ゼロノオト

2005年01月29日(土) 風

風がでてきました。

カーテンが揺れました。

窓はもちろん閉めています。

目を疑いました。


そういえばどうして風には音があるのでしょう。

風の音。

風の歌を聴け。

風はどこからやってくるのでしょう。

風の谷のナウシカ。

ビルの谷風。

そうか、谷には風が吹くのか。

風の強い日、不思議に思います。

たぶん気流とか気圧とかなんとか寒気団とかそういうもののしわざなんでしょうが

理科はめっぽう苦手です。


びゅーーーーーーーーー


2005年01月28日(金) 小説におけるラストシーン

納得のいくラストシーンにはめったに出会えない。

やっぱ、難しいんだと思う。

ものごとが紆余曲折を経て、無事解決すりゃいいってもんでもない。(推理小説では解決しないと困るけど。)

だからといって、あれもこれも途中で投げ出されたまま、残りページがわずかになったときのあの、

8月31日のような諦念や絶望感を味わあせながら幕を閉じてもらいたいわけでもない。

じゃあ何を求めてるの?って聞かれて答えられるくらいなら小説家になってるだろうけど、

漠然と思うのは、きっとバランスなんだろうなということ。

いかに完全な不完全さを作り上げるか。

短絡的に答えを得るでもなく、ものごとを収束させる意思を失うでもなく。


2005年01月27日(木) ン

楽譜で言うと、休符のような一日。

たぶん一日いちにちを何かしらの音符に置き換えて、一年を通して曲にすると、

たいそうつまらない代物になるだろう、。

何段階にも分けられる強弱や、音の高低、規則正しいリズムや、抽象画のようなリズム、

そしてところどころに入る休符。そういう生活を送ろうとするべきである。

そして今の私に足りないものは、休符以外のあらゆるものだ。










2005年01月26日(水) くたくたんなって歩いた後で思考を補給

規則正しい生活のための準備をしに、水道橋へ。

が、電車に乗ってまもなくして星が辺りにチカチカして

なぜか視界が広角になり、窓の景色がホワイトアウトしていき

出発して2駅目であえなく途中下車。世界がまわってた。

やはり夜の世界が私を引き戻そうとしてるのかしら

なんて思いながらもそれを振り払った。

いつまでもあちら側の世界にいるわけにはいかないのだ。


用事を済ませ、いままでの引き篭もり生活の分を取り戻すべく、

本屋を巡って水道橋から神保町、神田、御茶ノ水を歩く。歩く歩く。

のども渇いて、おなかもすいて、腰も痛くなってきた

が、カフェなどに入るタイミングを逃した。

くたくた。お金も使い果たした。

デジカメのSDカードも使い果たした。久々に512MBと256MBを満杯にした。


---


近い将来のことを想像する。

どんなのがしっくりくるだろうかと。

昔から制服を着るような仕事はしたくなかった。

スーツを着て仕事をしている姿も想像するのは難しい。

残るは、汚れた格好で駆けずり回っているか、

何も着ていないかだが、まぁ最後のはない。

やはり表舞台よりは裏方が似合うし、そういうのはわりあい好きだったんだ

と気づいた。

プライドは別にないと思っていたけれど、どこかでそいつが通せんぼをしていたような気がする。

「一流大学→一流企業」というような極めて狭い生き方をばかにしつつも、

どこかでそれを意識していたんだと思う。「一流」を何かに変えただけで。

その何かっていうのが、自分にとって最上のものであるという幻想を抱いて。

それがとてつもなくかっこいいものだと信じて。要するにいい格好しいだったんだ。

だからなりたいものや、やりたいことがわからなくなってしまった。

それが本当に最上なのか?最終決定?ファイナルアンサー?

と迫られているように感じた。

でも、優柔不断だし、考えはころころ変わるし、好奇心旺盛だし、よくばりだし、

そんなものにズバッと答えられるわけがない。

人生の完璧な企画書を今だせるはずがないのだ。

だから、完璧ではないにしろ、今の時点での企画書を作ればいいんだと思う。

企画書は推敲に推敲を重ねて改定していけばいいんだと思う。




と、いうわけで私、○○を目指します!!

って言えたら苦労はしないよなぁ。


2005年01月25日(火) 過去や未来について

図書館にあるのは過去に書かれた本だけだ。

すべての本は過去のものだ。

言ってみれば

この世の中にあるのは過去の集積としての今だけだ。

実際的な未来はない。未来は予測の中だけに存在する。

未来に行くことはできない。

今日を越えることはできない。

今日の終わりにある境界線の先端で前のめりにつんのめるくらいしかない。

なぜならば、当たり前のことだけど、前のめりになって向こう側によろけた気がしても

既にそこはこちら側になっているからだ。

玉乗りのように。あるいはそれは球ではなく、四角いものかもしれない。

(そういえば玉乗りって考えてみれば不思議だよね。

だって玉の上で普通に歩くと玉自体は後進するんだもの。で、

逆に玉の上で後進すると前進する。ここらへんも例の「明日は後ろにある」って話に繋がるなぁ。)

いずれにせよ次の面に踏み入れた時点でそれは今の面になる。

だからどうなるという話でもない。

短絡的に導き出せる答えというものはない。

結論がないのだ。

結論がない、という結論があるだけだ。


2005年01月24日(月) 夜中から

明け方どころか昼近くまで本を読んで

夕方起きて、また読んで、めし食って、

トラジ・ハイジ見て、中森明菜見て、

また本を読んで、眠くなって、

寝てしまって、気づいたら、夜中の3時。

一見おばあちゃん生活。

これは一周したんでしょうか。

するんでしょうか。

バイト行きたくないがゆえに読書に逃げています。

ほんと行きたくな〜い

けど先週でテストやらレポートやら終わるって言っちゃったし

でも向こうから連絡こないしいっかーとか

とか

とか



なんなんでしょうね今日のこの文章!駄文過ぎ〜

まぁ、

それがいいか悪いかは別にして、今はゆるやかな全体に浸るよりは

とりあえず一日という区切りで、なるべく詳細の中にいたことにしておきたいから

最近はできるだけ書くようにしている。

あるいはそこに逃げているのかもしれないけれど。


2005年01月23日(日) 鏡用の顔

自分の顔って客観視できない。

鏡に映る自分をみるときは、"鏡を見るとき用の顔"でそれを見ている。

別に満面の笑みとか、作った顔じゃなくても、

歯を磨くときの真顔でも無意識に鏡用の顔になっているんだと思う。

だから鏡に映った自分には慣れている。

けれど例えばビデオカメラで撮影された自分の姿は

見慣れないもんだから自分なのに他人のようだ。

鏡の前でしゃべることなんてないから、

思えば自分がしゃべっている姿って見たことがないものだ。

しゃべるときに、こういうふうに頬の筋肉が動くとか、きょろきょろしてるとか

映像に映った自分ではじめて知る。

テープレコーダーに録った自分の声をはじめて聞いて驚くのと同じように

しゃべってるときの動きをはじめて見たときの衝撃といったら。

芸能人には絶対なりたくないね。まぁなれないけど。


2005年01月21日(金) ペットは飼い主に似る

やっとこさAVOTU用の作品を仕上げ、久々のネットだぁっ。

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リブリーっていうウェブ上のペットみたいなのを飼っている。

友達が飼ってるほかのリブリーとチャットなどもできる。

そいつのうんちが宝石で、宝石はお金の役割を果たす。

そんでそのお金でエサが買えるという完全自給自足の仕組みだ。

エサにはいろんな色の虫が何種類かあって、

与えるエサの色によってリブリーの体の色が少しずつ変わっていく。

今はしろになっている。

そろそろ色を変えたいんだけど、何色にしたいのかわからない

から、適当にいろいろ食べさせている

が、青い虫を食べさせたり、赤い虫を食べさせたり、緑の虫を食べさせたり、

またまた白い虫を食べさせたり、

と、やっているから一向に体の色が変わらない。

例えば青くしたかったらひたすら青い虫を与え続ければいいんだけど、

そういう明確な目的がないからどうにもならない。

でも色は変えたい。

そう、目的がほしいのだ。

あるいは目標がほしいのだ。

自分が何をやりたいのかわからないと事は進まない。

やりたいことがあるんなら努力のしようがある。

弁護士になりたければ、ひたすら法律の勉強などをすればいいだろう。

なれるなれないは別として、突っ走る方向が決まっていればひたすら走ればいい。

走ってる最中も苦しいだろうし、マラソンは嫌いだからつらいだろうとはおもう。

けど、走り出せないのもそれはそれでもどかしい。



ペットは飼い主に似る。

早く自分のイロを決めたい。


2005年01月19日(水) あきらめたらそこで試合終了だよ。

あきらめたらそこで試合終了だよ。






そして来年、再試合です。


 


そしてとりあえず春休みです。





ばかだなぁ。


2005年01月18日(火) picture

英語で写真はphotographのほかにpictureという言い方がある。

pictureには絵も含まれる。

っていうか私の中ではニュアンス的にピクチャーは額に入れられた絵や写真

っていうふうに捉えていた。

日本語では「写真」「絵」って別れてる

のになんでこれが同じひとつの言葉で表せちゃうんだろう、

英語はおおざっぱだなぁ、無理あるでしょw

と思っていた。

確かに額に入れられてしまえば写真も絵も似たようなものとして思えなくもないか、

しょうがねぇ、許してやろう、ってな感じで

ピクチャーという言葉を認めはするが避けてきた。



だが、しかし、でも、けれども

額に入れられてなくとも、写真と絵には共通するもんがあるなぁ!

強ちpictureが絵も写真も表すことは間違ってないんだなぁ!と、

こないだジャクソン・ポロックの絵画について調べていて、そう思った。

鍵は意識と無意識。

無意識を意識すること。

その姿勢は絵画にも写真にもあてはまると思った。



ポロックは絵画を制作するときに、キャンバスを床に置き、

上から筆や棒などを使って絵の具を滴らせ、その色や厚みなどによって

それまでの手描きの絵画とはまったく異なる世界を生み出す、

ボアリングという技法を生み出した人物である。

この技法は、意識的に細かい調節が可能な筆とは違って、

無意識の状態を直接図像へと反映することができるんじゃないか、ってことで

無意識が生み出す芸術の意味をポロックは絵画を通して考えていたようだ。

「このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、

文字通り絵のなかにいることができるのだから、

わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。(後略)」(ジャクソン・ポロック)


写真においても意識というものは写真を成立させる要素のひとつでありながらも

その意識によって解釈の幅を限定させてしまうものでもあると思うから、

意識をなるべく排除しようとしたポロックの姿勢には共感した。

写真というものは意識の塊である。と同時に無意識をも内包する。

例えば人物を撮った写真があるとする。そこにはその人物を写そうという意識がまさにある。

でもよく見ると撮るときには気づいていない関係のないモノがまわりに写りこんでいたりする。

無意識が写っている。

そういう無意識を徹底的に排除したのが商業写真であったりするのだけど、

大抵の場合、このように写真には意識と無意識が並存している。

そこで意識を取り除くと写真はどうなるのか。写真は成立するのか。


意識不明の状態で写真は撮れないけれど、余計な意思をできるだけ排除することはできる。

こうしてウェブ上で写真を見せるという行為からして、

取捨選択という意思があることは否定できないが、それでもなるべく意思のないものを、

無意識が多く写っているものを選び取ることはできる。

無意識を意識して意思とするという一見相反する行為ではあるけれど、

やかましいほどの意思が写りこんでいるもの、意思を写しているものを

なんの疑いもなく選び取るよりはましな気がする。


うん、なんかわけわかんなくなってきた。


彼は自分が目指しているのは「イーゼルと壁画の中間」に位置する作品であるとも言っていたようで

絵画があるべき姿、床に対して垂直なのか水平なのかといったことにも関係してくる。


今までなんの疑いもなしに受け入れていた概念を、まずその概念があること自体に気づいて、

疑うことができて、さらにそれを壊すことができるというのは並大抵のことじゃない。

でもそういう姿勢は絵画においても写真においても、さらにあらゆることにとっても、

大事なことなんじゃないかと思ったのだ。


2005年01月17日(月) ミラクル

偶然ってすごい。

たまたま今日、村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」を読んだ。

内容を知らずに読み始めてから、そういえば今日があれから10年という区切りの日だと気づいた。

『地震のあとで』その一〜その六という連作がおさめられた短編集。

偶然にもきっかり10年という時間たどって、文章は届いた。

ありとあらゆる文章は未来に向けて書かれている。

文字になった瞬間、過去になる。

でもその文字に意思はないはずだ。

にもかかわらず、その文章はまるで意思をもって今日私に読まれるために書かれたみたいに思えた。

たまたまなんだけど。

そんなんじゃ片付けられない奇妙な何かがあるような気がした。


2005年01月15日(土) 雪やこんこん眠る

雪なんか降らなかったじゃん。夜みぞれだったくらいで。

そしてゼミ展終了。

やっと寝れる。

ってわけでたっぷり寝させていただきやした。10時間。

そして外は雨、風びゅーびゅー。日曜日の雨。引き篭もり日和。

晴れてるのに引き篭もっていると、多少罪悪感を感じるのだが

こう雨も降って寒ければしょうがないよね

などといいわけできる。でもたぶんいつか後悔しそうだ。

けれども用もないのに出かける必要はないし、

むしろ家で早くレポートアンド試験勉強しなきゃって話なんだ。

なんだ、むしろこの嵐の中出かけてたらそれこそ後悔の嵐だ。

あと、ここ数日まともに寝れなかったので夢も見てない。

で、今日久々に10時間も寝たのに夢を見てない。見たとしても記憶してない。

睡眠を楽しむくらいの余裕がないと夢は見ないのかしら。

もう、集中して休息しなきゃ!って体が訴えてると、眠りは深くなって

夢なんか見てる場合じゃねぇってことになるのかしら。

ってそんな気がしてきます。レム睡眠とか飛び越えて。

科学的には知らんけど。


2005年01月14日(金) ゼミ展二日目。

ゼミ展二日目。

鏡の使用によりなんとか形にすることができた。

あと、昨日は展示場所の窓の外側で別のひとが作業のためにライトをつけていたのだが、

今日はそれがなくて多少室内が暗くなったのと、昨日の映像も少し手を加えて

映像自体を明るくしたかいあって、だいぶ投影したものが見やすくなった。

天気も曇りだったので、夕方にさしこむ光の量が減って助かった。

そういうわけで昨日よりいい方向にことが進んでくれた。

周りの環境によくもわるくも左右される今回のインスタレーションの難しさを痛感した。

明日は雪。

はたして窓の外の雪はどう展示に作用するのだろうか。楽しみだ。

今回のインスタレーションはある意味、あの建物を設計した建築家とコラボってるわけだ

ということに言われて気づいた。

どこでやっても同じふうな展示ができない点で

あの場所での展示をつくっていく楽しさを味わえた。やりがいがあった。

これが今日やっと形になっての感想だ。

夏に「影を照らす展」をいっしょにやったアサコも見に来てくれた。

「影を照らす展」のときも思ったらしいが、こういうアイディアを思いつくことがすごい

というようなことを言って褒めてくれた。昨日中野さんと帰ったときに、

アイディアをたくさん持つことが強みになるというようなことを言われたばかりだったので、

大変にうれしかった。

まだ明日の最終日がありますが、きっと明日も新たな発見があるでしょう。

毎日学ぶところがあるというのも私がインスタレーションに惹かれる理由のひとつだ。

明日も日没後から夜八時前まで課外センターでやっています。

外の景色と、窓の景色と、内の景色とがお待ちしております。


2005年01月13日(木) 中身も外身もしどろもどろ

3徹は無理でした。

気づいたら寝てました。

3時とか5時とかに「寝てていいのか」コールが脳からでたけど

体がそのコールを跳ね除け、休息を要求してました。

朝起きてから映像作りました。

なんとか完成して学校へ向かう展示一日目。

思ったより場所が明るくて完全に日中の投影はアカンです。でした。

暗くなってから再び投影場所を調整しましたがなかなか思うようにいかず。。

見に来てくれたひとにはほんと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

試行錯誤するも、ねらい通りいかず、時が経つばかり。

完全に実験不足。

そんなんで一日目は終了。

やっぱり展示の初日はうまくいかないんだね。

明日、あさってもうまくいくかどうか不安ですが。

とりあえず「とりあえず」の設置をして、見に来てくれた友達を見送ろうとしていたそんなころ

「あれ燃えてない?」といわれ、7号館のほうを見ると、

なんと火事。消防車が何台もきて大変なことになっていた。

あんな現場はじめて生で見た。

友達を見送ってそれからしばらくして展示の機材を片付け、

バス停に向かうと中野さんに遭遇。

しばし一緒にバスを待っていると、この火事の緊急車両でバスの路線が塞がれ、

運行復旧のめどが立たないとの情報が入る。

というわけで歩くことに。

歩きながらゼミ展の作品の話になり、作品のねらいだとか意図だとかを話した

が、上手く言葉にできず、しどろもどろへどろ。どろんこ。

あえて作品の説明をしないのと、説明がうまくできないのとでは全然違う

のに、

昨日あんだけ「説明しなきゃわからない作品は負けだ」とかなんとか言った

のに、

説明もろくにできないことが発覚。

あえてこちらから作品の説明はしないけど、聞かれたらスパッと答えられなきゃ、だめんじゃんね。

中野さんの助け舟によって、なんとかどろまみれになりながらも作品意図を伝える。

「うん、うん、何となくわかる。なんでわかるかっていうとおれも似たようなテーマでやってるから」

とな。

中野さんの出品してる助手展を昨日見た。そういわれてみればなるほどそうかと頷いた。

キーワードは膜。平面性。

思えば今回のインスタレーションの前に写真を撮っていて思ったことが今回の作品意図に繋がる。

写真。

奇妙な立体感と、上から撮ったかのような(でも上からじゃない)違和感のある構図、

現実なんだろうけどどこか現実感がない、どこかひっかかる、居心地の悪さが心地よい写真。

というのが中野さんの作品のひとつを見た感想だ。

なぜ居心地が悪いのか。(=そしてなぜ心地よいのか。)

だって居心地のいい写真(「写真らしい」写真)なんて、ある意味気持ちが悪いじゃないか。

写真だからこそ騙したり混乱させたりすることができるのが写真のおもしろさだと思う

から、現実を忠実に再現することに重点を置いた写真は、

「写真らしい」写真、専門の人に任せておけばいい。



現実感がないってのもポイントのような気がする。





2005年01月12日(水) ひっちゃか

なんとかデザインマネジメントの課題は終わらせました。

最後の最後に文字化けして、一時発狂しましたが、どうにかこうにか。。。

(字数足りてないけど。)

さてと次はゼミ展の映像、、、

3徹への挑戦、、、

一難去ってまた一難。

実は昨日2、3時間寝ちゃったけど!っていうか意識不明だった。いつ寝た!?覚えてない。

今、眠くはないけど心身ともに疲れた!


今日は久々に学校から国分寺までバスを使った。

たまにいつもと違う速度の乗り物に乗ると、ちょっと新鮮ですね。

いつもは徒歩かチャリか電車なので、わくわくした。



それから新宿行ってPCとプロジェクター用の防犯ワイヤー買って、帰ってきた。

移動時間に寝たかったけど、眠れず。

もう1日の境がわからない!

普段でも回転遅いのにさらにいつもより回転3割引きのこの頭。

一回寝たら起きれないから仮眠は怖い。


あ、あと、ゼミ展、私は3日間午後からやります。その代わり20時まで。

午前中は日差しの向きの関係で明るすぎてできないっぽいんで。

えっと場所はムサビ、課外センター正面から入ったところです。

入ったら天井を見上げ、窓を眺め、窓を眺め、外の景色も眺めてください。

夕暮れ時がきっと見頃です。昼と夜とでまたちょっと見え方が違ったりするかもしれません。

めいいっぱい説明的なタイトルつけたので、説明のパネルは作りません。

説明しなきゃ伝わらないようじゃ、負けです。インスタレーションは。

ゼミ展全体は10時〜18時。水木金。131415。


よろしくお願いします。ふらっと遊びに来てください。


2005年01月11日(火) くるくるやまみち

今日も寝れない。

明日も寝れない。

昨日も寝てない。

まぁすべて自分のせいなんだけど。




友人から今日年賀状が届いた。

「遅い年賀状ですみせん」

とあった。テンパってる中、ありがとう。



この山を超えると、たぶん深い深い霧に包まれた巨大な山がそびえ立っています。

でもどのくらい高いのか、どのくらい険しいのかはわかりません。

そこに果たして山があるのかどうかも定かではありません。

つい、お手軽ルートに進みかねない自分がいます。

そこに山があるから登るのか

高く高く上りたいから山を探すのか



賢い近道と

有意義な遠回り

これ、今後のキーワードです。

いい言葉だな〜「有意義な遠回り」

素敵じゃない大人からはなかなか出てこない言葉だと思います。


2005年01月10日(月) 前のめりに逃避

ほんとにヤバイ

ほんとにヤバイと思う。思ってきた。











間に合わない







かも。ね〜。

いろんなことがぎりぎりすぎ。


2005年01月09日(日) 一人称

自分の一人称がしっくりこない。いつも、半分納得しないままその一人称を口にする。

「わたし」の「わ」は言いにくい。かといって「あたし」っていうのもキャラに合わない。

「あたし」が似合うのはもっときゃぴきゃぴした、かわいい子だ。と思っている。

「あゆは〜」って自分の名前を一人称として言うのが許されるのは十代までだ。

ハタチを過ぎてそれを使う人は本物の天然かそうでない天然か、あるいは癖か。

「僕」や「俺」を女で使うのは痛いし、高倉健のように「自分、不器用ですから」っていうのも違う。

というわけで自分の一人称がはっきりしないまま中性的な「うち」を使うことが多い。かな。

でもこれも自分の中のどこかで"関西人でもないくせに"とひっかかってはいる。

英語だったら簡単なのにね。老若男女、I で済む。あと、my 、meあたり。

日本語にも I に代わる一般的な一人称はないものだろうか。


2005年01月08日(土) 夢中遊泳

夢を見た。

いつも夢は短編集みたいな感じで、関連性のないストーリーを2、3本見る。

もっと見ているかもしれないけど、起きた時に覚えているのはそんくらい。

そして、本当に関連性がない。

でも今日見た夢は、全部が繋がってた。繋がってないようで、繋がってる。

終わりからはじめまでをさかのぼっていくと、繋がってる。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」みたいな感じ。

和菓子屋一家の話とスキー旅行と花火とプールとリアルなハトの置物と松戸駅と

FちゃんとS君とI君と名前も知らない女の子2人とCちゃんとK君と、私。

これが全部繋がっちゃうんだから、相当にハイレベルな構造をした夢だったと思われる。

要するに何が言いたいかって、

夢を見ているときの私の脳は、普段より回転してるんじゃないかと思うのだ。

起きてるときにもっと回転してほしいなあ。


2005年01月07日(金) 加速する時間

夜になると、時間が2倍速で進んでるような気がしてしまう。

あっというまに、ほらもう4時だ。



今日はまだ明るい夕方から出かけた。

まだ外に一歩もでないうちに暗くなると、「今日」をあきらめてしまう。

だから急いで出かけた。

そして買うもの買って、満足。

ハードディスクも買ったし、CDも買っちゃったし、満足満足。



なんか、今年は時間が速く流れてるような気がします。

一週間が早すぎます。まだなにもしてない。

たぶんそんな調子で今年が終わりそうな気がします。このままだと。

しっかりしがみついていきたい。


2005年01月06日(木) メモ

風船メディア

ヘッドフォン修理取りにいく

MD修理出す

HDD買わな。

物・言語・視覚言語―言語・視覚言語・メタ言語1/12

ゼミ展1/131415

面接対策1/14

AVOTU締め切り1/16

三省堂・・・

西洋美術史なんちゃら1/17教務に提出

今年は一枚も年賀状を出さなかった!

昼夜逆転が直らない!そして悪循環!

寝てる場合じゃない!

夢を記録してる場合じゃねぇ!

もう金曜になるでよ。

来週から学校だよ。

え、やばいじゃん。普通に。


2005年01月05日(水) 空の高さ

どこからどこまでが空なのでしょうか。

上空10000メートルというところにある空。

そして上空1メートルの空。

超低空。

どこもかしこも空。

だからオートフォーカスできない。

って誰が言ってたんだっけ。

まあいいや。

手に届くとこにもちゃんとそれはあるんだね。



前まで、地球の中に僕らは住んでると思ってたけど、

違うんだね。

地球の上に住んでる。

そうか。

ん?そうなの?

じゃぁどこからどこまでが空なの?

大気圏 オゾン層 空 雲 ビル 土

もう、知ったことじゃない。


2005年01月04日(火) 時間についての中途半端な考察

完全に昼夜が逆転した。

寝るのが3時、4時とどんどん遅くなって、朝方寝るようになって、

さらに昼近くに寝るようになって、今日はお昼を過ぎてからふとんに入った。

で、起きたら7時だった。夜の。

もう完全に曜日感覚はなくなっている。

一回がんばってそのまま起きてれば修正できるんだろうけど。

うん、なかなかできないよね。

もともと人間の体内時計は1日分が25時間に設定されているというのをなんかの本で読んだけど

ほんとにそうだとしたら、社会との1時間の時差はどうやって解消すりゃいいんだか。

時間は人間の発明したものだけど、一応それは地球の自転を基準にしてるからなぁ。

そういやどっかの予備校の時計の文字盤が13まであるのを見たことある。

見たときは「・・画期的だ」と思った記憶があるけど、

考えてみたら1日26時間になったところで1日の長さは変わらないのよね。

あでもやっぱ一時間半の授業が短くなるのはうれしいかも。

ま、混乱すること請け合いですけど。

えーと、どうしよう。結論がない。

さっさとデザインマネジメントのレポートやれって話やね。


2005年01月03日(月) 迷子の迷子の記憶さん

2004年を振り返ると、実に空白の日が多い。

あとで振り返るとき、日記も書いてない、ウェブの更新はおろか、写真すら一枚も撮ってない、

スケジュール帳にもなんも書いてない、学校もない、家計簿的なものにもなんも書かれてない、

そういう空白の日。大抵はおそらく一歩も外にでてない日なんだけど。

たとえば事件に巻き込まれても、そういう日は、アリバイがない。

刑事「あなた昨年の9月14日、火曜日。午後9時頃どこでなにをしてました?」

と聞かれたら、「すいません、私がやりました」と自供しかねない。

まぁそれはさておき。

日付に結びつかない、ふあふあ宙に浮いてる記憶がたくさんある。

そういう記憶は、日記をみたり写真フォルダをみて記憶を補完することで日付と繋がるんだけど、

どうしても日付がみつからない、でもちゃんと記憶には残ってる光景があって、

やきもきしている。

迷子の記憶だ。迷子の迷子の記憶さん、あなたのおうちはどこですかぇ。

この一年間をふりかえっただけで、記憶の迷子があちこちにふあふあしていて、

しかも、記憶すらない日もあって、

それがまた迷子以上にあるんだろうと思うと、なんだかもったいないと思ってしまう。

そういう、忘れてしまったことにも気づかない記憶がたくさんあるのがもったいない、

というよりは、忘れてしまうようなろくでもない過ごし方をした日が多くあることが、もったいない。



1.日付と結びついた記憶。

2.日付不明の記憶。

3.いなくなったことにも気づいてもらえない記憶。


毎日なんらかの記録を残せばおそらく2は減る。

毎日有意義なくらしをすれば、3も減る。かな。どうでしょう。

脳内ハードディスクの容量に限りはあるのでしょうか。

古いデータや最近アクセスしてないデータはいつのまにか圧縮されて、

新しいデータに上書きされるのでしょうか。

さぁどうなんでしょう。

やってみなけりゃわかりまへん。





2005年01月02日(日) 新年と信念

年が明けましたね。

といっても見える景色にあまり変化はありません。

そりゃぁそうですが。

2004年はもう終わってしまいました。

やっぱり後半は早かった。速かった。

今年は、一年の真ん中が6月であることを意識して

一年が365日間であることを意識して

過ごそうとおもいます

が、早くも2日間をろくでもない過ごし方をして消化してしまいました。


そうそう、新年になって、夢日記なるものを書き始めました。

起きてすぐ書けるように、図説できるように、ネット上じゃなくて普通のノートです。

初夢は(といっても寝たのが元旦のお昼近かったんですけど、)

ずっとできなかったえびぞりが、友達の前でやったらできた、という

なんともくだらない夢でした。

でも見方を変えれば、「今までできなかったことができるようになる」という夢ですから

そういった一年になればいいのですが。どうなんでしょ。


やはり2005年は進路を考える年になりそうです。

どうなるんでしょ。

なんか、本人が実感ないままですが。

卒業したら、一人暮らし始めて、どういう部屋に住んで、とかっていう妄想はするけど、

肝心の就活の部分は飛ばして妄想してます。

私は何がしたいんでしょう。

まぁいろんなことがしたいです。

境界線など、引かずに。

縦横無尽に。



そんなわけで今年もよろしくお願いいたします。




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