My life as a cat
My life as a cat
DiaryINDEXpastwill


2018年06月01日(金) それでもわたしは世界一愛してるつもり

新居に越してからクロエちゃんの朝の愉しみは、この今にも落ちるんじゃないかとハラハラするような窓辺の桟から下の通りを見下ろして飛ぶ鳥を眺めること。以前住んでいた家のバルコニーからは2度転落した。下が草むらだったこととさほど高さがなかったことが幸いし、ほんのちょっと爪を折り、肉球を擦りむいた程度で済んだ。しかしこの高さで落ちたら・・・死にはしなそうだが、骨折しそうだ。落下防止の板でも張ろうか。クロエちゃんが今まで通りここで下の通りと飛ぶ鳥を眺めていられるような背の低い板かなにか・・・。と調べていると、"脱走防止"とか"猫は完全室内飼いでなければ可哀そう"だのそういうことを強く主張する人々の意見が沢山出てくる。猫が交通事故にあって死んだら、怪我でもしたら、迷子になって帰ってこられなくなったら・・・。そうなったら、悲しいよ、わたしは、もちろん。でもそれって完全に思う側のこと。受けるほうの身の自由はどうなるのか。猫は本来土の上に寝転んだりするのが大好きだ。外にはいくらでも危険が潜んでる。でもその中で動物は危険を回避する技を学ぶ。ともあれ小さなアパートメントで飼われた猫が可哀そうだとは思わない。その世界しか知らなければそういうものだと思って育っていくだろう。それに外に出たがっても大抵はそう遠くへはいかない。子供が親がダメというものを欲しがるように、大人が隠されたものを見たがるように、猫も柵など張られたらその外側へ行ってみたいのだろう、と思う。わたしの父は野生育ちだから、子供は適当に海でも連れて行って泳がせとけば健康に育つだろうくらいなもの。文明の中で育った母はわたしが何をするにもどこへ行くにもめいいっぱい心配した。しかし、それを止めたことは一度もなかった。だからわたしは自分で全てを決めることができた。子供の頃は怪我がたえなかったし、失敗も沢山した。でも、その時々自分の決断で生きてきたことを誇りに思うし、何よりも自由に生きさせてくれた両親に感謝している。だから動物に対する考えも同じ。好きにさせておいた愛猫が車にはねられて無残な姿で死んだ時は、悲しくて悲しくて泣いてばかりいた。でも思い出すのは庭を走り回り、勢いつけて木や屋根によじ登っては滑稽な姿で落っこちてわたしを笑わせる自由な姿ばかり。家に閉じ込めておけばこんなことには・・・という後悔はしていない。わたしにできることは行動を阻むことではなく、じっと観察して本当に必要な時がきたら助けに行くことだけ、だと思う。

クロエちゃんは自分を猫とは思っていないようだ。人間と同じ時間に食べ物を欲しがり、昼は中庭でめいいっぱい遊び、夕方に帰宅し、野菜と魚を夕飯に食べ、わたしと一緒に床に就く。わたしの腕を枕に朝まで仰向けで寝ているし、寝言まで呟く。本人は人間のつもりで暮らしていて、わたしもそのような錯覚に陥る。だが、たまにハエを追いかけて口に入れてしまう姿を見て、あっ、やっぱり猫だった、と我にかえる。

動物が好きな人の中には"飼う"という行為がすでに可哀そうだという人もいる。自然には触れない、という愛情も納得する。わたしのように猫の本能を尊重しつつも、食事を与えて・・・というのは中途半端かもしれない。しかし、毎日保健所のガス室で息絶えるたくさんの小さな命を前に理論よりも感情が先に歩いていく。何が一番ただしいのか、結論はでない。

(写真:良い朝だ、陽の光をたっぷり浴びて・・・、で、なんか呼んだ?)


Michelina |MAIL