歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2007年07月19日(木) 大丈夫だと思った時に落とし穴がある

昨夜は地元歯科医師会の会議。いつものように参加してきたのですが、会議途中、会議に間に合わず遅刻してきた先生がいました。

「すみません、遅れてしまって。」
遅刻してきたのはY先生。会議をしている部屋のドアを開けるや否や、Y先生は入室して来られたのですが、いつもと様子が違いました。その訳は、Y先生はびっこを引きながら歩いていたからです。

「Y先生、どうしたのですか、その足は?」
「いやいや、恥ずかしい話なのですが、先週末台風が来たでしょう。その際、雨漏りがするからといって屋根の上に上がっていたのですよ。はしごをかけて屋根の上を点検していたのです。屋根には問題がないことを確認してはしごを降りていたんですね。慎重に降りていたつもりだったのですが、あとわずかという所で足を踏み外してしまい転倒してしまったんですよ。その結果、左足の足首を捻挫してしまいましてね。このざまです。」

痛々しそうにびっこをひきながら歩いていたのはこのような理由があったからなのだそうです。その時、僕は思わずある話を思い出しました。その話とは、吉田兼好著の徒然草第百九段 高名の木のぼりの話です。

(原文)
 高名の木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いとあやふく見えしほどはいふこともなくて、おるるときに、軒長(のきたけ)ばかりになりて、「あやまちすな。心しておりよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりて、飛びおるるともおりなむ。如何にかくいふぞ」と申し侍りしかば、「そのことに候。目くるめき、枝あやふき程は、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所になりて、必ず仕る(つかまつる)ことに候」といふ。
 あやしき下�瓠覆欧蹐Α砲覆譴匹癲∪賛佑里い泙靴瓩砲�なへり。鞠も、かたき所を蹴出してのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらむ


(現代語訳)
 木のぼりの名人といわれた男が、人を指図して高い木にのぼらせて梢を切らせた折に、ずいぶん危なそうに見えるほど高いところに登っていた間は何も言わないで、降りる時に軒の高さくらいになったとき、「過ちをするな。気をつけて降りろ」と声をかけましたので、「これくらいの高さになったら、たとい飛び降りても降りられるだろう。どうしてこんなに言うのか」と申したところ、「そのことなのでございます。目がまわって、枝が折れそうで危ない間は、恐ろしくて自分で気をつけますから、こちらからは何も申しません。過ちは楽な気持ちになってから、必ず致すことでございます」と言う。
卑しい身分の人間だけれども、その言葉は聖人の戒めにも適っている。鞠でも、蹴りにくいところをようやく蹴り出して、これで安心と思うと、必ずやり損なうとやら申しております。



僕の独断では、吉田兼好の徒然草は、徒然に書き綴った文章でありながら、どことなく説教じみて好きにはなれないところがあるのですが、なぜかこの“高名の木のぼり”の話は印象に残っています。

人間というもの、仕事や作業をしている際、緊張している時は問題ないが、終わりに近くなり大丈夫だろうと気が緩んでしまう時に限って何らかのトラブルが生じやすい。仕事や作業をしている時は、終わるまで気を緩まないことが寛容である。

この話、僕の普段に診療でも当てはまる話です。様々な処置において山場を過ぎ、これで終わりだと気を抜いてしまうと、思わぬトラブルに遭遇してしまうことがあります。常に処置が完全に終わり、患者さんが診療所を出て行く時まで、歯科医は患者さんに対し責任を負わなければいけません。

これで大丈夫だと思った時にこそ落とし穴がある。

びっこを引くY先生の姿と徒然草の高名の木のぼりの話。自分への戒めとしなければいけないなあと改めて感じた、歯医者そうさんでした。



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