人間関係のアレコレは、いくつになっても続くよね。 一人で生きていけないからさ。 学生時代は、特に逃げ場がなかなかなくて、 たとえば、学校だけが全てになってしまって、 とってもシンドイよなあ、と、思いながら彼女を見ている。
学校で「いじめを克服した」ヒトが書いた作文を読まされた、と、 彼女は言っていた。 部屋に落ちていた、その印刷物を、わたしも読んだ。 その子は、いじめる側も体験し、その後、自分もターゲットになって、 やっとその辛さがわかったと綴る。 そして、次のターゲットに的が移されたとき、自分が一番してほしかった事を 行動にうつした。 「あんだは、ひとりじゃないよ」と、話し掛けて、そして親と先生に二人で訴えた。 その結果、クラスからいじめは消えたのだ、と。
「声を出して、読まされたんだよね」と、むすめは、ぼやいた。
そんなことしかできないんだろうか、学校での対策って。 そんなことでも、しないよりは、マシなんだろうか。
昨日の部活が終わったあと、 「友達と約束したの?」と聞いたら、「ううん、してない」と答えた。 あとから、 「ホントはAちゃんが誘ってきたんだけど、あとからまた来て、 『NがBちゃんと揉めてるのを知らなくて誘っちゃったんだ・・・ごめん』って言われたからさ」 と、笑っていた。
夜。 わたしが友人にもらったポストカードを見せると、 「うわー、グロいんですけど」と、眉をしかめて、でも、まじまじと見つめて、 「このヒト、もう死にそうにみえるね」と、もう一枚の、牢獄の中のヒトを指差した。 それから、 「ねえ、これはなんて読むの?」 と、タイトルを指差した。 わたしが、「じゅばく」と言うと、「どういう意味?」「なんでこういう絵なのかなあ」と、呟いていた。
「うんとさー、歌でもそうだけど、絵も、見たまんまのソレだけじゃなくてさ、 それを創ったヒトのメッセージとか、想いが隠されていたり、こめられていたりするとお母さんは思うんだよね」 と、わたしは言った。 「でも、それをどう読むかっていうのは、見たヒトや聴いたヒトの自由なんだよ。 正解も不正解も、ないのね」 って、前置きした上で、わたしは、続けた。 「牢屋から出られなくて、死にそうになってて、苦しくて、でも出られなくて、 この小さな窓から差し込む光だけが、このヒトと外を繋いでるのかなあー。 とかね、お母さんは、そんなことを考えたけど・・・描いたヒトが何を考えながら描いたかは、そのヒトにしかわかんないよね」 「ふうん」 むすめは、分かったような分からないような顔で、頷いた。
学校で読まされた作文。 コトバで表現できるメッセージ。 「いじめ」という呪縛を断ち切るまでの物語。 でも多分、それはむすめのココロの奥には、届いていないメッセージ。
ほんとうの苦しみは、ほんとうの呪縛は、知らないうちに訪れて、 気づいたときにはもう、がんじがらめになって、身動きがとれなくなっている。 助けてと叫ぶ、声さえも、出なくなって。
だけど、それを断ち切らなければ。 そこから逃げ出さなければ。 生きていかなければ。
ケイタイメールの絵文字がなかったと言って、怯え。 お風呂に入っているのに「無視してると思われちゃう」と返信しようとするその姿が痛々しくて。 そうまでして、仲間でいなくちゃいけないのか、と、わたしは思うけれど。
それが彼女の呪縛なら、 やはり断ち切る術は、彼女の手によってでしかないんだろう。
無力だね。
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