世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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2013年09月30日(月) 下駄をあずける話

 

いつまでも暑くて、やたら台風がきたこの9月。
15、16、17日の三日間、アメリカ人の心理占星術の先生の来日セミナーを受講した。

二日目、三日目とも朝、ものすごい雨と風。傘なんか全然役に立たない。
駅まで行くのも一苦労だけど、電車が動いているのか遅れはどうなのかなどなど受講以前から大変なことだった。


ところで、私はこのセミナーを一年以上前から楽しみにしていたのだけれど、それと同時にかすかな不安も感じていた。
それは、先生との相性。私はひとの好き嫌いが激しくて、特に先生(絶対的な存在)には小うるさく人格を求めるようなところがあるのだ。
自分で書いていても嫌な奴、そして、なんて子どもなんだ、と思う。


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占星術では修行や弟子入りは8ハウス案件といわれていて、この8ハウスというのは、一般的に「変容」や「死と再生」に関係するなどともいわれ、理解するのが難しい。

要するに、いちげんさんお断りで誰でも簡単に出入りできるわけではなく、さらに自分一人の思い通りにならない場所、自分ではなく他人のもの、ヒエラルキー(地位の高低をあらわす階層構造)等々はみーんな8ハウス。「下駄をあずける」という日本語があるけれども、いったんは自分を捨ててそこの掟に従う、そうすることで何かを得る場所が8ハウス。

だから、大企業も裁判も結婚/離婚問題も、さらにはセックスも(!)、全部8ハウス案件なのですよ。

そして。私は8ハウス問題を抱えている(8ハウスべた)という自覚が、少しまえからあった。なにしろ「下駄をあずける」のが下手。なので大きなものと衝突することになる。だってそこは元々私の場所(もの)じゃないんだから、戦っても、そして仮に勝てたとしても、結局あちこちに痛みが残るのはこちらなのにね。


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そういう8ベタ(←略した!)としては、直感的に不安を感じないこともない来日セミナーだったのだけど、その私の背中を、それならなおのこと、ぜーったいに行くべし!と押してくれたのが内田樹「死者と他者 ラカンによるレヴィナス」に出てくる、レヴィナスと彼のユダヤ教の師匠シュシャーニ師をめぐるエピソード。


ユダヤ教では、師を持たない独学者にはタルムード(教典)の解釈が許されていないそうで、「死者と他者」にはその理由について、次のように書かれている。


“独学者は己の声ひとつしか知らない。声と声が輻輳するときに初めて欲望が生成することを知らない。だから独学者はすべてを既知に還元し、テクストの意味を残りくまなく明らかにし、聖句に「正解」をあてがい、解釈の運動を停止させ、タルムードに「最終的解決」をもたらすことになる。独学者は呪われなければならない”


…だから、学ぶものは師を選び、下駄をあずけ倒す。レヴィナスは自分の師であったシュシャーニ師を回想して「ごく普通の人間たちの基準からすると、浮浪者に似ていなくもありませんでした」と語ったそうだが、その老人を恐るべき知者とみなすものにとって老人は恐るべき知者であり、浮浪者とみなすものにとっては浮浪者にすぎない、と、内田樹は言うのだ。


読んだ当初、痛いところを突かれたという気持ちはあった。そしてその痛い記憶がよみがえってきて、再読再思。結果、黙ってゲタ預ければいいじゃん!だって、たったの三日間でしょ!!ということになったのだった。



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優秀な通訳さん付きのセミナー第一日目を終えた夜は、脳みそパンパンで、疲れているのに寝付けないという状態に。
また予想通り、私の中の反抗心も、抑えても抑えても頭をもたげてきて、むーん、やっぱり!だったのだが、こうこなくちゃ勉強にならないし、成長もないですもんね。


そんなこんなで、結果的にはすごく良い経験ができた。占星術のことはもちろん、下駄の預け方や、自意識の持ち方やなにかについて。お高いセミナーで金銭的には目から脂汗がでたけど、行って正解だった。


しかしさ、独学者は呪われなければならない、て。
このメッセージの捨て身さ加減ときたらちょいと凄いじゃありませんか。
この捨て身に救われたんだな。内田さん、さんきゅー!!

















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