草原の満ち潮、豊穣の荒野
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17 深海の老司祭〜オンディーン




「名無しでは困るからのう....」


場末の酒場。
黙り込んだ少年を前に酒を呷りながら老人は腕を組んだ。


「ふむ」



立ち上がり、何気に見ている店主を呼ぶ。


「桶をくれ」

「は?」

「桶じゃと言うておる」



店主はそれ以上訊ねず
老人の要望に応えた。


テーブルに乗った大きな洗面器程の容器。
食器やスープ皿はどけられ酒瓶のみが
数本並べられている。
老人は深さと広さを確かめると満足そうに笑った。
少年はおし黙ったまま、座りもしない。


下を向いたまま彼は戸惑っていた。
何かがおかしい。そう自覚したものが
さっきから大きくなって行く。

老人の問いかけには徹底抗戦を決めている。
何ひとつ話すつもりはない。




そしてそれより今。

頭の中の奇妙な感覚。
激しい頭痛は消え失せ、陶酔感さえ伴って
瞼に焼き付いたものを『眺めて』いた。

声のない映像にも似た記憶の中
あの男が右の肩を押さえて叫んでいる。

それは少しずつはっきりと...



「さて、と」


老人がおもむろに酒瓶を桶に傾け始めた。
トプトプとテーブルにあった大瓶をすべて
流し込んでいく。
強烈な酒臭、鼻歌まじりの老人。






「司祭、まあ程々...」

声をかけた店主が眼を剥いた。








「があっ!!」




飛び散った酒飛沫。


老人が突然、連れの頭をひっ掴んで
桶の中に突っ込んだのだ。




「しっ...しさ....」


呆然と立ち尽くす店主。
振り返った店内の客が全員固まる。



突発的な静寂。


老人の鼻歌にごぼごぼと異様な叫びまじりの
水音が重なって響く。
もがく少年の頭を片手で押さえ込んだまま
老人は次の酒を注文した。


「しっ司祭、あんたその酒は最高度数の...」

「世界中で一番旨い酒じゃな」

「ぶはあッ!!!!」


激しく髪から酒を飛び散らせて
少年は桶から脱出した。



「なっ...何しやが...」

ゲホゲホと咳き込んで口上が続かない。
怒鳴り声だか呻き声だか判別不能の叫びをあげて
のたうちまわる。


「.....!!!!」


急激に喉から全身が焼ける。
声が詰まる。顔はおろか耳まで赤い。
心臓がひっくり返りそうな衝撃。
胸をかきむしって床を転げ、叩いた。


「もういっちょ」

「...げェ...」


悲鳴をあげる間もなく再び酒の海に戻される。
青い髪がアルコールを吸い込んで行く。
海の者の一部は髪も呼吸器官に相当する。
青い色が急激に色褪せ水色に変わった。



「おっと」


老人が少年を掴み上げてテーブルに放った。
少年の肩が痙攣している。



体中の血がアルコールになったような気分で
彼は突っ伏したまま老人を睨んだ。

心臓が飛び出しそうだ。


更にドブドブと酒が浴びせられる。
老人は浴びせながら時折自分もそれを呷っている。


....殺される。
このクソじじい、絶対殺す気だ。

椅子から崩れ落ちる少年。
指先一本言う事を聞かない。

体が内臓から悲鳴をあげているのがわかる。
まるで内臓の消毒だ。
標本にでもするつもりか。



天井や壁がぐるぐる回っている。
目の焦点が全く合わない。


このまま殺されてたまるか。
帰るんだ...

こんな所で....!



少年は気力を振り絞って
口を開き牙を剥いた。


待ってました、とばかりに口へニシンが
突っ込まれる。
細い牙はふっくらした魚の身を
くわえて噛みちぎった。

肉片が喉をくぐり
思わず飲み下してしまった。


「...........」


猛烈な空腹が
我に返ったように襲って来る。

テーブルのスープ皿が眼に飛び込む。
リラの声が聞こえた気がしたのは
アルコールのせいか。


老人が目の前にスープ皿とスプーンを置いた。


再び思考が混濁した脳裏に
幼い日の騒々しい食卓がよぎる。
懐かしい声と共に。





『ほら、さっさとお食べ』










少年は食卓へ突進していた。


物も言わず皿を奪い取ると
スプーンを投げ落とし直接口をつけた。
魚介の具材は手で掴み出してほおばる。


酒場の人間は苦笑いするとまた酒や賭け事
猥雑な談笑に戻った。



「やれやれ、ケモノ喰いか。食事の躾けからやらねば
ならんようじゃの」


老人が目を細めながら食べ物を追加注文した。
勿論己の酒もたっぷりと。
桶の酒は既に空。


少年は脇目もふらずに喰い続けた。
己の生命力を取り戻すかのように
ガツガツと飲み込んで行く。

体はようやく受け入れ、全力で血肉へ変える為に
働き始めた。












数時間後。




大量の空になった大皿と酒瓶の間で
眠り込んだ少年の傍ら、老人が一人
手酌で飲み続けている。

皺の刻み込まれた深い目元は
眠る少年を見つめていた。
グラスを持たない手には緑色の小瓶。
少年が金貨の袋と片腕と共に持っていたもの。



「どうしたもんかのう...」



時折賑やかな寝息を立てている
10代の少年の横顔。
まだ子供の面影を残している。
そして、そこに走った大きな傷。





老人が深刻そうに顔をしかめ目を閉じた。

「....しょんべん小憎と呼ぶわけにも行くまい....」



後ろで誰かが
カクテルを注文した。




「マスター、『オンディーネ』を頼む」





......それでいいか。



少年の寝顔を覗きながら老人が笑った。


酒の名も悪くない、と老人はひとり朝まで飲み続け
『オンディーン』と呼ばれる事になった少年は
その間、一度も目を覚ます事はなかった。



16 深海の老司祭〜じじいと小憎


海の底。

閉ざされた一室。
窓は高い天窓がひとつ。
海の光が夕方である事を告げ
少年を包んでいる。


彼はずっと見上げて立ち尽くしていた。
ベッドと小さな机があるだけの部屋。

目覚めてからずっと窓ばかり見つめていた。
頭の中はからっぽのまま。
一度にいろんな事がありすぎた。
軽い記憶障害も伴ってブルーは人形のように
ぼんやり何時間でも立っていた。

ろくに食事もしていない。
そのかわり立ちくたびれては
ただ貪るように眠った。


冷めた食事が転がっている。
調理された魚介と特殊な海のパン。
地上のそれとよく似た、高度な知恵と技術が生み出した
栄養価の高い食べ物。

かつてスラムで口にしたものとは比べものにもならない。
リラの作った食卓も心は砕かれていたが
あまりにも質量共に乏しかった。


かと言って、口に合わないわけではなかった。
空腹だったし選んで喰う事など彼は知らない。
食べられる時に食べなかった者が成長できる程
豊かであれば『スラム』とは誰も呼ばない。




喉を通らなかったのだ。
どうしても。



一口齧っても飲み下そうとした時
ちぎれた腕が目に浮かび吐き出してしまう。

多分己がひきちぎるか、喰いちぎるかした腕。
ついこの間まで、話をし、仕事や取り引きを教わった
スラムの大人。
妖魔や獣などではないれっきとした海人。
小さな頃は菓子などくれた事もあった男。

おそらく生きてはいないだろう。
そしてもうひとりいた男も。

金貨の入った皮袋は乾いた血で違う色に
染め上げられていたし、己の体にもその痕跡があった。
切れ切れだがはっきり覚えている。



人を喰ったのだ。



憎悪...悪意...殺意...空腹...

覚えている。

喉元に喰らいついてそれから...
後は精神が拒否していた。
記憶を拒絶しているのだ。
思い出そうとすると激しい頭痛に苛まされる。
食べ物を口にすると全身が震えた。

あのちぎれた腕が強烈に瞼に焼き付いて離れない。
疲れ切って眠り、目覚めても。

どのくらい眠ったかわからない。
身も心も疲れ果て
ぼんやりと天窓から見える
夜に変わった空を見つめていた。




「強情な小憎じゃて」




ガチャリ、と錠が外される音。
ひとりの老人が入って来る。
ブルーは振り向きもしなかった。

自分をあっさりと取り押さえた大柄な老人。
そのままの食事と放心しきった少年を眺めて、首を振る。


「仕方ないの」


がし、と首ねっこを掴み上げられた少年は
そのまま外へ引き出された。
抵抗もせず人形のように彼は引きずられて行く。
その目には意思も感情もない。



長い渡り廊下を老人は歩いて行く。
白く長い髭と総髪を束ね
年寄りと呼ぶには大柄な体格。


青と白の長衣には海流神の神紋が縫い上げられている。
豪華ではないが機能性に優れた衣服。

夜も尚、ひときわ鮮やかな色彩の庭園を歩く
青と白の老人。


庭園の奥から誰かが姿を現し老人を呼んだ。
引きずられた少年を見て眼を剥いたその男は
何か言おうとしたが老人に制された。



「適当に頼む。ガレイオス」



老人はそう告げるとすたすた庭園を出て行く。



『ガレイオス』と呼ばれた男は
呆れた表情でそれを見送った。

金の長い鬣と純白の長衣。
ある種の神々しさを伴っていながらその顔立ちは
獣に似ている。

彼はすぐさま厳しい表情に戻ると
老人とは反対の方角へ歩いて行った。






庭園から街へと歩いて行く老人。

神殿の敷地から出た老人は口笛を吹きはじめた。
小柄とは言え、ひとりの少年を引きずって余裕の口笛。


だがブルーは何も思わなかった。
街を見ても、朗らかな口笛を聞いても。

ただ人魚にすれ違った時だけ
眼を固く閉ざした以外は
なにも。




一軒の酒場。

清潔な街並みの裏手にはそれなりではあるが
多少吹き溜まりめいた場所があった。
老人は長衣をひょいとまくって神紋をあっさり隠す。

ただそれだけで彼はあっという間にその場に馴染んでいた。
まるで元々、そこの住民ででもあるかのように。

客はあまりいなかった。店主が慣れた仕種で迎える。
チラリと連れを見て肩をすくめはしたが。


「いつもの奴とアレを頼む」


老人はすたすたと馴染みのテーブルに歩み寄り
少年を放り込んだ。

椅子に座らされる。
人形のようにダラリと手を下にたらし
うつむいたまま。




テーブルに運ばれた酒瓶と暖かいスープ類。
鼻をくすぐる食べ物の匂いに胸がむかつく。
やはり体全体が拒否していた。

それでもやや汚れた壁や酔っぱらった獣人達の
どこか懐かしい空気が少年の神経を落ち着かせていた。

ほんの少し思考が戻る。


目の前の老人はにこやかに酒瓶を見つくろっている。
並んだスープ皿はどこかリラのシチューを思い出させる。


...おかしい。


餓えを感じているのに体が拒絶している。
さっきとは少し違う。


幾らかは瞼に焼き付いた腕を追い払う
心の余裕が生まれていた。
ある程度の適応能力を備え
生き延びてきた少年。

例え一緒に育った子供が死んでも
何処かで想い出を切り離せないようでは
次は自分がそうなる事を知って育ってきた。



...だが。


まるで.........喰い物はこれじゃない、とでも
いうかのように体が反応しない。


リラのスープを思い出してさえ何も感じないのだ。
どうしたんだろう....

少年の無表情な顔に少しずつ動揺の色と
何か違ったものが浮かび始めた。



「...名前は?」



老人の問いかけ。
まるで天気でも尋ねるかのような。


「....え...?」


まとまらない思考を問いかけで中断された少年は
ぽろりと素の顔で老人を見た。


「ブ....てめえに関係ねえだろ」


一瞬答えかけた少年が吐き捨てる。
もう誰も信じるもんか。


ブルーは暗い眼で老人を睨みながら
笑った。かつてない程歪んだ笑顔。



「ほっほっほう。

阿呆面で小憎が笑っとるわ」

老人の笑い声。


少年が赤面で椅子を蹴り
その拳を老人に振り上げかけて
止めた。



「やらんか。しょんべん小憎」

「!」


老人は椅子にふんぞり返って
防御する気配すらない。



「...誰がしょんべん小憎だ」

絞り出したような
低い声。




「なんじゃ、じゃあ、お前は赤ん坊か?」

「...殺されてえか。このクソじじいが」



ブルーの眼が細く怒気に狭められる。
なんだってこんなクソじじいにまでバカにされなきゃ
ならねえんだ。




「赤ん坊が何か申しあげとるわい。

母親はどこかの?」

「..........」



少年が殴りかけたその手で
老人の胸ぐらを掴みあげた。


「こっ.............っ.....」


何かを言おうとして彼は老人を睨みつけたものの
そのまま横を向いた。

唇を噛み締めたままの無言。

























「名は....あるか?」








穏やかな声で
老人が再び問いかけた。
少年の形相で孤児の情報を読みとったのか
聞き方が若干変えられている。



少年はゆっくりと老人から手を離したが
うつむいたきり何も答えなかった。





「名無しのままでは困るからのう....」




老人はふんぞり返ったまま酒を呷ると呟いた。

少年は下を向いたまま黙り込んでいる。













次回は 『深海の老司祭~オンディーン』を予定しています。


15 カノン






地上。

やや時を遡る。


海から遠い、ある雪景色の街角。


大きな街道から馬車やたくさんの旅人が入って来る。
白い息を弾ませて子供が走る。
街並に並んだ雪の像や色とりどりのフラッグ、人形。

雪祭りの朝。

多少目的地と離れていても
わざわざ旅人が立ち寄るその日。
いつもより早い市の呼び声や音楽に華やいだ朝。

教会の鐘が時を告げる。


花を持った若者が誰かの家の
扉を叩いた。
顔を覗かせた娘がドレスの裾を摘んで微笑む。


肩に南国の猿を乗せた老人が打ち鳴らす太鼓。
踊る猿を食い入るように見ている数人の子供。
旅商人はあちこちで商売の支度を急いでいる。
誰もが浮かれて過ごすその一日。

教会の孤児院もこの日ばかりは賑やかな歌声に満ち
誘われるように街人が立ち寄って行く。
菓子や金子はいつもより気前良く寄付された。


孤児達を抱えた大きな教会。
四人の女神を祀る神殿が抱えた施設のひとつ。

火、風、水、土。

そこには赤い花と貴石で飾られた
焔の女神像があった。






「さあ、順番にちゃんと並んで」

三人の修道女が子供達に菓子を配り始めた。
篭いっぱいの焼き菓子やボンボン。
遠い国の旅商人が持って来た珍しい果物。
幼い子供から15〜6の少年少女まで20人ばかり
皆それぞれ菓子を受け取って笑う。


「あら、カノンはどうしたの?」

三人の内一番若い修道女が尋ねた。

「知らない」


尋ねられた少年の素っ気ない返事。

「またどこかで本でも読んでるのかしら」

「あんな奴いない方が楽しいよ。」

「そんな事言うものじゃありません」

「だって司祭様だって言ってらしたもの。
あいつの目....」


三人の中で一番年上の修道女が少年の口を塞いだ。
顔を見合わせる三人。


「もういいから行きなさい。
カノンには後で取りに来るよう言わないとね...」



子供達が広間から出て行った。
三人の修道女がひそひそと話し始める。



「いいですか?あの子は他の子供達にあまり
接触させないように」

「え...でもそれじゃあんまり...」

若い修道女が戸惑ったように言いかけて黙る。
年配の修道女の厳しい視線。


「さあ、今日は忙しいですから行きましょう」


丁度真ん中の年代の修道女が取りなすように告げる。
菓子をさっさと片付けて
修道女達が出て行った。


広間はいつものような静けさに戻り
女神像だけが佇む。
長い髪は足元の台座に複雑な紋様を描いて
刻んである。焔の紋様を象って
銀の燭台に繋がっていた。




コトリ。



絶やされる事のない蝋燭の火が揺らいだ。


像の後ろから小さな手。
そっと慣れた手付きで一本の蝋燭を抜き取る。
女神像の裏に狭い通路。
カノンはそこにいた。


黒い髪の少年。
年は6〜7歳くらいに見える。
細い腕に一冊の本を抱え彼は通路を上がって行く。
片手に握った蝋燭の火を消さないように慎重に。


通路は教会の尖塔に繋がっていた。
鐘の音を鳴らすのは子供達の仕事。
正確な時を刻むよう15〜6の少年がその役目を請け負う。

だがその日、街に鐘の音を届けたのは
もっと幼いこの子供の手だった。

長い螺旋階段を登って行く。
白い息を吐きながら彼は時折焔に手をかざした。

教会の尖塔は街のどんな建物よりも高い。
15の少年でも息を切らせて登る。
カノンは上手に息をついで登って行く。
慣れた足取り。


雪の朝の尖塔は凍える。その日彼は
少し下の踊り場に腰を落ち着けた。

小さな窓。

そこからさし込む光と一本の蝋燭で
彼は本を読み始めた。

外から楽し気な歌声がかすかに響いて来る。
黙ったまま、無表情にゆっくりと少年はページをめくっていく。

厚く重い一冊。
大人達が読んでいるような博物誌。
7歳の子供にとって決して優しい読み物ではないそれに
カノンは淡々と目を通していた。

時間さえ許せば、彼はいつも図書室かここに来る。
時折は窓の外の鳥の声に耳を傾け
空に目を向けもした。


春、夏、秋、冬。
孤児院に引き取られてから3度目の冬。

長めに伸ばした黒い前髪。
肩で切り揃えられたゆるやかなウエーブ。
ごく普通の人間の子供。

カノン・ルシード。

ちゃんと名字もある少年。
両親は亡くしたが同じ姓の血縁者がいる。


「お前など必要ない」


そう冷たく言い放った老人。



カノンはいつも俯き気味に歩く。
孤児院にいる他の子供達や大人達が居る場では、特に
そうだった。
努めて、他人をまっすぐに見ようとはしなかった。

そんな彼も、他に誰もいない窓辺でだけは顔を上げる。
鳥や空の様子を眺めては、僅かに微笑む事もあった。
己の境遇を嘆いて、俯いていたわけではない。
ただ、そうするに足る理由があった。




ガタン。



乱暴な足音と扉を閉める音。
カノンは螺旋階段の下を覗き込んだ。

あわただしい気配。
己を呼ぶ声がする。
カノンは小さく溜め息をついて階段を降り始めた。


螺旋の中程でカノンは足を止めた。

...なんの用事だろう。

7歳の少年はいぶかし気に顔を上げた。
大人達が6人。
狭い階段を塞いで立っている。


「読書してたのかね?」


先頭の男が声をかけた。

「...はい」


カノンは俯いて顔を半分髪で隠した。


「……っ」


抱えていた本を奪うように取り上げた男。
ぱらぱらとページをめくって顔をしかめた。


「魔法書だ」



男が本を放った。
後ろの大人達が顔を見合わせる。
聖職者の装束をまとった大人達。
目の前の小さな子供を疎ましそうに睨んだ。


「…博物誌の本…です。魔法書じゃない」

ほんの小さな呟き。
大人達がそれに耳を傾けることは無いとは解っていたけれども。


大人達が一歩進んだ。
カノンはその分、一歩下がる。

おそらく、本の内容が何であろうと関係ないのだ。
たまたま開いた頁にあった魔法に関する記述に目をとめ
彼らが判断したのだという事ぐらい、すぐに判る。
今まで何度も同じ事を繰り返してきているのだから。




「おいで。こわがらなくていい。
私達はお前を助けてやりたいんだよ」


一番後ろの男がカノンに呼び掛けた。
顔面に貼り付いた笑顔。
引きつって歪んだ微笑み。


「さっさとすませよう。
騒がれると面倒だ」


男がカノンの腕を掴もうと、手を伸ばしてくる。
不自然に片手を後ろに隠したまま。
カノンはその手を振り払うように、更に後じさった。
捕まればその後なにをされるかは、容易に想像がつく。

いつもと同じ事だ。

難癖付けられては叱られ、殴られ、蹴られる。
カノン自身に罪が無い、他の孤児達が成した悪事ですら
彼のせいにされるのが当たり前の日常で。

教育的指導と称しては
繰り返される折檻をじっと我慢するだけしか
彼には出来なかった。
独りで生きていくにはまだ幼く、行く当ても無い。
己自身以外に頼るものも、無い。

いずれ年を重ねれば
独りでも生きていけるようになれば
この場所を出て、どこか遠くへ行くのだ。
それまでは…

俯き、僅かに足を止めたカノンに、再度男が声を掛けた。



「顔を上げるんだ。
カノン。
お前の為でもあるんだよ」


男がゆっくり背中から手を覗かせた。
その手に握られていたのは真っ赤に焼かれた火かき棒。

カノンは僅かに息をのんだ。

ただごとではないと、脳裏で警鐘が鳴る。
火かき棒が恐ろしいと思ったためではない。
勿論、恐ろしくはあったが、それをここまで
持って来たと言うことの方が問題だった。

仕置きと称し、火かき棒によって背に
火傷を負わされた事はすでに何度と無くある。

だが、今まで彼らは必ず、地下にある
まるで牢獄のような折檻房にカノンを連れ込んで
それを行ったのだ。

それが、今日に限って何故。

「押さえろ。騒がないように口も塞いで...」



「うわっ」



カノンは男の腕を振払って階段を駆け上がった。
焼けた鉄が男の腕を掠めて落ちる。


「お..追い掛けろ!!くそっ」


腕を押さえて男が叫んだ。
いっせいに大人達が階段を駆け登って行く。

「どうせ行き止まりだ。上に行ってくれた方が
声も漏れなくて助かる」


男は火かき棒を握り締め階段を登り始めた。



「カノン、いい子だから来なさい」


7歳の少年は塔の頂上に立っていた。
頭上に大きな鐘。狭い足場の向こうは
空。


思わず下を覗く。
目眩がしそうな高さ。
背中に行き止まりの塀を押し付けて大人達を
見る少年。もう逃げ場がない。

冷たい風が強くカノンの前髪を後方に吹き流した。


「忌わしい」


火かき棒を握った男が吐き捨てた。


右の赤い瞳。血のような暗い赤。



強い風がまだ幼い少年の額から顎の先まで露出させる。
左は薄く透き通った氷の蒼。
反射的に下を向く少年。


『邪なる』

そう呼ばれるモノが彼の瞳に宿っていた。
邪眼。
この赤い瞳を見た者は皆眉を潜め横を向く。
魔物の力が宿っている、だの見られただけで病にかかる
そう勝手な噂や憶測で彼は
大人ばかりか同じ孤児院の子供達からさえ
拒絶されていた。


「その邪眼さえなくなってしまえば
お前はもう何も心配しなくてすむ。

隻眼でも邪眼よりはまだマシだ。
そうだろう?カノン」



「…っ嫌だ…!」


少年は赤い瞳を手で遮りながら叫んだ。

いつも下を向いていた。
だけどそれは自分が嫌われる事より
誰かを傷つける事がないように、と....


「!」

「さっさとすませろ!」


大人達がいっせいに7歳の子供を押さえつけた。
抵抗してばたつく足、赤い瞳を隠した手を引き剥がして
羽交い締めに固定する。
風すらそれを助けるように
長い前髪を吹き流していた。


母さん!
父さん!


よく覚えていない父母の顔が脳裏を過る。
幼過ぎた別れ。
死別。

それでも両親には幼いカノンを抱いて
繰り返し子守歌のように言い続けていた言葉があった。


『お前が持っている全てのものには
何一つ無駄なものはない。
赤い瞳も蒼い瞳も手足と同じように
全てがお前自身なのだ』
と....



『カノン、粗末にしてはだめよ....』


優しい母の声のそれだけは
幼い心にしっかり刻み込まれていた。



「邪眼を潰せ!」



「嫌だ!これは僕の....」



幼い子供の悲鳴が響き渡る。


「ちっ、しっかり頭も押さえておけ!」

熱く焼けた鉄が頭を背けたカノンの肩を焼いた。
厚くはないシャツはすぐに焼け皮膚を焦がした。


気の弱そうな笑顔の男がびくびくしながら階段の下を覗く。


恐ろしいのだ。
早く終わらせて逃げ出したい。

魔の力から子供を救う、と言いつつ
大人達は恐れていた。
今ならまだ幼い。


カノンの首を掴むように壁に押し当てる。
4人の大人達がそれぞれ少年を壁に貼付けるようにして
動きを封じた。


火かき棒を握った男が少年の目にそれを
かざす。



「うへえ」


その男は特に気が弱かった。
子供の泣叫ぶ声を聞くかと思うと耐えきれずに
階段を駆け下りて行く。


耳を塞いで一目散に男は逃げた。
しばらく降りて行く。


「...?」



静寂に己の足音だけが響く。
多分叫び声は木霊して聞こえてくるはずだ。
おかしい。

しばらくぼけっと立つ男。
聖職者の端くれではあったが信仰心もなく
喰いっぱぐれのない仕事という認識しかなかった。
魔と闘う為に、血を流すのも流されるのもごめんだ。
出来れば死ぬまでそんな現場とは無縁でありたい。




「.......」



誰も降りて来ない。
寒さがしんしんと背中に来る。暗く冷たい塔の中。


男はおっかなびっくり階段を上り始めた。
気絶でもしたんだろうか。


「ひゃっ!」


足を滑らせて男が階段でひっくり返った。

「なんだ?足元がやけに滑る....」


立ち上がった男はぶつぶつ言いながら腰をさすって
頂上へのそのそ進んだ。
鐘付き堂の冷たく重い扉をそっと開いて
男は覗き込んだ。



「ひいいいいいいいッ」



間の抜けた絶叫と共に男が後ずさって階段を転がり落ちた。


「だっ...誰か、だだ、誰かーっ!!」


裏返った声をぱくぱくさせながら男は下まで転がり降りて行った。
濡れた螺旋階段。


赤い色のそれが階段を伝ってぽたぽたと溢れ落ちて行く。





カノンはひとり立っていた。



足元におびただしい血だまり。
折り重なった大人達から流れ出した液体。


体中の穴と言う穴から噴き出した血液。
大人5人分のそれはいつまでも螺旋階段の上から
水が滴るような音を響かせて止まなかった。



少年は無傷で立っていた。
冷たい風の中魂が抜けたように死体の中に立っていた。
赤い目から血のような涙が頬を伝う。

それでも彼は泣いているわけではなかった。
ただぼんやりと大きな荷物を抱えて運んだあとのように
疲れた顔で空を見上げた。


赤い空。
まだ昼間だというのに火のように赤い。
見下ろす街も燃えあがっているように赤い。


彼の赤く染まったその瞳の中で
すべてのものが赤く染まっていた。



カノンは屍をもう一度見た。
火かき棒を握った腕も皮膚を剥かれたように
血溜まりに沈んでいた。
ちらちらと降り始めた雪が赤い池を覆ってはすぐ
真っ赤に染まっていく。


「うっ....」


カノンが口を塞いで膝を突いた。
頭がはっきりするにつれて胸糞が悪くなって行く。
血溜まりに転がった人間。
ひとりだけ顔が仰向いている。
開いた口は歯も赤く染まっていた。
見開いた目も...


濃厚な血の臭いにむせ返り、少年は苦し気に吐き始めた。
感情は何も湧いてこない。

ただ、己の為した惨状に
いや、醜く転がった死体に、ひたすら鬱陶しさと
気持ち悪さだけを覚えながら、血だまりの中に
吐瀉物をまき散らした。

ろくに固形物は無く、ほとんど胃液ばかりを吐ききっても
嘔気は止まなかった。









その事態はすぐに唯一の身内に知れたが
かの老人が取ったのは、肉親への救済措置では無かった。
ただ、邪眼持ちであれ何であれ
双方に公平な処罰を下せと命じ、報告に来た大司祭に
邪眼を封じる眼帯を渡しただけだった。




祭から数日後。



ひっそりと塔は入り口を封じられた。
小さな食事を差し入れる窓だけを残し
扉は塗り固められた。

幽閉されたその場所から
カノンが外に出されたのは一年後だ。


神殿の重鎮の血を引いるが故に
それを知る者からは扱いあぐねられ
邪眼であるが故に、恐れられ、疎まれる。

例え彼が、小さな虫や草花さえ踏まぬような子供でも。



腫れ物のような扱いを受けながら
カノンは幼い日々を過ごしていた。





次回は『深海の老司祭』を予定しています。





14 若い獣



月夜。

『彼』は空を見上げていた。
そこが何処かはわからない。

記憶にない場所に『彼』は立っていた。
何もない荒野。


青い髪のケモノは走り出した。
遠くどこまでも続く場所へ向かって。
想い出を置き去って
戻る事すら微塵も思いに存在しなかった。

その脳裏にはただ遠い何処かしかない。


戻る道は走る傍から崩れ去る。
立ちはだかる岩は砕き、あるいはよじ登り
また駆けた。


何処へ行く?
何処までも!

繰り返す自問自答。
叫ぶのは己の魂。

響き渡る咆哮。
止まらない足。
行ける場所まで。
倒れて塵と化すその日まで。



若いケモノはそのまま暗闇の荒野を
駆け抜けて消えた。





青い髪の少年が繰り返し見ていた夢。
月夜だけがそれを共に見続ける。

そこが何処かはわからない。











13 魔獣の少年

都市から離れた街道沿いの宿場街。
夜半のせいか旅人もまばらにしか見当たらない。
せまい安宿の一室。怒鳴り声が響く。


「誰があんな事してくれって言ったんだよ!!」

怒り狂って喚き散らす少年。

「静かにしろ、動くなよ。傷の処置が出来ねえ」

顎を掴んで化膿止めの薬を塗る男。
ブルーの睨み付けた視線を薄笑いで返した。

「オレはタカリに行ったんじゃねえ!!」

収まらない怒り。
それはこの男だけに向けられた物ではなかったが。
罵倒は止まらない。

「キレイ事抜かしてんじゃねえよ」

男は薄笑いのまま掴んだ顎を壁に叩きつけた。
頭をぶつけて、倒れた少年の胸ぐらを掴んで訊ねる。



「お前、どこで育ったと思ってやがる?
15にもなりゃあちったあ、現実がわかるだろうよ」

答えられないブルー。形相だけが一層険しくなる。
男は薄笑いのまま続けた。


「アレは母親じゃねえ。カモだ。オレ達にとっちゃ有り難い
獲物なんだよ」

「...オレ達ってなんだよ」

こわばった声で返す。

「ああ、間違えた。オレの獲物、だ。お前らはな」

「ちくしょう!」

突進する少年。掴まれた胸ぐらを
ひきちぎる様に外し、牙を閃かせた。

「子供じゃねえんだ」

男はあっさりかわして、背後にまわると
イスを掴んでブルーの後頭部へ叩き込む。
頭を抱えて崩れ落ちるのをすかさず
薬をしみ込ませた布ごと口に突っ込んだ。

「寝てな、坊や」

転がった少年を蹴り込むと男は背を向けた。
誰かが扉を開けて入って来る気配がする。
男は約束でもあったように中へ招き入れると
二重に鍵をかけた。





「まあ、こんなところだ」

「娘じゃないのかね?」

不満の混じった声。

「そう都合良くは行かないんでね。
人魚共に含むモンがある連中はザラにいる。
文句があるならいくらでも買い手はいるんだがね」

男は突っ伏して呻く少年をつま先で転がし
淡々と話す。

「髪は文句なしだろ。
この面構えは仕方ない。適当に薬でもかがせて
喋らせなきゃなんとかなる。

金はあっても地位のない連中が飛びつくぜ。
人魚共に頭下げっぱなしの毎日のガス抜きに
いくらでも需要があるってワケだ」

「で、いくらだね?」




意識が薄れて行く。頭がガンガン痛む。
それでも途切れ途切れに男達の会話は聞こえていた。
混乱してまとまらない思考。
己の置かれた状況が考えていたものと違う事だけは
理解できた。

...リラおばさん....

閃いた白刃、幼い少女の白い指先、美しい色彩の珊瑚が
次々に頭を過っていく。

振り向いた白い顔。
見下ろす男達の顔...


来なければよかった......


仰向いたまま悔し涙が流れ落ちる。
うずく傷。
痛みにぼやけた意識がかすかに戻る。


.....このまんまオレ....
皆こんな事になってたんだろうか....
あの...女の子も....
それにちび共だって....

幻聴のように一緒に育った子供達の笑い声が響く。
リラの顔が浮かぶ。柔らかい腕の感触。
暖かいスープが注がれた皿。
べろべろじいさんの法螺物語が聞こえる。
丘の上で聞いた水鈴の音。
女の子の甘い髪の匂い。


様々な感覚を一度に感じながらブルーは呟いていた。

「ごめん....リラおばさん....ごめ...ん」


男が首を振って哀れむように言った。
小さな小瓶をランプにかざし少年に
見せつけながら。


「バカとぬるい奴は飼い慣らされてろよ。
取れるだけ遠慮なく取らせてもらうぜ」






薄い緑色の小瓶がランプの柔らかな光に
きらきらと夢のように乱反射している...


『むかしむかし、南の浜に
特別な椰子の木がはえていました』

ブルーの脳裏に老人の語った童話が甦る。


『その木はまっすぐ
月に向かってはえていました。

一本だけの神様の木で
月や星をひとやすみさせるために
はえている木でした。

それはとても高く
空にむかってのびていました。

月や星はその枝に腰掛けて、こっそり
ひとやすみしては
夜空へ登っていったのです。
 
ある夜、ひとりの少年が月をさわりたくて
木に登ろうと思いました。

とても高い木です。なんにちもずっと
登り続けなければなりませんでした....』


じいさん...

『少年はとうとう力尽き、下に落ちました。
まっさかさまに落ちて行く少年を
風が吹き飛ばし その体は海へ落ちて
沈みました。

海流の女神は少年のバラバラになった
かけらを拾いあつめて言ったのです。

お前は海に住みなさい。
あの木は登ってはいけない。
お前は空で生きるものではないのです...』



『...あれさえありゃあ、こんなに苦しまんでも...』



べろべろじいさん......



『ブルー、あんたはもうすぐ大人になる。
もっと辛い事や悲しい事がたくさんある...
男の子だから乗り越えてかなきゃならないんだよ。
でもね....今は泣いていいんだよ..』


途絶えかけた意識にリラの言葉が過る。

















くそったれ!!




少年はもがきながら口に押し込まれた布ごと
己の腕に喰らい付いた。
滲みだす血の赤。
意識が引き戻される。


もう子供じゃない!
あんな奴にいいようにされてたまるかよ!!

ちくしょう!!




呻き声をくぐもった咆哮に変えてブルーは
転がりながら立ち上がった。


帰るんだ。
薬をリラおばさんに返して謝らなきゃ。
きっと心配してる...



男達が怪訝そうな顔で見る。
フラフラと酔っ払いのような足取りで立ち上がる少年に
ジャックが笑い出した。


「いい根性だ。もう一発喰らっていい子ちゃんにしてな」



少年の肩を掴んで男が拳を振り上げかける。


「!!」



凄まじい早さで男は少年を離して後ろへ跳んだ。
引きつった顔面。
商談相手の男が不思議そうに見ながら突っ立っている。


「バカ!!そいつの前に立つな!!!」



少年の真正面に立つ男。
小太りで高価そうな着衣。
ごてごてと飾り込んだ巨大な帽子に大きすぎる
細工ものの飾りボタン。
靴にも実用性に乏しい装飾が施されていた。
生身の部分を装飾物で隠したような出で立ち。
立ち方も卑屈そうに背中を丸めていた。


「何をするつもりだね?坊や」


男が猫撫で声で問いかけたと同時、少年は口に押し込まれた
布を吐き捨てた。


「離れろ!」



ブルーの目が青から赤に変わった。
少年は目の前の男からジャックを追うように顔を向けて
『叫んだ』



「クソガキ!」



頭を抱えて伏せたジャックが毒付いた。
隣に転がる人間の足首。
ごてごてした飾りの靴がついていた。


「のろまめ!だから立つなと言ったんだ!」


重い帽子を床に転がせて小太りの男が
口だけをぱくぱくやっていた。
叫ぼうにも声にならない。
恐怖と激痛のあまり開かれたままの口。


「あ...」


赤い瞳の少年が戸惑うような声を洩した。
頭が痛い。
突っ込まれた薬の布のせいなのか意識が途切れる。
一瞬一瞬まっしろになっては我に返る。


「化け物っ...」


足首を吹き飛ばされた男は何が起こったのか
全くわからなかった。
自分の足がその『軌道』上にあった事だけは
辛うじて理解できた。
床やテーブルが一本線でえぐられるように
吹き飛ばされている。


勢い良く噴出する血。
男の鼓動が急速に速度を増していく。

「こ...こんな化け物をよくも...」


『抜け穴のジャック』がせせら笑った。

「獣人共が獣扱いされる理由くらい知っときな。
尤もそれもえらく昔のこった。
今じゃこんな奴、珍しいがな」

そう吐き捨てながらジャックは用心深く後ずさっていく。
ターゲットが自分だという事はわかっている。

オレとした事が。もっとキツイ奴をかがせておくべきだった。


少年を伺う男。
素早く人魚から受け取った皮袋を右手で掴みあげた。

「?」


少年がじっと立って動かない。
倒れた男の前で固まったように立ち尽くしている。

「やっと薬が回ったってか...」


ジャックが安堵するように息を吐いた。

「世話焼かせやがって。このクソ獣....」



するりと少年が動いた。
骨がきしむような異様な音。
血を噴き出す男に引き寄せられるように
ふらりと一歩踏み出した。


ドサリ。

複雑で重い衝撃音を立てて少年は倒れた。





『....が...空いた...』


ブルーの意識は混濁していた。
何秒か置きに頭が真っ白になる。
しかもだんだんその間隔は短くなっていく。


混濁した意識の中、噴き上げる鮮やかな赤だけが
こびりつくように残る。

白...赤....白..赤.........

強烈な飢餓感。
乾きにも近い。


リラおばさん、お腹が...空い.....た...



「こっ...この気色の悪いガキをなんとかしてくれっ...」

男が絞り出すように呻いた。
目の前に倒れて動かない少年を男は遠ざけるように
手で押す。

そしてそれはその男の最期の動きとなった。






鈍い音。
ジャックがその場で氷りついた。
少年がその半身を別のものに変えながら
男の首に絡み付いた衝撃音。

沈黙が男の絶命を告げる。
少年の口元は耳まで裂け牙を剥いていた。
小さな毒牙どころかまるで肉食のそれ。

バキバキと男の首から噛み砕きにかかる。


「う....」

ジャックの顔に血しぶきと肉片が飛んで来た。

最低の男、『抜け穴のジャック』すら身動きが出来ない光景。
まだ子供の名残りを残したままむさぼり喰う姿。
骨を噛み砕き肉と内臓を呑み込む。
歓喜の笑い声すら洩しながら。

「ば...化けモンだ...ホンモノの...」


ジャックは歯を喰いしばって動かない足に神経を
集中させた。今動けないと死ぬ。
せめて動けりゃ反撃もできる。
突っ立ってりゃ死ぬだけだ。

飛んで来る肉片が男の全身を彼の血のように染めて行く。

あれはただのガキだ。
殴れば死ぬ。
大丈夫だ。殺られる前に殺れ。


「動いた!」



数分を要して男は足を開放した。
アレはまだ獲物を喰らい続けている。
嬉しそうに笑い声をあげながら。


「そのままお食事してろよ...」


ジャックは外に出ようと扉に手をかけた。

開かない!
そうだ、ガキが逃げないように復数の鍵を....

舌打ち。

鍵はさっき吹き飛ばされた机だったか。


床中散らばった残骸。
鍵は死体の傍に転がっていた。
男は手を伸ばしかけてやめた。

咀嚼音。
耳を塞ぎたくなる忌わしい音。


「ちくしょう!」


男が扉に体当たりを試みた。
転がった椅子も叩き付けた。
激しい音が繰り返される。

「安宿で助かったな」

扉は外れそうな音を悲鳴のようにあげる。



咀嚼音が止まった。


「!!」


そいつはこっちを見ていた。
赤い瞳。
顔と全身も血と肉片に染まった赤。


口元が倒された三日月のように歪んだ。


「わ...笑いやがった!!」




そいつは口を大きく開いた。
口の周りのものが揺らめいて見える。

来る!


もう一度ジャックは扉に体当たりをかけた。
渾身の力を込めて。




騒々しい音を立てて扉が砕け飛んだ。
外に転がり出る男。


その右手に握った皮袋だけはしっかりと
握り締めたまま。



「くそったれ、あのガキが!!
ブッ殺してやる!!」















何事かと隣の部屋にいた宿主が破られた入り口から
顔を覗かせた。
恨めしそうに目を剥いて転がった生首。
顔半分は齧り取られている。

気の毒な宿主は半分腰を抜かしながら悲鳴をあげて
逃げ去った。
中にいた少年を見る事もなく。



だがそこにブルーはもういなかった。

室内にいたそれはゆらゆらと体を揺らせて
上体を高くもたげると大きく開いた口で
『叫んだ』







少年が意識を取り戻したのはそれから
しばらくしてからだった。
何処にいるのかすらわからないまま彼はただ
闇雲に吐き続けた。

記憶の断片に頭を押さえてのたうちまわりながら。

切れ切れの記憶が戻る度
彼の全身はそれを否定するかのように吐き続けていた。





ブルー15歳。

長い夜と旅が始まっていた。