草原の満ち潮、豊穣の荒野
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63 金の瞳、春の夢 1~dream you

~dream you~


商業都市ヒダルゴ。

新緑祭を明日に控え、街は馬の巨大なオブジェが立ち並んでいる。
遠方から来た旅人や商人の波は途切れる事なく流れ込み
街外れの豊かな牧場や森までもが道沿いに露店、灯火、案内板など
飾り付けや準備に余念がない。
目玉と呼ぶべき名馬達は、全身を磨き上げられ大規模な競り市、品評会を待つ。
そんな昼下がり、名馬の中から特に選ばれた『神馬』は女神役の娘達を乗せ
セレモニーのリハーサルを執り行っていた。



「ひゃ〜、ドレスの裾踏んじゃった!」

「あれほど品よく摘んで上がれって言ったのに。
ドレスを破いたら承知しないから!」

ずらりと広場に並ぶ神馬と女神達の中でひとりだけもたついている娘がいた。
小柄な体に長い銀の髪を結い上げた桜色のドレス。

「もお、馬なんか乗った事もな...うわっ!!」

栗毛色の若い馬は神経質そうに頭を振り足踏みを繰り返し
馬主が必死で馬の気性の弁解を並べた。

「おじさん!そんなんいいからこの馬なんとかしてよ!」

桜色のドレスの女神は振り落とされまいと必死で馬の首にしがみついた。

「ちょっと!女神ならもう少ししゃんと背筋を伸ばして微笑みなさい!」

「んな無茶な!!そんな事したら落っこちるって」


子供達が指差して笑った。
リハーサルの広場一体天幕で覆われてはいるもののあちこちの隅から
子供の顔が覗き込んでいる。

「あの女神、全然馬に乗れないんだよ」

「女神のくせに」

「ちょっと脅かしてやろうか」

子供が数人、顔を見合わせて何やら話し始めた。
この街では馬を乗りこなす者が最高のヒーローである。
女性の騎手も多く彼女達は男性と同等に扱われ尊敬された。
反対に馬を扱えない者は笑い者にされる。

「う、馬を変えてよ!この馬絶対気が荒いよ」

「私の馬は由緒正しい血統の種付けから生まれた馬で断じてそんな事ありません!
信じないなら血統書を持ってきますから...」

「だって暴れてるじゃん!鼻息なんかさっきより荒くなってきたし」

「あ..駄目だ、あの馬白目剥いて怒ってるわ....」

「刺激するな!女神をそっと降ろせ!もっと小さい子馬かなにかに変えるしかない」

「そんな私の馬は由緒正しい血統のオス馬の..」

「もういいってばー!!」


子供のひとりが手に持った小さな木製の車のぜんまいをきりりと巻いた。
まわりの子供は笑い声を両手で覆って隠している。

「そら行け!」


「ヒイイイインッ!!」


大人達が青ざめた。
足下を走り抜けたおもちゃは馬を完璧に怯えさせ
その前足を高く振り上げさせた。

「まずい!押さえろ!」

「イ、イザック!!」

「わあっ!!」

不慣れな女神を乗せた馬はいななきながら走り出した。
当然気に入らない騎手を振り落とそうと跳ね上がりながら。

「なんてことするんだ!」

大人の怒号と子供の泣き声が遠ざかって行く。
運の悪い女神は馬の首にしがみついて考える事すら出来なかった。
結い上げた髪はばらばらにほどけ栗毛色と銀の固まりが疾走しているよう。


「止まれ!止まれったら!!」


娘は叫びながら金色の瞳を見開いた。
街行く人々をなぎ倒しながら馬は走っている。
自分が何をしたらいいのか全く判断出来ない。
滅茶苦茶に走る馬上でただ、自分に出来る事を本能が選んだ。


『るおおおおおおおおん!!』

突然街中に響き渡ったまだ幼さの残る咆哮。
それでもそれは哀れな馬の全身の毛を逆立たせ、心臓を凍り付かせるのに充分だった。








「?」


その通りには小さな酒場がある。
ブルーはちょうど店先で空になった樽を運んで一息ついたところだった。

「なんだ今の」

「どうした?ブルー?」

「いや、なんかあっちの方が騒がしいんだけど」

「祭りの前でケンカでもあったか?」

「ちょっと見てくる」

「さぼるなこら!....全く。ルー、いいか?あんないい加減な大人になっちゃ駄目だからな」

走り去った店員を指差して店主はルーの頭を撫でた。
ルーはにこにこしながら頷いている。



「おい!!ルー!ちょっと来い!!」


凄まじい勢いでブルーが駆け戻ってきた。
ブルーはルーの腕を掴むとそのまま抱えて走り出した。
人だかりが出来ている。
足を折って倒れた馬の隣に桜色のドレスの娘が銀髪を広げて横たわっていた。
ブルーの目に焼き付いた桜色のドレス。
間違うはずがない。あの娘だ。
かつてブルーにハンカチを差し出して微笑んだ金の瞳...

「娘さん!」

ぴくりとも動かない娘を抱き起こしながらブルーはそこにいる人の山を忘れた。
被っていたフードすらめくれて肌が赤く腫れ始めた事も。

「ルー!」


青い子供が倒れている娘に近づいて笑った。
目を閉じた頭部に手を差し出しすぐにまたひっこめた。
まるで必要ない、と言わんばかりに。
ルーは足を折り、口から泡を吹いた馬に手を差し伸ばすと笑いかけた。

「ああ...」

人だかりからどよめきが上がる。
絶望的に足を折り、呻き声と共にもがくばかりの馬が
ゆっくりと立ち上がったのだ。

「し...信じられない...」



「娘さん!大丈夫か!おい!!」

ブルーは何度も呼びかけた。

「...ん?」

娘がぱちりと目を開けると飛び上がった。
その目に飛び込んだのは赤く腫れ上がった異様な人相の男。
中途半端に被ったフードに隠れた顔半分は薄青く、異様なコントラストを作っている。
男ははじめて自分の状態に気付くとあわてて横を向いた。
視線の先は黒山の人だかり。

「....しまった」


ブルーが『青ざめた』
ルーが馬の足に手をかざし傷口すら塞がっていく様子を目の当たりにしたのは彼だけではない。
全員がそれを信じられないという表情で見ていた。

「ルー!!来い!」

起き上がった娘に顔を背け、ブルーはルーを掴んで走り出した。
彼は自分の犯した失態に動転し、愚かにも酒場に飛び込んでしまった。
人々は皆それを見ていた。遠巻きに見つめたまま一体今何が起こったのか
考えて顔を見合わせていた。
そんな中起き上がった娘は自分の記憶の糸をたぐっていた。
ほとんど、何が起こったかよく覚えていない。


「あんた獣人かい?」

ひとりの老人がイザックに声をかけた。

「あ...あははまあ、そんなとこ」

何人かは見ていた。
馬が壁に突進した時、娘が信じがたい跳躍力を発揮して跳んだのを。
それはまるでしなやかな足を持った狼か野獣のようだった。
不完全な獣化は着地の衝撃で失神する事までは避けられなかった。


「さっきの人...どっかで聞いたような声だったけど」



「イザック!!あんた無事だったの!」

追いかけてきたやや年上の女が座り込んだ。

「なんとか無事」

「もういいわ、あんたを女神に推薦したのは間違いだった。
あんたすぐ倒れて、体弱いから縁起物にでも関われば少しは女神のご加護があるかと
思ったんだけど。ごめんね。けがなくてほんとに良かった...」

「謝る事ないって、こんくらいなんてことないしせっかく縫ったドレス
お披露目しなくちゃね。それにさ..」

「なに?」

「ううん、なんでもないよ。ほらリハーサル行かなくちゃ。祭りは明日なんだから」







とある地方には体の弱い赤ん坊の無事を祈願して
男の子に女装させる風習があった。
遠く家を離れて勉学に来た少年の事情を知る者はない。
身近な者がいたわる事はあったが。


そして人だかりに困惑する酒場の店主と黙り込んだブルーに関係なく
祭りの準備は再開された。女神は小さな子馬に乗り無事リハーサルを終えた。
少しばかり先の男が助けてくれたのならお礼くらい言えば良かったと後悔しつつ。










62 謎~i'd rather die than give you control

ブルーはその日珍しくルーを連れ街を歩いていた。
ルーは大きな買い物籠をぶんぶん振り回し
ブルーに小突かれてはけらけら笑っている。

街は夕暮れ。
あちこちの店から焼いた肉やら
なにがしか調理された食べ物の匂いが漂って来る。
ブルーはまだフードを外すには早い時刻。

「おい、もうちっと落ち着けよ」

ルーは通りの店ひとつひとつ、あちらこちらと駆け寄っては覗いて回る。

「こら!菓子だけだって!」

ルーが高価な時計を覗き込んだのを首根っこから掴んで放り投げる。
着地した瞬間ルーは次の店へ駆け込んで行った。
ブルーは苦笑いでそれを見ている。
今日はルーに籠いっぱいの菓子を買ってやると商店街へ出たのだ。
色とりどりのキャンデー、様々な動物や物をかたどった焼き菓子。
遠くの街から来た小箱に入った砂糖菓子、甘い飲み物...

ルーはひとつ手に取っては空にかざして笑い声をあげた。
大きな籠はなかなか埋まらない。
引き回されては代金をちまちま小銭で払うのにも飽きて来た。

「おい、この銀貨やるから好きなだけ買ってこい。
オレはそこで待ってっから」


とうとうブルーは屋台のコーヒー片手に座り込んだ。

「いい香りだな」

屋台の店主はまだ少年。黒い肌に縮れた髪、色鮮やかなうすい布を
何重かにひっかけ遠い国を思わせる。
彼は白い歯を思い切り見せて笑うとカップに琥珀色の飲み物を継ぎ足した。
サービスかと思ったらしっかり手を出してくる。
ブルーはまあ、いいかと払ってやった。

今日は特別だ。もうすぐこの街を出る。ルーは置いて行く。
一日くらい何かしてやるかと籠一杯の菓子を買いに出た。
自分と暮らすと確実に先が見えている。どうせ知らない子供だ。
まともな街に置いて行った方が自分の為、本人の為、世間の為だ。

ルーが籠いっぱいの菓子を抱えて戻ってきた。
ぽろぽろと溢れるのをあわてて拾ってはまた零す。

「買い過ぎだって」

ブルーはひと掴みのキャンデーをさっきの黒い肌の少年の手に
押し込むとルーと歩き出す。
少年が知らない国の言葉で礼らしいことを叫ぶのが聞こえた。




「なあ、ルー。腹へってないか?」

ブルーの問いかけにルーはブンブン首を振った。
口いっぱいに頬張ったキャンデーがはみ出している。

「あっ、そう...」


しばらく行くとまたブルーが言った。

「まだ腹へってないか?」

ルーの口の中は膨らんだまま。

「...パンとか食べたくねえか?」

未練がましく言ったものの籠も溢れそうになっている。

「仕方ねえや、ルー、ちょっと来い。いいモン見せてやっからさ」


ようやく日が落ち始め暗くなって行く小道を
ふたりは街の外れへ歩いて行く。
丘を越えたあたりでブルーは勢い良くフードを脱ぎ捨てた。
にんまり笑った顔は悪人面。
森から泉へ続く道はこの時刻誰も通らない。
星がいくつか瞬き始めた頃、ふたりは泉のほとりにいた。

「いいか、面白いもんを見せてやるよ。そこに座ってな」

暗い水辺には月灯りしかない。
ブルーは水の中へ少し進むと両手を広げ突然叫んだ。
声のない叫び。
噴水のように水柱が立つ水面。
まっすぐに勢い良く噴き上がった水は空中で四方に散り
ルーとブルーの上に雨のように降り注ぐ。
ルーは驚きもせず嬉しそうに水のショーを見ていた。
ブルーはブルーで水柱の中心に立ち、久しぶりの水を楽しむように
操り続けた。

「ま、一度くらい遊んでやるさ」

ルーが水辺に近づいて来る。
ブルーは小さな水の馬を作って放った。
酒瓶の細工を見て気紛れに作り出した水の玩具。
ルーの肩や頭を駆けては崩れ、また現れる。
ブルーは昔よくこうやって小さな子供の相手をした事を思い出していた。
地上で言えば泥で人形をこさえてやるようなものだった。
懐かしい人々の顔が脳裏に蘇る。
楽ではなかったし、ろくでもなかったが不幸でもなかった。
悪意も存在したがそればかりじゃない。

ルーの手のひらで水の馬が跳ねる。
月明かりを浴びて水しぶきが夢のようにきらきら光る。
ブルーが笑った。
ルーの笑顔につられて子供の頃のように笑い出した。
水は青いふたりを何重にも取り囲んでは聞こえない
シンフォニーを奏で続けた。


いつしか水の子馬は月明かりとは違う蒼い光を放ち
ブルーの広げた両腕に飛び込んで消えた。

「...?」

ブルーの笑い声が止んだ。
暗い泉の金色の月明かりはいつか深い海の青と化している。
ルーを中心に青い光を放ちながら。

「嘘だろ...」

泉の中の海。
ブルーが思わず手を伸ばした瞬間、それは跡形もなく消え失せ
ずぶぬれのルーがにこにこ笑っているばかり。


「...そっか...やっぱお前...」


ブルーはルーの手を引くと岸に上がった。
ブルーが予想した通りルーの濡れた全身はすうっと水を
吸い込むように乾いていった。
ブルーもそれは同じだった。
ふたりはそれから黙って帰り道を辿って行く。
街へ入るとまだ飲み屋や遅い店は開いている。
夕方、コーヒーを飲んだ屋台もまだやっていた。

「?」


何気に覗いた黒い肌の少年が泣いていた。
ひどく殴られた痕がある。
口は切ったのかすっかり腫れ、頬には乾いてもまた流れる涙で
いくつもの筋ができていた。

「...ルー、お前先に帰ってろ」


ブルーは機嫌の悪い声でルーを先に行かせた。
屋台の少年の隣でやせた色白の貧相な男が小銭の箱を覗いては
怒鳴り散らしている。ブルーはこの状態を一瞬で理解した。
どう見ても親子ではない大人と子供。

「このクソガキめ、どうせ盗むんなら腹の足しになるものでも
盗んでくりゃいいんだ」

貧相な男の足下に色とりどりのキャンデーの包み紙が
転がっていた。多分少年はたったひとつも口に入れてないだろう。
ブルーは屋台に近づいた。

「...なんだ?てめえなんか用か」

男が喚いた。酔っている。
ブルーが笑った。泉とは違う悪意と敵意を含んだ顔で。

「コーヒーを売ってやがるくせに用かはねえだろ」

親指で軽く銀貨を弾いて見せた途端男も笑った。
見た者全ての気が重くなりそうな笑顔。
男は釣りすら出さずひったくって背中を向けた。
ブルーは少年からコーヒーを受け取ると顔を彼の耳元に近づけ
低い声で言った。






「やられたらやり返しな。
さもなきゃ一生支配されるぞ...」





驚いたように少年がブルーを見た。
言葉はよくわかっていないようだったが意味は通じたらしい。
ブルーは青い眼でほんの少し少年を見つめ、中指を立てた。

してやれる事などない。
ただ怒れ、とそれだけ眼で告げた。

「ブルー!」

ルーが駆け戻って来た。彼は黒い少年に微笑んだ。
腫れ上がった頬と唇が元に戻っていく。

「バカ!余計な事をすんじゃねえ」

ブルーがルーを掴んで歩き出した。
必要なものは他人が与えなくても本人が持っている。
それに気付くか気付かないかそれだけだ。
気付いた後どうするかも本人の勝手、
行きずりの他人が知ったこっちゃない。

黒い少年は痛みの消えた顔に触れ、何が起こったのかわからずにいる。
ルーは何事もなかったかのように手を掴まれて歩いた。

貧相な男がゆっくりと振り返る。
男は黒い肌の少年の顔を見ると、目を見開き呟いた。

「....悪魔だ...」

男はブルーとルーが見えなくなるまでずっと凝視していた。
黒い肌の少年は涙を拭うとコップや豆を片付け始めた。

祭りの少し前。




























61 謎〜The Riddle

深い海の底。

青く長い髪を梳きながら人魚が歌っている。
ごつい岩、巨大な生物の骨で作られた荒々しい王座。
人魚の歌を聴きながらその青い男は頑丈で粗末な王座にまどろむ。
歌う人魚にはその華奢な肌に不似合いな襤褸。
それでも彼女の青い髪は様々な色に変化しながら潮流に流れる海藻。
半身の鱗はきらめく宝飾貝。
青い瞳に品の良い青みのかかった白磁の肌。
そして何よりもその唇から紡がれる旋律は
たったひとりの王を慰めた。


彼女はただひとりの男の為に歌った。
遠い昔の伝承から新しく作られた恋の歌まで様々に織り交ぜて。
その王国はただひとりの男によって作られた。
逃げてきた恋人達はそこに流れ着き、妖魔を打ち倒しそこに王国を作った。

どんなに巨大で強固な王国もはじめの基はささやかなものだ、

男はそう言って黙々と王座を積み上げ、そこに座った。
倒した妖魔との戦いの傷跡が彼の足を激しく損なってはいたが
王座に座る彼の威厳を損なう事は微塵もなかった。


そして人魚の女は彼の為に歌った。
自らの種族とは違う容姿の男の為に。
彼の青い髪は暗い混沌の鬣。
青い肌は冷たい潮流。
口元から覗く鋭い牙はがっしりした横顔に凶悪な陰を落とす。
唇から放つ声の多くは咆哮。
爆流を生み破壊を連れてくる。
鱗だらけの二本の足は鋭い爪を持ち
この海でもっとも醜い者としてこう呼ばれた。

『海ヘビ』



彼は一日に一度必ず人魚に問いかける癖があった。
さらうように連れ去った人魚の娘。
娘の姿を一目見た時から彼は何もかも目に入らない愚か者となった。
彼は注意深く声を落として聞いた。
それでも彼のみすぼらしく強固な王国一帯に響き渡る『声』



「何故?」

すべての生き物達は怯えて岩陰に消える。
人魚だけが微笑みを絶やさぬまま柔らかな視線だけを向けた。
彼女は特に答えなかった。
歌を変えただけ。
男はその歌を聞くのがとても好きだった。
一度だけ歌の題名を問いかけたがそれさえも人魚は答えなかった。
柔らかな微笑みで男の手を握る。

「謎だよ。この海で最も美しい者が何故最も醜い者に?」

「その答えは多分この子が知っていますわ」

人魚はそっと男の手を自分の腹部に導いた。
醜い男はその青い目の奥に自分でも理解していない感情を浮かべた。
その感情は人魚の知る限りどんなに優美で繊細な男人魚よりも
美しく見えた。
凶暴な容姿の奥深く隠された特別なもの。
それは表に現されないだけ深く純粋に存在できていた。
それに比べればどんな美しい男人魚の囁きも耳に残る事すらなかった。
男の瞳の奥にそれを見た娘は退屈な日常を捨てた。
厳しい世界も知らず、高度な教育と理想で育てられた娘は
『美しいもの』が欲しかった。
それが何であるかまでは理解しないまま。

「何故?」

繰り返される男の問いかけ。
それは答えを求めるでなくその存在がそこにあることを確認する行為。
粗末な王国の王は胸躍る『謎』を抱いてその日を待つ。


「名前はどうしようか」

「さあ、まだ考えていませんわ。
それこそ『リドル』とでも名付けましょうか」

「謎...か。妙な名前だ」

「生まれるまでまだ時間がありますわ。
男の子か女の子かもわからないのに」


人魚が笑った。
男はその手の爪を用心深く人魚の肌から遠ざけながら触る。
人魚は男の耳にそっと唇を寄せ囁いた。


「私はあなたによく似た男の子が授かる事を願いますわ」

「さぞかし乱暴な息子になるだろうな...」


男はぶっきらぼうに答えると顔を背けた。
人魚は微笑んで気にもしない。
彼女は知っている。
彼があさっての方向でどんな表情を浮かべているのかを。
そしてそれだけがこの恋人達の知る謎ではないものだった。



娘は再び歌い始めた。

男の片足の痛みを和らげる為に。
彼女の唄に備わったささやかな治癒能力。
王座の男は明日の為に眠った。
この王国を強大なものにする為に明日もまた妖魔と闘わねばならない。
そしていつか同胞を集めて本当の王となるのだ。
人魚の娘にふさわしい宮殿と美しい宝飾品を。

男はまだ渡せない妖魔の牙を彫った髪飾りを懐に隠したまま
遠い日の夢をまどろみの中に見ていた。
男の夢の中でその髪飾りは高価な貝細工や真珠を輝かせていたが
娘の微笑み以上に輝く事はなかった。