あまりに急だったという事もありますし、すごく仲の良かった親子関係ではないものの、産んでくれた実の父です。悲しくないわけはありませんし、寂しいし父の不在が不安です。ただ、私は恋人の死と言う経験を経てしまっていて、どうしてもそれと比べてしまうと幸せな死と思ってしまい、母の喪失感や哀しみと同じだけの感情が湧かないのです。まだまだ若いとは言われつつも、一般的には十分生きたと言われてもおかしくないくらいの年齢で、周りに太鼓判を押してもらえたほどの介護をして、それほど長期に闘病に苦しむ訳でもなく、最後は自分で建てた大好きな家の畳の上でなくなるという最後は、恵まれた方なのではないかと。

介護しているときはさすがに彼の誕生日にお参りも出来ず、少々忘れがちでした。現在も色々な手続きに追われ、まだまだ相続の方に手がつけられていないような状況で、もう明日が命日という事に驚いてしまっていて、少々後ろめたい気分です。今日はまず友人達のお参りに顔だけ出して、明日改めて一人でお参りに行く予定で居ます。なんとなく、彼の命日の前までに父の事を記しておきたいと思いつつ、まとめられないままギリギリになってしまいました。他にも思いはいろいろあるものも、大まかなものだけでも今日のうちにという、ただの自己満足な日記でした。





BACK   NEXT
目次ページ