蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 puzzle

前で話す担任の話が終わった途端、クラスメイト達はほぼ一斉に立ち上がり、出て行った。

「なあ鈴川」

クラス全員分集めたプリントを束ねていた時、担任がすまなさそうな声で私を呼んだ。

「先生な、今から会議入るんだ。悪いんだがそのプリント、職員室に持って行っておいてくれないか」

「今から、ですか?」

「悪い。頼むな」

返答さえ聞かず、生徒を掻き分けて急がしそうに教室を後にする担任の背を見送り、溜め息を吐いた。なんて面倒くさい。
委員長なんて引き受けるんじゃなかった。
従兄弟の弁を借りれば、内申の為だって言えるけど。それで納得しようとしたって、何かと細かい事を押し付けられるのには辟易する。
腕に抱えたプリントの束は、重くない代わりに、酷く煩わしいものに思えた。

漸く静かになった廊下に出て、足早に階下に降りた。さっさと終わらせてしまいたかった。
けれどその先で、山崎くんが向かいの廊下を歩いているのが見えて足を止めた。
特進科の山崎くんと普通科の私では、階はおろか棟も違う。偶然に会う確率なんてほとんど無い。

嬉しくなって開いた窓から声を掛けようとしたところで、押しとどまる。山崎くんは一人ではなかった。

柔らかな線を描く微笑。目下それは私ではなく、彼の隣に歩く人に向けられていた。佐伯さん、だ。
ふわふわとした長い髪は薄い茶色をして、色の白い彼女によく似合う。わりと距離があるのにも関わらず、その光景は酷く際立ってて見えた。

彼女も特進科ではなかった筈だ。けれど同じ風紀委員という以上、一緒にいてもおかしくはないんだけど。でも。
口元に両手をあてて佐伯さんが嬉しそうに笑う度、何とも言えない感情が押し寄せてくる。

私より、ずっと似合ってる。
可愛らしい、という代名詞がぴったりの女の子。
一緒にいるからどうって言うんじゃない。
ただ、その彼女に笑い返す山崎くんの微笑は、私に向けられるものと全く同じに見えて。

――嫌だ、と思った。

一言でいうなら、まさに王子様の微笑。

『俺、王子なんかじゃないから』

あの日最後に呟いた台詞の意味はわからなかったけれど、こうやって眺める山崎くんは誰が何て言おうと王子様に見える。と言うより、それ以外何だって言うんだろ。
山崎くんと付き合ってるなんて、今だって夢みたいだ。
私と付き合うなんてやっぱり冗談なのかも、なんて、疑心暗鬼に駆られるのは、きっと私のせいだけじゃないと思う。

気付けば腕の中のプリントが皺になるくらい、ぎゅう、と抱き締めてしまっていた。

「何してんだよ、こんな所で」

「…っ」

不意に後ろから叩かれた肩に、過剰なくらい反応して振り返る。

「りょう、ちゃん」

「そんな驚くなよ、びっくりするじゃん」

「だ…って、急に、驚かすから」

プリントを落とさなくて良かった。もしもこんなところでばら撒いたりして、山崎くんにでも見られたら――おそらく誰に見られても変わりないけど――恥ずかしすぎる。

「あーごめんごめん、そんな驚くと思ってなくてさ。あぁそれ職員室に持って行くのか?」

にやにやと笑いながら、諒ちゃんがプリントを指し示した。
一学年上になる巽諒は、生徒会の副会長を務めていて、それでいて私の従兄弟にあたる。
昔から世話好きで良い人なのは認めるけれど、血縁だと言うだけで前年は諒ちゃんの担任だった教師からクラス委員の推薦を受けた身としては、全部を肯定するわけにはいかない。

「行きたくて行くんじゃないもん。押し付けられたんだよ」

「委員長だもんな」

「それ、誰のせいだと思ってるの」

「そりゃ人望高い俺のおかげに決まってんだろ」

「どこが、おかげなの? 私、入学してから面倒ばっかしかかけられないと思うんだけど」

「文句言うなよ。ここで何かしらやってりゃ悪いことはないって。三年になって進学が見えてくりゃ俺に感謝するさ」

随分と高い位置にある諒ちゃんの顔を睨んでから、また向かいの廊下を見た。誰も居ない。そりゃあそうか、山崎くんだって暇じゃないんだからいつまでも同じ場所にいる筈がない。

「何変な顔してるんだよ、あっちに何かあんのか?」

「ど…っ、どーだっていいでしょ」

「ああはいはい。職員室行くんだろ? 俺も用事あるからさ、そこまで一緒に行こうか」

「また生徒会? 忙しいよね、いっつも」

「まぁな。お前も来期は立候補しろよ、俺が推薦してやるからさ」

「そういうの、口だけにしておいてよ」

「おう、たぶんな」

にっと笑いながら腕に嵌めた時計をちらりと見ると、諒ちゃんは睨み付ける私の腕を引き、悪気の欠片もなさそうな顔で口笛を吹きながら歩き出した。

放課後の職員室はわりとざわついていて、騒然として無駄に煩い。何度も来たことのある担任の机の上に腕の中のプリントを置くと、隣の席の先生がご苦労様と言って飴を一つくれた。

「子供のお使いみたい」

「みたい、じゃなくてそうなんだって」

飴を口に放り込んだ私に、近くにいた諒ちゃんが笑った。
職員室に残る諒ちゃんに手を振って外に出れば、廊下に降り注ぐ日差しが私を照らす。
日中止まなかった豪雨が嘘みたいに晴れ渡った空と、強い風のせいか昨日までの蒸し暑さはなくてやけに風が澄んでいた。
眩しいくらいの廊下を歩き靴箱に着く頃、壁を背に一人の男子生徒が立っているのが見えて――。

「山崎くん…?」

すらりとした体がこちらを向く。日差しが眩しいのか、何度か瞬きした後、山崎くんはいつもみたいな淡く柔和な笑顔を見せた。

「待ってたんだ。一緒に帰ろうと思って」

僅かに首を傾けて、よく通る声がその笑みと共に私に向けられた。



クリーム色の木漏れ日が芝生を照らし、やけに煌めいて見える。
今日の雷鳴の残滓、玉みたいな露のせいだ。
広々とした公園内には、人影はほとんどない。

「こんな所に公園なんてあったんだ、知らなかった」

「ああ、うん。駅と反対だしね、わりと皆知らないんだよね」

山崎くんが少しだけ俯いて言った。
足元の泥濘を気にしているのかもしれない。きっと綺麗好きだろうから。
優美な曲線を描く目元から生えた、睫毛の長さに目を奪われる。
これだけ造作が整った人間を間近で見るのは、言うなれば毒みたいなものだと思う。
身近に居られて嬉しいはずなのに、心音が休まる時がなくて、逆に苦しくさえなる。

ベンチに腰を掛け、鞄を置いた。
目の前を犬の散歩中らしい中年のおばさんが、興味深そうな視線をこちらに投げて通り過ぎて行く。
そんな無遠慮な眼差しにさえ、山崎くんは涼しげな笑みで見送った。

「私、公園とか久々かも」

「そうなの? 騒がしい場所は苦手なんだ、俺。煩いと疲れるし――女の子でも同じなんだけど」

それは言外に物静かな女の子が良いという意味だろうか。
量りかねて困惑する私に、山崎くんは唐突にこちらへと手を伸ばし。

「……っ」

さらりと髪を撫でる指に、思わず固まってしまった。

「さらさらだね、鈴川さんの髪。…透けても黒くて綺麗だよね」

「え、と、ありがとう」

なんて返していいのかわからなくて、咄嗟にお礼を言えば、山崎くんはほんの少し目元を柔らかくして微笑んだ。
興味深げに指で掬った一束に、顔を近づける相手。
そういうことを、いきなりしないで欲しい。

「どうしたの?」

顔が、近くなる。すぐ、そこにある、目鼻立ちの整ったすっきりとした顔。

「なんでもな、い」

「そう? なら、いいけど」

一つ、わかった事がある。

山崎くんは、かなり、積極的だ。手を握るのも髪に触れるのも、ごく当たり前に何の躊躇いもなくその手が伸ばされる。
慣れてるのかな。そうであっても不思議じゃない。そんな事を思う。もしそうなら、知りたい、とも思う。山崎くんのことなら、何でも知りたい。
ふと、放課後に一緒にいるのを見た佐伯さんを思い出した。

「どうしたの?」

「…つ。何でも、ない」

頭の中から今日見た光景を振り払う。ただ、委員が一緒って言うだけで。
そう思い込もうとする私の、ベンチに置いた手の甲に重なる掌。

「やま…」

「キスしていい?」

私を覗き込む、揺らぎのない薄茶の瞳。
随分と色素が薄いんだって、初めて知った。
そういえば、髪も茶色っぽいし、肌だって他の男の子より随分と白い。
そんな事を考えていたら、いつのまにか距離はもっと縮まっていて。

「…ん、」

返事も聞かずに、軽く触れてきた唇の感触に、何も言えなくなった。
拒否しない事を知っている、躊躇いの無い動作。
薄く微笑んで、山崎くんが私の頬を撫でる。

しっとりとした唇がやけになまめかしくて、相手が目を閉じてしまっても、しばらくそこから目を離せないでいた。

「ごめん、嫌だった?」

「え? ううん、違う、嫌なんかじゃないよ。ただ――」

吐息がかかるようなすぐ傍で、山崎くんが私を静かに見つめる。

「慣れてる、のかなって、思って」

「え?」

さっきまで合わせていた自分の唇に、指先で触れる。
こういうこと、と継ぎ足した台詞に、不思議そうな顔をしていた山崎くんが、ああ、と理解したように笑った。

「慣れてないよ」

嘘。そう言いたかったのに、もう一度重なった唇のせいで叶わなかった。

「そんなことよりね」

ふ、と耳元に寄せられる唇から漏れる息が、擽ったくて身を捩った。

「な、に?」

「今日さ、放課後、巽先輩と一緒にいたじゃない?」

「え、あ…、うん?」

急に巽、と出た従兄弟の名前に、曖昧に頷く。何で知ってるんだろう。
そんなに大声で話してた気もないし、山崎くんはこっちに気付いてなかった筈なのに。

「駄目だよ」

「…?」

「他の男と一緒にいるなんて」

唇が耳に触れる程近い。山崎くんの声は、言い聞かせるように優しく言葉を区切って紡いでゆく。

「だってね、鈴川さんは俺のものなんだから」

耳に当たる唇が紡ぐ台詞が、こそばゆくて、どうにかなりそうだった。


2011年03月19日(土)
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