舌の色はピンク
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2022年01月14日(金) 呪い、犯罪抑止

晴れ。
カラッとヒンヤリ気持ちいい。
スマホの標準アラーム機能がアホアホなので
フリーのアプリに変えてみた。
満足はしてないがマシになった。
そのうちちゃんと目覚まし時計を買お。


弁当はありあわせ。
白米に広島菜のちりめんじゃこ。
炒り卵。
冷凍のソースカツ1コ。
鶏むね肉、ニンジンのサラダ。
手抜きだけどこれでじゅうぶん美味い。


君のことが大大大大大好きな100人の彼女、2巻目。
やや面白くなってきた。
なるほどこれ本当に100股への道を歩んでいくのか…。
一夫多妻を学園ドラマでやってるラブコメというのは
それなりに新鮮だ。
女同士の関係性に深みはないが独特の味がある。


ずっと上司に苛立っている。
この苛立ちはもう止まないと思われる。

あの人はかつて同僚の一人を
「普通じゃない」という言い方で
対話不能の人間と位置づけた。
常識という概念には客観性や公共性が含まれるが
これは実態のない虚像のようなもので
実際には各々が常識観という主観でものを見ている。
自身の無自覚な常識観で設えた枠組みに収まらない人間を
「普通じゃない」と見なして排斥する振る舞い自体は、
自己防衛を兼ねたりもするので一概には否定できない。
だがおよそ人の上に立つ人間が、
そのまさに下に位置する人間に向けてとるべき態度ではないだろう。
対話の努力はおろか対話の余地自体をしりぞけた。
そんな愚か者相手に対話してやる義理はない、
仮に義理があったとしても
対話を成立させるための信頼関係が見えない。

結果だけで物事を判断している…とは当人は認めないだろうが、
結果に至る過程を問わずに済ませる気質を知っているだけに、
彼が上司として軽蔑されるだけの実証も揃ってしまう。
擁護してやるだけの論法が成り立たない。
人の擁護されるべき余地をないものとして扱ってきたから。
本当に愚かだな。


31かそこいらの年でようやく
それなりの善性にも親しんで
人や世を呪わずに
少なくとも外に出さず済むようなったものだけど
正直なところ
あれからずっと
 死ね、死ね、
と毎日心には呪詛が渦巻いている。
どんなに蓋しても本心にはある。
本心は本心だから
ここにだけ書き残す。

こーゆー
 死ね、死ね、
って呪詛、
それ自体が醜くてダサいし悪だし
ましてや会社の上司相手とか
世にもつまらない話だし
「私はザコです」
って言ってるようなものだ。
キッチリ向き合って
呪いから解き放っていかねばならない。
だからまずは本心として受け止める。
まだまだ未熟でザコな自分自身を見つめ直す。
受け入れがたいけど…。


夕飯はカジキマグロのソテー。
つっても昨日スーパーで買っておいた、
焼きゃあいいだけのもの。
これにかるく茹でたニンジンとジャガイモを
バターソテーにして添えた。
うましうまし。


そういえば妻は昨日の検診で産婦人科医から
生魚食べても別にいいんじゃねーの
ってお墨付きをもらえたらしい。
僕もずっとお刺身とか食べてなかったから
来週にでもやるか。


痴漢祭り、というフレーズがトレンドに上がっていた。
去年のこの時期にも聞いた話だが、
受験生は受験当日朝に痴漢をされても泣き寝入りするほかないからと、
いうなれば「痴漢日和」という号令が広まっているそうだ。

それ自体についての言及は置いといて。

かねがね僕は自警団の気配があればいいんじゃないかと思っていた。
それは痴漢のみならず無差別殺傷するような凶行犯を想定してみても、
あるいはスリだとかでも。
まぁ限局した方がわかりやすいからとりあえず電車で。
犯罪者は、中にはそういう病気の人もいるだろうが、
その多くは相手ち状況を選んでいるはずだ。
わかりやすい話、こわもてのプロレスラーばかりが
ゾロゾロ立ち並んでいる車両において、
わざわざそこで不法行為に及ぼうとする者は少ないだろう。
そして「機を逃す」というのはとても大事だと思わる。
魔が差すとか憑き物とか
そのいっときやり過ごしたら結局は実行にいたれなかった、
そういうことってありふれてるはずだ。
実際、犯罪一歩手前で踏みとどまった人は少なくないはずだ。
何か仕出かすつもりで家を出た。町まで繰り出した。
駅まで行った。電車に乗った。相手を見定めた。
経過段階でいくらでも取りやめはできる。
ギリギリまでいった人はかなりいるだろう。
実行にいたらなかっただけで。

僕が思うに、例えばネット上で、
「俺は痴漢見つけたら容赦しないよ。
目ん玉だろうがなんだろうがぶっ潰してやる」
といった宣言が横行していれば、
これはちょっとは抑止力にはなるだろう。
限定的になれば抑止力が強まる。
「怪しいやつ見つけたら絶対容赦しない。
おれは東武東上線にいる」「おれも」「おれも」…
「センター試験の日だけは目光らせてる。
女の子が被害に合ってたら絶対見つける」「おれも」「おれも」…

ここで大事なのは、誰が"そう"なのかわからない点だ。
その像は加害者側で勝手に肥大する。
誰も彼もが「容赦しないやつ」に見えてしまえばいい。
ネットと都市の匿名性を逆手にとった格好だ。
絶対可憐チルドレンの普通の人々がいう
「我々はどこにでもいる」ってやつだ。

この取り組みはすぐにでも、
自分一人からでも始められる。
匿名で投稿できるあちこちに書き残してもいいし、
もうちょっとやる気出して、
賛同してくれる人はRTだのと活動してみてもいい。
ただし現実的な問題はある。いくつも考えられる。
そのうちの一つに、これは相互に監視的で
人を疑う社会の実現だとする見方もあるだろう。
だがこういうときに
「そんな人を信じない考え方は嫌だ」
という手合いを僕は心底軽蔑する。
人を信じるとは無条件無批判に疑わないことでは決してない。

誰もが顔見知りの村社会とは違って
都市空間における公共圏では
名前も知らない他人が当たり前に隣にいる。
本来であれば個別に人として見てやるべき他人を、
都市生活者はあまりにもそれを見慣れているばかりに、
群衆として扱う。
そして群衆を自らの"常識"に照らし合わせて
疑うこともせず勝手に"信じて"いる。

もっと一人一人を見るべきなのだ。
「誰が誰だかわからない」
「都市空間における匿名性」
「愛と祝福」
いずれも重要な主題だ。

だがそんなような話を妻にしてみても
…ここでは簡略化して書いたがもっと丁寧に話した…
うまく伝わらなかったようでショックだった。
大分ショックだった。


れどれ |MAIL