ゼロノオト

2004年10月24日(日) 01020203

やべー せっぱつまってるはずなのに激しく昼寝してしまったー

おがけでまた昼夜逆転生活さ。

そしてようやく芸祭用のサイトが完成しました。

http://0px.org/01:02:02:03/

どうぞみてやってください。


2004年10月21日(木) 時の流れ

毎度の事ながら、芸術祭直前になってはじめて焦る。

先週とか全然時間あったのに寝てばっかだった。

時間をドブに捨ててたようなもんだ。

だから今になってテンパる。

とりあえず頭の中はゲイサイ一色なので、ゼミの課題をやってなくて、

っていうかほとんど考えてもなかったので、ゼミを休んでしまった。

とはいえ、時は待ってくれないし、ゲイサイも待ってはくれないので、

息も絶え絶え、突っ走るしかないのだ。


芸術祭でわたしは、9号館地下大展示室の倉庫で展示をします。インスタレーション。

ウェブも作った。が、まだ調整中なので、整い次第、ここにまたお知らせします。



話は変わるが、今日学校に向かう電車のなかで、ふと考えたこと。


「今」に未来はない。

未来は、たぶんあるだろう、という頼りない予測のみによって存在する。

でも「今」の時点で実存はしない。

「今」あるのは「今」という一点と、そこから深く深く続く過去のみなんじゃないか。

でもその深く深くまであると思っていた過去も、もしかしたら相対的に短い時間になりうる。

「今」の時点で、あるだろうとされている未来のほうが、もしかしたら長いかもしれない。

ただ、それを確かめるすべはないのだけれど・・・。


今という時は、常にあるけれど、その今は常に過去に変化していて、捉えどころがないようだ。

でも確かにその今に触れたことは確かである。

何もしなくても次から次へとやってくる今に、触れることができる。

まるで川の中の杭のように。ただしそれより上流は無い、というか見えないんだけど。(とすると湧き出る水の根源ともいうべきか)

カメラも「今」に触れ、それを記録できる装置だけど、撮った次の瞬間には

もう過去の記録になっている。痕跡になっている。

カメラは今を捉え、「今」の痕跡、という過去になって写真が現れる。

そう考えると、即興音楽なんかは、鼻歌でもなんでも、そのときの「今」を捉え続けるものかもしれない。

だからといって写真は過去にすがりつく駄目なもの、ってわけじゃなくて、

それはもうしょうがないことで、絵画だって彫刻だってCDに焼かれた音楽だって、みんな痕跡じゃん、

ということになるかもしれない。が、やはりそうとも言い切れない気がする。

それは痕跡となって現れた瞬間に、また痕跡として「今」に触れることになるから。

一秒後の「今」や、一分後の「今」や、100年後の「今」にだって触れられるかもしれない。

そしたら、即興音楽にも負けない、流れくる「今」を常に捉え続けるものであり続けることも可能なわけだ。


2004年10月13日(水) はりねずみの整理整頓

link3件追加!ようちぇけら!

最近は5日活動しては5日引きこもる生活を繰り返しております。

はい、燃費わるいです。

これから10月いっぱいはそうもいってられないくらい

怒涛の制作ラッシュが待っているので、

今から恐ろしい。

時間って絶対均一に流れてない

気がしてしまうわ。

とりあえずウェブの仕事をはやく完成させなきゃだなー。

芸祭にだすインスタレーション作品の映像もはやくとりかからなきゃなー。

いや、いちおう素材は撮りためてあるんですがね。



Nゼミの課題やってねかった。

今からやるべか、、。

や、もう寝ちゃおっかなー。

や、でも明日の2限の心理はそろそろまじめに出ないとまずそーだからなー

午前中にNゼミの課題はできなそーだなー

とするとだね、やっぱ今からやんなきゃだなー

でもそれで寝るの遅くなって寝坊したら意味ねーしなー

はりねずみのえっと、葛藤、じゃなくて、えーっと、なんだっけ、

板ばさみ、じゃない、なんだっけ、なんだっけ、

拷問、違う違う、んーっと、


ジレンマ!!!

やっと思い出した。ごめん実は調べた。

脳内の引き出しの整理が必要なようです。

こんなこと検索してる暇あったらさっさと課題やれって話です。

では。


2004年10月07日(木) wasuremonochrome

過去はもちろん現在に繋がるわけで、

現在も過去に繋がってるわけなんだけど・・・。

よく過去、現在、未来は、図に書いたりするとき、

座標軸のマイナスからプラスへ、つまり左から右に表す。

でも実際、記憶という過去は、深く深く、脳の奥深くに続いているように思ったのだ。

左から右なんかじゃなくて、地上から地下へもぐるみたいに、現在の一点から過去は奥の方に伸びていると思ったわけですよ。

ふとしたはずみで思い出す過去は、その地下へと伸びる根っこの一部だったりする。

今日はその根っこを、(忘れかけてた根っこを)いくつか思い出せた気がした。

つい三年前(ってもう三年かぁという気もするんだけど)に通ってた高校に行った。

正しくは忍び込んだ。

もし見つかってとがめられるようなことがあったら、

「(青春の中に忘れてきた)忘れ物を取りに来ました」とでも言おうなんて思いながら。

一階の教室の窓が全開のところがあって、難なく侵入できた。

過去は開かれていた。なんちゃって。

そう、ほんとはいつでも過去を取り出すことができるのに、あんまりしないのは、

たぶん地上が根っこだらけになってしまうからで、

たまにいくつか掘り出しては、また、そっと地下に埋めるのがいいんだと思う。

バランスの取り方なんかも学習しながら生きてんだしね。



自分より三つも四つも年下の子が昼間はここで授業受けてるのかーなんて想像しながら席についたりして。

そのあと今は使われていない部室に侵入。

そこは止まった時計と一緒に、時も止まったんじゃないかっていう空気があった。

それこそ断層がみえるんじゃないかってくらいホコリが積もってたんだけどね。

自分が水泳部だったころにはもうほとんど使われなくなっていたその部室には

高校生のころから、あんまりにもほこりまみれなんで、二、三回(計5分くらい)しか入ったことがなかったんで

今日は見落としてたものがわっさわっさでてきてしまって大変楽しかった。



プールサイドで撮ったと思われる昔の卒業式の日の写真がでてきて、

まぁさすがにモノクロ写真ってことはなかったけど、(うちの高校は今たぶん創立40年くらいで水泳部もしばらくしてからできただろうし)

うわー何年前だろ、なんて思いながらよーく見てると、なんと、

制服着てるじゃありませんか!うちの高校が私服になった正確な年はわからないけど



おそらく10年前とかだから、少なくともそのころの写真だと判明。

10年前の根っこがこんなとこにあったよ。

そしてさらなる発掘がありました。

いかにも古そ〜な普通のノートがでてきて、なんだろと思ってぱらぱらめくると

それは古い部誌のようなもので、当時の水泳部員が交代でその日の気温水温、練習メニュー、感想なんかを書き込んである記録ノートでした。

その日合計何メートル泳いだかとかもトータル4000mとか書いてあって

うちらのころとそんなには変わんないんだななんて思いながらみてると

トータル13500の文字が!ありえない!

(はっきり言ってうちらのころは3時間で3、4000mがいいとこ。丸一日泳いだって13500はかなり厳しい数字だ)

え、そんなにがんばってたの!?と半信半疑でまたぱらぱらやってたら謎が解けました。

みんなトータルを英語で書いてたんですね。

total 4000とか。はい、もうお分かりですね。ちょっとした隙間のいたずらですよ。

単にtotal3500と書いたんですね、その子は。

それが長い歳月を経た未来で13500に読み間違えられようとは思いもよらなかったでしょう。

時に、過去や未来を繋ぐ根っこは絡まったりねじれたりクロスしたり、(あ、)するんですね。

で、そのノートの表紙の裏(これ表2でしたっけ?)に日付が書いてありました。


1982.10.×〜1983.1.△



うわっ、生まれてねーし!と、さらに驚いたりしたわけです。

そのあと入部当時の自分の名前をみつけたりして過去の自分に触れながら

時は過ぎていきましたとさ。

(つづけ)

次回は芋づる式記憶について(いつか。)

ってか今日は一日が濃すぎてこの三倍くらいは書くことがあったんだけど

今日はこのへんで。そのうちまた近い未来、今日という過去に立ち戻って書きたいと思います。


2004年10月05日(火) 明治通りを北進




雨の中、びしょびしょ歩きましたとさ。鼻歌まじりで。

さんざん雨にふられたけど、写真撮りつつ、古着屋巡りつつ歩いてて、

不思議なくらい疲れなかった。

最後に新宿で512MBのSDを買って帰りましたとさ。

256じゃ、もう、もたないのだ。画質さげても。


2004年10月03日(日) 雨のち観覧車

雨だった。雨が降っていた。ちくしょー。

まぁでもいいか。最近、日曜日の雨は、あんまり悪者にならないのです。ちょっと悲しいことに。



「乗り物なのにどこか別のところには決して辿り着けないものなぁ〜んだ?」



答えは簡単。60分居眠りした山手線と、観覧車だ。他にもありそうだけどね。

まぁ前者は起きてれば途中下車できるから別として、後者は乗り物のくせに

どこへも連れていかない無用の長物である。身も蓋もない言い方をすれば。

しかしそうではないんだな。当たり前だけど。

"うまく言えないが、あれは、きわめて哲学的な乗り物だ。あそこには、日常性の裂け目がある。神秘に通じる形而上学がある。"

と、全然うまいこと言ってる小説を今日読んだのだ。まだ途中だけど。





人生とは観覧車のようである、、。もちろん人生を生活に置き換えてもいい。

ぐるぐるぐるぐるおんなじとこを廻ってて、どこにも辿り着かないけれど、

決しておなじ一周はないッ。みたいなー。




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