蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 僕ら

大事な人を探してください。彼女はそう言った。


しょうらいのゆめ。
ぼくは、だれかのやくにたてるような人になりたいです。
こまっている人や、かなしんでる人を、たすけられるような人になれたらいいなとおもいます。




玄関の簡易ベルが鳴り、来客を告げる。予熱完了したオーブンの扉を開けたところで、僕は玄関の扉に視線だけやった。

「お客だね」

僕の言葉に奥の部屋から、キリヤが顔を覗かせる。
どうやらシャワーを浴びていたらしい彼は、濡れた髪から雫をぽとぽとと落とした。

「誰って?」
「さあね、知らない」
「出ろよ」

キリヤが目を細めて、僕を睨んだ。
溜息を吐く。何て面倒な。今から焼かなければならないバナナケーキを後回しにしろと言うのか。
ふわふわの長い毛足のついたスリッパを履いたまま、鍵の掛かっていない扉を開ける。
この部屋を借りてすぐ、キリヤが暴れて壊してから、この部屋に鍵は掛からない。

大きく開けた扉を避けるようにして後ろに下がった人影を見て、僕は先程のキリヤのように目を細める。

「こんにちは」

綺麗なソプラノが、僕に向かって挨拶をした。

「…こんにちは」

鸚鵡返しにそう言ってから、相手を頭から爪先まで眺める。
緩やかな巻き毛に、ふわりとした白いスカート、それに薄水色のニット。顔は可愛らしい。年上に可愛がられ、年下に疎まれる、そんなタイプ。年は二十歳になるかならないか。それから、おそらく――。

一秒くらいの間にそれだけの事を頭に浮かべ、思い出したように僕は「何か用ですか?」と笑みを彼女に向けた。

「会いたい人がいるの」

寂しげに笑って、彼女が唐突にそんなことを言った。

「とても、大事な人なの。それなのに、いつのまにかはぐれてしまって」

穏やかに見える薄桃色の紅を引いた唇が、ぱくぱくと開閉する。
それから茶色の瞳が、僕をじっと見つめる。

こういったことは珍しくはなく、かと言って慣れるわけでもなく、僕はどう答えようかと戸惑い立っていた。

僕と彼女の間に、風が吹く。
ぽってりと柔らかそうな唇が、少しだけ震えていることに気が付いた。

「いいよ。会わせてやっても」

答えたのはキリヤだった。
背後からもたれるようにして、僕と顔を並べる。
キリヤからは、空の匂いがした。
予想したとおり、彼女は僕らを見て少し驚いた顔をした。
それは、ほんの一瞬だったけれど。

「双子、なんですね」

そう、僕たちは一卵性双生児だ。
寸分違わない容貌と華奢な体躯と、それから声を有する。僕が兄で、キリヤが弟。
性格は随分違うけれど、小さい時から他人は僕らを見分けられない。
そうなるように、僕らは互いに演技をする。

「そーだよ。珍しい?」

キリヤが笑って、僕の頬を撫でる。
触れた指は冷たく、顔にあたる伸びた前髪はまだ湿りを帯びていた。

「ええ。こんなに不思議なのは」

彼女がこくりと頷いた。少し翳りのある笑みだった。

「それが俺たちさ。遇わせてやってもいいけど、タダじゃヤだな。何かくれないと。そうだ、あんたの大事なものがいい。嘘は駄目だ、すぐに分かるからね。命と同じくらい大事なものをくれれば、それでいい」

「キリヤ」

彼はすぐに交換条件を持ち出したがる、悪い癖だ。

「そんな話よりお前は何か着たほうがいいよ」

僕は彼を見てそう言う。
グレイのスウェットパンツを履いただけで、上半身は素肌のまま。
家とは言え、客の前じゃないか。それに、そのままでは風邪を引いてしまうだろう。

「うるさい、黙れ。さて――どうする?」

余計な口を挟むなとばかりに僕を一睨みしてから、彼は彼女へと視線をやった。

「大事な、もの」

独り言のように繰り返してから、彼女は宙に視線を彷徨わせる。
無いのではなくて、迷っているように見えた。
それでも決心がついたのか、手にしたバッグから封筒を取り出した。

「今の私には、これくらいしか用意できないわ。これで、お願いできる?」

厚みを帯びた封筒を差し出し、お願い、と彼女はもう一度呟いた。

「OK。それでいい、契約完了。あんたの望みもすぐに叶うよ」

とだけ言ってキリヤが僕から離れる。
するり、と僕の背を撫でていくことも忘れない。
彼が奥へ引っ込むと、縋るような目をした彼女を見て、僕はいつものように手を伸ばす。

「はぐれてしまった人は、あなたの何?」
「婚約者なの」

花が開いたような微笑に、僕も釣られて微笑む。大事な人なのだ、と言った言葉に嘘はないようだった。

「ずっと手を繋いでいたはずなのに、目を開けると彼がいなくて」

「……会えますよ」

それが、僕からの最後の言葉だった。

開け放ったままの扉から流れ込む光は、刃の煌きのように見えた。
それは僕の手から発せられる光より、ずっと純粋で清浄なものだ。

彼女に向けてかざした左手は、不自然な歪みを空間に生んだ。
その歪みを見て、彼女は「ああ、やっぱり」と言ったように聞こえた。

左の掌をだらりと下げる頃には、彼女の姿はもうどこにもなかった。

「向こうで、会えるといいんだけど」

やっぱりいつものように、僕はそう呟く。
キリヤは嘘をついた。
必ず会える保証なんて、ありもしないくせに。

僕らは誰かの望みを叶える。
困っていたり、苦しんでいたり。そうした理由の根源を取り除いてあげる、セラピーみたいなものだ。
だけど救えるとは、限らない。
僕に出来るのは、向こうに送ってやることぐらいで。

右手に残った封筒は、綺麗に封をなされている。
ペーパーナイフで開けた中から、指輪が一つ僕の掌に落ちた。
けっして高価ではないはずの、けれどどこかぬくもりを感じる小さなダイヤリング。

彼女は知らなかったのだろうか。
手を繋いで一緒に命を落としても、同じ場所には向かえないことを。
知らずに、自嘲する。
そんなことは愚問だ。
知っていればここに来ることなど、なかったに違いないのだから。



「バナナケーキは?」

見計らったように、服に着替えたキリヤが僕の前に現れる。

「今から焼くところだよ」
「今から? 何やってんだよ、早く作れよ」

用意は済んでいたのだ。それを邪魔したのは先程の彼女であり、キリヤなのに僕が文句を言われる理由がわからない。
僕はそれらの悪態を口の中で呟きながら、オーブンにトレイをセットした。

そっとリングを左手に包み込む。
これはあなたに返しておこう。

2008年02月19日(火)
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