mortals note
DiaryINDEXpastwill


2006年09月29日(金) db2

2.

 一寸先も見えない。
 空気はじっとりとしめって、肌にまとわりついてくるようだ。
 右手を壁について、まっすぐに進む。一本道だと教えられた。
 カイは何も処刑を見るためにゼイドの街へ立ち寄ったわけではない。
 フィヤラルの祠を目指し、ブリガンディア北端にある村から東へと旅を続けてきたのだ。
 この先の見えない道は、祠の地下へつづいているのだという。

 フィヤラルの祠は、イドゥナ教の聖地のひとつであり、四方をトゥオニ湖といううつくしい湖に囲まれている。
 湖の周囲には高い塀がめぐらされ、唯一の関所は、絶えず兵士が見張っている。
 特に今は敏感になっていることだろう。猫の子一匹も通さぬ構えであるに違いない。なぜならばフィヤラルの祠には、伝説の聖剣ドラゴンバスターが祀られているからだ。
 皇帝がドラゴンオーブを使っているのだとしたら、ドラゴンバスターは天敵であるのだ。長引く戦に内外からの不満も高まっている今、ドラゴンバスターを持ち出したいと願う人間は、ひとりふたりではない。
 カイもそのひとりだ。
 隠し通路があると教えてくれたのは、旅芸人の男だった。
 帝国のありかたに疑問を持つ―――早い話がヴォーデンに叛意のあるものたちが集まる酒場で、ひときわ若いカイに近づいてきたのだった。
 ドラゴンバスターが手に入るとしたらおまえはどうする、と。
 得体の知れない旅芸人の話を頭から鵜呑みにするほど、カイは無垢ではない。罠でない可能性のほうが低いはずだ。それでもカイは、トゥオニ湖のほとりにあるゼイドの街へやってきた。
 たとえ罠であったとしても、何もしないよりはマシだといえば聞こえはいいが、結局のところ。
 どうでもよくなっていたのかもしれない。

 カイはブリガンディア北端のちいさな村で生まれた。
 父と母、妹との四人家族だった。妹エスリンは生まれつき目が見えなかったが素直でやさしい娘だった。
 村の背後には鉱山があり、貴重な鉱石がとれることから、つつましいけれども穏やかな日々を送っていた。
 すべて、侵攻が始まるまでの話である。
 狭く暖かかった村には鉱脈を求めて兵士がなだれ込み、エスリンは―――連れ去られてしまった。
 生まれつき目が見えぬことは、イドゥナの寵愛の証であるという。ラインの乙女と呼ばれる、神の言葉を伝える巫女に選ばれたのだった。
 ブリガンディアはすべて、イドゥナの意思で動く。拒否権はなかった。
 居並ぶ兵士達の手前、村人達はこぞってエスリンを褒め称え、有難がった。けれども誰もが、こっそりと泣いていた。
 エスリンだけが、曇りのない笑顔だった。
 辺境の村では手に入らないようなうつくしい衣服と宝石に飾られ、エスリンは聖都ブリガンダインへと連れて行かれ、そして。
 ―――二度と戻ってはこなかった。
 ラインの乙女は、神の代理人になる。戦時は、兵士を鼓舞するために戦場にも連れてゆかれるのだという。他国の人間にとって、強力な一神教の象徴たる巫女は、目立つ存在なのだとも聞く。
 エスリンがどんな目に遭ったのか、想像するのも恐ろしかった。
 巫女はイドゥナの御許へむかえられた、という報告が届けられる頃には、掘りつくされた鉱山はすっかりと枯渇し、戦に疲れた村人達は無口で陰気になり、母は病に倒れた。
 やがて村人達は散り散りに村を離れ、カイたちも近くの町へと移り住んだが、母はまもなく帰らぬひととなった。
 父も死んでしまった。
 母を失ったあとすっかりと酒におぼれ、ある冬、酔っ払ったまま路上に転がり、そのまま二度と目覚めることがなかった。

 じっとりとしめった壁をたどりながら、光の見えぬ道の先を見据える。
 兵士が村になだれ込んできたその日から、カイの目の前は常に闇だ。この道のように。
 多くを望んだわけではなかった。
 大それた野望を抱いていたわけではなかった。
 鉱山夫として働き、気立てのいい娘を貰って、足のあまりよくなかった父に楽をさせてあげたいと、その程度の望みだったのだ。
 さまざまな職場を転々とし、時には盗みをはたらきながらひとりで暮らすようになって、もう三年になる。
 何も知らぬ十四の少年は、もはやどこにもいなかった。
 兵士の目をかいくぐって、反帝国組織に出入りをしていたこともある。摘発を受けて、半死半生で逃げ出したことも。
 服で覆い隠した体には、いくつもの傷が刻まれている。
 すべてを奪った帝国に、一矢を報いてやりたい気持ちはあるが、具体的に何をすればいいかなどわからなかった。
 高々、辺境の村生まれの小僧だ。学もない。仲間もいない。一体何をすればいいのかわからない。
 けれど、すべてを諦めてしまうわけには行かなかった。
 幼い頃の、空の輝きを尋ねた妹の笑顔ばかりを思い出す。
 遊び疲れて山から村へ駆け戻ってくると、やわらかい煙を上げている煙突。母親のひび割れた指、父のいびき。
 決して、多くを望んだわけでは、なかったのだ。
 目の前は闇で塗りつぶされている。
 どこを目指していいのかわからない。
 だからもう、どうでもよくなっていたのだ。
 耳元でささやかれた希望が罠であろうと。
 何も見えないのならば、指し示された道を歩くしかない。
 だからカイは今、どこからかしずくの音が聞こえる古い道を歩いている。

―――生きては帰れないかもしれない、それでもいいか?

 朽ち果てた井戸の場所を教えた後、旅芸人は人好きのする笑顔をふっと消して、言った。

―――生きて帰りたいところなんて、どこにもない。

 間をおかずに返されたカイの答えに、旅芸人はしばらく黙っていた。
 やがて小さくうなずいて、「そうか」と言った。
 わずかに身を引いて、カイの前に道をあけた。
 そしてカイは、光のない道を歩いている。

 祠まで一本道。ことはうまく運びすぎている。危うい罠に自分から飛び込んでいるのだろうと、なんとなく思い当たってはいた。
 口元がゆるむ。
 だからなんだっていうんだ。
 引き返す? 今から? 一体どこへ?
 旅芸人に投げつけた言葉は決して虚勢ではない。
 生きて帰りたい場所など、もうどこにもないのだった。


 ひたすら足を前に運んでいると、やがて目の前がうっすらと明るくなった。
 光が見えたわけではない。白い像が道を塞いでいたのだった。
 半裸の女の像だった。
 めずらしくもない、ラインの乙女をあらわすものだ。若くうつくしい女の石像。
 胸の前でなにかを受け止めるかのように、両の掌を向かい合わせている。
 カイは、ちょうど目の前あたりにあるその華奢な両手を、更に外側から押さえ込んだ。力を込めて内側に押すと、石像の腕がゆっくりと動き、やがて乙女の両手は祈るかのように組み合わされた。
 かちりとどこかで音が聞こえた。
 乙女は―――沈み始めた。
 どういう仕組みなのか、カイにはまったくわからない。ただ、自分の背丈よりも高い石像がずるずると床に飲み込まれてゆくのを見守っていた。
 どうどうと、頭からおしつぶすような音が迫ってきた。
 乙女の頭を跨ぎこえて、カイは開かれた道の先へ足を踏み出し、よろけるように数歩進んでから、息を呑んだ。
 壁を、水が流れていた。
 どこから水を引き込んでいるものか、壁を伝って滝のように水が落ち、壁際にある溝に流れ込んでいる。
 咽喉を目いっぱい反らして天井を仰ぐが、どのぐらいの高さにあるのか見当もつかない。ある部分から闇に飲まれてしまっている。
 足元は、光っていた。
 ちょうどくるぶしのあたりを照らすように、壁に石がはめ込まれている。それがうっすらと青い光を放っているのだった。
 ―――夜光石か。
 隣国アスガルドの西部で採れるという貴重な石だ。闇の中で光る。カイは学はないが、鉱山に抱かれて育った子である、石には多少詳しい。
 一粒ひとつぶが目玉が飛び出るような値だというのに。これほどまで贅沢に使っているとは。
 金はあるところにはあるもんなんだな、と呆れた。
 広大な空間が及ぼす威圧感にも幾分か慣れ、カイはようやく周囲を見回した。
 左手奥にぼんやりと浮かび上がる長方形。どうやらそれが、この空間への正規の入り口のようだった。
 入り口のかたちに夜光石がはめこまれているらしい。扉はなく、長方形の奥は真っ暗だ。道が続いているのだろう。
 そして、”正しい入り口”から、二本の光る線が伸びている。床に転々とはめ込まれた夜光石。道しるべのような輝きを目で追って。
 部屋の中央に据えられた巨大な台座に行き着いた。
 カイの背丈の裕に三倍はある。横っ腹から眺めると、三段の階段状に積み上げられた台座の、頂点は見えない。
 しかし、これほどまでに広大な空間に、貴重な夜光石をこれでもかとちりばめ、湖から水を引き込むという工夫を凝らし。
 “それ”以外の何をあそこに置くというのか。
 フィヤラルの祠に祀られているのは、伝説の宝剣―――。
 ぞっと全身が粟立った。その答えに至った瞬間、カイは弾かれたように駆け出していた。
 正しい入り口の方へ回りこみ、夜光石が照らす二本の線の間に立ち。
 正面から、台座を見上げた。
 走ったのはほんの少しの距離だというのに、息が乱れた。口で大きく息をすると、奥歯が鳴った。体がふるえている。
 祭壇には、側面から眺めたときには見えなかった細かい階段がついていた。夜光石のラインも階段にそって高みへと続いている。
 どうどうと水が落ちる音が四方からカイを取り囲む。ほのかに光る無数の青い光がまるで、―――呼んでいるように見えた。
 一歩、足が前に出た。
 もう一歩。転がるようにまた一歩、そして。
 カイは祭壇を駆け上った。
(ドラゴンバスターが)
 手に入れば。
 皇帝を突き動かす魔石を叩き壊すことができる。
 そうすれば戦はきっと、終わる!
―――おにいちゃん、わたし大丈夫よ。
 うつくしく着飾ったエスリンが、手探りでこちらの手を探り当て、しっかりと握った感触を何故か今、思い出した。

 まろぶように最後の一段を踏み越え、カイは祭壇の高みに至った。
 全身が心臓になったかのようだ。頭の内側も激しく脈打ち、視界がゆらぐ。
 中央に台座が据えられている。子どもの寝台ほどの黒い石の板だ。
 その台座に、一本の黒い剣が突きたてられている。
 カイはおぼつかない足取りで近づいた。
 これで戦が終わる。奇跡のつるぎだ。
 じっとりと内側から吹きだす汗を感じながら、カイは柄に手をかけ、声をなくした。

 剣は台座とひとつだった。

 刺さっているのではなく、台座と剣がひとつの石から作られた彫刻。
 我が目を疑い、幾度もまばたきを繰り返す。
 まさかそんなはずはない。
 これは伝説の宝剣だ、最後の切り札だ。
 奇跡を起こし、長くつづく戦を終わらせるための……。
「やっぱり来たね。君なら来ると思っていた」
 男の声が響き渡った。
 背に刺さったその声に、カイはぎくしゃくと彫刻から手を離す。
 肩越しに振り返ると、夜光石に彩られた正規の入り口から、ひとが歩み出てくるのが見えた。
 身軽な旅装束に小型のハープを背負っている。雨風をしのぐためかしっかりと被ったフードには見覚えがあった。
「貴様……!」
 からからに渇いた咽喉からようやく絞り出す。
 カイに地下通路を教えた旅芸人だ。
 弾丸のように祭壇を駆け下り、カイは旅芸人の胸倉を掴みあげる。
「騙しやがったな!」
 ドラゴンバスターが手に入ると、そう言ったではないか。
 すると、旅芸人はすこし困ったように笑った。
「ドラゴンバスターが手に入ったとして」
 旅芸人の背後、闇に飲まれた通路の奥から、芯のある声が響いてきた。踵が石の床を打つ音が徐々に近づいてくる。
「それで本当に、戦が終わると思っているのか」
 白い影が亡霊のように浮かび上がった。
 頭からすっぽりと白いフードをかぶり、口元すらも布で覆い隠した人影が近づいてくる。
 唯一外に出ている瞳が、真紅だった。
 声からすれば女のようだが、背丈はカイよりもすこし低いぐらいで、女としては大柄に見える。
 白装束の女―――と思しき人影―――に付き従うように、女剣士が控えていた。
 傭兵のような軽装備ではあったが、黄金の髪は肩を滑り落ち、碧眼が油断なくカイを見据えている。気品と隙のなさは尋常ではない。その傍らにもう一人、こちらはいかにも傭兵といった体の男が立っている。この男もおそらく腕がたつ。
「ドラゴンバスターが一体、何の役に立つ」
 白い塊が言った。
 カイは旅芸人の胸倉を掴んだまま、赤い瞳を見据えた。
「ドラゴンバスターがあれば、オーブを壊せる、んだろ」
 それで戦が終わるのではないのか。
 白い女は笑った、ように見えた。
「無いものをどうやって壊すというんだ」
 うまく言葉を飲み込めなかった。
 全身から力が抜けて、旅芸人の胸倉を掴んでいた手がはずれる。
 無い、とは何のことだ。
「ドラゴンバスターが手に入ったとて、壊すべきものがないのなら仕様がない」
「どういう……」
「”ドラゴンオーブなど何処にも無い”と言っているのだ」
 眩暈がした。
 力いっぱい頭を殴られたような心地だった。脳みそをかき回されて、うまく考えがまとまらない。
 ドラゴンオーブがないということは、一体どういうことなんだ。
 それではつじつまが合わなくなるじゃないか。
「ドラゴンバスターもドラゴンオーブも存在しない。ただの象徴だ。台座を見ただろう、形だけ祀ってあるに過ぎない」
「百年前にはあったんだろ! 隣のアスガルドのラッセルって領地で、領主の息子が―――!」
 ドラゴンオーブを用いた内乱を、その奇跡の剣で収めたと聞く。
 存在しないなんて、おかしいじゃないか。
 存在しないんだったら、どうして。
 カイは、白装束の女に向き直った。口元に笑いが浮かんでくる。
「嘘だろ」
 意志の強い赤い瞳は、揺らがない。
「お前らグルになって俺を、騙そうとしてるんだろ。なあ!」
(ドラゴンオーブが無いなんて) 
 ふつふつと湧き上がってきた怒りを抑えきれずに、カイは白装束の女に掴みかかった。背後で剣士ふたりが得物に手をかけるのを、女は片手で制す。
「お前が祭壇で見たものがすべてだ」
 刻み付けるように、女が言った。
 その声が、何かの糸を切った。
「ふざけんなよじゃあなんで! オーブがないならなんで! ヴォーデンは戦をやめないんだ!」
 納得できない。
 オーブがあれば、まだつじつまはあうじゃないか。
 強大な魔力に魅入られてしまったと、諦めることができる。
 理解が出来ないことで苦しめられているなんて、そんなこと。
 納得できるはずないじゃないか!
「だったら俺達はなんで……」
 目のふちが熱くなる。視界がぐにゃりとゆがんだ。
「なんでこんなふうに……」
 村を蹂躙され、妹を奪われて。
 母は臥せって、父は雪の降る路上に転がって。
 自分だけではない。苦しみもがいているのは、決して自分だけではないのだ。
 こみ上げた涙がひとすじ頬を伝って落ちる。涙に引きずられるように、カイはがっくりとうなだれた。
 体が震えはじめる。いつの間にかカイは笑い出していた。
 突然、すべてのことがどうしようもなく滑稽に思えた。馬鹿馬鹿しい。
 何よりも、伝説に縋って這いずり回ってきた自分が、醜くあさましく、惨めだった。
「……殺さないのか?」
 笑いとともに零れ落ちた。
「聖域に転がり込んだんだぞ。ドラゴンバスターを手に入れようとしたってことは、立派な反逆罪だろ。あんたたち、帝国軍の兵士じゃないのかよ。……もういいよ、どうだっていい。ドラゴンバスターがないなら、もうどうしたらいいかわからない。どうしたらエスリンの仇を取れるかなんてもうわかんねぇよ!」
 咽喉が裂けるほど大声で叫び、カイは涙をふりはらうように顔を上げた。
 突き飛ばすように白い女の胸倉から手を離し、両手を広げた。
「殺せよ!」
 赤い瞳が、鈍い痛みをこらえるように眇められた。
「どうせ生きてたってしょうがな」
 左頬に衝撃を受け、カイはそのまま後方に吹っ飛んだ。
 口の中に鉄の味が広がり、殴られたらしいことに気づく。
「ガキが、簡単に死ぬとかぬかすんじゃねぇ!」
 傭兵然とした男がいつのまにか、カイと白装束の間に割って入っている。体勢からして、カイはその男に殴られたのだろう。
 口の端に滲んだ血を乱暴にぬぐい、カイは立ち上がる。刺し貫かんばかりに男を睨み据えた。
「何も知らないくせに!」
 カイは吠えて、男に殴りかかった。
「……クソガキ!」
 男の舌打ちを聞いたような気もしたが、すぐに何も分からなくなった。
 腹部に強い衝撃を受けて、呼吸が出来なくなる。目の前が真っ白になり、カイはそのまま石畳に両膝をついて、前のめりに倒れた。

「どういたしますか」
 女剣士が白装束に問うた。
 男に腹部を殴られて気絶した、青年と呼ぶにはまだすこしあどけない男を見下ろす。
「連れて戻る。どの道を選ぶかは彼の自由だが、今はひとりでも人手が欲しい。ゆっくりと説明をするにはこの場所は不向きだ。リーグ、すまないが背負ってきてもらえるか」
「……すいません、頭に血がのぼっちまって」
 カイを殴り倒した男は、気まずそうに女の赤い瞳から視線を逃がす。
 筋骨隆々とした男がしゅんと肩を落としているのをしばらく眺めてから、白い衣のすそを翻し、女は歩き出す。女剣士が影のようにその背に従った。
「城まで連れてくるのだぞ」
 叱りもしなければ慰めもしない。が、しばらく自分を見つめていた真紅の双眸が労わりの色を含んでいたことを、リーグはちゃんと分かっていた。
「お前がまさかこんなガキに目をつけるとはな」
 カイの体を肩に担ぎ上げながら、リーグは旅装束の男を眺める。
 旅芸人はかるく肩をすくめ、白装束と女剣士のあとを追った。


2006年09月12日(火) db01




1.

―――おにいちゃん、まぶしいってどういうかんじ?
 雲ひとつなく晴れ渡った空を仰いで、エスリンが問いかけてくる。
―――そうだなぁ、なんつーか、ちかちかって感じ?
 顎を押さえて考え込むと、声を頼りにエスリンがこちらに顔を向ける。小さい頭をかしげた。
―――ちかちか?
―――ってもわかんねぇよなぁ。ムズかしいな……。
 ううんと唸って頭を抱えると、年のはなれた妹はくすくすと軽やかに笑って、華奢な腕をこちらのそれに絡めてきた。
―――……ありがとう、おにいちゃん。


            *


 五年後―――。


 羽音が追い越してゆく。
 白い翼をはばたかせ、鳥が空へのぼってゆく。
 カイは、白い羽根の軌跡を目で追った。雲ひとつない空は高く、どこまでも澄んでいた。鳥の姿はすぐに見えなくなる。
「おい早くしろよ、はじまっちまうぞ!」
 今度はいくつもの足音がカイを追い越していった。
 この街に住む少年たちだろう。靴音も高らかに、緩やかな坂道を駆け上ってゆく。他にも無数の人々が足早に、この途の先にある広場へ向かっているようだ。カイも足を速めた。
 異様な熱気が広場から道を伝って漂ってくる。大勢の人の気配。だが喧騒はない。
 ぐるりと周囲を見回すと、道の両脇に開かれた露店は無人だった。店番すらいない。無用心極まりないが、それだけ街の人間が広場に集まっているということなのだろう。
 なだらかな坂道をのぼりきったところに、その円形の広場はある。人々の憩いの場がいまや、不穏なざわめきに包まれていた。
 たくさんの人、ひと、ひと。皆険しい顔つきで広場の中央を向いている。
 幾重にも張り巡らされた人垣をへだてても見えるほど高く、一本の杭が地面に突き立てられ、頭にすっぽりと布袋を被った男が縛り付けられていた。
 満身創痍であった。
 灰色の服は擦り切れ、あちこちに血が滲んでいる。
「これより公開処刑を始める!」
 杭の傍に歩み出た男が声を張り上げた。白を基調とした軍服は、ブリガンディア神聖国正規軍の軍服である。
 巻かれた書状を縦に開き、朗々と響き渡る声で罪状を読み上げる。
 この男は正規軍の小隊長であったが、畏れ多くも皇帝陛下の勅命に背いた。よって、罪は血で贖われる―――と。
 鎧の音を響かせて、杭の左右に二人ずつの兵士がならぶ。
 天を衝くほどに長大な槍を、石畳に力づよく打ちつけた。
「聖なるかな!」
 書状を携えた兵士が声高に叫んだ。それとともに四本の槍が高く掲げられる。雲にさえぎられることのない太陽のひかりが、鋭い切っ先に跳ね返った。
 声にならないざわめきが広がる。
 カイはただ、朗と響き渡る聖句を聞いていた。
「神聖にして偉大なる主よ、罪深き子を赦し、御許へ迎えたまえ」
 槍を持つ兵士は、縛り上げられた男の前に立ち、一対ずつ交差させた。
「……食料もなく、怪我人と女子どもしかいない村を」
 はじめて、罪人が口を開いた。
 酷くかすれ、震えていた声はやがて、強く大きくなる。
「焼き払うなんて! 俺には出来ない! そんなことは間違っている! 陛下は―――」
「イドゥナの仔に、幸いあれ!」
「ヴォーデンはもはや、狂っている!」
 どっと鈍い音が響き渡った。
 木製の杭を伝い、赤黒い液体がじわじわと石畳に広がってゆく。
 がっくりとうなだれた罪人の首がもはや動かないのを見届け、カイは踵を返した。
 一心に広場の中央を見据えていた人垣がくずれ、ばらばらと散り始める。
「オーブのせいだ」
 雑踏のなか、いずこからかそんな呟きが聞こえてきた。
「……ドラゴンバスターさえあれば」
 カイは思わず足を止め、周囲を見回した。急に立ち止まった青年を不審そうに眺めながら、多くのひとびとが彼を追い越してゆく。
 見渡しても、声の主は見つからなかった。
 身を捩って、もう一度広場の中央を眺める。
 布袋をはずされた男の顔は、自分とほぼ年の変わらない若者に見えた。

―――ドラゴンバスターさえあれば。

「だったらどうして」
 もはやただの肉塊となった罪人の体が、杭から引きずりおろされる。
 ばらばらにほどけてゆく人垣の波に、一本の棹のように立ち尽くし、カイは唇を噛み締めた。
「どうして、誰も探さないんだ!」


            *


 ブリガンディア神聖国は、イドゥナ聖教を国教とする宗教国家である。
 遥か昔、大陸を統一したというヴァン少年王の血筋を継ぎ、伝説の宝玉であるドラゴンオーブを至宝とする、大陸随一の軍事国家でもある。
 第十一代皇帝であるヴォーデン・ヴェルダン・ヴィーグリードは、自らを大陸の正統な継承者であると主張し、大陸を統一すべく、進軍をはじめた。
 大規模な侵攻がはじまってから既に六年。ブリガンディア神聖国は着実にその版図を広げていたが、反面着実に内側から疲弊しはじめていた。
 新たに制圧した領地からの不満もさることながら、性急ですらある進軍に、民たちも疲れきっていた。
 やがて、まことしやかにこんな噂が囁かれるようになる。

 ―――皇帝は、ドラゴンオーブに呑まれてしまったのだ。

 伝説の至宝であるドラゴンオーブは、手にしたものに強大な力を与えると言われている。それとともに、手にしたものの内にうずまく欲望を駆り立てる、とも。
 ゆえに、手にするものの心によって、聖なる秘宝にも悪魔の力にもなり得る。
 元々軍事国家であったとはいえ、侵攻をはじめた頃のブリガンディアは飛ぶ鳥もおとす勢いだった。人々はそれを神の祝福と呼び、この戦いが正統なものであると信じて疑わなかった。
 しかし、版図をひろげることよりも、戦自体に固執するようになった皇帝の異変に、人々はようやく気づき始めたのだった。
 飛ぶ鳥を落とすあの勢いも神の加護などではなく、伝説の宝玉が与えた力だとしたら。強大な魔力に、皇帝の理性が飲み込まれてしまったのだとしたら。
 すべてのつじつまが合う。

 ドラゴンオーブはなにものにも傷つけられない。手にしたものが封印を施すまでは、その力を惜しみなく与え続けるという。ドラゴンオーブを破壊できるものは、この世界でたったひとつ。

 ドラゴンバスターと呼ばれる剣だけである。




2006年09月11日(月) db0

■ドラゴンオーブ
 もつものに強大な力を与えるといわれる宝玉。
 今現在はブリガンディアの国宝。

■ドラゴンバスター
 古びた剣。なまくらだが、ドラゴンオーブをくだくことが出来るのは、この剣だけ。
 今現在はブリガンディアの国宝。

■ブリガンディア神聖国
 イドゥナ聖教を国教とする軍事国家。数年前から大陸の統一を掲げ、侵攻を開始。
 強大な軍事力で周辺の町や村を飲み込みながら、侵攻を続けている。が、内部は疲弊しはじめている。

■ラインの乙女
 イドゥナ聖教の聖女。生まれつき盲目であることが条件。
 巫女として儀式を執り行う。今現在は兵士を鼓舞するために戦場に派遣されることもある。

■カイ
 主人公。17,8の青年。
 鉱山のある村の出だが、戦争と共に鉱山をあらされ、その結果村を失う。
 妹がラインの乙女として戦場に連れて行かれ、死亡した。
 皇帝を憎み、戦争をやめさせようと思っている。が、何をしていいのかわからない。

■ヴォーデン
 皇帝。大陸統一を掲げ、侵攻を開始。
 瞬く間に地図を塗り替えるが、その勢いはとどまるところを知らない。
 戦争が自国にゆがみをもたらしはじめても、戦をやめようとしないのは、国宝であるドラゴンオーブに手を出したからだとまことしやかに囁かれている。

■フレイヤ
 「色なし姫」と呼ばれるヴォーデンの娘。
 王族に継がれている黒髪を持たぬことから、不義の子ではないかと噂されている。
 今現在は聖都を離れ、離宮であるトゥオネラ城でひっそりと暮らす。

■ブリュンヒルド
 フレイヤに付き従う女騎士。金髪碧眼の美女。フレイヤに絶対の忠誠を誓っている。

■トール
 不思議な旅芸人。カイにドラゴンバスターのありかを告げる。

■リーグ
 反帝国組織の中心存在である傭兵。豪快で裏表のない男。


2006年09月10日(日) 【死者は沈黙す、されど死は】

「もしかして、俺につかまえてほしいとか、思ってる?」
 薄く笑う声だけが、やけにくっきりと耳に溶けた。


 はじまりは、好奇心だった。

 面倒見のいい後見人の笑顔でこちらの足場を切り崩そうとする狸爺どもの腹のうちを探るのにも、賛美の言葉ばかりを垂れ流す人間の本質を選り分けるのにも、はっきり言って辟易していた。
 どれもこれも顔のない亡霊だ。気を抜くと頭から食らわれるに決まっている。目が覚めて一歩寝台を出れば、餓鬼の棲む苦界なのだ。

 遊びのつもりだった。
 退屈凌ぎの、危険な。ちょっとやそっとでは体験できない類の。
 まるで神か仏のように若い頭領を崇め奉る輩の、信仰にも似た忠誠心を上から踏みにじってやりたい。歪んだ破壊衝動の捌け口―――だったかもしれない。
 真昼間の社長室で秘書と―――しかも相手は男ときている―――戯れるだなんて、どうかしている。
 そう、はじまりは刺激を欲していたに過ぎなかった。
 いつ誰に見つかるかもしれない。遊びとしては上等だ。相手もそのはずだ。
 それに元々この秘書とかいう輩も気に入らなかった。まるで雲か霞のような、飄々とつかめない男だ。何が冗談で何が本気なのかまったく分からない。冗談交じりにせっせと世話を焼くこいつの身軽さが、俺には気に食わなかった。

 困らせてやろうと思ってこちらから誘った。
 まさか乗ってくるとは思わなかった。本当は、ふわふわと漂いながらいつの間にか距離を詰めてくるこの男を遠ざけてやろうと思っていたのに。
 拍子抜けはしたが、こっちから声をかけた手前引くに引けなくなった。
 まあいいか、とも思った。少なくとも退屈凌ぎにはなるだろう。
 きっとすぐに飽きる。
 今までどんなものにも執着したことがなかったのだ。当たり前のように、熱情は冷えてゆくと思っていた。
 だから手軽に手を出せたというのに。


 この体たらくはなんだ。



「……なんの、つもりだ」
 口に出してから、自分の声が掠れていることに気がついた。
「なんのつもり、って?」
 一糸乱れぬ姿のままで、男はこちらを見ている。
 まだ黄昏時で、斜陽がブラインドの隙間から赤くこぼれてきている。いつも通りに場所は社長室だ。男のかけた胡散臭い眼鏡の表が、つるりと赤い光を跳ね返した。
「らしくねぇだろこんなのは」
「そう? 別に俺はいつも通りですよ」
 そんなはずはない。
 明らかにお前はおかしい。
 指をさして、そう怒鳴ってやりたかった。
「らしくないのは社長のほうなんじゃないの? 覚えたての子どもじゃあるまいし」
 ひんやりと冷たい指先が、咽喉を伝って鎖骨を辿る。
「熱でもあるのかな、あっついね」
 肌蹴た胸元を、思ったよりも大きな手のひらが撫でておりる。
 するりと抜けたネクタイをまるで犬のリードのように引いて、インテリ然とした眼鏡の奥で目を細める。
「離せ!」
「おっと」
 思わず脚が上がった。秘書はひらりと身をかわす。両手を挙げて降参の意を示した。
 壁際に追い詰められたまま、肩で息をしている自分と違って、奴はどこまでも自由だった。
「もうしっかりしてよ、俺は別にあんたのどこも、捕まえちゃいないでしょ。……それとも」
 大袈裟にあげた両手の、片方で男は、顔に張り付いた薄っぺらい眼鏡を引き抜いた。
 袋小路に追い詰められた小動物のように、背をぴったりと壁につけて固まっているこちらのほうへ、ゆっくりと歩み寄る。
 ぴしりと糊の効いたスーツの腕を伸べて、壁に片腕を突いた。身をかがめて、こちらの耳元に唇を寄せる。
「もしかして、俺につかまえてほしいとか、思ってる?」
 普段よりもぐっと低いトーンで、残酷に囁いた。

 そのときの。
 腹の底から一気に噴出した熱の、名は知らない。
 ただ無性に苛立たしいような恥ずかしいような殺してしまいたいような。
 せつないような。
 自分ではどうしようもない衝動だった。

「て、めぇ……! トチ狂ってんじゃ、ねぇよ……!」
 何故か力の入らない右腕で、乱暴に男を押しのける。
 口元に自嘲めいた笑みをひらめかせて、男は数歩あとずさった。
 おかしい。
 この男は、どこかおかしい。いつもと違う。
 逃げ方は蝶に似ている。ひらひらと指先をすり抜けて逃げる。決して捕まえることは出来ない。
 感情も平坦だ。大きな起伏を見たことがない。
 温厚にへらへらしているのは、ただの仮面だ。
 ずっと、この男に感情なんてあるのかと、思っていた。
 幾度戯れても、熱に浮かされたことなんてない。冷静にこちらを見据える。
 その、氷のような瞳が。
 今日は何故か熱を持っていた。燻る、ただれた熱。
 男は、まるであざけるかのように小さく笑った。
「俺が狂ってるって? 狂ってるのは社長のほうでしょ。最初に誘ったのはどっち?」
 顎を持ち上げて、男は見下したように笑う。
 突然、両腕で強く突き飛ばされたような気がして、驚いた。
 無慈悲に、理不尽に、突き放された気がした。
「そろそろこんな馬鹿げた遊びも、終わりにしないとダメなんじゃないの」

 俺はきっとそのとき初めて、この男の真顔という奴を見た。
 何の装飾も、何の含みも、何のごまかしもない、赤裸々な顔を。
 いつも人を小ばかにしたような笑みを含ませている瞳も、刃のような鋭さを持っていた。

「いい加減、駄々を捏ねるのはやめたら。これ以上続けてバレたら、若社長のたわむれじゃ済まなくなるんでしょ」
「……分かるように、言えよ」
 遠まわしに責められているようないたたまれなさは、嫌いだ。
 男は―――猿飛佐助は何故か、困ったように笑った。
「ダメでしょ、大事に大事に育てられたご令嬢には刺激が強すぎるって。……結婚が決まったんでしょ、おめでとう」
 頭の上から、氷水の滝に打たれたような壮絶な冷たさに、震えた。
「んなモン、ただの契約じゃねぇか」
 事実、まだ会ったこともない女だ。
 佐助は大袈裟に肩をすくめる。芝居がかった動作だった。
「ダメダメ、それがお子様の我儘なんだってば。火遊びならもうオシマイ」

(じゃあ火遊びじゃなければ)
 ゆるされるのか。

 心の表にぷくりと、自然に浮き上がってきた泡に驚いた。
 誰よりも火遊びを望んだのは、自分のはずだ。
 鬱屈を晴らすために誘った。(何故この男だったのか)
 だらだらと中途半端に続けた。(いつだってやめることは出来たはずだ)


―――もしかして、俺につかまえてほしいとか、思ってる?


 捕まえてほしいと言えば。
 叶うのだろうか。

 口元が思わず笑みの形に緩んだ。引きつれたような笑いに違いない。
 結局お前は正しい。いつだって。
 狂っているのは俺のほうか。
 初めから。

「だからって、今日は別に」
 腕を伸ばせばつかめるかもしれない。
 すがり付けば抱き返されるかもしれない。
「これで終わりじゃねぇんだろ」
 けれど、相手を見据える瞳はむしろ攻撃的な色をはらんで、言葉は裏腹に調子付く。
「しょうがない子だね」
 微苦笑のまま、佐助が間合いを詰めてくる。
 だらしなく開いた唇から、やけに熱を持った舌が伸びてこちらの唇の上を辿る。
 体は正直に相手を受け容れた。隙間を見つけて、もぐりこんだ舌先が、歯の付け根を乱暴に擦る。
 あとは、くだらない腹の探り合いなんてどこかに行ってしまった。
 結局どちらも素直ではないんだし、意地の張り合いを続けるよりも、よっぽど分かりやすい。
 乱暴に粘膜を絡め合わせる。
 没頭してしまえば何も考えられなくなるだろう。
 現実から目を逸らしてしまえばいい。
 何も見なければいいんだ。
 気づかないふりをしろ。
 この、燻る熱の名前など。
 例え知っていても。

 お互いに、どうしようもねぇな。

 腹のうちはもう見え透いているってのに、一歩踏み込む勇気なんて持っちゃいない。
 ただ、無感動なお前が乱暴な手つきになるような熱を、与えることができたんだったら。
 それは案外、重大な意味を持っているような気がする。


「ねえ、社長」
 耳の形を辿る唇から、濡れた声がこぼれてくる。
「名前呼んでみてよ」
 ぐったりとうなだれた額が、肩に触れた。
 こちらの肩に顔をうずめたまま、しばらく佐助は動かなかった。
「……佐助」
 ためらったあとで声に出すと、顔を伏せたままで佐助は咽喉で小さく笑った。
「よかった、ちゃんと知ってたのね」
 知らないのかと思ってた、なんて。白々しいことを言った。
 不本意、と顔に書いておいたら佐助が困ったように笑う。
「だってアンタ一度だって」
 いつだって。
「俺の名前、呼んだことないじゃない」
 あとは、言葉にはならなかった。

 この、燻った熱は名前を与える前に殺す。
 決してもう、お前の名は呼ばない。
 それでも。
 死者は沈黙すれど、死は。
 あまりにも雄弁だ。

 もう手の内は見えている。


<了>



一文字漢字御題百選
46:黙


如月冴子 |MAIL

My追加