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2007年04月11日(水)
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ヘドウィグ感想 多分最後
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ヘドウィグに決定した時に、確かWebのぴあだったと思うのだけど、 「加減しない山本耕史を見ることが出来るのではないか。」というような評が出ていた。 相手役に合わせて、自分の表現力なり歌唱力なりを加減していて、全力を出していないように見えるからと。
やっぱり、同じような印象を受ける人はいるのだ、とその時思った。
TVnaviの対談で佐藤浩市さんに「一回痛い目みないとな。」と言われていた。 その時も、だよね〜と思った。
彼が仕事に対して、手を抜いていると言っている訳ではなく。 泰然自若に微笑みながら出来るようになるまで、裏でどれだけ努力をしているかということは、 もちろんその大変さを本当にはわかっちゃいないけど、きっと大変な努力家だろうなとは思う。 彼の言う"茨の道を歩んできた"についてもそーだろうなと思うし、 "階段を上ってきたのではなく、作ってきたのだ"という表現にも、素直に頷ける。
でも、何ていうのかな。 "のたうつ"という印象が彼からは感じられないのだ。
多分それは、彼の努力や真摯さが、 自分で設定したハードルとの戦いに勝つためのものだからなんじゃないかと思う。
ひたむきに自分と戦う姿には孤高の美しさがあり、 それが各種劇評で"高潔"と表現される彼の持ち味になっているのだと思う。
だけれども。 戦いって、そして負けって、もっと理不尽で暴力的なものじゃないかと思うのだ。 そして相手は自分以外の存在に限る。
よく"自分との戦い"って、対誰かの戦いより、レベルの高いという位置づけをされるが、 私は違うと思う。 自分を律するという点が評価されているのかも知れないけれど、 自分との戦いはあくまで自分の意思で行うわけだし、戦いの種類も自分で決められるわけでしょ。
突然降りかかる不運とか不幸にもがくほうが、よっぽど大変じゃないか。 まず、自分では何時おこるかもコントロール出来ないし、下手すると何が起こっているのかも理解出来ない。 何と戦っているのかもわからず、そーなると、どーすれば勝てるのかもわからない。 でも、どんどん、なすすべもなく落ちていく。
なぜか唐突に関西弁なんだけど、"もう、あきませんわ"というさらさらした泣き笑い。 必死とか、哀れとか、ずたぼろ感って、その泣き笑いの上にしか育たないように思う。 (力量のない人が取り繕うとする低レベルの必死さとは別のものね。)
山本耕史と言う人には、その弱い生き物の持つ無力感がない。
結果、今回のHedwigには、決定的にみじめさと汚さがなかった。 ぼこぼこに殴られて、でもカウントナインでよろよろと立ち上がるボクサーの様な、 悲壮と滑稽が入り混じった人間像は感じられなかった。
かわりに、自らの純粋な愛に翻弄されて傷ついて、でも愛に支えられて立ち上がる "瑞々しい"Hedwigがいた。
表現の志向性が異なるのだから、それを欠点とか物足りないというのは筋が通らないと思う。 だから言わないけどー。
ただ・・・。 やっぱり、いつか、"のたうって、でも負けて落ちていく"姿も見てみたいーと思うのは・・・。
ドS?
というところで、一旦ヘドウィグの感想はおしまい。 どっかで、まとめて別ページにUPすることは当面の目標。
alain
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