蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 無題3-1

「ハールちゃん」

「あれ、今帰り?」

「ん、今帰りー。ちょっと寄り道しに来たんだけど、いいよね」

ハルちゃんが笑いを堪えながら、「いーんじゃない」と言って紅茶を淹れるのを、あたしは黙って眺めた。
住宅街にあるこのお店に、最近よく通うようになった。

以前も来ないわけじゃなかったけれど、用事があるのならわざわざこちらに来るよりも、隣にある自宅に寄った方がはるかに近い。

それをわざわざ寄るようになったのには、理由がある。

寄り道の前の寄り道。
お隣の家に一人で行くだけの度胸は、あたしの中にはまだないからだ。

ポジティブシンキング。
忘れる必要なんて、ない。
自分にそう言い聞かせるあたしは、諦めが悪い。そして図々しい。
でも図々しくていい。

簡単に諦められるだけの気持ちじゃないんだって、自分でわかってるから。

さんざん泣いたらすっきりした、なんてことがあるはずもなく、シュウスケが家に来た翌日もその次も次の次も今でさえも、ずっと引きずっている。

泣いて泣いてどうしようもなくて、あたしは決めた。
忘れる必要なんて、ないってことを。

「今日はどーすんの、ウチ来る?」

「い、きたい」

木製のカウンターの上に置かれたティーカップからは、温かな湯気が漂っていて柔らかだった。
ここではポットを客の前に出さない。

『だって喋ってる間に、どうしても蒸らし時間がオーバーするじゃない。そーすると二杯目が濃く出過ぎちゃうでしょ、あれが俺には耐えらんない』

これはいつかハルちゃんが言ってた台詞だ。

あたしはそういうことには無頓着だからよくわからないけれど、出してくれる物はいつだって美味しいからそれで良いんだと思う。

雪の丸めたような角砂糖を三つ入れ、掻き混ぜた。

「なんでカタコトなってんの」

「だって、緊張してるんだもん」

「ウチに来ることが?」

カウンター越しに用事をしていたハルちゃんが、顔を上げた。

「笑わないでよー…」

「えー? いや、初々しくていいなぁと思って。やっぱ女の子はいいよね、ウチも欲しかったなぁ。んで、恋の悩みとか聞くの」

「…ハルちゃんて時々すごーく、お父さんみたいなこと言うよね」

口を閉じていれば、近寄りがたい雰囲気のほうが強い。
けれど喋り出せばやけに所帯染みているのは、見慣れた今でもアンバランスな人だと思う。

「そっかなぁ。常連さんタチとはわりと合うんだけど」

にっこりと笑うと、糸切り歯が覗く。
整った容姿がくしゃりと崩れるところは、親近感が持てるのはわかるけど。

「向こうが合わせてくれてんだよ、それって」

カップに口を付けて、紅い液体を一口。
熱すぎることもなく嚥下した。だけど、ちょっと甘い。砂糖を入れすぎたかも。

「ん、じゃあ片付けたら一緒に帰ろうね。もう少しだから待ってて」

「うん」

もう一口飲んでから、あたしは頷いてカップをソーサーに置いた。

2008年02月27日(水)
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