陶 房 日 報  とうぼうにっぽう 
陶房かまなりや

2008年08月24日(日)      とおのものがたり

柳田国男の 『遠野物語』 と井上ひさしの 『新釈遠野物語』 を
あらためて読み返しています。おもしろいです。どちらも10代の頃
読んだ本ですが、40代になってみると随分違った印象を受けます。
歳をくったせいか色々な角度から物を見ることができるようになった
こともあり、また時代が変わったことも手伝い、明治の聞き語りが
いっそ新鮮に感じます。

 柳田版は口語での記述ですので最初に
 読んだときは途中で投げ出してしまった
 ように覚えています。井上版新釈は小説
 ですので読みやすく、面白い本だったと
 いう印象でした。今は逆に口語の記述が
 醸す古さが好ましく、妖怪変化のたぐい
がいっそうリアリティーを纏って跳梁しているようにも読めます。
山人、天狗、河童、座敷わらしと、物の怪のうようよいる遠野は
この物語を読むかぎり人外の魔境のように記述されています。
しかし、「だれそれが見た」 という口伝ばかりで具体的な立証は
一切無く、疑心暗鬼が産んだ 『正体見たり枯れススキ』的なもの
ばかりに思えます。が・・・どこか魅力的な化け物たちは南部遠野
の人たちの感性の産物、その地域性を好ましく思う人が多いこと
が民話の里として支持されている所以でしょう。

このような怪異の伝承は日本中にごろごろあるはずです。また日本
のみならず世界にあるでしょう。人のいるところには必ずこの手の
物語はあり、不思議な共通性をもっていることにも人間の潜在的な
不安や被害妄想が見え隠れするところが愉快です。例えばドラキュラ
などは日本の鬼や天狗とどこか共通点があるように思います。
どれだけ科学が進歩して真理を具象してみせても、人間の不安は
拭えず、時代に即した魑魅魍魎を生み出すことでしょう。そして
あらたな遠野物語が生まれるのでしょう。ゲゲゲの鬼太郎などは
昭和の怪異の代表選手でしょう。

人間の持つ弱さの側面が愛おしく思うこの本たちです。




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