ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2006年04月29日(土) ちえさん


          ちえさんと家具を買いに行った。

          好みとかがよく似ているなあって。

              なんかふしぎ。

              なんかうれしい。

            お昼にオムライスを食べた。

           ちえさんもオムライス好きみたい。

              なんかふしぎ。
    
              なんかうれしい。


             
             もうひとりのこども。

             むすめがふえたんだ。


              すごいうれしい。

           
           



2006年04月28日(金) こども


         子供っていうのは。
     
       どんなにおっきくなっても

       すっかりおとなになっても

         わたしの子供なのだ。


   その子供が5月5日に婚姻届けを出すことになった。

  こどもがうごきだしている。こどもがきぜわしくざわざわと。

      いったいどこにいってしまうのだろう。



2006年04月27日(木) 晴れの日

花の名は十二単。紫の衣を重ねてひっそりと誰かを待つように。咲く。
花の名は小手毬。白き夢が散る前にそっと手のひらにのせてあげたい。

まいにちそうしてあいたくて。まいにちそうしてみつけては。
雨の日も晴れの日も風の日も。いまはこころいっぱいのはる。


仕事を終えて帰り道。ちいさな牧場のそばを通るのだけど。
今日はすごく嬉しかったんだよ。だって空一杯の鯉のぼり。
童心に返ってしまうのかな。見上げるとわくわくしちゃう。
空を泳ぐのって。きっとすごく気持ちいいのにちがいない。

すぅってする。はぁってする。風にのってひゅらりひゅらり。

そうたとえばね。あのこととか。ああなんだったかなあって。
すごい遠くなるんだよ。ちっぽけなことだったんだなあって。


泳げるかな?泳げるよ。へたっぴぃでもみんな泳げるんだよ。





2006年04月26日(水) 永遠に

ひとしずくふたしずくほどの雨だった。



職場での胃がきりきりと痛むような緊張と。
うらはらに。こころの奥深いところで安堵。
どうやら昨夜。私は救われたのに違いない。

音信不通。もはやそんな言葉のもつ意味を私は知らない。
二年だって三年だって。一生だって永遠だって構わない。

私は祈り続ける。これからもずっと祈り続ける。


ぼく苦しかったけど耐え抜いたよ。
すごい辛かったけど遣り遂げたよって。

その言葉をどんなにか待っていたことだろう。

もうやめなさい。もう諦めなさいって。
言えなくて。言ってあげられなくてごめんね。
それがいちばん辛くて。すごくすごく苦しかったよ。


朝に晩に手を合わせて。祈り語りかけた豆地蔵さん。

あなたが。あのひとのすべてでした。






2006年04月25日(火) ひかり

肌寒さを感じる朝と。ほっと暖かな光降り注ぐ真昼と。
私はわたしの温度を知らなくて。ふと途惑ってしまう。

のだけれど・・・。



今日もいつもの山道をいく。
峠にさしかかるまでの道で。春遍路さんに「おはよう」
スニーカーがてくてくと元気で。そんな颯爽が私の嬉しさ。

いいこととかわるいこととか。
きたいしたりふあんがったり。

そんなんじゃないんだ。てくてくいくってことがたいせつ。
だってどんないっぽも。すすむってことがいいことだもん。


もうすぐ峠。その時だった。新緑の陰の中で何かがきらっと光った。
すごくはっとして。思わずブレーキを踏む。確かめなくちゃって思った。

朝陽がそこだけ。まるでスポットライトのように照らしている。
いっぽんの木。零れ落ちそうなほどの花を咲かせた山つつじの木を見つける。
その感動といったら。竹取の翁が光る竹を見つけた時と似ているかもしれず。
わあ。つつじ姫だあって。これ以上の表現は拙い書き手には無理なのでして。

こんな朝でありましたとさと記しておきまする。



さてそして今宵。

このいちねん祈り続けたことが。ついに成就しました。
もうほんとうに思い残すことは。ないのだと思います。

わたしはあのひとのひかりになれたのかもしれません。






2006年04月23日(日) わたしの声

いまは藤の花盛り。薄紫や白藤や甘く香りて。
雨あがりの花姿は。雫色のうたかたのごとし。

みあげてはこころなごませ。

みあげてはわれひとりいく。




どうしてかざわざわと。心落ち着かずまま数日が過ぎた。
何かが悪さをしている。何かが棘のように心を刺しては。
まあよいではないかそんなことどうだってと思えないで。
苛立つのではなくして。やたらと気に障るのだ。それが。

わりきれない。なっとくできない。ひていばかりしていた。
いいのだよこれで。じゅうぶんなんだよってうなずきたい。

ひとと関わっていると。時々こんなふうに壊れてしまうらしい。
よかれと思ったことが。よくなくて。自分の不甲斐なさが痛い。

だからそれを。まあよいではないかと思えるようになりたいのだ。
あっさりと水に流せない。それがもっとも私が私を許せない理由。



午後。一円玉を88個提げて。独りミニ四国霊場へ行ってみた。
山つつじの咲く山道。蕨がおっきくなったような羊歯茂る道を。
ただひたすら八十八体の仏像に手を合わし続けてすすむすすむ。

うぐいすの声。ふもとのお寺の鐘の音。わたしの声わたしの息。

わたしもこうして生きていていいのだなと思えるようになる。

いつだってこんなふうに。まっさらになれるんだなって思う。


あのことにふりまわされて。あのことにがんじがらめだった。
ああでも。あのことがあったから。ここにたどりつけたのだ。

「ありがとうございました」

わたしの声を。こころいっぱい。あなたに捧げます。



2006年04月19日(水) あたらしいみどり

やわらかな絹のような雨の道をいく。エンドウの花は白いちいちゃな蝶々。
ブロッコリーの花は菜の花のお母さんみたいでちょっと逞しくて凛々しい。
大根の花は薄く紫がかった姿が。なんだかとてもせつなくて好きだなと思う。

山道を進んで行くと。どきどきするくらいの新緑に会える頃になった。
それぞれの新しさは。似ているようで決して同じではないのがわかる。
この木。あの木。むこうの木。ちゃんとみんなに輪郭があるのだから。
だけど競い合うのではない。みんながそうして寄り添ってひとつの山になる。

山がむくむくっとうごいているように見える。ああいまとつにゅうしたって。
思った。その瞬間がすごく清々しくて。心に新芽がいっぱい生まれたみたい。



穏やかないちにちだった。

不思議と苛立つ事がなかった。

あたしのかどもあたらしいみどりになれたのかな。



2006年04月17日(月) すすむ

どうしても言わなくちゃいけないことを。
今日は勇気を出して言ってみたのだった。


ふっきったようなここちよさ。

だけどすこしうしろめたくて。

まええすすめまええすすめと。

わたしがあたしをはげました。


逃げたんじゃない進んだんだ。

にげるんじゃないすすむんだ。




2006年04月16日(日) いますぐいきます


              サチコが。

       『いま、会いにゆきます』やってるよって。

           お母さん見ないの?ねえ。

         どうして見ないの?って言うので。


            いますぐ見にいきます。

            いますぐ会いにいきます。


         



2006年04月15日(土) ケンちゃん

朝からずっと雨だった。燕さんもちょっとしょんぼりしているみたい。
なにもかもがずぶ濡れていて。せめて晴れようと心ばかりが焦るばかり。

どんな時もありましょうね。どんな時もありのままがいちばんなんです。
わかってはいるけれど。ちょっと無理をしてみたりするもんなんですよ。



ありがたいことに今日は寝の日。
ほんとうは家業の川仕事を頑張ろうと決めていたのだけど。
急遽ゆっくり休もうじゃないかということになった。

朝一で病院へ行っていた彼が。にこにこ顔を装って帰って来たのだ。
持病の診察日だったけど。特に変わりなかったのだなあと。そう見えたけれど。
「今日は絶対安静だぞ」って言うのでびっくりしてしまう。
どうやら単なる不整脈だけではなくて『心房細動』という病気らしい。
俺もよくわからないのでネットで調べてくれと言うので早速そうした。
脳梗塞になるかもしれないとか。不安になるような事がいっぱい書いてある。

でも彼はそれが不安なんだとは。少しも顔に出さずにへらへらとにこやか。
薬飲んでれば大丈夫だぞと言って。とにかく今日はごろごろ寝るそと言って。

しんどい日がきっといっぱいあったはずなのだ。
いつから彼はそれを言わなくなったのだろう。
どうして私はそれに気づいてあげられなかったのだろう。

彼の失業を機に家業を押し付けるように任せてしまった。
今年は豊作でほんとうに良かったのだ。
彼が頑張ってくれたおかげでどんなにか家計が助かったことか。

私はといえば。毎日まいにち。職場での愚痴をこぼしてばかり。
母の悪口だってどれほど聞かせたかわからない。
そうか、それはいかんなと言っていつもしっかり聞いてくれた彼だった。

あまりにも。自分のことばっかりだったんだ・・・。

ああ。ごめんね。ほんとうにごめんねケンちゃん。

そして。そして。こころからありがとうケンちゃん。



2006年04月13日(木) お母さん

ひと雨ごとに春爛漫。一昨日は嵐に見舞われて。今日もまた雨の朝だった。
濁流を見下ろす土手には野の菫。土筆の坊やは新緑色のスギナに育っている。

雨あがりの午後はとても清々しい。光の子供達がまるで今生まれたかのようだ。
ひとのこころのくよくよさんも。めそめそさんも。生まれ変れたらいいなあと思う。


このところすこうし。情けなくもあったわたくしというひとは。
あれからすっかり職場が嫌になり。行ったり行かなかったりしている。
自己分析をどれほどしてみたことだろう。いったい何が嫌なのだろうと。
ひとつひとつをようく考えてみると。どうやら仕事自体が嫌なのではなさそう。
経営状態の悪化もしかり。それは今に始まった事ではないのだから。

だとすると。やはり彼女しかなかった。
彼女が赤の他人なら。どんなにか救われるだろうと思うのだった。
もう顔も見たくないと。思ってはいないか?と自分に問うてみる。
するともうひとりの自分が慌てて首を横に振ろうと慌て出すのだ。
優しくしてあげなくちゃいけない。思い遣ってやらないといけない。

だってお母さんだもん。私を生んでくれたお母さんだもん。

でも・・でもと。まるでちいさな子供が泣きながら弁解するように。
それが襲って来るのだ。ユルセナイドウシテモユルセナイ。


ああまたこれだ。いったい何十年経てば。心から許せる日が来るのだろう。
遠い日のひとつの過ちを。罪だと決め付けて。一生責め続けるつもりなのか。
そんな権利が私にあるはずがない。そんな私の心が罪そのものではないか。

亡骸に縋りついて「ごめんなさい」っていくら泣いて謝っても遅いのだ。



母が植えた鈴蘭が咲き始めた頃。

母が植えた合歓の木に蝶々のような花が咲く頃。

母が植えた雪の下に天使のような花が咲く頃。

山ももの木には今年も沢山実が成ることだろう。



明日は笑顔で会いに行くよ。お母さん。







2006年04月10日(月) 胃痛とわたし

木の芽起こしの雨なのか。春の雨は優しくもあり。また激しくもある。
やがてすぐに新緑の頃になるのだろう。若葉がきらきらと眩しい季節。


今日は少しばかり月曜病だった。土日のりらっくすとのギャップが大きい。
リフレッシュしたはずなのに。朝から憂鬱でならない。情けない奴だなと思う。
しゃきっとしたいのに出来ない。億劫ながらも仕方なく職場へと向かった。

いつもの峠道。春遍路さんに会ってほっとする。
同行二人とはいえ。ただひとり山道を歩く。それが孤独でないはずはなかった。
何を想いながら歩いているのだろう。淋しくはないのか心細くはないのか・・。

そんな姿に出会うたびに。勇気のような希望のようなパワーをいつも頂く。
ありがたい道だった。仕事に行かなければが仕事に行こうと思えるのだから。


しかし今日は着くなり胃痛だった。拒絶反応なのかなんなのかわかんない。
いったい何が嫌なのか。どうして心から微笑むことが出来ないのだろうと。
情けなくもあり。とにかく嫌なんですと開き直っている自分がそこに居る。


そうして逃げるように帰宅。玄関の燕の巣が今朝よりも立派になっていた。
今日補修した所がちゃんとわかる。古巣に湿った土がくっきりと縁取りされている。

自然と笑みがこぼれる瞬間だった。「たっだいま〜」って元気な声も出てくる。

ほんとにふしぎ。胃痛は5分もしないうちに治まり。晩ご飯がとても美味しかった。



2006年04月09日(日) ふんわりほんわか

早朝より家業の川仕事。早目に昼食を済ませ午後はのんびりをいただく。

自室にこもりぼんやりとしていた。本を読む気にもならず。ふうと溜息ばかり。

ふと思い立つ。するとむしょうにそうしたくてたまらなくなり。よし行こうと。

行ってきました。我が家からだとクルマで5分足らずの四万十いやしの里へ。


いやしの湯は思ったより空いていて。薬湯にどっぷり浸かりしばし放心する。
とても不思議な快感であった。ついさっきまで何をしていたのか何を考えていたのか。
とうとうここは何処だろうと思うくらいに。身も心も遠い存在のように感じるばかり。

海水露天風呂へと歩く時なんか。身体がふわふわして羽根が生えたみたいだった。
まるで水鳥の気分。空を仰げば木々のシルエット。うぐいすの鳴き声が聞こえる。
目を閉じてその声を聴く。ほかには何も聴こえない。そよよと風の気配がするばかり。

なんて幸せなんだろうと思う。ほかに思うことなんてきっとなかったのだと思う。

湯上りの冷たい牛乳の美味しさ。なんだかすくすくとまた育ちそうで可笑しかった。

ロビーに出ると。ちょうどそこに外人さんばかりのグループが到着していて。
私が庭を散策しているあいだに着替えたのか。浴衣姿で出て来たのでびっくり。
三人の青年達だった。初めての帯をそれぞれがお腹を突き出して見せたりして。
それはそれは愉快そうにじゃれあっていた。足を高く上げて下駄の見せっことか。
楽しそうに笑い合っている。そんな光景を見ている私も微笑まずにはいられない。

私と目が合って。彼らはちょっと恥ずかしそう。でもすぐにまたはしゃぎ出す。
声をかけたいなあって思った。ああこんな時って英語で何て言えばいいのかなあ。

私はそんな彼らがとても嬉しかったのだ。だから自然と拍手をしてしまった。
そしたら三人ともますます照れくさそうにしながら。ちょっと喜んでいる様子。

下駄をからんころんしながら。彼らが部屋へと帰るのを見送った。
とうとう言葉はかけられなくて。ばいばいって手を振るばかりの私に。
彼らはちゃんと手を振って応えてくれたのだ。胸が熱くなるほど嬉しくて。

笑顔には笑顔。ほんわかと身も心もまあるくなれた。ありがたい一日だった。









2006年04月08日(土) 海辺のふたり

黄砂にふかれてみるもよし。あのひとを懐かしく想うのもよし。
よからぬことは。ただただよからぬこころにのみ巣食うものなり。


午後3時。すごく久しぶりにりっちゃんに会った。
海辺の公園で待ち合わせて。りっちゃんのクルマを見つけて。
りっちゃんがきょろきょろ私を探している姿が。なんかやたらと嬉しかった。

友達の友達で。だから私たちはずっと友達でいられた。
あの頃の私達は。とても青くて。ちょっぴり白い色だったように思う。
青には混ざり合って。白には。決して絵の具を落とさない。
もちろん落書きもしない。その白さがそれぞれの在りかだったのだ。

それ以来。ずっとその白さを大切にしてきたのだと思う。
もう純白ではないことなど。なにひとつ咎めることもせずに。


海の見えるベンチにふたり腰掛けて。潮風をいっぱい浴びた。
「気持ちいいね」「うん最高だね」

砂浜で遊ぶ親子連れの姿や。よちよち歩きの幼子の一歩一歩が。
鮮やかな映像みたいに見えて。ふたり一緒に微笑んでいられた。


海はどこまでも青くてよし。波はどんな日も白と名付けたいものだ。



2006年04月06日(木) こころいっぱいの春

朝は少し肌寒さを感じたけれど。日中は光あふれ穏やかに時が流れる。
桜はほぼ葉桜。その花びらを敷きつめたような草の原に。タンポポが。
可愛らしく顔を覗かせている。薄紅色の衣装を身につけた微笑みのようだ。

るんるんらんらんとお散歩してみたくなる頃だった。仕事なんてとふと思う。

ちょっぴりの苛立ちがそこにあり。まあこんなもんだろうと観念しながら。
こころは野原。こころは海辺。こころはいつだって旅人になりたがるもの。



少し疲れて帰宅すると。おおと思わず声をあげるほど嬉しいことが待っていた。
昨日の燕さんが帰って来てくれていたのだ。もうお嫁さん見つかったの?って。
聞くには及ばず。そこにはちゃんと二羽がいて。せっせと巣の補修を始めている。

「おとうさ〜ん!」と彼を呼ぶ。そしたらめんどくさそうに彼は応える。
昨日まであんなに不安がっていたのになにさ。そんなこと当たり前じゃないかと。
ちっとも嬉しそうな顔をしようとしないのだ。嬉しいくせに照れていると見たぞ。

かくかくしかじか。今年も燕たちと暮らせる。巣立つまでずっと見守っていられる。

ささやかながら。それがほんとうに幸せなことだと思うのだった。

ありがたきは燕かな。こころいっぱいの春がここから生まれていくのだよ。




2006年04月05日(水) そのばしょから

清明。万物がすがすがしく明るく美しい頃とか。

雨あがりの濁りを帯びて流れる川に。春の陽が燦々と降り注ぐ午後。
眩しさに目を細めながら息をすると。水のにおいにとろけてしまいそうだ。
明日は澄む。そう誓うようにつつと流れる。南風は潮のかおり。ぽつねんと。

またあたしはそこにいて。そのばしょをしるすようにして。そこからあるく。



「今年は燕が来てくれないなあ」とさびしそうに彼がいう。
なにか良くないことがあるのかもしれないと不安がっている。
去年の二番子たちが卵のまま死んでしまったことを思い出した。
悪さをする他の鳥に巣を荒らされたのかもしれなかった・・・。

だからもっか安全確認中なのではないかなと彼に告げてみる。
そのうちきっと帰って来るよ。だって古巣がふたつもあるんだもん。

そしたら今朝。玄関のあたりで燕の鳴き声が聞こえたのだった。
窓辺からそっと覗いてみると。ああよかった一羽が巣に留まっている。
一羽だけというのが少し気になった。なんだかちょっと物件探しなのか。
巣のなかを覗き込んで見たりして。ちょっと首を傾げたりしているのだ。
まあここでもいいかと思ってくれたのならいいな。補修してみようかなと。

そうしてすぐにどこかへ飛んで行った。それっきり鳴き声さえも聞こえない。
やはり我が家は駄目なのかもしれない。毎年それは沢山の燕が巣立ってくれたのに。
私もちょっと不安になってきた。そうしてすごくさびしい気持ちになった。

彼いわく。「嫁さんだな。まずは嫁さんを探しに行ったに違いないぞ」
微笑んで私。「そうよね。ひとりじゃ卵も出来ないし、まだ巣は早いよね」

いっけんらくちゃく。あとは燕の恋まかせかな。





2006年04月04日(火) 道のうた

桜はまだ散ってしまわずにいて。薄曇る空に似て佇んでいるように見える。
なんだかとてもほっとする。何かを待つというのでもなく。その時が来れば。
身を任そうと決心している姿のようで。凛として美しいものに安堵するばかり。


いちめんの菜の花畑が。ある朝すべてを耕されていたのを見たのはいつだったか。
その数日後。そこにはもう水が張られていて。いちめんの田んぼに変わっていた。
そして昨日の朝には。いつのまに植えたのか。若い苗たちが列をなして並ぶ姿を見た。


うごいている。どうしようもできないくらいにうごいている。
生き生きと活き活きと。負けてしまいそうなこわさのなかを。
ただひたすら進もうとしている我が身のありかに。はたと途惑う。

行ってみないとわからないところに行くということが。
とてつもなく不安に思えてしまうのだ。だからといって。
行くしか術がない。後戻り出来たらどんなにいいだろう。
あの時ああしていれば。あの時別の道を選んでいたらと。
嘆くことはとても容易かった。泣いたって帰れない道を。

振り返ると。遠くかすんでしまいそうなその果ての丘に。
いっぽんの木がそびえているのが見える。あああれはと。
懐かしく思い出す。あの時は背比べするほど幼かった木。

いくつもの季節が巡って来た。嵐の日も冷たい雪の日も。
私の足跡などというものは。とっくに消え失せているのに。

道は残る。草は萌える。花だって咲いて。その木は育った。







2006年04月02日(日) 春の誓い

桜流しの雨が降る。午後雨はやみ風が強く吹き始めた。

そしてとうとうはらはらと。桜吹雪の頃となりにけり。


そんな雨のおかげと言っていいのか。今日は家業も休みとなり。
ほんとうに久しぶりに休日をさせてもらった。心身共にりらっくす。


昨夜から読み始めた本を一気に読み終える。
飯田史彦先生の新刊『ツインソウル』だった。
昨年暮。脳内出血のため生きながら死にかけた先生の。
ありのままの記録であり。その臨死体験を私達に伝えて下さったもの。

「ついにやってくれたな」と思った。こんなセリフは失礼なのかもしれないけれど。
そんなふうに気軽く声をかけたくなるほど。私の信頼度は絶大なのであります。

実は。倒れられたことを先生のHPで知った時。なぜか少しも心配だと思わなかった。
死ぬはずはないと強く信じていたせいかもしれないが。むしろ予定通りの事態であるかのように。
漠然と思ってしまったのだった。これはきっと何かの理由があるのに違いないと。

その答えが。まさにこの記録そのものだったのです。
命がけで臨んで下さったこと。そしてあらためて真理を伝えて下さったこと。
ほんとうに感謝の気持ちでいっぱいになりました。

時に石ころである私も。同志であることを誇りに思い。これからも共に歩みたい。

学び。愛し。使命を果たすために。最期まで生きることをここに誓います。


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