ソモ算

2008年05月10日(土)

前回の予定を少し変え、今回はこの日に会った友人との会話から考えさせられたことを書こうと思います。それは「ふつう」という言葉についてです。

彼女は高校の友人で現在美大生をしています。彼女とは会うたびに険悪な雰囲気になるのですが、今回もやはりそうでした。彼女はSMやドラァグ・クイーンに関心があるそうなのですが、その話題が出るたびに私は不快になっていくのです。

生理的な嫌悪感があるのかもしれません。それは無意識のことだと思うので、ここで肯定することも否定することも無意味でしょう。それを除いて、自分で考え付く理由の一つは、もうたくさんだ、という気がすることです。

父親の政治談議に付き合わされる時にそれは似ています。左翼も右翼もたくさんだと思うように、あまりにありふれている感じがするのです。

それは人との差別化の道具としてありふれているということだと思います。より感覚の鋭い人である、より個性的な人である、ということを示すのに使われるお題目としては聞き飽きたと感じます。

あるいは「お題目」と感じさせてしまう彼女の語り方に辟易するためでしょうか。ある単語だけで、「前衛的!」「個性的!」と思うことは自分のプライドが許さないので、とりあえず聞き流した先で、彼女は面白みを説明しようとしないため、嫌気がさしてくるのです。

彼女は美術系の人なので、ここに一つのノートパソコンや写真集があったなら話は別なのかもしれませんし、言葉で説明しないことを文系の私が怒るのは、ヘレネスがバルバロイを軽蔑したのと同じようなことなのかもしれません(逆もまたしかり)。

ですが、ともかく私は、彼女にある単語を愛好しているだけで自己完結している感じを覚え、寂しかったり、ムカムカしてきたりします。

ある程度似たようなバックグラウンドを持つ人間ならば、熱烈な愛までは植えつけられなくとも、比喩などによって「面白み」くらいは理解させられるのではないかと私は思っています。同じことについて面白がれるよう努力する、というのはコミュニケーションの基本ではないかとも思います。

つまり、間接的に「お前は全く話をするに値しないつまらない人間だ」と言われているような気がしてくるのです。これが多分自分の一番ナイーブなところを逆撫でします。そして人間性の卑しい私は、苛立ちを言葉の端々ににじませながら相槌を打つようになります。彼女はそんな私を哀れんだ様子で(つまり馬鹿にした様子で)話を続けます。こうなるとドロ沼です。

そう、これは多分に同属嫌悪なのです。共に「ふつうでないこと」をアイデンティティとして生きてきた女同士の。

(つづく)


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戸袋 [MAIL]