ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2013年11月29日(金) 玉子酒

日に日に冬らしくなっていく。今朝もかなり冷え込んでいたけれど
日中は陽射しが降り注ぎ昨日よりもずっと暖かく感じた。

帰り道に県道沿いの栴檀の木を仰ぎ見る。
真っ青な空に黄金色の実が宝石みたいに映ってそれは綺麗だった。

木の実ってすごく好きだなと思う。
冬枯れてしまう前の木々が「いのち」の実を生んだように感じる。
生きているんだなあって。いのちあるものはみんなみんなうつくしい。



体調にはじゅうぶん気を付けていたつもりだったけれど
今日は少し喉が痛くなってしまって風邪の引き始めのようだった。
お風呂上がりに「玉子酒」を作ってみた。なんとも懐かしい味がする。

明日はまた午後から綾菜のお守り、夜は息子のお嫁さんのご両親と忘年会。
風邪など引いている場合ではないと気合で乗り切ろうと思っている。


気がつけば師走も目前、なんと一年の早いことだろう。
このまま押し流されるように今年も終わってしまいそうだった。

いちにちいちにちを大切に、そうして感謝しながら過ごしていきたいものだ。



2013年11月28日(木) 5年目の冬

今朝はいちだんと冷え込み真冬並みの寒さになった。
朝からずっと時雨れていて、今にも雪に変わりそうな空模様。
各地から初雪の便りも届き、遠き地に住む友のことを思った。


仕事を終えて帰宅。風が冷たかったけれど歩いてお大師堂に行く。
以前はあんずと一緒に歩いた道がふっと懐かしく思えてくる。
今は雀色の土手だけれど、彼女はいつもくんくんと草の匂いを嗅いでいた。
お散歩仲間の「ランちゃん」「ピノちゃん」どんなにか会いたいことだろう。

あんずがいてくれなかったらお大師堂に来ることもなかっただろうと思う。
やがて毎日の日課になってしまってもう5年目の冬がやってきた。

ありがたいことにたくさんのお遍路さんと出会うことが出来て
あんずも頭を撫でてもらったり一緒に遊んでもらったりして喜んでいたっけ。

もう過ぎ去ったことなのか。そう思うとちょっぴりしんみりとしてしまう。


お大師堂から帰ると今度はあんずとほんの少しの散歩。
日に日に歩けなくなっているけれど、今日も一生懸命に頑張っていた。
ほんの20メートルくらいだろうか。それでも毎日楽しみにしているようだ。
無理して歩かせるなよと夫はいつも言うけれど、決して無理ではなさそうに思う。
彼女が歩きたがるかぎりずっと付き合ってあげようと思っている。

「あんちゃん今日もえらかったね」

夕暮れて晩御飯の時間になるとガツガツと音をたててよく食べてくれるのが嬉しい。





2013年11月27日(水) まあるく暮らしていきたい

夜になり雨がぽつぽつと降り始めた。
なんだかぼんやりとしているのだけれど
それでいてくつろいでいて焼酎のお湯割りがとても美味しい。


昨夜は伯母のお通夜、今日はお葬式と無事に終わる。
亡くなった伯母には四人のひ孫がいてとても可愛いさかり。
そんな天使たちのおかげでみんなが癒されたように思う。

もっともっと長生きがしたかったことだろう。
ただただ手を合わせて冥福を祈るだけであった。

姑はお葬式にも出られず、気をもんでいるのではないかと思っていたのだけれど、
なんといつも通りにリハビリに行きたいと言い出し私たちを困らせたのだった。

これにはさすがに夫も言葉を荒げて「あんまりではないか」と叱った。
私も姑の気持ちがあまりにも非常識に思えてすごく複雑な気分になってしまった。

何かが掛け違っている。それを正さなければと思うのだけれど
姑を責めるわけにもいかずかと言って何を正せば良いのかよくわからない。

ただただ何とも歯切れが悪く心に泥がついたような気分の出来事になってしまった。

嫌だな・・・と正直思う。そう思っている自分もすごく嫌だなと思うのだ。


みんながまあるく暮らしていきたい。

少しでも角があればちからを合わせてまるくしていきたい。

課題と言うか使命と言うか、なんだか出口の見えないトンネルの中のよう。



さあ気を取り直してもういっぱいおかわりしようかな。

どんなときもあるさ。だってみんなみんな生きているのだもの。



2013年11月25日(月) 葉散らしの雨

朝から大荒れのお天気となる。まるで嵐のような雨と風だった。
それが「葉散らしの雨」となり色づいた木の葉がはらはらと散ってゆく。

なんだかそれは命のように儚い。裸木はまるで骨のように佇んでいる。


仕事を終えて家路につく頃にはやっと空が明るくなっていた。
いつものように自転車でお大師堂にお参りに行く。
日めくりの暦は昨日のままでちょっと寂しく思う。

お線香が短くなるまでお堂の前の小道を掃き掃除。
たくさんの落ち葉がなんだかせつなくてならなかった。

今日は自分にとっては特別な日。かれこれ10年になるだろうか。
それを過去の事と思えるようになってなんだか救われたように思う。
こだわりたくはないというのが正直な気持ちでもあった。

私は去る。なんとしても去らなければいけないと思うようになった。



夕食後、いつものようにウォーキングに出掛けようとしていたら
夫がくれぐれも用心しろよといつになく真剣な口調で私に告げる。
どうやら最近土手の道に不審者が出没しているらしいのだ。
先日も近所の女性が後をつけられてとても怖い思いをしたとのこと。
いつも行っている喫茶店で今日その話を聞いてきたらしい。

それを聞くとさすがに土手を歩くのが怖くなってしまって
今夜はなるべく人家の近くを歩くことにしてコースを変更する。
こんな田舎町でもそんなことがあるのかと思うと少し嘆きたくなった。

けれどもどこを歩いていても夜空を仰げる。

これからどんどん寒くなるけれどいつも夜空を仰いでいたいなと思った。




2013年11月24日(日) 幸せをかみしめながら

今日も日中は暖かくなり、孫の綾菜を連れて公園に遊びに行く。
カプセルのような遊具が気に入って出たり入ったり
芝生の上をよちよち歩けば転んでしまって鼻をすりむいてしまったり。

よく遊び、よく食べて、よく寝る。ジジババも一緒に楽しい一日となった。

綾菜のおかげで幸せをかみしめることが出来たのだけれど
今朝は姑の兄嫁にあたる伯母の訃報が舞い込んできた。
ずっと老人ホームに入居していたので、最近は会うこともなかったけれど
とても朗らかな人で笑顔ばかりが懐かしく目に浮かんでくるのだった。

今年は6月にも叔母を亡くし、訃報続きの年になってしまったけれど
ひとはいつか必ず死ぬのだな・・・と漠然とその事実を受け止めている自分がいた。

悲しいと言うよりせつなくてならない。またひとり旅立ってしまうのかと。

明日は友引なので明後日がお通夜、その翌日が告別式だと報せが来る。
残された者のひとりとしてただただ冥福を祈りたいと思っている。



夕方、綾菜を迎えに来た娘も一緒に夕食を食べて帰ることになった。
大相撲の千秋楽に夢中のジージも綾菜と乾杯をしたりして楽しい夕食となる。

娘たちを見送ったあと。シーンと静かになった我が家で

「綾菜の成人式までは生きたいな」と夫がつぶやく。



2013年11月23日(土) 子供みたいなひと

日中は風もなくぽかぽかの小春日和になった。
暖かいとほんとうにほっとする。やわらかな時間が愛しくなる。


町では土佐の小京都ならではの大祭があって「一条さん」と呼ばれている。
子供の頃には親からお小遣いをもらって遊びに行ったことなど懐かしい。
たくさんの出店。お参りは二の次でりんご飴などを食べるのが楽しみだった。

我が家も子供たちが小さい頃には家族で出かけたものだった。
玩具もお菓子も欲しがらない子供たちがふと不憫に思ったこともある。
「今日は特別だから良いのよ」って言うと二人とも大喜びしていたっけ。


そんな子供たちもおとなになって巣立って行ってしまうと
我が家にはまるで子供のような夫が「一条さん」を楽しみにしている。

「お母さんがなんでも買ってあげるからね」なんて言うと
普段からよほど我慢しているのだろう。あれもこれもと欲しがるのだった。

神社の出店でとはいかなくて、二人でワークショップに出掛けた。
ズボンやハイネックのシャツ、帽子や靴下まで買って満面の笑顔である。
我が夫ながら帽子が良く似合う。ほめると悦に入っているのが愉快であった。

「おっかちゃんに買ってもろうた」ってみんなに言わんといかんよ。

そんな会話も楽しくてほのぼのと幸せな気持ちが込み上げてくる。

子供みたいなひと。おとうさんでおじいちゃんなんだけど私の可愛いコドモだった。



2013年11月22日(金) いい夫婦の日

今朝は今季いちばんの冷え込みだったようだ。
山里では初霜がおりていた。朝陽をあびてきらきらとまぶしい。


ふたり向かい合って朝食を食べているとき
テレビから「今日はいい夫婦の日ですね」と声がきこえる。
「また生まれ変わっても夫婦でいたいですか?」と問うので
夫に訊くと「さあどうかな」とちょっと意地悪そうに応えた。

私は迷わず「また一緒にいたいな」って言った。
ちょっと照れくさい、でもそれがほんとうの気持ちだったから。

夫は「ん?」って嬉しいのか不思議なのかわからないような顔をした。

だって夫婦になれなかったら子供たちも生まれなかったんだよ。
孫の綾菜だって生まれなかったんだからね。わかるでしょって言って。

「そうだな・・うんたしかにそうだ。綾菜もいなかったんだな」

だからきっと私たちは生まれ変わってもまた巡り会えるのだと思う。
ソウルメイト、いやツインソウルなのだもの。私はそう確信している。

過ぎ去った過去を振り返ると、夫にはほんとうに苦労をかけてきたと思う。
今だから言うけれど一歩間違えば離婚の危機も乗り越えてきたのだった。
寛大な夫のおかげで今の自分がいる。ほんとうに感謝してもしきれないくらい。

観音様のようなひと。いつしか私は夫のことをそう思うようになった。


寝る前の洗面所で歯磨きの順番を待っているとき、
夫の背中を見ていると後ろからぎゅっと抱きついてみたいなとよく思う。

でもいい年をしてそれはとても出来なくて、「カンチョー」と叫んで
夫のお尻に指を突っ込むのが毎晩の楽しみとなりつつある私であった。


おとうさんと呼んだりおじいちゃんと呼んだり。それもまた幸せのしるし。



2013年11月21日(木) 生きたい

少しずつ寒さに慣れてきたように思っていても
高めの血圧のせいだろうか、朝はとても不安でならない。
日に日に神経質になっているのが自分でもよくわかる。
もっと気楽に構えていれば血圧も下がるかもしれないのに。

これも年のせいかな。どうしようもないことなのかなと思う。
「死にたくはない」毎日そんなことばかり考えている自分がちょっぴり情けない。

それよりも生きていることをもっと楽しまなければとつくづく思う。
マイナスをプラスに変えてこそ人生は楽しくなるのではないだろうか。

不安に打ち勝つには「感謝」以外にあり得ないとも思う。
愛しき日々にどれほど感謝してもしきれないほどのありがたさ。
でももしかしたらそれが足らないのではないだろうかと最近よく思う。

どうすれば良いのだろう。答えが見つからなくて戸惑ってしまいそうだ。

「生きたい」という強い思いは「欲」なのだろうか。

その欲を捨てることが出来たら救われるのかなとふと思う。

けれども捨てられない。どうしても捨てることが出来なかった。

お大師堂で手を合わす。ただただそればかりの日々が続いている。



2013年11月20日(水) ああなんて平和なのだろう

相変わらずの寒さだけれど、ほっこりほっこりと生きている。

不安のかずを数えていたらきりがなく
なんだか生きているのが奇跡のように思うことがある。



姑さんのリハビリの日。昨夜の気の重さもどこへやら
これが自分に与えられていることなのだと思うと使命感がわいてくる。
割り切って割り切って割り切れないこともひとつくらいはあるのだろう。
だからといってそれにこだわっていたら前へ進むことは出来ないのではないか。

幸い今日は姑さんの調子がすごく良くて歩行訓練を頑張ることが出来た。
「波があってあたりまえなのですよ」先生の一言にはっとした自分がいた。
せっかく連れてきても何も出来ないではないかと嘆いたこともあったっけ。
そこに自分は仕事を休んでまで来ているのにと身勝手なことも思っていた。
もう二度とそんなことを思うまい。とにかく焦らずゆっくりと見守っていきたい。

病院から帰るなり息子夫婦が顔をみせてくれた。
まだ一度も姑さんに紹介もしていなかったので、やっと会えてほっとする。
お嫁さんのお腹もぽっこりと目立つようになって順調が何よりに思う。
姑もきっと嬉しかったことだろう。来春にはまた新しいひ孫が誕生する。


午後は出したばかりの炬燵でまったりと過ごす。
これも冬の楽しみ、「炬燵のおもりだな」と夫と笑いあった。

午後三時、自転車ではなく歩いてお大師堂にお参りに行っていた。
お線香が短くなるまで「おせんべい」をごちそうになる。
ゆったりと流れる川面を眺めながら、ああなんて平和なのだろうと思った。

生きていることも、平穏でいられることもほんとうに奇跡のように思えてならない。

「ありがとうございました」ただただ感謝しながらゆっくりとまた歩いて帰る。



2013年11月19日(火) ぬくもりを感じながら

日に日に寒さが増してくる。北風が強く今朝は時雨れていた。
洗濯物を干していたら綾菜のズボンとよだれかけ。
一瞬寒さを忘れほっこりと微笑んでしまった朝のこと。

いつもより暖かく着込んで山里の職場に向かう。
毎朝楽しみに見上げていた銀杏の木がすっかり黄金色になって
もうはらはらと散り始めているのがなんだか寂しかった。

ばたばたと慌ただしく忙しい一日。
事務所よりも工場のほうの手が足りなくて
私も母も今日は殆ど机に向かうことがなかった。

明日はまた姑さんのリハビリの日で休まなくてはいけない。
もうくよくよと思い悩むのはよそうと思ってはいるのだけれど
気の重さも明日になればきっと楽になっているだろうと思う。

寒くなったから明日は炬燵を出そうぜと夫が言う。
それも良いねと私もうなずく。午後は炬燵でまったりできそう。


夕方、あんずとプチ散歩。日に日に歩けなくなっているけれど
散歩には行きたがるのでほんの少しでもと毎日がんばっている。
今日は家まであと20メートルのところで歩けなくなってしまった。
「抱っこしようかね」それもあんずの楽しみのひとつのようだった。
抱きあげるとあたたかいぬくもり。それがあんずの命そのもののように思う。

みんなみんな生きているね。しみじみと嬉しさが込み上げてくる。

明日のことは誰にもわからないけれど、精一杯に生きていきたいものだ。



2013年11月18日(月) 満月ウォーク

日中の気温も上がらず冷たい北風が吹く。
昨日よりも5℃も低いようだった。
すっかり寒暖の差が身に堪える年頃になってしまった。

夕食後のウォーキングもさすがに辛くなってしまって
一瞬さぼってしまおうかと思った。
けれども今夜は満月なのを思い出して「よっし!」と気合を入れる。

防寒着のフードもすっぽりと被っておいちにおいちにと歩き出す。
ちょうど東の空にまん丸のお月さんが顔を出したところで
思わず歓声をあげたくなるほど綺麗な月だった。

ほっこりと身も心もあたたかくなる。
うさぎさんもお餅つき、餡子を届けてあげたいなって思った。
そうして一個だけいただくの。きっときっとすごく美味しい。

一番星もきらきらと輝いている。お月さんに会いたかったみたい。
私も会いたかったよって夜空に向かって大声で叫びたくなった。



ふうふうはあはあもう少し。やはり歩いてみなくては

歩けばきっと見つけられることがあるのだもの。



2013年11月17日(日) お月さん桃色

ありがたいことに今日もぽかぽかの小春日和。

お昼に地区の「炊き出し」があって夫と二人で出掛ける。
アルファ化米と言うのだそうだ。非常食の試食であった。
防災会の皆さんが大きなお鍋で豚汁も作ってくれていて
集会所の陽だまりに腰をおろしてみんなで美味しく頂く。

もしもの時のことを考える。どんなにかパニックになっていることだろう。
平穏な時だからこそこうして準備も出来るけれど
いざその時になると「食べる」こともままならないのではないのだろうか。
何よりも命あってこそのこと。そう思うと果てしなく不安になってしまう。

同時に今の平穏がどんなにかありがたいことか胸に熱いものが込み上げてきた。
あたたかいご飯。あたたかい豚汁。それは決して当たり前のことではなかった。



そうして今日も平穏に暮れていく。
日課のウォーキングに出掛けると、ほんのりと紅い月が見えた。
明日が満月のようだ。それはそれは綺麗で幻想的な月に心が奪われる。

土佐に昔から伝わる歌に「お月さん桃色」と言う歌があるのを思い出す。
桃色のお月さんなんてほんとにあるのかしらと思っていたけれど
それはほんとうにあった。まさに今夜の月こそがそれである。

てくてくと歩けばそんな月がついてくる。月と一緒にどこまでも歩いてみたいものだ。



2013年11月16日(土) 豆台風が去りにけり

寒気が緩んでくれたのか日中はぽかぽかと暖かくなった。

午前中にウォーキング、買物に行ったりお大師堂へ行ったり。
少し歩いただけで薄っすらと汗ばむ。それもまた心地よいこと。

早目に昼食を済ませ綾菜を保育園にお迎えに行く。
「おうどん」をおかわりしてたくさん食べたとのこと
もう眠くなっていて先生に抱っこされてうとうとしていた。

クルマに乗るなりすぐに眠ってしまってずっしりと重い。
その重さがとても愛しい。ぎゅっと抱きしめたいくらいに。

二時間ほどお昼寝をしておやつを食べさせる。
お腹が空くと自分から食卓に行きたがるようになった。
大好きなチーズと牛乳、あっという間に平らげて満足そうな笑顔。

茶の間で録画してあった「アンパンマン」を夢中になって見たり
ちょっと外に出てみてあんみの練習をしたりして遊んだ。
陽だまりがありがたい。ほんわかとした光の中にいる愛しいいのち。


夕方になり娘が迎えに来たけれど、またまたお腹が空いてしまったらしく
食卓のイスにしがみついて「マンマ、マンマ」と大声で叫び始める。
無理やり帰らすわけにもいかず急きょ晩御飯を食べることになった。
とにかくすごい食欲である。昨夜の残り物のマカロニサラダを全部食べてくれる。

お腹もいっぱいになったところで、やっと「バイバイ」を言い出したのだけれど
今度は娘のクルマに乗せようとしたら、帰りたくないと駄々をこね始める。
娘と二人係で無理やりチャイルドシートに座らせたら暴れて大声で泣き出してしまった。

あまりの泣き声にジージも家から飛び出してくる。そのジージにしがみつく綾菜。
もう仕方ない。一緒にお家に帰ろうと言うことになってみんなで娘のアパートに向かう。

決して甘やかしているつもりはないけれど、それだけ綾菜の自我が芽生えてきたのか。
嫌なことはイヤとはっきり自己主張できるようになったのだと思う。

我慢させることも大切。しつけの一端としてそれはこれからの大きな課題になりそうだ。

「なんだか豆台風が去ったあとのようだな」

夫とふたり顔を見合わせながら、ほっとしている自分たちが可笑しく思えた。

そんな豆台風のおかげで自分たちはこんなにも幸せでいられるのだ。



2013年11月14日(木) 山茶花咲いて

お隣のお庭に山茶花が咲き始めた。

八重の山茶花でふっくらとした桃の色。

入院していたお隣のご主人が昨日無事に退院して来て

庭の陽だまりでなんだか猫のように微笑んでいる。

辛い闘病生活を終えて家に戻れば山茶花の花。

どんなにかほっとこころを和ませていることだろう。

それはたぶん数日前から咲き始めていたのかもしれない。

今日まで気づかずにいてごめんなさいと手を合わす。

冬には冬の花がちゃんと咲いてくれる。

当たり前のようなことだけれどとてもありがたいことだった。


さざんかさざんか咲いた道 たき火だたき火だ落ち葉たき

冬の歌を思い出してほっこりとこころあたたまるいちにちだった。



2013年11月13日(水) ほっこりと暮れていく

今朝は昨日の朝より冷え込んでいたようだ。
暖房器具のお世話になり少しずつ寒さに慣れようとしている。
ただ少し血圧が高めになってしまったのが気になる。
寒くなると毎年のことだけれど「ある日突然」の不安が脳裏をよぎる。


昨夜はあれこれと思い悩んだりしていたけれど
朝になれば気も楽になり、予定通り姑さんのリハビリに付き添った。
「使命感」のようなもの。自分に与えられていることだとつくづく思う。

ただ今日は姑さんの調子がすごく悪くて、思うようにリハビリが出来なかった。
寒くなったせいで筋肉が固くなっているせいだろうと言うこと。
歩行訓練も出来ず車椅子に座ったまま上半身を動かすのが精一杯だった。
これからどんどん寒くなるので前途が思いやられるけれど
ここで諦めるわけにはいかない。励ましながら見守るしかないのだと思う。


午後はのんびりと過ごし、いつもの時間にお大師堂にお参りに行った。
先にお参りに来ていた女性と挨拶をかわす。とても綺麗なひと。
何度か会ったことはあるけれど、地元のひとではなさそうだった。
はるばる遠くからお参りに来てくれるひともいてくれるのだな。
お大師さんもきっと嬉しいと思う。私もその嬉しさをわけていただく。

お参りを済ませると目の前に「どら焼き」が微笑むように佇んでいた。
むしょうに食べたくなってついつい手を出してしまう。
お線香が短くなるまでそのどら焼きをご馳走になってしまった。

さらさらと川の流れ。傾き始めた陽の光がきらきらと川面を映す。

どら焼きってこんなに美味しかったっけと思った。
甘い物を食べたのはほんとうに久しぶりですごくすごく幸せな気持ち。

やがて今日という日が暮れていく。ほっこりほっこりと暮れていく。



2013年11月12日(火) 気持ちよく流れていきたいな

今朝は今季いちばんの冷え込みだったようだ。
日中も気温があがらず肌寒い。もう冬なのだなとつくづく思った。

このところ仕事がずっと忙しくて嬉しい悲鳴をあげている。
もともとお昼休みはないのだけれど、昼食だけは楽しみだった。
けれどもゆっくりと味わってはいられない。いつも大急ぎで食べている。
今日もおにぎりを食べていたら来客があって、一瞬のどにつまりそうだった。

けれどもそんな忙しさが私は好きである。
仕事でいちばん辛いのは暇なとき、そう言っても他言ではないだろう。

そんな忙しさのさなか、明日は姑さんのリハビリがあってお休みをいただく。
「家のことをいちばんに」といつも母は言ってくれるのだけれど
正直言って最近それがとても重荷になっていることに気づく。
二週続けて姪っ子に頼んで行ってもらったので、今週こそはと思うのだけれど
そろそろ勘弁してもらえないかなどとふっと思う時があった。
それは決して口に出してはいけないこと。夫にも言えないことであった。

自分に与えられていること、もっとも最優先することは何だろう。
最近よくそんなことを考えるようになった。
あちらをたてればこちらがたたないのであればこちらを優先するしかない。
それが当たり前の事だろうと言われればうなずくしかないのだろうと思う。


昨夜も姑さんのお世話に行っていて、おむつ交換や食事の介助をしながら
こんな自分でも少しは役にたっているのかなとふっと思った。
義妹にばかり押し付けている介護をたまには助けてあげなくては。
家族みんなで助け合おうと真っ先に言ったのは自分だったことを思い出す。

「ありがとうね」そう言ってくれる姑にはほんとうに感謝している。
もしその一言がなかったら自分はどんなにか辛い思いをしていることだろう。
どんなにどんなに尽くしても報われないのだと嘆いているのかもしれない。


明日のことは明日のこと。きっとみんなが笑顔でいられるような気がする。

気持ちよく流れていきたいな。時の流れは川の流れとよく似ている。



2013年11月10日(日) しんこきゅう

朝のうちには小雨が降っていたけれどすぐにやんでくれた。
気温も高めで暖かくなんだか春の陽気を思い起こす。

午前中は買い物に行ったりして時間をつぶしていたけれど
午後は何もすることがなくなってしまってごろごろとするばかり。
まったりのんびりも良いけれど、ダイエット中なのをはっと思い出す。

ちょっと歩いてみようかな。いつもは自転車で行くお大師堂まで
久しぶりに歩いてみることにした。のどかな風景を堪能しながら
ああここにいるんだなって思った。ここが私の居場所なんだなって。

帰りは河川敷の小道を歩く。さらさらと水の音が耳に心地よい。
昔のようにぼんやりと川面を眺めながら物思いに耽ることはなくなったけれど
その頃の自分がふっと懐かしくなる。きっとそれは哀しみを知っていたせい。

あのせつなさと哀しみはいったい何だったのだろうと思う。
私は変わった。「ずっとずっと変わらないよね」と言ったその人はもう遠い。


ある意味、「老いること」とは「ひとつの成長」ではないのかとよく思う。
10年ひと昔と言うけれど、ほんとうにそれは昔話のようだった。
よき思い出としてずっと忘れずにいるのもよし。忘れたいと思うのもよし。

ただ決して後悔はしないこと。それが私の生き方なのだと思う。

私はそんなささやかな成長をとても心地よく受け止めている。

土手のススキが老いるように私も老いていく。

ある日突然刈り取られてしまってもどうして嘆くことができようか。

息をすることは生きること。いっぱいいっぱいしんこきゅうをした午後のことだった。



2013年11月09日(土) 食いしん坊さん

くもり空ではあったが、朝の肌寒さもすぐに和らぎ日中は暖かくなる。
今日は綾菜の保育参観があり娘の代わりに出席することが出来た。

保育園のすぐ近くの畑でお芋掘りをするとのこと。
まだ小さい綾菜には無理ではないかと思っていたけれど
可愛いスコップを持って土まみれになって頑張った。
さすがにまだお芋を掘り起こすことは出来なかったけれど
土の中からお芋が見えると「あった、あった」と大喜びする。

大きなお芋を三つ、赤ちゃんみたいに小さなお芋を二つ。
「お家に持って帰って下さいね」と遠慮なくいただくことになった。

お芋掘りが終わると今度は近くの公園までお散歩に行く。
みんなでわいわいと先生が歌をうたってくれたりして楽しかった。
芝生の上で思いっきり遊ぶ。綾菜もずいぶんと歩けるようになった。
会うたびに成長している姿がほんとうに嬉しくてならない。

保育園に戻って10時のおやつ。今日はスィートポテトだった。
先生の話しによると、綾菜はいつも隣のクラスに出張しているのだそうだ。
食いしん坊なので両方のクラスでおやつを二人分食べているのではないか。
「それはないですよ」と先生が可笑しそうに笑って応えてくれた。

ひよこ組いちばんの社交家だそうで、そんな話しを聞くのも嬉しく思う。
成長とともに個性が出てくる。もう赤ちゃんではないのだなとつくづく思った。

ジージにお迎えに来てもらって我が家に帰って来る。
今度はお昼ごはんでオムレツをぺろりと平らげた。
お腹がいっぱいになるとエプロンを自分で外そうとしたりする。
「ぽんぽいっぱいになった?」と訊くとお腹をさすって見せてくれる。

その後二時間ほどお昼寝をして目覚めるなり玩具で遊び始めた。
バーバよりもジージとよく遊ぶ。玩具を「はい」とジージに差し出す。

そろそろ三時のおやつかな。チーズとりんごのジュース。
チースは大好きでほんとうによく食べる。食べ過ぎではないかとはらはらするくらい。

夕方になり仕事を終えた娘が迎えに来ると、一気に甘えん坊の綾菜になる。
とびっきりの笑顔。やっぱりお母さんがいちばん好きなのがよくわかる。

「ばいばい」可愛い声でジージにもバーバにも手を振って帰って行く。

晩御飯もいっぱい食べておりこうさんでねんねしてね。

どうか風邪をひいたりしませんように。ずっと元気でいてくれますように。




2013年11月08日(金) 幸せのかたち

夜道を歩けば三日月が寄り添うようについて来てくれる。
そうしてほのかな月明かり、なんだかそれがとても嬉しかった。

昨日はもう立冬、秋の名残がせつなげに後姿を垣間見せる。
冬将軍はまだ戦の準備をしているのだろうか。
いざ出陣と突撃してくるのも間もないことだろう。

ぽかぽかと暖かいひだまり。それは幸せのかたちをしている。
ずっとずっとこんな日が続けばいいなと欲のように思ってしまうのだった。



仕事を終えて帰宅する。自転車でお大師堂に行って帰ると
犬小屋で寝ているあんずを起こすのが毎日の日課になった。
声をかけたくらいでは起きない。何度か犬小屋を叩いたりして起こす。

やっと起きだして来たあんずはもうすでにふらふらとしていのるのだけれど
「行こうかね」と声をかけると「うん、行く」という顔をして見せる。

もう土手の石段を上がれなくなってしまってずいぶんと経った。
家の前の路地をほんの少し往復するだけで精一杯のようだ。
途中で何度も転んでしまう。尻餅をついてはまた歩き始める。
時には家まで帰れない日もあって、私に抱っこされて帰る。

せつない目をして私を見上げるあんずが憐れでならず胸が熱くなる。
歩きたいの、でも歩けないの。その現実を彼女はどんなふうに受け止めているのか。

今年の冬がもう最後の冬かもしれないな。夫が呟けば頷くしかなかった。
覚悟はしているけれど「その日」を思うと胸が痛く苦しくてならない。

「あんちゃんご飯よ」幸い食欲はあって今夜もぺろりと平らげる。

がつがつと食べている姿を見るとほんとうにほっとする。

明日も明後日もずっとだよって思う。

美味しい顔は幸せな顔。生きているってほんとうに嬉しいことだね。



2013年11月06日(水) ファイト、ファイト

明日はもう立冬だというこ。深まる秋を楽しむのもつかの間のことだった。
木々の紅葉は少し遅れているようで、それも初冬の風景になってしまいそう。


山里に向かう朝の道で嬉しい再会があった。
先日お大師堂に案内したドイツ人のお遍路さんを見つけたのだった。
クルマを停めて駆け寄って行くとびっくりしたような顔。
どこかで会ったけど誰だったけ?そう言っているような顔だった。

相変わらず言葉が通じないのがもどかしい。
先日と同じようにつたない英単語を並べてみたりしているうちに
やっと思い出してくれたようだ。「おぅー」と声をあげて満面の笑顔になる。

「ファイト、ファイト」それしか言えなかったけれど
笑顔と笑顔で手を振って別れる。とても清々しくて嬉しい朝の出来事だった。

後から思ったことだけれどほんとうはドイツ語?
私のつたない英語が通じたのがとても不思議な気持ちだった。

無事に延光寺に着いただろうか。明日からは伊予路、よき旅を続けてほしいものだ。


今日は帰宅途中にも外国人のお遍路さんを見かけた。
みんなに声をかけられたらどんなに良いだろうかと思った。
英会話の勉強をしてみようかななんてふっと思ったりもして。

思うだけで何も出来ないのだけれど、「どうかご無事で」

それくらいはおぼえておきたいものだ。うん、頑張ろう!



2013年11月04日(月) 天使のくちづけ

少し風が強かったけれど青空がひろがり爽やかな晩秋のいちにち。
土手の除草作業が始まってしまってススキや野菊までも刈られていく。
もう見納めかと思うと傍らの野菊が憐れでならず愛しさが込み上げてくる。



今日は娘もお休みだったけれど、綾菜のお守りをさせてくれると言うこと。
朝からそわそわと落ち着かずジジババそろってお迎えに行く。

三人でお買い物に行って、真っ先にアンパンマンのスティックパンを買う。
牛乳も買ってこれで綾菜のおやつは大丈夫だった。
帰宅してすぐに海の見える公園に遊びに行く。
「くっく、くっく」と熊さんの靴を履いて大喜びの綾菜であった。

でも今日はあまり歩きたがらない。三歩ほど歩いては地べたに座り込む。
公園のベンチが気に入ったようでしまいにはそこに座って動かなくなった。
歩く姿を見たいジジババの気持ちとはうらはらに彼女はのんびりしたかったらしい。


お昼ご飯のあとお昼寝。そしておやつと一日があっという間のことだった。
食欲は旺盛でとにかくよく食べる。美味しい顔がほんわかと幸せである。

最近の綾菜のマイブームはお口とお口のキッスだった。
くちびるをひよこみたいにとがらせて「チュウ、チュウ」とせまってくる。
やわらかくてあったかなくちびる。それはまさに天使のくちづけであった。


夕方になり娘が迎えに来ると、やっとお母さんを思い出した様子。
やはり母親がいちばん好きなのがよくわかる。抱っこされて甘えたり。

「バイバイ」可愛い声ともみじのような手のひらが目に胸に沁みわたる。

見送る時はやっぱりさびしい。けれどもすごくすごく幸せな気分のままで。



2013年11月03日(日) アリガトゴザイマス

くもり日、時おり霧のような雨がかすかに降る。
家事もそこそこにひたすらのんびりと過ごす休日であった。

午後いつもより早めにお大師堂にお参りに行く。
すると若いお遍路さんがお堂の前を掃除してくれていた。
「ありがとうございます。すいませんね。」と声をかけると
「カンコクカラキマシタ、ニホンゴワカリマセン」と応える。

昨日はドイツ人のお遍路さん、今日は韓国人のお遍路さん。
二日続けてこんな出会いもあるのだなと嬉しく思った。

言葉は通じなくても笑顔で通じることがきっとある。
身振り手振りで「ゆっくり休んで下さいね」と伝えることが出来た。
「アリガトゴザイマス」なんて嬉しい一言だろうと胸が熱くなった。

これまでたくさんの出会いに恵まれたけれど
みんなみんなお大師さんの下さった「ご縁」なのだと思う。

これからもそんなささやかな縁を大切に過ごしていきたいものだ。


笑顔には笑顔がかえってくる。それはとてもとてもありがたいこと。



2013年11月02日(土) お大師堂に明かりが灯るころ

秋晴れのお天気が続いていたけれど今日は曇り日。
かすかに雨が匂う空。明日は雨になりそうだった。

三連休の予定だったけれど、母のこともあり山里の職場に向かう。
昨日無事に退院できたけれど、無理をさせてはいけないと気遣う。
ほんとうは母に三連休をさせてあげたっかのだけれど
よほど職場のことが気になっていたのだろう。10時頃出勤して来た。
久しぶりに会った母は思ったよりもずっと元気でとてもほっとした。
例のごとくおしゃべりの花が咲く。うんうん、と相槌を打つのも楽しい。


帰宅してすぐにお大師堂にお参りに行った。
顔なじみのお遍路さんが来ていて再会を喜び合う。
物静かな穏やかな人でもうご高齢なのだけれど元気そうでほっとした。

その後、大橋のたもとの東屋で野宿をしようとしているお遍路さんに会った。
なんと外国の方、ほとんど日本語がしゃべれなくてうまく会話が出来ない。
それでも身振り手振りと私のつたない英単語でやっとお大師堂のことを教えられた。
最後は「レッツゴー」ここはもう連れていくしかない。一緒にお大師堂に向かう。

先客のお遍路さんも歓迎してくれて、言葉は通じなくても笑顔で応対してくれる。
これも縁と言うもの、一夜の宿をともにすることもまたよしと思っていた。

それから少し経って家の窓からもう一人のお遍路さんが土手を歩いて行くのが見えた。
三人になるのか、大丈夫かなって一瞬心配になってちょっと様子を見に行く。
そうしたら最初のお遍路さんが荷物をまとめているところだった。
三人でも寝れないことはないはずなのだけれど、出て行くと言ってきかない。
隣の地区まで行けば泊まれるお堂があるのだそうだ。そこへ行くからと。

三人目のお遍路さんに事情を訊くと、どうやら喫煙が原因のようだった。
ちょっと注意をしたら気を悪くされたようだと嘆いておられたけれど
それは仕方のないことだと思う。最低限のマナーは守らなくてはいけない。

外国人のお遍路さんは何があったのかわからなくてきょとんとしていたけれど
最初のお遍路さんと最後のお遍路さんの二人をなだめてなんとか一件落着となる。

他のお堂へ行くと言うお遍路さんを見送った。
「大丈夫、暗くなるまでに着くから」そう言ってくれてほっとした。
最後に来たお遍路さんは追い出してしまったことをとても気にしていたけれど
「気にしなくても良いですよ、こんなご縁もあるのだから」と笑顔でそう伝えた。

みんなみんなここで出会ったのが「縁」たとえどんなことがあったとしても
お大師さんはみんなをゆるしてくれる。まあるくまあるくおさめてくれる。

お大師堂に明かりが灯るころ、私は夜道を歩きながらそっと手を合わせていた。



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