蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 drunk

ああ、どうするかなあ。

すっかりぬるくなってしまったビールの缶を掌に持て余しながら、新はゆっくりと息を吐いて静かに思案する。通りから少し離れたこの部屋は、昼間の喧騒も冷めた夜にたまに行き交いする程度の車の音では遠く聞こえない。

「さくらー」

起こさなくてはならないのに、起こしては可哀想だとまるで昼寝をする幼子に呼びかけるような、どっちつかずの心持ちのせいか、思っていた呼び声よりも随分と小さくなった。
新の視線の先には彼がいつも使うベッドがいつもと同じ何食わぬ顔をして、そこに存在する。変わり映えしない、住み慣れた自分の部屋でしかない。そこに異変があるとすれば、部屋の主ではない人間が横たわっていることくらいだった。

「さーくーらー」

ベッドに横たわるさくらは、ぴくりとも動かずすうすうと気持ち良さげにさえ聞こえる寝息を立てて、すっかり眠りこけている。少し濡れた髪が頬にはりついていたので、新はそれを指先でどけてやっても、全く身じろぎさえしなかった。
常夜灯の中で緑に光るデジタル時計が三時半を示し、新にもそろそろ寝たいという生理的欲求が湧いている。狭いシングルだが華奢なさくらと細身の新であれば、十分事足りるであろうし、そもそも新には床で寝るという選択肢は存在しない。平常であれば迷うことなく隣に潜り込んで睡眠を貪るであろうが、その彼を逡巡させているのが、さくらが風呂上がりよろしくバスタオルを巻いた裸体のまま寝てしまったからだ。

「…なんでシャワー浴びてそのまま寝んだよ」

美味いスルメイカが付き出しの居酒屋が、飲みに行こうとなった時のゼミメンバーの行きつけの場所で、今日も誰というわけでもなくスルメイカが食いたいと言い出して、その居酒屋に行くことになった。
さくらはあまり酒が強くないことは知っていたが、あれが飲みたいこれが飲みたいと今日はやけにはしゃいで、グラスを重ねていたのは新も覚えている。愛らしい、という言葉を巧みに再現したような顔を赤くして、けらけらと笑い声を立てては梓にしな垂れかかり、その梓が恋人と会う約束があるからと先に帰ってからは、やたらと高崎に絡んでいたような気もする。
そのさくらが今現在、新の部屋にいるのは帰りの方向が一緒だからと同じタクシーに相乗りすることになり、そこで話しているうちにどうしてか新の部屋で飲み直すことになったからだ。

残ったビールを飲み干して缶を潰すと「仕方ねえなあ」新はまだ濡れた自分の髪をバスタオルでがしがしと拭いて、柔らかいベッドに潜り込むために立ち上がった。


ーーーーー

「えーこれ俺が悪いの」
「ちがうちがう、悪いのは私だよ。でもびっくりするじゃん」

起きて隣に新寝てたらさ。さくらは大きな目をさらに大きくしてそう言ってから、堪えきれないように破顔した。

「俺の方がびっくりしたわ」
「ごめんー」

缶珈琲を口に含み不機嫌そうに新は瞬きし、さくらは申し訳なさそうに両手を合わせて謝り続けている。
すっかりと日が高くなり、少し離れた通りからは行き交う車の音が聞こえる。夏の間あれだけ鳴いていた蝉の声は、一つとして聞こえてこない。

「おまえね、ああいうの、なんかあったらどうすんの」
「だねえ」
「すでになんかあったかもしれないじゃん。俺が言わないだけで」
「もうそれは仕方ない。私が悪いし」
「いや、そこは怒れよ」

でもそう言うんならなんかやっときゃ良かったな。華奢なくせに胸大きかったな。今日何限からだったっけ、と記憶を探りながら、惜しいことをしたと新は思った。


2018年09月15日(土)
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