VITA HOMOSEXUALIS
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彼との逢瀬が終わり、しばらく放心した日々が続いた。強引に連絡を取ってみる方法もないではなかったが、それは彼がいやがると思い、遠慮していた。
実はその遠慮は今でも続いている。私の携帯には彼のアドレスと電話番号は残してある。ときおり彼のアドレスにメッセージを送ってみる。返事はないが、送信不能とも言われないから、何かしら届いているのではないかと思う。電話すれば出ないこともないだろう。だが、私はそうしない。
彼の方から私にコンタクトしてくる気にならなければ、私が一方的に押しかけても無理が残る。だから音信不通のままなのである。
だが、連絡が取れなくなってから一年もすると、ようやく私も落ち着いた。彼を思い出してオナニーすることもなくなった。彼の細い肩や薄い胸板、そのわりに厚い唇や太いペニスの記憶が私を悩ませることもなくなった。
そうなったときに私が思ったのは、私たちが同性に対して抱くのは恋愛の感情なのだろうか、性欲なのだろうかということだった。
私は明らかに相手に恋愛の感情を持ったこともある。高校生のときや大学生のとき、また、ずいぶん年月が経ってから、若い人々にものを教える仕事を始めたとき。そして「彼」。そういう相手はたかだか数人にしかならないが、たしかに私は彼らとの言葉のやりとりを楽しみ、言葉の中にときどき秘めた思いを入れるのを楽しみ、ふとしたときに彼らが見せるしぐさや表情に魅力を感じてうっとりした。
だが、そのような相手のほとんどは同性愛者ではなかった。
もし彼らと抱擁ができていたら、キスができていたら、ペニスをまさぐることができていたら、私の幸福はどんなにか舞い上がったことだろう。
しかし、現実はそうではない。私ははっきりと言われたこともある。
「あなたのことは好きです。愛しています。けれど、体をくっつけるのだけは、僕は生理的に受け付けられないのです。ごめんなさい」
謝られることではないのに、彼は真剣に謝った。私は涙のにじむ思いで、この謝罪に感謝した。
それでは、自分の恋愛感情が相手から肉体的には受け入れられないとなったとき、私たちはそれを素直にあきらめることができるだろうか?
それは少なくとも自分にはできないのである。
私には、感情はどうあれ、肉体の性欲として男を求める心理が働いている。
だから「ハッテン場」と呼ばれるところに行って、感情も何も無縁な性器と性器の接触を求めるのである。
これをやった後は本当に後悔する。
「またやってしまった」、「また負けてしまった」という悔恨は消えない。
しかし、肉体の性欲が飢えてくると、言葉さえも交わさずに射精しあうことが普通に思えてくる。
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