蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 「夢」(篤史+泉)

駅から徒歩、十五分。
地上一階分階段を上りきった正面にある、一面硝子の扉。
外観は悪くない。黒とオレンジを基調にしたデザインは、寧ろ洒落てると思う。

人通りが少ないこの沿いで、ある程度客を確保出来るのは、それなりに宣伝効果が上がってきたせいだ。
何とか足を運んでもらう。それが第一段階。
その次は、どれだけ値段に見合った手技と満足を渡せるか。
一人前には程遠い。俺自身はそう思ってる。
ただリピート率が高い事は、少しばかりの自信に繋がるようになってきた。

座った客の頭の高さを平均にして、上壁は硝子張り。
客は視線を感じさせず、立ったままのスタッフのみが外から見える。
縦長になる店内は、広くは無い。
五人のスタッフが各自の仕事に従事するためには、ぶつからないように動き回るにも技がいった。

休業日にシャッターを開けて、雑巾片手に店内を見回す。
昨夜居残ったチーフのおかげか、既にかなり綺麗に清掃されていて、あまりやる事は無いように思えた。

「何、ぼうっと突っ立ってんの」

背中に走る掌の感触。
それはすぐに離され、泉さんはさっさと扉を開けて中へと入って行った。
今週は泉さんと俺と、もう一人が清掃担当になっている。
…だった筈なんだけど、そいつは体調不良とかで来れないと連絡があったのがさっき。

嘘くさいったらありゃしない。

梅雨時期に珍しい晴天、それに休日が重なれば時間外勤務になる掃除なんて、誰だってやりたくないのは本音だ。

なのに、泉さんは「お大事にね」なんて笑みまで浮かべて電話を切るもんだから。

「休むって連絡入れた時の態度の差が俺の時と、すげえ違う気がするんですけど」

言外に皮肉を込めた台詞に、華奢な背中は答えてはくれなかった。

「あぁ電気付けないで、先にライト拭いて欲しいんだけど」

薄く笑みを浮かべ、こちらを振り返る。
巻いた髪が、鎖骨の辺りで揺れるのが妙に扇情的だと思った。
それらを眺めながら、気怠く頷き返せばまた笑われた。

「変な所で根に持たないでよ」

「持ってないです」

俺は多分、感情が表に出やすい。
面白がったような泉さんの表情を見ていれば、鏡で確認しなくてもよく分かった。

「だって、ほら。あの子、多分もう辞めると思うし」

「あの子?」

「佐々木くん」

佐々木。
さっきの電話の主。
そして半年程前に入って来た新人でもある。

「あたし、向上心の無い子には手を掛けない主義だから」

「案外放任なんですね」

「努力家には手塩を掛けるよ」

唇の合間から歯を見せる笑い方は、子供っぽいけれど泉さんがやると悪くない。

「じゃあ、俺は芽がある?」

わざと配管を剥き出しにしたままの高い天井を見上げ、素直な感想述べる。あのライトを拭くには、脚立がいるな、と周囲を見渡せば驚いたような顔をした泉さんと目が合った。

「何? びっくりした顔してる」

時々、無意識にぞんざいな口を利いてしまう。
いつもはその度に注意を受けるのだが、今それを言われることはなかった。

「するよ、そりゃ。なに、杉本くんは自分は芽が無いって思ってた?」

「そーゆーのって自分で判断するもんなんですか」

昨夜使ったのか壁際に置いてあった脚立を運び、また天井を見上げた。
大きなメインライトは四つ。

「するものだよ、自分で。俺は人よりずっと出来るぞって。だからこれくらいはって当たり前に出来るようになるじゃん。まあ、自信家過ぎるのもどうかと思うけど。向上心って、結局そういう事でしょ」

内窓を拭いているらしい泉さんの声が、遠くなる。
陽射しが床に伸びる。
梅雨空の合間の上天気に、清掃なんて、と思うけど仕方ない。
脚立の一段目に脚をかけて。

俺は人よりずっと、ずっと出来るような。
そんな人間に。

「なれるって思ってますよ」

視界の端で泉さんが振り返る。
そちらは見ずに、真っ直ぐ上だけ見上げた。

「…だっていつか、この店の店長になるから、俺」



窓より高い位置にあるその周囲は、妙に薄暗い。
まだ日の高いこの時刻では、そんなに無理な労働でもない。
ただ、定期的に清掃はしているからそんなに汚れてはいないけど、不安定な体勢になりがちな作業は、楽しいとは言えなかった。

「杉本くんさぁ」

「…何ですか」

最後のライトを拭き終わった後、降りて来た俺を待ち構えていたように、泉さんが脚立の傍に立っていた。
窓を拭いていた雑巾はもう手になく、代わりのようにモップを両手に抱えるようにして俺を見る。

「あげないからね」

つい、と寄って来て俺の鼻先に突きつけられた指は、次の瞬間には下を指差す。

「は?」

何のことか分からなくて、同じようにして下を向いた。
下を向いたって、あるのは見慣れた床だけ。

「この店。あげないからね」

怒ったような、笑いを我慢しているような、不思議な声の響き。
そのまま顔を上げれば、間近に笑いを噛み殺すような表情をした泉さんがいて。

「変な所で根に持たないでください」

目を細めてそう言えば、器用に片眉がぴくりと跳ねた。
髪に付いた埃を払ってくれる、細い指。
薄いピンクベージュの爪が、目の前を通り過ぎる。
綾にも似合いそうな、柔らかい色。

清掃が終わり戸締りする泉さんの背と、この店を景色に。
階段を下りて見上げるようにして、外観を眺めた。

「あげないからね」

いつのまに来たのか、冗談めいて俺を睨む泉さん。

「見てただけじゃん」

両手を挙げて苦笑すれば、「送ってあげる」と車の鍵の音がした。



俺がここを譲り受けるのは、もう少し先の話。

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サイトでの「短文お題」で書いた「夢」を短編にしたものです。
いずれ譲り受けることになるそうです。


2008年07月14日(月)
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