蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 無題(8)

ハルちゃんから聞いていたらしく、あたしが部屋にいたことにシュウスケは驚かなかった。少しだけこちらを見てから、鞄を置く。何が入っているんだろう、と思うくらいにそれは薄っぺらい。

「あ…」

お帰り、と言う前にシュウスケが遮った。

「疲れた」
「ずっと練習してたの?」
「ああ」

シュウスケは普段そういうことを言わない。だから本当に疲れているんだろう。クラリネットの入ったケースを大事そうに床に置いてから、「お前、今日こっちで飯食うの?」制服の上着を脱ぎ、服を着替え始める。

「うん。ハルちゃんがね、こっちで食べればいーって言ってくれたから。…着替えるの?」
「あ? ああ、そうだけど」

何となく言った自分の台詞に赤くなった。一度だけでもしたことは事実。だからってそんなことと結びつけるのは、おかしいと思うけど。シュウスケは変な顔してあたしを見てから、

「馬鹿じゃねえの」

きっと、呆れた顔しているに違いない。

「だって」
「着替えてるだけだろ、何気にしてんだよ」
「そーだけど」

たいした時間がかかっているわけでもないのに、やけに長く感じて俯いたり天井を見上げたりと、挙動不審なことこの上ない。だいたいこういう気恥ずかしさって、女の子が感じるものなんだろうか。男が思うならともかく、あたしがこういう態度を取る必要はないような気がする。

そうだ、普通にしてればいいんだ、普通に。できるだけ今まで通りに。ああ、でも駄目だ。今まで通り過ぎても困る。

「マヒロ」

そんなことを考えていれば、不意にすぐ近くで名を呼ばれ、ぴくんと反応してしまった。「シュウ――」振り返ろうとしたのに、背中から暖かな腕が体に巻きつき、動けなくなった。

「どーしたの…」

夏の日の記憶が蘇る。
初めて、手を繋いだ日。
初めて、肌を重ねた日。

返される言葉はなくて、ただ強く抱き締められる。唐突のことに、どうしようもないくらい心臓が煩く跳ねる。何か、言って。

「あ、あのね」

何か言わなきゃいけない、と思った。開いた唇は結局何も言葉を生み出せないまま、俯いてしまう。下を向いた視線の先には、シュウスケの腕が見えた。勿論嫌なはずはない。でも、何故だか居心地は良くなくて。

シュウスケの胸があたしの背中にあたる。でもシュウスケは、きっとどきどきなんてしてない。それはわかった。こんなに近いのに、二人とも黙ったまま、時間だけが過ぎる。

何か、言って。


「――ごめんな」
「え?」

長く感じた沈黙の後、ぽつり、と零された言葉。

「ごめん」

そんなことを。言って欲しいと思ったわけじゃなかった。

2007年12月13日(木)
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