ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年03月04日(日) 『失われた息子を求めて』

「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」 ルカ15:32

先週は同じ15章から、失われた羊を捜し求める羊飼いの姿を通して、神様の愛をお話しいたしました。そして今日は、さまよい歩く放蕩息子を愛し、受け止める父親の譬えです。

2人の兄弟のうち、弟は父の遺産を前借して家を出て、放蕩三昧。とことん堕ちた彼でしたが、父は彼を愛し続け、帰ってきた息子を抱きとめ、大喜びをしたのでした。これは神様と私たち人間の姿を表しています。人間は、神様から離れて生きています。でも神様は、私たちが戻ってくるのを待っておられるのです。あなたがどんな姿であっても、主の愛は変りません。十字架の主の愛は、無限に注がれ続けているのです。

この譬えには、更に続きがあります。そこに描かれているのは、帰ってきた弟を喜ばない兄の姿です。兄は弟と違って一生懸命父親に仕え続けたのですから、それは無理もありません。でも、主人が喜んでいるのですから、それを共に喜ぶことこそが、本当の家族の姿なのでしょう。

この兄の姿は、当時のパリサイ人のことを指しているようです。ですが、今の私たちにも当てはまると思います。ローマ12:15には、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」と書かれています。それはちょっと考えただけでは、大して難しいことには思えないかも知れません。ですが人というものは、悲しむ人に対しては案外同情できても、喜んでいる人に対してはジェラシーを持つのではないでしょうか? 自分より低いと見れば優越感を持ち、自分より高いと思えば劣等感、そしてジェラシーを持ってしまうという、これが人間の本性、罪の姿、現実なのではないでしょうか? だからイエス様は、このような譬え話を通して、キリストの愛を喜び、実践することの尊さを教えているのだと思うのです。私たちは今朝、注がれている主の愛に感謝し、その愛を喜ぶお互いとなれるようにと祈りましょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行


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