草原の満ち潮、豊穣の荒野
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40 ここは海じゃない

商業都市ヒダルゴ。

この街には大きな森や泉がある。
賑わった場所と静かな場所がバランス良く配置された街。
見つけだした泉も完全な自然物ではなかったが
深夜、誰かが訪れる場所ではない。
見回りの者はいたようだが。


そんな夜明けの泉。
水面から音も立てず顔を出し、辺りを見回す者がいた。
無人。『彼』以外は。

彼は人の姿の上半身に続いて、ぬめった蛇体のような半身を
あらわにしながら岸辺に這い上がった。
青白い肌、そして長く青い髪。
海の獣人、ブルー。
彼は注意深く水辺を調べて這い回った。
似たような種族が暮らす痕跡を求めて。
だがここは地上。

時折獣人らしき者を見かけても、彼等は大地の上に生きていた。
ブルーのような水棲種族は獣以外見当たらない。
彼は肩を落とし、溜め息を漏らすと捜索を打ち切った。



地上、ここは風と土の世界。
晴れた空こそ青く、白波のような雲が流れるが
彼にとって乾きを運ぶ苦痛でしかない。
それでなくとも海を出てまだ一年足らず、見知らぬ世界は
わからない事だらけだった。唯一の救いは
地上人が己と意志を疎通できる事。

ただし、今の彼の姿にその保証はない。



岸辺に上がった彼はうずくまって呻いた。
激痛と共にバキボキと骨の軋む音が響く。
長い胴体を激しく地面に叩き付けて転がり回る数分間。
激痛の中で彼は、いつも何かが笑うような声を聞いていた。


ようやく痛みが治まった頃、彼は人の姿に戻っていた。
火傷はすっかり消えている。海ではこんな事なかった。
地上に出てからだ。


「...くそったれめ。何を持たせやがったんだ。
じじい」

ブルーは悪態を付きながら身支度を調え、穴を掘った。
重い旅装を埋めておくのだ。体を休め、旅の必需品を揃えねばならない。
水、食料、痛んだ遮光コートの代用品、薬の材料、それから.....

彼はよろよろと売れそうな品を見繕い始めた。
魔物の子を押し付けた厄病神の言葉を思い出しながら。
あんなもの、買わなければ良かった。
夜の空をひとり、見上げるのにうんざりしていたせいか。
連れでも欲しかったのか....

彼は膝を抱えて座り込むと呟いた。
すっかり口癖になってしまった言葉が出る。


「...ここは海じゃない....」


知る者もなく、どうしていいかもわからない。
ただひとつだけわかっているのは、みじめに野垂れて死ねば
自分を追った連中が喜ぶ、という事だ。
こうやってのたうっていても同じ事だったが
それは考えない事にしていた。


「ここは海じゃないんだ....」


荷袋を引き寄せる。中身はもう残り少ない。
彼にとって必要な物は増えて行くばかりだというのに。
なくなってしまった時、どうすべきか考えながら
暗い顔で覗き込んだ彼が小さく声をあげた。



緑色の小瓶。


「....」


昔、リラから盗んだ薬。
酔っ払いのじいさんに飲ませようとした毒。
今、はじめて彼はべろべろじいさんの気持ちが
わかったような気がしていた。

目を伏せて、彼が再び呟いた。

「楽園なんかどこにもない」

あの飲んだくれじいさんも、もういない。
優しいリラも。
本当ならあの街に戻って今頃....




「帳尻なんて合うもんか。
こんな物入れやがったのがその証拠さ」


小瓶を持つ手が震える。
彼はしばらく食い入るようにそれを見つめた。

これを飲めばいいのか。
そうすりゃこんな望みもしない場所で生殺しの目に
合わずにすむんだ。自分で選んでオレは死ねばいい。


そうさ、オレはクズなんだ。口先だけで何も出来なかった。
育ててくれた人の物を盗んで、人を殺して喰って
何ひとつうまく行かなかった。
子供もあの人魚野郎も見殺しにした。
エレンディラもどうなったかわからない。

そしてここに来て....

白い雛鳥の声が聞こえた気がした。
唇を噛む。


あんなチビ一羽、ちょっと荒野に引き返して放せば
それで済んだんだ。そんなに遠くなかったはずだ。



「......オレだってマトモじゃない。
人を喰って、それから....」


幻聴がもう一度聞こえた。
背中をぽん、と押すように。



ブルーは凄まじい勢いで小瓶の封をちぎり取っていた。

生きてたって何もできない。
ヘタすりゃまた誰かを喰うかもしれない。
あのチビみたいにブッ殺されるのも
まっぴらだ!


小瓶を一気に呷る。
ほとんど発作的な行動。

喉に流れ込んだそれは甘くなめらかだった。




....飲んじまった。




ブルーは小瓶を落として座り込んだ。


「クズのまんまかよ...」


ぼろりと涙が落ちる。

眠るように死ねる、とじいさんは言ったっけ。
さっきまでこんなつもりじゃなかったのにな。
もう、いい。
もうがまんできなかったんだ。
オレは誰も傷つけるつもりはなかった。
なのに何もかもがうまく行かないのはなんでだ?
べろべろじいさんだってリラが止めなきゃ殺してたかも
しれない。助けるつもりだったのに。

辛いよ、じいさん。オレさ、万事がそうだった。
ほんとにどうか...してる...



意識が遠のいて行く気がする。
全身から力が抜け始め彼は座っている事も出来なくなった。
ぐにゃり、と仰向けに倒れる体。痛みも感じない。

ああ..これから死ぬんだ。

彼ははじめて地上の空を真正面から見た。
もうこんな場所からはおさらばだ。
何処へ行くかなんて知った事じゃない。
耳ではない聴覚にホイッスルのような音が聞こえる。
朝の訪れを示す空気の音を聴く。


『はは....あはは...』



ブルーの目に白んだ空が映ったその時。
彼の体にあの笑い声が響き渡った。
彼はこれ以上ないくらい目を見開き、顔を歪ませた。


太陽が深海で生まれた彼を照らしている。
彼は仰向けのまま、絶望の叫び声を上げた。
意識が戻ってくるのと同時に焼け付く痛み。
死にながら彼は生きていた。

登る太陽は地獄の開始の合図。
そして、そこから逃げる事すら許されない事を
彼は知り、焼かれながら絶叫した。

顔を覆って彼は全てのものを呪った。
生まれて来た事も、海も地上も何もかも。


「いったいオレにどうしろって言うんだッ!!」



ブルーは叫びながら荷袋から青い球体を掴み出した。

「こんなもの!」



握りしめた手の中で光が揺れる。
水の中で揺らめいていた青い光。
投げ付けられた石の痛み、怒号、そしてエレンディラの痩せた肩の感触...

スラムの街角、リラの食卓、片腕を食いちぎられた男の叫び声、
顔に走った熱い痛み、砕け散った女神像、じじいに突っ込まれた酒樽
自分をののしった人魚の娘...


「オレだって必死で....ッ」


彼は光を握り締めたまま嗚咽した。


登る朝日は彼を容赦無く焼き、地獄が始まる事を告げる。
彼はのろのろと立ち上がるとコートとフードを被り
歩き出すしかなかった。


街へ。

今日を生きる為に必要ないくらかの糧を求め
彼は顔を洗い、作り笑いを顔に貼付け街へと歩いて行った。



よく晴れた青い空。
泉には木漏れ日の光がきらきらと光って揺れている。
転がった小瓶に残った僅かな雫。
小さな雑草に朝露と混じって染み込んで行く。
ほどなくその小瓶の周りの緑は白く
しおれて枯れた。




猛毒の小瓶。

『死を思え。そしてその向こうにあるものを見よ』

老いた司祭の最後の伝言。
ブルーにはまだ届かない。









39 Dead Or Alive 火と水と灰

森の奥深く。
木々と薮の隙間。

ブルーは硬直したまま腹を据えた。
これでも子供の頃から海で魔物と渡り合って
生きて来た。

間違っても黙って喰われる気はない。
魚の干物じゃあるまいし、陽に焼かれてゆっくり
死ぬくらいなら...


喉にゆっくり手を当てる。
使える手段を惜しむな。

ここは海じゃない。
...出来るか?

自問自答を彼は打ち消した。
雛鳥を足で蹴飛ばし背後に放る。
少しずつ嫌な気配が空気に広がって行く。
本能が逃げろ、と告げるがあまりにも近い。

なんで気が付かなかったんだ。
くそったれ。
間違ってもこんな気配は街人じゃない。

息を吸い込みながらゆっくりと立ち上がる。
ブルーの喉の周りに微風が生まれていく。
彼はまっすぐ気配の真正面に顔を向けた。
おそらく向こうも同じようにこちらを捉えているだろう。
間違いなく緊張した空気が張り詰めている。
どちらが先に仕掛けるか、僅かな均衡。


ブルーの口が開きかけたその時だった。



「人ならば警告しておく。
仕掛ける気ならやめておく事だ」



気配の主の通告。
纏った気配とは裏腹に穏やかな声。
ブルーは戸惑った。
声の波長、波紋から情報を読んだそれは地上の人間。
しかもごく一般的な体格の成人男性。

「....あんた、人間か」

年令20代半ば前後、整った発音
感情の乱れもない落ち着き払ったそれは
深夜の森に無気味なくらい似つかわしくない。

「ここは『人』の暮らす領域だ」

声の主が葉蔭から静かに現れた。
落ち葉を踏んでいながら足音すらしない。


「....え。嘘だろ....」


ブルーは目を疑った。
読み取った声の情報通りとは言え
あまりにも普通の人間がそこに立っていたのだ。
黒い服なのか暗闇に紛れてはいたが
大仰な装備をしている様子もない。
僅かに目立つものといえば、片手に金属質の棒のようなものを
持っている程度か。

「用があるのは君じゃない。
が、後ろにいるモノについての説明は
してもらおうか」


穏やかながら有無を言わせない響きを持った口調。
ブルーにとって一番気に入らない類いの話し方だった。


「...街の方...ですか」

「尋ねているのは僕の方なのだが?」

「ああ、そうかい」


ブルーは幼生を掴むと背を向け立ち去ろうとした。

なんなんだ、こいつ。冗談じゃ無い。
どうせこんな時刻こんな場所に来るような輩は
ろくな奴じゃない。人かどうかも怪しい。
さっさと退散した方が身の為だ。


「君がまっとうな『人』ならば、手荒な真似はしたくない」



言ってくれる。

ブルーはフードを目深に被り、背を向けたまま答えた。

「まっとうかどうかは勝手に決めな。
こっちはあんたがどう思おうと知ったこっちゃないんでね。
それともあんた、こいつが欲しいのか?」

「そういう事になるかな」


男の返答。
彼は思わず振り向いた。


「....あんた、魔獣使いか?」


「魔獣と知って持ち込んだわけか」


...くそったれ。
ブルーは己に毒付いた。


低い声と同時、その男は間合いの距離に立っていた。

「だったらどうする」

「容赦は必要無い、と言う事だ」


ブルーは全力で走り出した。
一番避けたかった事態だ。
こんな尋常じゃない気配の奴の相手なんかごめんだ。
多分、治安維持の何かしら役職についている男だろう。
逃げるが勝ちだ。


「うわっ!」

足下に銀色の筋が走ったかと思うと
ブルーは派手に転がり倒されていた。
暗闇の中にも関わらず、目前に突きつけられた金属棒が
冷たく微かに光っているのを見る。


「大人しく渡せば、この場のみの事で済ませよう」

「そりゃ粋な計らいで」


ひっくり返されたブルーが仏頂面で答えた。

こいつの言う事はなんでこういちいちムカつくんだ。
名乗りもせず、いきなりコレかよ。
まわりくどい喋り方も気にいらねえ。人魚共もそうだった。
慇懃な連中なんざ関わりたくもない。


「...どちらのお役人かは知りませんがね。
こちとら事情ってモンがあるんだ。
多少法に触れたかもしれないが、もう少し
やり方ってもんがあるんじゃないですかね」

「事情以前の問題だ。
街なかを人食い連れで歩くつもりなのか?」

「ひ..人喰いったってそりゃ、成獣の話だろ!
こんなチビに一体何ができるってんです?」

男は静かな声で答えた。



「女子供なら充分襲える大きさだよ」


ブルーの顔が青ざめ
脳裏にアルファルドの真顔が浮かんだ。


なんてこった。オレはそんなのを懐に入れて
あの人の波を歩いてたのか。


「君はまさか、街道を通って連れて来たんじゃないだろうな」

「..........」


「違法な魔獣使いがどんな目に合うか知っているかい?」

「..........」

ブルーは背中に幼生を持ったまま嫌な汗を流すしかなかった。

「八つ裂きだ」



どうしてオレはこう行く先々でこんな面倒な事にばかり
巻き込まれるんだ。


「僕は役人では無いんでね。それを素直に渡してくれるなら
君の事には関知しない」

「....こいつを一体どうするつもりです?」


仕方なく幼生を彼の前に差し出す。
嘴の紐を解いて軽く撫でた。


「悪く思うなよ。ちび助」

不機嫌そうに白い産毛を膨らませた幼生が
よちよちと歩き出した瞬間。



ブルーは目の前で起こった事を理解するまで数秒要した。


鈍い音と共に小さな羽毛の塊は
背中から胸部を貫かれ、足だけを震わせている。
目の前の男が突き通した銀色の棍を持ったまま
何事か呟いた。

一瞬の焔。

その焔にブルーは彼の顔を始めて見た。
彼もまた同じように相手を見た。



小さな体は灰さえ残らなかった。
ただ羽毛が一枚だけ
ふわりとブルーの目の前に浮かんで落ちた。



「.....おい」


銀色の棍を手にした男は片方の手で
何事もなかったように己の眼鏡に手を添えた。
前髪が半分顔を覆って表情まではわからない。

無言で立ち去りかけた男の背中を見て
ブルーが突っかかった。


「ちょっと待てよ。いくらなんでも...」

振り向きもしないまま男は無感情な声を返す。


「人食いの魔物にどんなエサを与えるつもりだ?」

「それは....」

ブルーが口ごもった。


「それとも君がエサになるとでも?」

「.....」

「半端な魔獣使い崩れは迷惑だ。
尤も彼等とて生業にする以上、万が一にでも被害を出すような
バカな真似はしないがね。

君には魔物の始末に口を出す資格すらない。
治安部隊に引き渡されないだけでも感謝するんだな」



黒髪の男は現れた時のように足音も立てず姿を消した。


夜更けの森。

彼は俯いたまま黙って歩き始めた。
再び訪れた静寂にブルーの足音だけが響く。

...水を探してた途中だっけ。
水さえ見つかりゃこのひどい気分もなんとかなるだろう。

そんな事を思いながら彼もまた、森の奥へと
立ち去って行った。













38 地上にて GREENFIELDS〜道連れ

「おい、そこのあんた、こいつを持って行かんかね」


夕刻近い市場、中央通りからやや外れた片隅。
小太りの鼻ヒゲ商人が手招いた。

「あんただよ、あんた!
そこのフード被ったダンナ!」


通り過ぎかけた人影を飛びつくように掴み止める。

「なあ、あんた、どっか遠くから来たんだろ?
そんな氷の中みたいな格好でさ...」

彼はつかまえた相手の顔を覗き込み
勢い良くフードをひっぺがした。
旅人や旅人相手の商人達が集まる街道沿い。
人の流れがいっせいに立ち止まる。


「うっぷ...」


男が呻いた。

乾燥しかけた海藻のように
べたついた髪が覆った、小汚い事この上ない顔。
伸ばし放題の絡まった髪と
その隙間から覗く眼は同じ色。
ブルー。


「何日風呂、入ってない?」

ベタついた髪に触わった手を
尻で拭きながらヒゲ男が尋ねた。
だが、小汚い男は横目で睨み
フードを被り直しただけだった。
再び流れ始める人の波。


「...顔は若いな」

ヒゲ男は相手の顎をひょいと掴むと
己の顔を近付けて言った。

「いいかね、ボーイ。男はな、中身も大事だが
身だしなみもおろそかにしてはいかん。
運のいい事に今ちょうど
ここに石鹸と剃刀がある」

「放せ」

「ブラシもある」

「いいからその手を放せヒゲ親父」

ヒゲ男は眼を剥いて叫んだ。


「えらい訛りだ!やっぱり遠くから来たんだな。
遠方の旅人には親切にしてやらにゃいかん。
運のいい事に今ちょうど
ここに干し肉がある」

「...」


若い男は黙ってヒゲ男を真正面から睨みつけた。


「ひでえ顔してるなあ」

「てめえもだろ」

「うわはははは!いや、ツラの事じゃない。
その顔の傷だよ」

ヒゲ男が子供でもあしらうように肩を揺すって笑う。
若い男はいっそう不機嫌な顔になると
ヒゲ男の手を掴み放って歩き出した。

「あ、おい、待てよ!
人の話は聞けって。オレは薬だって運のいい事に....」

周囲をグルグル回りながら
ヒゲ男がまくしたてる。


「本当だって!いい薬があるんだ。
安くしとくからちょっとそこで待っててくれ」


ヒゲ男が自分の店に飛び込んだ隙に
若い男はさっさと歩き出した。


「おーい!こら!待てって言ってるだろ!
生きのいい生薬があるんだって!
あんたの顔、そのままだと菌にやられて
肉が腐って落ちて骨がはみ出すぞ。
そこのフード被った青い頭の兄ちゃん!
お前だお前ーッ!!」


大声で叫ぶヒゲ男。
面白半分のヤジ馬が大勢集まって来る。
若い男は舌打ちして振り返ると目を剥いた。

ヒゲ男がにこにこしながら白い鳥の雛らしきものを
ぶら下げている。
片手に握られているのは大きなナタ。
人の頭程の雛が悲鳴を上げた。


「こいつの血は精力がつくんだ。
おい、見てるあんたらもどうだね、これ一匹で
5人前は出せるぞ」

「俺もくれ」

「こっちもだ!」


次々に声が飛ぶ。ヒゲ男は満面の笑顔で雛を押さえ付け
ナタを振り上げた。




「....何だね?」

「...」


ナタを握った腕は若い男の手で
空中に止められている。
ヒゲ男はにやりと笑った。


「お買い上げありがとうござい」

「いや、そうじゃなくって...」

「ならブッた切って皆に売るから手を離せ」

「.....銅貨5枚」

「おう、子供の使いならとっとと帰れ」

「銀貨1枚」

「金貨10枚」

「....運がなかったな」



若い男は手を離して歩き出した。

「おい、待てよ、じゃあ何か代わりになる物で
手を打とうじゃないか、兄弟」

「誰が兄弟だ」

「一度取り引きすりゃ兄弟だ。それより遠くから来たんなら
なんか珍しいモンでも持ってないか?」


ヤジ馬のひとりががなった。


「おい!ヒゲオヤジ、精力剤はどうした!」

「ああ、今売れた」

「化膿止めって言わなかったか?」

「細かい事を気にするもんじゃない。若いの」


「おっさん、これで勘弁しろ」


丈夫そうな革袋から彼は一粒の真珠を取り出して見せた。
小粒だが白というよりは青みがかった黒に近い。


「ずいぶん小さいモンを...真珠か」

「相場は調べてある。悪い取り引きじゃないはずだ」

「.........」


ヒゲ男は真珠と青い男の爪先から頭の先まで見回した。

「海辺の街から来たのか」

「まあ、そんなところだ。文句がなきゃ
こいつは持って行くぞ」


足を縛られた雛鳥をぞんざいに掴んで彼は歩き出した。

「あ、ちょっと待て!」

「まだ何かあるのか」

追い掛けて来たヒゲ男は彼の耳もとで
素早く囁いた。

「いや、兄弟。オレの名前はアルファルド。
良かったら他のモンも売らんか?」

「無い」

「じゃあ、あったらオレのとこに来いよ。
海辺からの物はいい商売になる。
お前さえその気ならルートだって用意できるぜ」

「気が向いたらな」

気のない声を返して彼は背を向けた。

「金はあった方がいいぞ。
兄貴のオレが力になってやるから
いつでも来てくれ」

ヒゲ男はポケットから小さな書き付けを取り出して
彼に押し付けると真顔でもう一度囁いた。


「弟だから忠告しとくが、そいつはさっさと喰うなり
バラして売った方がいいぞ」

「猛禽の子か」

「知らんのか?お前」

「お前呼ばわりされる筋合いはない」

「名前を知らんだろ」

「....」

「名前くらい教えろよ。教えたくなきゃ勝手に呼ぶがな。
ヤセ、とか青いのとか」

「...ブルーだ」

「まんまじゃねえかよ」

「ほっといてくれ」


ブルーは雛鳥をブラ下げて覗き込んだ。
産毛に覆われた純白の塊。
大型の鳥の雛のようだ。


「そいつのエサ知ってるか?」

「獣の肉か何かだろ。嘴が曲がってるからな。
肉を喰う種類に見える」

「お前、バカなのか頭がいいのかわからん奴だな」

「どういう事だヒゲダルマ」

「...アルファルドだ、ブルー」


ヒゲ男は図星の体型を口に出され
不機嫌に言った。


「そいつは魔鳥の幼生なんだよ。青二才。
生きたままの取り引きは禁じられている」

「アルファルド、あんた、やってたじゃないか」


「いいか、ブルー。オレは言ったよな。

『ルートなら作ってやる』って。

海辺の品は少ないから貴重さね。
つまり偽物作ってさばく手もあるわけだ。
乗れよ。いい目見させてやっからよ」


青い男は口元だけの笑いで返す。
代償なしで物事が動かない事を彼はよく知っていた。

「ふん、いいのかい。さっき会ったばかりの相手だぜ」

「そん時は魔鳥の事をチクるだけだ。多少演出付きで、な」

「....」

「第一こんなモン買う奴はまともじゃない。
そもそもそんな顔の傷、カタギとは言わせんがね」

「....わかったよ。
何かあったらあんたを訪ねるさ。だから面倒な事には
巻き込まないでくれ」

「お互い様さ。とにかくそいつは晩飯にでもしちまうこった。
今ならすぐ死ぬ。育てる奴は魔獣使いか
外道の魔道師くらいだ。運良く会えれば金にゃなるが
大抵はその前にテメエがそいつの腹に入る事になる」

「....とんでもないモン押し付けやがって」

「喰えば問題ないって。まずいけどな」



ヒゲの男、アルファルドはブルーの背中を
ぽん、と叩いて笑った。

「また、どっかで会おうぜ」









夜。



あたりはすでに人影もなく
宿も見当たらない。
彼は立ち止まると街道を逸れ
手頃な木を探し歩いた。

やがてひとつ人ひとり腰掛けてやや
ゆとりがある枝振りの古木を選んで登る。
何度か滑り落ちてはどうにか一夜の宿を
確保した。

手を差し伸ばして風を聞く。


「狼か」


遥か遠くから伝わる遠吠えの振動。
海のそれより遅く、弱い。

雛が小さく鳴いた。


「どうしたもんかな...」

魔鳥の幼生は彼の懐に潜り込んでうとうとしていた。
時折、ピルルと親に甘えるような声で鳴きながら。


「くそ...」


陽に焼けた肌が腫れ上がってひりつく。
ヒゲ男が言ったように顔の傷も火傷が加わって
ひどい有り様。見られた顔ではない。


夜歩けば問題ないのだ。
地上とて人のいない時刻にうろつけば
海とさほど変わらない。
野獣や盗賊の餌食になって野垂れ死ぬ事さえ
『かまわなければ』快適な夜の旅路。

行くあてもない。
ただこの忌々しい太陽に焼かれて倒れた場所が
終着点である事だけはわかっている。
それまでは毎日だって太陽に中指を突き出して
歩いてやる。



「...次の街に水場があればいいが...」


見渡す限り平野、海は既に遠く潮風すらない。
地上の川や泉は海と異質な世界。
焼かれる体を冷ます
ひとときのオアシスではあったけれど。





朝。




「あばよ。好きなとこに行きな。
人間のいないとこを勧めるけどな」



ブルーは樹に雛を置いたまま、朝の街道を歩き始めた。
火傷はいくらか引いていた。彼の青白い顔に地上人と
似た赤味を差して見える程度に。
彼はそうやって毎日歩いていた。



街道。

朝日の中、馬車馬のトロットが響き
砂埃を撒き上げながら何度も通り過ぎて行く。
大きな都市が近付いて来た証だ。
旅人の数も段違いに増してゆく賑やかな街道。
彼は何度も並木の蔭で休みながら歩いた。

足が痛む。
よく晴れた空。
鳥の声が響く。


「..え?」


並木の木陰で彼は飛び起きた。
聞き覚えのある声が確かに聞こえた。
彼は音を『感じる』事が出来る。
一瞬でその声の主と居場所を突き止めた。


「お前、どこに潜り込んでる」


彼は己の革袋を覗いて溜め息をついた。
何度か休んでいるうちにこいつは
追い付いて潜り込んだのだろう。



「勘弁してくれ....」


雛が懐に潜り込んで顔を出した。
黒くつぶらな瞳。
見た目はただの白い幼鳥だ。
己の所定の位置、と決めたそこで
そいつは甘えた声を上げた。

街道は人通りが絶えない。こんなものを見られれば
どんな面倒に巻き込まれるかわかったものではない。
彼は後ろを向いてみた。
街道から逸れた平原のむこうは荒野。
何処か遠くへ置いて来なければ。
食料なら干した魚介でしのいできた。肉にはまだ馴染めない。

「くそっ...」

街道の先に目を戻す。この先には大きな都市があると聞いた。
腕と顔の火傷の痛みが収まってはぶり返す。
荒野まで引き返すのはきつい。


「魔獣使いくらいいる事を願うか...。
いざとなったら死体にしちまえばいい」


彼は溜め息をついて懐の上に用心深くコートを重ね合わせた。
季節は地上で言う春。
まだ花には早いが、そろそろコートを脱いで人々は歩いている。
そんな中、彼の姿はまるで極寒の果て。
旅の革袋やブーツも海獣の皮で何層にも縫い、仕立てられた物。
コートはごく普通の地上の物だったが
彼はそれを3重に重ねていた。


賑やかな街道を歩いて行く。
あと少し歩けば都市に入る。水路はあるだろうか。
大きな街ならば運河があるとも聞いた。
水辺に沿って歩くだけでも気が軽くなる。
ただし海路だけはごめんだ。

子供の笑い声、様々な匂い、音楽が流れ込んでくる。
街はもうすぐ傍。
異質な彼ですら、大きな街へ流れて行く人の波に
すっかり溶け込んでいる。
多少遠い場所からやってきたただの旅人。
誰の目にもそう見え、特に気にする者もない。
彼にとってもそこはまだ海よりマシだった。
例え、彼が穏やかな日射しに焼かれて歩いていたとしても。









「さあ、街だ。頼むからおとなしくしててくれ。
うまく行けば引き取り手が見つかるだろうよ」


巨大な商業都市。
深海の都市とは全く違った賑わい。
人の建造物の向こうにはいくつかの丘や森が見える。

「すみません、この街に水路は?」

無作為に住人を選んで彼は尋ねた。
顔は見えないように俯き、言葉は注意深く丁寧なものを
口にした。


「旅の方かね。商業都市ヒダルゴへようこそ」

親切そうな老紳士がにこやかに答えた。

「ええ。あの、すみませんがこの街に運河か
水路のようなものは...」

「運河だって?とんでもない。皆陸路で入って来る。
ここでの一番の売り物は馬だよ。
丈夫でいい足を持った馬を求めて昔から
いろんな旅商人が集まって来る歴史を持つ街だ。
なんなら一頭探したらどうだね。
ここならどこへ行っても損をする馬なんかいない」


老紳士は誇らし気に辺りに繋がれた馬を指差した。


「動物商が多いので?どうも馬は苦手なもので...」

「ん?探せばまあ、駱駝や驢馬もいるだろうが
足の手段なら馬に慣れた方が早いよ。
ここの馬は世界一だ。乗馬の訓練場だってある。
いい機会だから挑戦してみてはいかがかね。
なんならどこか紹介しよう」

「ああ、いえ、出来れば珍しい動物を扱う方を。
私は旅商人で珍しいものを探しているのです」

「ここは名馬の『名産地』だ」

「...申し訳ない。慣れないもので失礼を...」


老紳士は不愉快そうに立ち去って行った。
他にも数人当たってみたがかんばしくない。
尤も見ず知らずの人間にあっさり探せるくらいなら
禁制でもなんでもないが。


「やっぱり駄目か。簡単に見つかるくらいなら
あのヒゲダルマがとっくにそうしてただろうな...」


途方に暮れて街の大通りから森の方へ歩いてみる。
運河はなくとも沼や泉、湖があれば...

陽も暮れて旅人達は宿へ戻って行く。
彼だけが反対に人気のない方角へ歩いていた。

「騒ぐなよ」

懐で幼生がもぞもぞと動いている。
そろそろ水なり餌なり与えなければならない頃だ。

生かしておくならば。


「大丈夫ですか?」

人目を案じて腹部を押さえ、俯きがちに歩いたのが裏目に出た。
年輩の女性の心配げな声。


「ああ、ご心配なく。持病持ちなもので」

「医者か薬は必要?」

「いや、それには及びません。私は旅の薬売りで...」


顔を上げた彼を見た彼女は、作り笑いで素早く歩き去った。
厄介な病気持ちの浮浪者にでも見えたのだろう。
彼は苦笑い半分で風の匂いを嗅いだ。
水の匂いが微かにする。
泉くらいなら何処の街にもある筈だ。

見つけさえすれば、深夜にでもこっそり入れる。
街なかにも噴水や池があったが昼間から入れば
いい見せ物間違い無しだ。
出来れば人気のない水場がいい。

森の奥へ灯も持たず歩いて行く。



「少し休もうか。お前も魚で手を打たないか?」



人気の無い静かな森の奥。
彼は座り込んでフードを脱いだ。
幼生がコートの間から顔を出した。

「水だ。生きてたきゃこいつでがまん...」

つんざくような声が響き渡った。小さな幼生は
信じがたい大声を上げ、辺り一帯の木々を震わせた。
空腹。
本能のままに魔物の子は鳴き喚き始めた。


「待て、こら!静かにしろ!」

あわてて幼生の口に適当な干物を突っ込むが
拒絶して吐き出し、鳴き声は更にひどくなった。

アルファルドの嫌な忠告が脳裏を過る。
獣肉でも買っておけば良かった。
今の声で森の動物も逃げただろう。
いや、動物ならいいが、もし誰かにこの途方も無い
喚き声を聞かれたら....


「死にたくなきゃ黙ってろ!オレは鳥肉なんか
欲しくないんだよ」

必死に嘴を合わせて紐で縛る。
息は鼻の穴から風が出ているから大丈夫だろう。
彼はひりつく顔や腕に耐えながら嘴の隙間に水を
流し込んだ。地上の生き物なら水も必要な筈だ。
勿論己にも。


「!!」


彼は背後に異様な感触を感じて振り向いた。

人影?

いや、足音はおろか何かが近付く気配もなかった。
何もないが今、間違いなく
『そこ』だけさっきと空気の流れが違う。

ブルーの聴覚は並の地上人より鋭い。
耳以外にも皮膚から聞き取る事が出来る。
火傷で鈍っていても獣が近付く事くらい察知できた筈だ。

深夜、暗い森の奥。
地上はまだ未知の世界。
魔物でも呼び寄せたか、と彼は体を硬直させていた。