ゼロノオト

2005年03月31日(木) 近くて遠くてどこへもいけない

夕方新宿あいぽっどフォト

電車読書運ばれる運ばれる

わくわくあいちゅん整理

カチカチマウス腱鞘炎寸前

目は強いのに、手首が弱い。

あいぽっど充電完了いざ接続、

不良品ばかやろう明日電話だ。



そういえば札幌行きの青い電車を見た。

日暮里なんぞには目もくれず、走り去っていった。

線路は札幌まで続いているのですね。

あれに乗れば札幌まで運ばれてしまうということに驚いた。

運ばれる運ばれる



「爽」の新発売「ブルーベリーヨーグルト味」

コンビニ回るもどこにも置いてない。

冬だからか。

冬でもアイス食うだしょ。

食いたいだしょ。



久々に夜が白む

見てなければ夜は白むことなく去っていく

見てなければ海に浮いたオレンジの皮は存在しない

見ればそこには「ある」のだ


2005年03月30日(水) 巡るレトロ

わたしが生まれる前からあるんじゃないかってほどレトロな電気スタンドを磨いた。

磨いてみたら、NECの製品だった。

ロゴが今と違う。

自分が幼い頃にべたべた貼り付けたシールもはがして、ほこりも拭いて、

新品同様、とまではいかないけど、きれいになった。


よく、服やなんかも、2、30年周期でブームが再び巡ってくるけど、

そういうのも、こういうことなんじゃないかと思う。

2、30年っていうと、アレじゃない、親の世代との差と同じくらいじゃない。

流行りだからちょうどいい具合に親が昔着てた服が使える、ってんじゃなくて、

親の昔着てた服がちょうど着れるもんだから、流行になるんじゃないかしら。

少なくとも流行を追いかけるんじゃなくて、作るひとたちは。

といっても雑誌やらのメディアが作り出す流行ではなく、

自然発生的に生まれた流行というものは。


服に限らず、家具やなんかも、何十年かに一回、レトロブームが再来するのは

こうして大人になってから古い電気スタンドを磨いたりするひとが

いるからなんじゃないかと思うのです。


今はいまいちと思っているデザインも、数十年後には新たな「レトロ」ってカテゴリーに

属していることになるかもしれないですね。

デザインの良し悪しは置いといて、懐かしむんだ。きっと。


2005年03月29日(火) 狭い早いあと少し

大塚てくてく茗荷谷

ピンポンもりもりてくてく

狭いなぁ東京。

というか、23区。

下手に地下鉄つかわないほうが、早い。

そして、時が過ぎるのも、早い。

もうすぐ4月だよ。

3月は、おもうぞんぶん、遊び、そしてだらけたな。

もうすこし、

もうすこし、考えよう。

いろいろと、ね。

思考する時間が必要に思うのだ。




2005年03月28日(月) いつまでたってもにがいじゃないか

ほんの出来心で手にした冷蔵庫の缶ビール。試飲缶135ml。

まだまだおこちゃまのようです。にげぇ、、。

まだ半分くらい残ってるよ。はは。

さすがに酔えないよ。この量じゃ。

こんなに苦かったっけ。

おとなになったらおいしくなるって聞いたのにな。

いつまでたってもにがいったらない。

苦いと若いってよく読み間違えるよね。

そういうことか。

そういうことか。


2005年03月27日(日) 見えないもの、聴こえないもの

3時間かけて重い腰をあげ、家から徒歩2分、レンタルしていたDVDを返しにいく深夜2時。

聴こえないはずのものが聴こえてきたらこわいので、音楽を聴きながら出歩く夜。

それでも聴こえなきゃいけないものが聴こえないと困るので、音量は抑え気味で。

イヤホンから聴こえる音楽と、外の静けさが、半分ずつ聞こえる夜。

誰もいない夜。

あたりまえ。

するとマンションの下に一台の自転車。新聞配達の自転車。前かごと後ろの荷台いっぱいの新聞。

・・・。・・・?新聞?深夜2時に?朝刊にしては早くないかい?・・・

昼間、あたり一体の人間が消えるSFを思い出す。

からっぽになった街がそのまま夜になってしまったかのような、誰もいない夜。

配達員の姿もない。

普段みるよりも、うすっぺらく感じた積まれたたくさんの新聞。

立ち止まることもできず、そのままレンタル屋へと向かう。

大通りが見えたところで、走ってる車が見えて、少し安心する。

消えちゃいない。

パトカーが2台、サイレンも鳴らさず、交差点を横切っていった。

たぶんサイレンは鳴っていない。

もういなくなってるだろうと思いながら再び戻ってくると、

ちょうど配達員が自転車にまたがってこちらに走り出すところだった。

すれ違いざまにカメラを向ける。

帰ってきて写真をみてみると、ブレていてなんにも写っていなかった。




2005年03月26日(土) 流像

なにもしないをしている日々。

なにもしてなくはないけども、

つまり、ひきこもっている。

映画を3本見た。

わたしたちはいつも、結果や、はっきり目に見えるものを見ようとしてしまうけれど、

そしてそれを見ることでカタルシスを求めてしまうけれど、

なんとも形容しがたい感情やなんかも、実際にはあるわけで。

だから感想文なんてもんは書く必要がないように思う。

結論がないのだから。

形容できないのだから。


映像を流し見ている。


小説も読み流しているかもしれない。


写真も・・・?


もうわかりきった物語はいらない。

起承転結に沿わなくたっていい。

先が見えちゃぁ、、ねぇ。



ぐちゃぐちゃ〜

ポイ。



アリ?


2005年03月22日(火) 狭間の狭間の青い芝

修理に出していたMDウォークマンが帰ってきたので

MDの整理をした。ipodも買ったことなのでMD音源しかないもの以外を除けるために。

そしたらば。MDのラベルには「tahichi80」…おそらく「tahiti80」と書きたかったのだろう…

いざ再生。

…ラジオから無理やり録った、

「古着屋とかで流れてそうな70年代チックなハウスのようなテクノのような」音楽…

それ一曲が終わってやっとタヒチがはじまって、アルバム全部が終わると、

意外と自然な流れで、いつかの大雨を駅で雨宿りしながらサンプリングした音。

それが終わると、古いカセットテープを再生したようなプチプチした音がして次にきたのが

YMO!ライディーーーン!!!(しかもこれもラジオかなんかの音源)

この脈絡のなさ。

夢も現実も人間がこういう人間だとどっちにしろ秩序立てるなんてことはできないらしい。



山越え谷越え川越え雨雲越え、タマビの学内卒制展に行ってきた。

全体を通して意識の高さをまざまざと見せられたよまったく!

かけるとこには金をかけ、展示することに対して妥協してない作品が多くて。

あと、こないだの文化庁メディア芸術祭に出展していたものとか、

コンペで賞を受けたものとかがゴロゴロしてたのにも驚いた。

ムサビとタマビとか、デ情と情デとか、比べるもんじゃないだろうけど、

やっぱり意識せずにはいられんよなぁ。ツクツクホーシ

隣の芝はやっぱ青いかもしれないけれど、

自分の庭も手入れして青くすりゃぁいいんだよなぁ。ツクツクホーシ

っていうかね、デ情はもっと一つ一つのゼミでやることはっきりさせるか、

もしくはもうごちゃごちゃ〜っと、自由自由自由、自分で決めれ〜

っていう教育をしたほうがいい気がした。今って中途半端じゃね?

中途半端に突き放されて、中途半端に知識身につけて、中途半端に殻破れない。みたいな。

まぁ自分次第なんだろうけども。


その後案内してくれたmiki(milkie)ちゃんと写真やら進路やら人生のことやら!について話し、帰宅。

最近、ミクシィでも知り合ったばかりの人と人生相談チックになってしまったりして、

自分でも驚きです。こんなに人見知りしなかったっけオイラ。みたいな。



なんせ、まぁ、人生の岐路ですからねぇ。


2005年03月21日(月) リアルと夢とウェブの狭間で

先日mooe+のタブチングと展覧会巡りをしながら

都会のまんなかで、それぞれの友人、知人、いろんな人にばったり会った。

出会う人たちの脈略のなさをタブチングは夢のようだ、

と書いていたのもうなずける。

ところがその夢はどこかウェブと似ている、とも書いている。でもそれも納得できる。

そもそもウェブはその構造やシステムを現実世界にならって作られたものなわけだけど、

夢と現実という相反するものの両者にウェブが似ていることがおもしろい。

相反する両者ではあるが、ときどき夢と現実の区別がつかなくなるように、

両者は極めて似ているともいえる。

では、その似て非なるものの違いはどこにあるのか、、、

予測がつかないところは夢のほうが多いけれど、現実だってなにが起こるかわからないときもたくさんあるし、、

それに、現実で見たり体験したりしたことや考えていたこと、空想、妄想が元になって夢が形成されるわけだから、

ひとつひとつの要素をとってみれば夢と現実のあいだには線などないのかもしれない。

要素は同じかもしれない。けれど、コンテクストが突拍子もないのが夢ってもんだ。

戻ってきた戻ってきた。

突拍子もないコンテクスト、脈略のなさが、夢なんだ。

ということはウェブも、突拍子もないものなのか。

たしかにリンクによってウェブ空間の距離や時間は縮まって、まったく違うサイトに飛んでいけたり、

ロボット検索で、まったく関係のないページを開いてしまったり、、、、

うん、確かにウェブって脈略ないかも。

でも、アドレスとか、階層とか、

(あんまり想像できないときもたまにあるけど)画面の向こうにはちゃんと人がいることとか、

やっぱりちゃんと現実なんだ、って思える部分もある。


リアルな部分と不完全さとを包含している。


これってもしかすると、人間に似ている?


人間の現実、夢、ウェブ、、、、、人間。

堂堂巡り。


2005年03月20日(日) 音変換イメージ不思議音

ジャケ買いはハズレたときの損失が怖くてできないので必ず試聴して買うけど、

レンタルなら、しかも100円セールだったりすれば、ジャケ借りなるものをする。

それが意外にもハズしたことがない。

まず洋楽コーナー、邦楽コーナー、サントラ、などの大枠を選んでその棚の前に立つ。

そして、陳列されてる時点では、背の部分を見せて並んでいる大方のCDの中から

そのわずかな面積のデザインを基準に選び取る作業をする。

白地にヘルベチカ系の文字に弱い。

で、選び取ったCDを見てみると、やはりヴィジュアルからキそうな予感がぷんぷんする。

というか

デザインから中の音楽を匂わせられるのなら、

音楽の側からもある程度共通認識される、沸き起こるイメージというものがあるのだろうか。

どんな音楽からもイメージというか映像というか、なんらかのものが視覚情報として浮かぶけれど、

それが多くのひとと共通してるとしたら、それってすごい気がしてきた。

そんなこといったらどうしてひとはマイナー系のコードを聴くと悲しいとか暗いと感じるのかとか

不思議だ。

そういうのは脳の構造とかが絡むのかしら。よくわからんけども。

先天的にどう育ってもそう感じるようにはじめっからできているのか、

それとも後天性のものなのか。



音変換イメージ不思議音。


2005年03月19日(土) めくるめく

■17

新小平から40分近くあるいて友人宅で餃子パーチー

餃子を包みながら節約生活みながらカルピスサワー飲みながら既に赤ら顔。

ふあふあと、交わす言葉が宙に舞う。

太田くんをぱしりに使ったり、

一眼レフを貸したときにフィルムに残っていた写真を現像してもらったり

帰りにバイクに乗せてもらったりして帰宅。


■18

mooe+デートyappe

スパイラル、青山散歩初台、ICC、森山新宿荒木、長話脱線脱線マクロ長話、初台散歩新宿。

またしようね、たぶっちゃん!


■19

新小平散歩引越し手伝い

あふれるモノ、モノ、モノ、

花粉症の脅威をすぐそばで見た

2年間しか住んでないのに、モノの多さや水周りの汚れがその長さを語っていた。

そしてもぬけのからとなった部屋

もうその空間は誰かのものになってしまうんだ


国分寺電車新宿

タワレコ

マイナスイオン、ピコピコ、静かなロック

新宿散歩秋葉原、テッチュウ!

おいしい料理を前に、育ちの悪さを露呈。ねこまんま。

おこちゃま向けのアルコール

「やっぺって、ちびまるこちゃんに出てきそう」と、言われる。

絵本朗読出版、テッチュウミーティング、黒板ラクガキ絵本作家

終電帰宅ミクシィ。早い、速い。オンゴーイング。

写真取り込みCDインポートipod更新web更新至福の時


2005年03月16日(水) どばっと

自分から繋がろうとすれば、意外と簡単に反応があるもんなんですね。

どっかを流れてる金脈にいままで気づきもせず、探そうともしてなかったかのようです。


くるときは一気にくるもんなんですね〜。いろんなことにおいてそれは言えるかなと。



2005年03月15日(火) 素直

旅行の写真の現像があがってきた。

出発直前まで持っていくかどうか悩んだ末に、約一年ぶりに持ち出した一眼レフ。

長らくこいつを封印していたのは、いつだかここにも書いたが、

こいつで撮った写真がまったくつまらぬぁい!と感じたからだ。それももう数ヶ月前の話。


もうデジタルだの銀塩だの比較だのなんだのはどうでもいいんだけど、

自分のなかでは予想として、デジタルで撮ったものは「動」、

一眼で撮ったものは「静」というような大まかな分類が自然とできそうだと思っていた。

以前の「つまらぬぁい写真」に「動」が感じられなかった、、その逆も然り、、

というような結果に対する解釈が、自分なりのこの予想の根拠を生んだんじゃないかと思う。

さて、できあがった今回の写真はというと意外にも、

先にパソコンに取り込んだデジカメの写真と大差なかった。

と、感じただけかもしれないが、とにかく、おえっとなるような違和感はなかった。


そもそも今回一眼レフを持っていくことにしたのも、実はこうなるんじゃないか、

違和感をなくすことが今ならできるんじゃないか、という思いが密かに潜んでいて、

その思いがそうさせたのかもしれない。


極々最近は素直にいこう、というのがちょっとしたテーマ、ってほどのもんじゃないけど、

心の片隅くらいにはいつも浮かんでいるキーワードだ。

大学に入りたてのころの写真を見ると、まぁー必ず皆一度は撮っちゃう夕焼けだの電柱だの

イメージ先行型写真のオンパレードなわけだけど、それはそれである意味素直である。

それはそれは恥ずかしいくらいに素直である。

ところがやはりそれを続けていくことに耐えられなくなってくる。飽きてくる。

すると、無理やりカタチだけ変えてカッコつけようとするもんだから、それはそれは素直じゃなくなってくる。

はっきり言ってその知ったかぶりのカッコつけをやっていたと今自覚しているのが3年の夏くらいまでだ。

そのカッコつけの期間中もそれなりにいろいろ考えたりするんだけれども、どうもよくわからないまま、

けれども素直なのがカッコ悪いみたいな、音楽で言うとjpopを馬鹿にしてノイズだの一般受けしないものに走るような、

そんなひねくれた反抗期みたいな感じで、斜に構えたへそ曲がりな写真が量産されたわけである。

文字通り写真は斜めってたし。笑

まぁ今も斜めってるんだけど、水平に構えることの不自然さを認識してるのとしてないのとでは質が違うからいーのだ。

と今を正当化するのは進むための本能なのかもしれないなあ。なんて。


で、今回現像された写真である。

違和感を感じないのは、まだ客観的になっていないからかもしれないけれど、

破り捨てたくなるようなものが出来上がってこなくて今のところほっとしている。

でも半年ちょっとまえの反抗期の自分は好きじゃなさそうな写真だとは思う。

それは狙って撮っているから。

わざと露出オーバー気味にしてハイキーにするとか、ある程度は予想できてくるから、狙えるのだ。

だからといって本気で物語性のある写真とかを狙っているんじゃなくて、

狙いを超えたところで偶然がもたらすものに期待をして、それを素直に狙うのだ。

うーん、わかりにくいだろーなぁ。

っていうかこれは前からやってたような気もしてきた。あれ、どーだったっけ。

まぁとりあえず言えることは、技術的にはもうちょっと上達せねばなぁということだ。

フイルム2本だめにしちゃったよ。

写真がどーのとか以前の話だなー


「ひさびさにこいつとデートしてみたら誤解が解けたのでまたよりを戻すか、

でもやっぱ毎日べったりは重いから無理だわー、金もかかるし、、」ってところかしら。


すごい誤解されそうな文だわこれ。笑


2005年03月14日(月) この春

デジャヴュかしら。

この春は、高2か高3のころの春と似ている。

あるいは春じゃなかったかも、しれない。

ただ、どこにも繋がれていない、浮遊したこの感覚が似ているのだ。


首をぐるんぐるんした

ら、世界がまわって、

ちょっと、おえっとなった。


社会人のように毎朝ラッシュでもみくちゃになって通勤する日々も終わり、

ちょっと旅に出て、

帰ってきて、ICCやら先生の展示行ったり、読書三昧。

しゅーかつなんてしてない。

たぶん、する気も、ない。

どうもしっくりこなかった。

一年後とかに、アパートの契約とか、多少せまくても日当たりのいい部屋で生活してるのとか、

は、たやすく想像できるのだけれど、

どこかの会社に勤めている自分は、そこにはいない。

最近浮上してきた新たなプランは、なかなか悪くない気がする。想像できる。創造できる。

気が、する。

気がする、だけ、かも、しれない

けれど、なかなかにしっくりくる。

まだまだ流動的な自分を固形化するための時間が必要に思うのだ。あと3、4年はほしいなあ!

今はどろどろだかさらさらだか、とにかく溶け出しそうに、あやふやだ。

雪解け?

いや、まだ一回もかたまっちゃいない。




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